1A 若枝の先 17
1B 鷲に伸びる枝と根 1−10
2B バビロンとの契約 11−21
3B 主が植えられる若枝 22−24
2A 父と子の罪 18
1B 父の酸いぶどう 1−4
2B 各自の報い 5−18
3B 今の態度 19−29
4B 悔い改め 30−32
3A 母の獅子 19
1B 二頭の若獅子 1−9
2B 無くなった若枝 10−14
本文
エゼキエル書17章を開いてください、今日は17章から19章までを学びます。ここでのメッセージ題は「ユダの若枝」です。
私たちは前回から、神が「例え」を通してイスラエルの民にお語りになっている預言を読んでいます。15章には「ぶどうの木」の例え、そして16章には「遊女になった女」例えを読みました。そこで語られていたのは、「周囲の国々のようになるな」あるいは、「あなたは、そうなっている」というものでした。周囲と同じように偶像礼拝を行ない、また周囲の助けを借りて安全保障を確保しようとする姿は、それぞれ「木立ちの間のぶどうの木」そして、「国々と姦淫をする女」であったのです。神につながっているからこそ彼らは存在意義があるのであり、世に調子を合わせても役立たない者になる、ということです。
そして今日は、残りの三つの例えを読みますが、そこに「若枝」という言葉が出てきます。これは、ユダの歴代の王を表しています。特にバビロンに滅ぼされる直前の王たちに焦点を当てています。
1A 若枝の先 17
1B 鷲に伸びる枝と根 1−10
17:1 次のような主のことばが私にあった。17:2 「人の子よ。イスラエルの家になぞをかけ、たとえを語り、17:3 a神である主はこう仰せられると言え。
「謎」をかけるとありますが、例えによって語って、それが何を語っているのか考えさせるという意味です。初めは何を言っているのか分からないようにあえて話し始め、その意味するところを考えさせるのです。
17:3b長い羽、色とりどりの豊かな羽毛の大鷲が、レバノンに飛んで来て、杉のこずえを取り、17:4 その若枝の先を摘み取り、それを商業の地へ運び、商人の町に置いた。17:5 ついで、その地の種も取って来て、肥えた土地に植え、豊かな水のそばに、柳のように植えた。17:6 それは生長し、たけは低いが、よくはびこるぶどうの木となった。その枝は鷲のほうに向き、その根は鷲の下に張り、こうして、ぶどうの木となって、枝を伸ばし、若枝を出した。17:7 さて、もう一羽の大きな翼と豊かな羽毛を持つ大鷲がいた。見よ。このぶどうの木は、潤いを得るために、根を、その鷲のほうに向けて伸ばし、その枝を、自分が植わっている所から、その鷲のほうに伸ばした。17:8 このぶどうの木は、枝を伸ばし、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、水の豊かな良い地に植えつけられていた。17:9 神である主はこう仰せられると言え。それは栄えている。しかし、主はその根を抜き取り、その実を摘み取り、芽のついた若枝をことごとく枯らしてしまわないだろうか。それは枯れる。それを根こそぎ引き抜くのに、大きな力や多くの軍勢を必要としない。17:10 見よ。それが移し植えられたら、栄えるだろうか。東風がそれに吹きつけると、それはすっかり枯れてしまわないだろうか。その芽を出した苗床で、それは枯れてしまう。」
二羽の大鷲は二つの大国です。一つ目はバビロン、そして二つ目はエジプトです。その若枝はユダの王であり、3節に出てくる初めに摘み取られた若枝はエホヤキンであり、その次にぶどうの木から出てきた若枝はゼデキヤです。
3節に戻りましょう。大鷲の羽毛の豊かさは、バビロンの国力を表しています。それが「レバノンに飛んで来て」とありますが、これはエルサレムを表しています。覚えているでしょうか、ソロモンが建てたエルサレムの神殿は、レバノンから運んできた杉の木で造られました。宮殿もレバノンの杉の木です。それで、宮殿は「レバノンの森の宮殿(1列王7:2)」と呼ばれました。
つまり、バビロンがエルサレムを攻め上り、その王エホヤキンを捕虜にして、バビロンに捕え移したということです。「商業の地、商人の町」とありますが、バビロンのことです。黙示録18章に出てくる、大淫婦バビロンも世界の王と関係を結んだ商業の中心地として描かれていますね。
そして5節には、大鷲が「その地の種も取って来て」とあります。これがゼデキヤです。エホヤキンはヨシヤの息子エホヤキムの子ですが、ゼデキヤはヨシヤの弟息子です。バビロンは、ユダの王家から自分の支配下に置く王を立てたのです。
水際の柳のように育つぶどうの木、そして背たけは低いが枝を伸ばし、よくはびこっているのは、ゼデキヤがバビロンに従属しながら、ある程度、繁栄していたからです。鷲の下に根を伸ばし、枝も鷲に向けられていますが、バビロンからその便益を得ていたのです。
けれども、ゼデキヤは途中で反逆します。エジプトに使者を送って、バビロンに対抗すべく軍事同盟を結びます。これが7節に出てくる、もう一羽の大鷲に根と枝を向け始めたぶどうの木の姿です。そのため、バビロンは怒ります。このエジプトへの援軍要請が、バビロンがエルサレムを包囲し、これを完全に滅ぼす原因となります。一時、エジプトと戦うためにバビロンは包囲を解除しますが、すぐに戻ってきて包囲を続け、エルサレムを火で焼くのです。
ゼデキヤはバビロンに捕え移されますが、エルサレムから引き抜かれたその若枝は枯れるしかありません。10節に「東風」とありますが、イスラエルには西から吹く風と東から吹く風があります。西からの風は地中海からのものなので、湿気を含み、冬に雨をもたらします。東からの風は砂漠からなので、大変な熱風であり、作物をことごとく枯らします。(「シロッコ」と呼ばれます。)この「東風」はバビロンを表し、実際に地理的にもバビロンはイスラエルのはるか東にあります。
2B バビロンとの契約 11−21
17:11 次のような主のことばが私にあった。17:12 「さあ、反逆の家に言え。これらがどういうことなのか、あなたがたは知らないのか。言え。見よ。バビロンの王がエルサレムに来て、その王とその首長たちを捕え、バビロンの自分のところへ彼らを連れて行った。
これがエホヤキンです。紀元前597年に起きた第二次バビロン捕囚です。
17:13 そして彼は王族のひとりを選んで、その者と契約を結び、忠誠を誓わせた。バビロンの王はこの国のおもだった者たちも連れ去っていた。17:14 それは、この王国を低くして、立ち上がれないようにし、その契約を守らせて、仕えさせるためであった。
これがゼデキヤです。誓いによって、彼はバビロンに従属する国であることを認めさせました。
17:15 ところが、彼はバビロンの王に反逆し、使者をエジプトに送り、馬と多くの軍勢を得ようとした。そんなことをして彼は成功するだろうか。助かるだろうか。契約を破って罰を免れるだろうか。17:16 わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・彼は、自分を王位につけた王の住む所、彼が誓いをさげすみ、契約を破ったその相手の王の住む所、バビロンで必ず死ぬ。17:17 戦争になって、多くの者を断ち滅ぼそうと、彼が塁を築き塹壕を掘っても、パロは決して大軍勢と大集団で彼をかばわない。17:18 彼は誓いをさげすみ、契約を破った。彼は、誓っていながら、しかも、これらすべての事をしたから、決して罰を免れない。17:19 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは生きている。彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約、これを必ず彼の頭上に果たそう。17:20 わたしは彼の上にわたしの網をかけ、彼はわたしのわなにかかる。わたしは彼をバビロンに連れて行き、わたしに逆らった不信の罪についてそこで彼をさばく。17:21 彼の軍隊ののがれた者もみな剣に倒れ、残された者も四方に散らされる。このとき、あなたがたは、主であるわたしが語ったことを知ろう。」
バビロンへの誓いを破ったので、ネブカデネザルが必ず罰するということですが、その背後には神がおられました。バビロンとの誓いでありましたが、19節には「彼がさげすんだわたしの誓い、彼が破ったわたしの契約」とあります。神の主権の中で、バビロンの王との契約があったのです。
ここで主は、私たちがへりくだることを教えておられます。ペテロ第一5章6節に、「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださいます。(5:6)」とあります。自分が置かれている状況が神の主権の中で起こっていることを認める時、神が私たちを高めてくださいます。ちょうど、初めの大鷲のほうに根を張り、枝を向けている時にぶどうの木が低いけれどもよく実を結ばせたように、です。自分の身を主にあってわきまえるのです。そうすると、その卑しく見える状況の中において、主が命を私たちに注いでくださるのです。
3B 主が植えられる若枝 22−24
17:22 神である主はこう仰せられる。「わたしは、高い杉のこずえを取り、そのうちから、柔らかい若枝の先を摘み取り、わたしはみずからそれを、高くてりっぱな山に植える。17:23 わたしがそれをイスラエルの高い山に植えると、それは枝を伸ばし、実を結び、みごとな杉の木となり、その下にはあらゆる種類の鳥が住みつき、その枝の陰に宿る。17:24 このとき、野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。主であるわたしが語り、わたしが行なう。」
エゼキエル書の預言にたくさん出てくる、「主であるわたしが語り、わたしが行なう。」という言葉がここにもあります。また、「あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。」という言葉もエゼキエル書にはたくさん出てきます。人間ではなく、主が行なってくださるのです。これを人間が知ることができるように、認めることができるように主が仕向けられるのです。
ここでは、若枝であるユダの王が完全に失敗してしまったので、主ご自身が、新たに若枝をイスラエルの山に植えると仰っておられます。これはメシヤ、キリストのことです。イザヤ書にも、エレミヤ書にも預言されていた若枝の預言です(イザヤ11:1、エレミヤ33:15)。
主がお育ちになった町であるナザレは、この若枝から派生した名前です。マタイが、「そして、(ヨセフが)ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して、『この方はナザレ人と呼ばれる。』と言われた事が成就するためであった。(マタイ2:23)」と記録していますが、これはイザヤが「エッセイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。(イザヤ11:1)」と預言したところから来ています。この若枝のヘブル語が「ネツェルנֵ」だからです。
これが人間の行ないと神の恵みの違いです。旧約時代において、人の行ないによっては神の義を得ることはできないことを徹底的に神は教えられました。そして新約時代に入り、完全にキリストを通して行なう神の御業によってのみ、私たちを救うことを教えています。
私たちは常に、自分がゼデキヤ、また当時のイスラエル人と同じように、どうしようもない罪人であることを知る必要があります。ところが、ゼデキヤと同じように神以外のものに力と命を求めるものです。枝と根を、エジプトに向けるのです。つまり目に見えるもの、この世にあるものに助けを求めます。けれども、そこには力がない、そこには命がないことを気づく時、主が植えてくださる若枝、キリストにこそ力と命があることを知る転換期なのです。
そして主は24節で、「高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木に芽を出させる」と言われます。高い木がそのまま高くなっていったら、栄光はどこに帰すでしょうか?その木に栄光が向かいます。緑の木も、その青々とした姿に人々の目が向きます。ゆえに主はそれらを低くし、また緑を枯らされるのです。けれども、今度は低い木が高くなり、また枯れ木が芽を出したら、誰に栄光がいくでしょうか?それを行なった神に栄光が帰します。
私たち人間は、「こんなに低い木だから、いつまでも低いのだ。」と言い、反対に、「枯れているのだから、また命を吹き返すのは無理だ。」と決め付けます。けれども、その不可能なものを可能にする業を行なわれるのが神であり、神の恵みなのです。神は、ご自分の恵みによって、ご自分に賛美が向けられることを望んでおられるのです(エペソ1:6参照)。
2A 父と子の罪 18
18章に入りますが、次の例えは神ご自身が語られるものではなく、イスラエルの民が語っている例えです。彼らの間で使っている諺を神がいかに間違っているかを示し、諭しておられる箇所です。
1B 父の酸いぶどう 1−4
18:1 次のような主のことばが私にあった。18:2 「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。18:3 わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。18:4 見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。
イスラエルが語っていた諺は、「父が行なった事を、その子が刈り取っている。」という意味です。自分たちがバビロンに捕え移されたのは、父たちが行なったこと、先祖たちが行なった罪が子孫である私たちに降りかかったからだ、と考えていました。しかし主はそれを矯正しておられます。「父の罪は、父が負うのだ。お前たちは、自分たちの罪があるからその結果を刈り取っているのだ。」ということです。
これから主は、イスラエルの歴史の中で最も悲しむべき出来事、エルサレムの破壊が起こるに当たって、イスラエルの民に知らせたい重要なことを語られます。列王記と歴代誌を読むと、確かにソロモンが偶像礼拝を犯した罪から始まり、歴代の王も罪を犯したから紀元前586年に、バビロンがエルサレムを滅ぼしたと読めます。しかしその生きていた時代の人々が、先祖たちの行ないに学ばず、主に従っていれば、そのようなことは彼らの身に降りかからなったということも事実なのです。
事実、マナセがあれだけ恐ろしい罪を犯したにも関わらず、彼の孫ヨシヤは生きている間、神の裁きを見ませんでした。彼が正しく生きたからです。女預言者フルダがヨシヤにこう言いました。「あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。・・主の御告げです・・それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。(2列王22:19-20)」災いをヨシヤが見ることのないように、主は引き伸ばされました。したがって、それぞれ生きている時代の人々が、それぞれ自分たちの責任を負っているのです。
そして主は、当時のイスラエルの民だけでなく、人間全般に対して根本的な問いかけをされています。それは、「各々が、個々人が、神の前で申し開きしなければならない。」という事実です。「私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。(ローマ14:12)」私たち人間は、このことを非常に嫌がります。上を見るより、横を見るのです。人と人とのつながりの中で自分を見ていくことは楽です。けれども、ただ独り、神の前で自分の行動の責任について問われ、それに答えることはものすごいへりくだりを要求されます。けれども、これを通ってこそ初めて「自分」というものが確立され、自分のことについて責任を負うことのできる、本来の人間の姿に戻ることができるのです。
そこで主は、私たち人間の弱い部分である、人との関係の中で物事を推し量ること、特に親子関係によって神との関係を知ろうとする弱さを正されます。
2B 各自の報い 5−18
18:5 もし、正しい者なら、その人は公義と正義とを行ない、18:6 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、さわりのある女に近寄らず、18:7 だれをもしいたげず、質物を返し、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、18:8 利息をつけて貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき、18:9 わたしのおきてに従って歩み、まことをもってわたしの定めを守り行なおう。こういう人が正しい人で、必ず生きる。・・神である主の御告げ。・・
正しく生きる人についての説明です。初めに、神との関係が語られています。丘の上での食事、偶像礼拝をしないことです。それから人との関係、姦淫の罪を犯さないことが語られています。すべては私たちの心から始まります。神を神とせず、心に貪りを起こす時に私たちは心に偶像を抱きます。そしてそれが横の関係に影響を与え、他の人々の物を貪ることになるのです。
そして次に経済的な関係に移っています。利息を取らないのは、同胞に対してそうしなさいというモーセの律法でした。そして貧しい人に施しをするのも同じです。それから社会的な関係が書いてありますね、「不正から手を引き、人と人との間を正しくさばき」とあります。そして最後に霊的な神との関係に戻っていますが、「わたしのおきてに従って歩む、まことをもってわたしの定めを守り行なう」です。
ですから、神との個人的な関係、それから人との関係に移り、まず性的な純潔、お金の使い方、そして社会的な公正、そして御言葉に聞き従うことです。一つ一つ、自分自身を調べてみると良いでしょう。
18:10 しかし、彼が子を生み、その子が無法の者で、人の血を流し、先に述べたことの一つさえ行なわず、18:11 これらのことをしようともせず、かえって丘の上で食事をし、隣人の妻を汚し、18:12 乏しい者や貧しい者をしいたげ、物をかすめ、質物を返さず、偶像を仰ぎ見て、忌みきらうべきことをし、18:13 利息をつけて貸し、高利を取るなら、こういう者ははたして生きるだろうか。彼は生きられない。自分がこれらすべての忌みきらうべきことをしたのだから、彼は必ず死に、その血の責任は彼自身に帰する。
分かりますか、この子は父と正反対のことを行なっています。父がいかに良いことを行なったとしても、その子が義とされる保証は全くないのです。これは、数多くのクリスチャンの親に対する慰め・・・というよりも、峻厳な事実を教えています。自分の息子、娘が神から遠く離れていることで苦しみ、悩み、自分の責任ではないかと責めてしまいます。けれども違うのです、究極的にはその本人に罪の責任が帰するのです。
聖書にも、この例がたくさん出ています。ユダの王の中では、良い王であるヒゼキヤの後に極悪の王マナセが生まれました。そして先に話したように、マナセの子アモンの子、ヨシヤは正しい人でした。けれどもヨシヤの息子ら、エホアアズ、エホヤキム、ゼデキヤはみな悪い王でした。けれども、ヒゼキヤもヨシヤも、それぞれ息子のせいで裁かれることはありませんでした。
そして逆に本人がクリスチャンの両親の息子で、自分がキリストに従う生活をしていない時、「親がクリスチャンだから私は救われる。」と考えたら大間違いです。また、「親は偽善的だ。だから私は信仰を捨てる。」と言ったところで、自分がこれらの不義を行なっているなら、それで貴方は罪の中で滅びるのです。他人のせいにできないのです。
教会の中でしばしば「つまずく」という言葉を聞きます。牧師が語る説教の内容や、人々の会話が気に障わり、それで教会に来なくなる時に多くの人が使います。このことをエゼキエルの預言に照らし合わせると、「そのように怒って、あるいは憎んで教会に通わなくなることは、あなた自身が神に対して罪を犯しているのだ。」ということになります。父がどのような人であれ、自分の行動には自分が責任を持つように、教会がどうであれ、自分自身がキリストにある愛を兄弟に分かちあっていないのです。神の前に出た時、「私はあの人が言ったことにつまずきました。」という言い訳をすることはできません。
18:14 しかし、彼が子を生み、その子が父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず、18:15 丘の上で食事をせず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を汚さず、18:16 だれをもしいたげず、質物をとどめておかず、物をかすめず、飢えている者に自分の食物を与え、裸の者に着物を着せ、18:17 卑しいことから手を引き、利息や高利を取らず、わたしの定めを行ない、わたしのおきてに従って歩むなら、こういう者は自分の父の咎のために死ぬことはなく、必ず生きる。18:18 彼の父は、しいたげを行ない、兄弟の物をかすめ、良くないことを自分の民の中で行なったので、彼は確かに自分の咎のために死ぬ。
今度は逆の場合です。親がとんでもない悪い人たちで、そこに生まれ育った子の話です。その子は、親の強い影響の中にいますから、容易に親の悪事を自分も犯しえる環境にいます。けれども、14節にあるように、「父の行なったすべての罪を見て反省し、そのようなことを行なわず」という選択をすることができるのです。これは大いなる希望です。
この選択の力、どんなに環境がひどくても選択のできる力が、御霊によって神から人間に与えられることをぜひ知ってください。主は大きな約束、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17)」と約束してくださっています。イエス様は、「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。(ヨハネ8:,36)」と言われました。
私たち人間は、自分が行なっている罪、悪い習慣、悪い感情を、自分の家庭環境、社会環境、文化、また、自分の受けた教育のせいにしてしまいます。例えば、「私の母は、私を腹に宿している時からパチンコをしていたから、私もパチンコをやめることはできません。」とある人は言いました。そして今は、心理学や社会学が悪い意味で発達し、「あなたは過去に受けた心の傷によって、今の自分がいるのですよ。」と、運命論的にその人の性格や気質を定めてしまうのです。けれども決して忘れないでください、主は私たちを変える力を持っておられるのです。私たちは、その縄目から抜け出すことができるのです。
3B 今の態度 19−29
次から主は、これら個々人に罪が問われるメッセージに対する、イスラエル人たちの反応を取り上げられます。
18:19 あなたがたは、『なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。』と言う。その子は、公義と正義とを行ない、わたしのすべてのおきてを守り行なったので、必ず生きる。18:20 罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。
今でさえ、法律によって父が罪を犯しても子に一切罪が問われないようになっていますが、心情的にはイスラエル人のように「なぜ、その子は父の咎の罰を負わなくてよいのか。」と感じます。凶悪犯の息子を、その父の罪とまったく切り離して私たちは公正に見ることが出来るでしょうか?難しいですね。
この心情があるので、私たちは聖書を誤解して読みます。出エジプト記のこの有名な御言葉は、どうでしょうか。「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト20:5-6)」ほら、「父の咎は子に報われるではないか。三代、四代まで及ぼす、と言っているではないか。」と私たちは思うわけです。ちょっと待ってください、その前に、「わたしを憎む者には」と主は言われていますね。二世代の人、三世代の人、それぞれが主を憎むことを止めれば、主を愛していれば、父の咎を自分の世代で断ち切ることができるのです。
この言葉は、「恵みを千代にまで施す」という、主の正義に比する圧倒的な恵みについて語っているところです。人間は不思議なもので、悪いものにはすぐ目が向きますがその全体像を把握しようとはしません。
ところで近代国家の法律は、欧米の、聖書に基づく憲法に起源を発しています。したがって、はっきりと個人が行なったことに対してのみ、その責任が問われる仕組みになっています。けれども例えば、北朝鮮では、政治的犯罪をおかした者は強制収容所で、二代、三代に至るまで罪に問われます。生まれた時から犯罪者として生きなければいけません。
私たちはこれを聞いて、「なんて前近代的な制度であろうか。」と思います。けれども、社会的制裁において私たちは、家族の人たちにも冷たい視線を向け、実際に差別を行っています。そして、今日の法律の適用において、先ほど話した社会学、心理学、精神医学を採用して、犯罪をおかしても、その人の生まれた環境があるため責任能力がないから罪は問えないとするのです。つまり「この親あっての子」の原則を裁判の中に持ち込んでいるのです。
18:21 しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。18:22 彼が犯したすべてのそむきの罪は覚えられることはなく、彼が行なった正しいことのために、彼は生きる。18:23 わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。
ここに、神が裁きの言葉を語られている時、神が持っておられる心が書かれています。非常に大事な部分です。旧約聖書には、いや新約聖書にもたくさん神が人を裁かれることを書かれていますが、それらを読んで、「神は裁くことを喜ばれているのだ。」と私たちは思うのです。
けれども、絶対にそうではないのです。神はご自分の聖さと正しさのゆえ、裁かなければなりませんが、裁きを最も望まれていないのも、神ご自身なのです。貴方が地獄に行きたくないと願う以上に、神はあなたを地獄から救いたいと願っておられるのです。
主が裁かれる時は、強いられて裁くのです。裁かざるを得ない状況になった時、ご自分をあえて強いて裁きます。神が「裁く」と言われる時、それは「悔い改めてくれ、わたしに立ち返ってくれ。」と必死になって懇願しておられる姿なのです。罰したいから裁きの言葉を語られるのではなく、罪を赦し、命を与えたいから、どうぞ悔い改めてくれという警告を与えておられるのです。
18:24 しかし、正しい人が、正しい行ないから遠ざかり、不正をし、悪者がするようなあらゆる忌みきらうべきことをするなら、彼は生きられるだろうか。彼が行なったどの正しいことも覚えられず、彼の不信の逆らいと、犯した罪のために、死ななければならない。
ここも、大事な神の真理です。私たちはこれまでのすべての悪が悔い改めによって帳消しにされることをなかなか信じられないのと同じように、過去に行なった正しい行ないが認められないことも信じられません。私たちは過去に行なった善を担保に入れておいて、いま行なっていることは度外視して、神に訴えます。晩年、罪の中に生きていたけれども、死後に神の裁きの御座の前に立った時に、「私は若かった時に、これだけの良いことをしました。」と言いたいのです。でも、できないのです。
18:25 あなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言っている。さあ、聞け。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。18:26 正しい人が自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をし、そのために死ぬなら、彼は自分の行なった不正によって死ぬ。18:27 しかし、悪者でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行なうなら、彼は自分のいのちを生かす。18:28 彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない。
神の公正とは、「今、あなたが正しさの中で生きている。」ということに尽きます。過去は問われません、今、自分が何をしているかが神にとって最も大切なことになります。だから、過去にどんなに悪いことを行なったとしても、今、悔い改めた生活をしているのなら、その過去の罪はすべて帳消しにしてくださいます。逆に、過去にどんなに良いことを行なったとしても、今、悪いことを行なっているのであれば、その良いことは神の前で正しいと認められません。
つまり、一日一日、一瞬一瞬を主に拠り頼んで生きなさい、ということなのです。今、主に対して生きなさいということです。悪にしろ、善にしろ、過去を持ち出すのは、神ではなく自分自身に義を求めているに他なりません。主に対して砕かれた心、また主を恐れる心を、神は尊ばれます。
18:29 それでも、イスラエルの家は、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしの態度は公正でないのか。公正でないのはあなたがたの態度ではないのか。
私たちは、よく考えれば神の取り扱いは、非常に公正であり、理にかなっていることを知っています。けれども私たちの判断は歪められています。過去の罪を今に問いたいと願います。逆に、過去の業績をもって今の自分の悪を見逃してもらおうとします。それで時に、主の取り扱いは公正ではないと感じるのです。「あれだけ罪を犯した人なのに、イエス様をただ信じたぐらいで罪がなくなってもらってはたまらない。」と感じる時もあります。また、「あれだけ正しいことをした人なのに、それでも地獄に行くと言うのですか。」と問い責めることもありますね。でも、どちらが公正なのでしょうか?
4B 悔い改め 30−32
18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。・・神である主の御告げ。・・悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。18:31 あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。18:32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改めて、生きよ。
神は、悔い改めへの懇願を続けておられます。そして悔い改めさえすれば、「新しい心と新しい霊」を与えると言われます。すばらしい約束です!これまで何度か出てきた、新しい契約の約束です。神は律法を、石の板ではなく、心に書き記すところの契約です。御霊が心に注がれるところの約束です。自分自身にはできなくなっていることをキリストが行なってくださり、御霊に導かれれば、肉の欲望を満たすことはないという自由です。
3A 母の獅子 19
そして最後の例えに入ります。最後の例えは、「イスラエルの君主たちのための哀歌」です。死に絶えていく者たちを悲しみ悼む歌です。
1B 二頭の若獅子 1−9
19:1 あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、19:2 言え。あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。19:3 雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。19:4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。
エジプトの地に引きずられて行った王と言えば、エホアハズのことです。ヨシヤがエジプトの戦いで戦死したことを思い出してください。パロ・ネコが、アッシリヤを助けるためにエジプトからカルケミシュに向かって北上していた時に、ヨシヤはメギドでパロと戦いましたが、死にました。
その後で、ヨシヤの息子の一人エホアハズが王となりました。わずか三ヶ月の統治です。エジプトは、自分の支配下にユダを置くことを望んで、彼をエジプトに連れて行き、自分に従う他の者、エホヤキムをユダの王に立てました。
このエホアハズを「若い獅子」として例えています。彼は育ったら、獲物を引き裂き、そして人を食べた、とあります。これは、実際に、人を死に至らしめるような不義を行なっていたということです。
19:5 雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。19:6 これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。19:7 この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。19:8 そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕えられた。19:9 彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。
この若い獅子は、エホヤキンでしょうか?バビロンに引いていかれたのは二人いますが、一人はエホヤキムの子エホヤキンであり、もう一人はバビロンのネブカデネザルが立てたゼデキヤです。ここで、雌獅子がこの若い獅子を取ったとありますから、バビロンが立てたものではなくエルサレムが立てた者、つまりエホヤキンだと考えられます。
彼もエホアハズと同じく、王になったら人を死に至らしめるような不義を行ないました。そして、やもめたちを犯した、つまりお金を搾り取ったことも行ないました
2B 無くなった若枝 10−14
19:10 あなたの母は、まさしく、水のほとりに植えられたぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。19:11 その強い枝は王の杖となり、そのたけは茂みの中できわだって高く、多くの小枝をつけてきわだって見えた。
再び、ぶどうの木の例えに戻っています。ぶどうの木が若枝を出すように、ちょうど雌獅子が、若い獅子を育てました。ところが出てきたものは、人を食い、やもめを犯すようなことです。数々の王の杖となる枝はあったのですが、ふさわしい実を結ばなかったのです。
19:12 しかし、それは憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。19:13 今や、それは、荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ、19:14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。
「若枝」すなわち、ダビデの世継ぎの子がいなくなってしまったことへの嘆き、哀歌です。主は、ダビデに対して、「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。(1サムエル7:12)」と約束されました。
けれども、こうも語られました。ダビデは死ぬ日が近づいた時に、ソロモンにこう言いました。「あなたの神、主の戒めを守り、モーセの律法に書かれているとおりに、主のおきてと、命令と、定めと、さとしとを守って主の道を歩まなければならない。あなたが何をしても、どこへ行っても、栄えるためである。そうすれば、主は私について語られた約束を果たしてくださろう。すなわち『もし、あなたの息子たちが彼らの道を守り、心を尽くし、精神を尽くして、誠実をもってわたしの前を歩むなら、あなたには、イスラエルの王座から人が絶たれない。』(1列王2:3-4)」つまり、条件付きのものでした。
ソロモンは晩年、不従順になり、またその後の歴代の王も不従順でした。それで主は、エコヌヤ(つまりエホヤキン)に対して、「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちのひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。(エレミヤ22:30)」と言われたのです。そしてゼデキヤもバビロンで死に、王の杖はなくなったのです。
けれども主は、ダビデに与えられた約束はこれら息子たちにだけではなく、やがて来る世継ぎの子、メシヤに対するものだったのです。「しかし、わたしは、あなたの前からサウルを取り除いて、わたしの恵みをサウルから取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」(2サムエル7:15-16)」ダビデ自身も、単に息子たちに対する約束ではなく、自分の身からメシヤ、キリストが来られることを理解しました。
天使ガブリエルが、マリヤにこのことを告げました。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。(ルカ1:31-33)」ヨセフはエコヌヤの子孫ですが、マリヤは別の家系を持っておりダビデの子孫です。ユダの王族としてヨセフを父とし、メシヤとしてはマリヤを母とし、そしてもちろん神の子としては、父なる神を唯一の父としていたのです。
こうして最後の三つの例えを読みましたが、いかがでしょうか?私たちも、ぶどうの木のように根と枝を持っています。それをどこに向けて伸ばしているでしょうか?エジプト、つまりこの世でしょうか?それとも、キリストご自身でしょうか?自分たちがキリスト者として育っていきながら、若い獅子のように悪い実を結ばせているでしょうか、それともキリストに対して良い実を結ばせているでしょうか?
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME