出エジプト記195-6節 「わたしの宝の民」

アウトライン

1A 神の契約
   1B 「わたしの宝」
      1C アブラハムへの約束
      2C 教会への約束
   2B 「祭司の王国、聖なる国民」
      1C 親しい交わり
      2C 諸国への証し
   3B 条件 「聞き従い、守る」
2A 周囲の境
   1B 濃い雲にある臨在
   2B 十戒
      1C 聖と義
      2C 霊的
      3C 罪定め
3A 恵みとまこと
   1B 境の除去
      1C 幕屋と神殿
      2C 垂れ幕
   2B 新しい契約
      1C 新しい心
      2C 霊的な石
      3C イエスを信じるという業

本文

 出エジプト記19章を開いてください、今晩は195-6節に注目したいと思います。

今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト記19:5-6

 この宣言は、神様にとっては「プロポーズ」です。イスラエルの民をご自分のものとするために、彼らをご自分のところに引き寄せようとされている宣言です。ご自分とイスラエルの民を一つにしようとする契約です。「わたしの宝とする」また「祭司の王国、聖なる国民となる」と言われています。

1A 神の契約
1B 「わたしの宝」
1C アブラハムへの約束
 主はこの契約についての約束を、アブラハムの時に与えておられました。「わたしはあなたを大いなる国民とし・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:1,3」これははるか五百年程前に神が約束されました。バベルの塔によって、一つの民がいろいろな民族と言語にばらばらになりました。けれども主は、ご自分の呼びかけに答えて、ご自分の声に聞き従う民を新たにお造りになることを計画しておられました。

 それでアブラハムの後にイサクが生まれ、イサクの後にヤコブが生まれ、そしてヤコブから十二人の息子が生まれました。そしてそれぞれから子孫が出てきて十二部族となり、エジプトで奴隷状態であったところを主は彼らを贖い出し、今、このシナイ山においてご自分のものとすべく契約を結ばれているのです。

 実にその神の愛情を、「あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。」と言われています!自分たちだけが愛情を受けている特別な存在なのです。「神様は、全ての人を愛されているのではないですか?」と聞かれるかもしれませんが、その通りです。けれども、私は自分の妻に対して、「世界の女性も愛しているけれども、あなたも愛しているよ。」と言うでしょうか?親が子に対して、「すべての子供が大事だけれども、お前はその一人だ。」と言うでしょうか?確かに神はすべての人を愛されていますが、ご自分が選ばれた者を特別に、こよなく愛されています。

 その神の愛の思いを、申命記でモーセがこのように説明しています。「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。(申命7:7-8」いかがですか、恋い慕っていると主は言われます。

2C 教会への約束
 そして、「わたしの宝」であるという思いは、今の時代、教会に対して神は抱いておられます。使徒パウロは、エペソにある教会に対してこう言いました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、・・・あなたがたが知ることができますように。(2:18-19

 神は、キリストに会って私たちを「宝」だと思っておられることに目を留めてください。決して劣等感を抱かないでください。決して他者の意見を聞かないでください。主の目には、あなたはこれほど高価で尊いのです。他の人がどんなに自分は不必要だと思っても、ご自分の御子をさえ惜しまずに与えられたのですから、とてつもなく貴いのです。

2B 「祭司の王国、聖なる国民」
1C 親しい交わり
 そして主は、「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」と言われました。「聖なる国民」というのは、「他の国々から別たれて、主なる神だけのものになった、神の所有の民」ということです。そして「祭司の王国」というのは、主と一つになった人々が、共にこの地上を治めて、そしてまた、地上にいる人々に神ご自身を証しする、ということです。

 つまり簡単に言えば、「この天と地を造られた神と交わりを持ち、一つになった民」ということです。この偉大さ、このすばらしさを考えてください!天地創造の神が親しく、私たちに関わってくださるのです。しばしば、助けるために降りてきてくださるのではなく、いつも、途絶えることなく、親しく交わってくださる、実に一つになるように親密になってくださることを意味します。ですから主が、アダムと持っておられた交わりがあります。主がアダムに、「地を支配せよ」と言われて、アダムと一つになって交わっておられた、あの交わりを取り戻します、とおっしゃっているのです。

2C 諸国への証し
 そしてご自分と一つになった民を通して、他の国々に対してもご自分を示されるように考えられました。「祭司」というのは仲介者ですね。他の民族に対して、神に至る道を示し、導くために奉仕します。祭司によって、人々が神ご自身に近づくことができるようになります。

 ですから、神はイスラエルに対して、ただご自分の国民になるだけでなく、アブラハムに約束されたように、他のすべての民族がイスラエルによって祝福を受けるように、彼らを祝福の流れの管にするようにされたのです。主はイスラエルに対して、「あなたがたはわたしの証人。(イザヤ43:12」と言われました。

3B 条件 「聞き従い、守る」
 ただし、そのように一つになるためには、その意志や心において神と一致していなければいけません。交わりを持つのに、別々の思いや計画を持っていてはできません。神が聖であられるように、イスラエルも聖でなければなりません。神が義であられるように、イスラエルも義でなければいけません。神が慈しみ深いように、イスラエルも憐れみがなければなりません。

 したがって神は、この契約を結ばれるにあたって、「まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら」という条件を付けられたのです。これが、シナイ山における契約の特徴です。イスラエルの従順が、神がイスラエルを祝福する条件であったのです。

2A 周囲の境
 イスラエルはこの神の約束を聞いたときは、「わたしの宝となる」「祭司たちの王国、聖なる国民となる」という言葉を聞いた時に、これはすごいと思いました。こんなすばらしい約束があるのならば、「わたしの声に聞き従い、契約を守りなさい」という条件は充分に報われる努力だと思ったのです。それで8節を見ると、「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」と応えました。

1B 濃い雲にある臨在
 けれども、主がイスラエルと契約を結ばれるために、イスラエルに近づくために天から降りてこられました。私たちの神は、天の御座に着いておられます。そこから降りて来られた時に現われた現象は、「濃い雲」だったのです。9節に、「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。」と言われました。その光景は恐ろしくて、身震いするものでした。

 16節をご覧ください。「三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。18節にはこうあります。「シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山が激しく震えた。」彼らは神が語られる声を聞いた時、死ぬのではないかと思った程でした(19節)。

 なぜでしょうか?それは、神は聖なる方だからです。神は被造物から隔絶されたところにおられる方であり、アダムが罪を犯して以来、人は罪の性質を宿した者となり、地は呪われてしまいました。したがって、天におられる神が私たちに近づこうものなら、ちょうど私たちが高圧の電流が流れている所に触れたら、たちまち燃え焦げてしまうように、私たちはたちまち焼き尽くされてしまうからです。

 したがって主は、モーセに対して「周囲に境を設けなさい」と命じておられます。12節をご覧ください、「あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、だれでも必ず殺されなければならない。(出エジプト19:12」神と私たちの間には境があるのです。

 私たちは「神」という言葉を聞くときに、たやすく自分の合わせた神観において話します。自分の生活様式に合わせた神になってしまいます。そしてクリスチャンであっても、罪を持ったままで、教会で礼拝が捧げられる、またクリスチャン生活を送ることができると思う時があります。けれども、神は聖い方なのです。初代教会においては、偽善の罪を犯したアナニヤとサッピラがたちまちその場で倒れて死んでしまいました(使徒5:1-11)。

2B 十戒
 そして主は、ご自分の聖と義を表すために、十の戒めを与えられました。「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。」「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」「あなたの父と母を敬え。殺してはならない。」「姦淫してはならない。」「盗んではならない。」「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」(出エジプト記20:3-17

1C 聖と義
 これらの言葉を聞くことによって、私たちの具体的な生活の中で、聖なる神の姿に触れることができます。私たち日本人は、「罪」というものがなかなか分かりません。それは、自分の中で考えている罪、感じている罪というのが、その基準がないからです。「罪?そんなこと急に言われたって、よくわかんないよ。」という反応です。

 けれども、御言葉は「鏡」のようであると書いてあります(ヤコブ1:23)。今まで、自分で自分を判断しようとしていたところが、聖書の言葉に触れるにしたがって私たちは心の内にある罪があぶりだされてくるのです。それは聖書を読んだから生じたのではなく、元々あったのですが、気づかなかっただけです。パウロは、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。(ローマ7:12」と言いました。

2C 霊的
 ところが人間はそれでも、自分は、罪はないものとみなしてしまいます。律法を見ても、「それらは行うことができる。」と思っています。「これらの戒律を行なえば、幸せになれるのね。」と思います。そうです、守ることができさえすれば、主が先ほど約束してくださったように祝福されます。主は、幸いの道を律法の中に見せてくださっています。

 けれども問題なのは、「律法を守れない」ということなのです。自分で守ろうと思っても、かえって違反することを行なっているという事実です。パウロは、律法は聖なるもので、正しく、良いものと言いましたが、また「霊的なもの」であると言いました(ローマ7:14)。つまり、外側の行いにおいてだけでなく、むしろ外側の行いに至る内側の心の態度を扱っているのだ、ということです。

 イエス様は、「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。(マタイ5:20」と言われました。私たちには考えられないぐらい、細部に至るまで厳密に律法を守ろうとしていたのがパリサイ派の人たちです。その人たちより義がまさらなければいけない、というのは何なのでしょうか?

 「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21-22」殺人という行為ではなく、「その人が消え去ってほしい」と願うような憎しみや恨みがあるのであれば、神の最終的な審判に立たなければならず、その判決を受けた後に、燃える火の池に投げ込まれる、ということです。

 「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:27-30」ここも同じです、姦淫という行為を行っていなくても、思いの中で情欲を抱いているのであればすでに姦淫の罪を犯したことになります。それによって地獄に行くぐらいなら、目を抉り出してしまいなさい、手を切り取ってしまいなさい、という命令です。

 これが律法の中身なのです。それだけ神は聖なる方であり、私たちは極度に罪深い者なのです。けれども、自分に都合の良いように解釈して自分は神の掟を守っていると思い込ませています。

3C 罪定め
 そして神の聖さは、罪を犯した者に対する死を要求します。「自分は、この戒めは守っていないけれども、あの戒めは守れています。」という問題ではありません。一つの戒めを守らなければ、それで死の刑罰が伴っているのです。「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。(ヤコブ2:10」どれだけ守ったかが問題ではないのです。一度でも過ちを犯していない、というのが生きられる条件なのです。

3A 恵みとまこと
 これが、主がイスラエルに与えられた条件でした。主はイスラエルの民が、ご自分に逆らっても、懲らしめを与えつつ、かつ憐れんでくださいました。アブラハムに約束したように、彼らが決して滅びることのないように守ってくださいました。けれども、彼らはずっと戒めを破りつづけて、ついに、神が聖絶されたカナン人よりもひどいことをイスラエル人が行い始めた時に、彼らを約束の地から引き抜いて、バビロンに捕え移るようにされたのです。

 けれども主はイスラエルをあきらめませんでした。この古い契約ではなく、新たに契約を立てると約束してくださったのです。「その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:32-33」石の板にある律法ではなく、心の板に律法を書き記す、つまり、心そのものを変えることによって、神の命令に聞き従うことができるようにしてくださる、というものです。

 それが、私たちの心にある罪を、キリストが流された血潮によって根こそぎ除き去るという働きであります。

1B 境の除去
1C 幕屋と神殿
 このことによって、人がキリストが流された血によって、聖なる神に近づくことのできるようにしてくださいました。かつて、律法の中では、そのまま民に近づくことのできない神は、それでも近くに臨在することを望まれて、「幕屋」を彼らに与えられました。聖所と至聖所があり、それが幕に覆われて、祭司のみが、犠牲のいけにえをささげた後に、その中に入ることができます。

 そして後に、ソロモンの時代に、定住したエルサレムにおいて神殿を建設しました。

2C 垂れ幕
 聖所の奥には至聖所があります。聖所と至聖所の間には垂れ幕があります。垂れ幕をくぐると、そこに主ご自身がおられる光が輝いています。しばしば「シェキナの栄光」と呼ばれます。大祭司が年に一度のみ、贖いの血を携えていくことによって、そこに入ることができます。主がイスラエルの間に来てくださいましたが、やはり聖なる神に近づくには数々の仕切りがあったのです。

 けれども、主イエス・キリストが十字架に付けられ、息を引き取られた時に大きな出来事が起こりました!「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27:50-51」「上から下まで」裂けました。つまり天から神ご自身が、キリストの流された血によって、仕切りの幕を切り裂いてくださったのです。

 したがって、私たちは今、聖なる神ご自身のところに大胆に近づくことができるのです。一瞬たりとも生き残ることのできない神の聖さに、キリストが流された血によって触れることができるようになったのです!なんと素晴らしい血でしょうか。この方の血にこそ、私たちは自分たちが祭司となり、また聖なる国民となる交わりを持つ源となっているのです。

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19-22

2B 新しい契約
1C 新しい心
 このことによって、私たちは新しい心が与えます。罪から清められた心が与えられます。それで聖なる神に近づくことができます。

2C 霊的な石
 そして事実、御霊によって私たちは聖なる国民、王なる祭司になることができるのです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2:9」そして事実、私たちはキリストにあって神の宝となることができます。

3C イエスを信じるという業
 そのためには何をしなければいけないか?群衆が、「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」と聞いた時、主イエスは答えられました。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。(ヨハネ6:29」イエス様を信じるのです。主の流された血を信じるのです。どうか、この方が流された血の注ぎかけを受けてください。そうすれば、宇宙と地球とすべての物をお造りになられた神に直接会うことができ、交わることができます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
HOME