出エジプト記29章 「祭司の任命 パート2」


アウトライン

1A 装束 28 (前回講解)
   1B 祭司の務め 1−5
   2B 作成 6−43
      1C エポデ 6−14
      2C 胸当て 15−30
      3C その他 31−43
2A 任職 29
   1B 水洗い 1−9
   2B いけにえ 10−34
      1C 罪と全焼のいけにえ 10−18
      2C 任職の雄羊 19−34
   3B 祭壇の贖い 35−46

本文

 出エジプト記29章を開いてください。今回は前回に引き続き、「祭司の務め」というメッセージ題で語らせていただきます。前回の学び28章は、祭司の装束あるいは祭服について見きました。そこには、キリストの栄光と美が現われており、大祭司自身が、偉大な祭司であられるキリストを示していることを学びました。そして次は、祭司の任職式についての教えです。実際の任職式はレビ記に書かれていますが、シナイ山において主がモーセにこうしなさいと命じられている場面です。

2A 任職 29
1B 水洗い 1−9
29:1 あなたは、彼らを祭司としてわたしに仕えるように聖別するため、次のことを彼らにしなければならない。すなわち、若い雄牛一頭、傷のない雄羊二頭を取れ。29:2 種を入れないパンと、油を混ぜた種を入れない輪型のパンと、油を塗った種を入れないせんべいとを取れ。これらは最良の小麦粉で作らなければならない。29:3 これらを一つのかごに入れ、そのかごといっしょに、あの一頭の雄牛と二頭の雄羊とをささげよ。

 任職式に必要なもの、用意しなければいけないものがここに書かれています。一つは、動物のいけにえです。雄牛一頭と雄羊二頭ですが、それぞれ、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえのために用いられます。そして種なしパンを用意します。イースト菌が入っていないパンのことです。

29:4 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗わなければならない。

 これから装束を身につけるわけですが、その前に自分たちの体の水洗いをモーセが行ないます。これは衛生上の理由ではなく、儀式的意味があります。前回、装束を身につけるのは、キリストを自分の身にまとう私たちのことである、と説明しました。今ここで水洗いをするのは、私たちがキリストを身につけるときに、御霊による洗いと聖めが行なわれたことを象徴するものです。パウロはコリント人たちに、「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6:11」と書きました。またテトスに対して、「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:5」とも書いています。神の御霊による新生を経験するときに、私たちは洗いの経験もしたのです。

 イエスさまが十字架につけられる前の夜、弟子たちと過越の食事をするときに、一つの象徴的な行動を取られました。(以下ヨハネ13章参照)弟子たちの足を洗うことを、です。これはしもべが家の主人が帰ってきたときに行なうことでしたから、イエスさまがこれを行なうなど考えられないことです。そこでペテロが、「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言いました。するとイエスさまは、「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」と答えられています。「これはまずい!」と思ったペテロはすかさず、「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と頼んでいます。ペテロらしくて良いですね、イエスさまとの関係を確かにしたかったのです。するとイエスさまがこのようなことを言われています。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。]

 ペテロは罪を犯しますが、イエスさまは全身がきよいと宣言されています。足以外は洗う必要がない、つまり、この地との接触がありその汚れたところだけを洗えばよい、と言われています。これがキリスト者の聖別、聖化の立場です。私たちは、キリストの御名と神の御霊によって全身、洗われました。ですから、もう自分が救われて天に入ることができるのか、できないのかを悩む必要はありません。けれども、自分の思いの中には、古い人によって形造られた価値観、習慣が残存しています。これが、地上での歩みの中でさらに積み上げられていきます。したがって私たちは日々の歩みの中で、みことばによって、またキリストの血潮によって洗いきよめていただきます。このように、私たちは全身洗われているのです。けれども、イエスさまは「みながそうではない」と言われていますが、それはイスカリオテのユダのことです。物理的にイエスとともにいましたが、イエスとの関係を持っていなかった人です。ですから、アロンのその子らは任職式にあたって、全身、水洗いを受けました。

29:5 あなたは、装束を取り、アロンに長服とエポデの下に着る青服と、エポデと胸当てとを着せ、エポデのあや織りの帯を締めさせる。29:6 彼の頭にかぶり物をかぶらせ、そのかぶり物の上に、聖別の記章を掛ける。

 前回話したとおりの、祭司の装束です。洗ったあとに身につけます。

29:7 そそぎの油を取って、彼の頭にそそぎ、彼に油そそぎをする。

 「油」がでてくるときは、これは神の御霊、聖霊のことを指していると覚えておいてください。ゼカリヤ書の中に、金の燭台(ミノラー)と、オリーブの木から油が注がれる幻を預言者ゼカリヤが見ている場面があります。これは何か分からないでいるゼカリヤに対して、御使いが、「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。(4:6」と言いました。オリーブの油は主の御霊を表していました。また使徒ヨハネは、「あなたがたは聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持っています。(1ヨハネ2:20」と言っています。聖霊の賜物の恵みを受ける中において、初めて祭司たちは主に仕えることができるのです。(この「祭司」というのは、前回学びましたように、私たちのことを指しています。)

29:8 彼の子らを近づけ、彼らに長服を着せなければならない。29:9 アロンとその子らに飾り帯を締めさせ、ターバンを巻きつけさせる。永遠のおきてによって、祭司の職は彼らのものとなる。あなたは、アロンとその子らを祭司職に任命せよ。

 前回話しましたように、大祭司アロン以外の祭司たちは、亜麻布の長服だけの装束を身につけます。そして永遠のおきてによって祭司の職は彼らのものとなる、とありますが、祭司職はこれからアロンの家系のみ、となります。ですから、新約聖書のイエスさまの時代におけるカヤパなどの大祭司もみな、アロンの系図における大祭司ということになります。紀元70年にエルサレムの神殿が破壊されてから祭司の務めは行なわれていませんが、もうその必要はありません。なぜなら、律法を完成してくださったキリストが、神の右の座で大祭司の務めを執り行っておられるからです。

2B いけにえ 10−34
 次に、動物をいけにえとしてささげる儀式に入ります。

1C 罪と全焼のいけにえ 10−18
29:10 あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。29:11 あなたは、会見の天幕の入口で、主の前に、その雄牛をほふり、29:12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。

 先ほど用意した雄牛一頭ですが、これは罪のためのいけにえとして用いられます。これからよむいけにえの儀式はレビ記に詳しく書かれていますが、ここでも説明します。天幕の入口のところにある祭壇の前に、雄牛を連れてきます。この頭の上の手を置きますが、新約聖書においても、使徒行伝にて、パウロとバルナバがアンテオケの教会の指導者らの手を置かれたことを思い出してください(13章参照)。これは、遣わす人々が遣わされる人々と一緒になる、つまり、「あなたがた二人だけで宣教地に行くのではなく、私たちも霊において一緒なのだよ。」ということを意味していました。ここで雄牛の頭に手を置くのも同じです。これから雄牛はほふられ、血を流し、祭壇の火で焼かれます。実はこれは、自分であること、自分の身代わりにこの牛が死ぬのだということを表していたのです。この牛は罪のためのいけにえですから、自分の罪のために流される血、そして火によるさばきだったのです。

 ところで、レビ記を読まれると、いけにえやささげものの説明の順番が、1章が全焼のいけにえ、2章が穀物のささげもの、3章が和解のいけにえ、そして4章に罪のためのいけにえとなっています。ところが、ここでは罪のためのいけにえは一番目で、二番目が全焼のいけにえ、そして三番目に和解のいけにえがあります。なぜ異なるかと言いますと、レビ記における説明は、すでに祭司たちが天幕における奉仕にあずかっているときにどうすればよいかの教えであり、ここ出エジプト記では、まだ奉仕にあずかっておらず、任職のためにしなければいけない教えだからです。

 つまり、先ほどの水洗いにおける点と関連します。救われるために初めにしなければいけないことは、自分の罪を認め、罪の赦しを願うところから始まる、ということです。罪が神と人との仕切りになっているので、全焼のいけにえが表す献身や、和解のいけにえが表す交わりをする前に、まず罪を処理しなければいけないのです。キリストの十字架が、私たちのすべての罪を赦す力を持っています。そこで、祭司は罪のためのいけにえを初めにささげなければいけません。

29:13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。29:14 ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。

 罪のいけにえは、すべてを祭壇の上で火で焼きません。肉と皮と汚物は、宿営の外で焼きます。それはなぜでしょうか?ヘブル書13章に説明があります。「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(11-12節)」イエスさまが十字架につけられたとき、そのゴルゴダの丘はエルサレムの城壁の外にありました。したがって、宿営の外で焼かれたその肉は、キリストのからだを表していたのです。

29:15 あなたは雄羊一頭を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置かなければならない。29:16 あなたはその雄羊をほふり、その血を取り、これを祭壇の回りに注ぎかける。29:17 また、その雄羊を部分に切り分け、その内臓とその足を洗い、これらをほかの部分や頭といっしょにしなければならない。29:18 その雄羊を全部祭壇の上で焼いて煙にする。これは、主への全焼のいけにえで、なだめのかおりであり、主への火によるささげ物である。

 罪のためのいけにえの次は、全焼のいけにえです。全焼のいけにえは、その名のごとく、すべてを祭壇の上で焼きます。これは、私たちの主への献身を表しています。ローマ人への手紙12章は、パウロが11章までに語った、神の恵みとあわれみによってどのように生きれば良いのか、その具体的な勧めが書かれていますが、その初めに彼はこう言っています。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ささげなさい、という勧めです。私たちは、救われるために主の御名を呼ぶ祈りの中で、「イエスさま、あなたがこれから私の生涯の主となってください。」と祈りますが、これがささげることです。自分の生活と人生を主に舵取りしていただくこと、自分ではなく、主に生きていただくこと、これが献身であり、全焼のいけにえが表しているところです。

2C 任職の雄羊 19−34
29:19 あなたはもう一頭の雄羊を取り、アロンとその子らはその雄羊の頭に手を置く。

 三等目のいけにえ、雄羊を取ります。これが任職の雄羊と呼ばれ、また同時に和解のいけにえであります。自分の罪を赦していただき、そして自分を主にゆだねて、それから行なうことは、主に仕えつつ、主と交わることです。和解のいけにえは、平和のいけにえとも訳せますが、主の平和があり、主との交わりにあずかるためのいけにえです。

29:20 あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子らの右の耳たぶ、また、彼らの右手の親指と、右足の親指につけ、その血を祭壇の回りに注ぎかける。

 血は、右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指につけられます。右は権威を示しますが、祭司が神の声を自分の耳で聞き、神の御用を自分の手で果たし、神の使命を自分の足で運びます。そのときに、耳も手も足も聖められていなければならず、聖めのために血がつけられるのです。私たちが日々の雑音の中で、神の声を聞き分けられるように、清められる必要があります。また、この手が、悪いこと、間違っていることから離れて、神さまのために用いられていなければいけません。また、足も、神の悲しまれるところへは行かず、神が喜ばれる所に足を運ぶ必要があります。こうして、私たちは、神との交わりを保つことができるのです。

29:21 あなたが、祭壇の上にある血とそそぎの油を取って、アロンとその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とに振りかけると、彼とその装束、および、彼とともにいる彼の子らとその装束とは聖なるものとなる。

 血と油を注ぎます。かなり汚くなってしまうのではないか、と私たちは思ってしまいますが、けれども儀式では、これこそが聖められるために必要なことです。キリストの血と、聖霊の油注ぎが私たちが、神の御用にあずかるために必要なことです。私たちは失敗することはないでしょうか?失格者と呼ばれても仕方がないことを行なってしまうことはないでしょうか?神の恵みが必要です、キリストの血です。そして私たちは自分たちで頑張っても不毛に終わったことはないでしょうか?聖霊の満たしが必要なのです。

29:22 あなたはその雄羊の脂肪、あぶら尾、内臓をおおう脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓、その上の脂肪、および、右のももを取る。これは、任職の雄羊である。

 和解のいけにえは、脂肪や内臓は祭壇の上で火で焼きますが、肉は取っておき、それは祭司が後で食べます。一つのものを、一部は主のものとなり、一部は祭司のものとなります。それによって交わりを行なうのです。一つのものを互いに分かち合うことが、交わりです。

29:23 主の前にある種を入れないパンのかごの丸型のパン一個と、油を入れた輪型のパン一個と、せんべい一個、29:24 これらをみなアロンの手のひらと、その子らの手のひらに載せ、これらを奉献物として主に向かって揺り動かす。

 レビ記では、穀物のささげものとしてでてくるものです。パンが表しているのは、キリストのいのちです。イエスは、「わたしがいのちのパンです」と言われました。パン種は罪を表していますから、罪なきキリストのからだ、あるいはいのちを表しています。油を混ぜているのは、聖霊に満たされたところのいのちを意味しています。

 そして奉献物ですが、これは主に対してお祝いをしているジェスチャーです。左右ではなく前後に揺り動かします。

29:25 これらを、彼らの手から取り、全焼のいけにえといっしょに祭壇の上で焼いて煙とし、主の前になだめのかおりとする。これは、主への火によるささげ物である。29:26 あなたはアロンの任職用の雄羊の胸を取り、これを奉献物として主に向かって揺り動かす。これは、あなたの受け取る分となる。29:27 あなたがアロンとその子らの任職用の雄羊の、奉献物として揺り動かされた胸と、奉納物として、ささげられたももとを聖別するなら、29:28 それは、アロンとその子らがイスラエル人から受け取る永遠の分け前となる。それは奉納物であり、それはイスラエル人からの和解のいけにえの奉納物、すなわち、主への奉納物であるから。

 先ほど話したように、肉の部分、胸とももとは祭司が食べる分です。今ここで、奉納物と出てきましたが、これは、上に差し伸べるささげ物を意味しています。つまり、神さまに差し伸べているのです。私たちも賛美をするときに、手を上げることがありますが、それは、この奉納物から来ているのです。

29:29 アロンの聖なる装束は、彼の跡を継ぐ子らのものとなり、彼らはこれを着けて、油そそがれ、祭司職に任命されなければならない。29:30 彼の子らのうち、彼に代わって祭司となる者は、聖所で務めを行なうために会見の天幕にはいるとき、七日間、これを着なければならない。

 アロンの祭司職がその子らに受け継がれるとき、同じ装束を身につけて任職式につかなければいけません。

29:31 あなたは任職用の雄羊を取り、聖なる場所で、その肉を煮なければならない。

 肉は煮なければいけません。祭壇の上では焼かれましたが、ここでは煮る必要があります。なぜなら、交わりには私たち人間が関わっているからです。火で焼かれるのは、聖くされて神のものになることですが、焼かれないと罪が残るという象徴があります。ですから、神は、煮た肉を受け入れませんが、今ここでは祭司たちが関わっています。祭司たちにはまだ罪があります。罪が赦され、罪が清められたのですが、罪がなくなったわけではありません。私たちもそうですね。神と交わりをするときに、私たちの罪がなくなっているのではありません。使徒ヨハネは、「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 (ヨハネ第一1:8」と言いました。

29:32 アロンとその子らは、会見の天幕の入口で、その雄羊の肉と、かごの中のパンとを食べる。29:33 彼らは、彼らを祭司職に任命し、聖別するための贖いに用いられたものを、食べる。ほかの者は食べてはならない。これらは聖なる物である。29:34 もし、任職用の肉またはパンが、朝まで残ったなら、その残りは火で焼く。食べてはならない。これは聖なる物である。

 これは聖なる物である、という言い回しが繰り返されています。他の人は決して食べてはならず、朝まで残ったら、火で焼かなければいけません。これは、聖別された者にしか神を交わることはできないことを意味します。ですから他の旧約聖書の箇所に、祭司でない者が祭司の務めを行なおうとするとき、主に咎められている場面が出てきます。サムエルを待ちきれずに、自分でいけにえをささげたサウル王や、神殿の中にはいったウジヤ王がらい病にかかりました。

3B 祭壇の贖い 35−46
 次に人だけではなく、祭壇を聖別する儀式を読みます。29:35 あなたが、わたしの命じたすべてのことをそのとおりに、アロンとその子らに行なったなら、七日間、任職式を行なわなければならない。29:36 毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛一頭をささげなければならない。祭壇のための贖いをするときには、その上に罪のためのいけにえをささげ、これを聖別するために油をそそぐ。

 任職式は七日間続きます。そして毎日、罪のためのいけにえをささげなければいけません。これは、完全数である七、つまり神によって完全に罪赦されることを象徴するからでしょう。私たちも、自分のすべての罪が、神によって完全にきよめられたことを確信するべきです。

 そして次に祭壇を聖める儀式があります。29:37 七日間にわたって祭壇のための贖いをしなければならない。あなたがそれを聖別すれば、祭壇は最も聖なるものとなる。祭壇に触れるものもすべて聖なるものとなる。

 祭壇は唯一、イスラエル人が神の前に近づくときに、そばに行くことができ、また触れることができる祭具です。これを聖別しなければいけません。

29:38 祭壇の上にささげるべき物は次のとおりである。毎日絶やすことなく一歳の若い雄羊二頭。29:39 一頭の若い雄羊は朝ささげ、他の一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。

 朝と夕に雄牛が一頭ずつささげられます。スポルジョンが書いたもので「朝ごとに、夕ごとに」というデボーションの本がありますが、朝に夕に、主にお会いすることは良いことですね。

29:40 一頭の若い雄羊には、上質のオリーブ油四分の一ヒンを混ぜた最良の小麦粉十分の一エパと、また注ぎのささげ物として、ぶどう酒四分の一ヒンが添えられる。

 油が混ざっている小麦粉と、そして注ぎのささげ物があります。ですから、いけにえとささげものの種類は、罪のためのいけにえ、全焼のいけにえ、和解のいけにえ、穀物のささげものの他に、注ぎのささげ物があります。(レビ記にはこの他に、罪過のためのいけにえがあります。)パウロが、ネロの前に出て死刑に定められる直前に、テモテに書いた手紙の中でこう言いました。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。(2テモテ4:6」自分の命を注ぐ、ということです。

29:41 もう一頭の若い雄羊は夕暮れにささげなければならない。これには朝の穀物のささげ物や、注ぎのささげ物を同じく添えてささげなければならない。それは、なだめのかおりのためであり、主への火によるささげ物である。

 朝と同じく夕も同じささげ物を添えます。そして、これはなだめのかおり、つまり主が快く受け入れてくださるためのいけにえであります。

29:42 これは、主の前、会見の天幕の入口で、あなたがたが代々にわたって、絶やすことのない全焼のいけにえである。その所でわたしはあなたがたに会い、その所であなたと語る。29:43 その所でわたしはイスラエル人に会う。そこはわたしの栄光によって聖とされる。

 祭壇が聖別された理由は、先ほども言いましたように、イスラエル人が主のところに行くことができる唯一の場所だからです。そして主はここで、「わたしはイスラエル人に会う」と約束されています。すばらしいですね、主にお会いすることができるのです。

29:44 わたしは会見の天幕と祭壇を聖別する。またアロンとその子らを聖別して、彼らを祭司としてわたしに仕えさせよう。29:45 わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう。29:46 彼らは、わたしが彼らの神、主であり、彼らの間に住むために、彼らをエジプトの地から連れ出した者であることを知るようになる。わたしは彼らの神、主である。

 主は会ってくださるだけでなく、イスラエル人の間に住んでくださいます。これが実は、神がもっとも人に願っていることです。ご自分とともに住むこと、です。新約聖書では、とくにヨハネの福音書や手紙の中に「とどまる」という言葉が出てきます。原語では「住む」と同じ意味です。父なる神とキリストが私たちのうちに住んでくださり、そして私たちがキリストのうちに住みます。このような交わりと結びつきが、私たち人間が存在する究極の目的です。聖書のいちばん最後、黙示録の最後のところを読んでみてください。永遠の先にあるものは、新しいエルサレム、天から降りてくる都です。こう書いてあります。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、(また彼らの神となり) (21:3」とあります。神が個人的に関わってくださる方になり、ともに住むようになってくださる、これが永遠のいのちです。ですから幕屋は、人が生きることの目的、神と会うことを教えてくれています。


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