エゼキエル書20−21章 「取り除かれる者」

アウトライン

1A 主の鞭 20:1−44
   1B エジプトの偶像 1−32
      1C 聞かれない祈り 1−3
      2C 変わらないイスラエル 4−32
         1D エジプトの地 4−9
         2D 荒野 10−17
         3D 次の世代 18−26
         4D 約束の地 27−32
   2B 反逆者の選り分け 33−44
      1C 神の憤りをもって 33−38
      2C 偶像を捨てる民 39−44
2A 主の剣 20:45− 21
   1B ネゲブの森 45−49
   2B 預言者の嘆き 1−17
      1C すべての者への裁き 1−7
      2C 磨きをかける剣 8−17
   3B バビロンの占い 18−32
      1C 二つの道 18−27
      2C アモンへの剣 28−32

本文

 エゼキエル書20章を開いてください、今日は20章と21章を学びます。今日のメッセージ題は「取り除かれる者」です。

1A 主の鞭 20:1−44
1B エジプトの偶像 1−32
1C 聞かれない祈り 1−3
20:1 第七年の第五の月の十日に、イスラエルの長老たちの幾人かが、主に尋ねるために来て、私の前にすわった。

 時は「第七年」です。エゼキエル書の始まりを思い出しますと、エゼキエルが主に呼び出された時は、エホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった(12」とあります。第二次捕囚、紀元前597年を起点として第七年目ということです。つまり紀元前591年であり、エルサレムが滅ぼされるまであと5年あります。

20:2 そのとき、私に次のような主のことばがあった。20:3 「人の子よ。イスラエルの長老たちに語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたが来たのは、わたしに願いを聞いてもらうためなのか。わたしは生きている、わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。・・神である主の御告げ。・・

 興味深いですね、長老たちがわざわざ主に御心を尋ねに来たのに、主ご自身はきっぱりその願いを断っておられます。長老たちは、私たちが前回まで読んできた、エゼキエルによる一連の預言を聞いてきました。前回はいくつかの例えでした。森の中のぶどうの木が燃やされること。バビロンを表す大鷲に枝と根を張っていたのに、エジプトを表すもう一羽の大鷲に向きを変えたこと。そして彼ら自身の、「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。(182」という諺に、主は、それは間違いであると答えられました。そして、ユダの象徴である獅子が罠の穴に落ちて、エジプトおよびバビロンに捕え移されるという例えがありました。

 少し心を動かされたのでしょうか、ケバル川のほとりにいる捕囚の民の長老たちはこれら一連の預言を聞いて、エゼキエルの所に来ました。そして、我々のために祈ってほしいとお願いしたのです。ところが主は、「わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。」と断っておられるのです。

 私たちは祈りと言うのは、主が必ず聞いてくださると思っています。想像したことがあるでしょうか、私たちが神に祈っている時、神が途中で、「もうよろしい。わたしはあなたの願いを聞かない。」と遮られることを。なぜ主がこのようなかなり冷たい態度を取られたのか、理由は2032節にあります。「あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。」他の国々の者たちと同じように生きたい、という願いが根底にあったからです。他の人々と同じように、自分の肉の欲を満たしてくれるような神々を拝んでみたい。自分に死に主にあって生きるのではなく、自分の為に生きたいと思っていたからです。

 ヤコブ書の中に、「聞かれない祈り」というものが書かれています。「願っても受け入れられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(43」そしてヤコブは、この世を愛することを止め、自分の手を洗い清めなさいと勧めています。自分が持っている肉の欲望をなおざりにして、祈りの生活を豊かにすることはできません。

2C 変わらないイスラエル 4−32
1D エジプトの地 4−9
20:4 あなたは彼らをさばこうとするのか。人の子よ。あなたはさばこうとするのか。彼らの先祖たちの、忌みきらうべきわざを彼らに知らせよ。

 主はこれから、イスラエルの民が持っている欲望を取り扱われます。これが、イスラエルが民族として始まる時から綿々と続いてきたことを明らかにされます。

20:5 彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしがイスラエルを選んだとき、ヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわたしを知らせ、わたしがあなたがたの神、主であると言って彼らに誓った。20:6 その日、彼らをエジプトの地から連れ出し、わたしが彼らのために探り出した乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に入れることを、彼らに誓った。20:7 わたしは彼らに言った。『おのおのその目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ。エジプトの偶像で身を汚すな。わたしがあなたがたの神、主である。』と。

 ヤコブの家族がエジプトに下った時の話です。創世記を読めば、ヤコブがカナン人の地からエジプトに下る時に、主が必ずこの地に子孫を戻すと約束してくださいました。

 イスラエルの地を「乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地」と主は呼んでおられますが、これはイスラエルの地形と気候を知ると納得ができる表現です。イスラエルは、西は地中海に面していますが、東はアラビア砂漠、南はシナイ砂漠に囲まれている地域です。エジプトからイスラエルに北上する時に、そこから緑が始まる地域になっています。地中海からの風によって、その湿気による降雨があります。日照りもありますが、一度雨が降ると、一面が緑に変わり花も咲き乱れるのです。

 エジプト文明、そして北にあるメソポタミア文明の中にいれば、確かにナイル川、ユーフラテス川という大川による肥沃な土地があり、文明も発達していますが、その分、彼らは富に頼り、その豊かさを神々にしています。けれどもイスラエルは、海と砂漠の間に挟まれたオアシスのような存在であり、ただ天地を造られた神のみに頼る必要のあることを如実に教えてくれる場所なのです。

20:8 それでも、彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうともせず、みな、その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てようともせず、エジプトの偶像を捨てようともしなかった。だから、わたしは、エジプトの地でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。

 エジプトに下ったヤコブとその家族は、そこを自分たちの場所だとは思っていませんでした。あくまでも寄留者であり、一時滞在者でした。だからヤコブは息子たちに、死後、遺体をアブラハムとイサク、またその妻たちが葬られている墓に携えるように命じたのです。ヨセフも、残される人々に自分の遺体をエジプトに葬ることなく、約束の地へ携え上ってくれと頼みました。エジプトの偶像とは関係を持たない、ということです。

 ところが、その後の彼らはエジプト人と変わりなく、自分の欲情を駆り立てる偶像を持ちながら日々を過ごしていたのです。エジプトのカイロ博物館にパロのミイラがありますが、そのミイラに特徴的だったのが性病の跡だったそうです。パロの中には幼少の王と幼少の王女がいますが、父母が性病で早く死んだためだと言われています。40歳まで生きた人はごく稀だったそうです。

 偶像礼拝とそれに伴う不品行が当たり前のように行われていた社会の中で、イスラエル人は特に問題を感じることなく、それを見て楽しんでいました。「目の慕う忌まわしいもの」とありますね。たとえそれを行なっていなかったにしても、目で見て楽しんでいたのです。今も変わりません。クリスチャンがたとえ不品行や、その他の貪りを行なっていなかったにしても、テレビやインターネット等で見て楽しんでいれば、なんらこの世の人と変わりないのです。なぜ神の所有の民になったのか分からなくなります。

20:9 しかし、わたしはわたしの名のために、彼らが住んでいる諸国の民の目の前で、わたしの名を汚そうとはしなかった。わたしは諸国の民の目の前で彼らをエジプトの地から連れ出す、と知らせていたからだ。

 私たちが知るべき、とても大事な主の取り計らいです。主はイスラエルを滅ぼされませんでした。そして今現在も滅ぼしておられません。ユダヤ人そしてイスラエルの国まで存在します。それは彼らがそれ相応のことを行なったからなのか?と言ったら、全くそうではないのです。むしろ、彼らが行ったことに従えば、彼らはとうの昔にこの世から消滅していて当然だったのです。

 神がイスラエルを残しておられるのは、彼らの行ないではなくご自分の名のゆえです。一度、「わたしは、この民を大きくする。」と約束されたのに、途中でいなくなってしまえば、他の民族は、「天地を造られたまことの神というのは存在しない。一度約束したのに、その通りなっていないのだから。」と、神ご自身を疑うようになります。そうなってはいけないから、本当は滅ぼされるべき民なのに、神は彼らを残しておられる、ということです。

 神の選びというのは、このように一方的な神の憐れみに拠っています。パウロが牧者テトスにこう言いました。「私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:3-5

2D 荒野 10−17
20:10 こうして、わたしはエジプトの地から彼らを連れ出し、荒野に導き入れ、20:11 わたしのおきてを彼らに与え、それを実行すれば生きることのできるそのわたしの定めを彼らに教えた。20:12 わたしはまた、彼らにわたしの安息日を与えてわたしと彼らとの間のしるしとし、わたしが彼らを聖別する主であることを彼らが知るようにした。

 次は出エジプトの歴史です。モーセ率いるイスラエルの民は、荒野のシナイ山のふもとで、神の律法を与えられました。その契約のしるしは安息日でした。安息日をもって、イスラエルの民が他の国々と異なる、神の所有の民であることを証ししていました。

20:13 それなのに、イスラエルの家は荒野でわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めをもないがしろにし、わたしの安息日をひどく汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らを絶ち滅ぼそうと考えた。20:14 しかし、わたしはわたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。

 イスラエルの民は、モーセがシナイ山で神の律法を与えられている時から、金の子牛を拝む罪を犯し、その後も、幾度となく罪を犯しました。そこで主はモーセに、「この民を滅ぼす。あなたから新たに国民を造る。」と言われたのですが、モーセは執り成して、「それでは、エジプト人が、『この神は、わざわざ荒野で滅ぼすために彼らを連れ出したのだ。』ということになります。あなたは、アブラハム、イサク、ヤコブに約束されたではありませんか。空の星のように子孫を増やしてくださることを。」と祈りました。すると神は「わざわいを思い直された(出エジプト3214」とあります。

 モーセが願い出たことは、実は神ご自身がお考えになっていたことなのです。神が、ご自分の名のゆえに、諸国の民がご自分を見下すことのないように、あえて滅ぼす決断を取り下げられたのです。

20:15 だが、わたしは、わたしが与えた、乳と蜜の流れる地、どの地よりも麗しい地に彼らを導き入れないと荒野で彼らに誓った。20:16 それは、彼らがわたしの定めをないがしろにし、わたしのおきてを踏み行なわず、わたしの安息日を汚したからだ。それほど彼らの心は偶像を慕っていた。20:17 それでも、わたしは彼らを惜しんで、滅ぼさず、わたしは荒野で彼らを絶やさなかった。

 約束の地に入り口に当たるカデシュ・バルネアまで来た時に、モーセは12人の斥候を遣わしました。その中の二人ヨシュアとカレブを除いては、皆が悪い知らせを持ってきました。イスラエル人はこれで意気がくじかれ、エジプトに帰ろうと言い出したのです。

 それで主はこの民を滅ぼそうと言われましたが、モーセの執り成しで、その罪を赦してくださいました。けれども20歳以上の一世代がみなこの荒野で死に絶えるように、40年間、さまようことになると誓われたのです。ですからここでも、新しい世代を主が残してくださり、彼らを滅ぼすのを惜しまれたのです。

3D 次の世代 18−26
20:18 わたしは彼らの子どもたちに荒野で言った。『あなたがたの父たちのおきてに従って歩むな。彼らのならわしを守るな。彼らの偶像で身を汚すな。20:19 わたしがあなたがたの神、主である。わたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行なえ。20:20 また、わたしの安息日をきよく保て。これをわたしとあなたがたとの間のしるしとし、わたしがあなたがたの神、主であることを知れ。』と。20:21 それなのに、その子どもたちはわたしに逆らい、わたしのおきてに従って歩まず、それを行なえば生きることのできるそのわたしの定めを守り行なわず、わたしの安息日を汚した。だから、わたしは、荒野でわたしの憤りを彼らの上に注ぎ、彼らへのわたしの怒りを全うしようと思った。20:22 しかし、わたしは手を引いて、わたしの名のために、彼らを連れ出すのを見ていた諸国の民の目の前でわたしの名を汚そうとはしなかった。

 40年近く経ちました。ほとんど全ての人が新しい世代です。このように一新されたのですから、もう今度は主に従い通すかと思いきや、彼らも同じ過ちを犯しました。前の世代は、喉が渇くと言って主を試しました。シナイ山に向かう道、レフィディムでの出来事です(出エジプト1717)。同じように、ツィンの荒野で喉が渇くと文句を言い、今度はモーセが堪忍の緒が切れて、怒りながら岩を二度打ってしまいました(民数20113)。

 私たちは、環境さえ変えれば今の自分の問題は解決すると思います。今の世の生活から離れて、周りがクリスチャンだけだったら、私は今の罪を離れることができると思います。けれども、イスラエルの歴史がそれを否定しています。エジプトの時に恋慕った偶像と忌まわしい行ないは、荒野の旅においても切り離すことができなかったのです。そして、エジプトにいた時は幼子や少年だったにも関わらず、この若い世代も古い欲望を引きずっていたのです。

20:23 だが、わたしは、彼らを諸国の民の中に散らし、国々へ追い散らすと荒野で彼らに誓った。20:24 彼らがわたしの定めを行なわず、わたしのおきてをないがしろにし、わたしの安息日を汚し、彼らの心が父たちの偶像を慕ったからだ。

 モーセは、イスラエルの民をヨルダン川の東にまで導いた後に、申命記の中にある長い説教を語りました。そこで彼は預言を行ない、イスラエルが神に背き、偶像に仕えるなら、これこれの呪いがあると宣言しました。そしてその結末が、約束の地から引き抜かれ、国々に散らされることです(申命記286364)。

20:25 わたしもまた、良くないおきて、それによっては生きられない定めを、彼らに与えた。20:26 彼らがすべての初子に火の中を通らせたとき、わたしは彼らのささげ物によって彼らを汚した。それは、わたしが彼らを滅ぼすため、わたしが主であることを彼らが知るためである。

 「彼らに与えた」と主は言われますが、「明け渡した」と言い直すことができます。主が何度も立ち返りなさいと呼びかけられているのに、いつまでも拒んでいると、主はその欲望のままに明け渡されることがあります。「それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。(ローマ1:24」主ご自身から諦められることほど、恐ろしいことはありません 

 「初子に火の中を通らせた」とありますが、元々、主は「初子はわたしのものである(出エジプト13:1参照)」と言われていました。イスラエル人をエジプトの初子の死をもって贖い出されたので、神の所有の民となった彼らは、初子を主にお捧げします。けれども、もちろん動物の犠牲のように火で焼いて捧げるのではなく、代金を支払うとか、他の動物によって贖うとか、とにかく初子が自分自身のものではなく、主のものであることを示すだけです。

 主はアブラハムの初子であるイサクを全焼のいけにえとして捧げよ、と命じられてそれに従おうとしましたが、主の使いが直前に彼をやめさせました。神にとって、人間の命、特に子の命はそれだけ貴く、尊いものであります。

 ところが異教の儀式において、幼児をいけにえとして火で焼くという、忌まわしいものがありました。モレクは金属で出来ており、手の平が上を向いて、ちょうど赤子を抱くような形をしています。火でその鉄を熱して、真っ赤になっているところに、赤子を置いて焼くのです。その泣き声をかき消すために太鼓を叩いたと言われます。

 主は、この最も忌まわしい行ないを念頭に入れて、モーセを通して予めお語りになっていたのです(レビ20:25)。

4D 約束の地 27−32
20:27 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。20:28 わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行ったとき、彼らは、高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、主の怒りを引き起こすささげ物をささげ、なだめのかおりを供え、注ぎのぶどう酒を注いだ。

 ようやく、乳と蜜の流れる地に彼らは導かれました。そこにはきれいな緑を見ることができます。このような祝福を見て、なんと彼らはそれを自分の欲望を満たす機会としたのでした。偶像礼拝は「高き所」で行なわれます。高い丘や茂った木のところでいけにえを捧げ、それから性的な不品行を行ないます。

 私たちは祝福されると、かえって罪を犯すことがあります。祝福を見て、初めの頃の自分を思い出し、神を畏れかしこむべきなのですが、その豊かさの中で高慢になり、自分の欲を満たす手段としてしまうのです。

20:29 そこで、わたしは彼らに言った。あなたがたが通う高き所は何なのか。今日でもその名をバマと呼ばれているが。

 「バマ」は「高き所」という意味です。いまだそれら山々や緑のあるところを「高き所」と偶像礼拝と結び付けていました。

20:30 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行ないをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している。20:31 しかも、ささげ物を供え、幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。

 主が警告されたとおりのことを彼らはついに行ないました。多くの罪の中で、神はことさらにこの罪をもって「もう終わりだ」とお考えになりました。現代も変わりません。自分の欲情を満たした後で、望まぬ子が出来たらそれを子宮から取り出して殺す、つまり堕胎を行なっています。子宮の中で行なっているか、その技術がないので出てきてから殺すかの違いだけです。

20:32 あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう。』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない。

 最初に話しましたように、これが、長老たちが心に思い浮かべていることでした。心に思い浮かべること、頭に思い描くこと、これを主は大切なものだと考えられます。私たちは空想していることは現実ではないのだからあまり問題はないと考えますが、主のお考えは違うのです。

 主は、「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5:8」と言われました。そしてエゼキエルの時代の長老と同じように、心を汚していたパリサイ人、律法学者をこう責められました。「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。(マタイ23:27-28

2B 反逆者の選り分け 33−44
 そしてエゼキエルは、将来のことを預言します。今、エルサレムから捕え移され、バビロンの支流、ケバル川のほとりで収容されているユダヤ人たちに、再び祖国に戻ることのできる約束を預言します。彼らにとっては、これが一番大きな関心事です。多くの偽預言者は、すぐにでも帰ることができる、バビロンは倒れると預言していました。

 エゼキエルも預言しました。けれども、全ての人が帰ることができるのではない、このように心に偶像を求め、いつまでも神に反逆している者は決して約束の地に入ることはできない。帰っても、彼らだけは選り分けられ、取り除かれるのだということを預言します。

1C 神の憤りをもって 33−38
20:33 わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・わたしは憤りを注ぎ、力強い手と伸ばした腕をもって、必ずあなたがたを治める。20:34 わたしは、力強い手と伸ばした腕、注ぎ出る憤りをもって、あなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集める。

 主が、ご自分が散らした国々から、民を集められるという約束です。他の多くの預言は、この帰還こそが神の救いであり、イスラエルの完成であるとの約束であることを教えています。ところがここでは、神の慰めと回復ではなく「憤り」として集めると言われています。

 今のイスラエルの国、1948年に建国された国は、はたして聖書に預言されているその国なのか、という議論がキリスト教会で行なわれています。多くの人が「これは違う」と言います。「なぜなら、ユダヤ人が帰ってくる時は、彼らは回心していなければならないからだ。」というのが理由です。今のイスラエルには、イエス・キリストを信じている人は0.1パーセント程度であり、神さえ信じていない人たちも沢山います。

 けれども、そのような人たちは、他の預言にある、ユダヤ人が苦難を通して救われること、火の炉の中に金銀が入れられるように、試されることを見逃しています。「それはヤコブには苦難の時だ。しかし彼はそれから救われる。(エレミヤ30:7」「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。(ゼカリヤ13:9」これら、彼らイスラエル人が試される舞台はイスラエルの地です。つまり、メシヤが来られる前にすでに彼らがイスラエルの地にいることが前提になっています。つまり、メシヤが来られる時に世界の離散の民が戻ってくるだけでなく、その前に彼らが裁きを受け、試されるために既にイスラエルの地にいなければならないのです。

 したがって今のイスラエルは、この試練の時を経るために、メシヤ再臨の前に集められた民なのです。彼らはこの帰還運動を「シオニズム」と呼びますが、これはヨーロッパに深く浸透している反ユダヤ主義に基づいています。自分たちがユダヤ性を強調するから周囲の人々から嫌われるのだ、同化しなければならないのだと考えていたのですが、それでもやはりユダヤ人というだけで差別と迫害がありました。それで、「我々は祖国を持たなければ、自分たちの生存を確保することはできない。」と考えたのがシオニズムの始まりです。

 そして、あのホロコーストが起こりました。もしこれが起こっていなければ、国連でイスラエルが国として認められることはなかったでしょう。アラブ人との衝突があったけれども、ホロコーストの実情が明らかにされて、世界からの同情があったので認められたのです。

 だからここの箇所は、まさにホロコーストを起因とした帰還運動の預言なのです。神の御霊の注ぎではなく、イスラエル国の始まりは「神の憤り、力強い手と伸ばした腕」によるものでした。ホロコーストが起こっている時、その地に戻ってきた人々は、ようやくナチスの手から逃れたのに、今度は委任統治していた英国から強制送還させられ、また居残っても、アラブ人による暴動、攻撃、戦争で苦しみ、死んで行きました。

20:35 わたしはあなたがたを国々の民の荒野に連れて行き、そこで、顔と顔とを合わせて、あなたがたをさばく。20:36 わたしがあなたがたの先祖をエジプトの地の荒野でさばいたように、あなたがたをさばく。・・神である主の御告げ。・・

 イスラエルの人々はこれから、イスラエルの地の外にある荒野に連れて行かれるという預言です。これはまさに、イエス様がオリーブ山で語られた大患難の預言であります。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(マタイ24:16」ユダヤ地方にいる人々は元々、山地に住んでいるので、「」と言われたら死海の向こう、今のヨルダンの山々です。そこは、乾燥した高地であり、黙示録12章では「荒野に逃げた。(6節)」とあります。

20:37 わたしはまた、あなたがたにむちの下を通らせ、あなたがたと契約を結び、20:38 あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。わたしは彼らをその寄留している地から連れ出すが、彼らはイスラエルの地にはいることはできない。このとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。

 荒野に逃げ、大患難の中にいる時に、主は彼らを、ご自分の契約の民とそうではない者とに選り分けられます。「むち」とありますが、新共同訳では「」です。これは羊飼いが、囲いの中に羊を戻す時の様子を描いています。囲いに羊が戻ってくるとき、狭い門のところを羊飼いは杖を横にして、一匹ずつ通らせます。イエス様が、「わたしは良い牧者です。」と語られた所で、「わたしは羊の門です。」と言われたのは、そのためです(ヨハネ10:7,11)。そして羊飼いは、傷がないか、何かおかしくなっているところはないか調べながら通らせます。レビ記には、十分の一の捧げ物として、十番目ごとにその羊を主にささげなさいと命じられている所があります(27:32 

 この中で反逆者は、羊の門の囲いに入れない者として数えられます。メシヤが戻ってこられる時、この者たちはイスラエルの地に戻るという祝福には預かれないのです。今、生きているすべてのユダヤ人が救われるのではなく、これら選り分けを通った後に残された者たちが、その救いにあずかることができるのです。

 私たちキリスト者にも、この神の裁きがあることに気づかなければいけません。コリントにある教会に対して、パウロはこう書きました。「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6:9-10」正しくない者は、教会の中にいようとも神の国には入れないのです。

2C 偶像を捨てる民 39−44
20:39 さあ、イスラエルの家よ。神である主はこう仰せられる。おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい。後にはきっと、あなたがたはわたしに聞くようになる。あなたがたは二度と自分たちのささげ物や偶像で、わたしの聖なる名を汚さなくなる。20:40 わたしの聖なる山、イスラエルの高い山の上で、・・神である主の御告げ。・・その所で、この地にいるイスラエルの全家はみな、わたしに仕えるからだ。その所で、わたしは彼らを喜んで受け入れ、その所で、あなたがたのすべての聖なる物とともに、あなたがたの奉納物と最上のささげ物を求める。

 大患難を経て救われた民の話です。彼らは主に仕えています。ここに偶像によって神に反抗する民はいなくなっています。神の懲らしめの杖の下で、偶像礼拝のために散々な目に遭い、そのため嫌気を差し、もう二度と近づきたくないと思っている人たちだけだからです。罪を犯したことによって、どれだけ辛い思いをしなければいけないか、その神からの懲らしめを受けた人は自ら罪を厭います。

20:41 わたしがあなたがたを国々の民の中から連れ出し、その散らされている国々からあなたがたを集めるとき、わたしは、あなたがたをなだめのかおりとして喜んで受け入れる。わたしは、諸国の民が見ている前で、あなたがたのうちに、わたしの聖なることを示す。

 ここで初めて、主の救い、主の回復としての帰還が書かれています。ですから懲らしめのために帰還があり、そして最終的な救いの帰還があるのです。

20:42 わたしが、あなたがたの先祖に与えると誓った地、イスラエルの地に、あなたがたをはいらせるとき、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。20:43 その所であなたがたは、自分の身を汚した自分たちの行ないと、すべてのわざとを思い起こし、自分たちの行なったすべての悪のために、自分自身をいとうようになろう。20:44 わたしが、あなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがたは、わたしが主であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・」

 これまでの主のあしらいを、民自身が気づきます。主がどれだけ忍耐深い方であったか、今、私たちは読んできました。何度となく神はご自分の滅びの手を引き下げられました。ですから、イスラエルの歴史を通じて滅ぼされても仕方がない自分たちが、ただ主の御名のゆえに残されていたことに気づきます。

 どうでしょうか、これは私たちにも当てはまります。何度となく、主に反抗したことがないでしょうか?何度となく、同じ失敗を繰り返してはいないでしょうか?それでも私たちが滅んでいないのは、主の憐れみによります。そして主は、滅んでも全然おかしくない私たちを、ご自分の恵みの栄光のゆえに、豊かな祝福の中に入れてくださるのです。

2A 主の剣 20:45− 21
 次、45節から、再び例えによる預言が始まります。ヘブル語ではここから21章の預言に入っています。実際、新共同訳ではここから21章が始まっています。

1B ネゲブの森 45−49
20:45 さらに、私に次のような主のことばがあった。20:46 「人の子よ。顔を右のほうに向け、南に向かって語りかけ、ネゲブの野の森に向かって預言し、20:47 ネゲブの森に言え。『主のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、ネゲブから北まですべての地面は焼かれてしまう。20:48 そのとき、すべての者は、主であるわたしが燃やしたことを見るであろう。その火は消されない。』」

 右、南、ネゲブはみな、南の方角を表しています。当時、方角はエルサレムの辺りを中心にして、東を向いて考えていました。ですから南は右に当たります。

 そして森の木を燃やせと言い、そこには緑の木と枯れ木があります。そして火は南から北へと燃え広がります。これはバビロンが、どんな人も無差別に殺していく様を表しています。紀元前586年にエルサレムをバビロンが滅ぼす時、エルサレムの南に回って、ユダの町を滅ぼしてからエルサレムを包囲しました。

20:49 そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」

 エゼキエルが主に訴えました。このように例えで話しているから、人々が「エゼキエルが言っていることは何のことかわからない。また例え話だ。」と言っています。その声を何度もエゼキエルが聞いているので、また同じ反応を彼らはするでしょう、ということです。

2B 預言者の嘆き 1−17
 そこで主は、エゼキエルにはっきりとお語りになりました。

1C すべての者への裁き 1−7
21:1 次のような主のことばが私にあった。21:2 「人の子よ。顔をエルサレムに向け、聖所に向かって語りかけよ。イスラエルの地に向かって預言せよ。

 今の南に顔を向ける例えは、エルサレムに対してであり、そこにある神殿に対するものであり、またイスラエルの地全体に対するものでした。

21:3 イスラエルの地に言え。『主はこう仰せられる。今、わたしはあなたに立ち向かう。わたしは剣をさやから抜き、あなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼす。21:4 わたしがあなたのうちから、正しい者も悪者も断ち滅ぼすために、わたしの剣はさやを離れて、ネゲブから北まですべての者に立ち向かう。21:5 このとき、すべての者は、主であるわたしが剣をさやから抜いたことを知ろう。剣はもう、さやに納められない。』

 主が剣を抜くという宣言です。これはバビロンが剣をもって彼らを虐殺することを、主がその背後で支配しておられることを意味します。エレミヤ書にも、エゼキエル書にも、バビロンがイスラエルを滅ぼす時に、主が積極的にそこに関わっていることを知ることができます。

 そして、先ほどの緑の木と枯れ木でありますが、それぞれ「正しい者」と「悪者」を表していました。これは、これまで読んだエゼキエル書の言葉と矛盾しているように見えます。ノア、ヨブ、ダニエルのような正しい者がエルサレムいたら、彼ら自身は救われるという言葉がありましたし、父が不義を行なっても、子が正義を行なっていれば、父に関わりなく子は救われるという言葉もありました。正しい者は救われるはずです。

 ここで話しているのは、聞いている捕囚の民の聞く能力に合わせている表現です。彼らが考える正しい人、悪い人であり、神の目から見た正しい人、悪い人ではありません。人間的な基準では正しい人であっても、主にあって正しいとは限らないのです。

 神が裁かれる時は差別をなさいません。白い大きな御座が出てきた時、黙示録20章には、「死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っている(12節)」とあります。人間的に大きい事を行なった人であっても、そうでない人であっても、神の前には完全に平等なのです。そして神は、それぞれの行ないに従って裁かれます。

21:6 人の子よ。嘆け。彼らが見ているところで腰が砕けるほど激しく嘆け。21:7 彼らがあなたに、『なぜあなたは嘆くのか。』と言うなら、そのとき、あなたは言え。『この知らせのためだ。それが来ると、すべての者は心がしなえ、すべての者は気力を失い、みな意気消沈し、だれのひざも震える。今、それが来る。それは実現する。・・神である主の御告げ。・・』」

 これから主は、エゼキエルに嘆きと悲しみを表現せよ、と命じられます。ここでは、「腰が砕けるほど激しく嘆け」と体中でその悲しみを表現せよ、と命じておられます。これはこれまでの実演による預言と同じように、これから起こる悲惨を前もって人々に預言するためです。

 エゼキエル自身がエルサレムの破滅をこのように感じていることでしょうが、実は主ご自身も、ご自分の裁きをこのように悲しんでおられることを知っておくのは重要なことです。機械的に、神の裁きについて語ることはできません。実際に裁きを受ける血肉を持った人々がいることを知って、それで語らなければなりません。ある説教者は、「地獄について涙を流したことのない人は、地獄のことを説教する資格はない。」と言いました。私たちは、この張り裂けんばかりの嘆きと叫びをもって、迫りくる神の裁きを警告するのです。

2C 磨きをかける剣 8−17
21:8 ついで、私に次のような主のことばがあった。21:9 「人の子よ。預言して言え。主はこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が研がれ、みがかれている。21:10 虐殺のために研がれ、いなずまのようにそれはみがかれた。われわれはそれを喜ぼうか。わたしの子の杖も、すべての木のように、退けられる。21:11 その剣はみがかれて手に握られ、それは、研がれて、みがかれ、殺す者の手に渡される。21:12 叫べ。泣きわめけ。人の子よ。それはわたしの民の上に下り、イスラエルのすべての君主たちの上に下るからだ。剣への恐れがわたしの民に起こる。それゆえ、あなたはももを打って嘆け。

 ここでは腿を打って嘆きます。打たれたら一番痛いところは急所ですが、腿もかなり痛いです。

21:13 ためされるとき、杖まで退けられたなら、いったいどうなることだろう。・・神である主の御告げ。・・

 杖は、12節にあるようにイスラエルの君主を表しています。バビロンが攻めてくることによって、ダビデとソロモン以来のイスラエルの王国がなくなります。

21:14 人の子よ。預言して手を打ち鳴らせ。剣を二倍にし、三倍にして、人を刺し殺す剣とし、大いに人を刺し殺す剣として、彼らを取り囲め。

 手を打ち鳴らすのは、怒りを表している表現です。そして剣を二倍、三倍にするとは、バビロン捕囚の回数です。紀元前605年が第一次、紀元前597年が第二次、そして紀元前586年が第三次で、これでエルサレムは破壊されます。

21:15 彼らの心が震えおののくように、彼らのすべての門に、つまずきをふやせ。ああ、わたしは剣の先をいなずまのようにして、虐殺のためにみがきをかける。21:16 あなたの顔の向くところ、右に向け、左に向けて切りまくれ。21:17 わたしもまた、手を打ち鳴らし、わたしの憤りを静めよう。主であるわたしが語るのだ。」

 エゼキエルは手を打ち鳴らして剣の預言を行ないましたが、主ご自身も手を打ち鳴らして、この裁きを全うされます。これですべての神の怒りが満たされこれ以上は行なわない、という意味です。

3B バビロンの占い 18−32

 次に、二つの道についての興味深い預言があります。

1C 二つの道 18−27
21:18 ついで、私に次のような主のことばがあった。21:19 「人の子よ。バビロンの王の剣が来るために、二つの道にしるしをつけ、二つとも一つの国から出るようにせよ。町に向かう道の始まりに一つの道しるべを刻みつけておけ。21:20 剣がアモン人のラバか、ユダ、すなわち、城壁のあるエルサレムに行けるように道にしるしをつけておけ。21:21 バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振り混ぜて、テラフィムに伺いを立て、肝を調べる。21:22 彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫び声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。

 バビロンがユーフラテス河畔地域から南下して、パレスチナ地方の国々を攻めることを決めました。三つの国がありました。一つはツロです。もう一つはアモンで、そしてもう一つがユダです。リブラまで来て、そこでどの国をまず攻めるかを考えなければいけませんでした。ツロについては、後にエゼキエル書にバビロンによる破壊が預言されていますが、バビロンは、ツロは強いと見て後回しにしました。そしてさらに南下して、今度はアモンの首都ラバか、あるいはユダの首都エルサレムか、どちらにするか決めなければいけませんでした。

 そこで彼らは占いをしたのです。彼らは慣わしで、動物の肝を取り出してそれで彼らの神の意思を伺うという、非常に迷信的な方法を使いましたが、神はこの迷信をも用いて、ご自分の意図を果たされます。まずエルサレムを包囲して、破壊することを決めました。

21:23 彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕えて、彼らの不義を思い出させる。

 エルサレムの人々は、自分たちが異教の慣わしをたくさん受け入れているにも関わらず、バビロンの占いを見下していました。そんな肝調べなんか当てにならない、と。けれども、主はこれをも用いて、彼らに迫られたのです。

21:24 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたのそむきの罪があばかれるとき、彼が、あなたがたの不義を思い出させて、あなたがたのすべてのわざに罪が表われるようにするため、また、あなたがたが思い出すため、あなたがたは彼らの手に捕えられる。

 主は、彼ら自身がいかに悪いことをしていたか、それを知ってほしい、認めてほしいと願われて、彼らが捕えられるままにされました。

21:25 悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。21:26 神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。

 ゼデキヤのことですね。彼がバビロンに捕え移されることによって、ユダから王冠は取られました。

21:27 廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。

 神の、剣による破壊の預言の後に、希望の約束があります。「わたしが授ける権威を持つ者」つまり、メシヤがイスラエルの王として来られる約束です。

 「廃墟だ。廃墟だ。」という言葉は、「転覆される。転覆される。」と訳すこともできます。つまりユダの王権が完全に転覆される、という意味です。けれども、それはずっと転覆されているのではなく、神が権威を授ける者が出てきた時には彼がユダを治める、ということです。

 創世記49章を開いてください。ヤコブが間もなく死のうとしている時に、12人の息子を呼び、それぞれに預言を行ないました。ユダに対してヤコブは、彼は獅子の子になり、彼から王権が離れないと預言しました。10節です、「王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。」この「シロ」がメシヤのことです。

 ここの預言を持って、当時のユダヤ人指導者たちは、自分たちが支配する権威を、死刑を下すことのできる権威であると解釈しました。ノアに対して主が約束された、「人の血を流す者は、人によって、血を流される。(創世記96」に基づきます。政府とその権力は、死刑を執行できる権利に象徴されているというわけです。

 ローマが世界を治め、ユダヤも属州の一つとなりました。そしてローマは、ユダヤ人が死刑を執行することを許さず、彼らからその権威を剥奪しました。紀元30年頃の話です。そこでユダヤ人の中には、ちりを頭にかぶって嘆く人々が現れました。神の約束であるメシヤがまだ来られていないのに、自分たちから統治者の杖が離れてしまった、と考えたからです。

 けれども彼らが知らなかったのは、その時にイエス様が公の働きを始めておられたことです。バプテスマのヨハネから水のバプテスマを受けられて、「神の国が近づいた、悔い改めなさい。」と宣べ伝えはじめられていたのです。

 ユダの国にとって、神の裁きは徹底的でした。彼らに約束された王権は完全に倒すという裁きでした。けれども神は、ご自分のキリストを王に立てることによって彼らへの約束を実は破棄されていなかったのです。

 これは私たち個々人の生活と人生についても言えます。主は、私たちが自分たちを治める支配を倒されます。自分で生きて、自分で考えて、自分で行動するという、自分が心の中で王座を占めている生活を、ちょうどユダの国にしたように倒されます。けれども、私たちが倒れたら、今度はキリストが王座を占められるのです。人生の主権が、自分からキリストへ移行したのです。

2C アモンへの剣 28−32
21:28 人の子よ。預言して言え。神である主はアモン人と、彼らのそしりについてこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が、虐殺のために抜き放たれた。いなずまのようにして、絶ち滅ぼすためにとぎすまされた。

 バビロンが占いをして、攻撃を守られたアモンに対して、主が預言を行なわれています。それは、「彼らのそしり」についてだと言われます。アモンは実はイスラエルの敵でした。バビロンに反逆することで、彼らはエルサレムと同盟を結びましたが、実際にバビロンがエルサレムを攻めた時に彼らは喜んだのです。そのことは、後でエゼキエル25章に詳しく出ています。

 神は、イスラエルを呪う者を呪う、と言われました(創世記122参照)。けれどもイスラエルでなくても、すべての人が不幸な目に遭う時にそれを喜ぶことを、神は深刻に受け止められます。たとえそれが自分の敵であっても、もしその人が倒れたら、私たちは悲しむべきなのです。箴言にこういう御言葉があります。「あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。主がそれを見て、御心を痛め、彼への怒りをやめられるといけないから。(箴言24:17-18

21:29 彼らがあなたにむなしい幻を見せ、あなたにまやかしの占いをするとき、その剣は汚れた悪者どもの首に当てられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。

 偽預言者はエルサレムだけではなく、アモンにもいました。バビロンは倒れるという占いをしていたのです。

21:30 剣は、さやに納められる。あなたの造られた所、あなたの出身地で、わたしはあなたをさばく。21:31 わたしはあなたの上にわたしの憤りを注ぎ、激しい怒りの火を吹きつけ、滅ぼすことに巧みな残忍な者たちの手に、あなたを渡す。

 エレミヤ書に記録がありますが、エルサレムが倒れた後に、ゲダルヤを総督にしたユダヤ人の共同体が出来上がりましたが、彼を暗殺したのはイシュマエルという人間でした。そしてこのイシュマエルはアモンの助けを得ていたことが記されています(41:15参照)。アモンは、バビロンがエルサレムを倒した後に、自分たちの所に来ないように、ユダの地域を不安定にさせるべく、もともとバビロンの総督ゲダルヤを良く思っていなかったイシュマエルを使ったのです。

 けれども、彼らの企みは神によって粉々に砕かれました。エルサレム破壊の数年後、バビロンはアモンにも来て、彼らを滅ぼします。

21:32 あなたは火のたきぎとなり、あなたの血はその国の中で流され、もう思い出されることはない。主であるわたしがこう語ったからだ。」

 アモン人は今、地球上から存在しなくなっています。もう思い出されることはなくなりました。けれども24節には、エルサレムのそむきの罪が思い出されることが書いてあります。ユダヤ人は、自分たちの不義を思い出しました。またこれからも思い出します。けれどもアモン人は、その存在そのものがなくなり、思い出されなくなります。どちらが良いでしょうか?

 もちろん罪が明らかにされること、暴かれることは辛いことです。自分が裁かれ、懲らしめられることは悲しいことです。けれども実はこれは神の憐れみの一つなのです。神の所有の民になった者たちは、その罪は暴かれますが、存在そのものを忘れられることはないのです。けれども契約の中に入っていない者たちは、存在そのものが忘れられる、つまり遺棄されるということです。

 エルサレムへの神の裁きの言葉はとても厳しいものですが、その最後には必ず希望があります。神は、私たちから取り除かなければいけないものを取り除かれますが、残ったものによって回復を行なわれます。古いものは過ぎ去らせますが、新しいもので私たちを造ってくださいます。この希望を持ちましょう。


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