申命記29−31章 「目の前にある祝福と呪い」

アウトライン

1A パレスチナ契約 29−30
   1B 新しい世代への言葉 29
      1C 荒野での主の真実 1−15
      2C 偶像礼拝の苦よもぎ 16−29
   2B 主の命令への立ち返り 30
      1C 約束の地への帰還 1−10
      2C 目の前にある選択 11−20
2A ヨシュアへの後継 31
   1B 必要な励まし 1−13
   2B 反逆を予期する歌 14−30

本文

 申命記29章を開いてください。私たちは前回、イスラエルが従順であれば祝福があり、けれども不従順であれば呪いがあるという神の約束と警告を読みました。そして29章から、モーセは改めて神の与えられた契約を補強します。この契約が必ずはるか先の将来まで有効であり、イスラエルの歴史の中で成就することを宣言します。ここから私たちは、神の御言葉は真実であり、いつまでも堅く立つことを学ぶことができます。

1A パレスチナ契約 29−30
1B 新しい世代への言葉 29
1C 荒野での主の真実 1−15
29:1 これは、モアブの地で、主がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。

 「ホレブ」とは、シナイ山のことです。今、モアブの草原にいる人々は新しい世代であり、シナイ山のふもとでは生まれていなかったか、あるいは子供でありました。改めて主が、彼らと直接の契約を結ばれます。

29:2 モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、主があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。29:3 あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。29:4 しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。

 興味深いことですが、今、モーセの言葉を聞いている人々の中には幼いながらも、エジプトにおける神の大いなるしるしと不思議を見ていた人々がいました。エジプトに十の災いが下り、紅海を分けてくださった奇蹟を見ました。ところが、今の自分たちの生活の中でその歴史が生かされないままでここまで来た、ということをモーセはここで話しています。

29:5 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。29:6 あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。29:7 あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。29:8 私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。

 イスラエル人をエジプトから大いなる不思議としるしで救い出された方は、荒野の旅においても生きておられたことをモーセは示しています。着物がすり切れなかった、足の履き物もすり切れることはありませんでした。さらに、ヨルダン川の東岸で彼らはシホンとオグに対して大いなる勝利を収めていたこともあり、さらに二部族半には割り当て地まで与えることができています。出エジプトを与えてくださった神は、確かに荒野の旅でも生きて働いておられたのです。ところが彼らは、その真実に気づくことはありませんでした。よく考えてみれば、着物はすり切れていなかったし、履き物もすり切れていませんでした。いかがでしょうか、私たちの生活の中にも超自然的な御霊の働きがあるのに、それを空気のように当然のこととしていることがないでしょうか?

 イエス様がよみがえられたときもそうでした。何度も何度も奇蹟を弟子たちに示されたのに、五千人の男にパンを与えられてもそれによってこの方には何でもできるということを悟ることがありませんでした。そして復活すると何度も言われたのに、イエス様が実際に復活されてからようやく、主が語られたことがその通りになっていることを悟りました。そこでルカ2445節には、こうあります。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて・・・」イエスが彼らの心を開かれたので、すでに書かれてある事柄がその通りになっていることを悟ることができたのです。

 モーセは民に「主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」と言いました。これは、イスラエルの民が主の真実を悟りたいと思っていたのにそれを無理やりさせなかった、ということではありません。彼らが意識して悟ろうと思えば、悟ることができたのです。そうではなく、私たちが主の真実を知るためには、主ご自身のご介入があって初めて悟ることができるということです。

 そこで私たちはどうすればよいでしょうか?午前礼拝で学びましたが、御霊による啓示を求める必要があります。確かに、主が立てられた教会があるのに、その霊的祝福が悟っていない。そのような飢え渇きをもって御霊によって悟らせてくださるよう祈るのです。心を主に対して大きく開きます。それから、他の人々に対して私たちがしなければいけないことは、祈ることです。どんなに語っても、悟らせようとしても、主が介入してくださらなければ心を一ミリでも変えることができません。主が変えてくださることを祈ります。

29:9 あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。

 イスラエルが神と契約を結ぶにあたって、最も大切なことは主の真実と慈しみを知ることです。主が自分たちをどれほど愛してくださり、良くしてくださったかを知ることです。その愛によって私たちは心を神に向けることができ、神が命じられたことを守り行なうことができます。

29:10 きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、主の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、29:11 あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。29:12 あなたが、あなたの神、主の契約と、あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、はいるためである。29:13 さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。29:14 しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。29:15 きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

 モーセは、モアブの草原にいるあらゆる人々に対して、この契約が有効であることを語っています。かしらや長老たちのみならず、妻や子供たち、また在留異国人やたきぎを割ったり、水を汲む使用人に至るまで、この契約の中にはいることを宣言しています。それだけではありません。今そこにいる人々のみならず、彼らから出てくる未来の子孫に対してもこの契約を結ぶと宣言しています。

 旧約においては、イスラエルの民とその共同体が契約の対象でした。けれども新約においては、イエス・キリストにあってあらゆる民に対して、同じ言葉が語られています。イエス様は弟子たちに対して、「すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16:15」と命じられました。聖書とは無縁のアテネの町の人々に対してパウロは、「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。(使徒17:30」と言明しました。例外が一人もいないのです。そして、終わりの日にはすべての被造物がイエスを主と告白することをパウロは述べています。「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:10-11

2C 偶像礼拝の苦よもぎ 16−29
29:16 事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。29:17 また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。29:18 万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 イスラエルの民は、エジプトの中で、また荒野の旅の中で通りがかりに、異邦人の作った偶像を見てきました。それを個人においても、氏族や部族においても、万が一にも拝むことのないようにと強く戒めています。モーセはこれを「毒草」や「苦よもぎ」と形容しています。これは非常に痛々しい体験や苦しみ、また心の苦々しさを表しています。

29:19 こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある。」と心の中で自分を祝福する者があるなら、29:20 主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。29:21 主は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。

 19節にある哲学は、人間だれしも持っていますね。「人は、この地上でキリストに従っていくことがない人でも、十分に人生を全うできているではないか。同じように死んでいるのならば、この地上で自分の生きたいように生きれば、それで良いではないか。」という哲学です。これに対して主は、「絶対にそのようにはならない。わたしはあなたを、そのような運命共同体の船から引きずりおろし、他の者たちが大丈夫であっても、あなただけには災いを下す。」と警告しておられます。

 これを神の教会に当てはめることができるでしょう。教会に出席していることが、自分の救いの道であると考えることです。自分自身が神の前に出ていって、神の呼びかけに対して応答しなければならないのに、教会の中にいるのであれば自動的に救われると考えることです。いいえ、主イエス・キリストが天から空中にまで降りてくださるときに、神に本当の意味で出会っていない人は地上に取り残されます。

29:22 後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と主がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。29:23 ・・その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである。・・

 19から21節までは、個人が神からさまよい出た例ですが、今読んだところは全イスラエルが神から離れた結果、このような荒廃が地にもたらされた場合です。これは、捕虜として捕え移された後の、外国の勢力によって荒廃したイスラエルの姿を表しています。

 初めは個々人や、どこかの氏族が犯した罪かもしれません。けれども、先ほど「毒草」や「苦よもぎ」と書いてありましたが、全体へとその苦みが広がっていきました。このことをヘブル書では、教会の中で起こらないように戒めています。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、(12:14-15」私たちは共同体として、一人一人が心の中の苦みを持つことのないよう気をつける必要があります。ちょうどそれが、イスラエルにとっての偶像と同じで、心の中の汚れは自分自身の問題だけではないからです。

29:24 すべての国々は言おう。「なぜ、主はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」29:25 人々は言おう。「それは、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、29:26 彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。29:27 それで、主の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。29:28 主は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」

 イスラエルは主に従っている時は、その繁栄と力において国々に対する証しとなりますが、実は彼らが不従順な時でさえ、神の語られたことがその通りになっているという、神の生きていることの証しとなります。このことがローマ33-4節に書かれています。「では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」裁きによって、神の真実が明らかにされています。

 ユダヤ人の歴史を見るときに、私たちは単に可哀想という以上の、もっと大きな恐れを抱きます。私にとっての衝撃的な出来事は、ワシントンDCにあるホロコースト博物館に行った時でした。その組織的な殺戮を受けている彼らの姿を見て、「なぜ、こんなことが起こりえるのであろうか。」とただ驚愕するだけでした。けれども、実はこれがここに書いてある、神への気づきなのです。異邦人であっても、遠くの国々の人々であっても、イスラエルが受けた苦難を見るときに、そこには神がおられることを恐れをもって認めざるを得なくなる、ということです。

29:29 隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。

 これは午前礼拝でお話ししました。私たちは、自分たちには知らされていないことに対しては、判断を主にお任せする必要があります。主の思いは私たちの思いよりも、はるかに高いところにあります。「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。(イザヤ55:9」けれども、現されていることについては、私たちはその啓示に応答する責任があります。私たちはしばしば、「このことについての神の計画が分からない。」と言いますが、実はすでに聖書の中に教えられていることが多々あります。私たちはそれらのことに責任を問われるのです。「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12:48

2B 主の命令への立ち返り 30
1C 約束の地への帰還 1−10
30:1 私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、30:2 あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、30:3 あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。30:4 たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。

 ここから、回復の約束になっています。私たちはアブラハムに対する契約を読みました。確かに、その地を彼の子孫が所有することを神は約束なさいました。けれども、その所有を享受することができるかどうかは、彼らの従順にかかっていることをモーセは教えています。ですから、たとえ約束された土地であっても、彼らの不従順によって引き抜かれることを、彼は申命記28章で、また29章でも今、荒廃した土地について読みました。

 けれども、彼らがいつまでも高慢な心のままに留まっているわけではないことを、神はここで約束しておられます。彼らが神に立ち返る日が来ることを教えています。その時に、彼らが約束に地に帰還することができるよう、神が彼らを集めてくださると言っているのです。これは決して忘れてはいけない約束です。なぜなら、私たちは人間の歴史の中で現在進行形で、神の約束が実現しつつあることを見ているからです。荒廃していた約束の地は、18世紀終わりから帰還しはじめたユダヤ人によって、そして1948年に建国したイスラエルによって、緑地へと変えられつつあるからです。

 4節に、「天の果てに追いやられても」とあります。事実、ユダヤ人は紀元70年にローマがエルサレムを破壊してから世界中に離散しました。ユダヤ人のいない国は世界中の中で十本指で数えられるほどであるとも言われています。バビロン捕囚後にユダヤ人はエルサレムに戻りましたが、ここでモーセが語っているのはもっと大きな、終末における大イベントを語っているのです。

 メシヤが再び来られる時に、このことが完全に実現します。ゼカリヤ書12章には、主がエルサレムにいる住民を救うために、敵と戦われることが約束されています。そのヤハウェが、実は自分たちがかつて突き刺したイエスであることを知ります。そして彼らは初子を失ったかのように嘆き、そしてきよめの泉が開かれ、彼らの心は一新するのです。そして、再臨のイエスが天の果てに散らされた者たちを集めてくださることを、ご自身が約束されました。「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:30-31

30:5 あなたの神、主は、あなたの先祖たちが所有していた地にあなたを連れて行き、あなたはそれを所有する。主は、あなたを栄えさせ、あなたの先祖たちよりもその数を多くされる。30:6 あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。30:7 あなたの神、主は、あなたを迫害したあなたの敵や、あなたの仇に、これらすべてののろいを下される。30:8 あなたは、再び、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を、行なうようになる。30:9 あなたの神、主は、あなたのすべての手のわざや、あなたの身から生まれる者や、家畜の産むもの、地の産物を豊かに与えて、あなたを栄えさせよう。まことに、主は、あなたの先祖たちを喜ばれたように、再び、あなたを栄えさせて喜ばれる。30:10 これは、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従い、このみおしえの書にしるされている主の命令とおきてとを守り、心を尽くし、精神を尽くして、あなたの神、主に立ち返るからである。

 ここを読むと、必ずしもイスラエル人が主に立ち返ってから、一斉に帰還するようになるのではないことが分かります。主が彼らを連れて来てから、主ご自身が彼らの心の包皮を取り除いて、それで彼らが主に立ち返らせ、彼らの土地をさらに豊かにさせることを約束しています。メシヤの来臨の時には帰還が完成しますが、来臨の時だけに帰還が始まるのではありません。

 現代のイスラエル国について、多くの人々がそれは神によって定められた国ではないと言います。不信者はもちろん、地政学的に、そこにユダヤ人の国が造られたらアラブ人との衝突が避けられないという根拠で反対します。けれども、神を信じているはずのキリスト教会の中には、神が定められたのではないと主張する人々がいます。そして実は、ユダヤ人の中にもかつては大ぜいましたし、今でも一部に存在します。なぜなら、「メシヤが来られる時に帰還があるから。」というのが根拠です。あるいは、「ユダヤ人が主に立ち返っていないままで約束の地に集まっているのであるから、申命記30章の預言に当てはまらない。」と言います。いいえ、モーセは必ずしも一度だけの帰還を預言しているのではなく、段階的な期間を預言しているのです。

 このことを、もっとはっきり分かる形で預言したのがエゼキエルです。36章には、土地にイスラエル人が集まり、緑が起こり、町々が建てられることを預言しています。そして、集まって来た彼らに主がご自分の御霊を降り注ぐと約束しておられます。「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。」彼らを清めてから、約束の地に戻すのではなく、まず約束の地に戻してから彼らを清めてくださるのです。

 そして37章には、有名な「枯れた骨」の幻があります。初めに枯れた骨が集められて肉がつけられます。それから御霊の風が吹き、彼らが生きた人間の集団となるのです。初めに物理的な国の復興があり、それから霊的な復興があるのです。

 そしてモーセは、ずっと主を心を尽くして愛して、主に聞き従うなら、神がこのようにすると話していましたが、実は6節には、主ご自身が彼らの心の包皮を切り取ってくださると言っているのです。すでに古い契約の中に、新しい契約が示されています。彼らの心そのものを神がご自分の御霊によって洗い清めてくださり、そして主の命令に従うようにされるのです。

2C 目の前にある選択 11−20
30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。

 非常に大切な真理をモーセは教えています。彼はこれまで、主の命令に聞き従いなさい、と何度も何度も言ってきました。御言葉に聞き従うことこそが、イスラエルの国全体の運命を変えることを教えました。農作も天候も、敵との戦いも、経済活動もすべてこれにかかっています。

 けれども、このようなことを私たち人間は、何か大きな特別なことをしなければ達成できないと考えます。経済活動であれば、すぐれた政治家や経済学者が必要であり、経済界の人間が必要であり、何よりも政府による政策が大切だと考えます。同じように軍事的にも、社会的にも、大きなことをしなければいけないと思っています。個人生活でもそうでしょう。今、自分が抱えている課題や問題について、大きなことをしなければいけないと考えます。

 けれどもモーセは、「いや、そんなに難しすぎるものではない。目の前にある神の御言葉、あなたの口にあるその言葉、そして心のある御言葉だけで十分なのだ。」と言っているのです。「天におられる神に近づくのに天に行く必要はない。御言葉があれば近づけるのだ。海底に沈んだように救いようのない状態に自分がいようとも、海底まで下る必要はない。主の御言葉がそれをするのだ。」と言っています。そしてここの言葉を、パウロはローマ10章で引用しているのです。信仰によって義と認められることについてこう言っています。
 

モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。(5-8節)

 天国に入るために、私たちは天に引き上がる必要はありません。キリストがすでによみがえられ、天に昇られました。そして、罪の償いをするために陰府に下る必要はありません。なぜなら、キリストがすでに死なれて、葬られ、また陰府に下られたからです。救われるために必要なことは、キリストが行なってくださったのです。ですから、私たちが救われるためには、キリストについての言葉である、ということです。それは自分の心の中にあるし、自分の口にあります。そこで引き続き、パウロはこう言っています。
 

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(9-10節)

 たったこれだけで救われるのです。主がすべてのことをしてくださった。ゆえに、その言葉を心で受け入れ、口で告白することで、自分の永遠の住まいが地の下から天へと移されたのです。多くの人がこの単純性に気づいていません。何か自分は人生のために、もっと多くのことをしなければいけないと考えます。人間を成長させるために、もっと多くのことをしなければいけないと考えるのです。ですから宗教は、いろいろなことを行なわせます。宗教書を読ませたり、呪文を何回も唱えさせたりさせます。けれども、それは自尊心を積み上げるだけで、自分の心、ことに罪に対しては何の力も持っていないのです。主がすべてのことを行なわれた、ということを信じて受け入れるのは、へりくだりが必要です。

30:15 見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。30:16 私が、きょう、あなたに、あなたの神、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、主は、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。30:17 しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、30:18 きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、はいって行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。

 彼らの前に、選択をモーセは置きました。いのちと幸い、あるいは死と災いです。御言葉を心にたくわえ、それを口ずさむという選択をするかしないかで、その後の運命が正反対に分かれます。

 これは新しい契約においても、同じです。御子を信じるか、信じないかの選択が各人に与えられています。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。(ヨハネ3:17-18

 私たち人間は、二つに一つの道を選ぶことを嫌がります。自分の信じていることについて、きちんと答えず黙っていることは、その道を拒んでいることと同じです。イエス様は二つに一つしかないことを教えています。「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。(マタイ10:32-33」こうも言われました。「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。(マタイ12:30

30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、30:20 あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

 当然ながらモーセは、イスラエルの民がいのちと祝福の道を選んでほしいと願っています。けれども、次の章を見れば分かりますが、主からイスラエルはその道を選び取らないことを告げられます。

2A ヨシュアへの後継 31
1B 必要な励まし 1−13
31:1 それから、モーセは行って、次のことばをイスラエルのすべての人々に告げて、31:2 言った。私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない。主は私に、「あなたは、このヨルダンを渡ることができない。」と言われた。31:3 あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ、あなたの前からこれらの国々を根絶やしにされ、あなたはこれらを占領しよう。主が告げられたように、ヨシュアが、あなたの先に立って渡るのである。31:4 主は、主の根絶やしにされたエモリ人の王シホンとオグおよびその国に対して行なわれたように、彼らにしようとしておられる。31:5 主は、彼らをあなたがたに渡し、あなたがたは私が命じたすべての命令どおり、彼らに行なおうとしている。31:6 強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。

 ついにモーセは、自分がイスラエルの指導者の職分から退くことを公に発表しました。すでに120歳です。体力的に戦闘には向かないですが、それ以上に主ご自身がヨルダン川を渡ることはできないと言われていたからです。これはもちろん、モーセがかつて、岩に命じなさいと主に言われていたのに、二度も岩を打って怒りを露わにしたことが原因です。

 指導者のいない国民は、ちょうど羊飼いのいない羊のようなものです。どこに行けばよいか分かりません。けれどもモーセはここで、「あなたの神、主ご自身が、あなたの先に渡って行かれ」ると励ましています。使徒パウロは、エペソの長老たちにも同じような言葉を残しました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。(使徒20:31-32」主の御言葉が彼らを育成し、御国に入るようにしてくれると言っています。

 私たちの戦い、信仰の戦い、また霊の戦いは、いかに主が私たちの間で大きくなっているかにかかっています。私たちが戦うのではなく、主が戦われるのだ。主の司令に完全に服従できるか。主に知恵と力と、他のあらゆるものを与えられるのだ。これがしっかりしていればしているほど、私たちはこれまで悪魔が占拠していた要塞を打ち砕くことができます。エペソ6章にある霊の戦いでは、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。(10節)」とあります。

 そして、既に主がエモリ人の王二人を倒されたことをモーセは取り上げています。これは主がすでに与えられた勝利です。だから、同じように、いやそれ以上にイスラエルはヨルダン川の向こう側のカナン人も打ち倒すことができる、と励ましています。私たちは、このように主がすでに行ってくださった経験によって、主に対して将来行ってくださることにも確信を抱くことができます。パウロは死にかけたけれども救い出された経験を基に、こう話しています。「ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。(2コリント1:10

31:7 ついでモーセはヨシュアを呼び寄せ、イスラエルのすべての人々の目の前で、彼に言った。「強くあれ。雄々しくあれ。主がこの民の先祖たちに与えると誓われた地に、彼らとともにはいるのはあなたであり、それを彼らに受け継がせるのもあなたである。31:8 主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 モーセはヨシュア本人にも同じ励ましの言葉をかけています。主ご自身が戦ってくださいます。けれども主は、イスラエルの民を通して戦われます。そしてヨシュアを先頭にし、戦われます。したがって、ヨシュアにもイスラエルにも主に対する完全服従が要求されます。もちろん、主はご自分で戦いカナン人を打ち殺すことができます。けれども、主の勝利をイスラエルに味あわせたいと願われているので、彼らを関わらせようとされているのです。

 福音宣教もこれと同じです。終わりの日に、教会がすでに携挙された後でも、永遠の福音を神が御使いにゆだねている場面が黙示録に出てきます(14:6)。現代でも、福音宣教者が入ることが困難な中東地域において、イエス様の幻や夢を見て信仰を持つ人々が大勢います。けれども、それは特殊な状況であり、主は基本的に、人間の福音宣教によってご自分の真理を伝えるように定められました。「それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:21」神の救いの御業を、私たちにも味わってほしいと願っておられるのです。

 そしてそのために、神は私たちの志や願いの中に働きかけ、ご自分の業を行なわれようとされます。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。(ピリピ2:13」ゆえに、私たちは積極的に、果敢に自分の意志や思いを打ち捨てて、主の御心と御思いに服従していくのです。

 そして、「強くあれ。雄々しくあれ。」と言っています。また、「恐れてはならない。おののいてはならない。」とも言っています。なぜなら、ヨシュアは恐れているからです。おののいているからです。聖書の中には何度となく、主が「恐れるな」と励ましている箇所があります。使徒パウロも、コリントで強い反対を受けた後に、主が、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。(使徒18:10」と話しかけてくださいました。人がどれだけ恐れてしまう存在かが、よく分かります。私たちは絶えず、恐れから救い出されるために、主からの励ましが必要です。

 その励ましの内容は、「わたしはあなたとともにいる」そして、「あなたを見捨てない」です。なぜなら、私たちが一歩外に踏み出す時には、必ず孤独を感じます。主の御霊によって導かれる時には、他の誰にも頼ることのできない領域に入ることになります。快適な空間から出ていきます。けれども、主がそこにおられて、主のご臨在が私たちを守ってくださいます。

31:9 モーセはこのみおしえを書きしるし、主の契約の箱を運ぶレビ族の祭司たちと、イスラエルのすべての長老たちとに、これを授けた。

 ここでついに、口伝律法が書かれた律法になりました。モーセは、言い伝えられてきたアダムとエバの話から、創世記から申命記までを死ぬ前に書きしるしました。そして、それをレビ人の祭司またイスラエルの長老たちに託しています。このときから、私たちはこのように書かれている神の御言葉にしっかりつながっていくようになります。

31:10 そして、モーセは彼らに命じて言った。「七年の終わりごとに、すなわち免除の年の定めの時、仮庵の祭りに、31:11 イスラエルのすべての人々が、主の選ぶ場所で、あなたの神、主の御顔を拝するために来るとき、あなたは、イスラエルのすべての人々の前で、このみおしえを読んで聞かせなければならない。31:12 民を、男も、女も、子どもも、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである。31:13 これを知らない彼らの子どもたちもこれを聞き、あなたがたが、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、彼らが生きるかぎり、あなたがたの神、主を恐れることを学ばなければならない。」

 律法の朗読の命令です。「七年の終わり毎、免除の年の定め」というのは、すでに申命記15章で、負債の免除が命じられています。その時に、負債のあった者たちが解放されます。その時に律法の朗読を命じているのは、主が行なってくださった解放を律法の中で確認するためです。イスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されたのと同じように、今、自分たちが負債から解放されたのだということを知るためです。

 そして「仮庵の祭り」の時に行ないます。なぜなら、仮庵の祭りの象徴しているのは、神が確かに荒野の旅を守ってくださり、約束の地に導いてくださったことを思い出すためです。したがって、自分たちが今、約束の地にいることの意味を律法は教えてくれるので、それを聞くのです。他の箇所で実際にこれを行なっているのを見ることができるのが、ネヘミヤ記8章と9章です。私たちは、自分の肉体を休ませている時に何をしているでしょうか?御言葉を眺めることです。主がここまで自分を導き、守ってくださったことを知ることができるのは、御言葉によってであります。

 「今は新約の時代だから、旧約とは異なる。そんなに神の言葉に固執してはいけない。」という人がいるかもしれません。いいえ、イスラエルに対する神の働きは教会においても同じようにあります。パウロがテモテに命じました。「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。・・・これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。(1テモテ4:13,15

2B 反逆を予期する歌 14−30
31:14 それから、主はモーセに仰せられた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、ふたりで会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」それで、モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。31:15 主は天幕で雲の柱のうちに現われた。雲の柱は天幕の入口にとどまった。

 13節まで、モーセは全てのイスラエル人の前で話していましたが、今はプライベートな時間です。主ご自身と、ヨシュアと自分と言う三人だけの空間に入りました。

31:16 主はモーセに仰せられた。「あなたは間もなく、あなたの先祖たちとともに眠ろうとしている。この民は、はいって行こうとしている地の、自分たちの中の、外国の神々を慕って淫行をしようとしている。この民がわたしを捨て、わたしがこの民と結んだわたしの契約を破るなら、31:17 その日、わたしの怒りはこの民に対して燃え上がり、わたしも彼らを捨て、わたしの顔を彼らから隠す。彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。31:18 彼らがほかの神々に移って行って行なったすべての悪のゆえに、わたしはその日、必ずわたしの顔を隠そう。

 まず主はモーセに語られました。なんという厳しい現実でしょうか!イスラエルはいのちを選び取るのではなく、死と災いを選び取ります。モーセは当然ながら、イスラエルがこれまで反逆を繰り返してきたので、そうなるかもしれないとは思っていたことでしょう。けれども、主はそのことをはっきりと前もってモーセに告げられました。

 そして興味深いのは、17節にイスラエルの民が、「私たちのうちに、私たちの神がおられないから、これらの災いが降りかかっているのだ」と言っていることです。自分たちの反抗によって、神が御顔を隠されたのであって、神がおられなくなったのではありません。彼らに災いが下るのは、むしろ神が生きておられる証拠であります。事実、ユダヤ人には無神論者が多いですが、それはホロコーストの体験によって神はおられないと判断したからです。けれども、私たちも同じように思うのではないでしょうか?災いや試練が襲いかかると、それは神がおられないからだ、神が見捨てられたからだ、と結論づけます。とんでもないことです、主が近くにおられるからこそ試練があるのです。

31:19 今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。31:20 わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。31:21 多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」31:22 モーセは、その日、この歌を書きしるして、イスラエル人に教えた。

 主はなんと、歌によってイスラエルに思い起こそうとされています。いかがでしょうか、私たちがこのように聖書の学びをするのは怠慢になって嫌がるかもしれません。事実、イスラエルの民は後に律法の朗読をやめてしまいました。けれども、歌をうたうのは気軽にすることができます。何も考えないでも口ずさんでいます。私たちが意味も分からずに古くから歌われている歌をうたっていることって、たくさんありますね。けれども、改めて歌詞の意味を考えてみると、自分の歌っていることに驚くかもしれません。イスラエルは、捕囚の地などで自分の歌っている歌の意味を改めて考えてみて、見事にその通りになっていることを気づき、主がおられることを知るきっかけになるのです。

31:23 ついで主は、ヌンの子ヨシュアに命じて言われた。「強くあれ。雄々しくあれ。あなたはイスラエル人を、わたしが彼らに誓った地に導き入れなければならないのだ。わたしが、あなたとともにいる。」

 主がモーセに語られましたが、傍らにはヨシュアがいました。今度は主が直接、ヨシュアに語られました。

31:24 モーセが、このみおしえのことばを書物に書き終えたとき、31:25 モーセは、主の契約の箱を運ぶレビ人に命じて言った。

 レビ人のケハテ族が契約の箱を運ぶように命じられていましたね。ヨルダン川を渡るときも、彼らが活躍します。

31:26 「このみおしえの書を取り、あなたがたの神、主の契約の箱のそばに置きなさい。その所で、あなたに対するあかしとしなさい。31:27 私は、あなたの逆らいと、あなたがうなじのこわい者であることを知っている。私が、なおあなたがたの間に生きている今ですら、あなたがたは主に逆らってきた。まして、私の死後はどんなであろうか。

 先ほど話しましたように、モーセはイスラエルが逆らってきたことをよく知っていたので、主から将来も逆うことを聞いて、それで確信をもって彼らにそのように話しています。

31:28 あなたがたの部族の長老たちと、つかさたちとをみな、私のもとに集めなさい。私はこれらのことばを彼らに聞こえるように語りたい。私は天と地を、彼らに対する証人に立てよう。31:29 私の死後、あなたがたがきっと堕落して、私が命じた道から離れること、また、後の日に、わざわいがあなたがたに降りかかることを私が知っているからだ。これは、あなたがたが、主の目の前に悪を行ない、あなたがたの手のわざによって、主を怒らせるからである。」31:30 モーセは、イスラエルの全集会に聞こえるように、次の歌のことばを終わりまで唱えた。

 そして32章にその歌が書き記されています。それは次回学びますが、いかがでしょうか、後の日に確かに彼らはそのようになりました。そして、彼らはこれからもそのようになっていくでしょう。教会が空中に引き上げられ、世界には反キリストが台頭します。彼はユダヤ人と契約を結び、神殿を建ててもよいとします。けれども、なんと三年半後に、その契約を破り、自らその中に入って、自分を神と宣言するのです。そして彼がメシヤだと信じていた大勢のユダヤ人は裏切られることになりますが、残りの民は荒野の山々に逃げます。そこで三年半かくまわれます。そして主イエスが戻って来られます。彼らは救い出されます。その時にイエスがメシヤであることを知ります。確かに、主が語られたとおりになります。

 そして、私たちも主が語られたとおりになることを知る必要があります。すでに御言葉で明らかにされたことに対して、私たちは責任を問われます。そこにはお茶を濁す領域はありません。主に従っていくか、それとも反抗していくかであります。離れていけば、神やキリストとは無関係の生活を歩めるということではありません。そのまま、御言葉は残るのです。知らない事柄、聖書に書かれていない事柄については、神のみがそれを知っておられますが、明らかにされた事柄については応答が迫られます。

 私たちは今、何を知っているでしょうか?知っているけれども行っていないものはあるでしょうか?行っていないことに、応答してみましょう。主は豊かに憐れんでくださり、慰めを与えてくださいます。

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