出エジプト記24−25章 「主の栄光」
アウトライン
1A 主への礼拝 24
1B 仲介者 1−11
2B 山登り 12−18
2A 聖所 25
1B 材料 1−9
2B 祭具 10−40
1C 契約の箱 10−22
2C 供えのパンの机 23−30
3C 燭台 31−40
参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いかと思います。
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幕屋を通してキリストに出会う
本文
出エジプト記24章を開いてください。ここでのテーマは、「主の栄光」です。
私たちは出エジプト記から、救い、または贖いについて学んでいます。1章から18章までは、贖いの内容について見てきました。イスラエルがエジプトから救い出された姿は、私たちが罪から救われた姿を示しています。そして19章から、神の律法が与えられたところを見ました。律法には神の聖さや正しさが現われています。そして私たちもまた、御霊にあって神の聖さの中に歩むことを学びました。そして、今日から、栄光について学びます。イスラエルがエジプトから救い出されたのは、彼らが神を知るためです。神の栄光にあずかることです。具体的には、神の幕屋において神を礼拝することです。それでは、本文を読んでいきましょう。
1A 主への礼拝 24
1B 仲介者 1−11
24:1
主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。
24:2
モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」
24:3
そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」
これは、神はモーセに「定め」を与えられた後の出来事です。そしてこの契約にイスラエルの民が同意し、契約が結ばれようとしています。そのとき、人々は神のところに近づくことはできませんでした。近づくのは、契約の仲介者であるモーセだけであり、アロンとその息子、長老70人は、山の途中までしか上ることは許されませんでした。なぜなら、主は聖なる神であり、人が近づけば罪と汚れのためにたちまちにして殺されてしまうからです。律法には仲介者が必要でした(ガラテヤ3:19−20参照)。
24:4
それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。
主のことばが書き記された、聖書の中での初めての記述です。
24:4b
そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
祭壇を築きました。これから礼拝をささげます。そして、12の石の柱を立てています。これは、契約が結ばれることの証印になります。
24:5
それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。
24:6
モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。
24:7
そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」
24:8
そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」
血の注ぎをイスラエルの民は受けました。それで、彼らは神と契約を結ぶことができるようになりました。神と私たちの間にできる距離を狭めることができるのは、この血によってであります。律法によって私たちの罪が示されて、罪の報酬は死ですから、死ななければなりません。けれども、犠牲のいけにえがあって、その血が流されて、私たちは神に近づくことができるのです。イエスが過越の祭りの食事のときに、こう言われました。「
この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)
」使徒ヨハネは言いました。「
もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7)
」
24:9
それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。24:10
そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
24:11
神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。
彼らは、神を実際に仰ぎ見ました。テモテへの第一の手紙6章には、「
(神は、)人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。(16節)
」とありますから、おそらく、神の幻か、神の姿が反映されたものであろうと思われます。それでも、仰ぎ見たのですからすごいです。そして、御足の下はサファイヤを敷いたようなもので、透き通っていた青空のようであるとあります。天国の様子を少し垣間見ます。エゼキエル書1章に、似たように宝石の輝きを持っている主の姿があり、黙示録4章も同じく輝きを持っておられます。そして黙示録21章に描かれている新しいエルサレムは、都全体が、碧玉、サファイヤなど宝石で造られています。
2B 山登り 12−18
24:12
主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」
24:13
そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。
ヨシュアはモーセの従者でした。これは英語ですとミニスター、つまり、牧師や伝道師などの教役者と同じ単語です。牧師は人々に仕えてもらう存在ではなく、人々に仕える存在であります。ヨシュアは人に仕え、人を助けることを学んだので、後にイスラエルの民全体を指揮する指導者になりました。
24:14
彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」
モーセがいないので、日常の裁判については、アロンとフルに任せます。けれども、アロンは、きちんとさばきをすることができなかったことが、後の、金の子牛の事件を見ると分かります
24:15
モーセが山に登ると、雲が山をおおった。
24:16
主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。
24:17
主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。
主の栄光が、雲のかたちをとって現われました。モーセが神に近づいたので、神がモーセに近づいてくださいました。そして雲ですが、おぼえているでしょうか。ソロモンが神殿を建てたとき、歌うたいたちが、声を一つにして主を賛美したとき、「
そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。
」とあります。続けて、「
祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。(2歴代5:13−14)
」とあります。主の栄光が、雲のかたちをとって現われたのです。
火も、主の栄光の現われです。同じくソロモンの神殿が出来たとき、「
ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。
」とあります
。
また、新約聖書でも、「
私たちの神は焼き尽くす火です。(へブル12:29)
」とあります。火はその中に入れば、焼けただれて死んでしまいますが、そばにいて見ているなら、体は暖まり、周りは明るくなり、その火があることを有難いと思います。神も同じです。私たちは神を恐れますが、その恩恵にあずかり、神に感謝することができるのです。
24:18
モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。
モーセは雲の中に入っていきました。そして40日40夜、山にいました。40日間もそこにいるのは、神がこれから、長い長い教えをされるからです。
2A 聖所 25
そして次から幕屋の説明に入ります。私たちクリスチャンは、たいてい、聖書の通読を勧められて創世記から読み始めるのですが、この25章に入ると、通読を断念してしまいます。読んでも建築工事の説明書みたいなもので、何がなんだかさっぱりわけがわからないからです。しかし聖書では幕屋や神殿について、多くのページを割いています。神は、幕屋を通して、より多くのことを私たちに教えられたいことは事実です。
神はこれから、モーセに、幕屋に必要な材料、その用具の形や寸法、必要な数などを伝えていかれます。そして、一つの事柄を伝えられるごとに、「
わたしがあなたに示すのと、全く同じように作らなければならない。
」と言われています。神がなぜ、そこまで正確を要求されるのでしょうか。新約聖書にその答えが載っています。ヘブル書9章24節に、「
キリストは、本物の模型にすぎない、手で造られた聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。
」とあります。ですから、この幕屋は天国の模型なのです。私たちに与えられた、永遠のいのちの希望、自分の国籍となった天がどのような姿をしているのかを、地上で模型として示しているのが、幕屋なのです。
旧約聖書と新約聖書に出てくる天国の情景が書かれている箇所を読んで見てください。特に黙示録を読んでみてください。そうすると、そこにはこれから読む幕屋と同じ用語や、用具が出てきます。私たちが考えている天は、夢想のものでもなく現実のものであり、実に、私たちが今生きているこの物質の世界よりも堅固なものなのです。「天地は過ぎ去りますが、わたしのことばは過ぎ去りません。」とイエスさまは言われました。
そして天においては、何が中心となっているでしょうか?それは神とその独り子イエス・キリストが中心になっています。イエスさまが、「天の御国」や「神の国」についてご説明されるとき、しばしば、ご自分のことを指していたり、あるいはご自分のみことばについてお語りになっていました。イエスさまがおられるところ、それが天です。したがって、幕屋はイエス・キリストの栄光を表しています。ヨハネ1章14節に「
ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。
」とあります。ギリシヤ語を見ると、こうも訳すことができます。「
神は肉となって、私たちのために幕屋を張られた。
」そして14節には続けて、こう書いてあります。「
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
」ですから幕屋の栄光は、キリストの栄光なのです。
さらに、新約聖書の手紙を読むと、地上で弟子たちとともに時を過ごされたイエスは、聖霊によって私たちのうちに住んでくださることが分かります。パウロは、「
この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)
」と言いました。したがって、幕屋は、私たちが霊をまことをもって神を礼拝するときの姿とも言えます。パウロは、「
あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮です。(1コリント6:19参照)
」と言っています。ですから、私たちが神を礼拝するとき、どのように礼拝するべきなのかを知ることができます。
1B 材料 1−9
25:1
主はモーセに告げて仰せられた。
25:2
「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。
材料は、イスラエルの民にささげさせるようにします。イスラエルの民は、エジプトから出ていくとき、貴金属をエジプト人からもらいましたが、今ここで、それらが用いられます。そして「
心から進んでささげる
」ということが条件となっています。ささげるとき、義務感から、何か奪い取られると感じながらささげるのであれば、神は、そんなものはいらない、と言われます。私たちが献金をするときも同じです。誰からも強制されることなく、自分で定めた額を喜んでささげなければいけません。パウロは、「
ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(2コリント9:7)
」と言いました。
そしてイスラエルの民は、実際、喜んでささげました。幕屋の材料を管理する人は、モーセのところに来てこう言いました。「
民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。(出エジプト36:5)
」そして、モーセは、奉納物を持ってこないように民に命じました。
25:3
彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、
25:4
青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、
25:5
赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、
25:6
燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、
25:7
エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。
3節には金属が、4,5節には主に繊維類が、6節には油が書かれています。また7節には、祭司の服に用いられる宝石が書かれています。まず金属ですが、それぞれに聖書的な意味があります。「金」は、神ご自身の栄光を表しています。「銀」は贖いを示しています。「青銅」は神のさばきを示しています。おぼえていますか、イスラエルの民が蛇にかまれて死んだとき、神はモーセに、青銅の蛇を作るように命じられました。それは、蛇がさばかれる、悪魔がさばかれることを意味しています。
そして次に、衣料ですが、「青」は天を示しています。先ほども、神の御足が、青空のようであったという表現がありました。そして「紫色」は、王位や王権を表しています。イエスが十字架につけられるとき、ローマ兵から紫色の着物を着せられたことをおぼえていますか。イエスがユダヤ人の王だというので、からかって着せたのです。そして「緋色」は、赤色よりも濃い、ちょうど血の色です。これは犠牲の血を象徴しています。イザヤは預言しました。「
『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。』(1:18)
」この青、紫、緋色はみな撚り糸です。そして亜麻布があります。色は白です。これは、正しさとか、罪のない状態を示しています。黙示録19章で、小羊の婚宴の場面で、「
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(8)
」とあります。聖徒の正しい行ないとは、キリストの正しさに他なりません。
そして、やぎの毛、赤くそめた雄羊の皮、じゅごんの皮があります。これは次回の学び26にて出てきますが、そのときに説明します。そして、アカシヤ材があります。これが幕屋の基本的な材料です。アカシヤ材は砂漠に生えて、非常に固く、虫に食われることがないような材木であると言われます。イザヤ書53章には、キリストについてこう述べられています。「
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(53:2)
」つまり、アカシヤ材は人としてのキリストを示しています。処女から生まれたイエスは、アダムからの罪を受け継ぎませんでした。ですから人としての弱さを持ちながら、罪に蝕まれることなく生きておられたのです。
そして、油ですが、これもまたの機会に説明します。香料と注ぎの油、最初のエポデも後で説明します。
25:8
彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
神ご自身が彼らの中に住まれます。ものすごいことです。アブラハム・イサク・ヤコブには、「エル・シャダイ」「全能の神」として現われました。神は、天と地を造られた同じ力をもって人に介入してくださいました。そして、モーセには、「ヤハウェ」として現われてくださいました。ヤハウェという名前は、私たちの必要になるという意味ですが、神はもっと人に接近してくださったのです。そして、今や、神ご自身が彼らの中に住んでくださいます。神ご自身がともにおられます。
25:9
幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。
先に話しましたように、この言い回しがこれから何度も出てきます。神は正確に、精密に造りなさいと命じておられます。
2B 祭具 10−40
1C 契約の箱 10−22
25:10
アカシヤ材の箱を作らなければならない。
神は最初に、契約の箱について説明されます。幕屋にはいろいろな用具がありますが、契約の箱が初めに説明されるのは、この箱が神の御座を表しているからです。神ご自身を示しているからです。
25:10b
長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
1キュビトが約44センチで、腕のひざから手先までの長さです。ゆえに長さが110センチ、幅が66センチ、高さが66センチになります。
25:11
これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。
アカシヤ材の箱に純金がかぶされます。他の用具も同じようにしてかぶされますが、キリストの栄光が輝いています。アカシヤ材はキリストが人であり、金は神であることを示しています。
25:12
箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。
棒があるのは、持ち運びができるようにするためです。幕屋は、イスラエル人が旅をしているとき、持ち運びができるように設計されています。シナイ半島のある地点から次の地点に行くとき、それらが解体されて、次の場所へと移るのです。
25:13
アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。
25:14
その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。
25:15
棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。
棒は抜いてはいけませんでした。なぜなら、決して契約の箱にふれてはいけないからです。ダビデがヘブロンでイスラエルの王になったとき、ダビデは契約の箱を自分の町に持ち帰ろうとしました。牛車にのせて、ウザという人がその車を御していました。そして、ある所まで来たとき、牛が箱をひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、箱を押さえました。そのとき、「
主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。…彼はその場で神の前に死んだ。(1歴代13:10)
」とあります。ちょうど、高電圧の物をさわったら、すぐに死んでしまうように、神ご自身に触れるならすぐに死んでしまうことを、この出来事は示しています。ですから、棒は差し込んだままにして、抜いてはいけませんでした。
25:16
わたしが与えるさとしをその箱に納める。
箱が神そのものを示しているのなら、その中は何が入っているのか興味深いです。だれでも神をこの目で見たいと思います。けれどもそこにあるのは、像でも絵でもなく、石の板だったのです。十戒の書かれた板がそこに入っています。私たちは、天国に行っても、神ご自身の姿を見ることはできません。見たとしても、あくまでも幻としての姿です。なぜなら、神の本質は霊であり、また、ことばだからです。「
ことばが神であった。(ヨハネ1:1)
」とありますね。私たちが神と交わるとき、神のことばによって交わります。特別な感情を持つことや、思いの中でイメージすることではなく、ことばによって交わるのです。
25:17
また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
贖いのふたとは、契約の箱の上に載せるふたのことです。これはアカシヤ材ではなく、すべて純金で作られます。寸法は契約の箱と同じです。
25:18
槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19
一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。
ケルビムは神の御使いです。ケルブとは、ヘブル語で単数形でありますが、複数形になると「イム」を後ろにつけるので、ケルビムとなります。
ケルビムは、神の御座の周りにいる御使いです。エデンの園からアダムとエバが追放されたときのことを思い出してください。そこでいのちの木を守っていたのは、ケルビムでした。エゼキエル書1章にて、不思議な生き物が出てきますが、彼らもケルビムでした。そして黙示録4章に、四人の生き物が出てきますが、彼らもケルビムであると考えられます。
25:20
ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。
25:21
その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
25:22
わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。
神は、この二人のケルビムの間におられて、そこから語られます。契約の箱は至聖所と呼ばれる場所に置かれますが、そこは火が灯されていなくても、輝いています。主ご自身がおられるからです。
そして至聖所には、年に一度、贖いの日に大祭司だけが入ることが許されます。大祭司は、この贖いのふたに血を注いで、イスラエル民全体のために罪の贖いをします。この血は、イスラエルの犯した罪によって引き起こされる神の怒りを、なだめるものです。これを英語ですと、
propitiation
と言うのですが、この言葉が使われているのは、第一ヨハネ2章2節です。1節から読みます。「
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、― 私たちの罪だけでなく、全世界のための、― なだめの供え物なのです。
」なだめの供え物が、この贖いのふたに注がれる血であり、これはまさに、神の怒りをなだめるために流されたキリストの血を表しているに他なりません。
2C 供えのパンの机 23−30
25:23
机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。
25:24
これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、
25:25
その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。
パンが供えられる机です。寸法は長さ88センチ、幅が44センチ、高さが66センチです。契約の箱と同じように、アカシヤ材で作り純金をかぶせ、飾り縁を付けます。
25:26
その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。
25:27
環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。
25:28
棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。
これも契約の箱と同じです。棒によって机を運びます。
25:29
注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。
机のほかに、注ぎのささげもののために、皿とびんと水差しがあります。
25:30
机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。
供えのパンは12個あり、イスラエル12部族を表していました。そして、アロンの子孫はそれを安息日ごとに取り替えました。このパンは、主がイスラエルを見捨てないで、真実をもって彼らの必要を満たしてくださったことを示しています。
そして、私たちは、イエス・キリストがこのパンであることを知っています。イエスは言われました。「
わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)
」イエスは、私たちがイエスを食べるような関わり合いを持ちたいと願っておられます。つまり、イエスが私のうちにいて、私がイエスのうちにいるような、深い関係、味わいのある関係を求めておられます。また、イエスは、「
人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。
」と言われましたが、イエスのことばが私たちを生かしてくださいます。
3C 燭台 31−40
25:31
また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。
次は、燭台についてです。これは、机の向かい側に置かれます。これは純金で出来ています。
25:32
六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。
25:33
一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。
25:34
燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。
25:35
それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。
25:36
それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。
25:37
それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。
25:38
その心切りばさみも心取り皿も純金である。
25:39
純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。
25:40
よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。
言葉で説明するよりも、燭台の図を見れば一目瞭然でしょう。七つの枝があり、それぞれの上にともしびを灯すための油を受ける皿があります。燭台の光によって、聖所に光が灯されます。聖所には、燭台と供えのパンの机、そして香壇というのが出てきます。
聖書では、神の民が光と呼ばれています。イザヤはイスラエルについて、「
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。(42:6)
」と預言しました。そして、イエスは、「
あなたがたは、世界の光です。
」と言われました。しかし、本質的にはイエス・キリストご自身が光です。「
わたしが世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)
」とイエスは言われています。暗やみの中のともしびのように、イエスが私たちの進むべき道となってくださいます。また、光によってエネルギーが与えられるように、イエスが私たちのいのちになってくださいます。光によって、物を見ることができるように、イエスが真理となってくださいます。ですから、イエスが私たちの光なのです。イエスに従えば、道に迷うことなく、むなしくなることなく、真実に生きることができます。
こうして、至聖所と聖所の中の主な用具が説明されていましたが、これらは神の栄光を表しています。そして、この用具の配置に注目してください。上から眺めると契約の箱があり、聖所には香壇があり、机と燭台があります。契約の箱と香壇のところに縦線を引き、机と燭台のところに横線を引きます。そうすると、十字架の形が現われるのです。神の栄光はキリストの十字架の上で現われました。イエスは、ユダヤ人たちに捕らえられる直前に父なる神にこう祈られました。「
今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17:5)
」十字架は、むごたらしい、人の罪がむきだしになった、暗やみの象徴です。しかし同時に、人を神から切り離すサタンの仕業が決定的に打ち壊された瞬間でもあります。悪魔の敗北が宣言され、人が神のところに戻る道が開かれたのです。
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