エゼキエル書8−9章 「暗い所の行ない」

アウトライン

1A 聖所での偶像 8
   1B ねたみの偶像 1−6
   2B 忌むべき偶像 7−13
   3B タンムズと太陽 14−16
   4B 神の怒り 17−18
2A 町の虐殺 9
   1B 打ち殺す天使 1−2
   2B 額の印 3−7
   3B 容赦ない裁き 8−11

本文

 エゼキエル書8章を開いてください、今日は8章と9章を学びたいと思います。メッセージ題は、「暗い所の行ない」です。

 8章から、また新しい預言になります。8章1節に、「第六年の第六の月の五日」とありますね。エゼキエルは、1章1、2節によると第五年の「第四の月の五日」とあります。ちょうど14ヶ月前のことです。そこでケルビムの幻を見て、そして七日間、呆然としていた後に、主から実演をともなう預言を行なうことを命じられました。左脇に横になって390日、右脇に横になって40日、食べ物はパンを人の糞で焼き、水もごく少量を命じられました。そして髪の毛を鋭利な剣で剃り、それを三分の一に分ける預言も行ないました。

 この預言の後、再び幻がありました。この幻は、8章から11章まで続きます。これは一つながりの幻で、「主の栄光が去る」ことをテーマにしています。ケルビムが聖所の中から、神殿の敷居へ、神殿の敷居から東の門へ、東の門から、東に面するオリーブ山へ移動します。

 かつても、シロにあって神の箱がペリシテ人に奪われた時に、祭司ピネハスの妻は生まれてくる子を「イ・カボテ」と名づけました。栄光がない、という意味です。同じように、主の栄光が神殿の聖所の中から去っていく様を、これから読む幻は見せています。この栄光が帰ってくるのが、43章1節から5節に書いてあります。主イエス・キリストが再臨されて、神の国を建てられ、神殿を建てられた時に、オリーブ山から東の門を通って、神殿の内部に入られるのです。それまでの間、神殿から栄光が去る、という話です。

 なぜ、そうなってしまったのか?今日はその原因となっている人々の行ないについて見ていきたいと思います。

1A 聖所での偶像 8
1B ねたみの偶像 1−6
8:1 第六年の第六の月の五日、私が自分の家にすわっていて、ユダの長老たちも私の前にすわっていたとき、神である主の御手が私の上に下った。

 エゼキエルが以前、預言を行なっていた場所は自分の家でした。そこに人々がやって来て、彼の預言を見て、聞いていたのですが、そこにユダの長老たちが座っています。共に捕囚の民としてバビロンに連れて来られた人々です。

8:2 私が見ると、火のように見える姿があった。その腰と見える所から下のほうは火で、その腰から上のほうは青銅の輝きのように輝いて見えた。8:3 すると、その方は手の形をしたものを伸ばし、私の髪のふさをつかんだ。すると、霊が私を地と天との間に持ち上げ、神々しい幻のうちに私をエルサレムへ携え行き、ねたみを引き起こすねたみの偶像のある、北に面する内庭の門の入口に連れて行った。

 エゼキエルを今、携えているのは、ケルビムの姿と少し似ているまた別の天使です。火のように見える姿、また青銅の輝きというのは、どちらも神の裁きを表しています。

 彼がなんと、その手の形をしたものによってエゼキエルの「髪のふさ」をつかんで、空中に持ち上げてしまいました。鋭い剣で髪の毛を剃った後、再び生えてきた髪です。

 そして「」が持ち上げ、携え行き、とあります。これで思い出すのが、黙示録の使徒ヨハネです。「私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。(1:10」とあります。その後、イエス・キリストの栄光の姿を見、教会に対する主の言葉を聞き、そして再び御霊に感じ、天に引き上げられています(4:2)。ヨハネは、主の日という終わりの日、将来にまで時間を超えて御霊によって移動しましたが、エゼキエルは空間を越えて、エルサレムの聖所の所まで連れて来られています 

 そして、「北に面する内庭の門の入口」とあります。バビロンからエルサレムに来る時は、北からです。神の裁きも北から入る、ということです。

 そして「ねたみを引き起こすねたみの偶像」とあります。御霊による神々しい幻に包まれているエゼキエルにとって、これは相当の衝撃だったでしょう。主の栄光の中に偶像があるというのは、神の激しいねたみを引き起こすものです。

 申命記4章にこうあります。「気をつけて、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れることのないようにしなさい。あなたの神、主の命令にそむいて、どんな形の彫像をも造ることのないようにしなさい。あなたの神、主は焼き尽くす火、ねたむ神だからである。申命4:23-24」これはちょうど、不倫の罪を犯している時と同じです。主に結ばれた民であるのに、異なる神を拝むということは、結婚しているのに他の男や女のところに行くのと同じです。その時の嫉妬の思いは燃え上がるよう熱いものです。これを、私たちが偶像やその偶像を代表する肉欲を抱く時に、主が感じておられることです。

 そしてしかも、神殿の敷地の中に偶像があるという事は、まるで自分と妻の寝床の中に、他の女を連れてくるような大胆なこと、忌まわしいことです。コリント第一6章でパウロは、不品行の罪を戒めている時このように説明しました。「あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。『ふたりの者は一心同体となる。』と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。(15-17節)」心はキリスト、体は遊女ということは決してできない、それはキリストと遊女を同居させるようなものであり、相容れないものだ、ということです。

8:4 なんと、そこには、私がかつて谷間で見た姿と同じようなイスラエルの神の栄光があった。

 ケバル川のほとりで見た、ケルビムとその上の主の御座の幻です。主は、ご自分の神殿に名を置くと約束されました(1列王9:3)。そして、聖所の中の聖所、すなわち至聖所にある、契約の箱の贖いの蓋にあるケルビムの間にわたしは語ると言われました(出エジプト25:22)。今、この栄光をエゼキエルは、確かに神殿の中にあるのを確認しています。

8:5 その方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、目を上げて北のほうを見よ。」そこで、私が目を上げて北のほうを見ると、北のほうの祭壇の門の入口にねたみの偶像があった。8:6 この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」

 そうですね、いま説明した「忌まわしいこと」とは、主の栄光が満ちている、主が臨在されている聖所において偶像が据え置かれているのです。ヨシヤ王が宗教改革を行なった時、神殿の中にアシェラ像を運び出しましたが(2列王23:47)、ヨシヤの死後、同じアシェラ像を中に取り入れたものと考えられます。

2B 忌むべき偶像 7−13
8:7 それから、この方は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、壁に一つの穴があった。8:8 この方は私に仰せられた。「人の子よ。さあ、壁に穴をあけて通り抜けよ。」私が壁に穴をあけて通り抜けると、一つの入口があった。8:9 この方は私に仰せられた。「はいって行き、彼らがそこでしている悪い忌みきらうべきことを見よ。」

 非常に興味深い幻です。隠れた所で、暗い所で行なっていることを見せるために、エゼキエルに壁に穴を開けさせています。

8:10 私がはいって行って見ると、なんと、はうものや忌むべき獣のあらゆる像や、イスラエルの家のすべての偶像が、回りの壁一面に彫られていた。

 信じられますか?神殿の中で、忌まわしい偶像が彫られています。ヒンズー教など、おどろおどろしい獣の偶像がありますね。それらが彫られていました。

 また、「すべての偶像」とありますから、そこにはアシェラ、バアル、アシュタロテなどの偶像もあったことでしょう。アシェラやアシュタロテは豊穣の女神で、現代のポルノと同じ役割を果たしています。性的に興奮させる像です。

8:11 また、イスラエルの家の七十人の長老が、その前に立っており、その中にはシャファンの子ヤアザヌヤも立っていて、彼らはみなその手に香炉を持ち、その香の濃い雲が立ち上っていた。

 そこにいるのは七十人の長老です。ユダヤ人議会であるサンヘドリンは、70人で構成されていますが、それはかつてモーセの他に70人の長老を聖別されたことから、始まっています。これら霊的な指導者であるはずの人々が、なんとこのおぞましい偶像礼拝と好色を行なっていたのです。「香炉」を手に持っていたとありますが、これはそれぞれの異なる神に対するもので、主なる神に対するものではありません 

 「ヤアザヌヤ」という長老の一人の具体名が出ていますが、彼は「シャファン」の息子であるとあります。ヨシヤに対して、神殿で発見された律法の書を読んだ書記でありますが、その息子たち、孫には、預言者エレミヤの預言を、恐れをもって受け止めていた人々もいます。例えば、ゲマルヤはエレミヤの書記バルクがエレミヤの預言をエルサレムの人々に読み聞かせるために、自分の部屋を使わせていました(エレミヤ36:10)。

 ところでここでは、その兄弟であるヤアザヌヤが偶像礼拝の深い所を行なっていたのです。「まさかヤアザヌヤが・・・」というショックを、エゼキエルは受けていたかもしれません。

8:12 この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」8:13 さらに、私に仰せられた。「あなたはなおまた、彼らが行なっている大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」

 この「暗い所」は、「想像する所(place of imaginary)」と英語の欽定訳は訳しています。思いの中で、偶像礼拝を行なっていた、乱れたことを考えていた、ということもできるのです。外側は、敬虔を装っていながら、思いの中で不品行と貪りを起こしていた、ということができます。

 私たちもこのような隠れた所、暗い所、人には一切知られていないが、自分だけが楽しんでいる汚れはないでしょうか?ダビデは、「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。(詩篇139:1-2」と言いました。思いもことごとく読み取られているのが、私たちの主です。この思いを清く保っておくことが、私たちのキリスト者としての務めの中で、最優先事項の一つになります。パウロは、「すべてのはかりごと(=思い)をとりこにしてキリストに服従させ(2コリント10:5」と言いました。

 そして彼らは、「主は私たちを見ておられない」と考えていました。もちろん見ておられるのです!10章には、ケルビムの体全体、そして輪にも、目がたくさんついているとあります。すべてを見て、知っておられるのです。「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4:13

 この神の知識がおそらく、私たちが罪を避けることができるかそうでないかの分かれ目になるでしょう。主がすぐそばにおられて、自分を見ておられることを知っているならば、罪を犯そうと意図することはできません。必ず主はここにはおられない、という前提でなければ、罪を犯すことはできません。

 そして、主が見ておられないと彼らが考えた理由が、「主はこの国を見捨てられた」とあります。今、エルサレムの町が包囲されているのは、主がここに目を留めておられないからだ。もう見捨てられたからだ、という考えだったのです。そうではなく、彼らの罪のゆえにそうなっているのであり、彼らが悔い改め、主のところに立ち返るためにそのようにされているのに、自分の責任を差し置いて、すべて主のせいにしているのです 

 このような態度を、私たちは多くの人が持っています。自分の周りで起こっている問題を見て、そこで主に自分たちを探っていただき、悔い改めるべきことがあれば悔い改める、そのようなへりくだった態度が必要です。ところが、今まで通りに神に拠り頼まず、自分中心に生活し、状況がもっと悪くなったときに、神を非難するのです。

 私たちは神に対して心を苦くすると、罪を犯します。故意に罪を犯します。主が善のみを意図しておられることを受け入れず、意地悪をさせているのだと考えるとき、悪魔の囁きに応じて、神に対して意図的に反発するのです。この苦みについて、ヘブル書の著者はこう戒めています。「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、(ヘブル12:14-15

3B タンムズと太陽 14−16
8:14 ついでこの方は私を、主の宮の北の門の入口へ連れて行った。するとそこには、女たちがタンムズのために泣きながらすわっていた。8:15 この方は私に仰せられた。「人の子よ。これを見たであろうが、あなたはなおまた、これよりも大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」

 タンムズはバビロンの神です。イシュタルという愛と性の女神の夫ということになっています。砂漠地方で、春に草木を生えさせる神とされており、夏になるとたちまち枯れてしまうため、タンムズが死に、陰府に下ったと考えるのです。それで、このことを女たちは夏になると悲しむ、ということです。

 このように、エルサレムの住民は、イスラエルとユダの地方にあった偶像を拝んだだけでなく、なんと敵国の神であるタンムズまでを拝んでいたのです。

8:16 そして、この方は私を主の宮の内庭に連れて行った。すると、主の宮の本堂の入口の玄関と祭壇との間に二十五人ばかりの人がおり、彼らは主の宮の本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた。

 「本堂の入口の玄関と祭壇の間」ということは、祭司やレビ人たちであることは明らかです。交代制で神殿の奉仕につく祭司の家族が、24人割り当てられていることが歴代誌第一24章に書かれています。さらに大祭司を加えると「二十五人」になります。

 そして彼らが、なんと「本堂に背を向け、顔を東のほうに向けて、東のほうの太陽を拝んでいた」とあります。異教において、大抵、主要な神は太陽です。エジプトではラーという太陽神があります。日本でも、あの国旗がそうであるように太陽を神とする宗教を持っています。だから当時の人々は、太陽が昇る方角、東を向いて礼拝していたのです。日本でも「日の出」を拝む習慣がありますが、それは、世界的に異教はそうなのです 

 そこで、あえて主なる神は、ご自分を礼拝する時に、その至聖所を西に置きました。東の門から入り、西に向かって祭壇、洗盤があり、そして幕屋の中の聖所、至聖所と、祭具が西に向かって一直線に並んでいます。これは、異教の神々から背を向けることによって、初めてまことの神である主に礼拝することができるように、主があえてその反対の方角をお決めになったのです。

 日本人など、異教の習慣がある人は、偶像礼拝を捨てなければいけないという教えに対して、拒否反応を示します。「キリストの教えは良いが、別に仏壇で手を合わせて、神社で手を叩いても良いだろう。」と思うのですが、それは神の意図されている礼拝姿勢ではないのです。神をあがめるということは、ちょうど女が男に結婚によって結ばれるように、一対一の人格的な、誓約にもとづいた関係なのです。偶像との決別をしなければなりません。

 ですから、ここで25人の祭司らが行なっていることは、その全く逆の行為、完全な神に対する背信行為です。神に対する信仰を捨てたのも同然です。

4B 神の怒り 17−18
8:17a この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたはこれを見たか。ユダの家にとって、彼らがここでしているような忌みきらうべきことをするのは、ささいなことだろうか。

 そうですね、私たちは罪を犯しているとき、それが「些細なこと」だと思ってしまいます。けれども、そうではありません。

8:17b彼らはこの地を暴虐で満たし、わたしの怒りをいっそう駆り立てている。見よ。彼らはぶどうのつるを自分たちの鼻にさしている。

 この表現はまさに「鼻であしらう」ことを意味するものです。「フン!」と鼻を突き上げる、あの姿を、ぶどうのつるを自分の鼻に刺している、と言います。

8:18 だから、わたしも憤って事を行なう。わたしは惜しまず、あわれまない。彼らがわたしの耳に大声で叫んでも、わたしは彼らの言うことを聞かない。」

 主は、このような時に聞いてくださる祈りがあります。それは、「悔い改め」の祈りです。主は悔い改める者に対しては、すぐにでも憐れみを注いでくださいます。けれども、ここでは悔い改めることをせず、「ただ救ってください」と祈ることです。このように、罪がある状態でいのる祈りを、主は聞いてくださいません。

2A 町の虐殺 9
 そこで主は、これらの者たちに裁きを下されます。

1B 打ち殺す天使 1−2
9:1 この方は私の耳に大声で叫んで仰せられた。「この町を罰する者たちよ。おのおの破壊する武器を手に持って近づいて来い。」9:2 見ると、六人の男が、おのおの打ちこわす武器を手に持って、北に面する上の門を通ってやって来た。もうひとりの人が亜麻布の衣を着、腰には書記の筆入れをつけて、彼らの中にいた。彼らははいって来て、青銅の祭壇のそばに立った。

 六人の武器を持つ人、そして亜麻布の衣を着て、書記の筆入れを持っている人の合計7人です。彼らは天使または天的な存在です。ゼカリヤ書には、全世界に戦いを挑む戦車と馬が四頭出てきます(6章)。出エジプト記でも、エジプトの初子をことごとく殺す御使いがいましたね。神の裁きを下す、戦う天使です。

 天使は、「仕える霊であって、救いの相続者なる人々に仕えるために遣わされた(ヘブル1:14」とヘブル書にありますが、私たち信者を守ったり、疲れている時、元気づけたりします。けれども、ここにあるような裁きを下す役割も任じます。

 そして書記の役割をする天使は、この六人の実行部隊を管理する者であり、主からの命令を忠実に行なう者です。「亜麻布」は神の輝きと清さと純粋さを表します。黙示録に出てくる天使が亜麻布を着ています(例:15:7)。

 そして彼らが「青銅の祭壇」のそばに立っています。神の裁きを表す祭壇です。

2B 額の印 3−7
9:3a そのとき、ケルブの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルブから立ち上り、神殿の敷居へ向かった 

 初めに話しましたように、ここで主の栄光が至聖所から神殿の敷居に動いています。そして後に、敷居から東の門に、そして東の門から東の山、オリーブ山に移動します。

9:3bそれから、腰に書記の筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ている者を呼び寄せて、9:4 主は彼にこう仰せられた。「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」

 これから天使たちが虐殺を行なっていくのですが、この印を見たならば、天使たちはその人を殺しません。神のものにされている人々であることの印です。覚えておられるでしょうか、黙示録で患難時代において、初めに144千人の人が額に神の印を押されました。「また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。彼は、地をも海をもそこなう権威を与えられた四人の御使いたちに、大声で叫んで言った。『私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。』(7:2-3」彼らは、患難を通り過ぎて、主が地上に再臨するまで、害を受けずに生き残ります(14章)。

 ヘブル語では、この「印」は単にヘブル語の最後のアルファベットである「タヴ」です。人々の額に「タヴ」をつけよ、と書かれています。このタヴの昔の象形文字は十字架()の形をしています。非常に興味深いですね、主の十字架を額に押されている人は、神の裁きを免れるのです。これはちょうど、出エジプト記で、門の鴨居と門柱に子羊の血を塗った家は、死の御使いは過ぎ越すというのと同じです。

 イエス様のみ、そしてこの方の流された血のみが私たちを神の裁きから守ってくれます。ペテロが手紙を書く時、こう挨拶しました。「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(1ペテロ1:2

 そして、ここの印を押された人々には、「この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる」という特徴があります。不義のゆえに心を痛めている人々です。同じような人が、ソドムの町に住んでいました。ロトです。ペテロは手紙の中でこう言っています。「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(2ペテロ2:7-9

 不義に対する悲しみ、心の痛みはとても大切なものです。不義や忌み嫌うべきものを見聞きして、心を痛めないで平気でいたら、何かが間違っています。自分の内に正しい心がないからです。けれども、もしあるならば、ここに約束されているように、誘惑から救い出してくれる、また不義な者どもに下る懲罰を免れることができるのです。

9:5 また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。「彼のあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。惜しんではならない、あわれんではならない。9:6a 年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。しかし、あのしるしのついた者にはだれにも近づいてはならない。まずわたしの聖所から始めよ。」

 この無差別殺人は歴史的に成就しました。歴代誌第二36章に、こう書いてあります。「そこで、主は、彼らのもとにカルデヤ人の王を攻め上らせた。彼は、剣で、彼らのうちの若い男たちを、その聖所の家の中で殺した。若い男も若い女も、年寄りも老衰の者も容赦しなかった。主は、すべての者を彼の手に渡された。(17節)

9:6bそこで、彼らは神殿の前にいた老人たちから始めた。

 この「老人」は「長老」と訳すことのできる言葉です。先ほどの、太陽に向かって礼拝していた25人の祭司たちのことです。とても大事な神の原則ですが、霊的な指導者は一番大きな責任を神の前に対して持っています。そして神の家である教会がその次に責任を持っています。神が裁かれる時は、神の家から裁くとペテロの手紙第一にあります(1ペテロ4:17)。

9:7 ついで主は彼らに仰せられた。「宮を汚し、死体で庭を満たせ。さあ行け。」彼らは出て行って、町の中で打ち殺した。

 死体に触れる者は汚されるという掟がありますが、主はそれを使って、その聖所にいる者たちを殺すことによって汚されます。もう聖所が聖所ではなくなり、偶像礼拝によって汚された場所となっていたからです。

3B 容赦ない裁き 8−11
9:8 彼らが打ち殺しているとき、私は残っていて、ひれ伏し、叫んで言った。「ああ、神、主よ。あなたはエルサレムの上にあなたの憤りを注ぎ出して、イスラエルの残りの者たちを、ことごとく滅ぼされるのでしょうか。」

 エゼキエル自身が、これまでの幻を預言していたのですが、彼個人の意見はこれでした。あまりにもその虐殺が酷い、主よ、これでは全ての人が滅ぼされてしまいます、という叫びです。

 すべての御言葉を取り次ぐ人々が、この痛みを持っています。もし持っていなかったら、神の愛はその人のうちにはないでしょう。人が裁かれること、滅ぼされることを見て、それを喜ぶことは決してできません。むしろ心の中で泣きながら、御言葉を語っているのです。

9:9 すると、主は私に仰せられた。「イスラエルとユダの家の咎は非常に大きく、この国は虐殺の血で満ち、町も罪悪で満ちている。それは、彼らが、『主はこの国を見捨てられた。主は見ておられない。』と言ったからだ。9:10 だから、わたしも惜しまず、あわれまない。わたしは彼らの頭上に彼らの行ないを返す。」9:11 ちょうどそのとき、腰に筆入れをつけ、亜麻布の衣を着ているその人が報告してこう言った。「あなたが私に命じたとおりに私は行ないました。 

 エゼキエルの執り成しは聞き届けられず、死刑は執行されました。前回も学びましたが、主は猶予期間を設けておられます。主は怒るに遅く、情け深い神です。忍耐深く、憐れみに富んでおられる方です。私たちが考えるとはまるで違う、途方もない期間、裁きを下さず、人々が悔い改めるのを待っておられます。

 けれども、それはいつまでも我慢しておられる、ということを意味しません。正義であられる神は、不義に対して必ず罰しなければいけません。その期限があるのです。その日を通り越したら、後は裁きしか残されていないのです。

 主は、「彼らが、主は見ておられない、と言ったからだ。」と言われました。私たちも、いつまで隠れた所で、暗い所で、主は見ておられないと思って忌まわしいことを行なっているでしょうか?これは些細なことであると、思い続けて、いつまでも止めないでいることはないでしょうか?主は今、忍耐して待っていてくださっていますが、いつまでもそうではないことに気づくべきです。今、悔い改めるべきですね。

 そして、私たちは、この体が「神の神殿(1コリント3:16」であると言われています。私たちが自分の体で行なうこと、また思いの中で描いていること、これらは直接、神の聖所における偶像礼拝と関わってきます。私たちが、たとえ人に表れなくても、心と思いを清く保っている必要がここにもあります。エゼキエルが見た幻はまさに、私たちの体、私たちの心と思いなのです。私たちに偶像がないか、私たちに神に背く心がないか、吟味する必要があります。