出エジプト記39−40章 「主の栄光」


アウトライン

1A 部品の完成 39
   1B 祭司の式服 1−31
   2B モーセの祝福 32−43
2A 組み立ての完成 40
   1B モーセによる作業 1−33
   2B 栄光の雲 34−38

本文

 出エジプト記39章を開いてください、今日は39章と40章を学び出エジプト記を終えます。ここでのテーマは、「主の栄光」です。前回は、「主の仕事」というメッセージ題で話しましたが、今回も幕屋を作る仕事の続きになります。そして、すべてが完成した時に、主が栄光の雲によって幕屋の中に満ちておられたところで終わる部分を読みます。

1A 部品の完成 39
1B 祭司の式服 1−31
39:1 彼らは、青色、紫色、緋色の撚り糸で、聖所で仕えるための式服を作った。また、主がモーセに命じられたとおりに、アロンの聖なる装束を作った。

 ここでの「彼ら」は、知恵の御霊に満たされた、職人たちのことです。彼らは、幕屋を構成する部品を作り、またその中にある用具を作りましたが、今彼らは、祭司の式服を作ります。

39:2 彼はまた、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸と、撚り糸で織った亜麻布で、エポデを作った。39:3 彼らは金の板を打ち延ばし、巧みなわざで青色、紫色、緋色の撚り糸に撚り込み、亜麻布に織り込むために、これを切って糸とした。

 大祭司の式服のエポデです。エプロンのような形をしています。これは幕屋の幕と同じように、青色、紫色、緋色、そして亜麻布で作られていますが、それ以外に金色も使われています。金を延ばして、それを撚り糸の中に撚り込みました。以前話しましたように、青は天を表わし、紫は王位を、緋色は犠牲の血を、そして亜麻布は清さを表わしていましたが、金は神の栄光を表わしています。祭司は、神の栄光の美とを反映する者であることを、主はモーセに以前、語られていました。

39:4 彼らは、エポデにつける肩当てを作った。それぞれ、エポデの両端につけられた。39:5 エポデの上で結ぶあや織りの帯は、エポデと同じ材料で、主がモーセに命じられたとおり、金色、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で、エポデと同様に作った。39:6 彼らは、しまめのうを、金のわくにはめ込み、これに印を彫るようにして、イスラエルの子らの名を彫った。39:7 彼らはそれをエポデの肩当てにつけ、主がモーセに命じられたとおりに、イスラエルの子らの記念の石とした。

 肩には、金のわくぐみがあり、そこにしまめのうが入りました。そこにイスラエル12部族の名が刻まれています。大祭司が、イスラエルのために、その重荷を背負って神の前に出るからです。主も同じことをされました。失われた羊を見つけて、それをかついで群れの中に戻しましたが、私たちの背負って、父なる神のところに連れてきてくださいます。

39:8 彼はまた、胸当てを巧みな細工で、エポデの細工と同じように、金色や青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で作った。39:9 四角形で二重にし、その胸当てを作った。長さ一あたり、幅一あたりで、二重であった。39:10 それに、四列の宝石をはめ込んだ。第一列は赤めのう、トパーズ、エメラルド。39:11 第二列はトルコ玉、サファイヤ、ダイヤモンド。39:12 第三列はヒヤシンス石、めのう、紫水晶。39:13 第四列は緑柱石、しまめのう、碧玉。これらを金のわくに入れてはめ込んだ。39:14 これらの宝石は、イスラエルの子らの名によるもので、彼らの名にしたがい、十二個で、十二の部族のために印の彫り物が、一つの名につき一つずつあった。

 胸当てがついています。胸当てには、肩当てと同じように宝石が埋め込まれています。そしてここの宝石もイスラエル12部族をそれぞれ表しています。大祭司が心を尽くして、イスラエルのために執り成すからです。私たちも主のお心の中に、宝石のように、その守りの中に埋め込まれています。

 ところで、この宝石は黙示録の最後に出てくる新しいエルサレムの都を構成している宝石にとても似ています。土台石が12使徒を表わしていましたが、そのうち九つがここの宝石と同じものです。主の栄光の中にイスラエルがおり、そして教会も存在しています。

39:15 ついで、編んで撚った純金の鎖を、胸当ての上に作った。39:16 彼らは金のわく二個と金の環を二個作り、二個の環を胸当ての両端につけた。39:17 そして彼らは、二筋の金のひもを胸当ての両端の二個の環につけた。39:18 その二筋のひもの他の端を、先の二つのわくにつけ、エポデの肩当てに外側に向くようにつけた。39:19 ほかに、二個の金の環を作り、これを胸当ての両端、すなわち、エポデの前に来る胸当ての内側の縁につけた。39:20 ほかに、二個の金の環を作り、エポデの二つの肩当ての下端の外側に、すなわち、エポデのあや織りの帯の上部の継ぎ目に接した面の上につけた。39:21 胸当ては青ひもで、その環のところをエポデの環に結びつけ、エポデのあや織りの帯の上にあるようにし、胸当てがエポデからずり落ちないようにした。主がモーセに命じられたとおりである。

 ここは、胸当てがエポデに固定するための指示です。

39:22 また、エポデの下に着る青服を青色の撚り糸だけで織って作った。39:23 青服の口は、その真中にあって、よろいのえりのようで、その口の周囲には縁をつけて、ほころびないようにした。39:24 青服のすその上に、青色、紫色、緋色の撚り糸で、撚ったざくろを作った。39:25 また彼らは、純金の鈴を作り、その鈴を青服のすそ回りの、ざくろとざくろとの間につけた。39:26 主がモーセに命じられたとおりに、仕えるための青服のすそ回りには、鈴にざくろ、鈴にざくろがあった。

 これも以前、説明しました。エポデの下に青服を着ますが、そのすそには、鈴がついています。これは大祭司が至聖所にて奉仕をしているときに、万が一、誤ったことをして主の怒りにふれて殺されてしまうかもしれないからです。死んだ時のために、鈴の他にロープが付けられて、鈴の音が聞こえなくなったら、ロープを引っぱって、引きずり出します。

39:27 彼らは、アロンとその子らのために、織った亜麻布で長服と、39:28 亜麻布でかぶり物と、亜麻布で美しいターバンと、撚り糸で織った亜麻布でももひきを作った。

 青服の下には亜麻布の長服を着て、また亜麻布のももひきを着ます。それだけでなく、かぶり物も亜麻布で作ります。

39:29 撚り糸で織った亜麻布や青色、紫色、緋色の撚り糸で、刺繍してできた飾り帯を作った。主がモーセに命じられたとおりである。39:30 ついで、聖別の記章の札を純金で作り、その上に印を彫るように、「主の聖なるもの」という文字を書きつけた。39:31 これに青ひもをつけ、それをかぶり物の回りに上から結びつけた。主がモーセに命じられたとおりである。

 かぶり物のひたいの当たりに、この金の記章がきます。そして、「主の聖なるもの」と彫られているわけですが、大祭司は、ここで主の前で罪の告白をイスラエルに代わって行ない、彼らが主への聖なるものとしてささげられることを念頭に入れているのです。このように大祭司は、頭から足のつま先まで、イスラエルの執り成しのために存在しています。

 幕屋と祭司の奉仕を読むときに知らなければいけないのは、幕屋が天の模型であり、大祭司は天の大祭司であられるイエス・キリストを表わしていることです。大祭司がイスラエルのために幕屋の中で行なうことは、イエスさまが天において、父なる神に対して行なわれたことと同じです。罪を犯したときも、弁護者として御父の前で出てくださいます。

2B モーセの祝福 32−43
 こうしてすべての部品や用具は、完成しました。最後にモーセが祝福します。

39:32 こうして、会見の天幕である幕屋の、すべての奉仕が終わった。イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりにした。そのようにした。39:33 彼らは幕屋と天幕、および、そのすべての用具をモーセのところに持って来た。すなわち、それは、その留め金、その板、その横木、その柱、その台座、39:34 赤くなめした雄羊の皮のおおい、じゅごんの皮のおおい、仕切りの垂れ幕、39:35 あかしの箱と、その棒、「贖いのふた」、39:36 机と、すべての器、供えのパン、39:37 純金の燭台と、そのともしび皿、すなわち、一列に並べるともしび皿と、そのすべての用具、および、その燈火用の油、39:38 金の祭壇、そそぎの油、かおりの高い香、天幕の入口の垂れ幕、39:39 青銅の祭壇と、それにつく青銅の格子と、棒と、そのすべての用具、洗盤とその台、39:40 庭の掛け幕とその柱と、その台座、庭の門のための垂れ幕とそのひもと、その釘、また、会見の天幕のための幕屋に用いるすべての用具、39:41 聖所で仕えるための式服、祭司アロンの聖なる装束と、祭司として仕える彼の子らの装束である。39:42 イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行なった。39:43 モーセが、すべての仕事を彼らが、まことに主が命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した。

 先ほどから出てくる、何度も繰り返されている言い回しがあります。それは、「主が命じられたとおりに、行なった」という言い回しです。5節、7節、21節、26節、29節、31節、そして今読んだ32節、42,43節です。彼らは、自分たちで考えて、自分たちの方法で幕屋を作ったのではなく、すべて主が言われたとおりに作りました。自分の方法ではなく、神の方法にしたがったのです。

 実は出エジプト記は、この言葉によって事が進展しています。モーセが燃える柴を見たときに、いろいろな言い訳をしましたが、「私は、口べたで、預言をすることはできません。」と言ってみたり、また、「イスラエル人たちが、私があなたから遣わされたのを信じないでしょう。」とか、私が、彼らが、・・という人間のレベルの話をしていました。けれども、モーセとアロンがパロのところに言ってからは、主が命じられたとおりに行なった、という言い回しがずっと続きます。その中で、十の災いがエジプトに下り、パロはイスラエルをエジプトから出て行かせたのです。自分の世界ではなく、神の世界の中に生きていました。

 これは、実は私たちクリスチャンのあるべき姿であります。私が何々をした、ということが中心になるのではなく、主がこう言われている、ということが中心になるべきです。そして、その人の生活を見るときに、確かに、主がこの人のうちに働かれていることを認めることができるのです。イエスさまがこう言われました。「あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」 (ルカ17:10」大事なのは、自分の行為ではなく、主に言われたことを行なっているかどうか、であります。

2A 組み立ての完成 40
1B モーセによる作業 1−33
 次からは、主語が変わります。これまでは「彼らは」とか、知恵が与えられた職人が何々をした、という文でしたが、これからは、「モーセが」という主語になります。それは、これまでモーセはオブザーバーであったけれども、次の作業、幕屋の部品を組み立て、用具を適切な場所に配置する作業は直接関わるように命じられるからです。

40:1 主はモーセに告げて仰せられた。40:2 「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。」

 イスラエルがエジプトを出たのは、第一の月の十四日目、過越の祭りのときですから、ほぼ一年経っています。

40:3 その中にあかしの箱を置き、垂れ幕で箱の前を仕切り、40:4 机を入れ、その備品を並べ、燭台を入れ、そのともしび皿を上げる。40:5 あなたは香のための金の壇をあかしの箱の前に置き、垂れ幕を幕屋の入口に掛ける。40:6 会見の天幕である幕屋の入口の前に、全焼のいけにえの祭壇を据え、40:7 会見の天幕と祭壇との間に洗盤を据えて、これに水を入れる。40:8 回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛ける。

 用具を適切な場所に配置し、幕をかけます。この位置関係が非常に重要であります。東にのみ門があり、門から入ったら、正面に青銅の祭壇があります。さらに奥に幕屋がありますが、その前に洗盤があります。そして幕屋の幕をくぐると、そこは聖所で、燭台の光のため輝き、板は金でおおわれているので、金色で輝いています。正面から右には供えのパンの机が、左には燭台があり、正面、聖所と至聖所の仕切りになっている垂れ幕に接して、香壇があります。その仕切りの垂れ幕をくぐると、そこには、契約の箱とその上に贖いの蓋があります。

 これを礼拝の順番として考えますと次のようになります。私たちが礼拝するときは、勝手な方法ではできません。ある人は仏教、ある人は神道、ある人はイスラム教、ある人はお金、名声、結婚などなど、いろいろな方法で救われようとしますが、救いは唯一つ、イエス・キリストによってのみです。ですから、門は一つであり、キリストがその門であられます。その門をくぐると見える青銅の祭壇は、神の怒りです。キリストの十字架は、神の怒りを受けることろでした。そして聖所に行きますが、その前に洗盤によって手足を洗う、つまり、神のみことばによる洗いを経験する必要があります。それで聖所に入れば、パンを食べることによっていわば聖餐にあずかり、ともしびの油が表わす聖霊の働きを受け入れます。そして香壇が示すように、祈りをささげます。そして、聖所と至聖所の仕切りの垂れ幕は、キリストの肉体を表わしており、この方の十字架のみわざによって、天におられる父なる神に大胆に近づくことができるのです。これを上空から見れば、十字架の形をしています。神の栄光はキリストご自身であり、その十字架のみわざなのです。

40:9 あなたは、そそぎの油を取って、幕屋とその中のすべてのものにそそぎ、それと、そのすべての用具とを聖別する。それは聖なるものとなる。40:10 あなたは全焼のいけにえの祭壇と、そのすべての用具に油をそそぎ、その祭壇を聖別する。祭壇は最も聖なるものとなる。40:11 洗盤とその台とに油をそそいで、これを聖別する。40:12 アロンとその子らを会見の天幕の入口に近づかせ、水で彼らを洗い、40:13 アロンに聖なる装束を着けさせ、彼に油をそそぎ彼を聖別する。彼は祭司としてわたしに仕える。40:14 彼の子らを近づかせ、これに長服を着せなければならない。40:15 あなたは、彼らの父に油をそそいだように、彼らにも油をそそぐ。彼らは祭司としてわたしに仕える。彼らが油をそそがれることは、彼らの代々にわたる永遠の祭司職のためである。」40:16 モーセはそのようにした。すべて主が彼に命じられたとおりを行なった。

 聖別のための油注ぎです。前回学びましたように、この地上において、主のために聖別されているためには、聖霊の油注ぎが必要です。どんな働きにも聖霊の満たしがなければ、神についての事柄はいっさい行なうことはできません。ですから、私たちはどんな時でも、祈り、主に油注ぎを認める必要があります。

40:17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。40:18 モーセは、幕屋を建てるとき、台座を据え、その板を立て、その横木を通し、その柱を立て、40:19 幕屋の上に天幕を広げ、その上に天幕のおおいを掛けた。主がモーセに命じられたとおりである。40:20 また、彼はさとしを取って箱に納め、棒を箱につけ、「贖いのふた」を箱の上に置き、40:21 箱を幕屋の中に入れ、仕切りのために垂れ幕を掛け、あかしの箱の前を仕切った。主がモーセに命じられたとおりである。40:22 また、彼は会見の天幕の中に、すなわち、幕屋の北のほうの側で垂れ幕の外側に、机を置いた。40:23 その上にパンを一列に並べて、主の前に供えた。主がモーセに命じられたとおりである。40:24 彼は会見の天幕の中、机の反対側の幕屋の南側に、燭台を置いた。40:25 そうして彼は主の前にともしび皿を上げた。主がモーセに命じられたとおりである。40:26 それから彼は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、40:27 その上でかおりの高い香をたいた。主がモーセに命じられたとおりである。40:28 彼は、幕屋の入口に垂れ幕を掛け、40:29 全焼のいけにえの祭壇を、会見の天幕である幕屋の入口に置き、その上に全焼のいけにえと穀物のささげ物とをささげた。主がモーセに命じられたとおりである。40:30 また彼は、会見の天幕と祭壇との間に洗盤を置き、洗いのために、それに水を入れた。40:31 モーセとアロンとその子らは、それで手と足を洗った。40:32 会見の天幕にはいるとき、または、祭壇に近づくとき、彼らはいつも洗った。主がモーセに命じられたとおりである。40:33 また、幕屋と祭壇の回りに庭を設け、庭の門に垂れ幕を掛けた。こうして、モーセはその仕事を終えた。

 先ほどは、職人たちがすべての仕事を終えモーセが祝福しましたが、今はモーセ自身が主から命じられたことを行ない、すべての仕事を終えました。

2B 栄光の雲 34−38
 そして、すべてのことが終わったら、次の事が起こります。

40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

 幕屋に雲が満ちました。そしてこの雲は、主の栄光でした。同じようなことが、後にも起こりました。ソロモンが神殿を建てたときです。「祭司たちは主の宮にはいることができなかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(2歴代7:2」とあります。面白いことに、イエスさまが再び地上に戻って来られるとき、天の雲に乗ってこられることが預言されていますが、おそらくは、この神の栄光を表わす雲のことでしょう。

 今ここで、出エジプト記がどのような流れで、このクライマックスに至るかを考えてみたいと思います。初めと終わりを示すのに、もっとも良い箇所は1章1314節でしょう。「それでエジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。」彼らは、エジプト人の苦役を課せられていました。それが始まりです。けれども、終わりは今読んだように、「主の栄光が宮に満ちた」なのです。イスラエル人がエジプトから救い出されたのは、自分たちが主のものとされ、主の栄光をこのように見るためでした。

 私たちクリスチャンも同じです。罪の奴隷の縄目から、キリストが流された十字架の血によって、解き放たれました。そして、私たちは神の所有の民になり、その行き着く先は永遠のいのち、神の栄光です。黙示録の最後が、新しいエルサレムになっていることに気づいてください。これが、私たちの到着地点です。その目標に向かって、私たちは今、走っているのです。

 そして、ヨハネ1章14節を開いてください。ここの箇所も出エジプト記をまとめているでしょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」ここの、「私たちの間に住まわれた」というのは、「幕屋を張られた」と訳すこともできます。神が人間の肉体の姿を取られて現れた、イエス・キリストは、まさにイスラエル人が幕屋において栄光の雲を見るように、神の栄光の輝きなのです。私たちがいつも、ここから目を離さないようにしなければいけません。罪と肉の欲によって、キリストから目を離すこともなく、また自分の行ないによって善を積み上げようとする律法主義に陥るのでもなく、ただキリストから目を離さないで、その栄光を見ることに努めましょう。

40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

 雲についての説明ですが、聖なる神である主がイスラエルの民といつも、最後までいっしょにおられたことが、ここから分かります。かつて、「わたしは、あなたがたといっしょに上らない」と言われた主は、今、ともにいてくださることを決めてくださいました。そして、彼らを導いてくださっています。


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