エゼキエル書36章 「先行する神の恵み − イスラエルの回復から」

アウトライン

1A イスラエルの山々 1−15
   1B 所有した国々への報復 1−7
   2B 豊かさの回復 8−15
      1C 生産力と人口増加 8−11
      2C 失われることのない民 12−15
2A イスラエルの家 16−38
   1B 主の聖なる名 16−32
      1C 民が汚した土地 16−21
      2C 御霊による清め 22−27
      3C 恵みによる恥辱 28−32
   2B 諸国の民への証し 33−38
      1C 国の豊かさ 33−36
      2C 数多くの人々 37−38

本文

 おはようございます。本日は、私たちをカルバリー西東京に招いてくださって、ありがとうございます。山東さんご夫妻は私たちの教会、ロゴス・クリスチャン・フェローシップに行かれましたが、私はそれぞれが用意した説教の主題に共通点を見つけました。これから私は、イスラエルの回復についてお話します。山東さんは、キリストの体なる教会について話しておられると思います。この二つの主題の共通項は、どちらも「神の所有の民」であるということです。イスラエルの民も、神に選ばれた民であり、教会もキリストにあって神に選ばれた者たちが集められた所です。今朝はイスラエルを話題にして語りますが、キリストにある者にとって無関係なものではなく、むしろ、私たちの信仰の歩みに密接につながっているものであります。

 みなさんは、エゼキエル書を読まれたことがあるでしょうか?とてもわくわくする書物です。一言でいうならば、「主の栄光」の書物と言うことができます。時は、エルサレムがバビロンによって破壊された紀元前586年前後です。エゼキエル書12節には、「エホヤキン王が捕囚となって連れて行かれてから五年目であった。」とあります。ユダヤ人がバビロンに捕え移されたのは三度ありますが、第一次バビロン捕囚は紀元前605年に起こりました。ダニエルは、この捕囚の民の中にいました。そして第二次バビロン捕囚が597年で、ユダの王エホヤキンが捕え移されています。この時にエゼキエルも一緒に捕え移されています。そして第三次が紀元前の586年で、この時エルサレムの神殿が破壊されました。

 エゼキエルは祭司です。そこで、彼の見た幻は非常に神々しいものでした。彼が主によって預言者に召される時、主の御座のところにいるケルビムの鮮やかな幻を見ました。主の宮にある神の栄光を、彼は間近で見たのです。そしてエゼキエル書は、神の国に再建される新しい神殿の幻で終わりますが、神の御座の幻から神の宮の幻に至る、神の栄光の物語です。エゼキエル書の中に、何十回も「このことよって、わたしが、ヤハウェであることを知る。」という表現が出てきます。

 私たち人間は、しばしば主の栄光を覆い隠します。人間が行なっていることによって、覆い隠します。罪によっても主の栄光は見えなくなりますが、「善い行ない」と言われているものによっても、覆い隠すことがしばしばあります。日本では「頑張ろう」という言葉が標語になっていますね。地震と津波の災害の後、その復興の速度に世界の人々は驚いていますが、その過程に神がおられることを認める人は少ないです。人の頑張りではどうしようもできないことを、神は津波と地震によって教えられたのに、いまだに人の努力によって救いを成し遂げられると思っています。このような人の営みをすべて取っ払って、「わたしこそが神なのだ」と言わしめる業を神は行われます。心をかたくなにしているイスラエルの民に対して、また諸国の民に対して、「このことによって、わたしこそが、主であることを知るようになる」と言われているのです。

 エゼキエル書は、大きく二つに分けることができます。彼が預言者として神に召されてから、4章から24章まで、主がエルサレムをバビロンによって破壊される、神の裁きの宣告があります。24章の最後でエルサレムに対する言葉を失いました。その後に諸国の民に対する宣告を預言しますが、エルサレムについては、神はエゼキエルの口を閉じられたのです。けれども、33章にて実際にエルサレムの破壊が起こって、そこから逃れて、エゼキエルたちがいるケバル川のほとりのところまでやって来た人がいました。それからエゼキエルの口が開きました。彼は堰を切ったように、エルサレムとイスラエルに対する預言を語ります。これが後半部分、33章から48章までです。もう既にエルサレムが破壊されたのを確認した今、主はこれを回復すると強く決められます。どんなことがあろうが、これをわたしは回復するという強い意志のメッセージになっています。

 34章には、牧者に対する主の預言があります。ユダの王たちがその牧者たちです。彼らは羊であるイスラエルの民を養わなければならなかったのに、むしろその羊をほふって、自分を肥やしていたと主は咎められます。そこで主はこれらの牧者らを退け、「わたしが、独りでこの羊の群れを飼う。(11節参照)」と言われました。そうです、主ご自身の御子イエス・キリストがその牧者です。そして主は「わたしは、彼らに君主ダビデを起こす。(23節参照)」と言われました。ダビデの子であられるメシヤが牧者となられ、そしてイスラエルの土地そのものが牧場となる、と言われました。

 それで36章からイスラエルの土地、民族、そして安全保障の回復の約束を与えられます。36章から39章までが、その輝かしい救いの言葉があります。ぜひ全体を、後で読んでみてください。今朝は36章のみに注目しますが、36章から40章は一続きの話になっています。36章では、イスラエルの土地の回復、37章にはイスラエル国家の復興、38-39章にイスラエルの安全が敵から守られてる約束があります。そして40章に、主が再臨された後の神殿の幻がありますが、36章から39章は、実に私たちが生きている時代に目撃することのできる、驚くべき一連の出来事が書いてあります。

1A イスラエルの山々 1−15
1B 所有した国々への報復 1−7
36:1 人の子よ。イスラエルの山々に預言して言え。イスラエルの山々よ。主のことばを聞け。36:2 神である主はこう仰せられる。敵がおまえたちに向かって、『あはは、昔からの高き所がわれわれの所有となった。』と言っている。36:3 それゆえ、預言して言え。神である主はこう仰せられる。実にそのために、おまえたちは、回りの民に荒らされ、踏みつけられ、ほかの国々の所有にされたので、おまえたちは、民の語りぐさとなり、そしりとなった。36:4 それゆえ、イスラエルの山々よ、神である主のことばを聞け。神である主は、山や丘、谷川や谷、荒れ果てた廃墟、また、回りのほかの国々にかすめ奪われ、あざけられて見捨てられた町々に、こう仰せられる。36:5 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは燃えるねたみをもって、ほかの国々、エドム全土に告げる。彼らは心の底から喜び、思い切りあざけって、わたしの国を自分たちの所有とし、牧場をかすめ奪ったのだ。36:6 それゆえ、イスラエルの地について預言し、山や丘、谷川や谷に向かって言え。神である主はこう仰せられる。見よ。おまえたちが諸国の民の侮辱を受けているので、わたしはねたみと憤りとをもって告げる。36:7 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしは誓う。おまえたちを取り囲む諸国の民は、必ず自分たちの恥を負わなければならない。

 ここの箇所は35章の続きです。35章には、「セイルの山(2節)」に対する主の言葉があります。セイルの山とは、今の死海の南、ヨルダンの南部に位置する山々です。かつてエドム人が住んでいた所です。父祖がヤコブの兄、エサウです。主は、エドムの地に対してわたしがそれを荒廃した地とし、町々を廃墟とすると言われました。事実、その通りになりました。

 なぜ主がそんなことを行なわれたのでしょうか?355節には、「いつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。」とあります。バビロンがイスラエルとその周囲の地域に勢力を伸ばしていた時、エドムはユダと同盟を結び、共にバビロンに対抗したはずでした。けれども、いざバビロンがエルサレムを包囲し、それを破壊すると彼らは何と、ユダヤ人のために戦うのではなく、傍観して何もしませんでした。むしろ、ユダヤ人に対する憎しみを露にして、彼らが倒れたことをあざ笑ったのです。

 5節の「いつまでも敵意を抱き」というのが大事です。エドム人の父祖エサウが、弟ヤコブに対して殺したいと憎しみを抱いたのは、一過性のものではありませんでした。子孫が代々に渡って、いつまでも怨念を抱き、何か機会があればその復讐を晴らしたいと思っていたのです。いつまでも抱いている敵意や憎しみは、主の前に汚れたものです。私たちは気をつけなければいけません。

 そして、もう一つ、エドム人は敵意を抱いただけでなく、捕虜となって連れていかれたユダヤ人たちの地に対して貪りました。それが3510節に書いてあり、そして私たちが今読んだ、361節から7節までに書かれてある言葉です。「この地は、私たちのものになった」と喜んでいます。彼らは自分たちがユダヤ人に虐げられていると思っていましたが、実はその敵意の中で自分たちが彼らを踏みにじる加害者となっていたのです。私たちも自分は被害者だと思いながら、実は相手のものを奪い取っていることはないでしょうか?怒りやねたみ、そねみというものは、そういうことを行ないます。

 そこで主は、このことに対して強く反応しておられます。彼らのあざけりと貪りを、何度も何度も繰り返し指摘されています。何度も何度も「それゆえtherefore)」と言われていますね。彼らの行ないに強く反応しておられるからです。

 なぜでしょうか?そこは、主ご自身の土地だからです。そして主がユダヤ人たちに与えられた土地だからです。主は、アブラハムに対してカナン人の地を与えると約束して以来、そこをご自分の土地とみなしておられました。レビ記2523節には、「地はわたしのものである」とあります。ユダヤ人たちに与えられたのですが、実の所有者は主ご自身であり、ゆえにエドム人の略奪はご自分が侵されたと感じておられるのです。同じように、主はキリスト者らに対する迫害も個人的に受け止められます。パウロは、キリスト者らに迫害を加えていましたが、ダマスコに行く途上で、主イエスに出会い、主は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:5」と言われました。

 主は、十戒の中で「汝は殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盗むなかれ」と命じられました。なぜそれらをしてはならないのでしょうか?それは、主は人にそれぞれ、生命、性、財産を個人的に賦与しておられるからです。そこに神から来る尊厳があり、主ご自身の所属があります。だから、人を殺したら、神ご自身をひどく傷つけたことになり、それゆえその者は死ななければならないという刑罰が伴うのです。そして女性を陵辱したら、それはその人に女という性を与えられた神の聖なる領域を侵したことになります。単に肉体が結合したのではないのです。そして財産も単に物が一人の人からもう一人の人へ移動したのではなく、本質的に主ご自身のものを盗んだことになるのです。

 イスラエルの地は、バビロンがそこを荒らした時から異邦人が支配するようになりました。バビロンの後はペルシヤ、そしてギリシヤ、そしてローマが支配します。その時にイエス様が現われたので、福音書と使徒の働きはローマ帝国でした。紀元70年に、後にローマ皇帝となるティトュスによってエルサレムが滅ぼされます。そしてユダヤ人が世界に離散します。イエス様はこのことを予見されて、こう言われました。「人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。(ルカ21:24」エルサレムの支配は、ローマの後はビザンチン、その後はイスラムの支配、そして十字軍、それからマムルク朝、オスマン・トルコ、そして英国の委任統治へと移りました。確かに、エルサレムは異邦人によって踏み荒らされていきました。

 けれども、モーセが約束の地に入る直前のイスラエルに対して、神からこういう約束を受け取っています。「私があなたの前に置いた祝福とのろい、これらすべてのことが、あなたに臨み、あなたの神、主があなたをそこへ追い散らしたすべての国々の中で、あなたがこれらのことを心に留め、あなたの神、主に立ち返り、きょう、私があなたに命じるとおりに、あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。(申命30:1-4」主は必ず、散らされたユダヤ人を約束の地に戻してくださると約束してくださいました。

 そこで主は、ここエゼキエル36章において、単にエドムがイスラエルの地を荒らしたことのみならず、歴代の諸国の民が、異邦人がこの地を踏み荒らしていることに憤りを感じておられます。そこで主は、この地を回復する行動に移していかれるのです。紀元70年から約1800年を経た時、つまり19世紀半ば、反ユダヤ主義が吹き荒れているヨーロッパとロシアから、少数のユダヤ人が、当時はパレスチナと呼ばれていた地に帰還しはじめたのです。そして彼らが行なったことは、土地の開墾でした。そして、ついにヨーロッパではホロコーストが起こりました。その大迫害の中で、ユダヤ人難民が怒涛のごとくパレスチナの地に戻ってきました。当時、そこを統治していた英国は彼らの入国に制限を設けましたが、それでも非合法に入ってきました。そしてついに1948年、イスラエルが建国したのです。

 このような奇蹟が起こったのは、ひとえに主のねたみと憤りだったのです。主が、敵によって踏み荒らされている土地を見て、憤っておられたのです。覚えていますか、イエス様が泣いて憤られたことがあります。ラザロが死んだ時です。マリヤも、また他のユダヤ人もラザロの死を泣き悲しんでいました。イエス様も泣かれました。そして心に憤りを抱きつつ、ラザロの墓に行き、「ラザロよ、出てきなさい!」と叫ばれたのです。人が死んでいる、という事実そのものが、主にとっては憤りの対象なのです。人は死ぬようには、もともと定められていなかったのです。この世に生まれてきたのに、また死ぬということは、とてつもない理不尽なことなのです。そこで主は、ラザロを生かしました。イスラエルの地に対しても、主は同じことを行なわれたのです。

2B 豊かさの回復 8−15
1C 生産力と人口増加 8−11
36:8 だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。36:9 わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。おまえたちは耕され、種が蒔かれる。36:10 わたしは、おまえたちの上に人をふやし、イスラエルの全家に人をふやす。町々には人が住みつき、廃墟は建て直される。36:11 わたしは、おまえたちの上に人と獣をふやす。彼らはふえ、多くの子を生む。わたしはおまえたちのところに、昔のように人を住まわせる。いや、以前よりも栄えさせる。このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。

 主は、「イスラエルの山々が枝を出し、実を結ぶ」と言われます。それは、イスラエルの民が帰ってくるからだ、と言われます。そして彼らが帰還することによって、イスラエルの地は耕され、種が蒔かれます。今、みなさんがイスラエルに行かれたら、そこが乾燥した土地であることに気づきます。南に下るとネゲブ砂漠があり、基本的にイスラエルは荒野であることが分かります。ところが、その砂漠のど真ん中に、突然緑が見えてきます。それはみな、イスラエルの人々が最先端の農業技術を使って、その砂漠を、世界で有数の農業国にするほどの生産力のある土地に変えてしまったからです。

 そしてイスラエルは結構、木々が多いではないかと言われる方もいらっしゃると思います。けれども、その一本一本が植林なのです。その証拠に、パレスチナ自治区とイスラエルとの境界は、「グリーン・ライン」と呼ばれています。その緑続きの土地が、パレスチナ自治区に入る途端、荒地になり、またイスラエルの領域に入る途端、緑が広がっていくのです。このようになったのは、先ほど話したユダヤ人郷土帰還運動、シオニズム運動が始まったからです。東ヨーロッパとロシアからの帰還民でした。彼らが理念として掲げ、情熱を注いだのは農地開拓でした。当時は、オスマン・トルコがそこを支配していました。土地税を、木一本、一本に対して課したので、地主は木々を抜いてしまったのです。そのため、パレスチナの地は荒れ放題で、また沼地があるのみでした。そこに帰還民がやってきて、荒地を開墾し、マラリアと戦いながら沼地から水を抜いていきました。

 彼らは社会主義の理想を持っていました。必ずしも、いやそのほとんどが神を信じていません。だから、今、エゼキエルがここで語っている預言を自分たちが実現させるという宗教的動機は何一つなかったのです。そして不思議なのは、社会主義であればどの国も失敗しています。ベトナムや中国、また旧ソ連連邦の国々に行ったことのある人々はお分かりですが、土地を大事にする概念は何一つありません。人々は平気でごみを捨てます。そして他の人がこしらえたものを自分たちが奪い取る発想はするけれども、自分たちの努力で創り上げるという発想はこれっぽっちもありません。けれどもなぜか、彼らは農地開拓において成功し、今は農産物輸出国になっているのです!

 だから主は、11節「このとき、おまえたちは、わたしが主であることを知ろう。」と言われるのです。神ご自身が行なわれたとしか言えない方法で、このことを成し遂げられたのです。

 そして、農地だけでなく町々に人が住みつくとあります。イスラエルの空の入口はベングリオン空港ですが、テルアビブの郊外にあります。このテルアビブは何もないところだったのを、帰還したユダヤ人が建て上げた近代都市の一つです。今や、ほぼ40万人を有する大都市になっています。そして今やイスラエルの生活水準は、現代の韓国並みになっています。つまり先進国の水準です。農産物の他に、イスラエルが際立っているのはIT技術や医療技術です。また太陽光発電など、環境関係にも極めて優れています。イスラエルが紛争地域であるということで、世界の人はなんと危険な地域であるかと言いますが、それとは裏腹に、極めてすぐれた都市を形成しているのです。

2C 失われることのない民 12−15
36:12 わたしは、わたしの民イスラエル人に、おまえたちの上を歩かせる。彼らはおまえを所有し、おまえは彼らの相続地となる。おまえはもう二度と彼らに子を失わせてはならない。36:13 神である主はこう仰せられる。彼らはおまえたちに、『おまえは人間を食らい、自分の国民の子どもを失わせている。』と言っている。36:14 それゆえ、おまえは二度と人間を食らわず、二度とおまえの国民の子どもを失わせてはならない。・・神である主の御告げ。・・36:15 わたしは、二度と諸国の民の侮辱をおまえに聞こえさせない。おまえは国々の民のそしりを二度と受けてはならない。おまえの国民をもうつまずかせてはならない。・・神である主の御告げ。・・」

 ユダヤ人の歴史を見ますと、この土地で、これでもかと言わんばかりに人々が殺されていく姿を見てしまいます。バビロンがエルサレムを包囲して、それを破壊する時はもちろんのこと、その後、ペルシヤ時代を経て、ギリシヤ時代になってからギリシヤの王、アンティオコス・エピファネスによって大量虐殺が行なわれました。そして聖書外典のマカバイ記、ヨセフスのユダヤ戦記を読みますと、それ以降のユダヤ人がどれだけ戦い、そして特にローマによって人々が死んでいったか知れません。そしてもちろん、十字軍によって死に、イスラエル建国直後も独立戦争によっても死に、この地はまさに「人間を食らう」地であったのです。

 そこで主は、非常に強い語調で、「もうおまえの国民の子を失わせてはならない。」と念を押しておられるのです。そして今、おそらくは建国以来、イスラエルは紛争によって死んでいく人数はほとんどいません。たとえガザ地区からロケットが落ちてきても、それで死ぬ人はほとんどいなくなりました。

2A イスラエルの家 16−38
 ここまでは預言の相手、預言の対象が「イスラエルの山々」でした。そして16節から、「イスラエルの家」すなわちイスラエルの人々に対する預言になります。

1B 主の聖なる名 16−32
1C 民が汚した土地 16−21
36:16 次のような主のことばが私にあった。36:17 「人の子よ。イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した。その行ないは、わたしにとっては、さわりのある女のように汚れていた。36:18 それでわたしは、彼らがその国に流した血のために、また偶像でこれを汚したことのために、わたしの憤りを彼らに注いだ。

 イスラエルの民が約束に地から追い出されていたのですが、それを行なわせたのは主ご自身に他なりません。偶像礼拝を行ったので、主はバビロンによってエルサレムを破壊せしめました。イエスをメシヤとユダヤ人が認めなかったので、ローマによって郷土を失いました。ここに「さわりのある女のように汚れていた」とあります。レビ記15章に女の生理によって、その期間汚れるという規定があります。つまり、血がたくさん流されるということです。流血は、殺人、また人を死に追い込むような不正な裁判もありましたが、偶像による流血を神は最も忌み嫌われました。

 カナン人が行っていた偶像礼拝は、偶像の前で淫らなことを行なっていたものです。それで望まない妊娠をします。その子が産まれたら、モレクの偶像に捧げて火で燃やすのです。これをカナン人らが行なっていたから、主はヨシュア率いるイスラエルによって彼らを聖絶することを決められたのです。ところが、ずっと後になんとイスラエルとユダの民がこれを行ない、なんとエルサレムの中でもそれを行なったのです。しかも、神殿礼拝を行いながら、同時にこの偶像礼拝を行なっていたのです。それで主は彼らに憤りを注がれました。

36:19 わたしは彼らを諸国の民の間に散らし、彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。36:20 彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した。人々は彼らについて、『この人々は主の民であるのに、主の国から出されたのだ。』と言ったのだ。36:21 わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ。

 イスラエルの民は、世界に散らされても、なおもそこで主の名を汚すようなことを行ないました。そしてその国々の人々は、彼らが信じるとされる神を見下すようになったのです。ところが、「わたしの聖なる名を惜しんだ」という言葉が続きます。ここが大事です。聖なる名を惜しまれたから、主はご自分の救いの御業を行われるのです。

 私はある人のカンセリングをしていた時に、癒されると思っていた病が悪化したので、それは悔い改めていなかったからではないか、という疑問がありました。今の悪い状況を見て、それが何らかの霊的な原因があるからそうなっているのだ、と見ているわけです。そして自分のほうで悔い改めたら、神がその病を癒してくださる、というのです。はたして、そうなのでしょうか?では、生まれつきの盲人はどうなるのでしょうか?弟子たちは、本人の罪のためなのか、それとも両親の罪のためなのかと問うと、イエスはどちらも否定されました。そして、「神のわざが、この人に現われるためだ」と言われたのです。

 神は、私たちが何か良いことを行なったから、私たちに良くしてくださるのではありません。私たちのうちに何か原因があって、それで事を行われるのではありません。申命記3226-27節に、主はここエゼキエルの預言と同じ事を言われています。「わたしは彼らを粉々にし、人々から彼らの記憶を消してしまおうと考えたであろう。もし、わたしが敵のののしりを気づかっていないのだったら。・・彼らの仇が誤解して、『われわれの手で勝ったのだ。これはみな主がしたのではない。』と言うといけない。(申命32:26-27」主は、ご自分の名誉のためにイスラエルを回復されるのです。私たちが何かをしたから良くしてくださるのではなく、私たちがどうであろうと良くしてくださり、そして良くしてくださった神の慈しみを見て、私たちは神を恐れかしこみ、悔い改めへと導かれるのです!

2C 御霊による清め 22−27
36:22 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。イスラエルの家よ。わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った諸国の民の間であなたがたが汚した、わたしの聖なる名のためである。36:23 わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう。・・神である主の御告げ。・・

 前世紀に起こったイスラエルの建国を、神の約束とは関係のないものであると考える人たちが、クリスチャンの間でさえ沢山います。その根拠の一つは、「イスラエルは悪いことをたくさん行なっている。」ということです。イスラエルについての報道はイスラエルに不利なように相当歪められているのですが、それでも悪いことをたくさん行なっています。それはイスラエル軍がパレスチナ人に酷いことを行なっている、という話ではりません。イスラエル軍の軍規は、極めて倫理性の高いものです。そうではなく、霊的な復興を見ることができません。先ほど話した偶像礼拝と幼児殺しも文字通り行っています、テルアビブは「罪の町」として世界の五大都市に数えられています。売春、中絶、そしてオカルトを行なっている若者は非常に多いです。

 そして何よりも、イエス様を自分のメシヤ、救い主として心に受けている人は非常に少ないです。私はイスラエルで信者の方と話して、日本はクリスチャンの人口が1パーセント以下だと話しました。「これだけ少ないのだぞ!」と誇らしげに話しました。ところが彼は、「イスラエルは、0.1パーセント以下です!」と返答しました。日本での伝道が厳しいと言ったら、イスラエルはもっと厳しいのです。神は、イスラエルに何か良いものがあるから、彼らを約束の地に集められるのではありません。「わたしの聖なる名のためである」です。イスラエルを選ばれたという神の栄誉が、彼らの行ないによって異邦人によって侮られているので、それで彼らを約束の地に集めておられるのです。

 ユダヤ人は郷土を失ったのに、民族性を失うことはありませんでした。激しい迫害を離散の地で受けたのに、それでも生き残りました。そして国まで創ってしまいました。礼拝でしか使われていなかったヘブライ語を日常語に復活させました。そして、戦争に連勝しました。独立宣言をした直後に、周囲のアラブ諸国、主に五カ国が一斉にイスラエルを攻めました。なんとイスラエルは勝ちました。初代首相ベングリオンは、こう言いました。ちなみに彼は宗教的な人ではありません。けれどもこういいました。「奇跡を信じない人は、イスラエルでは現実主義者ではない。」そして、1967年に起こった六日戦争も危機的状況でした。エジプト、ヨルダン、シリアからの三面攻撃です。ところがなんと電撃的勝利で、イスラエルの領土は四倍になったのです!そしてエルサレムがイスラエルの手中に入りました!イスラエル国防軍の空軍では、六日戦争の時にエジプト軍の戦闘機をどのように爆撃したか、その作戦については学ばないそうです。なぜか?あまりにもの大勝利であり、これを学んでもどのように戦えばよいか参考にならないからです。

 彼らが正しいからですか?いいえ、全然違います。それにも関わらず、ここでエゼキエルが預言していることがことごとくその通りになっています。つまり、これは神が行なったとしか考えられないと、神をあがめるように、神がわざと仕向けておられるのです。

 先ほど言及した生まれつきの盲人の話をしますと、彼はイエス様を、神の御子として、主として受け入れ、この方を礼拝しました。けれども、彼はその前に神の御業を受けていたのです。イエス様は、彼の目を開いてくださいました。そのことがいったいどういう意味を持っているのか、初めは分かっていませんでした。彼は、「イエスと言う人が私の目を直した」と言いました。まだ、単なる人だったのです。けれども、ユダヤ人の宗教指導者に問い詰められて、「預言者だ」と答えています。それから、「生まれつきの盲人を直すなど、神から来られた方でなければできない。」と断言します。それでイエスが彼に近づかれます。そして、「神の子を信じますか?」と尋ねられ、「主よ、その方を信じたい。」と答えたのです。これが「先行する恵み」なのです!

36:24 わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く。36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。

 彼らが約束の地に戻ってきてから、御霊が注がれます。すばらしいですね、主は帰還した民に対して、いずれ御霊による新生を行なわれます。この御霊による新生の箇所は、私たちがよく知っている、ヨハネ3章のニコデモとイエス様の対話の背景になっています。ニコデモは、「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。(3,5節)」と言われたイエス様の言葉をまったく理解できませんでした。そこでイエス様は、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。(10節)」と詰られました。ここのエゼキエルの預言がそれです。

 24節と25節には時間差があります。37章、そして3839章を読めば、彼らが約束の地に戻って国を形成し、そして周囲の敵からの攻撃があるけれども主が敵を打ち滅ぼしてくださり、それで御霊が注がれます。初めに物理的な回復があり、それから霊的な回復があります。

 皆さんは御霊の新生の経験をされたでしょうか?御霊によって、私たちは第一に洗い清められます。「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。(テトス3:5-6

 そして第二に「新しい心」が与えられます。私たちが外側の行ないを変えようとしても決してできないものを、主は内側から私たちを変えられることによって、それを成し遂げてくださることです。エレミヤが新しい契約についてこう預言しました。「彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。・・主の御告げ。・・わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エレミヤ31:33」これまでは律法が石に刻み込まれていました。けれども、新約の特徴は、心の中にそれを刻み込んでくださるということです。したがって、外側の行ないを変えようと努力するのではなく、内側からその力と願いを与えてくださる、という約束です。それはすべて、自分の内に御霊を神が住まわせてくださることによります。

 そして三つ目の点は御霊の新生によって、神の御言葉に従順になることができる、ということです。27節に「わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」とあります。イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。(ヨハネ14:15」と言われました。愛が自分を突き動かす動機になるのです。主を愛する愛のゆえに、その戒めを守りたいと願い、自発的に従順になることができる、というものです。

3C 恵みによる恥辱 28−32
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。36:29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。36:30 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。36:31 あなたがたは、自分たちの悪い行ないと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。36:32 わたしが事を行なうのは、あなたがたのためではない。・・神である主の御告げ。・・イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行ないによってはずかしめを受けよ。

 御霊の新生を経たユダヤ人たちが、なおも主がその地を豊かにしてくださっているのを知って、それでかえって恥じる、という預言です。これが恵みがなせる業です。自分の行いに関わらず、主がとてつもない豊かな恵みを与えてくださるとき、私たちはもっと罪を犯そうなどという思いにはなれません。かえって恐ろしささえ感じます。罪を憎んで、この罪を捨てねばならないと思います。神の憐れみはこのようにして私たちに現われるのです。

2B 諸国の民への証し 33−38
1C 国の豊かさ 33−36
36:33 神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。36:34 この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。36:35 このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった。』と。36:36 あなたがたの回りに残された諸国の民も、主であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。主であるわたしがこれを語り、これを行なう。

 今度は、イスラエル自身が主を認めるだけではなく、周りの諸国の民がイスラエルの土地の復興を見て証言します。イスラエルの霊的新生と共に、この預言の完成は将来を待たなければならないでしょう。また周辺諸国がイスラエルの神を認めているようにはなっていないからです。主が再臨されて、そしてイスラエルの地が完全に回復された時に、そこはエデンの園のようになり、その時に確かにそれは主がしてくださったのだ、と認めることができます。

2C 数多くの人々 37−38
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」

 人口を増やしてくださる約束です。主が初めの人アダムに与えられた、そしてノアにも与えられた祝福である、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」という命令が、アブラハムにも「あなたの子孫は、地のちりのように、空の星のようになる。」という約束をもって継承されました。その約束の実現です。

 主が牧者であり、イスラエルの地そのものが牧場であるという類型がエゼキエル34章にあることを先に話しましたね。ここも、牧場と羊の群れの例えです。「例祭のときのエルサレムの羊の群れ」とは、過越の祭りの時の羊の群れです。とてつもない数の羊がほふられます。この完全な成就はもちろんイエス様の再臨を待たねばなりませんが、今も著しい人口増加をイスラエルの中で見ることができます。2009年のイスラエルの人口は約741万人で、その中でユダヤ人は約559万でした。イスラエルが建国した1948年は86万人だけだったのです。

 いかがでしょうか?イスラエルの現代史はまさに、私たちを回復すると決められた神の強い意志と同じです。罪の中で死んでいる私たちを救うとお決めになった時から、神は私たちに介入しておられるのです。私たちはその先行する恵みの業を知ることによって、自分の行ないを改めて、主と共に生きることができるようになります。

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