出エジプト記164節 「天からのマナ」

アウトライン

1A 主の教えへの従順
   1B 日々の糧
   2B 朝ごとの慈しみ
2A 食べる御言葉
   1B 誘惑への抵抗
   2B 主を味わう
3A 命のパン
   1B 主イエスへの信仰
   2B 無くならないパン

本文

 出エジプト記16章を開いてください、私たちはこの前の日曜日に、イスラエルの荒野の旅の始まりを読みました。164節をご覧ください。

主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。

 イスラエルの民は、豊かなエジプトの地から出て、砂漠の中の生活を始めました。当然ながら、水や食糧について事欠きました。水のあるところにたどり着いたと思いきや、水質の非常に悪いもので、「苦い(マラ)」と言ってモーセにつぶやきました。そして今、エジプトから携えてきた食べ物がなくなりました。

 それで、こうつぶやいたのです。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。(3節)」このつぶやきに対して、主がモーセに語られたのが4節の言葉です。

1A 主の教えへの従順
1B 日々の糧
 この食べ物は非常に興味深いです。朝早く、露のように降りてきます。白い霜のような細かいもので、食べると少し甘いものです。ところが日が昇ると、溶けてなくなってしまいます。ですから保管することができません。

 そして読み進めると、ある家庭は自分たちの分量より多く集め、ある家庭は少なく集めたのにも関わらず、それぞれの分量になっていました。さらに六日目の安息日には、二日分の量を取り集めることができます。七日目には集めなくて良くするためです。ところが翌日になっても、日が昇ったら溶けるはずのこの食べ物は溶けずに済むのです。

 そこで神は、「彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。」と言われます。次の日の食べ物がないので民は不安になりますが、けれども、主が必ず一日分与えると言われるのですから、それを信じることによって、日々食べていくことができます。そして、反対に第六日目、すなわち金曜日の朝は二日分が与えられているのですから、欲を出して土曜日の朝も取りに行くことのないよう、主から戒めが与えられています。主が語られている霊的な事柄、目に見えない事柄と、日常の目に見える必要とを区別していないのです。

 私は最近、少しずつツイッターを使い始めています。あの一言のつぶやきにどのような意義があるのかまだ分からないでいるのですが、数多くの人が情報発信のために用いているので使い試しています。けれども、身近な人でツイッターの達人とも言える方が、カルバリーチャペル西東京の牧師で、山東克己さんです。彼が、「原発のことも、東北の被災地のことも、すべてが罪からの救いが問題であり、キリストを知るという単純なことが解決なのだ」と書き込んだところ、ある人からものすごい反発が来ました。彼曰く、「放射能という身近な問題を、キリストの霊的救いで語られるとバカバカしくなってくる」というのです。

 それに対する言葉として、山東さんは次のように書き記しています。「本当に聖書のことを知りたければ、まず聖書の言う通り『天と地を造った神が実際におる』という所からスタートすることが不可欠です。でも、神が今直面してる経済問題、放射能汚染、大学受験に何かしてくれんですか? ま、こころの持ちようというのも大きいでしょうがって・・・。違うんです。聖書のいう神は実際の私達の生活にもろ関わり、介入してくれるのを知らない、体験したことのない人の話で聖書を聞くから、目が閉ざされてるんですよ。」

 「キリストによる救い」と聞くと、私たちは抽象的なもの、非日常的なものに聞こえます。それを自分の頭の教養や知識、主張や意見の中に閉じ込めてしまいます。けれども、主ご自身がそのようにさせません。主なる神は、今、話したように牛肉にセシウムが含まれている云々の問題にも、また大きな地震が起こるかもしれないという問題にしても、そして、自分が経験した、また経験している具体的な問題に対して、もろ介入しておられるのです。キリストの救いとこれらの物質的な、具体的な事柄は直結しているのであり、それを示すために神はマナという食べ物をイスラエルの民に与えられました。

 イエス様は、宇宙よりも大きい神ご自身への祈りを、日々の生活にまで引き落として祈るように言われました。「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。』(マタイ6:9-11」いかがでしょうか、「天におられる」父なる神の名をあがめるよう、また「天」でなされている神の意志が、地上でもなされるように、という、まさに宇宙論的な祈りを捧げるように命じられています。

 けれども、次に祈るのは「日々の糧」なのです。現代日本で言い換えれば、「毎日の出勤」です。ものすごい人間臭い世界の中で主が必要を満たしてくださるように祈りなさいと命じられています。けれども、その中で宇宙よりも高い所におられる神が直接、介入してくださるようにという祈りを捧げた後に、会社で溜まっている仕事をこなしていくことができるよう祈りなさい、と命じておられるのです。

 さらに主は、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(同12節)」と祈りなさいと命じておられます。日々の食べ物だけでなく、日々出会う人間たちと和合できるための祈りです。私たちは教会生活に時間が経つにつれて、クリスチャンらしく振る舞うのに上手になってきます。これまでなれなかった教会用語やクリスチャン用語も使いこなすことができるようになり、楽になります。

 ところが、一般の言葉、日本語の表現が使えなくなります。正直な思いや気持ちを言えなくなります。それをキリスト教用語で言い回すことによって、自分の思いを隠すという偽りも犯してしまいます。ただ単純に、その人のことが憎いのに、クリスチャンらしく愛することができないと苦しみ、悩みます。自分が憎んでいると言う事実を見ていません。

 私たちは、「クリスチャン」や「教会」というものを高い所に、貴人のようにしたがります。けれども、神は決して、霊的な真理を物質的な、目の前にある問題を区別なさいません。その問題に直接、ぶち当たるように仕向けてこられます。

2B 朝ごとの慈しみ
 神からの食べ物マナは、朝早く、霜のように降りてきます。新しい一日の始まりの時に、約束の地に入る前での直前まで、一日も事欠くことなく、必ずマナが降りてきていました。これを「真実」と言いますね。約束したことを忠実に実行し、心を尽くすということです。

 エレミヤという預言者がかつていました。ユダの国がバビロンによって滅ぼされることを預言し、また滅ぼされた後も預言しつづけた預言者です。彼は、廃墟となったエルサレムを見ながら嘆き悲しみ、「哀歌」という書物を書き記しました。神の怒りによって、すべてが取り去られてしまっていると嘆いた後に、彼は貴重な発見をしています。哀歌322節から24節です。

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

 この嘆いている自分が今も生きていることに、彼は気づきました。失われたものが数知れず、悲しみもそれだけ多かったのですが、このように悲しむことができている命が与えられていることに気づきました。それを彼は、「主の恵みによる」と言っています。私たちはとかく当たり前にして受け取っているのですが、そこに神が介在しておられることに気づけば、私たちの物の見方を180度転換させることができます。

 自分が生きているということが、あらゆるものが取り除かれた後に奇蹟だということが分かったのです。これは当たり前のことではなく、主がお考えになれば、一瞬にして自分を滅ぼされてもおかしくないことに気づいたのです。ですからエレミヤは、「主の憐れみは尽きない」という事実に気づきました。

 皆さんは、自分の命そのものが神によって支えられていることを実感しているでしょうか?今、神がお考えになれば、心臓の鼓動をとめ、脳に血液が循環するのを止めることがおできになります。「そんなひどいことを言わないでください。神が恐い存在になります!」と思われる方がおられるかもしれません。けれども、これは事実なのです。一瞬にして、今この場で私たちを殺すことも可能なのです。聖書には、裁きが宣言されてその日のうちに死んだ人が数多く出てきます。それにも関わらず、主は私たちを生かしておられます。それは、命の根本を主が支えておられるからです。

 だから、朝目覚めて、自分が生きていることをエレミヤは感謝して、「それは朝ごとに新しい」と言いました。私たちを誕生させてから、神は生命に対して介在されるのをやめて、体の自然の機能で動かしておられるのではなく、積極的に、新しく、私たちの生活、そして呼吸に至るまで介在しておられるのです。

2A 食べる御言葉
1B 誘惑への抵抗
 ところでモーセはマナのことを、自分が死ぬ直前に、申命記において次のように語りました。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。(申命記8:3

 この「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」という言葉をイエス様は、悪魔から誘惑を受けられた時に使われました。40日間、飲まず食わずで、その後にイエス様は空腹を覚えられました。断食というのは不思議なもので、ある日数を経ると空腹を感じなくなります。ところが、次に空腹を感じた時に食べないと文字通り死にします。その時に悪魔は、「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。(マタイ4:3」と誘いました。空腹を覚えておられるイエス様には、そして全能の神であられるイエス様には、どれだけこれが魅力的な言葉であったろうか知れません。けれどもイエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。(同4節)」とお答えになったのです。

 私たちは、神の御言葉に対してこのような信頼を寄せているでしょうか?パンを食べなければ自分が死んでしまうから貪り食うように、私たちは主の言葉によって自分の命そのものが支えられているという切迫感を抱いておられるでしょうか?主の御言葉は、頭で把握し、理解する対象以上に、信じて、受け入れ、寄りすがり、実に「食べる」という行為がもっともふさわしい、自分の血肉となっていく言葉です。

2B 主を味わう
 他の聖書箇所にも、数多く御言葉を食することについて述べています。「それら(主のさばき)は、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。(詩篇19:10」「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。(1ペテロ2:2」このように、液体をなめたり、または飲んだりするだけではなく、よく噛んで咀嚼する対象としても描いています。「まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。(ヘブル5:13-14

 私たちは、このように食べることのできる言葉に飢え渇いています。私がよく使う例えは、飛行機の中における離陸時の緊急避難の案内放送ですが、その案内を聞いている人はほとんどいません。けれども乱気流に入り、飛行機が激しく揺れ動いている時に乗務員が発する指示は、その一言一言を自分の命をつなぐ命綱のようにして聞き取ります。

 なぜこんなにも大きく、日本国民が政府への失望を強くしたのかは、放射能汚染に関して、正確な情報を伝えていなかったという不信があるからです。放射能や放射線という、あまりにも自分や自分の子供の体に影響を与える身近な問題に対して、官邸から発表される政府の言葉に一言一言頼らざるをえない、いや、頼りたかったからそれだけ失望が大きいからです。そして、原子力に関する世界中の専門家でさえ、算出してくる安全基準の数値があまりにも多様です。

 けれども、私たちは自分の体を守る正確な情報、その言葉に飢え渇いているのですから、それと同じぐらい、いやそれ以上に、御言葉に飢え渇いているでしょうか?たとえ放射能の正確な情報を得たとしても、その体はせいぜい長くても九十歳、ある人は百歳までしか続きません。けれども、神の御言葉は百歳どころか、千歳、万歳、億歳、兆歳、いや永遠の歳月を与えるものなのです。

 そして御言葉のみならず、主ご自身を味わうように詩篇の著者は勧めています。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。(詩篇34:8」英語ですと、"Taste and see that the Lord is good."であり、主が善い方であることを味わってみなさい、となっています。食べ物の味は論じてもどうしても伝えることはできません。食べるしかありません。同じように、主のすばらしさ、慈しみはただ私たちが体をもって知っていくしかないのです。

3A 命のパン
 それでイエス様は、「天からのパンはわたしである」と言って、ユダヤ人に教えられました。

1B 主イエスへの信仰
 ヨハネによる福音書6章に、五千人の男に対して、パン五つと魚二匹のみで満腹させました。それで彼らは無理やりイエス様を自分たちの王として担ぎ上げようとしましたが、イエス様は山に退かれました。

 そして弟子たちがガリラヤ湖の舟で、嵐の中で翻弄されていた時にその水の上を歩かれましたが、その後にイエス様を担ぎ上げようとしていた群衆がイエス様を見つけて、追いかけてきました。けれどもイエス様は、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。(26節)」と言われました。そして「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい(27節)」と言われました。今、放射能のことについて話しましたが、彼らユダヤ人も、自分たちの肉体の命の必要が満たされること第一としていたのです。けれどもイエス様は、霊の命、永遠の命を第一としなさいと言われています。

 そして群衆は、「私たちは、どうすれば神のわざをすることができるのですか?」と聞いたところ、「あなたがたが、神が遣わされた者を信じること、それが神のわざです。(29節)」と答えられました。この対比が大切です。群衆は、自分が神に対して行いをしなければいけないと思っていたのに対して、イエス様は、「わたしを信じなさい。」と言われています。

 私たち人間は不思議なことに、数多くのきまりや規則を与えられ、束縛された方が楽に生きることができます。「あなたは救われるために、一年間、教会に通いなさい。出席カードを作るから、そこに○が50以上付いたら、あなたは教会の一員になり、天国に行くことも保証されます。」と言うとします。その教会と、「教会に通うことによって救われません。聖書を読むことによっても、祈ることによっても、何によっても救われません。ただ、あなたの罪のために天から下ってこられた方、イエス・キリストを心に受け入れなさい。」という教会があります。不思議なことに、前者の「一年間、教会に通いなさい。」という教会のほうが、後者の「ただイエス・キリストを受け入れなさい。」という教会よりも、間違いなく繁盛します。人間はそれだけ、自分の行いに縛られるほうが楽なのです。

 けれども、私たちが教会に来ている目的は、ただ一つ、イエス・キリストという方を信じることだけです。この方を知り、この方に親しみ、この方に御霊によって触れられて、自分の心を変えていただくことだけです。イエス様は父なる神に祈られた時、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。(ヨハネ17:3」と言われました。そして、使徒ヨハネは第一の手紙の冒頭で、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、(1ヨハネ1:1」と言いました。イエス・キリストを信じることは、この方を知ることであり、この方を知ることは、この方から聞き、この方を信仰の目で見、じっと見て、そしてこの方に信仰の手によって触れることです。

 ですから、自分の生活を変えなければいけません。自分の心の王座をイエス・キリストに明け渡さないといけないのです。これまでは何から何まで自分で生きてきました。けれども、これからはこの方が自分の心の中心で生きます。私たちが必要なことは、この方が生きて働かれるのを歓迎することです。

2B 無くならないパン
 けれども、群衆はそこまでイエスを信頼していませんでした。神から遣わされた方として信じるに値する徴は何かと問いただしています。そして、私たちが読んだ出エジプト記16章のマナの話を持ち出したのです。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。(30-31節)」少し前に、イエス様は五千人の男に食事を与えたところです。それでも彼らは、徴を求めていました。

 それに対してイエス様は、こう言われました。「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来たパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。(ヨハネ6:49-51b

 お分かりですか、荒野でイスラエルの民が、マナによって知らなければいけなかったのは、マナそのものよりも主の真実です。神ご自身の命令であり、その中にある霊的現実です。それによって御霊によって神ご自身に出会うことです。その実体がイエス・キリストであります。この方が命のパンです。

 この方から永遠の命をいただくのではありません。この方こそが永遠の命なのです。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(ヨハネ5:12」私たちは何かを行うことではなく、また自分の肉体を生かすためだけに思いを集中させるのではなく、ちょうどマナを朝毎に拾っていったイスラエルの民のように、主ご自身を探し、主ご自身を求め、そして主ご自身に出会い、主の御霊に突き動かされて物事を行うのです。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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