出エジプト24−27章 「主の栄光」


アウトライン

1A 主の栄光を見るための準備 24
   1B 聖め (3つの段階) 1−11
      1C 仕切り 1−3
      2C 血 4−8
      3C 交わり 9−11
   2B 臨在 (責任と約束) 12−18
      1C 人の責任 12−14
      2C 神の約束 15−18
2A 主の栄光の啓示 25−27
   1B 材料と用具 − 神のご性質 25
      1C 材料 1−9
      2C 用具 10−40
         1D 契約の箱 10−22
            1E 箱 10−15
            2E 贖いのふた 16−22
         2D 机 23−30
         3D 燭台 31−40
   2B 天幕と板 − 神の奥義 26
      1C 天幕 1−14
         1D 幕 1−6
         2D やぎの毛の幕 7−14
      2C 板 15−30
         1D 板 15−25
         2D 横木 26−30
      3C 垂れ幕と入り口の幕 31−37
         1D 垂れ幕 31−35
         2D 入り口の幕 36−37
   3B 祭壇と庭 − 神のさばき 27
      1C 祭壇 1−8
      2C 庭 9−19
   4B ともしびの油 − 神の聖霊 27:20−21


参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いかと思います。
Welcome to the Tabernacle Home Page
The 3D Bible Project

本文

 出エジプト記24章を開いてください。今日は、24章から27章までを学びます。ここでのテーマは、「主の栄光」です。私たちは出エジプト記から、救い、または贖いについて学んでいます。1章から18章までは、贖いの内容について見てきました。イスラエルがエジプトから救い出された姿は、私たちが罪から救われた姿を示しています。そして、前回学んだ19章から23章までは、贖いの過程について学びました。つまり、神の似姿に変えられていく、神の聖さにあずかっていくことです。神はそれを、戒めと定めを与えられることによって達成しようとされています。そして、今日から、贖いの目的について学びます。イスラエルがエジプトから救い出された究極の目的です。それは、神の栄光にあずかることです。神の栄光を見、神を礼拝することです。それでは、本文を読んでいきましょう。

1A 主の栄光を見るための準備 24
1B 聖め (3つの段階) 1−11
1C 仕切り 1−3
 主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝め。モーセひとり主のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」そこでモーセは来て、主のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「主の仰せられたことは、みな行ないます。」

 これは、神はモーセに、十戒とさまざまな定めを与えられた直後の出来事です。そしてこの契約にイスラエルの民が同意し、契約が結ばれようとしています。そのとき、人々は神のところに近づくことはできませんでした。近づくのは、契約の仲介者であるモーセだけであり、アロンとその息子、長老70人は、山の途中までしか上ることは許されませんでした。なぜなら、主は聖なる神であり、人々が近づけば、罪と汚れのためにたちまちにして殺されてしまうからです。

 主が聖いことは、その戒めと定めの中にも現われています。私たち人間が律法を読むと、自分がいかに汚れているか、自分が神の基準から離れているかを発見します。自分が聖い神から離れており、自分は神に近づくことはできないことを見出すのです。そのため、モーセのような仲介者が必要でした。イスラエルの民は神に近づかず、その指導者は遠くから主に伏し拝みました。ガラテヤ書に、律法が与えられた目的が記されています。「では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになって、この子孫(つまりキリスト)が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手によって定められたのです。仲介者は一方だけに属するものではありません。しかし約束を賜わる神はひとつです。(3:19−20)」律法によって違反が示されて、神と自分たちの間に距離が置かれます。そのためモーセのような仲介者が必要になります。

2C 血 4−8
 けれども、次に書かれている出来事にとって、彼らは神に近づくことができるようになります。

 それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

 主のことばが書き記された、聖書の中での初めての記述です。

 そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。


 祭壇を築きました。これから礼拝をささげます。そして、12の石の柱を立てています。これは、契約が結ばれることの証印です。

 それから、彼はイスラエル人の若者たちを遣わしたので、彼らは全焼のいけにえをささげ、また、和解のいけにえとして雄牛を主にささげた。


 いけにえがささげられています。神に近づけは殺されなければいけないのが、代わりに犠牲として命が取られています。そして、次にとても大事な言葉が繰り返し出て来ます。

 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、主があなたがたと結ばれる契約の血である。」

 
繰り返しの言葉とは、「血」です。血の注ぎをイスラエルの民は受けました。血の注ぎを受けたので、彼らは神と契約を結ぶことができるようになったのです。神に近づくことが許されるようになりました。
戒めによって神と私たちの間にできる距離を狭めることができるのは、この血によってであります。律法によって、私たちの罪が示されて、罪の報酬は死ですから、私たちは死ななければなりません。けれども、犠牲のいけにえがあって、その血が流されて、私たちは神に近づくことができるのです。イエスが過越の祭りの食事のときに、こう言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。(ルカ22:20)」キリストが流された血によって、私たちはあらゆる不義をきよめられて、この聖い神との交わりをすることができるのです。使徒ヨハネは言いました。「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Tヨハネ1:7)」私たちが神と交わるには、絶えずキリストの血によってきよめられていなければならないのです。

3C 交わり 9−11
 そして、次に、すばらしい神との交わりが描かれています。それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。

 彼らは、神を実際に仰ぎ見ました。テモテへの第一の手紙6章には、「(神は、)人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。(16節)」とありますから、おそらく、神の幻か、神の姿が反映されたものであろうと思われます。それでも、仰ぎ見たのですからすごいです。そして、御足の下はサファイヤを敷いたようなもので、透き通っていた青空のようであるとあります。天国の様子を少し垣間見ます。なぜなら、黙示録21章に描かれている新しいエルサレムは、都全体が、碧玉、サファイヤなど宝石で造られているからです。

 神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。

 この食事は、交わりをしているしるしです。神と人とが交わっています。

2B 臨在 (責任と約束) 12−18
 そこで次に、神の栄光が現われます。

1C 人の責任 12−14
 主はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」

 山に上りなさい、と神は仰せになりました。言い換えれば、わたしに近づきなさい、と言うことです。神から教えを受けるときに必要なのは、神に近づくことです。ヤコブは、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(4:8)」と言いました。そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。ヨシュアはモーセの従者でした。これは英語ですとミニスター、つまり、牧師や伝道師などの教役者と同じ単語です。牧師は人々に仕えてもらう存在ではなく、人々に仕える存在であります。ヨシュアは人に仕え、人を助けることを学んだので、後にイスラエルの民全体を指揮する指導者になりました。

 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」

 モーセがいないので、日常の裁判については、アロンとフルに任せます。けれども、アロンは、きちんとさばきをすることができなかったことが、後の、金の子牛の事件を見ると分かります。

2C 神の約束 15−18
 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。

 主の栄光が、雲のかたちをとって現われました。モーセが神に近づいたので、神がモーセに近づいてくださいました。そして雲ですが、おぼえているでしょうか。ソロモンが神殿を建てたとき、歌うたいたちが、声を一つにして主を賛美したとき、「そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」とあります。続けて、「祭司たちは、その雲にさえぎられ、そこに立って仕えることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。(U歴代5:13−14)」とあります。主の栄光が、雲のかたちをとって現われたのです。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。火も、主の栄光の現われです。同じくソロモンの神殿が出来たとき、「ソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。」とあります。また、新約聖書でも、「私たちの神は焼き尽くす火です。
(へブル12:29)」とあります。火はその中に入れば、焼けただれて死んでしまいますが、そばにいて見ているなら、体は暖まり、周りは明るくなり、その火があることを有難いと思います。神も同じです。私たちは神を恐れますが、その恩恵にあずかり、神に感謝することができるのです。

 モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。

 モーセは雲の中に入っていきました。そして40日40夜、山にいました。40日間もそこにいるのは、神がこれから、長い長い教えをされるからです。

2A 主の栄光の啓示 25−27
 そして次から幕屋の説明に入ります(この図を参考)。私たちクリスチャンは、たいてい、聖書の通読を勧められて創世記から読み始めるのですが、この25章に入ると、通読を断念してしまいます。読んでも、なんか、建築工事の説明書みたいなもので、何がなんだかさっぱりわけがわからないからです。しかし、聖書では、幕屋について、あるいは神殿について、多くのページを割いています。神は、幕屋を通して、より多くのことを私たちに教えられたいことは事実です。実は、この幕屋を知ることによって、クリスチャン生活がいかに行なわれいくべきかを知ることができます。ですから、幕屋について知ることは、とてもわくわくさせてくれます。

 神はこれから、モーセに、幕屋に必要な材料、その用具の形や寸法、必要な数などを伝えていかれます。そして、一つの事柄を伝えられるごとに、「わたしがあなたに示すのと、全く同じように作らなければならない。」と言われています。神がなぜ、そこまで正確を要求されるのでしょうか。新約聖書にその答えが載っています。ヨハネ1章14節です。有名な聖句です。「ことばは肉となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。神である方が、人となられたということですが、ここでの意味はそれだけではありません。ギリシヤ語を見ると、こうも訳すことができます。「神は肉となって、私たちのために幕屋を張られた。」そして、ヨハネ1章14節には続けて、こう書いてあります。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」この幕屋とそこに現われた神の栄光は、後に来る神のひとり子、イエス・キリストを示していたのです。つまり幕屋は、キリストご自身を示しているのです。幕屋の中身を調べると、私たちの信じているイエスの姿がくっきりと分かります。

 そして、福音書を読むと、面白いことに気づきます。イエスは、「天の御国」とか「神の国」という言葉を頻繁に用いられています。そして、その説明を読むと、私たちが考えるような、もやっとした、よく分からない世界でもなく、またユダヤ人が考えるような、地上におけるユダヤ人国家でもありません。その多くが、実は、イエス・キリストご自身のことを指しており、また、キリストのみことばのことを指しています。つまり、イエス・キリストのうちに、天国のすべてが凝縮されていると言っても過言ではありません。ですから、この幕屋は、天国の模型であると言うことができます。ヘブル書9章24節に、「キリストは、本物の模型にすぎない、手で造られた聖所にはいられたのではなく、天そのものにはいられたのです。」とあります。私たちは、人生のゴール地点である天国の姿を、幕屋によって見ることができるのです。

 さらに、新約聖書の手紙を読むと、もっと面白いことに気づきます。地上で弟子たちとともに時を過ごされたイエスは、聖霊によって私たちのうちに住んでくださっていますが、パウロは、「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)」と言いました。したがって、幕屋は、私たちのからだそのものと言うことができます。同じくパウロは、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮です。(Tコリント6:19参照)」と言っています。ですから、神の御霊が私たちのうちでどのように働いてくださっているのかを、幕屋で見ることができるのです。

 ですから、まとめますと、幕屋は、第一に、イエス・キリストご自身であるということです。第二に、天国の模型であり、第三に私たちのからだを表しています。

1B 材料と用具 − 神のご性質 25
 まず、神は幕屋に使われる材料について、モーセに指示を与えられます。

1C 材料 1−9
 主はモーセに告げて仰せられた。「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

 材料は、イスラエルの民にささげさせるようにします。イスラエルの民は、エジプトから出ていくとき、貴金属をエジプト人からもらいましたが、今、ここで、それらが用いられます。けれども、「心から進んでささげる」ということが条件となっています。ささげるとき、義務感から、何か奪い取られると感じながら、ささげるのであれば、神は、そんなものはいらない、と言われます。私たちが献金をするときも同じです。誰からも強制されることなく、自分で定めた額を喜んでささげなければいけません。パウロは、「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(Uコリント9:7)」と言いました。そして、イスラエルの民は、実際、喜んでささげました。幕屋の材料を管理する人は、モーセのところに来てこう言いました。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。(出エジプト36:5)」そして、モーセは、奉納物を持ってこないように民に命じました。

 彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。

 3節には金属が、4,5節には衣料が、6節には油が書かれています。また、7節には、祭司の服に用いられる宝石が書かれています。まず金属ですが、それぞれに聖書的な意味があります。金は、神ご自身の栄光を表しています。金は神そのものです。銀は贖いを示しています。銀は贖いです。青銅は神のさばきを示しています。おぼえていますか、イスラエルの民が蛇にかまれて死んだとき、神はモーセに、青銅の蛇を作るように命じられました。それは、蛇がさばかれる、悪魔がさばかれることを意味しています。ですから、青銅は神のさばきです。そして次に、衣料ですが、青は天を示しています。先ほども、神の御足が、青空のようであったという表現がありました。そして、紫色は、王位や王権を表しています。イエスが十字架につけられるとき、ローマ兵から紫色の着物を着せられたことをおぼえていますか。イエスがユダヤ人の王だというので、からかって着せたのです。そして、緋色は、これはちょうど血の色です。これはもちろん、犠牲の血を象徴しています。イザヤは預言しました。「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。』(1:18)

 この青、紫、緋色はみな撚り糸です。そして亜麻布があります。色は白です。これは、正しさとか、罪のない状態を示しています。黙示録19章で、小羊の婚宴の場面で、「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(8)」とあります。聖徒の正しい行ないとは、キリストの正しさに他なりません。そして、やぎの毛、赤くそめた雄羊の皮、じゅごんの皮があります。これは再び言及されるときに説明します。そして、アカシヤ材があります。これが幕屋の基本的な材料です。アカシヤ材は砂漠に生えて、非常に固く、虫に食われることがないような材木であると言われます。イザヤ書53章には、キリストについてこう述べられています。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(53:2)」つまり、アカシヤ材は人としてのキリストを示しています。処女から生まれたイエスは、アダムからの罪を受け継ぎませんでした。ですから人でありながら、人としての弱さを持ちながら、罪に蝕まれることなく生きておられたのです。そして、油ですが、これは後で説明します。香料と注ぎの油、最初のエポデなどは、次回の学びで取り扱います。

 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

 
神ご自身が彼らの中に住まれます。ものすごいことです。アブラハム・イサク・ヤコブには、「エル・シャダイ」「全能の神」として現われました。神は、天と地を造られた同じ力をもって人に介入してくださいました。そして、モーセには、「ヤハウェ」として現われてくださいました。ヤハウェという名前は、私たちの必要になるという意味ですが、神はもっと人に接近してくださったのです。そして、今や、神ご自身が彼らの中に住んでくださいます。神ご自身がともにおられます。神は、時を経るごとに、人と親密な関係を結ぼうとされているのです。

 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

2C 用具 10−40
 神は次から、幕屋の中で用いられる用具について説明されます。

1D 契約の箱 10−22
1E 箱 10−16
 アカシヤ材の箱を作らなければならない。

 
神は最初に、契約の箱について説明されます(この図を参照)。最初に説明されるのは、この箱が神のご自身を示しているからです。神の本質がここに示されています。

 長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。


 1キュビトが約44センチなので、長さが110センチ、幅が66センチ、高さが66センチになります。お渡しした図を見ながら、説明を聞いてください。

 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。


 アカシヤ材の箱に純金がかぶされます。他の用具も同じようにしてかぶされますが、分かりますか、ここにもキリストの栄光が輝いています。アカシヤ材はキリストが人であることを表し、金はキリストが神であることを示しています。人であり神である方がキリストです。

 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。

 棒があるのは、持ち運びができるようにするためです。幕屋は、イスラエル人が旅をしているとき、持ち運びができるように設計されています。シナイ半島のある地点から次の地点に行くとき、それらが解体されて、次の場所へと移るのです。ですから、彼らは、幕屋は一時的なもの、長くは続かないものであるということを理解しました。新約聖書では、私たちのからだが幕屋と言われています。コリント人への第二の手紙5章です。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、わたしたちは知っています。それは、人の手にはよらない、天にある永遠の家です。(1)」私たちは、神がこのようなすばらしい体を与えてくださったことを、感謝します。けれども、それは一時的なものであり、朽ちない、栄光に輝くからだを私たちはいただくことになります。

 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。

 棒は抜いてはいけませんでした。なぜなら、決して契約の箱にふれてはいけないからです。ダビデがヘブロンでイスラエルの王になったとき、ダビデは契約の箱を自分の町に持ち帰ろうとしました。牛車にのせて、ウザという人がその車を御していました。そして、ある所まで来たとき、牛が箱をひっくり返そうとしたので、ウザが手を伸ばして、箱を押さえました。そのとき、「主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。…彼はその場で神の前に死んだ。(T歴代13:10)」とあります。ちょうど、高電圧の物をさわったら、すぐに死んでしまうように、神ご自身に触れるならすぐに死んでしまうことを、この出来事は示しています。ですから、棒は差し込んだままにして、抜いてはいけませんでした。

 わたしが与えるさとしをその箱に納める。

 箱が神そのものを示しているのなら、その中は何が入っているのか興味深いです。だれでも神をこの目で見たいと思います。けれども、そこにあるのは、像でも絵でもなく、石の板だったのです。十戒の書かれた板がそこに入っています(この図を参照)。私たちは、天国に行っても、神ご自身の姿を見ることはできません。見たとしても、あくまでも幻としての姿です。なぜなら、神の本質は霊であり、またことばだからです。「ことばが神であった。」とありますね。私たちが、神と交わるとき、神のことばによって交わります。特別な感情を持つことや、思いの中でイメージすることではなく、ことばによって交わるのです。

2E 贖いのふた 17−22
 また、純金の『贖いのふた』を作る。

 
贖いのふたとは、契約の箱の上に載せるふたのことです。これはアカシヤ材ではなく、すべて純金で作られます。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。契約の箱と同じ寸法です。

 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。

 
天使ケルビムの姿を作ります。

 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。


 ヘブル語は、複数形になると「イム」とつけるので、ケルブの複数形がケルビムです。

 ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。


 図を見てください。ケルビムは、主の御座の回りにいる御使いです。エデンの園からアダムとエバが追放されたときのことを思い出してください。そこでいのちの木を守っていたのは、ケルビムでした。

 その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

 
神は、この二人のケルビムの間におられて、そこから語られます。契約の箱は至聖所と呼ばれる場所に置かれますが、そこは火が灯されていなくても、輝いています。主ご自身がおられるからです。そして、この至聖所には、年に一度、贖いの日に、大祭司だけが入ることが許されます。大祭司は、この贖いのふたに、血を注いで、イスラエル民全体のために、罪の贖いをします。この血は、イスラエルの犯した罪によって引き起こされる神の怒りを、なだめるものです。これを英語ですと、
propitiationと言うのですが、この言葉が使われているのは、第一ヨハネ2章2節です。1節から読みます。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、― 私たちの罪だけでなく、全世界のための、― なだめの供え物なのです。」なだめの供え物が、この贖いのふたに注がれる血であり、これはまさに、神の怒りをなだめるために流されたキリストの血を表しているに他なりません。

2D 机 23−30
 そして次に、また別の用具について説明されています。机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。

 パンが供えられる机です(この図を参照)。寸法は長さ88センチ、幅が44センチ、高さが66センチです。

 これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。

 契約の箱と同じように、アカシヤ材で作り、純金でかぶさり、飾り縁を付けます。

 その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。

 
これも契約の箱と同じですね。棒によって机を運びます。

 注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。


 図を見てください。机のほかに、皿とびんと水差しがあります。

 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

 
供えのパンは12個あり、イスラエル12部族を表していました。そして、アロンの子孫はそれを安息日ごとに取り替えました。このパンは、主がイスラエルを見捨てないで、真実をもって彼らの必要を満たしてくださったことを示しています。そして、私たちは、イエス・キリストがこのパンであることを知っています。イエスは言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。(ヨハネ6:35)」イエスは、私たちがイエスを食べるような関わり合いを持ちたいと願っておられます。つまり、イエスが私のうちにいて、私がイエスのうちにいるような、深い関係、味わいのある関係を求めておられます。また、イエスは、「人は、パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きる。」と言われましたが、イエスのことばが私たちを生かしてくださいます。

3D 燭台 31−40
 また、純金の燭台を作る。

 次は、燭台についてです(この図を参照)。これは、机の向かい側に置かれます。これは純金で出来ています。

 その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。


 ここの描写も、図を見てくだされば、一目瞭然です。支柱から三つの枝が二つの方向に出ています。

 一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。

 
枝のところに節があり、枝の上にはがくがありますが、それぞれアーモンドの花の形をしています。

 燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。
そして、それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。とあります。この燭台で光が灯されます。

 聖書では、神の民が光と呼ばれています。イザヤはイスラエルについて、「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。(42:6)」と預言しました。そして、イエスは、「あなたがたは、世界の光です。」と言われました。しかし、本質的にはイエス・キリストご自身が光です。「わたしが世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)」とイエスは言われています。暗やみの中のともしびのように、イエスが私たちの進むべき道となってくださいます。また、光によってエネルギーが与えられるように、イエスが私たちのいのちになってくださいます。光によって、物を見ることができるように、イエスが真理となってくださいます。ですから、イエスが私たちの光なのです。イエスに従えば、道に迷うことなく、むなしくなることなく、真実に生きることができます。

 その心切りばさみも心取り皿も純金である。純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。

 
燭台もイエス・キリストを示しているので、純金で作られています。神のひとり子としての栄光です。

 よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。


 再び、注意深く作れとの命令があります。

 こうして、至聖所と聖所の中の主な用具が説明されていましたが、これらは神の本質を表しており、神の性質を示しています。そして、この用具の配置に注目してください。図を見てください。上から眺めた図です。契約の箱があり、聖所には、まだ学んでいませんが香壇があり、机と燭台があります。契約の箱と香壇のところに縦線を引き、机と燭台のところに横線を引きます。そうすると、十字架の形が現われるのです。神の本質はキリストの十字架の上で現われました。イエスは、ユダヤ人たちに捕らえられる直前に、父なる神にこう祈られました。「今は、父よ。みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。(ヨハネ17:5)」十字架は、むごたらしい、人の罪がむきだしになった、暗やみの象徴です。しかし同時に、人を神から切り離すサタンの仕業が決定的に打ち壊された瞬間でもあります。悪魔の敗北が宣言され、人が神のところに戻る道が開かれたのです。

2B 天幕と板 − 神の奥義 26
 しかし、これらの神の栄光は、公にだれもが見ることができるようにはなっていませんでした。幕によって覆われていたのです。それゆえ、「幕屋」と呼ばれており、幕によって、金色で輝いていた用具は隠されていました(この図を参照)。

1C 天幕 1−14
1D 幕 1−6
 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。

 今度もまた、図をご覧ください。幕は亜麻布で出来ており、青、紫、緋色の撚り糸で折られていました。そして、ケルビムも織り出されています。これらがみな、キリストの栄光を表していることに注意してください。亜麻布はキリストの義を表し、青はキリストが天から来られたことを示します。イエスはユダヤ人に、「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。(ヨハネ8:23)」と言われました。紫はむろんイエスが王であることを示し、緋色はイエスの流された血を表します。そして、幕は10枚用意されました。

 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。

 
幕の長さですが、実際の聖所をすべておおうようには作られていません。聖所は高さと幅がそれぞれ10キュビトなので、すべてを覆うのは30キュビト必要です。けれども、それより2キュビト少ない28キュビトになっています。ですから、地面から1キュビト上にあがっていることになります。これは、おそらく幕を汚くしないためでありましょう。

 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。

 
5枚をつなぎ合わせると、20キュビトになります。聖所は、ちょうど、天上がすべて隠れるようになり、至聖所では10キュビト余るようになります。けれども、至聖所の側面を10キュビトで覆うことができます。

 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。

 
図を見てください。幕と幕の間が青くなっていますが、青いひもでつなぎ合わさっているからです。

 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。

 至聖所と聖所の間が、分かれていることに気づかれるでしょうか。ちょうど、輪っかによってつなぎ合わされているからです。神は、聖所と至聖所を分ける事に最新の注意を払われました。なぜなら、至聖所は神ご自身がおられるところだからです。聖所は、祭司が日ごとに出入りしますが、至聖所は、年に一度、大祭司しか入れません。その大祭司も、入る時には入念に罪を告白し、自分をきよめます。それでも、至聖所にいる間に打たれて死んでしまう場合があるのです。それほど聖い場所であるので、聖所と切り離されているのです。

2D やぎの毛の幕 7−14
 そして、この幕の上をかぶせる、また別の幕があります。また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。

 やぎの毛の幕です(この図を参照)。これはとても丈夫な材質であり、今でもベトウィンが用いています。このやぎは、外庭の祭壇のところで、罪のささげ物としてほふられたやぎです。また色は白なのですが、これもイエスのことを示しています。イエスは、罪のいけにえとなってくださり、そのイエスの犠牲によって、私たちの罪は雪のように白くされます。

 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。

 幕は28キュビトでしたが、この長さは30キュビトです。そして、一枚余分の幕が用意されます。

 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。

 幕と同じように、これも留め金でつなぎ合わせられます。でも、留め金が金色から青銅になっていることに注目してください。金は神の栄光を示していました。青銅は神のさばきです。神ご自身に触れれば殺されてしまうように、この世の者は神の栄光に近づくことはできず、近づこうとすればさばかれます。神に近づくには、一つの方法しかないのです。それを後で説明します。けれども、実に多くの人が、自分たちの方法で神に近づこうとします。自分たちの努力で神に到達できると思います。それは神がどのような方かを知らないからです。神は完全な方であり、不完全な者が近づけば、さばかれるしかないのです。

 天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。
至聖所の裏側に垂らします。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。

 地面すれすれのところまで、垂れることになります。

 天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

 
やぎの毛の幕の上にさらに、赤く染めた雄羊の皮(この図を参照)と、その上にじゅごんの皮のおおい(この図を参照)があります。図を見てください。赤く染めた雄羊は、キリストの流された血を表します。至るところに、十字架のみわざが描かれています。だから、天国に言ったら、イエスの手と足には釘の穴がまだ開いており、私たちは、神が本当に私たちを愛してくださったことを永遠に知ることができるのです。そして、じゅごんですが、海にいるアシカみないな動物で、紅海に生息しているようです。見た目は非常に悪いです。美しくありません。しかし、私たちの主イエスも、見ばえは良くなかったのです。「彼は見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53:2)」しかし、その内側に入ると、ものすごく美しく彩られた幕と、金で覆われた用具と板があります。中に入ると、こんなに美しく、すばらしいことはないのですが、外から見たら、見栄えが悪いのです。イエスを信じない人にとっては、あの人たち何をやっているのか、と思います。魅力的ではありません。私も、初めて教会に行ったとき、女の人ばかりがいて、何か弱々しそうで、「宗教は、女と弱い奴しか信じないものだ。」と思っていました。しかし、いったん、イエスを心にお迎えし、イエスに従い始めると、こんなにすごいことありません。別世界です。これを、聖書は神の奥義と呼んでいます。神のすばらしさ、神の栄光は、キリストを信じる者にしか示されないのです。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。
(詩篇34:8)」とありますが、味わって、見つめるものにしか分からないすばらしさです。

2C 板 15−30
 そして次に、幕をささえる板について説明されています(この図を参照)。

1D 板 15−25
 幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。

 
また、アカシヤ材ですね。人としてのキリストを表します。

 板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。


 長さ4メートル40センチ、幅が66センチです。

 板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作る。幕屋の板全部にこのようにしなければならない。


 後で、台座にはめ込むためのほぞです。

 幕屋のために板を作る。南側に板二十枚。

 
図で見ると、手前の部分が南側です。

 その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作らなければならない。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座を、他の板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作る。


 20枚を重ねるので、長さが30キュビト、つまり、13メートル20センチになります。そして、一枚ごとに台座を2つ用います。銀色ですね。台座は幕屋と地面が接触する部分です。つまり、天にあるものが地上に示されるとき、贖いが必要になります。神が人に近づくとき、罪の贖いが行なわれなければなりません。

 幕屋の他の側、すなわち北側に、板二十枚。 銀の台座四十個。すなわち一枚の板の下に二個の台座。他の板の下にも二個の台座。幕屋のうしろ、すなわち、西側に、板六枚を作らなければならない。

 
至聖所の裏側にあたる西側は、板六枚使います。

 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作らなければならない。

 図をみてください、至聖所の裏の両端に、板が2枚ありますね。

 底部では重なり合い、上部では、一つの環で一つに合うようになる。二枚とも、そのようにしなければならない。これらが両隅となる。板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に二個の台座、他の板の下にも二個の台座となる。

 西側の板の説明でした。

2D 横木 26−30
 図を見てください。板に横木がありますね。次は横木の説明です。

 アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、幕屋の他の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木五本を作る。板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。

 
みな、金でかぶされています。神の栄光を示しています。内側から見たら、実にきれいです。燭台の光があり、中は香のかおりがし、とてもすばらしいところとなります。もちろん、天上は幕だけなので、香の煙でけむたくなることはありません。ところで、この板ですが、あるユダヤ人学者によると、「枠」と訳すことができるそうです。もしそうだとすると、先ほどの幕に織り込まれたケルビムが、それぞれ枠の中から見ることができます。太陽の光が差し込むと、このケルビムが映し出されて、とっても美しくなるでしょう。いずれにしても、すばらしい光景です。

 あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。

 また、モーセに、正確に幕屋を立てるよう指示を与えられています。

3C 垂れ幕と入り口の幕 31−37
1D 垂れ幕 31−35
 そして、次が垂れ幕の説明です(この図を参照)。先ほど、神に近づけばさばかれる話をしましたが、聖所や至聖所の入口から入れば、そんなことはありません。ですから、神が示してくださったように入れば、何ら問題はないのです。これが信仰ですね。神の示してくださったように、ただ従うことが信仰です。自分の方法で近づくのが行ないであり、行ないによっては決して神に認められません。

 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。

 
至聖所と聖所は分けられていました。至聖所は、大祭司が年に一度だけ入ることが許されるところであり、聖所は祭司が日ごとに入ります。そして、それを隔てる垂れ幕は、幕と同じように、青、紫、緋色の撚り糸と亜麻布で造られています。つまり、イエス・キリストのみによって、至聖所に入ることができるのです。

 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。

 図を見ると、4つの柱がありますね(聖所の上からの図を参照)。その上にこの垂れ幕をかけるための鉤があります。

 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 この垂れ幕が仕切りです。神は、人間を救うために限りなく近づいてくださいました。幕屋の中に住み、イスラエルとともに生活をされるようになりました。けれども、この幕屋の中でさえ仕切りがあったのです。人間と神との間には、決して踏み越えることができないような仕切りがあったのです。もちろん、エデンの園においてはそんな仕切りがありませんでした。エデンの園が至聖所そのものであり、アダムとエバは、自由に神に話し、神と交わり、何も恐れることはなかったのです。しかし、アダムが罪を犯して、罪が全人類に入り、神は彼らの罪を取り除くための働きを開始されました。そして、イスラエルの民を造られましたが、そこにおいても、まだ仕切りがあったのです。


 しかし、この約1500年後、イスラエルの子孫であるイエス・キリストが十字架につけられました。そして、イエスがご自分の霊を父なる神にお渡しになった後、次のことが起こります。「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(マタイ27:51)」真二つに裂けました。しかも、上から下へとです。上から、ということは、神ご自身が裂いてくださったことを意味します。神ご自身が、人と神が決して近寄ることができなくなっていた仕切りを裂いてくださったのです。ご自分のひとり子のいのちを取るという、ものすごい犠牲を払って裂いてくださったのです。とてつもないことが起こりました。近寄ればすぐに殺されてしまうような、聖い神との隔たりは、もうなくなってしまいました。ヘブル書の著者が言いました。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)」でも、ただ近づくだけではありません。今は、この聖なる神と一つになることができるのです。イエス・キリストが流された尊い血潮によって、完全に罪が取り除かれたからです。根こそぎ取り除かれました。

 至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。

 これは、先ほど説明した用具についての説明です。上から見ると、十字架のかたちをしています。

2D 入り口の幕 36−37
 天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。

 今度は、聖所に入るところの入り口の幕です(を参照)。ここにはケルビムが織り込まれていません。なぜなら、ケルビムは主の御座のところにいるからです。

 その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。

 
見てください、台座が青銅になっています(この図を参照)。内側は銀の台座ですが、外に面するところは青銅になっています。神と世とは相容れないのです。

3B 祭壇と庭 − 神のさばき 27
 そして、私たちは聖所から出てきて、外庭に移ります。外庭には、洗盤と祭壇がありますが、ここでは祭壇と庭の囲いになっている掛け幕の説明がなされています。

1C 祭壇 1−8
 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。

 
長さも幅も2メートル20センチの正方形です(この図を参照)。

 高さは三キュビトとする。
1メートル32センチです。その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。

 
角は、聖書では力や栄光や救いを表しています。ソロモンが王位につくときに、裏切ったもとダビデの家来がいました。ヨアブです。祭壇の角をつかんで、ヨアブを打つ取ろうとしている者の手から逃れようとしました(T列王2:28参照)。角が救いを意味していたからです。

 青銅をその祭壇にかぶせる。


 聖所にある用具はみな金でしたが、ここでは青銅です。神のさばきが示されています。

 灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。

 
神のさばきが示されているこの祭壇では、全焼のいけにえや罪の犠牲のいけにえがささげられていました。そのため、肉刺しなどの用具が使われています。いけにえは燃やされて、祭壇からは煙が立ち上っていました。

 祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。

 
図を見てください。中に格子があります。まさにバーベキューの世界です。

 その網を下方、祭壇の出張りの下に取りつけ、これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。

 
祭壇も、他の用具と同じように、かつぐことができるように棒が差し込まれます。

 祭壇は中をからにして板で作らなければならない。山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。

 
これが祭壇ですが、ここは罪がさばかれる場所です。イスラエル人が、自分が犯した罪のことを思って、自分が育てている雄羊ややぎ、雄牛を連れてきます。そして、外庭に入り、祭司の前で、このいけにえに手を載せます。これは、今、自分の罪がこの動物に転嫁しているのを示すものです。そして動物は、祭壇の上で燃やされます。罪のさばきが行なわれたのです。煙が立っていますが、同じようにゲヘナも煙が立っています。イエスは、この犠牲のいけにえになってくださいました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と言われたイエスは、地獄の苦しみを味わっておられたのです。イエスが苦しいのは肉体もそうですが、何よりも苦しいのは父との断絶です。イエスは父と一つであり、父から離れることなど、とうてい考えられもしませんでした。イエスが、ゲッセマネで祈られた、「この杯をとりのけてください。」という祈りは、この祈りだったのです。しかし、神から離れるという、究極の苦しみをイエスは十字架の上で味わったのです。

2C 庭 9−19
 次は庭についての説明です(を参照)。幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。

 
100キュビトですから、44メートルの長さです。亜麻布の掛け幕が張られていました。亜麻布は、キリストの正しさを表しています。

 柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。

 
台座に青銅が用いられ、鉤と帯輪は銀です。さばきと贖いが示されています。

 同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。

 
50キュビトは22メートルの長さです。

 前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。

 東側も同じく50キュビトですが、真ん中に門が入ります。そのため、片側が15キュビト、もう一方が15キュビトの掛け幕をし、その間が門の幕になります。

 庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。

 
庭の門は、幕屋の幕と同じように、青、紫、緋色の撚り糸と、亜麻布を使った幕です(を参照)。イスラエル人がここを入るときに、キリストの姿を見て入りました。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。(ヨハネ10:9)」神に近づく方法は、ただ一つです。イエス・キリストを通してのみ入ることができます。

 ところで、この門がある場所は東です。聖所の入り口の幕も、聖所と至聖所の仕切りとなる幕も東側にあります。なぜでしょうか。答えはエゼキエル書にあります。イエスは、この地上に再び来られます。そのとき、神殿が新たに造られて、イエスがそこから世界を支配されます。イザヤは預言しました。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。(2:3)」イエスは、神殿に入られるのですが、そのとき東側から入られるのです。エゼキエル書43章4節です。「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、」私とはエゼキエルのことです。「私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光が神殿に満ちていた。」イエスが東から入られるので、東側に門があります。

 庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。

 掛け幕を支える柱の説明です。

 この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。

4B ともしびの油 − 神の聖霊 27:20−21
 こうして、外庭の説明が終わりましたが、今度は再び燭台についての説明があります。あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびをととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。

 燭台には、絶えずともしびがあります。夕方から朝まであります。これまで、幕屋、とくに聖所についての説明がありましたが、もしともしびがなかったら、机のパンも見る事ができないし、中にあるきれいな装飾を見ることができません。せっかくいろいろなすばらしいものがあっても、見ることができないのです。ですから、ここでともしびについての指示があります。そして、ともしびは油によって保たれます。

 聖書によると、油は聖霊のしるしです。預言者ゼカリヤが、燭台の幻を見ました。ともしび皿に管がついており、それは二本のオリーブの木から油が注がれるためでした。ゼカリヤが、「これは何ですか。」と御使いに聞くと、御使いは答えました。「これはゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」主の御霊を表していたのです。私たちは、今まで、幕屋の説明を受けました。そして、この幕屋は、このともしびがなければ、そのすばらしさを見ることができません。同じように、私たちは、聖霊によって光をいただかなければ、神がキリストにあって、どれほどすばらしいことをしてくださったかを見ることはできないのです。神の栄光を見ることは出来ないのです。パウロは祈りました。「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきりと見えるようになって、神の召しにとって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかを、知ることができますように。(エペソ1:17−18参照)」どうか私たちが、神がキリストにあって、どれほどすばらしいことをしてくださったのか、知ることができますようにお祈りしましょう。(祈る。)

 今、この油を整えるのはアロンとその子どもということでしたが、次回は祭司の務めについて学びます。


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