エゼキエル書36章 「土地の回復」

アウトライン

1A イスラエルの山々 1−15
   1B 所有した国々への報復 1−7
   2B 豊かさの回復 8−15
      1C 生産力と人口増加 8−11
      2C 失われることのない民 12−15
2A イスラエルの家 16−38
   1B 主の聖なる名 16−32
      1C 民が汚した土地 16−21
      2C 御霊による清め 22−27
      3C 恵みによる恥辱 28−32
   2B 諸国の民への証し 33−38
      1C 国の豊かさ 33−36
      2C 数多くの人々 37−38

本文

 私たちは今回の聖書預言の学び会において、エゼキエル書36章から39章までを学びたいと思います。学び会全体の主題は、「エゼキエルの見た将来の幻」です。そして副題は「イスラエルの回復」です。

 36章をこの時間読みたいと思いますが、その前にエゼキエル書についてご紹介したいと思います。時は、エルサレムがバビロンによって破壊された紀元前586年前後です。エゼキエル書12節には、「エホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。」とあります。ユダヤ人がバビロンに捕え移されたのは、主に三度ありますが、第一次バビロン捕囚は紀元前605年に起こりました。あのダニエルは、この捕囚の民の中にいました。

 そして第二次バビロン捕囚が597年で、ユダの王エホヤキンが捕え移されています。この時にエゼキエルも一緒に捕え移されています。そして第三次が紀元前の586年で、この時エルサレムの神殿が破壊されました。

 エゼキエルは祭司です。そこで、彼の見た幻は非常に神々しいものでした。彼が主によって預言者に召される時、主の御座のところにいるケルビムの鮮やかな幻を見ました。主の宮にある神の栄光を、彼は間近で見たのです。そしてエゼキエル書は、神の国に再建される新しい神殿の幻で終わりますが、神の御座の幻から神の宮の幻に至る、神の栄光の物語です。エゼキエル書の中に、何十回も「このことよって、あなたがたは(あるいは、彼らは)わたしが、ヤハウェであることを知る。」という表現が出てきます。

 そしてエゼキエル書は、大きく真っ二つに分けることができます。彼が預言者として神に召されてから、4章から32章まで主がエルサレムをバビロンを通して破壊される、神の裁きの宣告があります。彼の預言は粘土板にエルサレムを描き、そして自分は左脇になって390日横たわり、右脇を下にして40日横たわれ、という命令を主から受けました。エルサレムがバビロンによって破壊されることを、実演をもって示したのです。ですから最初から最後まで、ずっとこの破壊を主は予告されましたが、24章の最後で興味深いことに主は彼の口を閉ざされます。「あなたはのがれて来た者に口を開いて言え。もう黙っていてはならない。(26節)」ちょうど、バプテスマのヨハネの父ザカリヤが、ヨハネが誕生するまで口が利けなくなったように、です。もうエルサレムに対して主が語る言葉を失ったからです。

 けれども、33章にて実際にエルサレムの破壊から逃れて、エゼキエルたちがいるケバル川のほとりのところまでやって来て、それからエゼキエルは堰を切ったように、エルサレム、そしてイスラエルに対する預言を語ります。これが後半部分、33章から48章までです。もう既にエルサレムが破壊されたのを確認した今、主は未練がましく過去の罪を持ち出すことなく、イスラエルを元の姿に戻されることを約束する、赦しと慰めの言葉を語られています。

 34章には、牧者に対する主の預言があります。ユダの王たちがその牧者たちです。彼らは羊であるイスラエルの民を養わなければならなかったのに、むしろその羊をほふって、自分を肥やしていたと主は咎められます。そこで主はこれらの牧者らを退け、「わたしが、独りでこの羊の群れを飼う。(11節参照)」と言われました。そうです、主ご自身の御子イエス・キリストがその牧者です。主はご自分を「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(ヨハネ10:11」と言われましたね。そしてエゼキエル34章では「わたしは、彼らに君主ダビデを起こす。(23節参照)」と言われました。ダビデの子であられるメシヤが牧者となられ、そしてイスラエルの土地そのものが牧場となる、と言われました。

 それで36章から、イスラエルの土地そのものに対する神の預言が始まります。主がこの地をご自分の民が安心して憩うことのできる、豊かな所とすると約束してくださっています。そこで、36章のメッセージ題は「土地の回復」です。

1A イスラエルの山々 1−15
1B 所有した国々への報復 1−7
36:1 人の子よ。イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ。主のことばを聞け。36:2 神である主はこう仰せられる。敵がおまえたちに向かって、『あはは、昔からの高き所がわれわれの所有となった。』と言っている。36:3 それゆえ、預言して言え。神である主はこう仰せられる。実にそのために、おまえたちは、回りの民に荒らされ、踏みつけられ、ほかの国々の所有にされたので、おまえたちは、民の語りぐさとなり、そしりとなった。36:4 それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、また、回りのほかの国々にかすめ奪われ、あざけられて見捨てられた町々に、こう仰せられる。36:5 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々、エドム全土に告げる。彼らは心の底から喜び、思い切りあざけって、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。36:6 それゆえ、イスラエルの地について預言し、山や丘、谷川や谷に向かって言え。神である主はこう仰せられる。見よ。おまえたちが諸国の民の侮辱を受けているので、わたしはねたみと憤りとをもって告げる。36:7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは誓う。おまえたちを取り囲む諸国の民は、必ず自分たちの恥を負わなければならない。

 ここの箇所は35章の続きです。35章には、「セイルの山(2節)」に対する主の言葉があります。セイルの山とは、今の死海の南、ヨルダンの南部に位置する山々です。かつてエドム人が住んでいた所です。父祖がヤコブの兄、エサウです。主は、エドムの地に対してわたしがそれを荒廃した地とし、町々を廃墟とすると言われました。事実、バビロンがエルサレムを滅ぼしてから、しばらくしてエドムをも征服しました。その後ペルシヤがここを攻め、エドム人らはユダヤの地域に移住しました。そこでイドマヤ人と呼ばれ、マカバイ家の一人、ヨハネ・ヒュルカノスが紀元前162年に、彼らを強制的にユダヤ教に改宗させました。その子孫の一人があのヘロデ大王です。

 そしてエドムの首都ボツラを始め、その地域にある町々が完全な廃墟となりました。そして今も廃墟です。ペトラなどの世界遺産になっている遺跡はありますが、人々が住んでいる所ではありません。

 なぜ主がそんなことを行なわれたのでしょうか?355節には、「いつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。」とあります。バビロンがイスラエルとその周囲の地域に勢力を伸ばしていた時、エドムはユダと同盟を結び、共にバビロンに対抗したはずでした。けれども、いざバビロンがエルサレムを包囲し、それを破壊すると彼らは何と、ユダヤ人のために戦うのではなく、傍観して何もしませんでした。むしろ、ユダヤ人に対する憎しみを露にして、彼らが倒れたことをあざ笑ったのです。

 その355節の「いつまでも敵意を抱き」というのが大事です。エドム人の父祖エサウが、弟ヤコブに対して殺したいと憎しみを抱いたのは、一過性のものではありませんでした。子孫が代々に渡って、いつまでも怨念を抱き、何か機会があればその復讐を晴らしたいと思っていたのです。いつまでも抱いている敵意や憎しみは、主の前に汚れたものです。私たちは気をつけなければいけません。

 そして、もう一つ、エドム人は敵意を抱いただけでなく、捕虜となって連れていかれたユダヤ人たちの地に対して貪りました。それが3510節に書いてあり、そして私たちが今読んだ、361節から7節までに書かれてある言葉です。「この地は、私たちのものになった」と喜んでいます。彼らは自分たちがユダヤ人に虐げられていると思っていましたが、実はその敵意の中で自分たちが彼らを踏みにじる加害者となっていたのです。

 これも私たちの世界でよく起こることです。自分は弱者だと思っている人が、実は強者だと思っている相手に対して攻撃的になり、被害者だと思っていながら加害的な行為を働きます。いつまでも抱く敵意は、このように人を欺き、そして人に貪りさえも引き起こすのです。

 そこで主は、このことに対して強く反応しておられます。彼らのあざけりと貪りを、何度も何度も繰り返し指摘されています。何度も何度も「それゆえ(therefore)」と言われていますね。彼らの行ないに強く反応しておられるからです。

 なぜでしょうか?そこは、主ご自身の土地だからです。そして主がユダヤ人たちに与えられた土地だからです。主は、アブラハムに対してカナン人の地を与えると約束して以来、そこをご自分の土地とみなしておられました。レビ記2523節には、「地はわたしのものである」とあります。ユダヤ人たちに与えられたのですが、実の所有者は主ご自身であり、ゆえにエドム人の略奪はご自分が侵されたと感じておられるのです。

 同じように、主はキリスト者らに対する迫害も個人的に受け止められます。パウロは、キリスト者らに迫害を加えていましたが、ダマスコに行く途上で、主イエスに出会い、主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:5」と言われました。

 さて主は、十戒の中で「汝は殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」と命じられました。なぜそれらをしてはならないのでしょうか?それは、主は人にそれぞれ、生命、性、財産を個人的に賦与しておられるからです。そこに神から来る尊厳があり、主ご自身の所属があります。だから、人を殺したら、神ご自身をひどく傷つけたことになり、それゆえその者は死ななければならないという刑罰が伴うのです。そして女性を陵辱したら、それはその人に女という性を与えられた神の聖なる領域を侵したことになります。単に肉体が結合したのではないのです。そして財産も単に物が一人の人からもう一人の人へ移動したのではなく、本質的に主ご自身のものを盗んだことになるのです。

 だから、イスラエルの山々についても主は強く反応しておられるのです。その地を踏み荒らし、喜び、あざ笑っているエドム人に対して、強い怒りを抱いておられます。

 現代の人々は、イスラエルの地について「平和と土地の交換」という名の下で、平気でそれを切り分けるのを当たり前とします。従来の指導者らが、それを行なって来たからです。けれども、そこは私たち人間がいじくり回すようなご都合主義の土地ではないのです。第一義的に神ご自身の土地なのです。

 そうすると、多くの人々はこう反論します。「それは旧約の時代の話だ。新約においては、イスラエルに対する約束は本質的には意味を持たない。」そのように言う人々は、一つの点を見逃しています。それは「時代」です。神は、主イエス・キリストが十字架につけられ復活されたことによって、人々に対する取り扱いを変えられましたね?キリストが贖罪を成し遂げられたので、天の門は信じる者みなに開かれました。旧約の聖徒たちは陰府に下り、贖いが完成することを待っていましたが、今はそのまま天に入ることが許されています。

 けれども、その時代の変化、神の経綸の変遷を無視して、主が十字架の死と復活を遂げられた後も、神殿で動物のいけにえをささげる人々は絶えなかったのです。主が、ご自分の働きかけを一つの時代が次の時代に移そうとされているのに、それにまだ気づかない人々がいつもいます。

 終わりの日には再び時代が変わります。これまでは霊的に、教会を通してご自分の栄光を表しておられましたが、イエス様が再び戻って来られてからは、神の国を打ち立てられ、目で見える形で、王の王、主の主として、世界を君臨されます。その時には、教会で現われている御霊の賜物、異言も知識も預言もなくなるとコリント第一13章に書いてあります。主の働きかけが変わるのです。時代が変わるのです。

 主ご自身は、御国の福音が全世界に広がって、それから終わりが来ると言われました(マタイ24:14)。また、使徒パウロは、イスラエルの一部がかたくななのは、異邦人の完成の時までであり、その後はイスラエルが救われる、と言っているのです(ローマ11:2526)。どうでしょうか?世界宣教の事情に詳しい方なら、ここ十数年で福音が国々や民族に伝わるその速度が急速に上がっていることをご存知でしょう。インターネットによって情報量が飛躍的に伸びたように、福音も飛躍的に広がっているのです。そしてすべての民族と国語に至りつく勢いを今、持っています。

 つまり教会が地上における使命を全うして、天に引き上げられる時が近づいているのであり、だから神が再びイスラエルを取り扱われる時も近づいているのです。「イスラエルはもう関係がない。」というのは、人間的な言い方をしますと「時代遅れ」なのです。これから見る、エゼキエルの幻の預言は、主が確かにイスラエルを再び取り扱われる動きを、その胎動を、今、私たちの目の前で確認することができるのです。 

2B 豊かさの回復 8−15
1C 生産力と人口増加 8−11
36:8 だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。36:9 わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。36:10 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。36:11 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう 

 この預言をエゼキエルが語ったのは、紀元前585年頃です。今から2595年前になります。けれども、この箇所とそして近現代に起こった、あのパレスチナでの出来事があまりにも酷似しています。シオニズム運動と呼ばれるものです。

 主は、「イスラエルの山々が枝を出し、実を結ぶ」と言われます。それは、イスラエルの民が帰ってくるからだ、と言われます。そして彼らが帰還することによって、イスラエルの地は耕され、種が蒔かれます。

 今、みなさんがイスラエルに行かれたら、そこが乾燥した土地であることに気づきます。南に下るとネゲブ砂漠があり、基本的にイスラエルは荒野であることが分かります。ところが、その砂漠のど真ん中に、突然緑が見えてきます。それはみな、イスラエルの人々が最先端の農業技術を使って、その砂漠を、世界で有数の農業国にするほどの生産力のある土地に変えてしまったからです。

 そしてイスラエルは結構、木々が多いではないかと言われる方もいらっしゃると思います。けれども、その一本一本が植林であることをご存知でしょうか?一本、その証拠に、パレスチナ自治区とイスラエルとの境界は、「グリーン・ライン」と呼ばれています。その緑続きの土地が、パレスチナ自治区に入る途端、荒地になり、またイスラエルの領域に入る途端、緑が広がっていくのです。

 このようになったのは、シオニズム運動が始まったからです。19世紀半ばから始まりましたが、主にロシアからの帰還民でした。彼らが理念として掲げ、情熱を注いだのは農地開拓でした。当時は、オスマン・トルコがそこを支配していました。土地税を、木一本、一本に対して課したので、地主は木々を抜いてしまったのです。そのため、パレスチナの地は荒れ放題で、また沼地があるのみでした。そこに帰還民がやってきて、荒地を開墾し、マラリアと戦いながら沼地から水を抜いていきました。

 主にロシア方面からの帰還民ですから、彼らは社会主義の理想を持っていました。そのほとんどが神を信じていません。だから、今、エゼキエルがここで語っている預言を自分たちが実現させるという宗教的動機は何一つなかったのです。そして不思議なのは、社会主義であればどの国も失敗しています。ベトナムや中国、また旧ソ連連邦の国々に行ったことのある人々はお分かりになるでしょうが、土地を大事にする概念は何一つありません。人々は平気でごみを捨てます。そして他の人がこしらえたものを自分たちが奪い取る発想はするけれども、自分たちの努力で創り上げるという発想はこれっぽっちもありません。

 だから主は、「このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。」と言われるのです。まったく人間の作為が入っていない、神ご自身の主権と摂理によってこのことを成し遂げてくださったのです。

 そして、農地だけでなく町々に人が住みつくとあります。イスラエルの空の入口はベングリオン空港ですが、テルアビブの郊外にあります。このテルアビブは何もないところだったのを、帰還したユダヤ人が建て上げた近代都市の一つです。今や、ほぼ40万人を有する大都市になっています。

 ところで、ここのエゼキエルの預言、36章以降のエゼキエルが見た幻を、どのように解釈するかでいろいろ意見が分かれています。一つは、当時エゼキエルが生きていた頃のバビロンからの帰還において実現した、というものですが、これはもちろん歴史を見ればこのようになっていないことを私たちは知っています。

 そこで、もう一つ、多くの人々はここを霊的な象徴であると解釈します。例えば木が植えられるのは、私たちの霊的成長とその豊かな霊的実を表す、というものです。もちろんそうした適用も良いでしょう。けれども、他の数多くの預言が歴史の中でその通りに実現しているのを見る中で、なぜこの箇所だけを象徴的に解釈するのでしょうか?

 そしてさらに、ここの預言はキリストが再臨された後に実現するものだという解釈があります。実は最も宗教的なユダヤ教超正統派の人々が、シオニズムの歴史の中で最もイスラエル建国に懐疑的であり、反対してきた理由がこれでした。メシヤが来臨された後に約束の地は回復するのであって、その前に起こらないというものです。そして神の律法による国が建てられなければならず、世俗的な民主主義政府であってはならない、というものです。

 究極的にはこの解釈は正しいです。主が再臨されて神の国を建てられる時に、究極的に世界離散のユダヤ人が帰還して、そして荒地に川が流れるなど、イザヤが預言した預言が成就します。以前はもっと多くの聖書教師、例えば、J・バーノン・マジー(Vernon McGee)もしばらくこの解釈をしていました。 

 けれども、エゼキエルが見た幻はもっと突っ込んでいます。神が一方的に、ご自分の主権によってこのことを行なわれることを強調されます。そして36章、37章、そして3839章を読むにしたがって、これらのことは一度に、同時に行なわれるのではなく段階的に行なわれることを知ることができます。特に、土地や国が回復しても、まだ神がまことの救い主であることを知らないイスラエル人が、御霊によって新たに生まれる姿を描いています。不信仰の状態なのに、約束の地に戻っているのです。霊的な回復がまだ行なわれていないのに、物理的な回復が先に行なわれるのです。

2C 失われることのない民 12−15
36:12 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。36:13 神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている。』と言っている。36:14 それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。・・神である主の御告げ。・・36:15 わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。・・神である主の御告げ。・・」

 ユダヤ人の歴史を見ますと、この土地で、これでもかと言わんばかりに人々が殺されていく姿を見てしまいます。バビロンがエルサレムを包囲して、それを破壊する時はもちろんのこと、その後、ペルシヤ時代を経て、ギリシヤ時代になってからギリシヤの王、アンティオコス・エピファネスによって大量虐殺が行なわれました。そして聖書外典のマカバイ記、ヨセフスのユダヤ戦記を読みますと、それ以降のユダヤ人がどれだけ戦い、そして特にローマによって人々が死んでいったか知れません。まさに、この地は「人間を食らう」地であったのです。

 そこで主は、非常に強い語調で、「もうおまえの国民の子を失わせてはならない。」と念を押しておられるのです。

2A イスラエルの家 16−38
 ここまでは預言の相手、預言の対象が「イスラエルの山々」でした。そして16節から、「イスラエルの家」すなわちイスラエルの人々に対する預言になります。

1B 主の聖なる名 16−32
1C 民が汚した土地 16−21
36:16 次のような主のことばが私にあった。36:17 「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。36:18 それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。

 主がご自分の所有とされたその地を汚していたのは、イスラエルの民自身でありました。ここに「さわりのある女のように汚れていた」とありますが、レビ記15章に女の生理によって、その期間汚れるという規定があります。つまり、血がたくさん流されるということです。実際の殺人や、また人を死に追い込むような不正な裁判もありましたが、偶像による流血を神は最も忌み嫌われました。

 単なる偶像礼拝ではありません。その偶像の前で淫らなことを行ない、それで望まない妊娠をします。その子が産まれたら、モレクの偶像に捧げて火で燃やすのです。これをカナン人らが行なっていたから、主はイスラエル人を通して彼らを聖絶することを決められたのです。ところが、なんとイスラエルとユダの民がこれを行ない、なんとエルサレムの中でもそれを行なったのです。しかも、神殿礼拝を行いながら、同時にこの偶像礼拝を行なっていたのです。それで主は彼らに憤りを注がれました。

36:19 わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。36:20 彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。

 イスラエルの民は、世界に散らされても、なおもそこで主の名を汚すようなことを行ないました。そしてその国々の人々は、彼らが信じるとされる神を見下すようになったのです。ちょうど、私たちキリスト者が汚れたこと、また不正なことを行なって、未信者の人々に侮りの心を起こさせるのと似ています。

36:21 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。

 ここから「わたしの聖なる名を惜しんだ」という言葉が続きます。

2C 御霊による清め 22−27
36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・

 ここには、第一に、イスラエルの回復を見るときに知っていなければいけない大前提、そして第二、主が人々に救いを与えられる時、知らなければいけない大前提が書いてあります。それは、「人の行ないではなく、ただ神の恵みのゆえ」という真理です。

 イスラエルのことを批判する人たちには、二つの点を根拠にします。一つは、「イスラエルを持ち上げ過ぎる」ということです。イスラエルが何とすばらしいのか、ということを論じて、それでキリストご自身の栄光が見えなくなる、という批判です。イスラエル信奉者になっている、と言います。

 もう一つは、「イスラエルは悪いことをたくさん行なっている。」ということです。イスラエルについての報道はイスラエルに不利なように相当歪められているのですが、それでも悪いことをたくさん行なっています。それはイスラエル軍がパレスチナ人に酷いことを行なっている、というありきたりのことではなく、先ほどから話している霊的な復興を見ることができないという事実があります。先ほど話した偶像礼拝と幼児殺しですが、特にテルアビブは「罪の町」として世界の五大都市に数えられています。売春、中絶、そしてオカルトを行なっている若者は非常に多いです。

 そして何よりも、イエス様を自分のメシヤ、救い主として心に受けている人は非常に少ないです。イスラエル人の自己矛盾している、イエスを信じないので大きな罪を犯している、といきり立って、私たちのミニストリーの掲示板に書き込んだ人がいました。それは事実です。しかし、その人が見当違いしているのは、そのようにユダヤ人がかたくなになっているのは、まさに神ご自身によってである、ということです。神の不思議なご計画、私たちの思いを超えたところにある神の御思いがあるのです 

 神は、イスラエルに何か良いものがあるから、彼らを約束の地に集められるのではありません。何と書いてありますか、「わたしの聖なる名のためである」です。主が、ご自分の栄誉にかけて選ばれたイスラエルが、イスラエルによって神の御名が侮られているので、それで彼らを約束の地に集めておられるのです。シオニズム運動を起こして、イスラエルを建国して、数度の戦争に連勝して、ああ何とイスラエルはすばらしいのか!・・・では全くないのです。神を信じていない彼らが、なぜか神の御言葉通りのことを行ない、自分たちの土地を耕し始め、町々を立て、人口が増えるということを行なってしまった。だから、これは神が行なったとしか考えられない、と、神をあがめるように、神がわざと仕向けておられるのです。「諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。」とあります、異邦人がこの方こそ生きておられる神なのだと認めるためなのです。

 神の救いについて、非常に大切な教理の一つに、「神の選び」があります。神が、私たちが生まれてくる前から、いや世界の基が置かれる前から、キリストにあって、ご自分の子にしようと私たちを選び、そうお定めになった、という真理です。私たちは、自分の意志でイエス様を、自分の救い主として信じ、この方を心に受け入れます。けれども、このことも実は神の主権の中で行なわれたことであり、実は神が私たちを選んでおられたからだ、という教えです。

 この教理を教えるために、使徒パウロは、イスラエルの問題をローマ人への手紙9章から11章までで取り扱っています。選びの民であるはずのイスラエル人の多くがイエスをメシヤとして受け入れなかった。その不思議を説き明かしています。そこでパウロは、「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません。(11:1」と言いました。そして、「神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。(2節)」また、「神の賜物と召命とは変わることがありません。(29節)」と言いました。

 神は、途中でイスラエルを遺棄すると知っておられたら、初めから彼らをご自分の民に選ぶことはしなかった、ということです。イスラエルを放棄することなく、その救いを完成させると決めておられたから、彼らを初めに選ばれた、ということです。同じように、キリストにあって選ばれた者は、その救いを神が完成させると神は知っておられるから、私たちを選ばれたのです。イスラエルの行ないを見て、イスラエルへの神の選びはなくなったという人は、自分自身もその行ないによって、神は自分を見捨てられる、と信じなければいけません。

 いいえ、神は、私たちの行ないによって救うのではなく、一方的な憐れみと恵みによって救われるのです。その訳は、エペソ書16節を見ると、「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」とあります。神が恵みを注がれることによって、神の名がほめたたえられるようにするためです。

 だから、私たちはしばしば、あるすばらしい聖徒の記録を読みます。教会の中で、「この宣教師先生は、これこれのことを行なって、本当にすばらしい働きをしました。」と話します。けれども、良い行ないに注目するとどうでしょうか?栄光は神ではなく、その人本人に向いてしまうのです。神は、取るに足りない者、愚かな者、弱い者をあえて選ばれて、その人をキリストの似姿に変えられることによって、人ではなく神ご自身に栄光が帰されることを望まれます。だから、イスラエルを通しての神の主権を知ることは、非常に大事です。その主権にこそ、神の栄光が表れています。

36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。

 すばらしいですね、主は帰還した民に対して、いずれ御霊による新生を行なわれます。24節の「すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」というのと、25節以降の「新しい霊を授ける」との間には時間的なギャップ、時間差があります。まず不信仰の者たちを集め、そしてそこで恵みの御霊を注がれて、彼らを霊的にも救ってくださるのです。

 今のイスラエルは霊的に徐々に変わっています。イスラエルの最大の支援国であるアメリカが、自分の土地を勝手に分割しようとしていると感じています。自爆テロは分離壁によって激減し、ロケットをイスラエル領域に打ち込むハマスに対するガザ戦争も終わり、イスラエルは防衛的に、安全をかなり確保しました。それにも関わらず、なぜか世界はイスラエルに敵意を抱いているのです。あるラビは、新聞に「私たちはなぜ憎まれるのだ?彼らに私たちは何か悪いことをしたのか?」という叫びに近い意見を投稿しました。

 そのために、彼らの間にメシヤ待望の機運が生まれています。イスラエルは他の民主主義国と違うことに気づいています。アメリカのリベラル思想を持っている在米ユダヤ人、またイスラエルの人たちは、民主主義の原則に基づいて生きれば自由を確保できると思っていましたが、やはりユダヤ人には特別な何か違う原理が働いていると気づき始めています。それで、一般のイスラエル人たちの間に、「メシヤだけがイスラエルを救う。」という意見を持つ人が非常に増えているのです。そのメシヤがイエス様なのだ、というところまでにはまだ至っていませんが、これは大きな進歩です。神が彼らの心をそのように準備させてくださっています。

 そしてこの御霊による新生の箇所は、私たちがよく知っている、ヨハネ3章のニコデモとイエス様の対話の背景になっています。ニコデモは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。(3,5節)」と言われたイエス様の言葉をまったく理解できませんでした。そこでイエス様は、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(10節)」と詰られました。そうです、このように聖書、旧約聖書の中に御霊による新生が既に啓示されているのです。

 私たちは今エゼキエル書をちょうど学んでいますが、創世記からずっと順番に学んでいます。そしてイザヤ書、エレミヤ書と預言書に入っていますが、ますます思わされていることは、「福音がこれら預言書にはっきりと示されている。」ということです。ある人は、旧約と新約はまったく別物だ、と言い、酷い時には旧約の神と新約の神は違うのではないか、とさえ言います。

 とんでもないことです、旧約時代はまだ律法が支配していましたが、その律法と預言書の中に福音が啓示されていたのです。パウロは、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が啓示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、・・・(ローマ3:2122」と言いました。だから当時のユダヤ人指導者がイエス様を認めなかったのは、イエス様が真新しい神の啓示を与えたからではなく、ユダヤ人指導者が自分たちのモーセの律法、そして預言書をきちんと理解せず、聞き従っていなかったからです。 

 そして御霊による新生そのものについてお話したいですが、三つの点を主は示されています。一つは、「あらゆる汚れを清めてくださる。」ということです。レビ記を始めとして、主は汚れと清いものを区別する律法を与えられました。そして清められるための水洗い、家畜によるいけにえについての教えを与えられました。

 そしてその汚れは、心の内側から出てくるとイエス様は言われます。「内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ7:21-23」どうでしょうか、これを実感できている人には希望があります。自分はまったく汚れた者だ、どんなに努力してもこの汚れを取り除くことはできないと絶望している人は幸いです。

 なぜならば、イエス・キリストの血のみがその汚れを清めてくれることを悟ることができるからです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(1ヨハネ1:7」そして、私たちがキリストを信じることによって、神が与えてくださる御霊は、この洗いを行なってくださいます。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(テトス3:5-6

 そして御霊の新生についての第二点は、「新しい心」を与えることです。私たちが外側の行ないを変えようとしても決してできないものを、主は内側から私たちを変えられることによって、それを成し遂げてくださることです。エレミヤがこのことをモーセの時に結ばれた古い契約と対比させて、「新しい契約」と呼んで、こう説明しています。エレミヤ3131節から34節までです。

見よ。その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。・・主の御告げ。・・彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。・・主の御告げ。・・わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 これまでは律法が石に刻み込まれていました。けれども、新約の特徴は、心の中にそれを刻み込んでくださるということです。したがって、外側の行ないを変えようと努力するのではなく、内側からその力と願いを与えてくださる、という約束です。それはすべて、自分の内に御霊を神が住まわせてくださることによります。

 そして三つ目の点は御霊の新生によって、神の御言葉に従順になることができる、ということです。27節に「わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」とあります。恵みによって、信仰によって救われるのは、自分が好き勝手なことをすることができる自由が与えられることではありません。むしろ、これまで従えなかった神の命令を従うことができるようにしてくださった、ということです。イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15」と言われました。愛が自分を突き動かす動機になるのです。主を愛する愛のゆえに、その戒めを守りたいと願い、自発的に従順になることができる、というものです。

 私たちは自分の心に聞いてみなければいけませんね、今、主を愛しているから、キリストの戒めを守りたいと願っておられるでしょうか?それとも「本当はこれこれのことをしたいが、戒めがあるからすることができない。」という消極的なものでしょうか。使徒ヨハネは、神の「命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3」と言いました。 

3C 恵みによる恥辱 28−32
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。36:29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。36:30 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。36:31 あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。36:32 わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。・・神である主の御告げ。・・イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。

 御霊の新生を経たユダヤ人たちが、なおも主がその地を豊かにしてくださっているのを知って、それでかえって恥じる、という預言です。主が彼らに、「あなたがたの行ないによって辱めを受けよ」と言われているのは、この豊かさが完全に神の恵みであることを知るためです。豊かになることによって、自分がどこから来たのか、自分は一体どういう者なのかを忘れて、高慢になります。自分には何か良いものがあるから、こうなったのだと自惚れてしまいます。そうさせないために、初めがどうだったかを思い出させておられるのです。

 私たちが神の恵みに留まる時も同じです。神の恵みを教えている時、使徒パウロは、私たちが以前はどのような者であったかをエペソ2章で教えています。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3」どうでしょうか、こんなとんでもない罪人なのに神は、キリストとともに私たちを生かし、天の所にまで着けてくださったのです!

2B 諸国の民への証し 33−38
1C 国の豊かさ 33−36
36:33 神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。36:34 この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。36:35 このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。36:36 あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。

 今度は、イスラエル自身が主を認めるだけではなく、周りの諸国の民がイスラエルの土地の復興を見て証言します。イスラエルの霊的新生と共に、この預言の完成は将来を待たなければならないでしょう。まだ周辺諸国がイスラエルの神を認めているようにはなっていないからです。主が再臨されて、そしてイスラエルの地が完全に回復された時に、そこはエデンの園のようになり、その時に確かにそれは主がしてくださったのだ、と認めることができます。

 けれども、それを待つことなく、今、主が与えておられる徴を見て、そのわずかな証拠であっても主イエスを信じてください。主は、「見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ20:29」と言われました。

2C 数多くの人々 37−38
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 人口を増やしてくださる約束です。主が初めの人アダムに与えられた、そしてノアにも与えられた祝福である、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という命令が、アブラハムにも「あなたの子孫は、地のちりのように、空の星のようになる。」という約束をもって継承されました。その約束の実現です。

 主が牧者であり、イスラエルの地そのものが牧場であるという類型がエゼキエル34章にあることを先に話しましたね。ここも、牧場と羊の群れの例えです。「例祭のときのエルサレムの羊の群れ」とは、過越の祭りの時の羊の群れです。とてつもない数の羊がほふられます。

 この完全な成就はもちろんイエス様の再臨を待たねばなりませんが、今も著しい人口増加をイスラエルの中で見ることができます。2009年のイスラエルの人口は約741万人で、その中でユダヤ人は約559万でした。イスラエルが建国した1948年は86万人だけだったのです。

 いかがでしょうか?これらはすべて、この聖書の神がまことの神であり、主であることを示すためであり、イスラエル人だけでなく、諸国の民つまり、他の全ての人々が主を認めるためです。人間的に、イスラエルに反発するのも選択肢の一つでしょう。けれども、これだけ力強い働きは、天地を創造された主しかできようがないと、神の前にひれ伏す選択もあるのです。エゼキエルは、神の御座にある栄光を見る恵みにあずかりました。自分を神に明け渡した者にも、同じ恵みと特権が与えられます。

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