出エジプト記26−27章 「天の覆い」


アウトライン

1A 聖所 26
   1B 幕 1−14
   2B 板 15−30
   3B 垂れ幕 31−37
2A 外庭 27
   1B 祭壇 1−8
   2B 掛け幕 9−19
   3B 絶えずともす灯火 20−21

参照サイト
25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いかと思います。
Welcome to the Tabernacle Home Page
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本文

 出エジプト記26章を開いてください。今日は26章と27章を学びます。ここでのテーマは、「天の覆い」です。前回私たちは、聖所の中にある祭具について見ました。契約の箱、その箱の上にある贖いの蓋、そして供えのパンの机と、ともし火をともすための燭台です。契約の箱は神ご自身の御座を表し、贖いの蓋は、その御座に携えられたキリストの血を表していることを見ました。モーセに示された型は、天にあるものの模型です。そして供えのパンの机は、いのちのパンであるキリストご自身、それから燭台も世の光であられるキリストを表しています。そして祭司がこの聖所に来て、礼拝をささげます。つまり、いのちのパンを食べ、光の中に歩むキリスト者の姿でもあります。

 そして今回は、これら祭具が安置されている聖所を覆う、幕そのものについてみます。そして、聖所の骨格となっている板、それから聖所への入り口になっている幕などを見ていきます。

1A 聖所 26
1B 幕 1−14
26:1 幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。

 前回話しましたように、撚り糸の色はそれぞれに意味がありました。亜麻布の白は清さを表し、青色は天、紫は王位、緋色は血です。そこにケルビムが織り出されています。ケルビムは、神の御座のすぐそばにいる御使いです。

 幕屋は、金色にかがやく聖所を覆い隠す役目を果たしています。聖所、とくに至聖所が外界と露になってはいけません。なぜなら、天は地にあるものと異なり、完全であるところであり、地とは隔絶した空間だからです。預言者イザヤが、主から召されたときのことを思い出してください。イザヤ書6章1節から5節まで読みます。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』」くちびるが汚れた民の間に住んでいるイザヤは、主がおられる天を見ることによって、もうだめだ、死んでしまう、と言いました。それだけ異なります。

 そして、どれだけ上にあるものと地上のものが相容れないか、さらに具体的にコロサイ書3章を読みます。「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。・・・ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。(コロサイ3:1-6」地上のからだの諸部分は殺さなければならず、このようなことのために神の怒りが下ります。

 ですから、幕屋の中には大きな原則があります。契約の箱との接触があればあるほど、契約の箱に近ければ近いほど、栄光があり、外界とは遮断されている。そして、外界に近づけば近づくほど、神の贖いを表している銀や神のさばきを表している青銅が使われている、という原則です。それでは続けて読んでみましょう。

26:2 幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。26:3 その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。26:4 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に青いひもの輪をつける。他のつなぎ合わせたものの端にある幕の縁にも、そのようにしなければならない。26:5 その一枚の幕に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の端にも輪五十個をつけ、その輪を互いに向かい合わせにしなければならない。26:6 金の留め金五十個を作り、その留め金で幕を互いにつなぎ合わせて一つの幕屋にする。

 図を見てください。幕は長方形の形をしていますが、十枚の幕を、それぞれ五枚ずつつなぎ合わせます。そのつなぎ目には青色の糸、つまり天を表す糸を使っています。そして、五枚つなぎ合わされた幕と、もう一つの五枚つなぎ合わされた幕は、金の留め金でつなぎ合わせます。金は神の栄光を表しています。そして、このつなぎ目は、ちょうど聖所と至聖所に分かれているところです。

 なぜ、一つの幕にせず、あえて留め金を使って分けているのでしょうか?それは、聖所と至聖所の間には歴然とした隔絶があるからです。祭司は、神のところに近づくために聖所の中にはいって、神を礼拝し、神に仕えますが、至聖所は、それよりもさらに一段と聖なる所であり、決してそのままでは近づくことができない神の御座だからです。ですから、幕においてもその区別を明らかにさせて、一つではないことを表しています。

26:7 また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。26:8 その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。26:9 その五枚の幕を一つにつなぎ合わせ、また、ほかの六枚の幕を一つにつなぎ合わせ、その六枚目の幕を天幕の前で折り重ねる。

 幕はそのまま、外界に触れることはありません。その上にさらに異なる幕がかけられます。やぎの毛の幕です。色は白です。天は、清さがあることがここから分かります。幕の数は一方は五枚で、先ほどの幕と同じですが、もう一方は六枚になっています。それは今から読むところに出てきますが、幕屋のうしろの部分に余計に垂らされることになります。

26:10 そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。26:11 青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。26:12 天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。26:13 そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。

 このやぎの幕においても、聖所と至聖所が区別されているところには、留め金が使われています。そして金属は青銅です。外界に近づいているため、それだけ神のさばきがあることを示しているのです。

26:14 天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。

 やぎの毛の幕の上にさらに、おおいが二枚用いられます。やぎの毛の幕の上には、赤くなめして雄羊の皮があります。赤はもちろん、犠牲として流される血を表しています。そしてその上にじゅごんの皮とありますが、海にいるアシカみないな動物で、紅海に生息しているようです。見た目は非常に悪いです。美しくありません。これが、キリストの栄光を見事に表しています。地上におられたときのイエス・キリストは、私たちがひきつけられるような、見とれるような姿はありませんでした。「彼は見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。(イザヤ53:2」とイザヤ書に書いてあります。けれども、この方の御名を信じ、この方を礼拝しはじめるとき、私たちは、御子が神の栄光の完全な現われであることに気づきます。

 この順番に注目してください。こげ茶色のじゅごんの皮の次は赤、そして赤の次は白、そして白の次はケルビムが織られている幕です。私たちがたどる順番と同じです。見とれるような姿はないが、この方は血を流されたのを知りました。けれども、この方の血を自分のものとして受け入れるとき、自分の罪は赦され、きよめられます。つまり白です。そして、「きよい者は幸いである。その人は神を見る。」と主が言われたように、キリストの血できよめられた者が天を仰ぎ見ることができるのです。

2B 板 15−30
 そして次は板の説明です。幕屋における壁になる部分です。26:15 幕屋のために、アカシヤ材で、まっすぐに立てる板を作る。

 アカシヤ材は、キリストの人としての姿を表していることを前回学びました。

26:16 板一枚の長さは十キュビト、板一枚の幅は一キュビト半。

 長さは4メートル40センチ、幅は66センチあります。

26:17 板一枚ごとに、はめ込みのほぞ二つを作る。幕屋の板全部にこのようにしなければならない。26:18 幕屋のために板を作る。南側に板二十枚。26:19 その二十枚の板の下に銀の台座四十個を作らなければならない。一枚の板の下に、二つのほぞに二個の台座を、他の板の下にも、二つのほぞに二個の台座を作る。26:20 幕屋の他の側、すなわち北側に、板二十枚。26:21 銀の台座四十個。すなわち一枚の板の下に二個の台座。他の板の下にも二個の台座。

 板は南北にそれぞれ二十枚使います。つまり、13メートル20センチほどになります。そして、それぞれの板には、板を支える台座が二つ使われます。そして台座の材質は銀です。銀は神の贖いを表していますが、天にあるものが地に触れるときに、神の贖いが必要なのです。台座は、天と地が隔絶した存在であることを示すと同時に、神の贖いがあれば、人は神に近づけることを表しています。

26:22 幕屋のうしろ、すなわち、西側に、板六枚を作らなければならない。

 西側は板六枚が使われます。横の南北の板の数は二十枚でした。そうすると、ちょうど図のように、上空から見ると至聖所は正方形になり、聖所は二対一の長方形になります。全体では、三対一の長方形になります。

 至聖所が正方形であるのは興味深いです。なぜなら、黙示録最後に出てくる天のエルサレムもまた、正方形であるからです。長さも幅も1万2千スタディオンであり、高さも同じです。天はこのような完全形です。

26:23 幕屋のうしろの両隅のために板二枚を作らなければならない。26:24 底部では重なり合い、上部では、一つの環で一つに合うようになる。二枚とも、そのようにしなければならない。これらが両隅となる。26:25 板は八枚、その銀の台座は十六個、すなわち一枚の板の下に二個の台座、他の板の下にも二個の台座となる。

 西の板六枚の中には、至聖所の中に両端のための板二枚をさらに加えます。

26:26 アカシヤ材で横木を作る。すなわち、幕屋の一方の側の板のために五本、26:27 幕屋の他の側の板のために横木五本、幕屋のうしろ、すなわち西側の板のために横木五本を作る。26:28 板の中間にある中央横木は、端から端まで通るようにする。26:29 板には金をかぶせ、横木を通す環を金で作らなければならない。横木には金をかぶせる。26:30 あなたは山で示された定めのとおりに、幕屋を建てなければならない。

 板を固定するための横木の説明です。そして、板も横木も金がかぶされています。天における神の栄光を表しています。

3B 垂れ幕 31−37

 そして次は、聖所と至聖所を仕切る垂れ幕についての説明です。26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 垂れ幕は、他の幕と同じように五色の撚り糸でおられます。そして同じようにケルビムが織り出されます。そして、聖所と至聖所の間には四本の柱がありますが、台座の材質は銀である一方、鉤は金になっています。

 そして先ほど説明しましたように、垂れ幕の内側は大祭司が年に一度、たった一人で、入念に自分の罪をきよめたあと、そこに入ります。彼の装束には鈴がついていましたが、それは彼が至聖所で奉仕をしているときに、誤ったことを行なって死んでしまうときのことを想定してでのことです。ロープも付けられますが、外で待っているイスラエル人たちは、鈴の音が聞こえなくなったら、大祭司が主によって打たれたかもしれないので、ロープで彼の死体を引っぱり出します。だれも中にはいることができないからです。

 私たちは旧約聖書を読みすすめるならば、特にレビ記において、主の前に立つことがいかに大変なことであるかが分かります。数多くの仕切りと境目、多くの動物のいけにえ、そして手を洗うことや、血を流すことについての教えが、たくさん書かれてある事に気づきます。私たちはこのときに、神は聖なる方であることを知るのです。神がモーセに、「わたしはヤハウェである。」と言われた理由が分かります。主なる神は、いわゆる神々と呼ばれているものとは全然違う、隔絶した、決して近寄ることができない、聖なる、正しい方なのです。

 このことを考えますと、イエス・キリストが十字架で死なれたことが、いかに尊いものであるかがわかります。主が十字架につけられて、息を引き取られるときに、次のことが起こります。「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。(マタイ27:51)」真二つに裂けました。しかも、上から下へと、です。上から、ということは、神ご自身が裂いてくださったことを意味します。神ご自身が、人と神が決して近寄ることができなくなっていた仕切りを裂いてくださったのです。とてつもないことが起こりました。近寄ればすぐに殺されてしまうような、聖い神との隔たりは、もうなくなってしまいました。ヘブル書の著者が言いました。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16

 今は、ただイエスの御名によって、大胆に神に近づくことができます。それだけ簡単なのです。けれども人間は、簡単なものを複雑にしたい、神の恵みのみなもとをそのまま使うのではなく、自分で規則を作って、何とか神に近づきたいと願ってしまいます。けれども、垂れ幕はすでに引き裂かれ、神への道は大きく開かれているのです。

26:34 至聖所にあるあかしの箱の上に『贖いのふた』を置く。26:35 机を垂れ幕の外側に置き、その机は幕屋の南側にある燭台と向かい合わせる。あなたはその机を北側に置かなければならない。

 板が立てられ、幕で覆われた聖所と至聖所の中に、祭具を置きます。

26:36 天幕の入口のために、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕を作る。26:37 その幕のためにアカシヤ材の柱五本を作り、これに金をかぶせる。それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造する。

 この幕は、聖所の入り口の幕です。祭司が外庭から聖所に入るときの入口になります。ここにはケルビムは織られていません。また、柱の台座は青銅で出来ています。他の板や柱は銀でした。なぜなら、ここは外界に触れているからです。神のさばきがあるからです。

2A 外庭 27
 そして27章から、聖所の外にある庭、外庭について書かれています。

1B 祭壇 1−8
27:1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。27:2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。27:3 灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。27:4 祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。27:5 その網を下方、祭壇の出張りの下に取りつけ、これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。

 イスラエル人が神のところに来るために、幕屋の入口を通ったら、目の前にあるのがこの祭壇です。祭壇はアカシヤ材で出来ていますが、青銅がかぶされます。神のさばきを表している祭具です。寸法は2メートル20センチの正方形であり、聖所の中の祭具と比べるとかなり大きいです。そして、灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿もありますが、これは、ここが動物のいけにえをささげるところ、そして火で焼くところだからです。簡単に言ってしまうと、バーベキューをここで行ないます。四隅にある角は、力や救いを表しています。

27:6 祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。27:7 それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。27:8 祭壇は中をからにして板で作らなければならない。山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。

 他の祭具と同じように、担ぐことができるように棒があります。

 ここは罪がさばかれる場所です。イスラエル人が、自分が犯した罪のことを思って、自分が育てている雄羊ややぎ、雄牛を連れてきます。そして、外庭に入り祭司の前で、このいけにえに手を載せます。これは、今、自分の罪がこの動物に転嫁しているのを示すものです。そして動物は、祭壇の上で燃やされます。罪のさばきが行なわれたのです。煙が立っていますが、同じようにゲヘナも煙が立っています。イエスは、この犠牲のいけにえになってくださいました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と言われたイエスは、地獄の苦しみを味わっておられたのです。イエスが苦しいのは肉体もそうですが、何よりも苦しいのは父との断絶です。イエスが、ゲッセマネで祈られた、「この杯をとりのけてください。」という祈りは、この祈りだったのです。しかし、神から離れるという、究極の苦しみをイエスは十字架の上で味われたことにより、私たちが神と一つに結ばれることができるようになりました。

2B 掛け幕 9−19
 そして外庭の囲いになっている掛け幕の説明です。27:9 幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。27:10 柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。27:11 同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。

 掛け幕は亜麻布、つまり清さを表しています。そして台座は青銅、神のさばきです。南北の側の寸法は百キュビト、つまり44メートルです。

27:12 また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。27:13 前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。27:14 片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。27:15 他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。

 東西の側にある掛け幕ですが、その寸法西と東では異なっています。西側は五十キュビト、つまり22メートルですが、東側はそんなにありません。理由は、東に入口になる幕が張られるからです。

27:16 庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。27:17 庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。

 幕は四色の幕です。ここからしか幕屋の中には入ることができません。そして、その幕はキリストのみわざと栄光を表しています。イエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。(ヨハネ10:9」神に近づく方法は、ただ一つです。イエス・キリストを通してのみ入ることができます。

 ところで、この門がある場所は東です。聖所の入口の幕も、聖所と至聖所の仕切りとなる幕も東側にあります。なぜでしょうか。答えはエゼキエル書にあります。イエスは、この地上に再び来られます。そのとき、神殿が新たに造られて、イエスがそこから世界を支配されます。そして神殿に入られるのですが、そのとき東側から入られるのです。エゼキエル書43章4節です。「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。霊は私を引き上げ、」私とはエゼキエルのことです。「私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光が神殿に満ちていた。」イエスが東から入られるので、東側に門があります。

27:18 この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。27:19 幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。

 これで幕屋全体の骨格が見えました。あとまだ出てきていない、いくつかの祭具があります。青銅の洗盤と、香壇です。

3B 絶えずともす灯火 20−21
 次に燭台による、祭司の奉仕が書かれています。27:20 あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。27:21 アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびをととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。

 燭台には、絶えずともしびがあります。夕方から朝まであります。これまで、幕屋、とくに聖所についての説明がありましたが、もしともしびがなかったら、机のパンも見る事ができないし、中にあるきれいな装飾を見ることができません。せっかくいろいろなすばらしいものがあっても、見ることができないのです。ですから、ここでともしびについての指示があります。そして、ともしびは油によって保たれます。

 聖書によると、油は聖霊のしるしです。預言者ゼカリヤが、燭台の幻を見ました。ともしび皿に管がついており、それは二本のオリーブの木から油が注がれるためでした。ゼカリヤが、「これは何ですか。」と御使いに聞くと、御使いは答えました。「これはゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6)」主の御霊を表していたのです。私たちは、今まで、幕屋の説明を受けました。そして、この幕屋は、このともしびがなければ、そのすばらしさを見ることができません。同じように、私たちは、聖霊によって光をいただかなければ、神がキリストにあって、どれほどすばらしいことをしてくださったかを見ることはできないのです。神の栄光を見ることは出来ないのです(エペソ1:17参照)。

 そして次回は、祭司の装束についてです。


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