出エジプト記6−8章 「主の伸ばした腕」

アウトライン

1A 主の励まし 6
   1B 「わたしは主」 1−13
   2B モーセとアロンの系図 14−30
2A 不思議と徴の始まり 7
   1B 命令への応答 1−7
   2B 蛇に変わる杖 8−13
   3B 血になるナイル 14−25
3A 苦しみ始めるパロ 8
   1B 家に入る蛙 1−15
   2B 身にまとわりつく蚋 16−19
   3B イスラエルにはいない虻 20−32

本文

 それでは出エジプト記6章を開いてください。私たちは前回、モーセが落胆して主に祈っているところを見ました。5章の終わりで、「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。私がパロのところに行って、あなたの御名によって語ってからこのかた、彼はこの民に害を与えています。それなのにあなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。(22-23節)」と言いました。

 皆さんも同じような経験がないでしょうか?主に言われたことを行なおうとしているのに、なぜかことごとく失敗したように見えて、逆に反対の事が起こっているように見えます。これは、神の働きが始まる時に必ず反対者がいるという霊の戦いなのだ、ということを前回学びました。

1A 主の励まし 6
1B 「わたしは主」 1−13
 それで主が言われます。6:1 それで主はモーセに仰せられた。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」

 パロは、「はい分かりました。イスラエルの神ヤハウェがおられるのですね。それでは民を出て行かせましょう。」とするようなことは決してないのだよ、と言っています。けれども、出て行くことはできるのです。それは、彼が無理やりイスラエルの民を出て行かせるようになる、と主は言われます。「強い手で」というのは、強権的にということです。

 私たちは、反対が起こると神がその手を伸ばしておられないと感じます。モーセがそう感じました。けれども、神はむしろそのようにパロを操作しているのだ、と言われます。「わたしがパロにしようとしていること」と言っていますね。私たちはたとえ否定的な事柄を見ても、そこに主の御手があることを認めていく信仰の訓練が必要です。

6:2 神はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。6:3 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。

 創世記と出エジプト記の違いは、ここにある名前の違いです。確かに創世記にもヤハウェの名前は出てきましたが、前面には出てきませんでした。アブラハム、イサク、ヤコブに現れたのは、「エル・シャダイ」です。「十全な方」あるいは「全能者」であられます。主に、自分には不可能なことを成し遂げてくださる方としてご自分を啓示されました。

 けれども、モーセに対してはヤハウェとして現れておられます。はるかに、モーセにそしてイスラエルの民に近づいてくださっています。約束だけであった契約を実行してくださいます。そして彼らの必要の一つ一つに関わってくださいます。生活の細部に至るまでの戒めを与えられます。そしてご自分の臨在を雲の柱、火の柱、そして幕屋の臨在によって現してくださいます。生活の一部になってくださるのです。

 私たちは約束を信じることは大切です。と同時に、日々の生活に深く関わってくださる神に触れることも大切です。

6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。6:5 今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。

 神はアブラハム、イサク、ヤコブに約束を与えてくださいました。カナン人の地を与えるという約束を与えてくださいました。今、それを実行に移そうとしておられます。しかも、それはイスラエルが祝福されているどころか、外国の地で苦役に服している中の嘆きを聞いて実行されようとしているのです。

 神は、私たちに対しても同じ情熱を持っておられます。私たちが罪の中で痛みを受けている時、神のかたちに造られた私たちが、歪められた形の中に生きることを強いられている時、むしろその時に、神の子供にするというとてつもない特権を与えるべく実行に移されるのです。罪の増し加わるところに、恵みが満ち溢れます。

6:6 それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。6:8 わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」

 見てください、ここはすべて「わたしは・・・」となっています。モーセが行うことは何一つ書かれていません。自分が主体ではなく、神が主体の働きです。

 そしてここの時制はヘブル語で完成された形、つまり完了形、過去形になっているそうです。これから行う、と話しているのではなく、「行った」というように語っておられます。主がなされることは、このように決定的であり、確定的なのです。私たちに対する神の救いの業もそうでしたね。「神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。(ローマ8:30

 第一礼拝で話したように、私たちはイスラエル人にように、肉の欲望という労役の中にいます。もうやめることができない奴隷状態にいるのです。ところが神は、キリストの流された血の代価により、私たちを贖ってくださいました。それは、エジプトから力をもってイスラエルを贖われたように、キリストの十字架と復活の業によって、力をもって悪魔の仕業を滅ぼされたのです。その復活の力が私たちの内に生きて働いているのです!

 そして、私たちは神の所有の民になります。もう私たちの体は私たちのものではありません。そして主が神になられます。これまでは他の自分のしたいことを神にしていましたが、これからはヤハウェが自分が寄りすがる方です。そして最終的に、豊かな地であるカナン人の地に住むようになります。

6:9 モーセはこのようにイスラエル人に話したが、彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。

 以前はモーセとアロンを非難するだけ、まだ良かったというものです。今は落胆と激しい労役によって、聞くことさえできなくなりました。

 私たちが神の御声を聞けなくする敵もこの二つですね。「落胆」している心は、主の希望の声をはねつけます。そして、安息を取らずにひたすら自分の意志で生活していれば、主がそこに介在する余地がなくなります。

6:10 主はモーセに告げて仰せられた。6:11 「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」6:12 しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」6:13 そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。

 この命令が7章にあります。けれども著者モーセは、ここで自分自身とアロンの系図について記しています。話が進む前に、主によって選ばれたモーセとアロンという指導者を改めて系図をもってその位置を確認するためです。

2B モーセとアロンの系図 14−30
6:14 彼らの父祖の家のかしらたちは次のとおりである。イスラエルの長子ルベンの子はエノク、パル、ヘツロン、カルミで、これらがルベン族である。6:15 シメオンの子はエムエル、ヤミン、オハデ、ヤキン、ツォハル、およびカナン人の女の子サウルで、これらがシメオン族である。6:16 レビの子の家系の名は、次のとおりである。ゲルション、ケハテ、メラリ。レビの一生は百三十七年であった。6:17 ゲルションの子の諸氏族はリブニとシムイである。6:18 ケハテの子はアムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハテの一生は百三十三年であった。6:19 メラリの子はマフリとムシである。これらはレビ人の諸氏族の家系である。

 すでに出てきましたが、モーセ、アロン、そして姉のミリアムはレビ人の家庭から生まれました。それでレビの家族までの系図を書いています。レビ以降の系図は出てきません。

6:20 アムラムは父の妹ヨケベデを妻にめとり、彼女はアロンとモーセを産んだ。アムラムの一生は百三十七年であった。

 ここのアムラムと、18節に出てくるレビの孫のアムラムは異なります。同名なのですが、18節のアムラムの子孫が20節のアムラムになります。このアムラムとヨケベデの間にアロンとモーセが生まれました。

6:21 イツハルの子はコラ、ネフェグ、ジクリである。6:22 ウジエルの子はミシャエル、エルツァファン、シテリである。6:23 アロンは、アミナダブの娘でナフションの妹であるエリシェバを妻にめとり、彼女はナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを産んだ。

 これからアロンの家系を記しています。なぜならアロンの家系が代々、祭司職を受け継ぐことになるからです。

6:24 コラの子はアシル、エルカナ、アビアサフで、これらはコラ族である。6:25 アロンの子エルアザルは、プティエルの娘のひとりを妻にめとり、彼女はピネハスを産んだ。これらはレビ人の諸氏族の一族のかしらたちである。6:26 主が「イスラエル人を集団ごとにエジプトの地から連れ出せ。」と仰せられたのは、このアロンとモーセにである。6:27 エジプトの王パロに向かって、イスラエル人をエジプトから連れ出すようにと言ったのは、このモーセとアロンであった。

 このように、モーセとアロンを神が選ばれたことに正統性を付けるため、系図が挿入されていました。

 6:28 主がエジプトの地でモーセに告げられたときに、6:29 主はモーセに告げて仰せられた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」6:30 しかしモーセは主の前に申し上げた。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」

 先ほどと同じ言葉ですね。モーセは、40歳の時にイスラエル人を説得することさえできませんでした。そして80歳になってから、パロのところに言ったらイスラエル人がもっと苦しめ始めました。さらにまた言ったら、彼らは落胆と労役で聞くことさえできませんでした。だから主に呼び出された時に、「口べた」という言い訳をここでも持ち出しているのです。

2A 不思議と徴の始まり 7
 けれども、次に語られる主の言葉によって、モーセとアロンの態度が変わります。彼らはようやく、神が持っておられるご計画がどのようなものであるかを悟り、自分がしなければいけないことも知るようになりました。

1B 命令への応答 1−7
7:1 主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしはあなたをパロに対して神とし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。

 これはモーセを神の代理人にするという意味です。この前も話しましたように、モーセは神から告げられたことをアロンに告げ、そしてアロンがパロに宣言します。したがって、パロにとってはモーセが神のような存在になるということです。

7:2 あなたはわたしの命じることを、みな、告げなければならない。あなたの兄アロンはパロに、イスラエル人をその国から出て行かせるようにと告げなければならない。

 ここが大事です、モーセが行わなければいけないのは、ただ神の命令に従うことです。パロが聞き入れるかどうかの反応に対してモーセは責任を負っていないのです。

7:3 わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。7:4 パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。7:5 わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」

 すべてのことは神によって成る、という神の主権が「わたしはパロの心をかたくなにする」という表現に表れています。パロがモーセの言うことを聞き入れません。それで、それに対する災いをエジプトに下します。そして、パロはようやくのことでイスラエル人をエジプトから追い出します。

 それによって、エジプト人がこの方がヤハウェであることを知るようになる、ということです。覚えていますか、パロは初め「わたしは主など知らない。なぜ、主に聞き従わなければいけないのか。」ということを言いました。それを主はこれらの徴と不思議によって知らしめる、ということです。

 ですからパロが強情になるのですが、主はそのかなくなな心を積極的に用いられて、ご自分の栄光のために用いられます。これがパロの心をかたくなにする、という意味です。私たちはここから、大切な真理を知らなければいけません。神は悪をもその主権の中に入れておられる、ということです。

 神を知らず、神を愛していない者であれば、このことをいつまでも罵ることでしょう。事実、終わりの日にエジプトに主が災いを下されたように、全世界に大いなる災いを下されます。その時に地上にいる住民は神の名を罵ることが預言されています。どんなに神が憐れみをもって彼らをご自分に引き寄せようとされても、悲しいことにそのかたくなな心は癒されないのです。

 けれども、神を知っている者、神を愛している者であれば、神が悪をもその主権の中に入れておられるという真理は究極の慰めとなります。神は悪に対して無力ではないのです。むしろ、その悪を用いて善としてくださるのです。悪に対して私たちは怒ることも、ねたむことも必要ないことが分かります。「私たちの愛する神がお許しになっていることであれば、それを管轄しておられるのであれば、このいらだたしいことは私に関わることではない。なら、神にこのことは任せよう。」という気持ちになります。

 そして、自分が気にしなければいけないのは、ただ神から命じられたことだけを行うことです。それが、全ての人に善をおこないなさい、という命令であれば、そうすれば良いのです。自分に悪い仕打ちをしてきている人にも、余裕をもって善をもって応じることができるのです。それで次の節をご覧ください。

7:6 そこでモーセとアロンはそうした。主が彼らに命じられたとおりにした。

 いかがですか、彼らはただ主が命じられたことを行い始めています。彼らの語る言葉をパロは続けて拒み続けます。けれども、これからの彼らはそれでひるむことはありません。動揺しません。神のご計画を受け入れるに至ったからです。

 これからの記述は、ただモーセが主に命じられたことをおこなった、という単純なものです。そしてそれは実に簡単なことです。口で宣言することの他に、杖を上に上げること。祈ること。これらがどれだけ難しいことでしょうか?イエス様は、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。(マタイ11:30」と言われました。使徒ヨハネは、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3」と言いました。

 私たちは自らに、神からの命令だと称して、いろいろな重荷を背負わせてはいないでしょうか?身軽になりましょう。

7:7 彼らがパロに語ったとき、モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった。

 「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。(2コリント4:16」という御言葉があります。モーセは八十歳になって、エジプトを出た四十歳の時よりも外なる人は衰えていましたが、内なる人はさらに自由にされ若返っていました。

 ところでモーセの人生は三つに区分されますが、四十歳の時にエジプトを出たこと。そして八十歳の時にエジプトに戻ってきたこと。そして百二十歳の時に死にます。「40」という区切りですが、以前、ノアの時代の洪水が4040夜続いたとありました。イエス様は40日間、悪魔から誘惑を受けられました。これらのことから考えると、「四十」というのは神の裁き、あるいは神の試練を表しているように思われます。

2B 蛇に変わる杖 8−13
7:8 また主はモーセとアロンに仰せられた。7:9 「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」7:10 モーセとアロンはパロのところに行き、主が命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。

 おそらく、モーセが自分の杖をアロンに渡して、アロンが預言者としてその杖を使って蛇にしたものと思われます。かつてイスラエル人の前でもそれを行いました。

7:11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。

 エジプトの呪術者もこの秘術を行うことができました。「どのようにして?」と思われるかもしれません。ここで私たちが知らなければいけないのは、「悪魔は奇蹟や徴を限定的に行うことができる」という事実です。

 エジプトでは、魔術が非常に盛んでした。今のように世俗と宗教が分離しておらず、すべてが一体でした。それで政府中枢は学者だけでなく、このように呪法師たちもいます。テモテへの手紙第二38節に、この呪法師の名は「ヤンネとヤンブレ」であり、モーセに逆らったとあります。

 こうした魔術の背後には悪魔や、その手下の悪霊どもが働いています。終わりの日に反キリストが現れますが、「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。(2テサロニケ2:9-10」とあります。奇蹟や不思議を行うので、それが神からのものであるとして受け入れる人々が終わりの日に出てくる、というのです。

 ですから、私たちはいたずらに、テレビ等に出てくる占いや超能力現象などを好んでみてはいけません。大事なのは何の霊がそれをしているのか?ということです。もし悪い霊であれば、信仰や希望、愛といったものが分からなくさせていきます。聖い神の霊のみが、愛を教え、慎みを与え、力を与えてくださるのです。「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(1ヨハネ4:1

7:12 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。

 主はここにおいて、呪法師たちが行っていることよりもご自分が勝っていることを示しておられます。同じような働きをしていても、主の力のほうが優れています。

7:13 それでもパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主が仰せられたとおりである。

 人のプライド、高ぶりというのは不思議なものです。私たちはこれから、パロのかたくなさを通して、私たちが主を受け入れない時に言う「言い訳」を見ていくことができます。その一つは、「我々が信じているものにも同じことができるではないか。」と言うものです。

 いかがでしょうか?私は信仰を持つ前、また持った後もしばらくこれで結構悩みました。日本人の人たちは結構、宗教を特に持たなくてもいろいろできてしまうのです!外国から来る人々は、日本人の親切心、犠牲的な働き、団結力に感心しています。別にキリストに従わなくても、そのような良い性質を持っているかのように見えます。

 けれども、キリスト者になって分かってきたことは、それらの外側の行いは内にある人を押し殺して成り立っているものです。お互いに助け合って生きていけば、自分たちでやっていける、と言っても内にある魂の渇きは癒えていません。それゆえ、どんどん自殺者が日本では増えています。こんなに鬱にかかっている人が多いのは何でしょうか?自己の中で処理できていないからです。

 これこそ「似て非なる」ものなのです。キリストにある愛は、内側からあふれてくるものです。単に自分を殺して、相手を気にするものではありません。

3B 血になるナイル 14−25
7:14 主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。7:15 あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、7:16 彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしに仕えさせよ。』ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。7:17 主はこう仰せられます。『あなたは、次のことによって、わたしが主であることを知るようになる。』ご覧ください。私は手に持っている杖でナイルの水を打ちます。水は血に変わり、7:18 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水をもう飲むことを忌みきらうようになります。」

 私たちはこれから、主が先に告げられた徴と不思議を読んでいきます。合計、十の災いがあります。十番目の災いは、エジプトの初子を殺すというものですが、その前の九つの災いには周期があります。初めの三つ、半ばの三つ、そして最後の三つです。

 その区別は、15節にある「ナイルの岸に立って彼を迎えよ」であります。パロは、ナイル川に来て礼拝を捧げていました。ナイル川そのものを拝んでいたか、その他のエジプトの宗教の儀式を行っていました。この水の前に出てくるパロの姿を第一の災い、第四の災い、そして第七の災いの前に見ます。

 エジプトという国は、日本人も真っ青になるほどの多神教信仰を持っていました。すべて力あるもの、豊かなものに神秘さを見出し、それを神々にしていました。これらの神々の背後にあるエジプトの力と豊かさによって、パロは高慢になり、主を受け入れませんでした。神はその一つ一つを打ちたたかれて、ご自分こそが神であり主なのだ、ということを顕現なさるのです。「また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。(出エジプト12:12

 その主要な神の一つが、まさにナイル川でした。古代エジプト文明はナイル文明と言っても過言ではありません。エジプトは半砂漠気候の地域です。ナイル川周辺から少し離れると、そこは砂漠です。カイロ市内は緑がありますが、その近郊のギザは砂漠の中にピラミッドを宿しています。

 ナイル川は、その農業に大きな貢献をしています。その洪水による川の氾濫によって周囲の地域に肥沃な土が敷かれます。人々はそれでナイル川をほめたたえ、事実、ナイルを賛美する歌も見つかっています。そしてナイル川によって暦を作り、彼らの生活はナイルを中心に回っていたのでした。そしてもちろん、漁業も盛んでした。したがってナイルを打つことは、この誇りを打ち砕くことに他なりません。

7:19 主はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」7:20 モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。7:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。

 この「血」について、いろいろな解釈をする人たちがいますが、実際の血でなくても、ちょうど赤潮のように魚を窒息死させ、また人が飲めない水になったことは確かです。(終わりの日に起こる現象として、ヨエル書には、「月は血に変わる2:31)」とあります。)けれども、「血」という言葉によって、「ナイルという神が血を流した」という強い意味になっているのです。

7:22 しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。主の言われたとおりである。7:23 パロは身を返して自分の家にはいり、これに心を留めなかった。

 先ほど説明しました通りです。自分たちの呪法師も真似することができました。けれども、もちろんエジプトの呪法師が行った規模と、モーセとアロンが行った規模は桁外れです。モーセが行ったのはエジプト全土に渡る水であります。興味深いことに、人は千ある証拠があるのに、それに反対しているような一つの事象を取り上げて、全てを否定するという愚かなことをします。

 そしてパロのもう一つのかなくなさの理由は、「自分自身は害を受けていない」ということです。次をご覧ください。

7:24 全エジプトは飲み水を求めて、ナイルのあたりを掘った。彼らはナイルの水を飲むことができなかったからである。7:25 主がナイルを打たれてから七日が満ちた。

 民は水がなくて苦しんでいました。けれどもパロにとってはどうでもよいことでした。彼の専制政治は、このように人々への無慈悲として現れています。そこで主は、このパロにぎゃふんと言わせるために、次の災いを起こされます。

3A 苦しみ始めるパロ 8
1B 家に入る蛙 1−15
8:1 主はモーセに仰せられた。「パロのもとに行って言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らにわたしに仕えさせるようにせよ。8:2 もし、あなたが行かせることを拒むなら、見よ、わたしは、あなたの全領土を、かえるをもって、打つ。8:3 かえるがナイルに群がり、上って来て、あなたの家にはいる。あなたの寝室に、あなたの寝台に、あなたの家臣の家に、あなたの民の中に、あなたのかまどに、あなたのこね鉢に、はいる。8:4 こうしてかえるは、あなたとあなたの民とあなたのすべての家臣の上に、はい上がる。』」

 彼は先に、ナイル川が血になっても自分の家に戻って気楽でした。けれども今度は、自分の宮廷の、しかも寝台に上にまでも災いを主が及ぼされるのです。

 蛙はナイルの氾濫によって無尽蔵におり、それでエジプト人は豊かさと繁殖を表す動物として崇めていました。「ヘケト」という女神でした。蛙の形が胎児にも似ているということから、多産を表していました。

 その祝福を表していた神が今度は自分たちを打つ災いとなっていったのです。私たちは豊かさをまことの神に感謝せずに、むしろその中で安住していれば、その豊かさが私たちをかえって押し潰す重石となっていくのです。

8:5 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」8:6 アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。8:8 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「かえるを私と私の民のところから除くように、主に祈れ。そうすれば、私はこの民を行かせる。彼らは主にいけにえをささげることができる。」

 興味深いですね、呪法師も同じように蛙を這い上がらせることはできましたが、彼は呪法師らに蛙を取り除くことを願いに行くのではなく、モーセとアロンにお願いしにきました。彼は心の奥底で分かっていたのです。自分の呪法師ではなく、モーセとアロンの所に行ったのです。

 パロにとって、エジプトの神々は自分の誇りでありこそすれ、救いではなかったのです。多くの人々が神とキリストを受け入れない言い訳として、自分は仏教徒であるから、神道があるからと言いますが、いざと言うときにそれらの仏と神々に頼みに行くのでしょうか?私の父は、信仰を持つ前にも、何か大変なことが起こった時に、「清正助けてくれ。お前の神に祈ってくれ。」とお願いの電話を入れました。神棚があるにも関わらず、です。彼は私が鬱で苦しんでいたのに、信仰をもって癒されたのを見ていたからです。

8:9 モーセはパロに言った。「かえるがあなたとあなたの家から断ち切られ、ナイルにだけ残るように、あなたと、あなたの家臣と、あなたの民のために、私がいつ祈ったらよいのか、どうぞ言いつけてください。」8:10 パロが「あす。」と言ったので、モーセは言った。「あなたのことばどおりになりますように。私たちの神、主のような方はほかにいないことを、あなたが知るためです。8:11 かえるは、あなたとあなたの家とあなたの家臣と、あなたの民から離れて、ナイルにだけ残りましょう。」

 モーセは、あえてパロに蛙のなくなる時期を定めさせました。それは、確かに主がそれをなさったという証拠とさせるためです。

8:12 こうしてモーセとアロンはパロのところから出て来た。モーセは、自分がパロに約束したかえるのことについて、主に叫んだ。

 興味深いですね、モーセはパロの前では大胆に明日になくなると言いましたが、ここで必死になって祈っています。叫んでいますね!お茶目ですが、けれども、私たちにもこのように信仰が与えられて、その瞬時に大胆になることがあります。それは御霊が与えてくださる賜物であって、自分の信心深さではないのです。ですから、モーセとアロン自身が自分たちの発言したことに驚いていて、必死で祈っているのです。

8:13 主はモーセのことばどおりにされたので、かえるは家と庭と畑から死に絶えた。

 祈りを聞いてくださいました!神は祈りを聞かれる方です。

8:14 人々はそれらを山また山と積み上げたので、地は臭くなった。8:15 ところが、パロは息つく暇のできたのを見て、強情になり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。

 パロのこの態度に、いわゆる「困ったときの神頼み」信仰があります。パロにとってのヤハウェはあくまでも、「自分の小間使い」なのです。自分の必要を満たしてくれる道具にしかすぎません。その用事が足されると、もう必要なくなり無視するのです。

 私たち信仰者も、ともすると、祈りが聞かれ、祝福されると、むしろ神から離れることがありますね。イスラエルの歴史がそのようになります。祝福され、豊かになると、かえって周囲の偶像を拝むようになりました。そこから離れるためには、祈りが聞かれたら、聞かれたことを神に感謝することです。そして、主の真実を思いめぐらして、ますます主に仕える心を与えられることです。

2B 身にまとわりつく蚋 16−19
8:16 主はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」

 初めの二つの災いと異なり、パロへの警告なしに行います。

8:17 そこで彼らはそのように行なった。アロンは手を差し伸ばして、杖で地のちりを打った。すると、ぶよは人や獣についた。地のちりはみな、エジプト全土で、ぶよとなった。

 ぶよの災いですが、土からぶよを出しています。大地も「ゲブ」という神の一つでした。

 そして、それがぶよとなり皮膚に付いたというのは、呪法師らに対する裁きです。呪法師は極端にきれい好きでした。自分の肉体をきれいにすることに専心していました。頭から足のつま先まで体毛と呼ばれるものはすべて剃り、頻繁に体を洗い、そしてきれいな亜麻布の服を着ていました。肌の健康がそのまま宗教になっていたのです。したがって、ぶよが体に付いてくるということは、彼らが自分の宗教の儀式を行うことができなくさせたのです。

8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。8:19 そこで、呪法師たちはパロに、「これは神の指です。」と言った。しかしパロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞き入れなかった。主の言われたとおりである。

 ついに、呪法師もぶよを出すことができなくなりました。悪魔や悪霊による奇蹟は限度があるのです。その境界線は「創造」の働きです。塵からぶよを出すことは、無いものを有るものにするのですから創造主しかすることができません。ここにこの世の霊と、神の御霊との違いがあります。

 この世の霊による占いは、あなたにこの世にある可能性の範囲内でしか将来を告げることはできないでしょう。けれども、神の御霊による預言は皆さんに、現在の自分にはまったく想像すらできない希望と慰めを与えてくださいます。なぜなら、神の御霊にはそれができるからです。ですから、占いや他の人間的な助言に耳を傾けてはいけないのです!あなたは神の目に高価で尊いのです!

 呪法師は「これは神の指です」と叫んでいます。聖書には「神の指」という表現が何回か出てきますが、例えば詩篇83節には、「あなたの指のわざである天を見」とあります。この天体をも神がご自分の指をもってお造りになりました。そしてバビロンという世界帝国が一夜にした滅ぶその直前にも、「すると突然、人間の手の指が現われ、王の宮殿の塗り壁の、燭台の向こう側の所に物を書いた。(ダニエル5:5」とあります。神の恐ろしい裁きの予兆としての神の指でした。呪法師も同じように感じたことでしょう。

3B イスラエルにはいない虻 20−32
8:20 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に出よ。見よ。彼は水のところに出て来る。彼にこう言え。主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。8:21 もしもあなたがわたしの民を行かせないなら、さあ、わたしは、あぶの群れを、あなたとあなたの家臣とあなたの民の中に、またあなたの家の中に放つ。エジプトの家々も、彼らがいる土地も、あぶの群れで満ちる。

 再び、パロが水のところに出てくる場面に戻っています。三つで一組の災いが終わり、また新たな災いを行われます。次は「あぶ」の災いです。ぶよは蚊より少し大きく血を吸いますが、ここのあぶはさらに大きく、同じように家畜などの血を吸うサシバエで、「ウチヒト」と呼ばれる神であした。

8:22 わたしはその日、わたしの民がとどまっているゴシェンの地を特別に扱い、そこには、あぶの群れがいないようにする。それは主であるわたしが、その地の真中にいることを、あなたが知るためである。8:23 わたしは、わたしの民とあなたの民との間を区別して、救いを置く。あす、このしるしが起こる。』」

 ここに、第二周期の災いの特徴があります。イスラエル人とエジプト人の区別を神が行われます。ゴシェンの地はナイル川が氾濫する肥沃な土地であり、家畜が多いと言えばこの地なのですが、なんとここには群れがないようにされます。

 主の救いはこのように「区別」であります。主が救いに定められた者たちは、完全に災いを免れることができ、そうでなければ災いを無差別に被ります。その違いは、神の民になっているかどうか、神に属しているかどうかです。

 つまりイエス・キリストの内にいるのかどうかが、問題となるのです。キリストの内にいれば、必ず安心です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1」けれども、キリストの内にいない者はどんな人でも神の怒りに遭います。

8:24 主がそのようにされたので、おびただしいあぶの群れが、パロの家とその家臣の家とにはいって来た。エジプトの全土にわたり、地はあぶの群れによって荒れ果てた。8:25 パロはモーセとアロンを呼び寄せて言った。「さあ、この国内でおまえたちの神にいけにえをささげよ。」

 非常に、興味深いです。パロは妥協案を出しているのですが、それはイスラエルの民が自分の手中に収まっている形で申し出ています。国内にいれば、彼らを労役につけることができます。

 これからさらに何回かパロは妥協案を出しますが、それはまさに私たちがこの世から受ける誘いであります。ここの「国内でいけにえを捧げる」というのは、「以前の生活を変えることなく、ただ信仰を持ちなさい。」という誘いです。

 イエス・キリストを信じるということは、光の中に入ることになります。これまでの自分中心の生き方を変えて、神中心の生き方に変えることになります。したがって、古い生活習慣を変えて、新しい習慣を身に着ける営みが始まります。けれども、ただ口だけで、思いの中だけでイエスを信じました、というだけの捧げ物をしているのであれば、それはまさに「国内で捧げ物をしている」ことになります。

8:26 モーセは答えた。「そうすることは、とてもできません。なぜなら私たちは、私たちの神、主に、エジプト人の忌みきらうものを、いけにえとしてささげるからです。もし私たちがエジプト人の目の前で、その忌みきらうものを、いけにえとしてささげるなら、彼らは私たちを石で打ち殺しはしないでしょうか。8:27 それで私たちは荒野に三日の道のりの旅をして、私たちの神、主にいけにえをささげなければなりません。これは、主が私たちにお命じになることです。」

 エジプト人は家畜を神々としてあがめていました。ですからそれらをいけにえとして捧げる姿を見たら、エジプト人がイスラエル人を殺してしまうではないか、と言っているのです。ですから、エジプト人がつまずかないように、三日の道のりが必要です、と言っています。

8:28 パロは言った。「私は、おまえたちを行かせよう。おまえたちは荒野でおまえたちの神、主にいけにえをささげるがよい。ただ、決して遠くへ行ってはならない。私のために祈ってくれ。」

 パロの悪い心が見えています。「決して遠くへ行ってはならない。」と言っています。後で彼らを捕まえにいくことができるようにするためです。そして「私のために祈ってくれ。」とも言っています。これはまさに、「自分中心で生きる生活はやらせてもらうが、神からの便益だけはもらおうか。」という姿勢です。

8:29 モーセは言った。「それでは、私はあなたのところから出て行きます。私は主に祈ります。あす、あぶが、パロとその家臣とその民から離れます。ただ、パロは、重ねて欺かないようにしてください。民が主にいけにえをささげに行けないようにしないでください。」8:30 モーセはパロのところから出て行って主に祈った。8:31 主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。8:32 しかし、パロはこのときも強情になり、民を行かせなかった。

 かたくなな心は言い訳を初めにしますが、次にするのは偽りです。自分が主に捧げたくないと思っているけれども実際はそうはしていないので、いろいろ嘘をついて、信仰者と付き合おうとします。偽りの生活ほど苦しいことはありません。偽りの生活ほど自分の良心を麻痺させるものはありません。それよりも、罪を言い表した方がよいのです。自分の弱さを正直に言い表したほうが、はるかにまさっています。

 このように、私たちはパロのかたくなさを通して、神に反抗する心を見ることができています。どうか私たちが、御言葉を聞いているだけでそれを信仰によって受け入れることのしないかなくなな心にならないように、へりくだって祈り続けましょう。心を大きく開いて、主の御言葉によって自分自身を裁いていただきましょう。自分を裁く者は、後に裁かれることはありません。

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