出エジプト記18章 「神の知恵」


アウトライン

1A ヤハウェへの礼拝 1−12
2A 責任分担 13−27

本文

 出エジプト記18章を開いてください。ここでのテーマは「神の知恵」です。イスラエルがエジプトから出て、神の山、シナイ山に近づきます。

1A ヤハウェへの礼拝 1−12
 さて、モーセのしゅうと、ミデヤンの祭司イテロは、神がモーセと御民イスラエルのためになさったすべてのこと、すなわち、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたかを聞いた。

 今、イスラエルの民は岩から水が出て、アマレク人と戦ったレフィディムからさらに南に進んでいます。そしてモーセが40歳から80歳まで過ごした、ミデヤンの地に入ってきました。モーセはだいたい一年前まで、ここにいたのです。燃える柴を見たのはホレブの山にてでしたが、そこで主から語られて、イスラエルを救うように命じられて、それでエジプトに行きました。これまで数多くの主の力強いみわざと、不思議なわざを見てきましたが、これらはだいたい一年ぐらいの出来事でした。

 モーセがミデヤンの地にいたとき、彼は祭司イテロのところにいました。覚えていますか、彼が七人の羊飼いの娘を助けて、その娘たちの父がイテロでした。そこでモーセはイテロのところでお世話になり、娘のひとりチッポラを嫁として与えられ、ふたりの息子を生んでいたのです。そのイテロが、神が義理の息子モーセと神の民イスラエルのためになさったすべてのこと、どのようにして主がイスラエルをエジプトから連れ出されたのかを聞いたのです。

 それでモーセのしゅうとイテロは、先に送り返されていたモーセの妻チッポラとそのふたりの息子を連れて行った。

 チッポラと二人の息子は、モーセとともにエジプトに途中までエジプトに行こうとしていました。けれども、途中でモーセが寝ているときに、主が彼を殺そうとされました。ふたりの息子が無割礼だったからです。そこでチッポラは息子の包皮を切り、それを夫の両足につけて、「ほんとうに、あなたは血の花婿です」と言いました。それで、主はモーセから御手をはなされましたが、チッポラやモーセにとって、この旅が妻子がともにいてはあまりにも危険すぎると思われたのでしょうか、その時にチッポラと息子二人はイテロのもとに帰ったようです。そこでイテロはこの三人を連れて来ました。

 そのひとりの名はゲルショムであった。それは「私は外国にいる寄留者だ。」という意味である。もうひとりの名はエリエゼル。それは「私の父の神は私の助けであり、パロの剣から私を救われた。」という意味である。

 モーセの長男の名前については、すでに2章にて紹介されていましたが、次男の名前は初登場です。エリエゼル、神は助け、という名をつけていたようです。彼がミデヤンの地に免れたとき、ここはただの異邦人の地だ、という落胆した思いしかなかったところから、私はパロの剣から神によって助けられた、という信仰を持つことができた、その霊的成長を見ることができます。

 モーセのしゅうとイテロは、モーセの息子と妻といっしょに、荒野のモーセのところに行った。彼はそこの神の山に宿営していた。

 神の山とは、ホレブの山、シナイ山のことです。彼らは遊牧民ですから、いろいろなところに移動しており、その時はシナイ山のところに宿営していました。

 イテロはモーセに伝えた。「あなたのしゅうとである私イテロは、あなたの妻とそのふたりの息子といっしょに、あなたのところに来ています。」モーセは、しゅうとを迎えに出て行き、身をかがめ、彼に口づけした。彼らは互いに安否を問い、天幕にはいった。

 モーセは、さぞかし、うれしかったことでしょう。一年程ぶりに、自分の妻と息子たち、そして舅に会うことができました。礼をして、口づけをし、彼らと語り合うときを持ちました。

 モーセはしゅうとに、主がイスラエルのために、パロとエジプトとになさったすべてのこと、途中で彼らに降りかかったすべての困難、また主が彼らを救い出された次第を語った。

 モーセは、私たちがこれまで読んできた、エジプトに対する神のさばきを全部いてイテロに分かち合いました。パロがイスラエルを出て行かせようとしないこと、それで主がナイル川を血に変えられたこと、かえる、ぶよ、あぶ、家畜の疫病、うみ、いなご、雹、暗やみ、そして初子の死です。そして最後に、海の中でパロとエジプトが溺れ死んだことを話しました。

 イテロは、主がイスラエルのためにしてくださったすべての良いこと、エジプトの手から救い出してくださったことを喜んだ。イテロは言った。「主はほむべきかな。主はあなたがたをエジプトの手と、パロの手から救い出し、この民をエジプトの支配から救い出されました。今こそ私は主があらゆる神々にまさって偉大であることを知りました。実に彼らがこの民に対して不遜であったということにおいても。」

 イテロはもちろんイスラエル人ではありません、異邦人です。祭司でありますから、異なる神々を拝んでいたような人であったかと思います。けれども彼はかつて、モーセからヤハウェという、イスラエルの神について聞きました。イテロにとっては、それは自分が知っている数多くの神々の一つとして数えられたのかもしれません。イテロは、まことの神を、モーセを通して求め始めていたようです。そして今、主がイスラエルのために、エジプトに行ってくださったことを聞き、ヤハウェが他の神々にまさる、生ける、まことの神であることを認めました。エジプトは強大な国でした。彼らは、エジプトのあらゆるものを神々として誇っていましたが、それがヤハウェの前でことごとく滅んでしまったのです。

 このように、異教徒への証しが徐々に行なわれ、最後にヤハウェが神であるという認識に至る場合が、聖書の中にはいくつもあります。例えば、バビロンの王ネブカデネザルは、バビロンのベルを拝んでいました。けれども、ダニエルが彼の夢を言い当てて、その解き明かしをしたこと、またダニエルの友人三人が燃える火の炉の中に投げ入れられても、無傷だったこと。そして自分自身が獣のようになって、それから回復したことを通して、ヤハウェのみが神々の神、王の王、主の主であると告白するに至りました。

 私たちは西欧とは違い、エジプトやバビロンのように多神教の信仰を持つ人々の中に住んでいます。福音を伝えても、すぐには信じてもらえないかもしれません。けれどもやがて、聖霊がイエスの御名が、他の神々にまさる名をお持ちであることを、少しずつその人に教えてくださります。根気よく証しすることが大切です。

 モーセのしゅうとイテロは、全焼のいけにえと神へのいけにえを持って来たので、アロンは、モーセのしゅうととともに神の前で食事をするために、イスラエルのすべての長老たちといっしょにやって来た。

 これは、礼拝でもあります。神の前で食事をするとは、ちょうど教会で、礼拝の後に昼食を取るようなものであり、単なる食事ではなく、神の前で感謝しながら交わりを持つ意味があります。

2A 責任分担 13−27
 翌日、モーセは民をさばくためにさばきの座に着いた。民は朝から夕方まで、モーセのところに立っていた。

 このさばきの座とは、人々の間で起こっていることを、どのように解決したらよいか、モーセが意見を述べます。今で言うなら、牧師に信徒が相談しにいって、そのアドバイスを聞くようなものです。

 モーセのしゅうとは、モーセが民のためにしているすべてのことを見て、こう言った。「あなたが民にしているこのことは、いったい何ですか。なぜあなたひとりだけがさばきの座に着き、民はみな朝から夕方まであなたのところに立っているのですか。」

 イテロは、モーセがさばきを一人だけでしているのを驚きました。

 モーセはしゅうとに答えた。「民は、神のみこころを求めて、私のところに来るのです。彼らに何か事件があると、私のところに来ます。私は双方の間をさばいて、神のおきてとおしえを知らせるのです。」するとモーセのしゅうとは言った。「あなたのしていることは良くありません。あなたも、あなたといっしょにいるこの民も、きっと疲れ果ててしまいます。このことはあなたには重すぎますから、あなたはひとりでそれをすることはできません。」

 そうですね、そのとおりです。モーセだけで行なっていたら、モーセは燃え尽きてしまいます。また、長い列をつくって待っているイスラエル人たちも、早く解決しなければいけない問題がなかなか解決されません。双方にとって良くない、とイテロは言っています。

 
さあ、私の言うことを聞いてください。私はあなたに助言をしましょう。どうか神があなたとともにおられるように。あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民の上に立てなければなりません。いつもは彼らが民をさばくのです。大きい事件はすべてあなたのところに持って来、小さい事件はみな、彼らがさばかなければなりません。あなたの重荷を軽くしなさい。彼らはあなたとともに重荷をになうのです。もしあなたがこのことを行なえば、・・神があなたに命じられるのですが、・・あなたはもちこたえることができ、この民もみな、平安のうちに自分のところに帰ることができましょう。

 イテロが助言しました。それは責任分担です。モーセの他に、事件をさばくことができる人々を選んで、その人たちにも重荷を担ってもらう、という方法です。これは、教会においても同じことが言えるでしょう。教会のことすべてを牧師一人が行なえば、牧師が疲れ果ててしまいます。けれども、他の働き人に責任を分担していく、いや、すべての信者が新約聖書の中では神に対する祭司ですから、働き人です。神の恵みによって信仰によって与えられた賜物を用いあっていく必要があります。

 その責任分担において、イテロが大切なことを何点か話しています。一つは、「あなたは民に代わって神の前にいて、事件を神のところに持って行きなさい。あなたは彼らにおきてとおしえとを与えて、彼らの歩むべき道と、なすべきわざを彼らに知らせなさい。」と言ったところです。責任を分担するとき、教会でそれぞれが奉仕するときに何をもってしても一番大事なことは、牧師が神の前に行き、そしてみことばをいただき、聖徒ひとりひとりがみことばによって養われ、整えられることです。

 しばしば、教会政治についてクリスチャンの間で語られます。牧師のみに教会の事柄についての決定権があるのは、監督制です。長老制というのもあり、それは何人かの任命を受けた長老たちが決定権を持つ、というものです。そして会衆が決定権を持つのが会衆制ですが、どの教会政治が良いのかについて議論されます。私はそこで、「その前に、一人一人が、神の御霊に支配された、キリストに支配された成熟した人でなければ、どんな形態をとっても、キリストがかしらとなった教会とはなりませんよ。」という感想を持ちます。私たちがしたいことではなく、キリストが願われていることをただ遂行するのが教会の役割ですから、信者ひとりひとりが、みことばと祈りによるキリストにある成熟を求めていかなければいけないのです。

 そしてイテロは、「あなたはまた、民全体の中から、神を恐れる、力のある人々、不正の利を憎む誠実な人々を見つけ出し」と、選ばれる人々の資格を述べています。ここでの資格は、この世での基準とまったく異なるものです。一つだけ、「力のある人」とある部分が、もしかしたら重なるでしょうか、能力のある人が選ばれます。けれども神の家においては、能力よりも、もっともっと大事な資質があります。その一番目が、「神を恐れている」人です。箴言に、神を恐れることについてたくさん書いてありますが、「主を恐れることは知恵の初め(9:10)」とあります。主に対する畏怖の思いが主を恐れることですが、他の箇所には「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。(8:13)」主を恐れて、悪から遠ざかっている人です。どんなに能力があり知識があっても、主を恐れていなければ、その人は神の前では無能です。

 そして、力のある人、それから「不正の利を憎む」人です。今話したように、主を恐れる人は、その結果として不正の利を憎みますが、特に多くの責任を任された人は金銭に対して無欲でなければいけません。そのような人としてネヘミヤを思い出します。エルサレムの城壁を再建した人ですが、彼はこう言いました。「私の前任の総督たちは民の負担を重くし、民から、パンとぶどう酒のために取り立て、そのうえ、銀四十シェケルを取った。しかも、彼らに仕える若い者たちは民にいばりちらした。しかし、私は神を恐れて、そのようなことはしなかった。(ネヘミヤ記5:15」このように、能力以上に、神を恐れるところから出る資質が、教会での責任ある働きにおいて問われています。

 モーセはしゅうとの言うことを聞き入れ、すべて言われたとおりにした。

 モーセの特徴の一つは、謙遜です。彼は民数記12章において、「地上のだれにもまさって非常に謙遜であった(3節)」と言われています。今、しゅうとの助言を退けることは、2〜300万人のイスラエル人を率いる指導者であれば、いとも簡単です。けれども、モーセはその立場に自分をおきませんでした。あくまでも、主のしもべでありつづけました。

 モーセは、イスラエル全体の中から力のある人々を選び、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長として、民のかしらに任じた。いつもは彼らが民をさばき、むずかしい事件はモーセのところに持って来たが、小さい事件は、みな彼ら自身でさばいた。

 大きい事件だけモーセに持っていくというのは賢いです。私たちも教会において、神のみことばの訓練を受けていればいる人ほど、難しい問題へのカウンセリングや助言を行なうことができます。その他の簡単なことは、お互いに励まし、祈りあって、助け合うことができます。

 それから、モーセはしゅうとを見送った。彼は自分の国へ帰って行った。

 この時からチッポラと二人の息子はイスラエル人の旅に加わることになります。イテロだけが帰ります。次回は、実際に神の山、シナイ山にイスラエル人が近づくところを見ていきます。


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