エズラ9−10章 「深刻な罪」


アウトライン

1A 再び犯した罪 9
   1B 色失われた顔 1−4
   2B 言葉を失った祈り 5−15
      1C 残された民 5−9
      2C 先住民の汚れ 10−15
2A 世との分離 10
   1B 民からの提案 1−17
      1C 誓い 1−8
      2C 調査 9−17
   2B 晒された名前 18−44

本文

 エズラ記9章を開いてください、今日は9章と10章を学びます。ここでのテーマは、「深刻な罪」です。エズラがエルサレムに来て早々に、イスラエルの間に深刻な罪があるのを見いだしました。

1A 再び犯した罪 9
1B 色失われた顔 1−4
9:1 これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。「イスラエルの民や、祭司や、レビ人は、カナン人、ヘテ人、ペリジ人、エブス人、アモン人、モアブ人、エジプト人、エモリ人などの、忌みきらうべき国々の民と縁を絶つことなく、9:2 かえって、彼らも、その息子たちも、これらの国々の娘をめとり、聖なる種族がこれらの国々の民と混じり合ってしまいました。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」

 1節の「これらのこと」とは、エズラの一行が無事にエルサレムに到着して、主への全焼のいけにえをささげ、王の命令書をその地方の太守たちと総督たちに渡したことです。これらのことが終わってから間もなくして、イスラエルのつかさたちの何人かがエズラのところに来て、イスラエルに起こっている罪について話しました。

 到着したのは、紀元前458年の第五の月の一日(7:9参照)で、罪を取り除くことをエズラが民の前で話すのが同じ年の第九の二十日(10:9参照)です。したがって、エズラたちが到着してから五ヶ月経たないうちに、エルサレムに帰って神によってやり直しの国民生活をこれから建て上げようとしたその矢先に、衝撃的な知らせを聞くことになります。

 これはエズラ側ですが、総督ゼルバベルの下でやって来たイスラエル人とその子たちにとっては、霊的指導者であるエズラが来たことによってイスラエルの中で行なわれている悪を話す機会が与えられました。ちょうどパウロがエペソにいるときに、コリントからクロエの家の者がやって来て、コリントにある教会で起こっている諸処の問題を彼に伝えたのと似ています。

 そして中身も、コリントにある教会と似たようなことでした。つまり、異教徒との婚姻関係を持ちそのために、異教徒の偶像礼拝や汚らわしい行ないがイスラエルの中に入り込んで来ていたことです。ここでの問題は単に混血の問題ではありません。かつてモアブ人ルツがイスラエル人のボアズに嫁ぎましたが、ボアズと彼女との婚姻関係を咎めるような箇所は一切ありません。それはルツがイスラエルの神に、イスラエルの民に自分を一体化させて、改宗者になっていたからです。

 ここでの問題は、神が忌みきらう偶像礼拝や不品行を、最も親密で深い結びつきである婚姻においてイスラエルの中に持ち込むことであります。かつて荒野の旅を続けているイスラエルの民に、モアブ人の娘たちが入り込んでイスラエルの男たちが彼女たちと不品行を犯し、彼女たちの神々を拝み始めた、その時の状況に似ています。

 そして「聖なる種族」についてかしらたちは言及しています。イスラエルには、アブラハムへの神の約束である、「あなたの子孫から、世界のあらゆる民族が祝福を受ける」という約束を保つには、イスラエル人同士の婚姻でなければいけなかったからです。ダビデの子であり、アブラハムの子孫である方がメシヤであり、イスラエルがこの血における純潔も守ったがゆえにイエスさまをこの世に輩出することができたのです。この系統を台無しにする危険がありました。

9:3 私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。9:4 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。

 あまりにも大きな衝撃を受けて、エズラの顔から血が引きました。呆然となり、夕方のささげ物の時刻、午後三時ごろまで何もできないでじっと座っていました。その間に、神のみことばを畏れる人たちがエズラのところに集まってきました。神のみことばとは、後でエズラが引用しますが、約束の地のところにいる住民と結婚してはならないという戒めです。一見、何か悪いことのように思えない戒めです。けれども、神のみことばを畏れているので、このみことばについても真剣に受け止めているのです。

2B 言葉を失った祈り 5−15
 そしてエズラは祈ります。

1C 残された民 5−9
9:5 夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、9:6a 言った。

 着物や上着を裂くのは、激しい感情を抱いた時にユダヤ人が取ったジェスチャーです。そして、ひざまずいて主に向かって手を差し伸ばしているのは、ただただ主の憐れみを請う姿です。

9:6b「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。

 顔も上げるのも恥ずかしいというのは、もう神に対して何も言うことができない、言い訳することも何もいうこともできない、ということです。そして、咎が頭よりも高く、罪過が天にまで達するというのは、神の御怒りを招かないでいられるような軽々しい罪ではない、ということです。彼が「咎」とか「罪過」という言葉を使っているのにも注目してください。「罪」は知らないで犯すものですが、咎や罪過は知りながら、もう罪であると十分に知識として与えられていながら、それでも犯す違反行為のことです。

 エズラは、イスラエルが犯している罪を自分は何も犯していないことに気づいてください。かつて同じ9章にてダニエル書の中にダニエルが、イスラエルがバビロンへ捕われの身になったのは私たちが罪を犯したからだ、と告白しました。ダニエルは罪を犯していなかったのに、自分のものとして受け入れて、告白したのです。これが執り成しの祈りです。自分がキリストの愛を持っていて、その愛している人々と一体化させ、彼らと同じところに立って祈ることです。人々が失われて、滅びに向かうことを知っている人は、その人が失われてしまうかもしれないことを思って、涙ながらに祈るのと同じです。愛はこのような、涙と叫びをも伴います。

9:7 私たちの先祖の時代から今日まで、私たちは大きな罪過の中にありました。私たちのその咎のため、私たちや、私たちの王、祭司たちは、よその国々の王たちの手に渡され、剣にかけられ、とりこにされ、かすめ奪われ、恥を見せられて、今日あるとおりです。

 これはダニエルがいのった祈りと同じです。先祖たちや自分たちの罪によって、捕われの身になったことを告白しました。そして捕囚後のイスラエルの状態についてエズラはこう祈ります。

9:8 しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした。

 神の正義にしたがえば、イスラエルがさばかれて滅び尽くされてもおかしくありませんでした。にもかかわらず、今ここに、帰還の民としてエルサレムに住むことが許されています。「聖なる所に一つの釘」というのは、着物や衣をかけておくための突き出た釘との解釈があります。つまり、聖なる所に自分たちの居場所がある、という意味です。

9:9 事実、私たちは奴隷です。しかし、私たちの神は、この奴隷の身の私たちを見捨てることなく、かえって、ペルシヤの王たちによって、私たちに恵みを施し、私たちを生かして、私たちの神の宮を再建させ、その廃墟を建て直させ、ユダとエルサレムに石垣を下さいました。

 イスラエルが独立を失い、アッシリヤとバビロンによって捕え移されましたが、それはペルシヤにおいても同じでした。彼らは主権と独立をバビロン捕囚以来失いました。独立したのは、実は1948年、エルサレムの町に限って言えば1963年のことなのです。だから、彼らはその時も奴隷の身なのですが、ペルシヤの寛大な政策によってエルサレムに住み、神殿を建て直すことさえ許されました。本当なら滅びなければいけないのに、このようにやり直しを与えてくださっている神は、恵みと憐れみの神だということです。

2C 先住民の汚れ 10−15
9:10 今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てたからです。

 神が完全にさばくのを止められて、やり直しを与えてくださったのに、その機会をすべて台無しにしてしまった今、何も言うことができません、とエズラは告白しています。私たちにも、このような罪の犯し方をすることはないでしょうか?せっかく私たちの罪をきよめて、神が新たないのちを与えてくださったのに、再び同じことを行なってしまう・・・。何も神に申し上げることができません。

9:11 あなたは、あなたのしもべ、預言者たちによって、こう命じておられました。『あなたがたが、はいって行って所有しようとしている地は、そこの国々の民の、忌みきらうべき行ないによって汚された汚らわしい地であり、その隅々まで、彼らの汚れで満たされている。9:12 だから、今、あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、彼らの娘をあなたがたの息子にめとってはならない。永久に彼らの平安も、しあわせも求めてはならない。そうすれば、あなたがたは強くなり、その地の良い物を食べ、これを永久にあなたがたの子孫のために所有することができる。』と。

 これは、レビ記18章と申命記7章からの引用です。先に説明したとおり、先住の民は汚れに満ちていました。考古学の発掘にて、その土地で幼児を犠牲のいけにえとして神々にささげた跡など、その忌まわしい行ないが発見されました。だから彼らを追い払わなければいけない、彼らと結婚してはならない、という戒めです。

9:13 私たちの悪い行ないと、大きな罪過のために、これらすべてのことが私たちの上に起こって後、・・事実、私たちの神、あなたは、私たちの咎の受けるべき刑罰よりも軽く罰し、このようにのがれた者を私たちに残してくださいました。・・

 先住の民の忌まわしい行ないをユダの王アハズやマナセなどが取り入れましたが、それゆえに彼らはその土地から引き抜かれました。にも関わらず神が完全に罰することをなさらなかった、私たち残された者がいる、ということです。

9:14 私たちは再び、あなたの命令を破って、忌みきらうべき行ないをするこれらの民と互いに縁を結んでよいのでしょうか。あなたは私たちを怒り、ついには私たちを絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされるのではないでしょうか。

 以前のときに増して、イスラエルを全滅させるにふさわしい状態に自らさせてしまった、ということです。

9:15 イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」

 ダニエルのときよりも、さらに激しい痛恨の念です。神が啓示された御言葉に自分たちを照らして、その通りに自分たちを評価しています。正しい神の前で、今私たちが罪過をもったまま座っています、と言っています。

 このように自分をさばく姿は、使徒パウロがコリントにある教会に書いた言葉にもあります。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」こんなに自分を責めなくても良いのではないか?と私たちは思ってしまうかもしれません、むろん無目的に殊更に自分を責める必要はなく、主のさばきに自分を任せるパウロの姿がコリント第一4章にあります。けれども、主の御言葉を客観的に見るとき、自分に都合の良いように一部の言葉だけを信じて他の御言葉を退けたりせずに、書かれてあるとおりに自分を見つめるときに、私たちはここのエズラと同じ、正しい神と罪をまとった自分の姿の対比が浮かび上がります。そこに真の悔い改めと、罪への悲しみが生まれます。ヤコブが手紙の中でこう言いました。「あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:9-10

2A 世との分離 10
1B 民からの提案 1−17
1C 誓い 1−8
10:1 エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。

 エズラが信者たちへの模範になっています。彼の涙が、この敬虔な悲しみが他のイスラエル人たちに伝播しました。

10:2 そのとき、エラムの子孫のひとりエヒエルの子シェカヌヤが、エズラに答えて言った。「私たちは、私たちの神に対して不信の罪を犯し、この地の民である外国の女をめとりました。しかし、このことについては、イスラエルに、今なお望みがあります。10:3 今、私たちは、私たちの神に契約を結び、主の勧告と、私たちの神の命令を恐れる人々の勧告に従って、これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行ないましょう。10:4 立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」

 イスラエルの民の中から、神に立ち返るための方法が提案されています。真の悔い改めですね、上の指導者の押し付けによる悔い改めではなく、内から湧き上がるところの悔恨の思いです。

 そしてこのシェカヌヤが「妻たちと子どもたちをみな、追い出しましょう」と言っているその提案は本当に意味があります。後ででてくる彼の父エヒエルも、外国人の女を娶った名として挙がっています(10:26)。その他にも同じ氏族から何人かの名が出ていますが、彼は自分の家族、氏族の中で妻や子らを追い出すという、あまりにも痛々しい出来事が起こることを承知の上でエズラに話しているのです。しかし、主のみことばを畏れるその畏れから、彼はこの痛みを受け取る用意ができていました。

 イエスさまが弟子たちに、「なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。(マタイ10:35」と言われました。パウロが、近親相姦の罪を犯している者を教会から取り除きなさい、という命令も出しています(1コリント5:13)。そこにはどれだけの痛みがともなうでしょうか、パウロも涙と痛みをもってそのことを命令しました。けれども、私たちが罪から離れ、この世から離れるときに、イエスさまが「目がつまずかせるなら、その片目をえぐり出しなさい。」と言われたほどの分離が必要な時があります。

10:5 そこで、エズラは立ち上がり、祭司や、レビ人や、全イスラエルのつかさたちに、この提案を実行するように誓わせたので、彼らは誓った。

 エズラはシェカヌヤの提案をイスラエル全体の誓いにしました。

10:6 エズラは神の宮の前を去って、エルヤシブの子ヨハナンの部屋に行き、パンも食べず、水も飲まずにそこで夜を過ごした。捕囚から帰って来た人々の不信の罪を嘆き悲しんでいたからである。

 ヨハナンは大祭司エルヤシブの孫に当たります。

10:7 そこで、彼らは、捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するようにと、ユダとエルサレムにおふれを出した。10:8 それには、つかさたちや長老たちの勧告に従って、三日のうちに出頭しない者はだれでも、その全財産は聖絶され、その者は、捕囚から帰って来た人々の集団から切り離されることになっていた。

 かなり厳しい勧告です。これは、もしここで罪を取り除くことをしなかったら私たちはただ罪の中で滅びるだけであるという真剣な思いがあるからです。また、エズラにはペルシヤの王から律法にしたがって人々をさばきなさいという命令を受けているので、彼の勧告には法律の強制力がありました。

2C 調査 9−17
10:9 それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちに、エルサレムに集まって来た。それは第九の月の二十日であった。こうして、すべての民は神の宮の前の広場にすわり、このことと、大雨のために震えていた。

 第九の月の二十日は11月下旬から12月にかけてです。イスラエルは雨期にあり、天候もかなり肌寒いです(エルサレムでは、雪になることもしばしばあります。)。その中でエズラの勧告に来なければいけませんでした。とてつもない罪の自覚と、またこれから下される裁きへの恐れがあって震えていただけでなく、寒さの中でずぶぬれになっていて震えていました。

10:10a 祭司エズラは立ち上がって、彼らに言った。

 今エズラは、学者としてではなく祭司として、神の取り扱いを伝える器として立っています。

10:10b「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。10:11 だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい。」

 三つのことを命じています。一つは、告白することです。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28:13」と箴言にあります。そして、二つ目は「御旨にかなったことをする」ことです。つまり、神を喜ばせることであり、自分が行なっていることが正しいか正しくないかと判断するのではなく、神に喜ばれることなのか、そうでないのかということになります。

10:12 全集団は大声をあげて答えて言った。「必ずあなたの言われたとおりにします。10:13 しかし、民は大ぜいであり、また、大雨の季節ですから、私たちは外に立っていることができません。しかも、これは一日や二日の仕事でもありません。このことでは、私たちの多くの者がそむいているのですから。10:14 私たちのつかさたちは全集団に代わって、ここにとどまっていただきたい。そして、私たちの町で外国の女をめとった者がみな、定まった時に、それぞれの町の長老たちとさばきつかさたちといっしょに出て来るようにしていただきたい。そうすれば、このことについての私たちの神の燃える怒りは、私たちから遠ざかるでしょう。」

 これは組織的に、それぞれの家族を調べてきちんと除去するという提案です。これは賢いです。地域の長老たちと裁判官は、ぞれぞれの家族の状況を一番把握しています。

10:15 アサエルの子ヨナタンとティクワの子ヤフゼヤだけは、メシュラムとレビ人シャベタイの支持を得て、これに反対したが、10:16a 捕囚から帰って来た人々は、その提案どおりにした。

 反対者はもちろんその罪を犯しているから反対しているわけですが、今ここでエズラは名前を明らかにしています。後で罪を犯した者たちの名を列挙して、それでこの書を終えます。

10:16b祭司エズラは、彼らの一族のために、一族のかしらのある者たちをみな、名ざしで選び出した。こうして、彼らはこのことを調べるために、第十の月の一日に会議を始め、10:17 第一の月の一日までに、外国の女をめとった男たちについて、みな調べ終えた。

 召集したのは三日で終わりましたが、調査は三ヶ月かかっています。それだけ数多くの人たちが外国人を娶っていました。

2B 晒された名前 18−44
10:18 祭司の子らのうちで、外国の女をめとった者がわかったが、それはエホツァダクの子ヨシュアの子たちと、その兄弟たちのうちから、マアセヤ、エリエゼル、ヤリブ、ゲダルヤであった。

 見てください、総督ゼルバベルとともに神殿建設を指導した大祭司ヨシュアの子たち、またヨシュアの兄弟たちが外国人を娶っていました。霊的指導者の長が罪を犯していました。

10:19 彼らはその妻を出すという誓いをして、彼らの罪過のために、雄羊一頭を罪過のためのいけにえとしてささげた。

 罪過のためのいけにえとは、損害賠償をともなったところのいけにえです。神に対する罪は心の問題ですが、物理的に妻を出すという害を与えたので、その償いとしてのいけにえであります。

 22節までは祭司たちの名が、23節からはレビ人の名です。歌うたいや門衛の中にも外国人を娶っていました。現代版にすると、教会の牧師や長老たちが風俗店に通っていたのが暴かれた、というところでしょうか?指導者の中で罪がはびこっていました。

 そして25節以降は一般のイスラエル人です。最後44節に飛びます。

10:44 これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた。

 簡単に、エズラは彼らをさらし者にしたわけです。罪を犯したことが、代々、この書を読む人たちに露にされるために実名を書き記しました。このように、開かれて明らかにされる書物が他にあります。天に、神の御許にあります。黙示録20章の最後に、白い大きなさばきの御座で、父なる神が数々の書物を開かれ、いのちの書も開かれた場面が出てきます。その書に書き記されていない者たちは火と硫黄の池に投げ込まれます。ですから、エズラの時代、地上におけることだけでなく天において、このように書物に書かれている名前が明らかにされるのです。

 私たちは、これだけ罪に対して大きな自覚を持っているでしょうか?「どうせ赦されるのだから」という甘い気持ちを持っていないでしょうか?もちろん、神は悔い改める者の罪を赦してくださいますし、実際、エズラたちのこの悔い改めによって神のさばきは下りませんでした。けれども、「自分をさばくものは、さばかれない。」と書かれてあるとおり、自分自身を神のみことばに照らして見ることが必要なのです。神の基準は正しく、変わることはありません。その中に自分を置くときに、初めて神の真実を、神の光を知ることができるでしょう。


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