エゼキエル書39章 「ゴグへの裁き」

アウトライン

1A 倒れるゴグ 1−10
   1B 主の確証 1−8
   2B 武器の処理 9−10
2A 死体の処理 11−20
   1B 埋める谷 11−16
   2B 猛禽の宴会 17−20
3A 霊的覚醒 21−29
   1B 諸国民とイスラエル 21−24
   2B 帰還の約束 25−29

本文

 エゼキエル書39章を開いてください、39章は38章の続きになります。ゴグを主が徹底的に叩かれます。このことを通して、ご自分の聖なる名を現し、諸国民が、そしてイスラエル自身が、この方こそ主であることを知るためです。

1A 倒れるゴグ 1−10
1B 主の確証 1−8
39:1 「人の子よ。ゴグに向かって預言して言え。神である主はこう仰せられる。メシェクとトバルの大首長であるゴグよ。わたしはあなたに立ち向かう。39:2 わたしはあなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、イスラエルの山々に連れて来る。39:3 あなたの左手から弓をたたき落とし、右手から矢を落とす。

 主は繰り返し、38章でお語りになったことを語っておられます。ここで主が注意深くお語りになっているのは、全てのことを主が行なっていることです。「わたしは」あなたを引き回し、あなたを押しやり、北の果てから上らせ、そしてイスラエルの山々に連れてくる、と言われます。ゴグが行なっていることは全て、初めから主が注意深くそうさせておられた、ということです。

 興味深いことに、エゼキエルが初めに見たケルビムの幻は、「北(1:4」から来ています。もしかしたら、40章から始まる神殿の幻以上に、ここ39章がエゼキエル書のクライマックスかもしれません。主が、初めから北におられて、そしてこのゴグという君を動かし、そしてこれを打ち砕かれることによって、ご自分の栄光を現そうとしておられたのかもしれません。

 このことを考えると、本当に安心です。全てのことは主の御手の中にあります。主が支配を受けない領域というのは存在しません。だから、私個人の生活でも、どんなことが起こっても、それは主が起こしておられることなのだ、と認めることができるのです。

39:4 あなたと、あなたのすべての部隊、あなたの率いる国々の民は、イスラエルの山々に倒れ、わたしはあなたをあらゆる種類の猛禽や野獣のえじきとする。39:5 あなたは野に倒れる。わたしがこれを語るからだ。・・神である主の御告げ。・・

 ゴグとマゴグの戦いの特徴は、彼らがイスラエルの山々で倒れることです。イスラエルの中で倒れることです。だからその死体をなんとかしなければなりませんが、一つは、イスラエル人たちがその死体処理を行ないます。それが11節から16節に書いてあります。それからここにあるように猛禽や野獣がそれを食べます。

 このようにイスラエルの真ん中で主がご自分の栄光を現されることによって、確かに主が自分たちの只中におられることをイスラエルが悟るのです。

39:6 わたしはマゴグと、島々に安住している者たちとに火を放つ。彼らは、わたしが主であることを知ろう。

 主のゴグに対する裁きは、イスラエルの山々にとどまりません。彼の本国であるマゴグ一帯に火が付きます。さらに「島々に安住している」とありますが、これは地中海の島々です。ゴグに連なる国々の多くが地中海に接しています。

 彼らはイスラエルへの攻撃を、遠くの国における戦いとして傍観していたことでしょう。それが本国でも攻撃を受けるのです。かつての日本も本土への空襲がありました。アメリカも同時多発テロの時に経験しました。神はご自分の裁きを下される時、それを傍観視できないようにされます。

39:7 わたしは、わたしの聖なる名をわたしの民イスラエルの中に知らせ、二度とわたしの聖なる名を汚させない。諸国の民は、わたしが主であり、イスラエルの聖なる者であることを知ろう。

 主がなぜ、このような怒りを発せられるのでしょうか?3819節では、「わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。」と言われました。なぜそのような強いねたみと怒りを神は抱かれるのでしょうか?それは、ゴグが行なおうとしたことは、主の聖なる御名を汚すことだったからです。これが主を怒らせる最も大きな理由です。 

 もう一度思い出してください、主がイスラエルの民をこの地に連れてきてくださり、また山々に木を生えさせ、実を結ばせ、町々を建て、人々を増やすことにされたその理由は、その前にエドムがバビロンによってユダヤ人が捕え移された後の地を我が物にしたからです。それに強く反応されて、主は必ずそのことを行なうと言われたのです。そして、干からびた骨のようになったイスラエル人たちに肉をつけて、四方からの息を吹きかけることを強い決意で定められました。

 そのようにして豊かになり、強くなった国です。主がそのようにされたのです。だから、それを貪ろうとする試みは、主のアキレス腱に触れたわけです。

 主が語られたこと、神の栄光につながることを、今、この世の神である悪魔が見えないようにさせています。それは人間の哲学であったり、人間の政治であったり、富であったり、そして偶像であったり、いろいろな形でそれを悪魔は行なっています。主は恵みをもって、忍耐されてこれらのことを許しておられましたが、いつまでもそのようにされているのではありません。 

 主が、ご自分がまさに神であられ、全ての全てであられることを力強く現されることを準備されているのです。その一大出来事の一つが、このゴグへの裁きなのです。だから私たちも心の準備をしなければいけません。

 ある面白い話をある韓国の牧師さんから聞きました。彼は、説教の中で韓国の慶州にある有名な仏像が倒れて、そこに神を賛美し、礼拝をする場が与えられたらいいなあ、という話をしました。そうしたら、何と会衆の中で立ち上がって、「韓国の歴史と伝統をそのように侮辱するのか。」と言い捨てて、その場を出て行きました。クリスチャンであっても、いつの間にか人間的な思いが入って、それで神の栄光が現れることを喜ばない、むしろ反対するこということがあります。

 特に、イスラエルに関わることで言えば、キリスト者であるはずなのに、神がご自分の言われている通りに起こっていることを、神の栄光を思って喜ぶのではなく、人間的な考えでかえって反対することは十分ありえるし、実際、ほとんどのキリスト教会がそれを行なってしまっています。

39:8 今、それは来、それは成就する。・・神である主の御告げ。・・それは、わたしが語った日である。

 いかがでしょうか、主ご自身がかなり強い口調で念を押しておられます。主が語られたのですから、それは必ず来きます。

 なぜ念を押しておられるのでしょうか?それは私たち人間が疑い深いからです。また状況が、そのような日が来るとは思えないからです。ハバククが、主の考えておられることが分からなくて、呆然としていた時に主は、「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言っていない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。(2:3」と言われました。そして義人は信仰によって生きるという有名な言葉を語られたのです。

 ゴグについて、また主の来臨について、皆さんはその通りに信じていますか?使徒ペテロも、主の来臨について人々は、「今までと何も変わっていない。あの約束はいったいどうなっているんだ。」とあざけるが、「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせているのではありません。(2ペテロ3:9」と言っています。

2B 武器の処理 9−10
39:9 イスラエルの町々の住民は出て来て、武器、すなわち、盾と大盾、弓と矢、手槍と槍を燃やして焼き、七年間、それらで火を燃やす。39:10 彼らは野から木を取り、森からたきぎを集める必要はない。彼らは武器で火を燃やすからだ。彼らは略奪された物を略奪し返し、かすめ奪われた物をかすめ奪う。・・神である主の御告げ。・・

 武器の処理を7年間かけて行ないます。その武器の量がいかに多いかを物語っています。

2A 死体の処理 11−20
 そして武器だけではありません、死体の処理もあります。

1B 埋める谷 11−16
39:11 その日、わたしは、イスラエルのうちに、ゴグのために墓場を設ける。それは海の東の旅人の谷である。そこは人が通れなくなる。そこにゴグと、そのすべての群集が埋められ、そこはハモン・ゴグの谷と呼ばれる。39:12 イスラエルの家は、その国をきよめるために、七か月かかって彼らを埋める。

 ここの「」は死海のことです。東の旅人の谷とは、おそらく死海の東、今のヨルダンにある道のことであると考えられます。そこに死体を埋葬する場所を作ります。「ハモン」とは群集とか群れという意味です。そしてその期間は七ヶ月です。

39:13 その国のすべての民が埋め、わたしの栄光が現わされるとき、彼らは有名になる。・・神である主の御告げ。・・

 イスラエル人全員が関わって、死体処理をするようです。それで彼らの評判が世界に伝わります。

39:14 彼らは、常時、国を巡り歩く者たちを選び出す。彼らは地の面に取り残されているもの、旅人たちを埋めて国をきよめる。彼らは七か月の終わりまで捜す。39:15 巡り歩く者たちは国中を巡り歩き、人間の骨を見ると、そのそばに標識を立て、埋める者たちがそれをハモン・ゴグの谷に埋めるようにする。

 取り残されている死体を丁寧に調べる、巡察チームが作られます。おそらく、ここの「きよめる」という言葉には、衛生上のことだけでなく儀式的な意味も含まれているでしょう。レビ記などに、死体に触れるものは汚れるとあり、その律法のゆえ彼らはなおさらのこと慎重に死体探しをするものと思われます。

2B 猛禽の宴会 17−20
 そしてその埋められた死体のところに、猛禽と野獣が集まってきます。

39:17 神である主はこう仰せられる。人の子よ。あらゆる種類の鳥と、あらゆる野の獣に言え。集まって来い。わたしがおまえたちのために切り殺した者、イスラエルの山々の上にある多くの切り殺された者に、四方から集まって来い。おまえたちはその肉を食べ、その血を飲め。39:18 勇士たちの肉を食べ、国の君主たちの血を飲め。雄羊、子羊、雄やぎ、雄牛、すべてバシャンの肥えたものをそうせよ。39:19 わたしがおまえたちのために切り殺したものの脂肪を飽きるほど食べ、その血を酔うほど飲むがよい。39:20 おまえたちはわたしの食卓で、馬や、騎手や、勇士や、すべての戦士に食べ飽きる。・・神である主の御告げ。・・

 すごい生々しい光景ですね。主は、ちょうど例祭などで家畜のいけにえを大量にほふり、和解のいけにえを食べるように、死体を猛禽と野獣が飽きるほどに食べる、と言われています。

 これは、当時の、その中東の地域の人々にとっては、私たちが読むよりもさらにむごたらしい光景として読みます。なぜなら、どのように尊厳をもって葬られるかが今よりもさらに重要な課題となっていたからです。死ぬのは惨いことだが、死んだ後に丁重に葬られないことは、自分の尊厳をひどく傷つけるものでした。

 そのため、列王記や歴代誌において、ユダの王がどこに葬られたかが、その人が生前行なっていたことで変わります。ダビデの町の王の墓に葬られる王もいれば、まともに葬られない人もいます。また、エレミヤは、ユダの人々がエルサレムで偶像礼拝を行ない、さらに偶像に自分の子どもをささげたことについて神が怒られたことをこう預言しました。「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。(7:31-32

 また主が地上に再臨されて、世界中の軍隊と戦われたことによって生じた死体も、ここエゼキエルの預言と同じように、野獣と猛禽の大宴会になることを黙示録19章が預言されています。神の徹底的な裁きを物語っています。

 ここで私たちが感じなければいけない衝撃は、次の箇所に出てきますが「神の聖さ」です。主に対して反逆するならば、その裁きがいかほどのものであるかそれを感じ取らなければいけません。初代教会でアナニヤとサッピラが偽善の罪を犯したためその場で死んだ時に、「教会全体と、そのことばを聞いたすべての人たちとともに、非常な恐れが生じた。(使徒5:11」とあります。健全な、神への恐れが必要です。ただ、この死体を食べている姿をホーラー映画でも見ているように、残虐だ、凄惨だと思うだけであれば、主に出会うことはできません。

3A 霊的覚醒 21−29
1B 諸国民とイスラエル 21−24
39:21 わたしが諸国の民の間にわたしの栄光を現わすとき、諸国の民はみな、わたしが行なうわたしのさばきと、わたしが彼らに置くわたしの手とを見る。39:22 その日の後、イスラエルの家は、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。

 エゼキエル36章、37章で、最後にイスラエルが霊的にも回復する預言を読みました。そしてそれは段階的なものであることも説明しました。物理的に集まってくるが、まだ不信仰のままで集まってくる。また国も復興するが、骨に筋と肉が付いただけで、まだ神の御霊が吹き込まれていない。その物理的な回復と、霊的な回復の間には隔てがあり、さらに大きな出来事が彼らの霊的覚醒には必要であることを話しました。それがここ、ゴグが滅ぼされ、その死体を処理した後に、ようやく「ああ、これは神の御業なのだ。」と認めることができる、というものです。

 カルバリーチャペルの初期の頃、ヒッピーたちが教会に来て、教会堂を拡張しなければいけなかった頃のことです。ジーザス・ムーブメント(イエス革命)に非常に興味をもったある投資家が、チャック・スミス牧師に無利子で融資することを申し出ました。彼は老齢のユダヤ人だったそうです。それでチャックは伝道をしました。特に旧約聖書を使って、イスラエルが神の御言葉どおりに建てられたことについて説明しました。けれども彼は信じませんでした。ホロコーストの生き残りだったからです。

 そこでこのゴグとマゴグの話をしました。ロシアとイスラムの連合体がイスラエルを雲で取り囲むように攻めるが、主が彼らを一気に滅ぼされるという話をしたときに、「それが起きたら、私は信じる。」と言ったそうです。確かに、今、生きているユダヤ人にとって、この出来事には神の実在を強く感じさせるものです。

 ユダヤ人にとって、またシオニズムにとってその命題は「生き残り」です。ヨーロッパにおける反ユダヤ主義が、テオドールが提唱する「ユダヤ民族の国家」の構想を作り上げました。そして、その歴史が百年以上経っています。自分たちのたゆまぬ努力によって、強く豊かな国を造り上げることができました。ところが、やはり脅威があります。敵愾心を抱く人々が世界中にいます。

 でも、これらはすべて、主が行なわれていることなのです。もちろん反ユダヤ主義は悪魔がその源です。けれども、主は悪魔さえもご自分の手の中に入れておられます。主はこのように、彼ら自身ではどうしようもないという状況に至らせることによって、彼らが霊的に覚醒してくれることを願っておられるのです。

 私たちも同じです。私たちはいつになったら、目覚めるでしょうか?どのような徴を見たら、この方が主であり、この方のみに従っていく生活を始めることができるでしょうか?

39:23 諸国の民は、イスラエルの家が、わたしに不信の罪を犯したために咎を得て捕え移されたこと、それから、わたしが彼らにわたしの顔を隠し、彼らを敵の手に渡したので、彼らがみな剣に倒れたことを知ろう。39:24 わたしは、彼らの汚れとそむきの罪に応じて彼らを罰し、わたしの顔を彼らに隠した。

 この出来事を見て、諸国の民は神の御心やご計画を知るようになっていきます。なぜ、ユダヤ人がこのような離散にともなう迫害を通らなければならなかったのか。それは、彼らが罪を犯していたからなのだと気づきます。それまでは、深く考えていなかったけれども、霊的に目覚めて、その深いところを理解した、ということです。 

 私の知り合いの方で、ユダヤ人に興味をもって、それで信仰をもったという方がいます。ユダヤ人がなぜそのような迫害を通ったのか、それを疑問に抱いている中で、日本にしばしば訪問されるアーノルド・フルクテンバイム師のセミナーに参加されたそうです。それがきっかけで、イエス・キリストにこそその答えがあることを知りました。

 ローマ書9章から11章までに、イスラエルについての問題が書いてあります。なぜユダヤ人のためにイエスが来られたのに、その肝心のユダヤ人が信じないで、異邦人が救われたのかという問題です。その問題を説明するために、パウロは、神の選び、主権、宣教という手段、そしてイスラエルから異邦人へ、そして異邦人からイスラエルへという順番で取り扱われる神の取り計らいを取り扱いました。どれもが非常に難しい内容です。理解しにくい神の真理です。

 けれども、ローマ書は9章から11章までが魚の骨に例えられますが、骨なしの肉だけの魚などありえないように、神の救いにとって核心的な教理であり、神の真理なのです。骨のように、飲み込むとどうしても喉につっかかって、やっかいなように、この問題は人間の理性にはやっかいなのです。

 けれども、この問題を取り扱うからこそ、パウロがローマ11章の最後で言った言葉が出てきます。「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(33-36節)」そして続けて12章で、「そういうわけですから、兄弟たち。私は神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。(1節)」と続きます。

 つまり神の救いについて、難しい内容の底辺に流れている「神の憐れみ」を深く知ることができるのです。確かに難しいです、けれどもその難しさの中で確実に神の憐れみを知ることができます。

2B 帰還の約束 25−29
39:25 それゆえ、神である主はこう仰せられる。今わたしはヤコブの捕われ人を帰らせ、イスラエルの全家をあわれむ。これは、わたしの聖なる名のための熱心による。

 分かりますか、一度、集められなければ国が建てられず、国が建てられていなければ、ゴグが攻めに来ることもありませんでした。つまり、一度集められて、それですべてではないのです。多くの正統派ユダヤ教徒、そしてキリスト教会が、「彼らはまだ信じていないのに、イスラエルが世俗的な国なのに、それでも預言の成就だと言うのか。」と言っています。ゴグが滅びた後に、主が残っている世界に散っているユダヤ人を集めてくださるのです。

39:26 彼らは、自分たちの地に安心して住み、彼らを脅かす者がいなくなるとき、わたしに逆らった自分たちの恥とすべての不信の罪との責めを負おう。

 今度はゴグもいなくなり、それで「脅かす者」がいなくなります。その時に、昔のことを思い出すのです。自分がいかに不信の罪を犯してきたのか、と。私たちも同じではないでしょうか。イエス様を自分の救い主と信じて、救いの恵みに預かったと時に、過去の自分がいかにひどいことを行なっていたかを恥じ入ります。「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。(ローマ6:21」とパウロは、ローマにいる聖徒たちに言いました。 

39:27 わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、39:28 彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。わたしは彼らを国々に引いて行ったが、また彼らを彼らの地に集め、そこにひとりも残しておかないようにするからだ。39:29 わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。・・神である主の御告げ。・・」 

 36章、37章で神が約束してくださった「御霊を注ぐ」という約束を、このゴグ軍団の侵入の出来事の後に行なってくださいます。

 けれども、この神の働きはさらに段階を踏んでいます。ゴグの侵入によってイスラエルは覚醒しますが、その後待っているのは、ダニエル9章にある「第七十週目」の出来事です。なんと多くのユダヤ人が反キリストと契約を結びます。そして三年半の後、彼は正体を表し、ユダヤにいる人々は荒野に逃げます。そして絶滅の危機に瀕する時、彼らは自分たちのメシヤを求めます。その時に主が戻ってきてくださいます。イエス様が天から来られて、反キリストの軍隊と戦われるのです。

 ゼカリヤ書12章によると、エルサレムに残っている者たちがメシヤを見たとき、その方が「自分たちが突き刺した者(10節)」つまりナザレ人イエスだということに気づきます。そして、恵みと哀願の御霊が彼らに注がれて、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる、とあります。ローマ11章にある、「イスラエルはみな救われる。(26節)」が完成するのです。

 ですから、ここ御霊を注ぐという神の約束も、ゴグの侵入、そして「ヤコブにとっての苦難」とエレミヤ書で呼ばれる大患難があって、それから行なわれることを知ります。もっともっと、他の出来事が起こって、それからようやく御霊による新生なのです。

 そうすると私たちは驚きます。「何度も何度も約束してくださっているのに、それでもまだなのですか。」と。「遅くなることはない」と主は約束しておきながら、やはり遅く感じる、と。けれども裏を返せば、実は私たちの反応が鈍いから、遅くなっているのです。主が遅らせているのではありません。主は、今にでもユダヤ人にご自分の霊を注がれたいと願っておられるのです。けれども、彼らが気づかないものですから、主は何度も何度も、彼らに働きかけ、彼らの土地、彼らの国、彼らの安全を確立されて、それで大患難も通らせて、それで彼らが完全に気づくようにされます。主が遅らせているのではなく、主が忍耐しておられる結果なのです。

 このようなことを主は行なってくださいます。主は何度でも、私たちに語りかけてくださいます。いつも同じことを聞いているな、と私たちが教会の説教で感じたら、それは私たちが何度も聞いても、分かっていないからです。主は段階を踏んで、私たちがこの方の実在を知るように導いてくださいます。そして、救いの完成の時までそれを行なってくださるのです。

 私たちはどれだけ、福音の言葉を聞いたでしょうか?どれだけ聖書の預言を聞いたでしょうか?今回学んだのは、最後に書かれている「神の憐れみ(25節参照)」です。パウロは、「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。(ローマ12:1」と言いました。主に自分自身を明け渡しているでしょうか?この時代を知って、私たちは行動に移しているでしょうか?聞いているだけで、自分を捨てて、主に従う生活をまだ始めていない、ということはないでしょうか?

 主の御霊の注ぎかけを受けてください。信仰をもって受けてください。そして、神がすでに用意されている霊的祝福を実際に経験してください。主は待ってくださっています。

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