エゼキエル書30−32章 「砕かれる力」

アウトライン

1A 剣に倒れる人々 30
   1B 暗闇と雲の日 1−19
      1C 同盟国 1−9
      2C 富と偶像 10−19
   2B 入れ替わる腕 20−26
2A アッシリヤの杉 31
   1B 高くそびえる様 1−9
   2B 切り倒される様 10−18
3A 暴れ回った軍勢 32
   1B 地上での破滅 1−16
      1C 投げ捨てられるワニ 1−10
      2C 静まる川 11−16
   2B 地下の国 17−32
      1C 死者らの呼びかけ 17−21
      2C 墓 22−32

本文

 エゼキエル書30章を開いてください。今日は30章から32章まで学びますが、私たちは前回、「高ぶる心」という題で27章から29章までを学びました。ツロに対する預言と、エジプトに対する預言です。それぞれが自分のことを高く評価しています。ツロは「私は全く美しい(27:3」と言いました。また、「私は神だ。海の真ん中で神の座に着いている。(28:2」とも言いました。それからエジプトの王は、「川は私のもの。私がこれを造った。(29:3」と言いました。

 これらの高ぶりに対して神がそれぞれの国に裁きを行なわれるのですが、今日はエジプトに対する預言の続きです。今日の箇所の主題は「砕かれる力」です。エジプトという強国がいかに、神の力強い腕によって砕かれてしまうかを知ることができます。

1A 剣に倒れる人々 30
1B 暗闇と雲の日 1−19
1C 同盟国 1−9
30:1 次のような主のことばが私にあった。30:2 「人の子よ。預言して言え。神である主はこう仰せられる。泣きわめけ。ああ、その日よ。30:3 その日は近い。主の日は近い。その日は曇った日、諸国の民の終わりの時だ。30:4 剣がエジプトに下り、刺し殺される者がエジプトで倒れ、その富は奪われ、その基がくつがえされるとき、クシュには苦痛が起きる。30:5 クシュ、プテ、ルデ、アラビヤ全体、クブ、彼らの同盟国の人々も、彼らとともに剣に倒れる。

 「主の日」と言えば、世の終わりに世界全体に下る神の裁きの日のことを指します。「泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。」「見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。」今の引用は、イザヤ書の中で主がバビロンに対して宣告を出したところの中で、語られた部分です(13:6,9)。

 エゼキエル書のここの部分では、具体的にはバビロンを通して主がエジプトに裁きを下されるのですが、その出来事が将来の最終的裁きを指し示すものになっているため、このような預言になっています。エジプトが倒れることによって、その力に頼って同盟を結んでいた周りの国々も倒れます。この姿が終わりを予め示す型となっているのです。ダニエル書12章に反キリストが、「国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。(4243節)」とあります。

 具体的にエジプトの同盟国が列挙されていますが、一番苦痛を受けるのはクシュ、つまりエチオピヤです。今のスーダン、エチオピヤ、そしてエジプトの南の部分を含みます。彼らが最も痛手を被ります。それからプテは今のリビアです。そしてルデはトルコの西にあったと言われています。

30:6 主はこう仰せられる。エジプトをささえる者は倒れ、その力強い誇りは見下げられ、ミグドルからセネベに至るまでみな剣に倒れる。・・神である主の御告げ。・・

 ミグドルはシナイ半島の方からエジプトに入る時の国境の町であり、セネベはエジプト上流にある今のアスワンダムのアスワンです。つまり、エジプト全土で人々が剣に倒れます。

30:7 エジプトは荒れ果てた国々の間で荒れ果て、その町々も、廃墟となった町々の間にあって荒れ果てる。30:8 わたしがエジプトに火をつけ、これを助ける者たちがみな滅ぼされるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。

 一つの小さな国がより強い国と同盟を結ぶ、ということは人間的には当たり前のことです。日本国もアメリカとの同盟を結び、また首相や政権が変われば中国との友好関係も大事にします。けれども、神ではなく例えばアメリカだけに頼れば、神がアメリカに裁きを下される時に日本もその痛手を被るという意味です。

 「わたしが主であることを知ろう」とあります。私たちは主を知り、主に拠り頼むのです。いかがでしょうか、私たちの生活の中で自分を守ってくれていると思って、それに頼っているものはないでしょうか?特にこの世界的な不況の中で、自分を守ってくれるものがどんどんなくなっているのを個人的にも経験しておられるのではないでしょうか?頼るのは主のみなのです。主こそ神であることを知るために、主はこのようなことを許しておられるのです。

30:9 その日、わたしのもとから使者たちが船で送り出され、安心しているクシュ人をおののかせる。エジプトの日に、彼らの間に苦痛が起きる。今、その日が来ている。

 エジプトにバビロンが侵略している知らせを、使者たちがナイル川で上流に行き、エチオピヤ人に伝えています。それで彼らはおののいています。

 そして主は、「今、その日が来ている。」と強調されています。私たちは、心のどこかで「その日」はまだ来ないのではないか、と期待しています。それでいつまでも、大切な決断を先延ばしにするのです。けれども、主のみに拠り頼むという決断は遅らせてはならないのです。「主の日が夜中の盗人のように来る(1テサロニケ5:2」とパウロは言いました。

2C 富と偶像 10−19
30:10 神である主はこう仰せられる。わたしはバビロンの王ネブカデレザルによって、エジプトの富を取り除く。30:11 彼と、彼の民、すなわち、最も横暴な異邦の民がその地を滅ぼすために遣わされる。彼らは剣を抜いてエジプトを攻め、その地を刺し殺された者で満たす。30:12 わたしはナイル川を干上がった地とし、その国を悪人どもの手に売り、他国人の手によって、その国とそこにあるすべての物を荒れ果てさせる。主であるわたしがこれを語る。

 次に主がここで語られているのは、エジプトの豊かさが取り除かれることです。「ナイル川を干上がった地とし」とありますが、砂漠の中にあるエジプトがあれだけ豊かになれたのは、ナイル川のおかげです。ナイル川がなければ、エジプトはないと言えます。

 そしてバビロンのネブカデレザルのことを「最も横暴な異邦の民」と主は呼ばれます。聖なる、正しい主が用いられる器なら、その器も正しく聖なるものだと思ってしまいますが、いや、その逆のことを神は行なわれているのです。

 預言者ハバククは、主に対して、なぜ悪を行なっているユダに対して裁きを行なわれないのかと叫びました。主はバビロンによってユダを裁くとお答えになりました。それでハバククは、「ユダも悪いが、バビロンはもっと悪い国ではないですか。どうして、バビロンを用いられるのですか。」と、神がなされることが理解できなくて途方に暮れていました。

 バビロンのように力のある存在について、信者も不信者もそれぞれ間違った考えを持っています。信者は、そのような世の力は神の支配外にある。邪悪な一部の人間が行なっていることであるという考えです。不信者は、「そんなに力があるのなら、その王こそ神であり主である。」と考えます。アッシリヤも、エジプトも、ツロも、そしてバビロン自身も、自分こそが神のように力があると錯覚しました。

 けれども、どちらも間違いなのです。主は、実際にバビロンがエジプトを滅ぼす前に予め「わたしが、この最も横暴な異邦の民によってエジプトを荒廃させる。」と言われることによって、実際に主が行なわれていることを証明されているのです。主は、すべての歴史、すべての国々、すべての王どもを主管しておられる、主権者であられます。

30:13 神である主はこう仰せられる。わたしは偶像を打ちこわし、ノフから偽りの神々を取り除く。エジプトの国には、もう君主が立たなくなる。わたしはエジプトの地に恐怖を与える。

 主は、周囲の同盟国、エジプトの富だけでなく、エジプトの神々をも滅ぼされます。

30:14 わたしはパテロスを荒らし、ツォアンに火をつけ、ノにさばきを下す。30:15 わたしはエジプトのとりでシンにわたしの憤りを注ぎ、ノの群集を断ち滅ぼす。30:16 わたしはエジプトに火をつける。シンは大いに苦しみ、ノは砕かれ、ノフは昼間、敵に襲われる。30:17 オンとピ・ベセテの若い男たちは剣に倒れ、女たちはとりことなって行く。30:18 わたしがエジプトのくびきを砕き、その力強い誇りが絶やされるとき、タフパヌヘスでは日は暗くなり、雲がそこをおおい、その娘たちはとりことなって行く。30:19 わたしがエジプトにさばきを下すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 ここに出てくる都市の多くは、偶像礼拝で有名なところです。日本にいると、なんでこんなに偶像が多いのかと驚きますが、エジプトはその比ではありません。出エジプト記における十の災いは、それぞれ神々として拝まれているものに対する裁きであったことを思い出してください。

 エジプトは太陽神ラーを筆頭にして、あらゆるものが神として崇められています。ペルシヤの王カンビュセスは、エジプトと戦う時に、最前線に犬と猫を解き放ったと言われています。エジプト人がそれらを神々として恐れていたためです。「ノフ」はメンピスのことです。エジプトの首都でありましたが、他の都市に首都が移動してからは、宗教の中心地となりました。17節の「オン」で、太陽神ラーを崇める宮がありました。

 私たちは、宗教多元主義を頭の中から捨て去らなければなりません。つまり、それぞれの国々に文化や伝統の中に生きている宗教があって、それぞれが尊ばれなければならない、という考えです。もちろん私たちは、アフガニスタンのタリバンのように仏像を破壊するようなことをしてはいけません。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、空中の霊的な勢力に対するものです。

 偶像崇拝のゆえに、その個人、その地域、その国は必ず裁かれることを知らなければいけません。すべての人間にとって、唯一、天と地を造られた神のみがあがめられるべきなのです。パウロとバルナバが宣教をしていた時に、ルステラの人々は、彼らをゼウスまたヘルメスとしてあがめようとしました。その時にパウロが言いました。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。(使徒14:15」それらの偶像からまことの神に立ち返るように教えるのです。

2B 入れ替わる腕 20−26
30:20 第十一年の第一の月の七日、私に次のような主のことばがあった。

 29章から32章までのエジプトに対する預言は、一つではありません。いくつかの預言を一つにまとめたものです。291節には「第十年の第十の月の十二日に」とありました。紀元前58715日でした。そしてここ「第十一年の第一の月の七日」は紀元前587429日です。前の預言から約4ヶ月後であり、そして忘れてはならないのは、今バビロンはエルサレムを包囲していることです。586817日に神殿を破壊しました。

 バビロンに対抗できると思ってエジプトはエルサレムのために軍を送りました。けれども、バビロンはエルサレムを滅ぼすだけでなく、エジプト自体も滅ぼします。

30:21 「人の子よ。わたしはエジプトの王パロの腕を砕いた。見よ。それは包まれず、手当をされず、ほうたいを当てて包まれず、元気になって剣を取ることもできない。30:22 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエジプトの王パロに立ち向かい、強いが砕かれている彼の腕を砕き、その手から剣を落とさせる。30:23 わたしはエジプト人を諸国の民の中に散らし、国々に追い散らす。30:24 しかし、わたしはバビロンの王の腕を強くし、わたしの剣を彼の手に渡し、パロの腕を砕く。彼は刺された者がうめくようにバビロンの王の前でうめく。30:25 わたしはバビロンの王の腕を強くし、パロの腕を垂れさせる。このとき、わたしがバビロンの王の手にわたしの剣を渡し、彼がそれをエジプトの地に差し向けると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。30:26 わたしがエジプト人を諸国の民の中に散らし、彼らを国々に追い散らすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 腕についての預言です。強いとされているパロの腕を神は砕き、代わりにバビロンの腕を強くされます。そしてバビロンの腕がパロの腕を砕きます。

 私たちの目には、どんなに強いと思われている人、物、国でさえ、このように必ず取り替えられる時が来ます。主こそ、力強い腕を持っておられることを認めるべきです。

2A アッシリヤの杉 31
 次に、エジプトをかつての超大国アッシリヤになぞらえて主が、その荒廃を語っておられます。

1B 高くそびえる様 1−9
31:1 第十一年の第三の月の一日、私に次のような主のことばがあった。

 預言の時は紀元前587621日のことです。「腕」についての預言から二ヶ月後です。

31:2 「人の子よ。エジプトの王パロと彼の大軍に言え。あなたの偉大さは何に比べられよう。31:3 見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある。31:4 水がそれを育て、地下水がこれを高くした。川々は、その植わっている地の回りを流れ、その流れを野のすべての木に送った。31:5 それで、そのたけは、野のすべての木よりも高くそびえ、その送り出す豊かな水によって、その小枝は茂り、その大枝は伸びた。31:6 その小枝には空のあらゆる鳥が巣を作り、大枝の下では野のすベての獣が子を産み、その木陰には多くの国々がみな住んだ。31:7 それは大きくなり、枝も伸びて美しかった。その根を豊かな水におろしていたからだ。31:8 神の園の杉の木も、これとは比べ物にならない。もみの木も、この小枝とさえ比べられない。すずかけの木も、この大枝のようではなく、神の園にあるどの木も、その美しさにはかなわない。31:9 わたしが、その枝を茂らせ、美しく仕立てたので、神の園にあるエデンのすべての木々は、これをうらやんだ。

 非常に興味深い、不思議な比喩ですね。アッシリヤをレバノンの杉の木に例えておられます。かつてイザヤが、同じようにエルサレムを包囲するアッシリヤ軍をレバノンの杉の木に例えて、主がそれを切り倒されることを預言しました(11:34)。レバノンの杉は、その高さと質で有名です。

 そして、丈が高くなり、小枝が茂り、空の鳥が巣を作って、大枝のしだで獣が憩っている姿は、後にバビロンのネブカデネサルが見た夢の中で、彼自身がその木だとダニエルが解き明かしました(ダニエル4章)。つまり、これは非常に大きく、強い国となって、それを支える同盟国があり、その支配や影響の中で憩っている国々や民族がいる、という意味です。アッシリヤ帝国は、今のイラクの北部ニネベの地域から始まり、メソポタミヤ全域とパレスチナ、そしてエジプトにまで至る、広範囲を支配しました。

 そして興味深いのは、エデンの園の木々がここに出ていることです。エデンの園の地理的位置がアッシリヤの辺りだったから、ここに出てきています。創世記2章に、一つの川がエデンから流れており、そこから四つの支流が出ていて、「第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。(14節)」とあります。ヒデケルはティグリス川で、アシュルはアッシリヤのことです。

 エデンの園の木々もうらやんだ、という言葉から、アッシリヤが神ご自身の園よりも優れているとみられたその高ぶりを感じ取ることができます。事実アッシリヤは、「私はさまざまな国々の偶像を倒したから、エルサレムとその多くの偶像にも私が同じようにしないだろうか。(イザヤ10:11参照)」と高ぶりました。

 神とキリストを軽んじ、自分の国の神が優れていることをかもし出している時は危険です。ローマはそれを行なったから、後に滅びました。そして日本も戦時中、キリスト教会を迫害し、天皇を礼拝させようと強要し、それで敗戦しました。

2B 切り倒される様 10−18
31:10 それゆえ、神である主はこう仰せられる。そのたけが高くなり、そのこずえが雲の中にそびえ、その心がおごり高ぶったから、31:11 わたしは、これを諸国の民のうちの力ある者の手に渡した。彼はこれをひどく罰し、わたしも、その悪行に応じてこれを追い出した。31:12 こうして、他国人、最も横暴な異邦の民がこれを切り倒し、山々の上にこれを捨てた。その枝はすべての谷間に落ち、その大枝はこの国のすべての谷川で砕かれた。この国のすべての民は、その木陰から出て行き、これを振り捨てた。31:13 その倒れ落ちた所に、空のあらゆる鳥が住み、その大枝のそばに、野のあらゆる獣がいるようになる。31:14 このことは、水のほとりのどんな木も、そのたけが高くならないためであり、そのこずえが雲の中にそびえないようにするためであり、すべて、水に潤う木が高ぶってそびえ立たないためである。これらはみな、死ぬべき人間と、穴に下る者たちとともに、地下の国、死に渡された。

 アッシリヤはバビロンによって倒れました。ネブカデネザル(エゼキエル書では「ネブカデレザル」となっています)の父ナボポラッサルは、紀元前626年にバビロンの町をアッシリヤから取り上げました。そして勢力をまして、ついに612年にアッシリヤの首都ニネベを倒したのです。

 そしてアッシリヤは急いで、東方のハランに撤退しました。そこに現われたのが、エジプトです。時のパロ・ネコがバビロンに対抗すべく、アッシリヤを支援するために北上しました。その途中で、メギドで戦いにやってきたヨシヤを倒しました(2歴代35:20)。けれども、ナボポラッサルの息子ネブカデネザルは、カルケミシュでアッシリヤ・エジプト連合軍を包囲し、紀元前605年に決定的な打撃を加えたのです。この時に、その全地域のパワーポリティックス、すなわちその地域全体の勢力圏がエジプトからバビロンに移りました(2列王24:7)。

31:15 神である主はこう仰せられる。それがよみに下る日に、わたしはこれをおおって深淵を喪に服させ、川をせきとめて、豊かな水をかわかした。わたしがこれのためにレバノンを憂いに沈ませたので、野のすべての木も、これのためにしおれた。31:16 わたしがこれを穴に下る者たちとともによみに下らせたとき、わたしは諸国の民をその落ちる音で震えさせた。エデンのすべての木、レバノンのえり抜きの良い木、すべての水に潤う木は、地下の国で慰められた。31:17 それらもまた、剣で刺し殺された者や、これを助けた者、諸国の民の間にあって、その陰に住んだ者たちとともに、よみに下った。

 エゼキエルの預言は、アッシリヤがバビロンによって滅亡したことだけで終わりません。死んだ後に、地下の国、陰府、すなわち地獄に下ったのです。前々回、26章でツロに対する預言も同じでした。「地下の国に住ませる。(20節)」と主は言われました。そして、次の31章に実に鮮やかに、地下の国の様子を主は描いておられます。死だけでは終わらないのです、死んだら、その後に神の裁きがあるのです(ヘブル9:27)。

 他の諸国やその他、すぐれた木々が、アッシリヤが落ちてきたことで「慰められた」とありますね。あの大きな国が自分たちと同じ惨めな状態に陥ったことで慰められた、ということです。「同類相憐れむ」です。この地上でどんなに力を持っていても、どんなに美しい人でも、どんなに知恵のある人でも、死んだ後はまったく同じ状態に落ちます。

31:18 エデンの木のうち、その栄えと偉大さで、あなたはどれに似ているだろうか。あなたもエデンの木とともに地下の国に落とされ、剣で刺し殺された者とともに、割礼を受けていない者たちの間に横たわるようになる。これは、パロと、そのすべての大軍のことである。・・神である主の御告げ。・・

 主は、アッシリヤから最後にエジプトに目を向けさせています。「アッシリヤはこのような運命を辿ったのだよ。そしてあなたは、これに引き続き、滅びる運命にあるのだよ。」ということです。エジプトは、古代からその力と栄華を誇っていました。しかし、少しずつ力を失い、初めはアッシリヤから攻められ、今度は弱くなったアッシリヤを助けに攻めましたが破れ、それから弱くなったエルサレムを助けに軍を出しましたが破れ、それから、自分自身がバビロンに滅ぼされました。

 その間、エジプトは「自分は強いのだ」という自負心を捨てませんでした。過去の栄光にしがみつき、いつまでも実際の自分を見つめませんでした。それで主はアッシリヤの例をお見せになったのです。使徒パウロは、コリントにある教会に対してこう警告しました。「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(1コリント10:11-12」先に倒れた人について、私たちはそこから戒めを受けなければいけません。

3A 暴れ回った軍勢 32
1B 地上での破滅 1−16
1C 投げ捨てられるワニ 1−10
32:1 第十二年の第十二の月の一日、私に次のような主のことばがあった。

 時は紀元前58533日です。ほぼ2ヶ月前に、エルサレムが滅んだことがバビロンにいる捕囚のために伝わっていました(33:21)。

32:2 「人の子よ。エジプトの王パロについて哀歌を唱えて彼に言え。諸国の民の若い獅子よ。あなたは滅びうせた。あなたは海の中のわにのようだ。川の中であばれ回り、足で水をかき混ぜ、その川々を濁らせた。

 これから「哀歌」すなわち、エジプトの死を悼む歌が始まります。

 「諸国の民の若い獅子」とは、時のパロ・ホフラの自画像です。けれども神は彼を川の中を暴れ回り、その水を濁す「わに」と見ておられます。ホフラは不必要に周囲の諸国を引き回して、最終的に滅びを招く動きしかしていませんでした。

 私たちは実際の自分を見つめることが大切です。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」と使徒パウロは言いました。正直に自分を見つめるのは勇気が要ります。けれども、主にあってそれを行なうことができるし、そして主にあって自分を裁けば、そこには真の悔い改めが生まれ、それから来る神からの豊かな憐れみが注がれます。イエス様は、「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(3:19」と言われました。

32:3 神である主はこう仰せられる。わたしは、多くの国々の民の集団を集めて、あなたの上にわたしの網を打ちかけ、彼らはあなたを地引き網で引き上げる。32:4 わたしは、あなたを地に投げ捨て、野に放り出し、空のあらゆる鳥をあなたの上に止まらせ、全地の獣をあなたで飽かせよう。32:5 あなたの肉を山々に捨て、あなたのしかばねで谷を満たし、32:6 あなたから流れ出る血で地を浸し、その血で山々を潤す。谷川もあなたの血で満たされる。32:7 あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。32:8 わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。・・神である主の御告げ。・・

  ホフラが野垂れ死にする姿を描いていると同時に、30章にあった「主の日」の姿をも醸し出しています。全地の獣がその死体を食べること、しかばねが山々や谷に満ちること、空が真っ暗になることなど、すべて終わりの日の徴です。

32:9 わたしが、諸国の民、あなたの知らない国々の中であなたの破滅をもたらすとき、わたしは多くの国々の民の心を痛ませる。32:10 わたしは多くの国々の民をあなたのことでおののかせる。彼らの王たちも、わたしが彼らの前でわたしの剣を振りかざすとき、あなたのことでおぞ気立つ。あなたのくずれ落ちる日に、彼らはみな、自分のいのちを思って身震いし続ける。

 これは、出エジプト記の出来事によって世界の国々が恐れたことと似ています。エジプト軍とパロが紅海の中に沈んだ出来事が周りの国々に広がり、例えば、エリコの町の人々はイスラエル人のことで恐怖に陥っていました(ヨシュア2:911)。

2C 静まる川 11−16
32:11 まことに、神である主はこう仰せられる。バビロンの王の剣があなたに下る。32:12 わたしは勇士の剣で、あなたの群集を倒す。彼らはみな最も横暴な異邦の民だ。彼らはエジプトの誇りを踏みにじり、その群集はみな滅ぼされる。32:13 わたしはあらゆる家畜を、豊かな水のほとりで滅ぼす。人の足は二度とこれを濁さず、家畜のひづめも、これを濁さない。32:14 そのとき、わたしはこの水を静める。その川を油のように静かに流れさせる。・・神である主の御告げ。・・

 先に主は、パロは川々を濁すわにだと言われました。けれども主がそれを静かにさせると言われます。エジプトが行なっていた周囲の国々に対する介入が、バビロンによる決定的な打撃を受けて、完全に静かになります。

 私たちはいつも、エジプトのような存在でうるさいと感じています。主こそ神であるという真理を見えなくさせる、この世の騒々しさのことです。マスコミがいつもその騒ぎを掻き立てていますが、主は必ずこれらの騒がしさを静められます。そして信仰者は、絶えず、この主を見つめる時と場所を持たなければいけません(ゼカリヤ2:13参照)。

32:15 わたしがエジプトの国を荒れ果てさせ、この国にある物がみなはぎ取られ、わたしがそこの住民をみな打ち破るとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。32:16 これは人々が悲しんで歌う哀歌である。諸国の民の娘たちはこれを悲しんで歌う。エジプトとそのすべての群集のために、彼女らはこの哀歌を悲しんで歌う。・・神である主の御告げ。・・」

 当時人々は葬式の時に、悲しむことを職業にしている「泣き」のプロを雇います。その女の人々がこの歌をエジプトが倒れた時に歌うことになる、ということです。

2B 地下の国 17−32
1C 死者らの呼びかけ 17−21
32:17 第十二年の第一の月の十五日、私に次のような主のことばがあった。

 ついにエジプトに対する最後の預言、そして25章から始まった諸国に対する預言の最後になります。時は「第十二年の第一の月の十五日」とありますが、「第一」はヘブル語の本文にはないので、先の預言「第十二年の第十二の月の一日」と同じ月であると考えられます。だから「第十二の月の十五日」です。つまり、前の預言の2週間後に与えられたと考えられます。

32:18 「人の子よ。エジプトの群集のために嘆け。その民と強国の民の娘たちとを、穴に下る者たちとともに地下の国に下らせよ。32:19 『あなたはだれよりもすぐれているのか。下って行って、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ。』32:20 その国は剣に渡され、彼らは剣で刺し殺された者たちの間に倒れる。その国とそのすべての群集を引きずり降ろせ。32:21 勇敢な勇士たちは、その国を助けた者たちとともに、よみの中から語りかける。『降りて来て、剣で刺し殺された者、割礼を受けていない者たちとともに横たわれ。』と。

 先ほど、アッシリヤが地下の国に下ったところを読みましたが、ここではさらに生々しく描いた幻です。特に、戦いによって倒れた者たちに対する預言になっています。

2C 墓 22−32
32:22 その墓の回りには、アッシリヤとその全集団がいる。みな、刺し殺された者、剣に倒れた者たちである。32:23 彼らの墓は穴の奥のほうにあり、その集団はその墓の回りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者、かつて生ける者の地で恐怖を巻き起こした者たちである。

 数々の国の軍隊で筆頭に挙げられているのは、アッシリヤです。多くの者たちを残虐な形で殺し、そして自分たちが殺された後に、このような墓に住んでいます。彼らが「穴の奥のほう」にあるというのが興味深いです。先に倒れて、死んで行ったからです。

32:24 そこには、エラムがおり、そのすべての群集もその墓の回りにいる。彼らはみな、刺し殺された者、剣に倒れた者、割礼を受けないで地下の国に下った者、生ける者の地で恐怖を巻き起こした者たちである。それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。

 エラムはペルシヤの所にあった国です。今のイランです。アブラハムの時代から存在していた国ですが(創世記14:1)、バビロンのネブカデネザルによって倒れています(エレミヤ49:3438)。

32:25 その寝床は刺し殺された者たちの間に置かれ、そのすべての群集も、その墓の回りにいる。みな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。彼らの恐怖が生ける者の地にあったからである。それで彼らは穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。彼らは刺し殺された者たちの間に置かれた。

 主は、第一に彼らが生きている時に恐怖を引き起こしたこと、第二にそれゆえ剣で刺し殺されたことを強調しておられます。主は、苦しみを与える者には報いとして苦しみを与えられる方です(2テサロニケ1:6)。復讐の神です(ローマ12:19)。

32:26 そこには、メシェクとトバルがおり、そのすべての群衆もその墓の回りにいる。彼らはみな、割礼を受けていない者、剣で刺し殺された者である。彼らは生ける者の地で恐怖を巻き起こしたからである。32:27 彼らは、ずっと昔に倒れた勇士たちとともに横たわることはできない。勇士たちは武具を持ってよみに下り、剣は頭の下に置かれ、盾は彼らの骨に置かれている。勇士たちは生ける者の地で恐れられていたからである。32:28 あなたは、割礼を受けていない者たちの間で砕かれ、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。

 メシェクとトバルです。トルコの北東、黒海の南部にいた人々であると言われます。現在のロシアにもまたがり、エゼキエル38章のゴグとマゴグの戦いの預言の中に、連合国の一つとして登場します。彼らは、アッシリヤと共にその地域を暴れ回った歴史を持っています。

 先ほどから、「割礼を受けていない者たちの間で砕かれ」と書いてありますが、これをユダヤ人が聞けば、「ああ、契約の外にいて、汚れており、神から断ち切られている人々だ。」と理解します。アブラハムそしてモーセの契約を通して、割礼が契約の民のしるしになったからです。

 けれども、心に割礼を受けていなければ、その人は陰府に下ります。心の割礼とは、神の御霊による新生のことです。主によって心が新たにされていない者が集まるところ、それが陰府であり、地獄です。

32:29 そこには、エドムとその王たち、そのすべての族長たちがいる。彼らは勇敢であったが、剣で刺し殺された者たちとともに、割礼を受けていない者たち、および穴に下る者たちとともに横たわる。

 エドムはすでに25章において、その裁きが宣言されていましたが、彼らも人々を無慈悲に殺していき、そして自分自身も殺されて陰府に下りました。

32:30 そこには、北のすべての君主たち、およびすべてのシドン人がいる。彼らの勇敢さは恐怖を巻き起こしたが、恥を見、刺し殺された者たちとともに下ったのである。それで割礼を受けていない彼らは、剣で刺し殺された者たちとともに横たわり、穴に下る者たちとともに自分たちの恥を負っている。

 イスラエルから見て北の君主たちです。そこにシドン人も含まれます。

32:31 パロは彼らを見、剣で刺し殺された自分の群集、パロとその全軍勢のことで慰められる。・・神である主の御告げ。・・32:32 わたしが生ける者の地に恐怖を与えたので、パロとその群集は、割礼を受けていない者たちの間で、剣で刺し殺された者たちとともに横たわる。・・神である主の御告げ。・・」

 最後にパロです。パロは陰府に降りてきて、「前に倒れたすべての国々とその軍隊がここに横たわっているではないか。」と、先ほどの「同類相憐れむ」を行なっているのです。

 このように主は、この地上においても裁きを行なわれ、そして死後にも裁きを行なわれることを明らかにしておられます。地獄という考えは受け入れられない、死んだらすべて終わりなのだ、という人がたくさんいます。けれども、人の意識はそのまま死後にも続くのです。

 イエス様が語られたラザロの話を思い出してください。ぜいたくな暮らしをしていた金持ちは、燃える火の中で苦しみもだえていました。貧しかったラザロは、アブラハムのふところで慰めを受けています。そこでもアブラハムは、「おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。(ルカ16:25」と言いました。主は必ず報いる方なのです 

 どうでしょうか、パロの死を通して私たちは、何を学ばなければいけないでしょうか?「強い力は砕かれる」ことです。私たちは二つの国の狭間に生きています。エジプトに代表される世の国と、そして神の国です。イエス様を自分の主として受け入れた者は、神の国に属するように新たに生まれたのですが、その国は「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5」と、この世の力とは相容れない、その反対の性質を持って生きなければいけないことをイエス様は教えられます。けれども、時に世にある無意味な誇りに私たちは惑わされます。この預言を通して、これらは倒れるのだ。主こそ神であられるのだ、ということをもう一度思い出しましょう。

 これで私たちは、エゼキエル書の前半部分を学びました。彼が預言者として呼び出されたところから、初めにエルサレムへの裁き、それから諸国への裁きの預言を行ないました。けれども33章で、実際にエルサレムが陥落した知らせを捕囚の民が聞きます。それから主は、エゼキエルに対してイスラエルの回復の預言を与えられます。楽しみにしていてください。