エゼキエル33−35章 「回復の開始」

アウトライン

1A 見張り人の警告 33
   1B 主の再任命 1−20
      1C 血の責任 1−9
      2C 立ち返りへの呼びかけ 10−20
   2B エルサレム占領後の預言 21−33
      1C 町から逃れた者 21−22
      2C 依然として立ち返らない者たち 23−33
2A 主の牧場 34
   1B 牧者 1−16
      1C 自分を肥やす者たち 1−10
      2C 主ご自身による養い 11−16
   2B 羊の群れ 17−31
      1C 羊の選り分け 17−24
      2C 国の平和 25−31
3A セイル山への報復 35
   1B 廃墟となる町々 1−4
   2B 執拗な敵意 5−9
   3B 主の土地の占領 10−15

アウトライン

 エゼキエル書33章を開いてください、今日からエゼキエル書における回復のメッセージが始まります。エゼキエルは、預言者としての神の召命を受けた後、左脇を横にして横たわっていたりして、エルサレムがバビロンによって陥落することを預言していました。そして、実際にエルサレムが陥落した知らせを聞きます。それから彼は再び神によって口が開かれ、今度はイスラエルが回復する預言を語り始めるのです。

 今日は33章から35章まで学びます。「回復の開始」がメッセージ題です。

1A 見張り人の警告 33
1B 主の再任命 1−20
1C 血の責任 1−9
33:1 次のような主のことばが私にあった。33:2 「人の子よ。あなたの民の者たちに告げて言え。わたしが一つの国に剣を送るとき、その国の民は彼らの中からひとりを選び、自分たちの見張り人とする。33:3 剣がその国に来るのを見たなら、彼は角笛を吹き鳴らし、民に警告を与えなければならない。33:4 だれかが、角笛の音を聞いても警告を受けないなら、剣が来て、その者を打ち取るとき、その血の責任はその者の頭上に帰する。33:5 角笛の音を聞きながら、警告を受けなければ、その血の責任は彼自身に帰する。しかし、警告を受けていれば、彼は自分のいのちを救う。33:6 しかし、見張り人が、剣の来るのを見ながら角笛を吹き鳴らさず、そのため民が警告を受けないとき、剣が来て、彼らの中のひとりを打ち取れば、その者は自分の咎のために打ち取られ、わたしはその血の責任を見張り人に問う。33:7 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。33:8 わたしが悪者に、『悪者よ。あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もし、あなたがその悪者にその道から離れるように語って警告しないなら、その悪者は自分の咎のために死ぬ。そしてわたしは彼の血の責任をあなたに問う。33:9 あなたが、悪者にその道から立ち返るよう警告しても、彼がその道から立ち返らないなら、彼は自分の咎のために死ななければならない。しかし、あなたは自分のいのちを救うことになる。

 エゼキエルは、再び預言を行なう任務を命じられています。3章で彼が預言者として召された時、主は同じことを彼に教えられました。警告を与えれば、悪者は立ち返るかそうでないかは本人に拠るが、もし警告を与えなければ必ず彼は死にます。そして警告を与えなかったエゼキエルは、その血の責任を問われる、というものです。そしてここではエゼキエルを、城壁の上で敵が攻めてくるのを見て、角笛を鳴らして警告する見張り人であると仰られています。

 神の言葉を預かっている者、また福音を預かっている者は、エゼキエルと同じように見張り人の責任を負っています。私たちは、福音を聞く人々に対して、その人がそれを信じさせる責任は負っていません。信じるかもしれないし、信じないかもしれません。その責任は聞いている本人にあります。けれどももし福音を伝えなければ、その人は必ず死に、死んだ後に裁きを受けます。そして私たちは伝えなかったことに対する責任を持つのです。

 パウロは、福音を伝えることについてこう言いました。「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。(1コリント9:16」私たちはこのような切迫感、使命感が福音を伝える時に必要です。長いこと知り合いであるにも関わらず、福音を一度も話したことがないという人がいないでしょうか?使命感を持ちましょう。

2C 立ち返りへの呼びかけ 10−20
33:10 人の子よ。イスラエルの家に言え。あなたがたはこう言っている。『私たちのそむきと罪は私たちの上にのしかかり、そのため、私たちは朽ち果てた。私たちはどうして生きられよう。』と。33:11 彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』

 この言葉も、かつてエゼキエルに主は既に教えておられます。18章にあります。ご自分の言葉を語られる時の、主の心を言い表しています。悪者が滅びることを望まず、悔い改めて生きることです。どんなにその罪への糾弾が激しいものであろうと、主はそれを喜んで行なっているのでは断じてありません。むしろ、彼らがその罪から離れようとするものなら、その怒りの御手をすぐにでも引き下げるお方なのです。ヨナ書に記されているニネベの人たちのことを思い出してください。

 今はイスラエルの人々には、自分たちの背きの罪によって潰されそうになっている人々がいます。それで自分は滅びるしかないのだ、と絶望しています。けれども主は、「なぜ絶望しているのか。立ち返って、生きなさい。」と懇願しておられるのです。

33:12 人の子よ。あなたの民の者たちに言え。正しい人の正しさも、彼がそむきの罪を犯したら、それは彼を救うことはできない。悪者の悪も、彼がその悪から立ち返るとき、その悪は彼を倒すことはできない。正しい人でも、罪を犯すとき、彼は自分の正しさによって生きることはできない。33:13 わたしが正しい人に、『あなたは必ず生きる。』と言っても、もし彼が自分の正しさに拠り頼み、不正をするなら、彼の正しい行ないは何一つ覚えられず、彼は自分の行なった不正によって死ななければならない。33:14 わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言っても、もし彼が自分の罪を悔い改め、公義と正義とを行ない、33:15 その悪者が質物を返し、かすめた物を償い、不正をせず、いのちのおきてに従って歩むなら、彼は必ず生き、死ぬことはない。33:16 彼が犯した罪は何一つ覚えられず、公義と正義とを行なった彼は必ず生きる。

 これは福音の根幹と言ってもよい原則と言えるでしょう。これまでどんなに酷い悪を犯した人であっても、悔い改めればその全てを神は赦してくださいます。福音書において、イエス様が何度となく、「あなたの罪は赦されました。」と宣言されましたね。取税人ザアカイは、ここ15節に書かれてあるように、かすめた物を返すと言いましたが、イエス様は、「きょう、救いがこの家に来ました。(ルカ19:9」と言われました。そして、ヨハネ第一には私たちが罪を言い表したら、神は、「すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(9節)」とあります。もう、罪の責めで苦しまなくても良いのです、これが福音です。

 けれども、その反対に、自分の正義を神の前で積み上げることができないのも、福音の一部にあります。これまでどんなに正しいことを行なっていても、一つ罪過があればそれで神に裁かれるにふさわしい者になります。神殿で自分の義を神の前で祈っているパリサイ人のことを思い出してください。神殿の中に入ることもできず、憐れんでくださいと祈った取税人の方が義と認められました(ルカ18:914)。

33:17 あなたの民の者たちは、『主の態度は公正でない。』と言っている。しかし、彼らの態度こそ公正でない。33:18 正しい人でも、自分の正しい行ないから遠ざかり、不正をするなら、彼はそのために死ぬ。33:19 悪者でも、自分の悪から遠ざかり、公義と正義とを行なうなら、そのために彼は生きる。33:20 それでもあなたがたは、『主の態度は公正でない。』と言う。イスラエルの家よ。わたしはあなたがたをそれぞれの態度にしたがってさばく。」

 福音は、しばしば私たちに不平や不満をもたらします。この人はこれだけ悪を行なったのに、どうして悔い改めただけでそれがすべて帳消しにされるのか、と腹正しくなります。けれども、これはまさに、神の心である「悪者が滅びることを望まない」という神の心そのものを裁いている態度なのです。

 そして同じように、「こんなに正しいことをたくさん行なってきた人なのに、なんで地獄に行かなければいけないのか。」という不満もあります。けれども、神が願われているのは、たくさんのいけにえではなく、砕かれた魂であることを思い出さなければいけません。私たちの義は、神の前には不潔な着物のようであると、イザヤ書にあります。私たちの目には正しい人に見えても、神の目にはすべての者が罪人なのです。

 そして、このように神が行なわれていることについて不満を持っていることは、裏返すと、自分自身を神の位置に置いていることに他なりません。「私が神であれば、こんなことしないのに・・・。」と考え、自分自身を神よりも賢いとするからです。その態度そのものが間違っており、そこで20節には、その態度にしたがって裁くと主は言われます。

2B エルサレム占領後の預言 21−33
1C 町から逃れた者 21−22
33:21 私たちが捕囚となって十二年目の第十の月の五日、エルサレムからのがれた者が、私のもとに来て、「町は占領された。」と言った。33:22 そののがれた者が来る前の夕方、主の御手が私の上にあり、朝になって彼が私のもとに来る前に、私の口は開かれた。こうして、私の口は開かれ、もう私は黙っていなかった。

 時は紀元前58519日のことです。神殿が滅んだのが586817日ですから、それから4ヶ月半の期間が経っています。これはもちろん、エルサレムからエゼキエルたちが住んでいる、バビロンのケバルまで一つの知らせを伝えるにもそれだけの期間がかかるからです。

 そしてエゼキエルの「口は開かれた。」とあります。覚えていますか、彼はエルサレムに対する預言をすべて語り終えた時、主がエルサレムに対する彼の口を閉ざされました。24章の最後に書いてあります。ここから彼は、エルサレムに対する裁きではなく、エルサレム、そしてイスラエル全体を神が回復してくださる預言を告げ知らせるのです。

 興味深いのが、エゼキエルは、その逃れて来た人が実際に陥落を知らせる前に、既に口を開いていることです。これを新約聖書では「知識の言葉」と言いますが、御霊の賜物の一つで、超自然的な方法である知識が与えられることを言います(1コリント12:8)。エゼキエルは、いても経ってもいられなくなりました。自分がずっと語ってきたエルサレムの破滅もそれが起こる前に、切迫感をもって語っていましたが、回復の預言も早く語りたくてしょうがなかったのです。

2C 依然として立ち返らない者たち 23−33
33:23 次のような主のことばが私にあった。33:24 「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている。』と言っている。

 これは、エルサレムが破壊された後に、生き残っているわずかなユダヤ人たちに対する預言です。主の御心は、バビロンによってエルサレムが滅んだことを神の御心であると認め、へりくだって、悔い改めて主を求めることであります。ところが、ここにいる人たちの中に貪りの心を起こしています。多くの同胞がバビロンに捕え移されたので、その人々が所有していた土地が捨てられたままになりました。それで残された人々が、「これはみな、私たちのものになる!」と言って、喜んでいるのです。

 私たち人間の心は本当にかたくなで、そして邪悪なものです。これだけ悲惨な目に遭ったにも関わらず、それについて悲しむこともせず、今、目の前にある利益だけを見て喜んでしまいます。そこにある神の御心が何であるかを考える暇もなく、自分の欲望を満たそうとするのです。

33:25 それゆえ、彼らに言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは血がついたままで食べ、自分たちの偶像を仰ぎ見、血を流しているのに、この地を所有しようとするのか。33:26 あなたがたは自分の剣に拠り頼み、忌みきらうべきことをし、おのおの隣人の妻を汚していながら、この地を所有しようとするのか。33:27 あなたは彼らにこう言え。神である主はこう仰せられる。わたしは誓って言うが、あの廃墟にいる者は必ず剣に倒れる。野にいる者も、わたしは獣に与えてそのえじきとする。要害とほら穴にいる者は疫病で死ぬ。33:28 わたしはその地を荒れ果てさせ、荒廃した地とする。その力強い誇りは消えうせ、イスラエルの山々は荒れ果て、だれもそこを通らなくなる。33:29 このとき、わたしが、彼らの行なったすべての忌みきらうべきわざのためにその国を荒れ果てさせ、荒廃した地とすると、彼らは、わたしが主であることを知ろう。

 24節でユダヤ人たちは、自分たちが土地を所有できる根拠として、アブラハムに神が土地を与えられたことを話していました。けれども主は、「決してそんなことは起こらない。あなたがたは、どこにいようと必ず死に、剣で倒れ、そしてイスラエルの山々は荒れ果てる。」と断言されました。理由は、アブラハムが神を信じて、そして恵みによって正しく歩んだのと全く異なり、彼らは不義の中に生きていたからです。

 以前もエレミヤ書で「これは主の宮、主の宮、主の宮だ。(7:4」と言って、物理的に神殿があるから自分たちは敵から守られて、安全だと錯覚している人々の姿が描かれていました。土地に対する約束も全く同じであり、主は永遠にイスラエル人にその地を与えられそれは無条件ですが、もしイスラエルが神に背き続けているならば、そこから引き抜かれるのです。神殿がある、土地があるというような物理的な約束が神の約束ではありません。主を信じ、主に聞き従って生きるという霊的な裏づけがあってこその物理的な約束なのです。

 そしてここの預言は実際にその通りになりました。エレミヤ書の学びで学びましたが、残された民は総督ゲダルヤの下、一つにまとまりかけたところイシュマエルという人が彼を暗殺して、そして残された民を将校たちがエジプトに引き連れて行きました。そして後にバビロンがエジプトに来て、エジプトとともに彼らは滅んでしまうのです。

33:30 人の子よ。あなたの民の者たちは城壁のそばや、家々の入口で、あなたについて互いに語り合ってこう言っている。『さあ、どんなことばが主から出るか聞きに行こう。』

 今度は、バビロンのケバルのユダヤ人たちに対する預言です。これまでエゼキエルが、神の預言を身振り手振りで、実演をもって彼らに伝えましたが、それが実際にその通りになりました。それで彼らが、「次に何をエゼキエルが語るか、聞いてみよう。」と言っています。

33:31 彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。彼らは、口では恋をする者であるが、彼らの心は利得を追っている。33:32 あなたは彼らにとっては、音楽に合わせて美しく歌われる恋の歌のようだ。彼らはあなたのことばを聞くが、それを実行しようとはしない。33:33 しかし、あのことは起こり、もう来ている。彼らは、自分たちの間にひとりの預言者がいたことを知ろう。」

 好奇心をもって聞いていますが、実際に自分を捨てて、神に聞き従う生活を選ぶのではありません。自分自身の生活を差し置いて、神の預言を聞いています。神の裁きが語られても、それが今の実際の個人生活を変えるほどのものではないと思って聞いています。

 御言葉を喜んで聞いているけれども、実際の生活を変えようと思って聞いているでしょうか?それほどの心の備えを持って、聞いているでしょうか?「今日、語られることは一体何だろう?」と思って好奇心は持っているかもしれないけれども、基本的にそれを聞いて、自分の生活を変えるという心積もりがなければ、ここに書かれているユダヤ人たちと何ら変わらないのです。

2A 主の牧場 34
 次は、牧者、羊飼いたちに対する預言です。

1B 牧者 1−16
1C 自分を肥やす者たち 1−10
34:1 次のような主のことばが私にあった。34:2 「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ。自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。

 この牧者はすべての指導者、ことに王たちのことを話しています。彼らが治めている者たちが羊であり、彼ら自身を牧者と呼んでいます。

 そしてこの言葉が、新約聖書において「牧師」という、教会における一つの賜物また職務として与えられています(エペソ4:11)。私がアメリカで訓練を受けた「スクール・オブ・ミニストリー」の標語がこれでした。「牧者は羊を養わなければならないのではないか。」です。

 政治的な指導者であれば、「養う」とはもちろん国民生活の安全と保障を確保することです。霊的な指導者、そして教会の監督であればそれは御言葉による養うことです。使徒行伝20章において、エルサレムに向かう使徒パウロが、エペソにいる長老たちをミレトに集めました。そして、彼らに対して「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(28節)」と言いました。また、「みことばは、あなたがたを育成(32節)」すると話しました。したがって、エペソ書4章には、「牧師また教師(11節)」と記されています。牧師である事と御言葉を教えることは、切っても切り離すことのできない関係なのです。

 したがって、私たちが牧師に対して期待しなければならないのは、御言葉による養いです。自分が十分に御言葉によって養われ、整えられ、良い働きのための奉仕者になることです。キリストにあって成長し、十分に成熟することです。

34:3 あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。34:4 弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

 牧者が羊の必要に気を使わずに、自分自身を養うことばかりを考えている時、必ず羊を自分の食い物にしていくようになります。自分が主に対して仕え、人々に仕えることを忘れる時、かえって彼らに仕えられることを強要する暴君となります。イエス様は、「あなたがたの間で偉くなりたい者は、みなに仕える者になりなさい。(マルコ10:43」と言われました。

 最近、私の宣教師である友人が開拓を始めた教会に、アメリカから宣教担当の牧師が訪問しました。そして既存の日本の教会の人々が、その宣教担当の牧師が礼拝前にじゅうたんに掃除機をかけている姿を見て、驚いたそうです。招かれた牧師は、控え室なるものを要求するのが通例なのに、信徒たちといっしょになって礼拝の準備をしているというのです。けれども、これが本来の牧師の姿です。

34:5 彼らは牧者がいないので、散らされ、あらゆる野の獣のえじきとなり、散らされてしまった。34:6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

 ユダの王たちが自分の民の牧者となっていなかったため、イスラエルの人々は散らされてしまいました。捕虜として連れて行かれ、離散の民となりました。

34:7 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。34:8 わたしは生きている、・・神である主の御告げ。・・わたしの羊はかすめ奪われ、牧者がいないため、あらゆる野の獣のえじきとなっている。それなのに、わたしの牧者たちは、わたしの羊を捜し求めず、かえって牧者たちは自分自身を養い、わたしの羊を養わない。34:9 それゆえ、牧者たちよ、主のことばを聞け。34:10 神である主はこう仰せられる。わたしは牧者たちに立ち向かい、彼らの手からわたしの羊を取り返し、彼らに羊を飼うのをやめさせる。牧者たちは二度と自分自身を養えなくなる。わたしは彼らの口からわたしの羊を救い出し、彼らのえじきにさせない。

 主は、ユダの王を退けられました。エコヌヤつまりエホヤキムに対して、主はこう言われました。「この人を『子を残さず、一生栄えない男。』と記録せよ。彼の子孫のうちひとりも、ダビデの王座に着いて、栄え、再びユダを治める者はいないからだ。(エレミヤ22:30

2C 主ご自身による養い 11−16
34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。

 人間の王が羊をこれだけ虐げたので、今度は主ご自身が牧者となってくださいます。具体的にはどのように行なわれたでしょうか?ご自分の子イエス・キリストを遣わすことによってです。イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。(マタイ15:24」と言われました。そしてイエス様は、ご自分のことを99匹の羊を置いても、一匹の失われた羊を捜し出す羊飼いに例えられました(ルカ15:4)。そしてはっきりと、「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11」と言われました。他のユダヤ人宗教指導者とご自分を比べて、そう言われました。

34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。

 この「雲と暗やみの日に散らされた」というのは、ユダヤ人が世界に離散したことを言っています。離散は雲の日、暗やみの日です。けれども、主は彼らを連れ戻してくださいます。

34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。・・神である主の御告げ。・・

 ここからが回復の預言です。イスラエルの山々そのものが牧場になると主は言われます。それだけ、イスラエルの地が豊かになり、そこでイスラエル人が安心して過ごし、ちょうど牧場の羊のようにして憩わせてくださいます。

 イスラエルの牧者本人であったダビデが、このように歌いましたね。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。(詩篇23:1-2」私たちは、この養いを主から受けているでしょうか?

34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

 牧者の働きは、羊を養うだけでなく羊を守ります。「肥えたものと強いものを滅ぼす」とあります。教会の中に実際に、狼が来ます。信者を装いながら、信徒たちを食い物にしたり、好色の対象にしたりします。また「教えの風(エペソ4:14」が吹いてきます。キリスト教会に入り込んでくる流行です。これらから牧者は羊を守らなければいけません。

2B 羊の群れ 17−31
1C 羊の選り分け 17−24
34:17 わたしの群れよ。あなたがたについて、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄やぎとの間をさばく。34:18 あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。その牧場の残った分を足で踏みにじり、澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。34:19 わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。

 今度は、牧者らの問題ではなく群れの問題です。ここまで「牧者」の問題を読んできて、自分の教会の牧師やキリスト教会の指導者のことを心で裁いていた人はいないでしょうか?主は、同じように群れの中にも、悪い牧者と同じことをしている人たちがいると責めておられます。

 私たちが教会において互いに仕えることを忘れる時、自分自身のことを追い求めて、他の人への尊敬を忘れる時(ピリピ2:3,21)、牧師や長老など、立てられている指導者に尊敬を払わない時(1テモテ5:17)、そして自分自身が罪を犯して兄弟たちのつまずきとなるとき、この時に、主ご自身の群れを痛めつけることになるのです。

 ところで、ここの箇所はイエス様が再臨されあとに、世界中の国々の人々が集められて、羊と山羊により分けるという、イエス様が語られた言葉の背景であります(マタイ25:32)。そこでは、弱っている人、貧しい人、牢にいる人に対して、主に対するように助けたかどうかで、御国か地獄かの行き先が決まります。弱っている人を助けるのは、牧師だけの働きではなく、互いが行なっていくことです。

34:20 それゆえ、神である主は彼らにこう仰せられる。見よ。わたし自身、肥えた羊とやせた羊との間をさばく。34:21 あなたがたがわき腹と肩で押しのけ、その角ですべての弱いものを突き倒し、ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、34:22 わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。

 主は、まことの信仰者とそうではない者たちを分けられます。教会の中でも主はこれを行なわれますが、終わりの日、ユダヤ人の中で主はこれを行ない、残された民を清め、救い出してくださいます。

34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。

 主は先ほど「自分でわたしの羊を捜し出す」と言われましたが、それは神の子であり、ダビデの子であるメシヤ、キリストによってです。「ダビデ」と書かれているので、実際のダビデが復活して、イスラエルの君主となると解釈する人たちもいます。けれども、神ご自身であられ、かつダビデの末裔であられるキリストのことをここは指していると私は考えます。

 けれども、ダビデ本人は良い牧者であり、キリストを指し示す人でした。詩篇78篇に「主はまた、しもべダビデを選び、羊のおりから彼を召し、乳を飲ませる雌羊の番から彼を連れて来て、御民ヤコブとご自分のものであるイスラエルを牧するようにされた。(70-71節)」とあります。彼は、少年の頃、羊飼いをしていたので、どのように弱っている人を助け、痛んでいる人を直し、また狼から守るべきなのかを知っていました。同じ心で彼は、王となってからも人々に仕える者となったのです。このダビデのような存在、いやダビデ以上にはるかに優れた方が、イスラエルとそして世界の王となり、牧者となってくださいます。

2C 国の平和 25−31
34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。34:26 わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。34:27 野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。

 このような平和と繁栄の姿を、これからの預言で主は詳しく明らかにされます。36章から39章までがその部分です。イスラエル人が帰還するに当たって、荒野が農地となり、廃墟は町々となり、その土地が回復することを約束してくださっています。そして骨々がつながり、肉を持ち、霊を受けるとして、国が復活します。さらに、諸国に取り囲まれて、攻撃される時に、主が戦ってくださり、彼らを滅ぼされます。

34:28 彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。34:29 わたしは、彼らのためにりっぱな植物を生やす。彼らは、二度とその国でききんに会うこともなく、二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。34:30 このとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、彼らイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・34:31 あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。・・神である主の御告げ。・・」

 彼らの復興の至りつく所は、霊的な回復です。「わたしが主で、彼らがわたしの民となる」という人格的な関係を回復することです。御霊が彼らに降り注がれて、そうなることをエゼキエル36章から39章が教えています。

3A セイル山への報復 35
 そして次、35章ですが、ここは「セイルの山」に向けた預言です。セイルは死海の南の地域であり、エドムのことです。なぜここに、エドムへの預言があるのでしょうか?イスラエルの回復がこれから明らかにされていく時に、なぜエドムがここにあるのか。

 それは、36章にイスラエルの山々に対する預言があるからです。今はイスラエルの山が荒れ果て、セイルが喜んでいるが、今度はセイルが荒れ果て、そしてイスラエルの山々に木々が植えられるという対比があるからです。

1B 廃墟となる町々 1−4
35:1 次のような主のことばが私にあった。35:2 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、35:3 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。35:4 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。

 エドムに対する預言は、エレミヤ書においても詳しく預言されており、そしてエドムだけに絞って預言しているオバデヤ書があります。その全てが、永遠の荒廃と廃墟を預言しています。事実、今のヨルダンの南部、死海の南から紅海に接するアカバの町にかけて廃墟になっています。当時の主要な都市であったテマンも、そして首都であったボツラも今は何もありません。

 エドムはバビロンの征服を受け、またメディヤ・ペルシヤからも攻められ、そして彼らはユダヤ地方に動きましたが、マカバイ家のヨハネ・ヒュルカノスによって、紀元前162年に強制的にユダヤ教に改宗させられました。

2B 執拗な敵意 5−9
35:5 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。35:6 それゆえ、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・わたしは必ずおまえを血に渡す。血はおまえを追う。おまえは血を憎んだが、血はおまえを追いかける。

 すでにエゼキエル書25章で、エドムの問題を取り扱いましたが、それは「いつまでも続く敵意」です。エドムの父祖エサウが、ヤコブによって長子の権利と父イサクからの祝福を奪い取られたことを知って、父が死んだ時には弟を殺そうと思いました。この感情は、基本的に子孫たちに受け継がれて、それがいつまでもいつまでも彼らの心の中から消えることはなかったのです。

 エドムは、いつまでもイスラエル人に打ち勝つことはできず、イスラエルがいつも強い国であったために、彼らはいつまでもその怨念を抱き続け、機会があれば仕返ししてやりたいと思っていました。そして、エルサレムがバビロンによって滅ぼされた時に、自分たちはユダと同盟を結んでいたにも関わらず、ユダに攻め込んできたのです。

 このような憎しみ、いつまでも消えることのない憎しみは、主に忌み嫌われています。特に自分が被害者である、弱者であると強く感じている時、この感情に陥ります。自分たちが正しく、そして憎しみを持つのは当然の権利だと考えるからです。単に憎しんでいて、それはいけないことだと葛藤を覚えているのと違うからです。

 ヘブル書において、エサウのようにならないようにしなさいという戒めのところに、苦みついての注意があります。「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、(ヘブル12:15

35:7 わたしはセイルの山を荒れ果てさせ、廃墟とし、そこを行き来する者を断ち滅ぼす。35:8 わたしはその山々を死体で満たし、剣で刺し殺された者たちがおまえの丘や谷や、すべての谷川に倒れる。35:9 わたしはおまえを永遠に荒れ果てさせる。おまえの町々は回復しない。おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。

 エドムが昔、荒廃してしまっただけではなく、将来においても荒廃した地になります。終わりの日に、ユダヤ人の人たちが、荒らす憎むべき者が聖所に入るのを見て、この地域に逃げます。そして、ユダヤ人を滅ぼすべく反キリストを先頭とする軍隊がやって来ます。けれども、ボツラに主が来られることをイザヤは預言しています。そしてこれらの敵と戦い、イエス様の衣には返り血によって真っ赤になっていることを伝えています(63:16)。

3B 主の土地の占領 10−15
35:10 おまえは、『これら二つの民、二つの国は、われわれのものだ。われわれはそれを占領しよう。』と言ったが、そこに主がおられた。35:11 それゆえ、・・わたしは生きている。神である主の御告げ。・・おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。

 エドムが滅ぼされる、もう一つの理由は彼らの貪欲です。「二つの民、二つの国」とは、北イスラエルと南ユダのことです。それぞれ、アッシリヤとバビロンに滅ぼされました。そこで彼らがそこは我々の土地であると言って、占領しようとしたのです。

 本人たちは被害者だと思っていますが、実際上は加害的行為を行なっているのです。自分が差別されていると思っているけれども、そう言いながら実は自分が他の人を差別しています。そして、自分が被害者であるというのを隠れ蓑にして、あらゆる貪りも行なうのです。

35:12 おまえはイスラエルの山々に向かって、『これは荒れ果てて、われわれのえじきとなる。』と言って、侮辱したが、主であるわたしがこれをみな聞いたことを、おまえは知るようになる。35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。

 イスラエルの山々に対しての侮辱は、主ご自身に対する冒涜でありました。主が愛し、これは自分のものであると言われている物や人を侮るなら、主はご自分が侮られたと受け止められます。パウロがキリスト者らを迫害していた時、主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:5」と言われました。

35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。

 主は報復の神です。自分たちがした通りのことをもって、主は彼らに報いられます。だから、私たちは裁きを主に委ねなければいけません。ローマ12章の最後には、悪に対して善をもって報いなさい、そうすることによって相手の頭に炭火を積むことになる、ということが書かれています。

 いかがでしょうか、主がご自分の羊の群れをご自分で救い、養うという預言が始まりました。そして今、貧しく、今、弱っている人々を助け、自分を虐げている者たちを裁く働きを行なってくださいます。私たちが罪の中に陥って、神の懲らしめを受けている時、私たちも彼らと同じように、悔い改めて立ち返るならば、神は同じ回復を私たちの内で始めてくださるのです。