出エジプト9章後半−11章 「神のあわれみと怒り」

アウトライン

1A かつてなかった災い 9:13−10:29
   1B もう一回のチャンス 9:13−35
      1C 主の御名 13−21
      2C 救いの区別 22−26
      3C 残された力 27−35
   2B 徹底的さばき 10:1−20
      1C 食い尽くすいなご 1−6
      2C 壮年の男だけの許可 7−11
      3C かたくなにされる主 12−20
   3B 止め 10:21−29
      1C やみと光 21−23
      2C 財産なしの奉仕 24−29
2A イスラエルを出て行かせる災い 11
   1B 尊敬されるモーセ 1−3
   2B 初子の死 4−10

本文

 出エジプト記9章を開いてください。前回は9章12節まで学びましたので今日は13節から読みます。そして11章の終わりまで学びます。ここでのテーマは、「神のあわれみと怒り」です。

1A かつてなかった災い 9:13−10:29
 前回の学びを思い出してください、パロがイスラエルの民を行かせないので、主はエジプトに災いを下し始められました。ナイル川の血、かえる、ぶよ、あぶ、家畜の病死、うみ、の六つでした。神は、パロが言うことを聞かないのを見て、その災いをパロの家の中にまで伸ばされました。また、同じような不思議を行なうエジプト人の魔術師にさばきを下されました。また、神はさばきを、イスラエルとエジプトと区別して行なわれました。災いがイスラエルには下らなかったのです。そして今日は、七つ目の災いから観ていきます。

1B もう一回のチャンス 9:13−35
1C 主の御名 13−21
 主はモーセに仰せられた。「あしたの朝早く、パロの前に立ち、彼らに言え。ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。』」

 前回の学びで、十の災いの最後を除く九つの災いは、初めの三つ、半ばの三つ、そして後半の三つに分けることができると話しました。それは、朝早くパロのところにモーセとアロンがやって来ることから分かります。パロは朝早くナイル川の前に立っているのは、ナイル川を礼拝するためでした。第一の災いの前のこの表現が出てきます。そして第四の災いの前にも、「彼は水のところに出てくる」とあります。パロはナイル川に出てきたのかどうか分かりませんが、もしかしたらナイル川を代用する水の前に出てきたのかもしれません。そして七つ目の災いが下る前は、ただパロの前に行きなさい、と主は言われています。もしかしたら、パロは自分の朝の日課になっていた偶像礼拝を、断続的な偶像に対する神のさばきを見て、その気力が失われつつあるのかもしれません。

 私たち人間は、自分は絶対にこれをつかんでいる、と固執する偶像や罪に対しては、徹底的なさばきが神からくだっても、それでもまだつかんでいたいと願うのでしょう。

 今度は、わたしは、あなたとあなたの家臣とあなたの民とに、わたしのすべての災害を送る。わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。

 主は、「すべての災害を送る」と言われています。ご自分が用意されているさばきを、余すところなく現わす、ということです。ご自分の怒りを残したままでいないように、すべて怒りを現わされます。

 わたしが今、手を伸ばして、あなたとあなたの民を疫病で打つなら、あなたは地から消し去られる。それにもかかわらず、わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。

 ここは理解すべき大事な箇所です。パロに対して酷い災いが下っていますが、それでもパロがかたくなでいるのは、神がパロのかたくなさに対して無力である、ということではありません。あるいは、パロを必要以上に懲らしめているのでもありません。神は、パロとエジプトの民を滅ぼそうと思えば、一瞬のうちに滅ぼし尽くすことがおできになるのです。彼らがまだ生きているのは、彼らの生命力があるからではなく、神があえて、ご自分の力を制御されているからです。

 前回も読みましたが、パロのことが説明されている新約聖書の箇所があります。ローマ9章22節です。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。(ローマ9:22」パロはいつまでも心をかたくなにして、滅ぶべき存在であることを主はご存知でした。けれども、主はだからといって、彼らを地獄の火の燃料にするために彼らを造られる、というような方ではありません。すべての人が悔い改めに導かれて、救われることを神は願っておられます。けれども主はすべてを前もってご存知ですから、だれが滅ぶ存在であるかはご存知なのですが、救われる人に対しても、滅ぶことが分かっている人に対しても、等しく悔い改めの機会を与えてくださっています。今、パロとエジプトの民を滅ぼし尽くされないのは、神のあわれみによるのです。彼らには、主に立ち返るチャンスがあるのです。

 あなたはまだわたしの民に対して高ぶっており、彼らを行かせようとしない。

 以前私たちは、パロが、「主とは何者か」と言ったその発言は、彼の高ぶりの表れであることを学びました。神などいない、自分こそが生きていて、自分の力と知恵で生きるのだ、という態度は、神に対する高ぶりです。

 さあ、今度は、あすの今ごろ、エジプトにおいて建国の日以来、今までになかったきわめて激しい雹をわたしは降らせる。

 この当時のエジプトは建国からすでに二千年経っていました。その二千年の間に起こったこともない、激しい雹を降らせる、と主は言われます。そしてエジプト人は、空の神として「ヌト」を拝んでいました。自分たちに雨や太陽光線などの恩恵をもたらすヌトが、今、主の前にさばかれています。

 七つ目、八つ目、そして九つ目の災いの特徴は、「今までかつてない激しい災い」ということです。初めの六つもひどかったのですが、最後の三つは今までにない、最も酷い災いになります。

 
それゆえ、今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。

 今さっき話しましたように、主はまだ、エジプトにご自分のみことばを聞くチャンスを与えられています。私たちも、主に背を向けているときに、同じように何回も、主に向き直るチャンスを与えられています。

 パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。

 主のことばを恐れた者と、そうではない者に分かれます。これはいつもそうです。同じ聖書からのメッセージを聞いて、神のみことばを受け入れる者とそうではない者に分かれます。それは、イエスさまが四種類の土のたとえでお語りになったように、その人の心の状態で決まります。ある者は岩地、ある者はいばら、そしてある者は良い土であり、良い土の人だけが多くの実を結ばせることができます。主のことばに対する畏れがどれだけあるかにかかってきます。

2C 救いの区別 22−26
 そこで主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸ばせ。そうすれば、エジプト全土にわたって、人、獣、またエジプトの地のすべての野の草の上に雹が降る。」モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。

 激しい雹が降りました。雷と火とともに降ってきました。私たちは出エジプト記の前に黙示録を学びましたが、終わりの時に主が大患難を地上に下されるときに、出エジプトでの災いと似たような災いになることを知っています。第二の御使いによる鉢は、海が血に変わる災いですが、出エジプトの第一の災いがナイル川が血に変わりました。第六の御使いの鉢から、かえるのような汚れた霊が出てくることが書かれていますが、出エジプトの第二の災いに匹敵します。小羊の第四の封印が解かれたとき、青ざめた馬が出てきましたが、その時に死病がおそって、人と獣の四分の一が殺されましたが、出エジプトの第五の災いは家畜の疫病でした。まだ第六の災いは、うみが出る腫瘍でしたが、第一の御使いの鉢がぶちまけられたときに、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができました。そして今読んだ雹と火ですが、七つのラッパのうち、第一のラッパが吹き鳴らされたら、血の混じった雹と火が現われ、その結果地上の草木の三分の一が焼き尽くされました。

 そして出エジプトの第八の災いはいなごですが、黙示録9章には、底知れぬ所から出てきた、いなごのようなおぞましい生き物が、五ヶ月の間人々を苦しめることが許された、という出来事が書かれています。第九の災いは暗やみですが、七つの鉢のうち五つ目が、獣の国を暗くする災いです。このように、エジプトの国で起こったことは過去の出来事ではなく、近い将来も似たような、いやもっと大きな規模で下る災いなのです。

 ただ、イスラエル人が住むゴシェンの地には、雹は降らなかった。

 前回と同じように、イスラエルはエジプト人と区別されて救いを得ています。救いというのは、本来なら受けなければいけないさばきを、主があえて下さないように、この世から聖め別ってくださるわざ、とも言えます。職場で隣のデスクで働いている人と、自分はどちらも、神の刑罰を同じように受けなければいけない、罪人です。けれども、神の救いによって、あえてその刑罰を受けずに済むようにされているだけなのです。その理由は、次回学ぶ、出エジプト記12章に記されている過越の祭りの中にその意味が隠されています。

3C 残された力 27−35
 そこでパロは使いをやって、モーセとアロンを呼び寄せ、彼らに言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」

 パロがかなり打撃を受けています。罪を犯した、と告白していますが、「神の雷と雹はもうたくさんだ」との言葉から、では、雷と雹がなくなれば、それでも主を畏れるのか?という疑問が湧いてきます。多くの場合、問題が解決するとそれで主から背を向けるのです。単に苦しみから解き放たれたい、という思いでは、救いを得ることはできません。

 モーセは彼に言った。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。この地が主のものであることをあなたが知るためです。しかし、あなたとあなたの家臣が、まだ、神である主を恐れていないことを、私は知っています。 モーセは、パロの心のかたくなさを見抜いています。 ・・亜麻と大麦は打ち倒された。大麦は穂を出し、亜麻はつぼみをつけていたからである。しかし小麦とスペルト小麦は打ち倒されなかった。これらは実るのがおそいからである。

 イスラエルの地では、大麦は三月終わりから四月にかけて、小麦は五月中旬から六月にかけて収穫があります。小麦のほうが、時期的に遅いのです。それで、まだ小麦の芽が出ていませんでした。

 ・・モーセはパロのところを去り、町を出て、主に向かって両手を伸べ広げた。すると、雷と雹はやみ、雨はもう地に降らなくなった。パロは雨と雹と雷がやんだのを見たとき、またも罪を犯し、彼とその家臣たちは強情になった。パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである。

 ここで大切なのは、小麦の難を逃れたことを知ったとたんに、パロと家臣たちが心をかたくなにしたことです。神は、人をへりくだらせるために、その人の力を弱くされることがあります。ある人は病にかかり、ある人は事業が失敗し、ある人は失恋したり、自分だけでは生きることができない情況が、神によって与えられます。けれども、人の心がかたくななときは、弱くされたその状態の中にも、自分の力を見出します。たとえば下半身麻痺になった人が、「それでも俺は、上半身は健全だ。」と強情になることです。主があわれみによって、その人のすべてを弱くしておられないのに、そのあわれみを逆手に取って、自分はまだ生きていけると思う込む材料に使ってしまいます。パロたちは、小麦がまだ打撃を受けていなかったので、まだエジプトはやっていける、と思ったのです。

2B 徹底的さばき 10:1−20
 そこで主は、その彼らのおごりを徹底的に押しつぶす災いを下します。

1C 食い尽くすいなご 1−6
 主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」

 主が彼らの心をかたくなにされる、もう一つの理由が書かれています。それは、主のしるしを、イスラエル人の子孫が聞き、この方こそ主であることを知るため、です。これはとても大切な目的です。イスラエルがエジプトから出て行って、約束の地へ導かれ、そこに住んで、何十年、何百年経った後も、その霊的指導者や預言者たちは、いつもエジプトからイスラエルを出してくださって主から語り始めました。これが、イスラエル人たちのアイデンティティーであったのです。つまり、奴隷状態から解放してくださって、ご自分の所有とされた主が、自分たちの神である、ということです。何百年の後になっても、このことを思い出してもらうために、主は、パロたちの心のかたくなさを用いて、災いを起こしておられます。

 私たちがいつも思い出している出来事は何でしょうか?イエスさまが、事あるごとに思い出して、行ないなさいと命じられたのは何でしょうか?ご自分の肉が裂かれ、また血が流されたことです。私たちのいやしのため、また罪の赦しのために、主が死なれたことを私たちは思い起こします。それは、クリスチャンのアイデンティティーだからです。キリストが流れされた血によって、キリストの死によって、神のところに行く道が開かれたことが、私たちのアイデンティティーです。私たちはキリストの死につながれた者たちであり、キリストとともによみがえった者です。これは、イスラエル人のように、いつまでも、主が戻って来られるまで宣べ伝えなければいけない言葉であります。

 モーセとアロンはパロのところに行って、彼に言った。「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。』」

 いなごは、大群でやってくると、農作物にとんでもない被害をもたらします。ここで主が言われているように、いなごは外に出てくる作物だけでなく、土の中にある芽や根っこまでも、文字通り根こそぎ食ってしまいます。彼らが、小麦がまだ生き残っているから大丈夫さ、とうぬぼれていたので、それに対してさばきをされます。

 またあなたの家とすべての家臣の家、および全エジプトの家に満ちる。このようなことは、あなたの先祖たちも、そのまた先祖たちも、彼らが地上にあった日からきょうに至るまで、かつて見たことのないものであろう。』」こうして彼は身を返してパロのもとを去った。

 かつて見たこともないさばきです。

2C 壮年の男だけの許可 7−11
 家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」

 家臣たちは焦っています。そして男たちを行かせてください、と頼んでいます。

 モーセとアロンはパロのところに連れ戻された。パロは彼らに言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」モーセは答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」パロは彼らに言った。「私がおまえたちとおまえたちの幼子たちとを行かせるくらいなら、主がおまえたちとともにあるように、とでも言おう。見ろ。悪意はおまえたちの顔に表われている。そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」こうして彼らをパロの前から追い出した。

 なんとパロは、家臣が男たちを出て行かせてください、と言ったのを聞いて、なら男だけを生かせようと決めたようです。モーセが、子供たちも、家畜もみな出て行きますと言ったら、それを悪意とみなしました。

 主に仕えるのは大人だけで、子供は関係ない、というのは、悪魔のささやきであり、世が要求することです。クリスチャンの親が子供を主にあって訓練するように、主に命じられているのに、彼らは彼ら、私たちは私たち、と区別していたら、それは大きな間違いです。自分がイエスさまを信じて子供がいたら、自分の未信者の親から、「あなたは子供まで教会に連れて行って、洗脳させちゃだめよ。」なんていう圧力がかけられたりします。けれども、子供も親の監督の下、主に従っていくというのは神のみこころなのです。

3C かたくなにされる主 12−20
 主はモーセに仰せられた。「あなたの手をエジプトの地の上に差し伸ばせ。いなごの大群がエジプトの地を襲い、その国のあらゆる草木、雹の残したすべてのものを食い尽くすようにせよ。」モーセはエジプトの地の上に杖を差し伸ばした。主は終日終夜その地の上に東風を吹かせた。朝になると東風がいなごの大群を運んで来た。いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。実におびただしく、こんないなごの大群は、前にもなかったし、このあとにもないであろう。

 終わりの時には、いなごのような生き物の大群が底知れぬ所から出てきますが、文字通りのいなごではないですから、出エジプトのときのいなごが最悪だったのでしょう。

 それらは全地の面をおおったので、地は暗くなった。それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。

 いなごの大群が通り過ぎると、あたかも夜になったかのように暗くなります。それほど酷いのです。

 パロは急いでモーセとアロンを呼び出して言った。「私は、おまえたちの神、主とおまえたちに対して罪を犯した。どうか今、もう一度だけ、私の罪を赦してくれ。おまえたちの神、主に願って、主が私から、ただこの死を取り除くようにしてくれ。」

 死ぬような恐ろしさをパロは味わいました。

 彼はパロのところから出て、主に祈った。すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。しかし主がパロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエル人を行かせなかった。

 ついにパロはこの災いについても、主に対して心をかたくなにしました。そして主ご自身がパロの心をかたくなにされています。人が主を拒みつづけると、ついに、主がその立場を強固にされる、という時期があります。遅すぎる前に、主の恵みがあるときに悔い改める必要があります。

3B とどめ 10:21−29
1C やみと光 21−23
 主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。

 九つ目の災いは、やみです。光は、神の創造物の中で一番初めのものが光です。それをなくしてしまう、というのは、人間生存に関わる問題です。人は真っ暗闇の中におかれるとき、数時間で精神的狂乱に置かれる、と言われています。エジプト人はそれを三日間、味わいます。

 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

 再びイスラエルとエジプトを主は区別されています。面白いのは、聖書では、光が神の聖さを表し、暗やみが罪の中の世界を象徴的に表しています。ですからイエスさまは、ご自分が世の光であるといい、ご自分のうちに歩む者はつまずくことがない、と約束しておられます。イスラエルが暗やみの中で光であったように、キリストのうちを歩む者も光となっています。

2C 財産なしの奉仕 24−29
 パロはモーセを呼び寄せて言った。「行け。主に仕えよ。ただおまえたちの羊と牛は、とどめておけ。幼子はおまえたちといっしょに行ってもよい。」モーセは言った。「あなた自身が私たちの手にいけにえと全焼のいけにえを与えて、私たちの神、主にささげさせなければなりません。私たちは家畜もいっしょに連れて行きます。ひづめ一つも残すことはできません。私たちは、私たちの神、主に仕えるためにその中から選ばなければなりません。しかも私たちは、あちらに行くまでは、どれをもって主に仕えなければならないかわからないのです。」しかし、主はパロの心をかたくなにされた。パロは彼らを行かせようとはしなかった。

 パロはまたしても妥協案を出しました。家畜はそのままとどめておけ、という妥協案です。これはいったい、何を表しているのでしょうか?主に仕えるのに、自分の財産もいっしょにもっていって、仕えなければいけない、ということです。自分の財産はこの世のもの、自分の魂と霊が神のもの、という二元論は異端であり、悪魔からのものです。私たちは、自分の肉体、自分の実際の財産、時間も、すべてをもって主にお仕えします。

 パロは彼に言った。「私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。」モーセは言った。「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」

 パロとモーセの間の交渉は、決裂しました。お互いに顔を合わせないようにしました。

2A イスラエルを出て行かせる災い 11
1B 尊敬されるモーセ 1−3
 主はモーセに仰せられた。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。」

 これは最後の災いの予告です。十番目の災いです。詳しくは12章、13章で学びますが、今日11章で、主の警告の部分だけを読みます。ここまでかたくなであったパロも、これまで妥協案を出してきたパロも、無条件で、いやむしろ、強いるようにしてイスラエルを出してしまう決断をします。今までの災いとは、一段とひどいものになっています。

 さあ、民に語って聞かせよ。男は隣の男から、女は隣の女から銀の飾りや金の飾りを求めるように。」主はエジプトが民に好意を持つようにされた。モーセその人も、エジプトの国でパロの家臣と民とに非常に尊敬されていた。

 以前も話しましたように、金や銀は後に幕屋を造る材料として必要なものです。奴隷であったイスラエル人には、金銀がなかったのでエジプト人から受け取ります。けれども、それはエジプト人から奪い取るのではなく、エジプト人のほうから進んで差し出してくれます。なぜなら、イスラエル人が好意を受けて、モーセも尊敬されていたからです。

 こんなにもひどいさばきが自分たちにくだっているのに、彼らが好意を持ち、モーセを尊敬しているのは不思議なことですが、実は不思議ではありません。エジプト人が、神の大いなるみわざを見て、まことの神を認めているからです。そのために、神の民とされたイスラエル人、また指導者モーセを良く思ったのです。私たちも、まことの御霊の働きが行なわれているとき、まことの神を認め始めた人たちは、私たちに好意と尊敬を寄せるようになります。

2B 初子の死 4−10
 モーセは言った。「主はこう仰せられます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。』」

 パロがイスラエル人を無理やり出て行かせるさばきとは、初子の死です。初子とは、初めに生まれて来た男のことです。動物なら初めに生まれてきた雄のことです。パロも含めて、エジプト中でどの家庭でも初子が殺されます。

 聖書の中で、初子という概念はとても重要な意味を持っています。それは、初めに生まれてきた、というだけでなく、最優先されるべきもの、他と比べてとびぬけて優れていて、一番のもの、という意味合いがあります。父からの相続を受け取るのも、初子、あるいは長子です。父から出てきて、父と同じものを持つのは、長子です。ですから、これを失うのは、もっとも痛いことなのです。

 イエスさまが、死者からのよみがえりにより、私たちの兄弟となり、長子となられたということが新約聖書の中に書かれています。この方がもっとも大事な方、第一の方となられました。

 しかしイスラエル人に対しては、人から家畜に至るまで、犬も、うなりはしないでしょう。これは、主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。

 犬の、うなりはしないでしょう、という言い回しは、まったく平穏無事である、ということです。イスラエルの初子は、何ら被害を受けません。

 「あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」こうしてモーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。

 ここまでしないと出て行かせないのか、という義憤です。

 主はモーセに仰せられた。「パロはあなたがたの言うことを聞き入れないであろう。それはわたしの不思議がエジプトの地で多くなるためである。」モーセとアロンは、パロの前でこれらの不思議をみな行なった。しかし主はパロの心をかたくなにされ、パロはイスラエル人を自分の国から出て行かせなかった。

 最後の警告もついに、パロは無視します。こうして、最後の最後までパロがイスラエル人を出て行かせないのを見ました。

 パロのかたくなさを見て、私は、イエスさまを十字架につけるように仕向けたユダヤ人たちのことを思います。また、イエスさまを裏切った弟子イスカリオテのユダを思い出します。彼らは、最後の最後まで福音の真理を受け入れませんでした。そしてそのことが、前から神は分かっておられました。けれども、主がパロの心をかたくなにされて、ご自分のしるしと不思議を行なわれたように、はるか昔からご計画されて、ご自分のひとり子による永遠の救いを用意されていました。この救いを受け入れるのか、そうでないかは各人に任されています。悔い改めることもできれば、いつまでもかなくなになることもできます。どっちでもない、ではありません。どちらか、です。悔い改めようとするときには、主は豊かなあわれみを注いでくださいますが、拒めは、それだけ心はかたくなります。そしてついに、もう悔い改めることさえできなくなってしまうときがあります。今が救いの日、恵みの時です。


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