創世記11章1−9節 「天に届く塔」

アウトライン

1A 神の命令 「地に満ちよ」
   1B ノアのような礼拝の生活
   2B 民族と言語の分布(10章)
2A 家を建てる人々
   1B 平地への定住(快適な生活)
   2B 煉瓦と瀝青の住まい(保証された生活)
3A 塔を建てる人々
   1B 「町を建てよう」(人間のプログラム)
   2B 「名を上げよう」(高慢)
   3B 「全地に散らされるといけないから」(公然の反抗)
4A 神がもたらす混乱
   1B 降りて来られる主(思い上がり)
   2B 散らされる主(強制)
5A 天からの梯子 ヨハネ151
   1B 兄から逃げて独りになるヤコブ
   2B へりくだる者への祝福

本文

 私たちは、前回、ノアの箱舟から家族が出てきた話まで読みましたが、明日の第二礼拝では9章から11章まで学んでみたいと思います。今晩は、111節から9節に注目してみたいと思います。

11:1 さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。11:3 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。11:4 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」11:5 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。11:6 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。11:7 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」11:8 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。11:9 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

1A 神の命令 「地に満ちよ」
1B ノアのような礼拝の生活
 さて、私たちがこの前の日曜日に読んだ創世記8章の終わりには、ノアが洪水後の箱舟から出てきた時に、初めに行なったことが全焼のいけにえを神に捧げた場面でした。「主のために祭壇を築」いた、とあります(20節)。彼は、すべての地上の生き物が水によって消し去られ、まったく新しい世界を自分の目の前で見ていたにも関わらず、生活を建て上げ、家を建て、農地を切り開き、自分の名を挙げようなどと考えませんでした。そうではなく、これまで一年ぐらい続いた箱舟での生活を主が守ってくださったこと、確かに主がご自分の言葉に対して真実であられらことを、感謝をもって、礼拝を捧げたのです。

 全てのことが神から来ていることを私たちはしばしば忘れますが、ノアのように感謝し、自分自身を捧げる生活を送りたいものです。

 そして主はノアとその息子たちを祝福して、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。(9:1」と言われます。かつてアダムの子孫が増えていったように、ノアに対しても増え広がるように命じられました。特に主は、「地に満ちよ」と命じられています。一箇所にとどまるのではなく、世界に散っていき、そこで主をあがめ、ノアのように主の前に謙虚に仕える生活を願っておられました。

2B 民族と言語の分布(10章)
 ところが次の10章に入りますと、ノアの息子から出た民族の分布図があります。世界の様々な民族が彼らから出てきました。そして、「それぞれの国々の国語があった。(5節)」と書いてあります。ノアの家族ですから、一つの家族のはずです。そして話す言語も一つのはずです。ところが、様々な言語に分かれている姿を見ます。今日、私たちが見ている世界と同じように、どこかの時点で言葉が分かれ、そして民族に分かれていったのです。

2A 家を建てる人々
 それを実は、11章で知ることができます。言葉がばらばらになった経緯が書いてあります。それが今読んだ、「バベルの塔」の事件です。

1B 平地への定住(快適な生活)
 2節に「そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。東の方から彼らは「シヌアルの地」、つまりユーフラテスの下流地域に移ってきました。今のイラクの南部であり、後にここに古代の世界帝国であるバビロンが建てられる地域です。

 ここが「平地」であったとあります。つまり、彼らは山地のような起伏のある不便なところではなく、住みよい平地に移動した、ということになります。ごくごく普通の、人間の行動ですね。人々の移動は、なるべく快適なところを求めます。あえて不便なところに行こうとはしません。

 私たちが海外で宣教活動をしていた時に、しばしば聞かれた質問は、「わざわざ、なぜこんなところにまで来たのか?」と言うものでした。日本がいかに経済的に発達していて住みよいかを彼らはよく知っていたのです。クリスチャンまでが同じ質問をしました。それで私は答えました。「確かに生活は日本のほうがずっと楽だ。けれども、霊的にはこっちのほうがずっと楽ですよ。」と。生活が不便な分、神様に頼らなければいけないことがたくさんありました。これまでは生活が便利だったから、それに頼っていたのですが、それは霊的には、信仰的には不健全です。それが比較的少ないので、むしろ神を見上げることが容易だったのです。

 生活が便利になり、快適になり、豊かになることは決して悪いことではありません。事実、ノアとその家族は新しい世界の中で平穏な暮らしをしていたことでしょう。けれども、生活の中における困難、逆境、不便は、むしろ私たちが神を追い求める良い機会になります。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:2-3」そして平穏な時でも、いつもこれらが神から与えられた恵みであることを思って、感謝していれば良いのです。

2B 煉瓦と瀝青の住まい(保証された生活)
 けれども往々にして、私たちはその罪の性質から、快適な生活に入ると、しだいに神ではなく自分たちでその空間を守ろうとします。次の3節をご覧ください。「彼らは互いに言った。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。」なぜ彼らは丈夫な煉瓦で、しかも瀝青を用いたのでしょうか?瀝青とは、コンクリートの道路を作る時に使うアスファルトのことです。

 これは、彼らがノアの時代の後の世代であることを思い出せば理解できます。水の裁きのことを彼らは考えていたのです。大洪水が起こったことを思い出し、それから守られるために自らその対策を立てなければいけないと思ったのです。

 けれども、洪水による裁きはなぜ起こったのでしょうか?人類が悪に傾き、まったく堕落していたからです。主の中にとどまっていることこそが、私たちにとっての安全なのです。それにも関わらず、彼らは自分たちで自分たちを守ろうとしてしまいました。

 彼らがこのようなことを行なっている、その動機は何でしょうか?何が彼らをそのように駆り立てているのでしょうか?「不安」ですね。自分たちに災害が下ってしまうかもしれない、という不安です。だから彼らは生活の安全保証を求めたのです。

 私はここで、家の造りを安全にするな、地震対策や火災、水害対策をするなという話をしているのではありません。また、生命保険や損害保険に入るな、という話もしていません。そうではなく、自分の孤独感や不安感を埋められるのは、唯一、神のみなのだ、ということです。すべてのことは神から来て、神によって成り、神に至るということを知ることです。

 ルツ記というところに、イスラエル人の家族に嫁いだモアブ人のルツの話があります。彼女は、ナオミという姑を持っていましたが、その息子と結婚しました。けれども夫は死に、そしてナオミの夫、つまり舅も死んでしまいました。ナオミと自分、そしてもう一人の息子の嫁であったオルパしか残っていませんでした。ナオミの強い勧めでオルパは、モアブ人の自分の実家に戻りましたが、ルツはナオミにしがみついて離れませんでした。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ1:16」そう言って、亡き夫の故郷であるベツレヘムにナオミといっしょに言ったのです。

 まったく新しい外国の地にルツはいたのですが、彼女は落穂拾いをしている時に、ボアズという人の畑で拾っていました。ボアズはそれを見て、ルツの事情もすべて来て、彼女にこのようにねぎらいの言葉を言っています。「主があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。(2:12」神が鷲のような大きな鳥に例えて、そしてその翼の下に避け所を求めた、と言っているのです。

 女性の人であれば、この安心感がすぐに理解することができるでしょう。独りでいることの不安感です。私たち男も、もちろん同じように不安を感じます。けれども、それを埋めてくださるのは神ご自身であり、あたかも翼で私たちを覆ってくださるように、覆って守ってくださるのです。詩篇にも、「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(17:8」という言葉があります。翼だけでなく、瞳つまり目の瞳孔のようにして私たちを守ってくださるのです。

3A 塔を建てる人々
 けれども、ここに出てくる人々はそのようには考えませんでした。自らの不安を自らの手で獲得しようとしました。それで家が建てられます。物事が上手くいくと、次に私たちが考えることは何でしょうか?「高慢」や「うぬぼれ」です。

1B 「町を建てよう」(人間のプログラム)
 4節に、「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」とあります。町を建てるというのは、自分たちの努力や行ないによって物事を造り出すということです。もはや、神の御霊の導きによって、神に従って、神が自分たちを通して物事を行なっていただくのではなく、全てを自分たちで行なおうとしています。

 ここでも町を建てること自体が間違っていることではなく、「我々は」という自分の意志が問題なのです。イエス様は似たような人を例えで語られましたが、ある大金持ちの畑が豊作になりました。「そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』(ルカ12:17-19

 分かりますか、日本語では主語の代名詞が省略されていますが、「私が」「私が」と言って、計画を立てていたのです。その心に何ら神様が介在する余地がなかったのです。それで神は、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。(20節)」と言われました。

 もしかしたら明日、交通事故に遭って死んでしまうかもしれないのです。自分自身が霧のように簡単に消え去ってしまうかもしれない、か弱い存在なのだということを知らなければいけません。そこで使徒ヤコブはこう言いました。「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』(4:15」今日、このように生きられるのも神の憐れみによるのだということを知って、それで主が自分の生活に生きておられるのを認めながら、一歩、一歩、前に進むのです。

2B 「名を上げよう」(高慢)
 そして彼らの高ぶりは、究極に達します。「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。」とあります。事実、今のシヌアルの平地、古代バビロンの地域に「ジグラット」という階段状の塔の遺跡が残っています。ピラミッドに少しだけ形が似ています。上がっていって、頂上で、月や星など天体を神々として拝んでいました。

 彼らは、自分たちが天にまで、つまり神の領域にまで達することができると驕り高ぶりました。これは、「私たちは生活のすべてのことを自分たちで支配できる。聖書で言っている神は要らない。私たちが必要なことをすべて行なうのだ。」という表明です。

 これは悪魔が初めに犯した罪であることは習いましたね?彼は神のようになろうとして堕落しました。そしてエバは同じ誘惑によって、神のように賢くなるという誘惑を受けて、それに負けました。「神はいない。」または「神は要らない。」と言っているのは、実は、そう思わせているサタンがいるということです。

3B 「全地に散らされるといけないから」(公然の反抗)
 そして彼らが最後に、「われわれが全地に散らされるといけないから。」と言いました。これは、初めに神がノアに祝福して、「地を満たせ」と言われた命令に故意に背いている言葉です。「満ちなさい」という命令によって、自分が神によって幸せになるということを信頼できず、自分自身で神に代用できるものを造り上げていこうとしたのです。

4A 神がもたらす混乱
 それでは、果たして彼らの思惑はその通りになるのでしょうか?

1B 降りて来られる主(思い上がり)
 まず5節をご覧ください。「主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。」とあります。彼らは天にまで届くと思っていたのですが、実に愚かなことですね。当然、届くわけがありません。ものすごい距離がまだ天からその塔まであったので、主は降りて来なければならなかったのです。「私が神のようになる、私は自分の思うままに自分の生活を治める。」というのが、いかに愚かな考えであるかはこれで分かると思います。

2B 散らされる主(強制)
 そして主は、彼らの工事を、言葉をばらばらにさせることによって止めさせました。工事をしている者通しが、突然、違う言語で話し始めたのです。当然、意思疎通ができませんから工事を中断せざるを得なくなります。それぞれの家族では同じ言語を話していたようです。それで、彼らは自分たちの住むところを新たに探して、結果的に、世界に散っていったのです。

 お分かりですか、彼らは「地に満ちよ」という命令に反抗して、自分たちで努力したのですが、結局のところ主の命令に従わざるを得なかったのです。自発的に従っていれば、さぞかし祝福されていたのに、背いたために無理やり、裁きを受ける形で従わなければならなくなったのです。

 ちょうど子供が朝起きられなくて、学校に遅刻するのに似ていますね。「ほら、早く起きなさい。」とお母さんに言われたときに起きていればいいものの、ずっと寝床から出ないものだから、父親が無理やり引っ張り出して、朝ごはんも食べる時間がなく出て行って、そして学校も遅刻して、先生からも叱られます。結局、学校に行っているのですが、従順に両親に従っていれば祝福されていたのに、背いたからその一日は惨めなのです。

 聖書には、「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるのです。(ピリピ2:11」とあります。これを従順な心で、今、この世に生きている間に告白するならば、この告白は救いの言葉となります。「イエス様、あなたは私を罪と死から救ってくださいました。ありがとうございます。あなたは私の尊い主です。」と告白できるのです。

 けれども、「イエスは要らない。」と言い続けて死んでいったのであれば、終わりの日によみがえり、最後の審判における神の前で、このことを強制的に認めざるを得なくなります。イエスがすべてのものの主であることを、歯ぎしりしながら認めなければならないのです。どちらにしても認めるのです。けれども、自ら従順になって認めるのと反抗して認めるのでは大きな違いが出てきます。

5A 天からの梯子 ヨハネ151
 私たちは、自分たちで町を建て、塔を建て、天にまで届かなくてよいのです。あなたの今、その置かれている所で、ありのままのあなたの所に天から降りてきてくださいます。天にまで届こうとしてのが、このバベルの塔ですが、聖書には、天から降りてきた梯子の話しがあります。イエス様が弟子たちに、ご自分のことを指して、「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。(ヨハネ1:51」と言われました。

1B 兄から逃げて独りになるヤコブ
 それは、ヤコブというイスラエルの先祖が、兄エサウから逃げていたときのことです。創世記28章を開いてください。父イサクが自分が死ぬ前にエサウを祝福し、神の相続をエサウに継がせようとしました。これは、主が母リベカに言われた、「兄が弟に仕えるようになる」という言葉に反したことでした。それで母リベカが、ヤコブにエサウの変装をさせて、ヤコブは父をだまして祝福を受け取ったのです。

 それでエサウがヤコブを、父の死後に殺そうと思いました。それでヤコブは急いで家を出て、リベカの親戚のいるシリヤ地方に旅に行ったのです。リベカの親戚からお嫁さんを探すためです。11節から読みます。
 

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

 お分かりですか、ヤコブはどんなにか淋しかったことでしょう。お家騒動のため独りで旅をしなければならなくなったのです。そしてたった独りで、野原で、石を枕にして寝なければいけませんでした。そのような惨めな状態であったとき、その場所に主が現れてくださいました。そして、とてつもない神の祝福の約束を与え、そして「わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守る。あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と仰られたのです。イエス様は、この天の梯子こそわたし自身であり、わたしが神から天に下ってきた、あなたのところまでいっしょにいる主であると仰られています。

2B へりくだる者への祝福
 もう自分自身で生きなくて良いのです。もう町を建て、塔を建て、天に届こうとする必要はありません。地に足をつけて、そのところで神があなたに会ってくださいます。

 そして、今、何か不都合なことが起こっていたらそれは幸いなのです。もう自分自身の力と知恵で生きなくて良い、わたしがともにいる、わたしの力と知恵で行きなさい、と言われる神がおられます。ありのままの姿のあなたのそばにいてくださいます。後に、ヤコブはかつてのノアと同じように、この場所で神に礼拝を捧げます。この生活こそ、神が「地に満ちよ」と命じられた、祝福される道なのです。神の前でへりくだり、神に感謝して生きる道です。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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