出エジプト記 32−34章 「主の臨在」

アウトライン

1A 待つべきもの 32
   1B 教訓 (待たないなことよって犯す過ち) 1−6
   2B 保証 (待たなかったけれども、主は見捨てない) 7−14
      1C 人の行ないによるさばき 7−10
      2C 神の約束によるあわれみ 11−14
   3B 戒規 (待たなかったので、訓練を受ける) 15−29
      1C 懲戒 15−20
      2C 対決 21−24
      3C 除去 25−29
   4B 報酬 (待たないことには、報いがともなう) 30−35
2A 求めるべきもの 33
   1B 悲しみ (悲しみがあるので、求める) 1−6
   2B 飢え渇き (飢え渇いているので、求める) 7−22
      1C 語り合う 7−11
      2C 知り合う 12−16
      3C 見る 17−23
3A 楽しむべきもの 34
   1B 主の御名 (主のご性質を知って楽しむ) 1−9
      1C 真実 1−4
      2C いつくしみ 5−9
   2B 主の戒め (主の戒めを行なって楽しむ) 10−27
      1C 消極的側面 10−17
      2C 積極的側面 18−26
   3B 主の栄光 (主の栄光にふれて楽しむ) 28−35
      1C 受けたものを与える 28−32
      2C 振り向いておおいを取る 33−35


本文

 出エジプト記32章をお開きください。今日は、32章から34章までを学びます。ここでのテーマは、「主の臨在」です。それではさっそく、本文に入りましょう。

1A 待つべきもの 32
1B 教訓 (待たないなことよって犯す過ち) 1−6
 民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」

 イスラエルの民が、モーセに代わって他の神をアロンに求めています。それは、「モーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見た」からだとあります。私たちは前回と前々回において、モーセがシナイ山において神から啓示を受けていたところを学びました。実に25章から31章までという長い箇所が、その啓示でした。幕屋のことと、祭司のことについて神から語りかけを受けていました。それが、40日間続いていたと24章18節にはあります。したがって、イスラエルの民は、簡単に言うとじれったくなってきたのです。モーセがいっしょにいないから、主なる神がともにおられることを意識することができなくなり、彼らは待ち切れなくなったのです。そのときに行動に出たのが、「神を、造ってください。」というものです。偶像を造ることをアロンに迫りました。

 私たちは、彼らの行動があまりにも突拍子すぎて理解できないかもしれません。けれども、彼らがずっと長い間、エジプトに地に生きていたことを考えるとすぐに分かります。エジプトにはあらゆるものが神として拝まれていました。それは彼らがふだん見なれたものであり、ある意味で愛着さえ感じていたのかもしれません。主がいっしょにいてくださるという意識が持てないので、その代用物としてほっとできるものを彼らは造りたかったのです。ローマ書には、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(1:23」とあります。私たちが生ける神がともにおられることが分からなくなり、主を待ち望むことができなくなったとき、自分の心に偶像を造ってしまいます。古くから親しんできたもの、慣れているもの、ごく自然に存在していたものに戻っていってしまいます。ヨハネの福音書21章で、ペテロが、復活の主が現われるのを待つことができずに、漁に出て行ってしまいましたね。イスラエルの民が求めていることは、実は私たちにも十分起こりえることなのです。ゼカリヤは、「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。(2:13)」と言いました。私たちは、主の御前に静まって、主を待ち望むことが必要です。

 それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。

 
アロンは、イスラエルの民からの強い要請に立ち向かうことができませんでした。ここで金の子牛を造っています。神の意見よりも、大多数の意見に押されてしまったのです。これは、つねに難しいことです。ローマ総督ピラトがイエスを十字架につけたのは、あの騒ぎ立てるユダヤ人たちの圧力によるものでした。私たちも、神のみこころよりも、大多数の意見を取るという誘惑にさらされています。そして、造ったのは金の子牛ですが、子牛はエジプトにおいて神として拝まれていました。ですから、やはり彼らは昔の古い生活に引き戻されているのです。

 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。


 これは、単なるお祭りではありません。桜の下でお酒によってカラオケをしているような風景を思い起こしてはいけません。ここの「戯れた」とは、性的な乱れです。彼らは、十戒の第一と第二の戒めを破っただけでなく、「姦淫を犯してはならない。」という戒めを早くも破ってしまいました。

 けれども、なぜこんなにも早く転落できるのか、と思ってしまうかもしれません。なぜ、こんなに罪を早く犯すのか、と思ってしまうでしょう。それは、ガラテヤ書に記されている、信仰によって御霊によって生きることと、律法の行ないによって、肉の行ないで生きることの差から生じている事であります。モーセは、神から律法を授かった人物ですが、信仰によって生きていました。ヘブル書11章には、モーセが信仰によって、エジプトからイスラエル人を導き出したことが述べられています。その一方、ヘブル書4章には、彼らが荒野で滅んだのは、不信仰によることであり、聞いたみことばが、信仰によって結びつけられなかったとあります。モーセは、その召命が与えられるそのときから、神の声を聞いて、神と語り合って、神に従っています。神との人格的な関わりを持っています。その反面、イスラエルの人々は、神を遠くでみたり、そのしるしを見たりしましたが、神との直接的な交わりを持っていたわけではありません。ですから、十戒を聞いたときは、それを信仰によって聞いたのではなく、まさに律法の行ないによって義を達成しようとしたのです。しかし、肉はほんとうに弱いものです。私たちがどんなに自分を良くしようと思っても、その肉は決して改善しません。そのことが、このイスラエル人たちの転落に良く現われています。ですから、大事なのは、モーセのような神との交わりなのです。神の臨在の中に入って、そこで主のみことばを聞いて、主に語る必要があります。

2B 保証 (待たなかったけれども、主は見捨てない) 7−14
1C 人の行ないによるさばき 7−10
 そして次から、主ご自身とモーセとの語り合いが始まります。主はモーセに仰せられた。「さあ、すぐ降りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまったから。彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道からはずれ、自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえをささげ、『イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。』と言っている。」

 モーセは、主のこのことばを聞いてさぞかし驚いたことでしょう。ずっと幕屋についてのことや、祭司についてのことを聞いていて、神聖な話しをを聞いてきたのに、とつぜん鋳物の子牛をくつって、性的に乱れている、という話しを聞いています。

 主はまた、モーセに仰せられた。「わたしはこの民を見た。これは、実にうなじのこわい民だ。今はただ、わたしのするままにせよ。わたしの怒りが彼らに向かって燃え上がって、わたしが彼らを絶ち滅ぼすためだ。しかし、わたしはあなたを大いなる国民としよう。」


 主は、イスラエルをすべて滅ぼして、そしてモーセひとりから再び子孫を出して、大きな国民にするとおっしゃっています。これは、主がモーセを試してこうおっしゃっているのですが、でも、嘘をおっしゃっているのではありません。彼らが行なっていることは死に値するものであり、彼らはみな殺されなければならなかったのです。聖書には、「罪の報酬は死です。(ローマ6:23)」とあります。彼らが行ないは死に値することでした。

2C 神の約束によるあわれみ 11−14
 けれどもモーセはすぐに、神に反論しています。主が思い直されるほどの反論をしかけています。どのような反論か、見てみましょう。しかしモーセは、彼の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたご自分の民に向かって、どうして、あなたは御怒りを燃やされるのですか。」

 モーセは、主がなされたみわざを持ち出してきています。あなたが力強い御手をもって、エジプトの地から連れ出されたのでしょう。そして、イスラエルはあなたの民でしょう、と言っています。先ほど、神さまはモーセに、「あなたがエジプトの地から連れ上っったあなたの民は」とおっしゃっていましたね。なんか責任のなすりつけあいみたいです。「あなたがやったんだろう。」「いや私ではない。あなただ。」と言っているような議論になっています。冗談ですが、でも、ここが大事なのです。7節から10節までの主のみことばは、人の行ないについてです。11節からは神の行ないについてです。人の行ないに焦点を当てるなら、確かにちまち滅んでしまいます。けれども、神の行ないに焦点を当てるなら、そのにはあわれみと、恵みと救いがあるのです。だから、モーセは、人の行ないにより頼んだのではなく、主の行ない、主のみわざにより頼んだのです。私たちもここが大事です。私たちがクリスチャンとして生活するときに、神がイエス・キリストにあってしてくださったことに信頼して歩むとき、慰めとあわれみと、助けがあります。信仰生活が安定します。だから、モーセは主のみわざにより頼みました。そして続けてより頼んでいます。

 また、どうしてエジプト人が『神は彼らを山地で殺し、地の面から絶ち滅ぼすために、悪意をもって彼らを連れ出したのだ。』と言うようにされるのですか。どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。

 ここでは、主のみわざではなく、主の名声に訴えています。あなたの名前がすたれますよ、あなたの栄光に陰りが出ますよ、と言っています。

 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルを覚えてください。あなたはご自身にかけて彼らに誓い、そうして、彼らに、「わたしはあなたがたの子孫を空の星のようにふやし、わたしが約束したこの地をすべて、あなたがたの子孫に与え、彼らは永久にこれを相続地とするようになる。」と仰せられたのです。

 
主のみわざと主の御名の次に、主の約束により頼んでいます。アブラハムとイサクとイスラエルに与えた約束に訴えています。これは大事ですね。イエスを信じる者は永遠のいのちを持つ。罪がすべて赦された。神の子どもとなる。神の前で正しいと認められている、などなど、神の約束にしがみつくことが必要です。なぜなら、私たちがいつも、そのように感じていることができないからです。救われないという気持ちになるときがあります。でも、救われないと感じても、神のみことばは堅く立つのです。

 モーセの執り成しの結果を見てください。すると、主はその民に下すと仰せられたわざわいを思い直された。

 
思い直されました。神の御わざにより頼む、つまり恵みによって生きるときに、私たちはわざわいから免れることができます。ここで注意しなければならないのは、神のみこころがモーセの祈りによって変わったのではない、ということです。祈りによって神のみこころを変えるのではありません。それは無理だし、無理でなかったとしても百害あって一利なしです。神のみこころは完全であり、神は私たちに最善のことを行なってくださいます。それを変えようとする試みは、自分自身が不幸の道へと選ぶことに他なりません。神は、モーセがこのように祈るのを初めからご存知だったのです。その予知に基づいて、モーセに祈るように促されたのです。神は、ご自分が何かをされたいと願われるとき、まず私たちに祈る心を置いてくださいます。祈りの課題をおいてくださるのです。そして、私たちが祈ると、その祈りによってご自分のみわざを行なわれます。ですから、祈りは、神のみわざのなかに自分が入っていく、と言ったらよいでしょう。あるいは、神のみこころと一つになっていく、と考えれば良いのです。

3B 戒規 (待たなかったので、訓練を受ける) 15−29
1C 懲戒 15−20
 モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

 この板は十戒が書かれています。そして、なんと神ご自身がお書きになりました。

 ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。

 
24章を見ますと、ヨシュアは、山の途中までいっしょに来たことが分かります。彼はずっと、40日間そこにいたんですね。

 「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。

 モーセは怒り狂いました。しかし、罪を犯しているのではなく、むしろ逆に神の怒りを表わしています。義憤ですね。あかしの板を砕いてしまいましたが、これは、彼らが十戒を破ったことを象徴しています。そして、子牛を焼いて、砕いて、水にまき散らし、イスラエル人たちの飲ませました。

 神が思い直して下さったのに、こんなひどいことはすることないだろう、と思われるかもしれません。あわれんでおられるなら、こんなに厳しくならなくても、と考えられるかもしれません。けれども、聖書が語っているあわれみは、私たちが日本で耳にする「慈悲」とは全く性質を別にするものです。観音のような、あの慈悲深さではないのです。神のあわれみは、その懲らしめや訓練の中にも現われます。私たちが罪を犯さないように、私たちを滅ぼす罪から離れることができるように、ときどきこのようなむちを与えるのです。熱いストーブに手を出そうとして言うことをきかない息子を、お尻を叩いて叱る父親のようにです。父親もこれは辛いことなのですが、息子の手が焼きただれることのほうが、もっと辛いのです。だから、モーセの怒りの中には、こうした神の懲らしめが現われています。

2C 対決 21−24
 懲らしめの次は対決です。モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」モーセがアロンに問い詰めています。アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。

 
アロンは言い逃れをしました。自分の責任にしませんでした。その結果、何をしているでしょうか、他の人々を責めています。「民の悪いのを知っているでしょう。」と言っています。これ、ずっと前のこと思い出しませんか?アダムが神さまから問い詰められたとき、エバのせいにしましたよね。私たちは、自分の責任を認めないと、すぐに他の人や物を非難します。

 彼らは私に言いました。「私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」
あらら、アロンは嘘をついてしまっています。かなり混乱していたのでしょう。けれども、自分の責任を認めなかったり、自分の罪を認めないと、続けて他の罪を犯してしまうのです。箴言では、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(28:13)」とあります。私たちは、罪を認めて、それを告白して捨てるときに、神の豊かなあわれみと恵みが注がれるのです。

3C 除去 25−29

 モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。

 金の子牛の前で破廉恥な行為をしているとき、近くに住んでいた異邦人たちが駆けつけて、彼らを眺めていたのでしょう。

 そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。

 この偶像崇拝と不品行に加わらなかった人々が一部いたようです。モーセと同じレビ族の人たちがそうでした。

 そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。

 
これを残虐と考えたら、読み間違っています。イスラエルの民は200万、300万人いました。その中で、モーセがやって来ても、この悪い行ないを止めない、心をかたくなにする者たちだけを殺したのです。

 そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」

 とても大切な言葉ですね。たとえ家族の者でこの行ないをしている者がいても、それに加わってはならない、圧されて同じことをしてはいけない、と言っています。私たちも、自分たちが正しいと信じていることについて、周りの人たちの意見や行動に逆らっても立ちあがらなければいけないのです。

4B 報酬 (待たないことには、報いがともなう) 30−35
 翌日になって、モーセは民に言った。翌日になりました。あなたがたは大きな罪を犯した。それで今、私は主のところに上って行く。たぶんあなたがたの罪のために贖うことができるでしょう。できるでしょう、というよりも、できるだろう、という感じだったと思います。かなり威厳をもって話しています。でも次をご覧ください。そこでモーセは主のところに戻って、申し上げた。「ああ、この民は大きな罪を犯してしまいました。自分たちのために金の神を造ったのです。」

 
態度ががらっと変わっていますね。ああ、ごめんなさい。主よ、すみません!という感じです。でも、これがモーセの役割をしっかりと表わしています。なぜなら、モーセは神とイスラエルの民との仲介者だったからです。民に対してモーセは、神を代表していました。神がどうお考えになっているか、どうお感じになっているか、そうしたことを人々に表わしたのです。そして、神に対しては、民の代表でした。民がどのように考えているか、どう感じているのかを神に表わしました。民は罪が赦されたかったのです。罪を告白したかったのです。それで、モーセが罪の告白しています。

 そして次に、驚くべき発言がなされています。今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら・・。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。

 お赦しくださるなら、― と、長い沈黙が続いていることがわかります。モーセはどうすればよいか、どう執り成しをすればよいか分からなかったのでしょう。もう滅ぼされて当然なのです。でも、彼らを何とかして救いたい。そこで、自分が滅ぼされて、地獄に行ってもいいです、とここでは言っているのです。自分の愛する者たちのために、地獄に行くことを願ってしまう、これほどモーセは民を愛していました。新約聖書では、パウロがそうでしたね。ローマ書9章を読みますと、こう書いてあります。「私はキリストにあって真実を言い、偽りを言いません。次のことは、私の良心も、聖霊によってあかししています。私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(1−3)」ここまでの愛を、私は正直行って持っていません。自分の家族のため、友人たちが天国に行くのを引き換えに、自分が地獄に行くことを願うほど、私は愛を持っていません。恥じ入るばかりです。けれども、次に神はモーセがそんなことをしなくてもよいことを話されます。そうなんです、私たち人間が代わりに犠牲の供え物になることはできないのです。ただひとり、私たちが天国に行けるようにするために、地獄の苦しみを味わった方がおられます。イエスです。イエスさまは、あの十字架の上で、神から見捨てられるという暗黒、苦しみ、地獄を経験されました。私たちのために、そこまで真剣になって十字架におつきになったのです。

 すると主はモーセに仰せられた。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。

 主は、罪を犯した者がその報いを受ける、と言われておられます。これは大原則ですね。他の人の罪のために、私たちは咎められることはありません。自分の罪だけに責任があります。神は、各々が申し開きをするように定めておられます。この原則をクリスチャンの生活にも当てはめる必要があるでしょう。自分の周りで問題を持っている人がいるとき、私たちはその人たちを直したり、変えたりする責任は持っていません。たとえば、非行に走っている息子を親が変えることはできません。けれども、自分が変えられて、キリストのようにその人を愛していくことはできますし、その責任はあります。相手を変えるのではなく、自分を変えるのです。そして相手のことは、主に祈り、主におゆだねしていく必要があります。

 しかし、今は行って、わたしがあなたに告げた場所に、民を導け。見よ。わたしの使いが、あなたの前を行く。わたしのさばきの日にわたしが彼らの罪をさばく。今はさばかないけれども、さばくと定められた日にさばくとおっしゃっています。こうして、主は民を打たれた。アロンが造った子牛を彼らが礼拝したからである。こうして、主が民を懲らしめられました。

2A 求めるべきもの 33
1B 悲しみ (悲しみがあるので、求める) 1−6
 主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える。』と言った地にここから上って行け。わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」

 ここで主が語られているのは、イスラエルの民が約束どおりカナン人の地に入ることはできるけれども、主はともにはおられない、ということです。主ご自身ではなく、ひとりの使いを遣わされる、とおっしゃっています。ここはとても大事ですね。私たちクリスチャンは、罪を犯すことによって、救いを失うことはありません。なぜなら、主イエスがすべての罪のために死んでくださったからであり、そのみわざを私たちが信じているからです。けれども、もしその罪を告白しないで、そのままにしているのであれば、神さまがともにおられることがなくなってしまいます。もちろん、物理的にはともにおられます。神はどこにでもおられて、キリスト者には、うちに宿っていて下さっています。けれども、交わることができないのです。神から声を聞いて、そして、神に語って、神の聖霊と私たちとの深い、親密な交わりがなくなってしまいます。そのために、喜びとか、愛とか、主との交わりから出てくる霊的な祝福を受けられなくなります。約束の地には行けるけれども、主ご自身がともにおられない、というイスラエルは、罪を犯した私たちの姿にとても似ているのです。

 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどうするかを考えよう。」それで、イスラエル人はホレブの山以来、その飾り物を取りはずしていた。

 この飾り物は、エジプトのものであり、異教的、肉欲的なものであったのでしょう。それを主に叱られて、今、イスラエルの民は自分たちの罪を悲しみ、これらのものを取り除いています。

2B 飢え渇き (飢え渇いているので、求める) 7−22
 そして、この金の子牛の件はとりあえず終わり、場所はイスラエルの宿営の場に移されます。

1C 語り合う 7−11
 モーセはいつも天幕を取り、自分のためにこれを宿営の外の、宿営から離れた所に張り、そしてこれを会見の天幕と呼んでいた。だれでも主に伺いを立てる者は、宿営の外にある会見の天幕に行くのであった。

 
会見の天幕とありますが、これは、主をお会いするところの天幕です。まだ幕屋が出来ておりませんので、会見の天幕は宿営の真ん中にはありませんでした。宿営の外にあったようです。

 モーセがこの天幕に出て行くときは、民はみな立ち上がり、おのおの自分の天幕の入口に立って、モーセが天幕にはいるまで、彼を見守った。モーセが天幕にはいると、雲の柱が降りて来て、天幕の入口に立った。主はモーセと語られた。民は、みな、天幕の入口に雲の柱が立つのを見た。民はみな立って、おのおの自分の天幕の入口で伏し拝んだ。


 ここから、イスラエルの民にとって、神がまだ遠くの存在であることを知ることができます。遠くから伏し拝んでいます。モーセが神のところに入ることによって、自分たちも神をあがめるようにしていました。自分と神との間には、仲介者モーセが存在していたのです。これから幕屋が造られて、そして、イスラエルの宿営の真ん中に主がご臨在されるようになるのですが、イスラエルがエルサレムに住んでからは、これが神殿になりました。そして、新約の時代に生きている私たちは、この肉体のからだが神殿であり、神が宿っておられる、ということになります。ですから、私たちはものすごい特権を持っているのです。ふだん毎日を過ごしていると、このことを忘れてしまいますが、とてつもなく大きな祝福なのです。

 どれほど大きいかは、次の箇所を読むと分かります。主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

 顔
を顔を合わせて、友に語るように親密に主と語り合うことができるのです。もちろん、ここでは文字通り顔と顔を合わせているわけではありません。あとでも、主の御姿をモーセが見たわけではまったくないことが出てきます。顔と顔を合わせるほど親密になっていたということであります。実は、これは、キリストにあってだれにも与えられた特権になったのです。イエスは言われました。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。(ヨハネ
15:15」私たちはここまで、主との交わりを楽しんでいるでしょうか。祈りのときを持っているでしょうか?私たちがイエスさまの御名を呼び求めれば、主は答えてくださり、私たちと交わりを開始してくださいます。神を友にすることができるところまで、私たちは神を近しい存在として感じることができるのです。

2C 知り合う 12−16
 そして次にその語り合いの内容が書かれていますが、モーセは先ほどの、主ご自身がいっしょに来られないことについて、主に申し上げます。さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」

 ここ
でモーセが話しているのは、あなたのことを知りたいのです、と言うことです。たとえ約束の地に行こうとも、あなたがおられなかったら、何の意味もありません。あなたこそが、私がもっとも願っているものなのです、ということを言っています。ですから、モーセがもっとも願ったのは、主ご自身だったのです。約束の地に入ることはすばらしいことでしょう。けれども、主がおられなかったら、何の意味もありません。これを私たちクリスチャンに当てはまれば、神がおられない恵み、主がおられない祝福になると思います。生活がうまく進んでいき、とくに問題がなく、願っているものが手に入っているとします。けれども、主と知り合いになることがなければ、主を自分の友にすることがなければ、だれも友達がいない大金持ちと同じになってしまいます。ある牧師は、「私たち日本人は、恵みの神を求めるのではなく、恵みを求めている。」と言いましたが、簡単に言えばご利益的であるということです。けれども、それがキリスト教の本質ではありません。キリスト教の本質は、主に知られて、主を知ることにあります。

 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

 
すばらしいですね、主はモーセの願いを聞いてくださり、ご自身がいっしょに行こうとおっしゃっています。けれども、「あなたを休ませよう。」とあるとおり、モーセ個人に対する約束です。そこでモーセは食い下がっています。

 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」

 イスラエルと他の民の違いは、あなたご自身がおられるからでしょう、と言っています。そうですね、このことはクリスチャンにも当てはまりますが、クリスチャンもそうでない人も問題を持ちます。同じ不幸が押し寄せます。交通事故にあったり、人から金を盗まれたり、あるときは精神病にかかったり、まったく同じなのです。精神病にかかるとクリスチャンは、なかなか薬を飲まないそうです。それは自分が病気にかかっていることを認めたくないし、クリスチャンが特有に持っているプライドがあるからです。でも、私たちはまったく同じように問題を持ちます。違いは、主がともにおられるか、そうでないかであります。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇
23:4」とダビデは言いました。主がともにおられるかそうでないかによって、その人がクリスチャンかそうでないかの決定的な違いがあるのです。

3C 見る 17−23
 主はモーセに仰せられた。「あなたの言ったそのことも、わたしはしよう。あなたはわたしの心にかない、あなたを名ざして選び出したのだから。」

 よかったですね。主がイスラエルの民とともに行かれることを同意してくださいます。ところが、モーセは、ここでもう一歩、大胆に踏み出しています。

 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」

 すごいことをお願いしています。主がともにおられることだけでなく、また、主のことをもっとよく知っていくのではなく、主ご自身を見させてください、と言っています。ここでの栄光は、雲の柱や、奇蹟的なわざや、礼拝の中における御霊の促しや、そういったものではありません。それらは主の栄光を表わしていますが、モーセは、栄光そのもの、主ご自身の姿を見たいと願っているのです。けれども、私たちは、「いまだかつて神を見た者はいない。(ヨハネ1:18)」と言った使徒ヨハネのことばを知っています。肉眼で神を見た者はだれひとりいないのです。それでは、このモーセの願いに対して、神はどうお答えになるでしょうか?

 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 主は、モーセにご自分の善について栄光を見せることを良しとされました。すべて見れば、モーセとて罪ある人間であり、たちまちにして滅んでしまいます。けれども、主は、ご自分の性質の一つである「善」というものをお見せしようとしています。そして、主の名で、宣言しようとおっしゃっています。これは、次の章に出てきますが、聖書では名前は単に名称ではありません。その人の人柄、性格、性質そのものを表わしています。ですから、主の名を宣言することは、主ご自身の性質を宣言することに他なりません。そして、主は、恵もうと思うものを恵み、あわれもうと思うものをあわれむ、とおっしゃいましたが、これはローマ9章で引用されている言葉です。主は私たちに何か良いものがあるから恵んだり、あわれんだりするのではなく、ただあわれみたいから、あわれみ、ただ恵みたいから、恵みを与えてくださるのです。すばらしいですね。

 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。

 主が通りすぎられたら、その栄光の反映を見ることができる、と主はおっしゃっています。それだけでモーセを満足させる栄光の輝きです。

 まあこのように、モーセは神に大胆な願いをたてましたが、そのため、神はモーセに近づいてくださいました。ヤコブ書には、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ4:8)」とあります。ところが私たちは、クリスチャンとして、神に近づくことを何度となくためらいます。「神に近づいたら、こわい。何か罰せられる。」「私が祈っても、罪があるから聞いてくれないだろう。」と言って近づかないのです。けれども、私たちは、イエス・キリストの血潮によってきよめられました。自分の罪を告白しつつ、大胆に神に願い事を立ててよいのです。そして、今の状態がどんなであれ、信仰的にダウンしていても、罪を犯していたとしても、今ここで悔い改め、神に近づけば、モーセのように神のすばらしさにあずかることができます。

3A 楽しむべきもの 34
 そしてこれから主は、モーセの願いのどおり、ご自分の栄光を現わしてくださいます。

1B 主の御名 (主のご性質を知って楽しむ) 1−9
1C 真実 1−4
 主はモーセに仰せられた。「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書きしるそう。朝までに準備をし、朝シナイ山に登って、その山の頂でわたしの前に立て。だれも、あなたといっしょに登ってはならない。また、だれも、山のどこにも姿を見せてはならない。また、羊や牛であっても、その山のふもとで草を食べていてはならない。」そこで、モーセは前のと同じような二枚の石の板を切り取り、翌朝早く、主が命じられたとおりに、二枚の石の板を手に持って、シナイ山に登った。

 この34章から39章にまでかけて、19章から31章までに読んだ話が繰り返されていることを発見します。ここでは二枚の石の板を切り取ること。そして、シナイ山にモーセが上っているとき、だれも山に上ってはいけないことが書かれています。34章から39章までずっと同じことが書かれているなんて、なんて無駄なことをするのだろ、と思ってしまうかもしれません。けれども、もしそう言ったら、自分の首を締めることになります。なぜなら、神は二度目のチャンスを与えてくださっているからです。金の子牛の件で、イスラエルの民は滅ぼされて、あるいは、主ご自身がともにおられない民になってしまうところでした。けれども、神はまた同じ祝福を、イスラエルの民に注がれようとされているのです。私たちクリスチャンも、一度失敗しても、神は以前と変わらずまったく同じように、私たちに祝福することがおできになります。やり直しを与えてくださる神なのです。こうしてモーセはシナイ山に登りました。

2C いつくしみ 5−9
 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。

 先ほど、主がモーセに、「主の名で、あなたの前に宣言しよう。」と言われましたが、それを今から行なわれます。そして、先ほど主が仰せになったように、モーセは岩の裂け目の入れられて、主の栄光が通りすぎようとしているのです。そして、主の名ですが、人間なら姓と名の2文字程度しかありませんが、主はものすごく長い名前をお持ちです。

 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 ここには、主のご性質について5つのことが描かれています。1つは、主はあわれみ深いということです。「あわれみ深く、情け深い神」とあります。これを決して忘れてはなりません。私たちは、先ほども言いましたが、神に近づこうとするとき、怒られるのではないかという不安感を持ちます。そんなことはないのです。情け深い方なのですから、大胆に近づくべきです。2つ目は、怒るにおそいことです。自制のある神、とでもいいましょうか。感情をぶちまけることなく、冷静に対応される神であります。3つ目は、主の真実さです。「恵みとまことにとみ、恵みを千代も保つ」とあります。主は、人間のように途中であきらめたり、見捨てたりはなさいません。4つ目は、主のきよめです。「咎とそむきと罪を赦す者」とあります。主は真実で正しい方ですから、罪を言い表せば、罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださいます、とヨハネは言いました。そして、5つ目は、これも忘れてはいけませんが、神の正義です。「罰すべき者は必ず罰して報いる者」とあります。ここの「父の咎は子に、子の子に」というのは、父の罪を子も受け継がなければならない、ということを意味していません。聖書は明らかに、本人が犯した罪のみが問われます。ここでは、自分が、父親や先祖と同じ罪を犯しているときに、「これは親も先祖も行なっていたことさ。」と言い訳しても、罪の咎めから免れることはできない、と言うことです。罪を犯しているのは本人の責任である、ということです。すばらしい御名の宣言です。あらゆる善が示されています。

 このことばを聞いたモーセは、さぞかし励まされたと思います。そこで執拗に主の御前で願いつづけています。モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

 33章からずっと、「あなたのお心にかなっているのでしたら」という言葉がありますが、これは、「あなたの恵みに見出されるのなら」と訳すことができます。ですから、私たちが何か価値ある人間でしたら、という意味ではなくて、あなたが恵みを受けたのですから、という意味なのです。モーセは先ほどからずっと、自分たちのあり方や行ないにより頼むのではなく、主のご性質により頼んでいます。その証拠に、イスラエルを、「うなじのこわい民」と言っていますね。言うことを聞かない民であることを認めているのです。けれども、あなたは恵みに富んでおられる方なのですから、彼らをまたあなたご自身のものにしてください、とお願いしているのです。

2B 主の戒め (主の戒めを行なって楽しむ) 10−27
1C 消極的側面 10−17
 主は仰せられた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民すべての前で、地のどこにおいても、また、どの国々のうちにおいても、かつてなされたことのない奇しいことを行なおう。あなたとともにいるこの民はみな、主のわざを見るであろう。わたしがあなたとともに行なうことは恐るべきものである。

 主は契約を更新されました。一度破られた契約ですが、もう一度、復活させておられます。この「奇しいこと」とは、約束の地に入ってからの出来事です。ヨシュア記に載っています。

 わたしがきょう、あなたに命じることを、守れ。

 契約が結ばれますが、それは約束だけではなく命令があります。ここは大切ですね。私たちは神の約束を求めますが、神に従わないということがよくあります。けれども、約束もあってそして、私たちの従順もあるのです。

 見よ。わたしはエモリ人、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。あなたは、注意して、あなたがはいって行くその地の住民と契約を結ばないようにせよ。それがあなたの間で、わなとならないように。いや、あなたがたは彼らの祭壇を取りこわし、彼らの石柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。あなたはほかの神を拝んではならないからである。その名がねたみである主は、ねたむ神であるから。あなたはその地の住民と契約を結んではならない。彼らは神々を慕って、みだらなことをし、自分たちの神々にいけにえをささげ、あなたを招くと、あなたはそのいけにえを食べるようになる。あなたがその娘たちをあなたの息子たちにめとるなら、その娘たちが自分たちの神々を慕ってみだらなことをし、あなたの息子たちに、彼らの神々を慕わせてみだらなことをさせるようになる。あなたは、自分のために鋳物の神々を造ってはならない。

 神さまの命令は、まず初めに消極的な面からです。「何々してはならない。」という命令です。ここでは、偶像を拝んではならないという命令です。偶像を拝む住民と契約を結んではならない、像を打ち壊しなさい、と命じられています。神はあらゆる命令のまず最初に、このことを置かれました。それは、主を自分のもっとも大切な神としてあがめなければ、他のあらゆる戒めは無駄になってしまうからです。心の奥底で、主がもっとも大事になっている、友人や家族よりも神が一番大切になっている。たったひとりの人としかいっしょにいることができなければ、夫や妻ではなく、また仕事でもなく、主になっている。このような、主との関係があって初めて、私たちはほかの戒めが意味を持ってきます。イエスがペテロに言われました。「あなたは、これらのものよりもわたしを愛しますか。」これらのものとは、自分が漁をして得た魚のことです。自分が生まれてから間もなくして親しんできた、自分がもっとも得意とする職業よりも、あなたはわたしを愛しますか、と聞かれたのです。私たちはどうでしょうか。主は、あらゆる偶像を私たちの心から取り除かれることを望まれています。

2C 積極的側面 18−27
 そして次は、「何々をしなさい。」という積極的な側面の命令です。あなたは、種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたように、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。あなたがアビブの月にエジプトを出たからである。

 
種なしパンの祭りですね。パン種は悪いものを意味しています。それがないということは、主ご自身の性質を表わしています。すべての祭りの中でも一番最初に、主のみわざを祝うのです。私たちの行ないではなく、主が恵みをもって私たちを救ってくださったことを祝うのです。ここにパン種を入れることは、神の救いに自分の行ないを加えることであり、それは決してあってはありません。

 最初に生まれるものは、すべて、わたしのものである。あなたの家畜はみな、初子の雄は、牛も羊もそうである。ただし、ろばの初子は羊で贖わなければならない。もし、贖わないなら、その首を折らなければならない。あなたの息子のうち、初子はみな、贖わなければならない。だれも、何も持たずに、わたしの前に出てはならない。

 
次は、家畜の初子を主にささげなければいけない、という命令です。自分の最初のものを、最も大切なものを神にささげます。私たちが、神がキリストにあってしてくだださったことを受け入れてから、自分自身を主にささげる決断をしなければいけません。この生涯、主に従いつづける、主が自分のすべての中心になるのだ、という決断が必要です。

 あなたは六日間は働き、七日目には休まなければならない。耕作の時も、刈り入れの時にも、休まなければならない。


 これは安息日ですね。安息は、自分の働きではなく神の働きを認めることであります。私たちはクリスチャンになってからも、今までと同じように働くのですが、しかし、主がしてくださったわざを思いだし、また今してくださっていることを考え、感謝し、礼拝するときが必要になります。クリスチャン生活は、イエスを受け入れるという1回限りのものではなく、ずっと続くものであり、生活に密着したものになります。

 小麦の刈り入れの初穂のために七週の祭りを、年の変わり目に収穫祭を、行なわなければならない。

 七週の祭りは、ペンテコステのことです。種なしパンの祝いの50日目にあります。そして、収穫祭とは仮庵の祭りです。10月ごろに祝われます。神は、この2つの祭りについては、レビ記23章において、この話のだいたい1ヶ月後ですが、その時にもっと詳しくモーセにお話してくださいます。

 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、主、主の前に出なければならない。

 種なしのパンの祭りあるいは過越の祭り、そしてペンテコステ、仮庵の祭りは例年の三代祭りになっており、成年男子はみな、出席することが義務付けられたのです。だから、聖霊が注がれたペンテコステの日に、世界中からのユダヤ人が来ていて、弟子たちが語る外国の言葉を理解することができました。

 わたしがあなたの前から、異邦の民を追い出し、あなたの国境を広げるので、あなたが年に三度、あなたの神、主の前に出るために上る間にあなたの地を欲しがる者はだれもいないであろう。この三度の祭りがなされている間、他の敵から主が守ってくださるという約束です。わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えて、ささげてはならない。また、過越の祭りのいけにえを朝まで残しておいてはならない。あなたの土地から取れる初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。子やぎをその母の乳で煮てはならない。」祭りにおける、さまざまな規定です。

 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

 こうして主は契約を結ばれました。35章以降には、ふたたび幕屋についての説明があります。だから、主はやり直しのみわざを為してくださっているのです。

3B 主の栄光 (主の栄光にふれて楽しむ) 28−35
 そして、幕屋のことが説明される前に、一つ面白い記事が次に載せられています。

1C 受けたものを与える 28−32
 モーセはそこに、四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。

 モーセは、最初のときと同じように、40日40夜、主とともにいました。そして、主と話したので、自分の顔から光を放っていたのです。主とともにいて、主と語り合いをして、主の栄光を見させていただいて、そのような時を過ごしているうちに、主の栄光がモーセの顔に反映されていたのでした。主の臨在の中にいて、時を過ごすとき、私たちも輝きます。パウロは、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。(コリント第一
10:31」と言いましたが、それは、このように主と時を過ごすことによって可能になります。

 アロンとすべてのイスラエル人はモーセを見た。なんと彼の顔のはだが光を放つではないか。それで彼らは恐れて、彼に近づけなかった。

 
彼らは光を見て、恐れました。肉的なクリスチャンも、光り輝くクリスチャンを見るときに居心地が悪くなるでしょう。そのような感じだったのだと思われます。

 モーセが彼らを呼び寄せたとき、アロンと会衆の上に立つ者がみな彼のところに戻って来た。それでモーセは彼らに話しかけた。それから後、イスラエル人全部が近寄って来たので、彼は主がシナイ山で彼に告げられたことを、ことごとく彼らに命じた。

 
モーセは、自分が主から受けたことを、まずリーダーに、次に会衆全員に伝えました。

2C 振り向いておおいを取る 33−35

 そして、次に、今回のテーマ「主の臨在」についての結論が載せられています。モーセは彼らと語り終えたとき、顔におおいを掛けた。モーセが主の前にはいって行って主と話すときには、いつも、外に出るときまで、おおいをはずしていた。そして出て来ると、命じられたことをイスラエル人に告げた。イスラエル人はモーセの顔を見た。まことに、モーセの顔のはだは光を放った。モーセは、主と話すためにはいって行くまで、自分の顔におおいを掛けていた。

 モーセは、イスラエルの民に語るときにはおおいを掛けていました。このことについて、パウロが第二コリントの手紙において、霊的洞察を与えてくれています。開きましょう。第二コリントの3章です。6節から読んでみたいと思います。「神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。」パウロはここで、人々を死に定める律法の働きでさえこんなに栄光に富んでいるものであれば、いのちを与える御霊の奉仕には、どんなにか栄光かあるでしょうか、と言っています。モーセの顔が光り輝くよりも、私たちはもっと光り輝くことができる、というのです。

 「このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。
そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです」パウロは、モーセの顔のおおいは、律法のことばを聞いても、その意味が分からない心におおいがかかっている状態である、と言っています。聖書を読んでも、分からないのです。イスラエルの民がモーセの光り輝く顔を見なかったように、彼らも主の栄光が分からなくなっているのです。

 「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」大事ですね、ただ主に向くだけでおおいは取り除かれます。モーセが、「あなたの栄光を見せてください。」と言った、あのような願い求めがあれば、おおいは除かれるのです。そして、その結果、モーセのように、いやモーセ以上に輝くことができます。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」主のかたちへと変えられていく、栄光に満ちた働きの中に入れられていきます。ですから、お分かりになったでしょうか。私たちは、主のご臨在を求め続けるべきなのです。イスラエルの民のように、それが分からなくなるときがあります。40日、モーセが戻ってこなかったように、主の臨在が分からなくなるときがあります。けれども、待っていてください。主は必ず私たちを満たしてくださいます。そして、主を愛して、主ご自身を求めて、主の臨在を愛せば、私たちのうちにおられる御霊がはっきりと主の栄光を私たちに示してくださり、その結果、私たちはキリストの姿に変えられていくのです。


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