出エジプト記27−29章 「主への聖別」
アウトライン
1A 外庭 27
1B 祭壇 1−8
2B 掛け幕 9−19
3B ともし火 20−21
2A 祭司 28−29
1B 装束 28
1C エポデ 1−6
2C 肩当て 7−14
3C 胸当て 15−30
4C 青服 31−35
5C ターバン 36−38
6C 長服 39−43
2B 任職 29
1C 装束への着換え 1−9
2C 罪と全焼のいけにえ 10−18
3C 和解のいけにえ 19−34
4C 七日間の任職式 35−46
参照サイト 25章以降の幕屋の造りについては、以下のサイトをご参照されると良いでしょう。 Welcome to the Tabernacle Home Page The 3D Bible Project |
本文
出エジプト記27章を開いてください。前回私たちは、シナイ山の上にモーセを呼ばれた神が、幕屋を造りなさいと命じられて、その中にある祭具や幕について作り方の指示を与えられたところを読みました。契約の箱、贖いの蓋、供えのパンの机、燭台を初めに語られ、それから五枚の幕と板と柱、そして最後に聖所と至聖所を仕切る垂れ幕を読みました。
ここまでで、聖所の中にあるものを大方、網羅しています。次は聖所の外、外庭にあるものを主に取り扱っています。
1A 外庭 27
1B 祭壇 1−8
27:1 祭壇をアカシヤ材で作る。その祭壇は長さ五キュビト、幅五キュビトの四角形でなければならない。高さは三キュビトとする。27:2 その四隅の上に角を作る。その角は祭壇の一部でなければならない。青銅をその祭壇にかぶせる。27:3 灰を取るつぼ、十能、鉢、肉刺し、火皿を作る。祭壇の用具はみな、青銅で作らなければならない。27:4 祭壇のために、青銅の網細工の格子を作り、その網の上の四隅に、青銅の環を四個作る。27:5 その網を下方、祭壇の出張りの下に取りつけ、これを祭壇の高さの半ばに達するようにする。27:6 祭壇のために、棒を、アカシヤ材の棒を作り、それらに青銅をかぶせる。27:7 それらの棒は環に通されなければならない。祭壇がかつがれるとき、棒は祭壇の両側にある。27:8 祭壇は中をからにして板で作らなければならない。山であなたに示されたところにしたがって、彼らはこれを作らなければならない。
イスラエルの民にとって、また祭司にとっても、幕屋において最も活動が盛んなところと言えば、まさしくこの祭壇であります。幕屋の入口から入るとすぐに祭壇があり、そこで火による捧げ物をささげます。私たちはこれまで、アベルの時から全焼のいけにえによる、神への礼拝を読んできました。ノアもささげ、アブラハム、イサク、ヤコブもささげ、そして今、主がイスラエルの民に祭壇によって、恒常的にご自分にささげる壇を設けられたのです。
これからずっと見ていきますが、祭壇における儀式は残酷であります。動物がほふられ、その血を四隅の角につけたり、回りに注いだり、そしてその体を祭壇の上で焼きます。その解体の姿を見れば、私たちが考えるような礼拝の姿、つまり穏やかで、まとまりのある、ほんわかしたような雰囲気がまったくありません。そこには、流血と燃える火の固まりがあります。
祭壇というのはヘブル語で基本的に、「殺す」という意味があります。ここに、私たちが罪を犯せばどのようなことになるのかの現実があります。主がアダムとエバが罪を犯した後、その裸体に動物の皮によって衣を着せてあげましたが、彼らの罪を覆うために必要だったのは、動物の命の犠牲だったのです。この重たい事実が、罪を犯すということに付きまとっているのです。
ローマ6章23節に、「罪から来る報酬は死です。」とあります。日本語の言い回しで、「水に流す」というものがありますが、悪や罪は水に流す程度のものによって取り去られるものではないのです。まさに血を流さなければいけないのです。それによって、私たちを造られた神に立ち戻ることができる救いとなります。日本の宗教や私たちの感覚では測り知れないほどの深い癒し、根っこから心を変えてくれる神の霊の働きがあるのは、罪から来る死を身代わりの死によって赦す、という残酷で、極めて深刻な方法を取っているからです。
現代社会において、十字架は教会堂の飾りであったり、ネックレスの飾りであったりしますが、人間社会にある究極の苦しみ、むごたらしさの象徴でした。圧政的なローマが考え出した、なるべく苦痛をともなう形での処刑台だったのです。目を背けたくなるその凄惨な出来事を、私たちは教会の礼拝で思い出します。なぜなら、キリストの十字架こそが人間の根っこにある問題を根こそぎ解決することができる力を持っているからです。
祭壇は長さと幅が同じ正方形の形をしており、そして青銅で覆われます。四隅の角は、力や救いを表しています。そして、前回もお話したように青銅は神の裁きを表します。そして、動物をバーベキューのようにして焼くのは、その火が神の裁きの火を表しているからです。「私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル12:29)」「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示21:8)」
恐ろしいと思われるかもしれませんが、いや、これら動物がイスラエル人の罪に代わって血を流し、火で燃やされているのです。したがって、むしろ罪と神の怒りからの救いを彼らは知り、そこで本当の意味で心の清めが行われ、神への道が開かれることになります。
2B 掛け幕 9−19
27:9 幕屋の庭を造る。南側に面して、庭の掛け幕を、その側のための長さ百キュビトの撚り糸で織った亜麻布を、張る。27:10 柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。27:11 同じように、北に面して、その長さで、長さ百キュビトの掛け幕とする。柱は二十本、その二十個の台座は青銅で、柱の鉤と帯輪は銀とする。27:12 また、西に面して庭の幅には五十キュビトの掛け幕、その柱十本、その台座十個とする。
聖所をこの掛け幕によって取り囲みます。「亜麻布」の白は正しさや清さを表しています。長さと幅は二対一です。長さは約44メートル、幅は22メートルです。そして、聖所の板と同じように台座で柱を支えます。台座も柱も青銅で作ります。
そして東向きに入口があるのですが、その入口のみしか聖所には近づくことができません。ここに、私たちが神について、救いについて考えなければいけないことがあります。それは、「すべての道は神に通じる」のではない、ということです。多くの人々が、仏教でもキリスト教でも、イスラム教でも、結局、同じものを信じているのだ。または、良いことを行っている人であれば神に到達できる、と思っているのです。けれども、それはあたかも亜麻布の掛け幕から中に侵入してもよい、と言っているようなものです。そうすれば、青銅の柱また台座が表している神の裁きによって滅んでしまうだけです。
27:13 前面の東に面する庭の幅も五十キュビト。27:14 片側に寄せて、十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。27:15 他の片側にも十五キュビトの掛け幕と、その三本の柱、その三個の台座とする。27:16 庭の門には、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を使った長さ二十キュビトの刺繍した幕と、その四本の柱、その四個の台座とする。
東向きの掛け幕には、中央に庭の門があります。それは、前回出てきた聖所の入口の幕と同じように、青色、紫色、緋色の撚り糸、そして亜麻布で作ります。つまり、天から降りてこられたイエス・キリスト、ユダヤ人の王として血を流して死なれたイエス様を表しているのです。イエス様は、「わたしは羊の門です」と言われましたが、この方によってのみ庭の中に入ることができるのです。
ところで、東という方角について考えてみたいと思います。東向きに門があり、聖所の入り口も東側にあり、そして中の垂れ幕も東側から入ります。イスラエル旅行に行った時に、当時のカナン人など異教徒の祭壇はその反対で、西側から東を向くかたちで礼拝をささげます。なぜか?日の出る方向だからです。太陽が出てくるので、それを神として崇めるために西から東に入るのですが、まことの神をあがめる時は、その反対方向を向いて、あえて「わたしは、主にお従いします。」という行為を取るようにさせたわけです。
生きた信仰というのは、世の流れに逆らうようなものです。牧者チャック・スミスのお母さんは、かつて子供のチャックに対して、「死んだ魚は川の流れにしたがっていくけれども、流れに逆らうのは生きている証拠なのよ。」ということを話しました。
幕屋の後に、ソロモンの時代には神殿が建てられますが、その時も入り口は東です。そして、主が終わりの日に建ててくださる神殿がエゼキエル書に幻の中に記されていますが、東向きの門です。そしてエゼキエル書43章によると、「主の栄光が東向きの門を通って宮にはいって来た。(4節)」とあります。メシヤがエルサレムに来られるのも、東からであります。
27:17 庭の周囲の柱はみな、銀の帯輪を巻きつけ、その鉤は銀、台座は青銅とする。27:18 この庭は、長さ百キュビト、幅は五十キュビトに五十キュビト、高さ五キュビト、幕は撚り糸で織った亜麻布、その台座は青銅とする。27:19 幕屋の奉仕に用いるすべての用具、すべての釘、庭のすべての釘は青銅とする。
興味深いですね、聖所では銀は台座に使われていましたが、庭では上の部分、鉤と帯輪に用いています。前回学びましたように「銀」は贖いを表しています。つまり、神の怒りと裁きがあって初めて贖いがあるのだ、という順番です。
3B ともし火 20−21
27:20 あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。27:21 アロンとその子らは、あかしの箱の前の垂れ幕の外側にある会見の天幕で夕方から朝まで、主の前にそのともしびをととのえなければならない。これはイスラエル人が代々守るべき永遠のおきてである。
話は外庭から、聖所の中にある燭台に戻ります。聖所に入りますと左側に金の燭台がありましたね。それを祭司は、いつも絶やすことなく、ともしびを整えなければいけないという教えです。そこにある一切のものは、この光がなければ見ることができません。前回学びましたように、その光はキリストご自身の光であり、また私たちがその光の中で歩むことを表していました。
そしてその光をともすことのできるのは、「油」であります。聖書には「油」が数多く出てきますが、神のために用いられる時には聖霊の働きを表しています。ゼカリヤ書4章で、ゼカリヤがオリーブの木から管が出ていて、燭台のともしび皿に油を供給している幻を見ました。それが意味するところは「わたしの霊」つまりご聖霊だったのです。聖霊が燭台の光、つまり神の聖さと正しさをもたらすことができます。
私たちが聖なる御霊に満たされることによって、初めて神の光の中に歩むことができます。キリストの血、そして御霊の満たしによって、私たちは神の聖さの中にいることができるのです。
2A 祭司 28−29
そして28章、そして29章は、幕屋の中で奉仕する祭司についての教えが始まります。
1B 装束 28
1C エポデ 1−6
28:1 あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。
主がアロンとその子孫を、祭司を行なうように任命されました。だれもが祭司になるようなものではありません。後に、イスラエルが南北に分裂する時、北イスラエルの王ヤロブアムは勝手に人を集めて祭司の務めを行なわせましたが、それは間違っていました。あくまでも主が呼び出され、任命した者でなければ、その務めを果たすことができないのです。
パウロはしばしば、自分のことを「神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ(1コリント1:1)」と呼んでいます。自分が選んで使徒になったのではなく、神が召す、つまり、「あなたを遣わす」と神が呼び出されたので使徒になっているのだ、というのです。私たちも、主にお仕えしている中で自分が呼ばれているところを知ります。
私たちは、「では私は何に召されているのだろう」と悩みます。その時は安心してください、あなたはすでに召されています。イエス・キリストを信じている、というのは、それ自体が神に召された暁なのです。パウロはこう言いました。「ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。(1コリント7:17)」つまり、救われた自分が置かれているところが、そのまま神が召してくださったところです。
今、引用したのは、奴隷の身分であった人が信仰を持った時に自由人になるべきかどうかという議論の中でパウロが回答した部分ですが、自由人になる機会があればなりなさい。けれども、それができなければ、神のみこころを行なえていないということではありません。今、自分の置かれているところが、必ずしも理想的な環境でないかもしれません。けれども、主のみこころはそこにあり、そして時が来れば、そこから出させてくださいます。
28:2 また、あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表わす聖なる装束を作れ。
大祭司アロンの着る装束は、「栄光と美を表す聖なる」ものであります。神の栄光を表し、またその美を表し、さらに聖なる神に属するものであります。第一礼拝で学びましたように、これはまさにイエス・キリストご自身を指し示しています。キリストこそが、神の本質と栄光の完全な現われであり、人となり私たちの大祭司となってくださいました。
28:3 あなたは、わたしが知恵の霊を満たした、心に知恵のある者たちに告げて、彼らにアロンの装束を作らせなければならない。彼を聖別し、わたしのために祭司の務めをさせるためである。
知恵の霊で主が満たされた人については、また後で出てきます。その時にお話ししたいと思いますが、ご聖霊は知恵の霊であられます。
28:4 彼らが作らなければならない装束は次のとおりである。胸当て、エポデ、青服、市松模様の長服、かぶり物、飾り帯。彼らは、あなたの兄弟アロンとその子らに、わたしのために祭司の務めをさせるため、この聖なる装束を作らなければならない。28:5 それで彼らは、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに亜麻布を受け取らなければならない。28:6 彼らに金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布を用い、巧みなわざでエポデを作らせる。
装束の中でもっとも目立つのは、この「エポデ」です。ちょうどエプロンみたいなもので、正面と背中の両面を覆います。そして、幕屋の幕と同じように、青色、紫色、緋色の撚り糸が使われ、それに加えて「金色」も混ざっています。したがって、これは天から来られたキリストの御業と共に、キリストにある神の栄光を表しています。
私たちは人としてのイエス様の姿を福音書の中でよく知っていますが、一度、高い山において、輝く御姿に変えられましたね。神の栄光の輝きなのです。
2C 肩当て 7−14
28:7 これにつける二つの肩当てがあって、その両端に、それぞれつけられなければならない。28:8 エポデの上に結ぶあや織りの帯は、エポデと同じように、同じ材料、すなわち金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作る。28:9 二つのしまめのうを取ったなら、その上にイスラエルの子らの名を刻む。28:10 その六つの名を一つの石に、残りの六つの名をもう一つの石に、生まれた順に刻む。28:11 印を彫る宝石細工師の細工で、イスラエルの子らの名を、その二つの石に彫り、それぞれを金のわくにはめ込まなければならない。28:12 その二つの石をイスラエルの子らの記念の石としてエポデの肩当てにつける。アロンは主の前で、彼らの名を両肩に負い、記念とする。28:13 あなたは金のわくを作り、28:14 また、二つの純金の鎖を作り、これを編んで、撚ったひもとし、この撚った鎖を、先のわくに、取りつけなければならない。
エポデを身に付ける時はちょうど、上からかぶるようにして、頭を入れて着るのですが、その肩掛けには、ここにあるような「肩当て」がありました。それはしまめのうの石で出来ており、そしてイスラエル十二部族の名が刻み込まれています。宝石には、イスラエル部族の名が刻み込まれます。生まれた順ですから、片方には「ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ」と刻まれ、もう片方には、「ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミン」と刻まれています。
しかも、それを金の枠と鎖で肩に留めるわけです。第一礼拝でお話ししたように、大祭司はイスラエルの名をこのように自分の肩に載せ、イスラエルの重荷を担います。そして、神にとってイスラエルはご自分の栄光の中に置いていてくださるのです。そして、贖われた私たちも同じように、その名が神の前で一人一人書き記されています。「ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。(ルカ10:20)」そして主は、私たちを羊飼いが羊を肩にかつぐようにかついでいてくださいます。
3C 胸当て 15−30
28:15 あなたはさばきの胸当てを、巧みな細工で作る。それをエポデの細工と同じように作らなければならない。すなわち、金色や、青色、紫色、緋色の撚り糸、それに撚り糸で織った亜麻布で作らなければならない。28:16 それは、四角形で、二重にし、長さは一あたり、幅は一あたりとしなければならない。
「一あたり」は、親指と小指を広げた時の長さになります。
28:17 その中に、宝石をはめ込み、宝石を四列にする。すなわち、第一列は赤めのう、トパ一ズ、エメラルド。28:18 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。28:19 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶、28:20 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくにはめ込まなければならない。28:21 この宝石はイスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい十二個でなければならない。十二部族のために、その印の彫り物が一つの名につき一つずつ、なければならない。
胸当ての特徴はこれら十二の宝石です。それはイスラエルの子らの名によるものであると、先ほどの肩当てと同じように、イスラエルの名を記念しています。
この宝石と似たようなものが、本物の天にも現われます。天のエルサレムにおいて、その都の十二の門にもイスラエルの名が書き記されていますが、十二の宝石からなる土台石があります。それは十二使徒の名が書き記されています。つまり教会です。イスラエルによって私たちは神を知りましたが、けれども、真理の土台はイエスを神の御子キリストであると告白する教会にあります。
28:22 また編んで撚った純金の鎖を胸当てにつける。28:23 胸当てに、金の環二個をつけ、その二個の環を胸当ての両端につける。28:24 この二筋の金のひもを胸当ての両端の二個の環につける。28:25 その二筋のひもの他の端を、先の二つのわくにつけ、エポデの肩当てに外側に向くようにつけなければならない。28:26 ほかに二個の金の環を作り、これを胸当ての両端、すなわち、エポデの前に来る胸当ての内側の縁につける。28:27 ほかに二個の金の環を作り、これをエポデの二つの肩当ての下端の外側に、すなわち、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に接した面の上につける。28:28 胸当ては、青ひもで、その環のところをエポデの環に結びつけ、エポデのあや織りの帯の上にあるようにする。胸当てがエポデからずり落ちないようにしなければならない。28:29 アロンが聖所にはいるときには、さばきの胸当てにあるイスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず主の前で記念としなければならない。
ここには、細かく胸当てを、きちんと胸に当たっているように、ずれ落ちないように留めるための紐について書いてあります。金の鎖とまた管によって、また青ひもによって留めます。このようにして、29節「イスラエルの子らの名をその胸の上に載せ、絶えず主の前で記念」とするのです。このようにイスラエルの名は神にとって宝であり、そして絶えず大祭司の胸の中に覚えておられるのです。主は、ご自分を恐れる者たちについて、「わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。(マラキ3:17)」と言われました。
私たちキリスト者も同じように、イエス・キリストの御胸の中に抱かれています。そして、神はキリストにあって私たちを宝だと思っておられます。
28:30 さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。
胸当ては袋状になっていますが、その中に「ウリムとトンミム」がありました。訳しますと「光と完全」であります。宝石だったのでしょうか、その材質や形状は知られていません。使われた目的だけは知っています。「さばき」とあります。イスラエルが、例えば戦いに出る時に、具体的にそれが御心なのかどうか知ろうとする時に、大祭司がウリムとトンミムによって、「はい」か「いいえ」を神に伺います(民数27:21)。つまり、自分ではなく主によって戦いに臨む、ということです。
4C 青服 31−35
28:31 エポデの下に着る青服を、青色の撚り糸だけで作る。28:32 その真中に頭を通す口を作る。その口の周囲には、織物の縁をつけ、よろいのえりのようにし、ほころびないようにしなければならない。
青服の説明です。エポデの下に着ているものです。「青」は天を表していますね。エポデは地に来られたイエス・キリストの御業を示していましたが、この方の本質は天にあります。
28:33 そのすそに、青色、紫色、緋色の撚り糸で、ざくろを作り、そのすその回りにこれをつけ、その回りのざくろの間に金の鈴をつける。28:34 すなわち、青服のすその回りに金の鈴、ざくろ、金の鈴、ざくろ、となるようにする。28:35 アロンはこれを務めを行なうために着る。彼が聖所にはいり、主の前に出るとき、またそこを去るとき、その音が聞こえるようにする。彼が死なないためである。
大祭司の絵を見ていただければお分かりのとおり、青服の下には何かが付いています。それがここの、青色の糸を丸めたざくろの形をしたものと、金の鈴が交互に付いているのです。
そしてなぜこれが付いているのかと言いますと、よく分かりません。よくある話は、大祭司に紐をつけて、彼が至聖所に入って何か過ちを犯したら、彼はその場で死んでしまいます。すると鈴の音は消えます。それで大祭司が死んでしまったことを知るのですが、誰も至聖所の中には入れないので、紐によって引き出す、というものです。それだけ至聖所の中が聖いということを示してはいるのですが、聖書の中には大祭司に紐を付けていたという記述はありません。
ヒントとなるのは、ルカによる福音書1章で、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが神殿に入って香をたくことになっていましたが、その間、民が外で祈っていたとあります(10節)。イスラエルの民が、大祭司が聖所の中で何を行なっているか、祈りつつ意識していくのに助けになったのではないか、というものです(参照:"MOSES and the gods of Egypt" by John J. Davis)。ですから、その音は、紐ではなく、民の祈りによって彼が過ちを犯すことなく守られ、その命が守られるため、ということではないか、というものです。
5C ターバン 36−38
28:36 また、純金の札を作り、その上に印を彫るように、『主への聖なるもの』と彫り、28:37 これを青ひもにつけ、それをかぶり物につける。それはかぶり物の前面に来るようにしなければならない。28:38 これがアロンの額の上にあるなら、アロンは、イスラエル人の聖別する聖なる物、すなわち、彼らのすべての聖なるささげ物に関しての咎を負う。これは、それらの物が主の前に受け入れられるために、絶えずアロンの額の上になければならない。
大祭司は、肩、胸当てだけでなく、頭の上にもイスラエルの民を覚えていました。そして、それは彼らの咎を負うこと、つまり、彼らのために神の前で罪の赦しの執り成しをすることであります。そのことによって、彼らが「主への聖なるもの」となるべく祈るのです。これはもちろん、私たちの主、イエス・キリストが私たちのために執り成しの祈りをささげ、そして私たちが聖なる者として神の前に立つことができるようにしてくださっているのです。
6C 長服 39−43
28:39 亜麻布で市松模様の長服を作り、亜麻布でかぶり物を作る。飾り帯は刺繍して作らなければならない。28:40 あなたはアロンの子らのために長服を作り、また彼らのために飾り帯を作り、彼らのために、栄光と美を表わすターバンを作らなければならない。28:41 これらをあなたの兄弟アロン、および彼とともにいるその子らに着せ、彼らに油をそそぎ、彼らを祭司職に任命し、彼らを聖別して祭司としてわたしに仕えさせよ。
青服の下には亜麻布の長服を身に付けます。これは白色であり、イエス・キリストの正しさを表しています。そして大祭司以外の祭司は、この長服のみの装束となります。
28:42 彼らのために、裸をおおう亜麻布のももひきを作れ。腰からももにまで届くようにしなければならない。28:43 アロンとその子らは、会見の天幕にはいるとき、あるいは聖所で務めを行なうために祭壇に近づくとき、これを着る。彼らが咎を負って、死ぬことのないためである。これは、彼と彼の後の子孫とのための永遠のおきてである。
中が見えないようにするためです。聖なる神の前に見せないようにするためです。以前も、石の祭壇ではのみを当ててはならない、なぜなら階段を上る時に、裸が見えてしまうからだ、という神の指示がありました(20:26)。
2B 任職 29
1C 装束への着換え 1−9
29:1 あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。29:2 種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。29:3 これらを一つのかごに入れ、そのかごといっしょに、あの一頭の雄牛と二頭の雄羊とをささげよ。
これから主はモーセに対して、アロンとその息子が祭司になるべくその任命式の手順を教えられます。彼らに必要なのは「聖別」でした。何か自分が特別な能力を持つようになるためではなく、聖め別たれ、専ら主に仕える者になるためです。「聖別」というのは、「別たれる」という意味であり、いろいろあるものから、一つの用途のために分けられるということです。ですから、私たちが神の御心を行なうためには、これから何か特別なことを加えて行うことではなく、すでにあるものが精錬されることです。自分が他にやりたい野望、違う動機、意図などが、少しずつ自分の思いと心の中から取り除かれていくなかで、主の御心とその幻を見ることができます。
そして具体的には、動物のいけにえと穀物のささげものを行ないます。後で詳しく指示を与えられます。
29:4 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。29:5 あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。29:6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。29:7 そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。29:8 彼の子らを近づけ、彼らに長服を着せなければならない。29:9 アロンとその子らに飾り帯を締めさせ、ターバンを巻きつけさせる。永遠のおきてによって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたは、アロンとその子らを祭司職に任命せよ。
彼らはまず、祭司の装束を身に付けることによって任職式に入ります。その装束を身に付ける前に、天幕の入口の近くで水洗いをしなければなりません。そして水洗いをするのは、彼ら自身ではなくモーセが行います。
つまり、それはちょうどイエス様が弟子たちの足を洗われた時に似ています。あの時ペテロが、主が自分の足を洗われるのを非常に驚き、洗わないでくださいと言いましたが、イエス様は、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない。」と言われました。するとペテロは、「全身を洗ってください。」と言ったら、イエス様は、「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。(ヨハネ13:10)」と言われました。
つまり、この水洗いというのは、水が表している御霊による清めのことを指しています。パウロはコリントの人たちが、いろいろ忌まわしいことを以前行っていたが、「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:11)」と言いました。全身を水洗いするのと同じように、御霊の洗いを受けることによって初めて、神の祭司として聖別されるのです。
つまり、彼らは祭司の務めをする前に、救われていなければならない、ということです。「そんなことあるわけがない。」と思われるかもしれないでしょう。例えば、救われていない牧師など存在しないだろうという思いだと思います。けれども、存在するのです!牧会も、また他のクリスチャンの奉仕も、何かをすることではなく、まず、自分自身が御霊によって洗われている、そして罪から清められた存在であるという認識と確信から始まり、その延長にある奉仕なのです。
そして、注ぎの油も受けます。これは少量あてがうのではなく、かなりの量を注ぎます。「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。(詩篇133:2)」この箇所の前に、兄弟たちが一つになることは、なんという幸せなのだろう、ということが書かれていますが、これは潤いや恵み豊かさを表しています。
なぜ油を注ぐのか?再び、ご聖霊の働きの一つです。御霊はしばしば、命を与え、また洗いを与える時に「水」として形容されますが、油としても形容されます。それは、自分独りでは決してできない豊かな働き、祝福、そして恵みを人々に分け与える時に、ご聖霊がその能力を私たちに付与してくださるからです。ご聖霊の賜物を受けることによって、私たちは神に任された務めを、人々を潤す形で行うことができます。
そして、装束を身に付けるという行為そのものも、私たちにはとても大事です。なぜなら、私たちは御霊によって新しく生まれたら、新しい人になったのですが、その新しい性質を自分に密着した存在として、習慣化させなければいけないからです。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。(エペソ4:22-24)」
私たちは、何か新しいことを習う時に、初めはぎこちないです。「自然体でやれば良いではないか。」という意見の人は、まだ新しい事を行なうとは何を意味するか分かっていない人です。楽器を新しく習うにしても、スキーなど新しいスポーツに取り組むにしても、外国を習得するにしても、初めは基本を習得するときに、自然体で出来るわけがありません。けれども、一度身に付けると、まるで体の一部のようになって、何も考えなくても咄嗟に反応することができます。
それが、私たちにとって新しい人を着ることです。私がクリスチャンになったばかりの時、「パンツを穿くときに、どちらの足から入れますか?」と聞かれました。聞かれて、しばらく考えなければいけませんね、それだけあまりにも自然なのですが、「右足からです」と答えました。「それでは、次から左足から入れてみてください。」と言われました。これはあくまでも例えですが、キリストに形造られた新しい人も同じように、初めは不自然であるかもしれませんが、必ず自分でも意識しないぐらい自然になっていくのです。
2C 罪と全焼のいけにえ 10−18
29:10 あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。29:11 あなたは、会見の天幕の入口で、主の前に、その雄牛をほふり、29:12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。29:13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。29:14 ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。
アロンとその子らが祭司として聖別されるために必要な次の手順は、「罪のいけにえ」を屠ることでした。自らが罪人であるという強烈な自覚がないかぎり、他の人々の罪のためのいけにえを捧げることはできません。「雄牛」を捧げなさいと主は命じられていますが、家畜の中でも最も高価な動物です。それだけ大きな対価がともなう罪を私自身が犯した、という意識がなければならないのです。
ヘブル人への手紙5章に次のように書いてあります。「大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。(1-3節)」この「思いやる」という行為は、自分自身がその罪を犯しかねない弱い存在だ、ということをよく知っているから、できることです。
ですから、主のための働きをしたい人が聖別される時には、これまで以上に自分は罪人であり、神の憐れみによって赦されたのだという意識が芽生えます。パウロは、自分が以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者であった、ゆえに、「私はその罪人のかしらです。(1テモテ1:15)」と告白しました。
ところで、罪のいけにえの手順ですが、まず頭に手を置きます。「按手」ともしばしば言われますが、これは手を置いている対象と自分を一体化させる行為です。教会で誰かを宣教地に送り出すときに、祈って手を置きますが、それは、その人が宣教地にいっても私たち教会は彼と一つです、という告白と祈りをしているのです。したがって、ここでは自分の罪がこの牛に転嫁したとみなす行為です。これからこの牛の首を掻き裂き、血があふれ流れ、それを祭壇の角につけ、残りを土台に流し、内臓を火で焼きます。これらを見て、自分の罪の対価はこのようなものなのだ、と自覚するのです。この牛が、自分の罪の身代わりになった、ということです。
ゆえに、キリストの十字架は私たちの罪の転嫁であったのです。逆にキリストの義も私たちに転嫁されました。交換したのです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(2コリント5:21)」
そして罪のためのいけにえの特徴は、全焼のいけにえのようにすべてを祭壇の上で焼くのではなく、「雄牛の肉と皮と汚物」は宿営の外で焼きます。レビ記で詳しくお話ししたいですが、これはイエス・キリストがイスラエル人たちの住むエルサレムの町を出て、そこで十字架につけられたことを予め表しているものです(ヘブル13:12-13)。
29:15 あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。29:16 あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。29:17 また、その雄羊を部分に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部分や頭といっしょにしなければならない。29:18 その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である。
用意している雄羊のうち一頭は、全焼のいけにえとして用います。全焼のいけにえは、今お話ししましたようにすべてを焼く、というところに特徴があります。そして、この出てきた煙が「なだめのかおり」となるとありますね。これは英語で、"sweet aroma"であり、「甘い香り」とも訳せるものであります。つまり、バーベキューの香りです!もちろん、これは物理的に良い香りの話をしているのではなく、このいけにえを快く受け入れておられる、喜んでおられる、ということです。
主が喜ばれるのは、私たちが自分の一切のことを主にゆだねる姿、おささげる姿です。自分が、何ができるかという能力ではなく、「自分はここにいます。あなたが用いられたいように、どうぞお使いください。」という態度です。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)」
日本の教会ではしばしば、牧者や伝道者などすべての時間を奉仕に費やしている人を「献身者」と呼びます。けれどもそれは間違っており、全ての人が献身者です。「すべてのことにおいて、主よ、あなたが介入してください。私にどのようなことが起こっても、あなたは善いお方ですから、それが最善の計画です。私を捨て、あなたのみを選び取ります。」という態度であり、それは今、ご自分が働いている職場でも、家の中でもできるわけです。その中で主が導いてくださるときに、その場で主に、牧師や宣教師などと同じように、高尚な任務を果たしています。
3C 和解のいけにえ 19−34
29:19 あなたはもう一頭の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。29:20 あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。29:21 あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。
もう一頭の雄羊は和解のいけにえとして用いられますが、その前にその血を、このように彼らの体にあてがい、また装束に振りかけます。興味深いのは、右の耳たぶ、右手の親指、そして右足の親指に付けることです。「右」は聖書では権威を表します。ここでは「血によって、それぞれの器官を聖別している」ということです。
祭司が聞いていることが、他の一般の人々が聞いている声と異なり、主の御声のみを聞くことができるように、あらゆる雑音から、主が大切だと思われていることだけを聞くことができるように、という願いです。そして、親指に血をつけるのは、自分が行っている働きがいつも主が行っていることだけであるように、ということです。自分が主から離れて、自分の考え、自分の気持ちだけで行なっていることはないだろうか?ただ御霊の導きで行なっていることのみを行ないたい、という願いです。それから足の親指に血をつけるのは、「歩み」が聖別されるよに、ということです。自分が歩んでいる道がはたして、主にかなったものなのだろうか?自分が計画を立てている時に、自分が願っていることなのか、それとも主が願っていることなのか、それを確かめながら歩む、ということです。
そして祭壇にある血と油を装束につけるのは、つねにキリストの血と聖霊の油が自分を特徴づけているように、ということであります。
29:22 あなたはその雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓、その上の脂肪、および、右のももを取る。これは、任職の雄羊である。29:23 主の前にある種を入れないパンのかごの丸型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個、29:24 これらをみなアロンの手のひらと、その子らの手のひらに載せ、これらを奉献物として主に向かって揺り動かす。29:25 これらを、彼らの手から取り、全焼のいけにえといっしょに祭壇の上で焼いて煙とし、主の前になだめのかおりとする。これは、主への火によるささげ物である。
和解のいけにえの特徴は、豊かな部分、つまり脂肪ののっている部位を主に捧げます。「そういう脂がある部分が僕は好きなんだけれどもな。」と思う人はまさにその通りで、その豊かさを主にお捧げする、良質なところを主にお捧げする、ということです。そしてパンも共に捧げます。これらも、穀物にある命を主に捧げる、という意味です。
29:26 あなたはアロンの任職用の雄羊の胸を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受け取る分となる。29:27 あなたがアロンとその子らの任職用の雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸と、奉納物として、ささげられたももとを聖別するなら、29:28 それは、アロンとその子らがイスラエル人から受け取る永遠の分け前となる。それは奉納物であり、それはイスラエル人からの和解のいけにえの奉納物、すなわち、主への奉納物であるから。
残りの部位、胸の肉は祭壇の上で焼きません。彼らの分け前となります。「和解のいけにえ」というのは、「交わりのいけにえ」と呼んでも良いでしょう。主と和解して、主と一つになることができた、主との間に交わりができた、ということです。ですから、主に自分のすべてを捧げた暁には、主が食べているものと同じ動物を、自分も食べるという交わりをすることができる、ということです。
聖書の中には食べる行為がたくさん出てきます。そして食べることが礼拝行為になることがあります。私たちが受け取る聖餐ですが、ぶどう酒もパンもあのような少量ではありません。実際は大きな食事なのです。言わば「同じ釜の飯を食べた仲」という交わりを、キリストとの間で持つのです。
そして、この胸肉は奉献物として揺り動かすとありますが、これは自分の前で神に対して前後に揺り動かします。主から受け取ったものを感謝しています。
29:29 アロンの聖なる装束は、彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて、油そそがれ、祭司職に任命されなければならない。29:30 彼の子らのうち、彼に代わって祭司となる者は、聖所で務めを行なうために会見の天幕にはいるとき、七日間、これを着なければならない。
アロンの装束は、代々受け継がれていきます。そして任職式も新しい人が大祭司になる時に改めて行います。
29:31 あなたは任職用の雄羊を取り、聖なる場所で、その肉を煮なければならない。29:32 アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。29:33 彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。ほかの者は食べてはならない。これらは聖なる物である。29:34 もし、任職用の肉またはパンが、朝まで残ったなら、その残りは火で焼く。食べてはならない。これは聖なる物である。
これが胸肉の食べ方です。聖なる所で食べます。そして、他の人々は食べてはなりません。次の日に残ってしまっても食べてはなりません。つまりこれは、主によって聖別を受けた人のみが楽しむことのできる交わりであり、また、いつまでも取っておくことのできない、その瞬間瞬間、主が与えてくださる御霊の促しによって楽しむものだ、ということです。
4C 七日間の任職式 35−46
29:35 あなたが、わたしの命じたすべてのことをそのとおりに、アロンとその子らに行なったなら、七日間、任職式を行なわなければならない。29:36 毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。
任職式は、初めに雄牛と雄羊二頭をささげるだけではなく、罪のためのいけにえを続けて七日間行います。また、油も祭壇の上に注ぎます。これは、「神が完全に祭司の罪を贖った」ということを表すためです。「七」は完全数で、神の数ですから、祭司の贖いの完成を意味しています。
29:37 七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。29:38 祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。29:39 一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。29:40 一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。29:41 もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。
祭司のみならず、祭壇も聖めを受けます。これも七日間行うことによって、完全に聖別を受けるようにします。朝夕、それぞれ雄羊をささげますが、オリーブ油がまざった小麦粉も共にささげます。そして、「注ぎのささげ物」があります。これは命を捧げきったことを表しており、パウロが皇帝ネロによって死刑判決を受ける直前に書いたテモテ第二の手紙で、「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。(4:6)」と言いました。
そして祭壇を聖別した後にある、主が祭壇に対して持っておられる大きな目的が次に書いてあります。
29:42 これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。29:43 その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。29:44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。29:45 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。29:46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。
主がそこまで徹底して、祭壇を聖別しなさいと言われた目的は、「その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。」そして、「その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。」そして、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」であります!シナイ山のふもとで、恐ろしい光景を見たイスラエル人は、こんなにも近くに神が近づいてくてくださるのです。それも、このような徹底した罪の贖いと聖めが行われたおかげです。
主は同じように、生ける神として私たちに語ってくださいます。生ける主がイスラエル人に会ってくださいます。そして、彼らは神の栄光にまみえることができます。そして、主がイスラエル人の間に住んでくださいます。事実、彼らの神となってくださいます!
私たちは、神を単に「神」と呼ぶことは容易です。けれども、「私の神」と呼ぶことができるでしょうか?そこまで個人的に、親密に、現実のものとして、聖書の神を体験しているでしょうか?ぜひ、大祭司が通った任職の儀式をみなさんも通ってください。すなわち、御霊の洗いを受けてください。聖霊の油注ぎを受けてください。自らが罪を犯したという認識、罪のいけにえを受け取ってください。そして、すべてのことを主にささげてください。そして、聞くこと、手を動かしていること、また歩いていることについて、主に聖別されてください。そして、主からの分け前を楽しんでください。