申命記8−11章 「エジプトから連れ出された民」

アウトライン

 

1A 飢えていた民 8
   1B 主からの訓練 1−10
   2B 主からの富 11−20
2A うなじのこわい民 9−10
   1B 根絶やしにされるべき民 9
      1C 追い出される理由 1−6
      2C 鋳物の子牛 7−29
   2B 先祖たちへの約束 10
      1C モーセの執り成し 1−11
      2C 主への恐れ 12−22
3A 主の偉大なみわざ 11
   1B 主の証人 1−25
      1C 力強い御手 1−7
      2C 自分の手によらない豊かさ 8−17
      3C 敵の追放 18−25
   2B 祝福とのろい 26−32


本文

 申命記8章を開いてください。今日は、11章までを学びます。ここでのテーマは、「エジプトから連れ出された民」です。

 私たちは前回、モーセがイスラエルの民に、シナイ山で主が語られたところから話し始めたところを学びました。その声がとても恐ろしく、彼らは死ぬのではないかと思ったので、モーセに代わりに聞いてほしいと頼んだ、という話です。けれども、主は、このイスラエル人の反応をとても喜ばれ、このようにいつまでも恐れを持っていてほしいと願われました。そしてモーセは、主はただひとりであり、主なる神を心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして愛しなさいと命じました。また、子どもたちにもみことばを教えて、みことばを自分に結びつけるほど、神の命令を心に刻みなさいと命じました。さらにこれから占領する地では、その住民をことごとく殺して、ひとりも生かしてはいけない、とも命令しました。なぜなら、その生きている人がイスラエル人と結婚し、自分の神々を持ち込み、イスラエル人が偶像礼拝する罪を犯すからだ、と警告しました。このように、モーセは、主なる神とイスラエルとの関係は、夫と妻のような、堅く結ばれた一対一の契約関係であることを教えたのです。

1A 飢えていた民 8
 それでは8章に入ります。

1B 主からの訓練 1−10
 私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。

 モーセは、何回も何回も、この命令を繰り返しています。ここでも命令していますが、次からなぜこの命令が大事であるかその理由を話します。

 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

 モーセは、荒野での旅を思い起こさせています。そこでイスラエルの民が、飲むものがなく食べるものがないという試みを受けました。それがイスラエルの民が心のうちにあるものを知るためである、とモーセは言っていますが、ここがとても大事な点です。「あなたを苦しめて」とありますが、これは苦役を課すということではなく、へりくだらせる、という意味です。食べるもの、飲むものがないような試練の中で、イスラエルの民が自分たちのありのままの姿を見ることができるようにしてくださったのです。

 私たちは主を試みてはいけませんが、主は私たちを試みるときがあります。ヤコブは、「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。(1:2)」と言っていますが、主は試みられます。それは、主が私たちの信仰がどのような度合いになっているのかを知りたいからではなく、むしろ、私たちが自分たちのことを知るためなのです。私たち人間は、容易に自分を欺きます。自分はそれほど悪い人間ではないと思ったり、そんなに不信仰ではないと思ったりします。けれども、主は私たちの心はよくご存知なのです。もし私たちが自分をそのように欺いていたら、主に拠り頼むのではなく自分に頼るようになってしまいます。神から離れて、自分で独立して生きるようになってしまいます。そこで、神は、私たちが本当はどのような姿をしているかを、私たち自身が知って、私たちが自分は頼りにならない存在であり、主に拠り頼まなければいけないのだということを学ぶことができるようにしてくださいます。イスラエルの民にとって、荒野はこの学びの場であったのです。

 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

 これは、イエスさまが荒野で悪魔からの誘惑を受けられたときに、悪魔に対して使われたみことばですね。人はパンだけによって生きるのではなく、主の口から出るもので生きる、ということばは、ここから来ています。

 ここでイスラエルの民は、主なる神が、わたしは天からのパンを与える、ということばをモーセを通して聞きました。そのことばを聞いたときに、自分の生命は、このことばにかかっているのだと理解することができました。日々の生活の糧が、この神のみことばにかかっているからです。なんと、私たちにも必要な言葉でしょうか。イエスは聞くだけでなく、みことばを行なう者について語られましたが、このような切羽詰った状態のときに聞くみことばは、私たちを従順へと促します。

 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。

 この事実もすばらしいですね。振り返ってみると、ああ、そうだ、着ているものが全然すり切れていないし、足もはれていない。彼らはモーセから言われなければ、その奇蹟が分からなかったかもしれません。このような奇蹟は、私たちの間でも起こっていますね。自分たちは気づかない、当たり前だと思っているところに、主の恵みの足跡があります。

 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

 これも、新約聖書で引用されている個所です。ヘブル12章7節です。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。(ヘブル12:7」私は、父親から殴られたこと、大声で叱られたことがなかったので、クリスチャンになってからこの言葉が貴重なものとなりました。この訓練があるからこそ、神が天の「父」として私たちを愛してくださっていることを思います。試練というのは、神が私たちが嫌いであるどころか、こよなく愛してくださっていることのしるしです。

 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。次から、これから入る約束の地の姿について書かれています。あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地、その地の石は鉄であり、その山々からは青銅を掘り出すことのできる地である。

 先ほどの荒野とは対照的です。水が流れて、豊かな実を結び、鉱石も豊富です。

 あなたが食べて満ち足りたとき、主が賜わった良い地について、あなたの神、主をほめたたえなければならない。

 これが、主の祝福に対しての正しい応答です。神に感謝して、神をほめたたえます。この個所を読んで、牧師チャック・スミスのことを思います。そのカルバリーチャペル運動は、アメリカの教会史に掲載されるほどの、顕著な働きでした。いや、今も続いています。けれども、チャックがこのことを話すときは、彼は自分自身もその祝福の中に入れたとして、傍観者のように語ります。大抵、そのような巨大な教会、また巨大な群れになるようなら、私なら高慢になってしまうでしょう。けれども、彼はいつも、イエス様との交わりを楽しんでいるクリスチャンのままでいます。それは、17年間の荒野の生活があったからです。このような御霊の動きが起こる前に、17年間の牧会がうまく行かなかったのですが、そのときも主に信頼して、主からの訓練を受けていました。自分がだれであるかをよく知っているからこそ、今与えられている祝福を子供のように素直に喜び、感謝することができるのです。

2B 主からの富 11−20
 そしてモーセは、注意を喚起しています。気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。

 豊かになったときに、私たちは豊かにしてくださった方を忘れてしまいます。そこでまたモーセは、イスラエルがどこから来たのかを思い出させます。

 ・・主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、

 あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。・・

 試みあった時のことです。

 あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。

 「私の力、私の手の力」というところがキーワードですね。神の力、神の御手の力ではなく、自分の力から来たと思ってしまいます。使徒パウロも、コリントにいる教会の人たちに、こう語っています。「いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。(コリント人への手紙第一4:7

 神さまは、私たちを祝福したいと願われています。私たちが願う以上に祝福したいと願われています。その祝福は、私たちのためではなく、今「主をほめたたえる」と書いてあったように、主との関係がさらに深まるために与えられるものです。もっとも大事なのは、主なる神との愛の関係なのです。その愛の関係を深めるために、主はあるときには私たちを試みて、あるときには祝福されるのです。試みや祝福はあくまでもこの関係という目的のためであり、それ自体が目的ではありません。そこで主は、神のみに力があり、神のいのちのみに本当のいのちがあることを知ってほしいと願われているので、荒野を通らせてマナを与えるようなことをされました。この試みがあるからこそ、私たちは、真に神さまとの交わりを深めることができるのです。

 主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。

 主は、イスラエルが何か良いものを持っているから祝福されたのではなく、あくまでも契約を履行されるために祝福されています。ここの理解はとても大事です。全知全能の主権者でさえ、この方は契約にしばられているのです。契約に違反するようなことは決してできません。日本では、何をするわ分からないような存在がカミであるとされていますから、聖書の神は対極に存在します。

 私たちが罪赦され、神の子どもとされているのは、それは私たちが高価で尊いからではありません。私たちが基準であれば、たちまちにして滅ぼされてしまう存在です。そうではなく、神がもうこれ以上、罪咎めを行わないという決断があって、御子を遣わされてご自分のうちで、罪に定めないとお決めになってしまったのです。これが新しい契約であり、私たちは新しい契約の中に入っています。だから、私たちが大切だからではなく、神がご自分の契約にしばられているから、私たちの罪を赦し、ご自分の子どもにされているのです。

 あなたが万一、あなたの神、主を忘れ、ほかの神々に従い、これらに仕え、これらを拝むようなことがあれば、きょう、私はあなたがたに警告する。あなたがたは必ず滅びる。主があなたがたの前で滅ぼされる国々のように、あなたがたも滅びる。あなたがたがあなたがたの神、主の御声に聞き従わないからである。

 人が自分の力で、自分の手でこのようなことをしたのだと思い始めると、主を忘れるようになると、必ず他の神々、偶像を拝むようになります。高慢になることと、偶像礼拝は密接に結びついています。それゆえ、いのちある交わりを神とすることができなくなります。

 このイスラエルに対する戒めは、教会でも同じことです。ラオデキヤの教会に対して、主イエス様がこう言われました。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」自分のありのままの姿を知らなければいけません。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(黙示録3:17-18」欽も衣も目薬もすべて、自前ではなくイエス様からいただかなければいけません。ですから、人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出てくるもので生きるとつながるわけです。

2A うなじのこわい民 9−10
 このように、神から独立して生きることについての戒めを見ました。9章と10章は、独立ではなく独善についての戒めがあります。

1B 根絶やしにされるべき民 9
1C 追い出される理由 1−6
聞きなさい。イスラエル。あなたはきょう、ヨルダンを渡って、あなたよりも大きくて強い国々を占領しようとしている。その町々は大きく、城壁は天に高くそびえている。その民は大きくて背が高く、あなたの知っているアナク人である。あなたは聞いた。「だれがアナク人に立ち向かうことができようか。」

 ここにいるイスラエル人たちは、カデシュ・バルネアにいるときは、まだ20に満たない子供たちでした。大人たちが、「だれがアナク人に立ち向かうことができようか」と言っているのを聞いていました。

 きょう、知りなさい。あなたの神、主ご自身が、焼き尽くす火として、あなたの前に進まれ、主が彼らを根絶やしにされる。主があなたの前で彼らを征服される。あなたは、主が約束されたように、彼らをただちに追い払って、滅ぼすのだ。

 主はことごとく滅ぼしてくださいます。

 あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出されたとき、あなたは心の中で、「私が正しいから、主が私にこの地を得させてくださったのだ。」と言ってはならない。これらの国々が悪いために、主はあなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。あなたが彼らの地を所有することのできるのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。それは、これらの国々が悪いために、あなたの神、主が、あなたの前から彼らを追い出そうとしておられるのだ。また、主があなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブになさった誓いを果たすためである。

 しばしば、ヨシュアを先頭にしてカナン人たちをことごとく滅ぼしていくのが、「聖戦」と呼ばれることがあります。そしてこの個所を読んで、聖書は聖戦を許容しているのかという疑問を持つ人がいます。けれども、ここに理由が書かれています。一つは、ここの住民がさばかれて、滅びるにふさわしい悪事を行なっていた、ということです。神はかつて、地域一体の住民を滅ぼされたことがありました。ソドムとゴモラです。その時は天から火と硫黄を降らせました。神にとって、火と硫黄でも、イスラエル軍でもどちらでも良かったのです。イスラエルがどうのこうの、ということではなく、神がその住民をさばくために、彼らをことごとく滅ぼすように命じておられるのです。考古学によって、カナン人たちがどのような邪悪なことを行なっていたかは発見されています。不品行によって生まれてきたばかりの赤ん坊を、火であつくなっている鉄の偶像にささげて、その乳児の骨なども見つかっているようです。これはごく一例です。したがって、主がこの地域一体の住民を滅ぼそうとされました。もう一つは、アブラハム、イサク、ヤコブにこの地を約束されたからです。ここでも、イスラエルが正しいのではなく、神が一方的に誓いを立てられたからでした。

 知りなさい。あなたの神、主は、あなたが正しいということで、この良い地をあなたに与えて所有させられるのではない。あなたはうなじのこわい民であるからだ。

 主は、三度、あなたがたが正しいのではない、と言われています。むしろ、彼らがうなじのこわい民、すなわち、主の言われることを聞かない、聞き分けのない民だ、と言われています。これをイスラエルの民だけに当てはめるのであれば間違いです。これは、すべての人が陥る過ちです。独善です。自分が正しいと思っています。パウロはローマ書2章において、このことを話しています。自分は、ローマ書1章で語られているようなことはしていない、むしろ、そのようなことをやっている者たちに腹が立つ、というものです。ところがパウロは、「そうさばいているあなたが、そのものさしによって、さばかれているのです。」と言っています。そして、クリスチャンはなぜか、聖書のことばを持って、自分がクリスチャンで無かったことよりも、良くなったと思っています。いいえ、全然良くなっていないのです。パウロは自分のことを何と言ったでしょうか?「罪人のかしら」です、と言いました。クリスチャンになって、ずっと後にこの告白をしているのです。ところが、自分がなぜか正しいと思ってしまうのは、先ほどの独立の問題と同じように、自分のありのままの姿を忘れてしまっているからです。そこでモーセは、イスラエルがいかに聞き分けがなかったかを話します。

2C 鋳物の子牛 7−29
 あなたは荒野で、どんなにあなたの神、主を怒らせたかを覚えていなさい。忘れてはならない。エジプトの地を出た日から、この所に来るまで、あなたがたは主に逆らいどおしであった。

 自分のことをこのように見るのはつらいことです。「私は主にお従いしたこともあったのに」と思います。けれども、逆らいどおしだったと主から言われたどうでしょうか。けれども、それが事実なのです。そして自分に絶望して、正しい方はただ主しかおられないと知ることが大事なのです。

 あなたがたはホレブで、主を怒らせたので、主は怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた。

 先ほど、アナク人などの住民を根絶やしにすると主は約束されましたね。けれども、実はイスラエル自身も根絶やしにされそうになっていたのです。

 私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。そして主は私に仰せられた。「さあ、急いでここから下れ。あなたがエジプトから連れ出したあなたの民が、堕落してしまった。彼らはわたしが命じておいた道から早くもそれて、自分たちのために鋳物の像を造った。」

 金の子牛をイスラエルの民は造りました。

 さらに主は私にこう言われた。「わたしがこの民を見るのに、この民は実にうなじのこわい民だ。わたしのするがままにさせよ。わたしは彼らを根絶やしにし、その名を天の下から消し去ろう。しかし、わたしはあなたを、彼らよりも強い、人数の多い国民としよう。」私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。

 3節には、主が焼き尽くす火として住民を根絶やしにされる、と書かれていましたが、ここではイスラエルに対して燃え尽くす火になっておられることがわかります。山が火で燃えていました。

 二枚の契約の板は、私の両手にあった。私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。

 石の板を打ち砕いたのは、あなたがこの戒めを破りましたよ、だいなしになりましたよ、というデモンストレーションです。

 そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。

 可愛そうに、モーセは40日間断食して山から降りてきたのに、再び戻って行き、40日間断食しました。

 あなたがたが主の目の前に悪を行ない、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。主は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。

 モーセはとりなしをしました。神とイスラエルの民との間に立ち、彼らを滅ぼさないようにお願いしました。私たちも、このとりなしの祈りが大切です。神に逆らっているからといって傍観するのではなく、罪の中にいる人たちのために祈るのです。

 私はあなたがたが作った罪、その子牛を取って、火で焼き、打ち砕き、ちりになるまでよくすりつぶした。そして私は、そのちりを山から流れ下る川に投げ捨てた。あなたがたはまた、タブエラでも、マサでも、キブロテ・ハタアワでも、主を怒らせた。主があなたがたをカデシュ・バルネアから送り出されるとき、「上って行って、わたしがあなたがたに与えている地を占領せよ。」と言われたが、あなたがたは、あなたがたの神、主の命令に逆らい、主を信ぜず、その御声にも聞き従わなかった。私があなたがたを知った日から、あなたがたはいつも、主にそむき逆らってきた。

 金の子牛のことは、今聞いているイスラエル人たちの親の世代が犯した罪でした。けれども、今モーセは、金の子牛だけでなく、それ以来、ずっと逆らってきたことを指摘して、聞いているイスラエル人もその罪を免れないことを話しています。

 それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。私は主に祈って言った。「神、主よ。あなたの所有の民を滅ぼさないでください。彼らは、あなたが偉大な力をもって贖い出し、力強い御手をもってエジプトから連れ出された民です。あなたのしもべ、アブラハム、イサク、ヤコブを覚えてください。そしてこの民の強情と、その悪と、その罪とに目を留めないでください。そうでないと、あなたがそこから私たちを連れ出されたあの国では、『主は、約束した地に彼らを導き入れることができないので、また彼らを憎んだので、彼らを荒野で死なせるために連れ出したのだ。』と言うでしょう。しかし彼らは、あなたの所有の民です。あなたがその大いなる力と伸べられた腕とをもって連れ出された民です。」

 このとりなしの特徴は、イスラエルの民が何か良いことをした、さばきを免れるための理由があるなどとしていないことです。すべて、神が行なわれたこと、また神のご性質に訴えていることに注目してください。「主よ、あなたの所有の民を滅ぼさないでください。」「あなたが偉大な力をもって贖い出し」「あなたのしもべ、アブラハム」「そうでないと、あなたがそこから連れ出された」などなど、ずっと「あなたが」という言葉で始めています。そして、イスラエルがいかに罪深いか、根絶やしにされるべき民かは前提にして話しています。これが、真の執り成しです。

 ダニエル書9章においても、ダニエルは同じ祈りをしました。イスラエルの民がさばかれたのは、正しいことで、罪と不面目はすべて私たちのものです、と祈りました。そして、願いは、あなたがあわれみ深い方であるから、というものでした。神のご性質に訴えたのです。私たちがこのような祈りができればと思います。

 日本の教会では、戦責問題に関連して、過去、日本と教会が犯した罪を悔い改める発表をしている教団が多いです。そして、過去に犯した罪を二度と繰り返さないという勢いも大きいかと思います。けれども、本当に悔い改めたのでしょうか。アメリカが何をしていようが、日本が神の律法に照らして罪を犯していたこと、神が日本においても主であり王であることを認めることによって、初めて悔い改めることができるのです。左よりの人たちは、日本軍と天皇、またアメリカを非難し、右よりの人たちは、日本人が自虐的になることはないと訴え、みな、神相手ではなく人や国を相手にして是非を喧喧諤諤と論議しています。私たちは聖書から、この世界と日本を見つめて、そこから神が何を行なわれているかを見極めていかねばならぬのです。

2B 先祖たちへの約束 10
1C モーセの執り成し 1−11
 それでは10章に入りましょう。モーセの執り成しと願いを主は聞き入れてくださった個所です。そのとき、主は私に仰せられた。「前のような石の板を二枚切って作り、山のわたしのところに登れ。また木の箱を一つ作れ。その板の上に、わたしは、あなたが砕いた、あの最初の板にあったことばを書きしるそう。あなたはそれを箱の中に納めよ。」そこで私はアカシヤ材の箱を一つ作り、前のような石の板を二枚切り取り、その二枚の板を手にして山に登って行った。

 これが後で契約の箱になる箱です。その木の箱と石の板二枚を用意しました。

 主は、その板に、あの集まりの日に山で火の中からあなたがたに告げた十のことばを、前と同じ文で書きしるされた。主はそれを私に授けた。私は向き直って、山を下り、その板を私が作った箱の中に納めたので、それはそこにある。主が命じられたとおりである。

 次から、この契約の箱を運んできたレビ人が、なぜ彼らが運んできたかを説明しています。

 ・・イスラエル人は、ベエロテ・ベネ・ヤアカンからモセラに旅立った。アロンはそこで死に、そこに葬られた。それで彼の子エルアザルが彼に代わって祭司の職に任じられた。そこから彼らは旅立ってグデゴダに行き、またグデゴダから水の流れる地ヨテバタに進んだ。そのとき、主はレビ部族をえり分けて、主の契約の箱を運び、主の前に立って仕え、また御名によって祝福するようにされた。今日までそうなっている。それゆえ、レビには兄弟たちといっしょの相続地の割り当てはなかった。あなたの神、主が彼について言われたように、主が彼の相続地である。・・

 私は最初のときのように、四十日四十夜、山にとどまった。主はそのときも、私の願いを聞き入れ、主はあなたを滅ぼすことを思いとどまられた。そして主は私に、「民の先頭に立って進め。そうすれば、わたしが彼らに与えると彼らの先祖たちに誓った地に彼らははいり、その地を占領することができよう。」と言われた。

 主は二枚の石の板にまた書き込まれて、占領することができると約束してくださいました。これは、やり直しです。主は、私たちが一度失敗しても、またやり直しを与えてくださいます。けれども、このような辛く、悲しいプロセスを通してようやく再スタートができるのです。

2C 主への恐れ 12−22
 こうして、モーセは、彼らがいかに、うなじがこわい民であるかを示してから、結論を話します。

 イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。

 彼らには何も正しいものはないのです。むしろ悪ばかりがあるのです。だから、正しさをすべて主に求めて生きていかねばなりません。主を恐れて、自分の悟りに頼らず、主の道に歩み、主を愛して、主に仕えます。これはクリスチャンも同じです。義は私たちのうちにはなく、むしろキリストのうちにあります。自分の義ではなく、キリストの義を仰ぐのです。

 見よ。天ともろもろの天の天、地とそこにあるすべてのものは、あなたの神、主のものである。

 主の偉大さをモーセは話しています。後で、主が何をしてくださったか、また何をしてくださるか、その偉大なみわざについて語ります。

 主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた。今日あるとおりである。

 主の一方的な愛です。私たちに愛らしいものがあるからではないということがもうお分かりになられたかと思います。私たちが愛されたのは、主がただあわれんでおられるからです。

 あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。

 男子の包皮を引き取る割礼は、心の割礼がなければ無意味です。うなじのこわい者から、神の御声に敏感な者とならなければいけません。

 あなたがたの神、主は、神の神、主の主、偉大で、力あり、恐ろしい神。かたよって愛することなく、わいろを取らず、みなしごや、やもめのためにさばきを行ない、在留異国人を愛してこれに食物と着物を与えられる。あなたがたは在留異国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で在留異国人であったからである。あなたの神、主を恐れ、主に仕え、主にすがり、御名によって誓わなければならない。

 今、イスラエルが自分たちだけが愛されているのだ、という偏狭に陥らないために戒めています。こんなにもイスラエルが愛されていると、イスラエルは自分たちだけが特別であると思ってしまいます。けれども、モーセは、あなたがたの神、主は、神の神、主の主と言って、イスラエルだけでなく諸国の民の主でもあることを話しています。そして、かたよって愛することはない、と公正な方であることを話しています。そして、自分たちもエジプトから出てきたのだから、在留異国人を愛しなさいと命じています。こうやって、再びエジプトから出てきたことを強調し、エジプトでの生活を思い起こさせているのです。

 主はあなたの賛美、主はあなたの神であって、あなたが自分の目で見たこれらの大きい、恐ろしいことを、あなたのために行なわれた。あなたの先祖たちは七十人でエジプトへ下ったが、今や、あなたの神、主は、あなたを空の星のように多くされた。

 モーセのほとばしるイスラエルへの愛情が伝わってきます。ここまでずっと、イスラエルのありのままの姿を伝えていましたが、それは罪定めをしていたからではありません。イスラエルが、こんなにもすばらしい神を持っている、こんなに愛してくださっていることを伝えたかったからです。だから、自分の力や自分の義なんかにより頼むような愚かなことをしてほしくなかったのです。しっかりと、妻が夫に結ばれるように、神に結ばれてほしかったのです。

3A 主の偉大なみわざ 11
そこでモーセは11章から、イスラエルに用意されている神のすぐれた力について語り始めます。

1B 主の証人 1−25
1C 力強い御手 1−7
 あなたはあなたの神、主を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、主の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。・・彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、主はこれを滅ぼして、今日に至っている。・・また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。これら主がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。

 今モーセの話を聞いている人たちは、今モーセが話しているすべてのことを経験しました。紅海が分かれるときは、幼い子供や10代の子でありました。また、コラとダタン、アビラムが、モーセとアロンに逆らって、彼らが生きながらにして陰府に下ったことも見ました。主はこんなにも力強いわざをされる方である、とモーセは言っています。

2C 自分の手によらない豊かさ 8−17
 それゆえに、約束の地も、主のみわざによる豊かな土地であることを話します。

 あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、また、主があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。なぜなら、あなたが、はいって行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。そこはあなたの神、主が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、主が、絶えずその上に目を留めておられる地である。

 ここに驚くべきことが書いてあります。エジプトは肥沃な土地であります。イスラエルは、荒野と比べて、エジプトがいかに豊かであったかを思い出していました。しかし、肥沃なエジプトでは、自分の力で水をやって作物を育てていました。しかし、約束の地は違います。主が目に留めておられるので、雨が降り、作物が多くの苦労を要さないで育っていくというのです。

 ここに神の世界があります。御霊の世界と言っても良いでしょうか。そこにはもはや、「自分」がなうなっています。自分の知恵、自分の力、自分の富があります。主が豊かに祝福されて、自分ではなく、主ご自身が生きて働かれているのです。私たちの肉の行ないと、御霊の実との対比でもあります。自分がいくら頑張っても、御霊の実は自然で、神からのもので、私たちが努力して得るものではありません。けれども、ここで、主の命令を守るということが条件となっていることを思い出してください。自分がいかに貧しく、自分がいかにうなじがこわいかをよく知っているからこそ、主によりすがっていることができるのです。このような主への信頼と従順の中で、このような土地が与えられています。

 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

 先の雨というのは、春の雨です。このときに大麦や小麦の収穫があります。後の雨とは秋の雨で、このときに、ぶどうやいちじく、オリーブなどの収穫物があります。この雨があると収穫が豊かになるのです。

 気をつけなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざされないように。そうなると、雨は降らず、地はその産物を出さず、あなたがたは、主が与えようとしておられるその良い地から、すぐに滅び去ってしまおう。

 豊かになると高ぶりが起こり、偶像崇拝をするようになると先ほど話しました。実際に、カナン人たちは、土地の収穫に関して、豊穣の神々を拝んでいました。それらは不品行に関する偶像です。これらに気をつけなさい、とモーセは戒めています。

3C 敵の追放 18−25
 あなたがたは、私のこのことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。

 思い出せば、アダムが罪を犯して、エデンの園を出、その後の系図が創世記のはじめにありますが、その時の寿命はたいへん長いものでした。また、アブラハムなどの先祖の年数も長いです。このような日数も約束の地では与えられるようです。

 もし、あなたがたが、私の命じるこのすべての命令を忠実に守り行ない、あなたがたの神、主を愛して、主のすべての道に歩み、主にすがるなら、主はこれらの国々をことごとくあなたがたの前から追い払い、あなたがたは、自分たちよりも大きくて強い国々を占領することができる。あなたがたが足の裏で踏む所は、ことごとくあなたがたのものとなる。あなたがたの領土は荒野からレバノンまで、あの川、ユ一フラテス川から西の海までとなる。だれひとりとして、あなたがたの前に立ちはだかる者はいない。あなたがたの神、主は、あなたがたに約束されたとおり、あなたがたが足を踏み入れる地の全面に、あなたがたに対するおびえと恐れを臨ませられる。

 モーセは、「ことごとく」と二回繰り返しています。ことごとく異邦の民を追い払い、ことごとく広大な土地を占領します。自分たちがしているのではありません。自分たちはただ、主を恐れて、主が言われることに従っているだけです。けれども、主はご自分の約束のゆえに、ご自分のわざをことごとく行なわれるのです。

 ぜひ、私たちが、この祝福の中へ、いのちの御霊の世界の中へ入りたいものです。自分がこれまで歩んできた道を振り返って、なにか主がなされたと言える事柄があるでしょうか。なければ、それは主がまだ訓練の中に入れておられるのです。自分の日々の歩みの中で、主が言われたことをパンとして、また、主のあわれみによって生きていることを感謝して歩みます。「自分」というものがどんどん、殺がれていくときに、希望は主のみであることを知るようになってきます。そうすれば、主が祝福してくださいます。自分ではなく、主が生きて働かれる世界を見せてくださいます。

2B 祝福とのろい 26−32
 モーセは、一連の説教の最後のまとめをしています。見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

 従うなら祝福、そむくならのろい、という二者択一です。

 あなたが、はいって行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。それらの山は、ヨルダンの向こう、日の入るほうの、アラバに住むカナン人の地にあり、ギルガルの前方、モレの樫の木の付近にあるではないか。

 この二つの山については、申命記27章に詳しく出てきます。そこでは、のろいのほうのエバル山にての宣言しか記されていません。神の律法の下では、祝福ではなくのろいしかもたらされないという暗示があります。

 これまで読んできた個所で誤解を受けていただきたくないことがあります。それは、新しい契約においては、キリストを信じる者は、すでに聖霊によって神の証印を押されており、キリストにあって神のうちにいる者にされていることです。キリストにあってすべての天にある霊的祝福を受けています。ですから、イスラエルのように、神に従順だから祝福されて、不従順であればのろわれるということはありません。しかし、です。その、キリストのうちにいる自分というのを信仰をもって見つけていかなければいけません。新約においては、神がキリストにあってなされたことを信じることによって、祝福されます。何かを行なったから祝福されるのではなく、神が祝福されたことを信じることによって祝福されるのです。ですから、イエスさまが言われた、「わたしのうちにとどまりなさい」という命令は、すでにキリストのうちにいる私たちが、その霊的真理を受け入れ続けるということであります。そこに祝福の鍵があります。

 あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに与えようとしておられる地にはいって、それを所有しようとしている。あなたがたがそこを所有し、そこに住みつくとき、私がきょう、あなたがたの前に与えるすべてのおきてと定めを守り行なわなければならない。

 これで、5章から続く、一般的な事柄についての主の命令についての区切りが来ました。12章からは、これら原則に基づいた具体的な細部についての事柄について話します。


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