創世記18−21章  「約束の実現」


 今日は18章から21章までを学んでいきたいと思います。ここでのテーマは「約束の実現」です。私たちは今アブラハムの生涯を学んでいます。神はアブラハムに「私はあなたを祝福し、あなたの子孫を祝福する。」ということを話されました。けれども、彼の妻サラは不妊の女であって、長い間彼から子供が産まれませんでした。そこでサラは自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、ハガルからイシュマエルという子が生まれました。けれども、主はこう言われました「あなたの妻サラがあなたの男の子を生むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。(18:19)」サラから生まれる子が、約束の子どもであると主は言われました。そして私たちはこれから、主がどのようにしてこの約束を実現されるかを見ていきます。そこから私たちは、神さまがご自分の約束を必ず実現される方であることを学びます。


18章

 まず主は、サラから子が生まれることを伝えるために、ご自身がアブラハムを訪れています。その部分を読んでいきます。

 主は、マムレの樫の木のそばでアブラハムにあらわれた。ここで主ご自身があらわれています。彼が目を上げて見ると3人の人が彼に向かって立っていた。

 つまりここは、主がこの3人のうちのひとりであることがわかります。しかし私たちは主は天と地を造られた創造主であることを知っています。また神は霊であってヨハネは「今だかつて神を見たものはいない(ヨハネ1:18)」と言っています。なのに、ここで、アブラハムは主を見ています。これはいったいどういうことでしょうか。実はこれは、マリヤからお生まれになる前の、受肉前のキリストです。キリストは2千年前から存在していたのではなくて、永遠の昔からすでにおられて、このように紀元前2千年頃から生きていたアブラハムにも、あらわれてくださいました。そして他の2人は御使いであることが19章1節をみると分ります。御使いも霊なのですけど、時にこのようにして人の形をとってあらわれます。

 彼は見るなり、彼らを迎えるために天幕の入り口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。

 アブラハムは旅人に対して随分丁重な迎え方をしていますが、これは当時の文化をあらわしています。当時は旅人が来たら丁重にお迎えして宿泊していただくことがほとんど義務のようになっていました。現代でもベドウィンがこれを行っています。

 そして言った。ご主人。お気に召すならどうぞあなたのしもべの所を素通りなさらないで下さい。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗いこの木の下でお休みください。

 当時は歩くとすぐに足がきたなくなったので、このようにして家のしもべが旅人や主人の足を洗うことになっています。新約時代もそのような習慣があってイエス様は足を洗うことに関連してさまざまな教えをしています。典型的な例が弟子達の足を洗って、お互いに仕え合いなさいと言われました。

 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。私は少し食べ物をもって参ります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかくあなたがたのしもべのところをお通りになるのですから、」彼らは答えた「あなたの言ったとおりにしてください。」そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く三セアの上等の小麦をこねて、パン菓子を作っておくれ。」そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを調理した。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。

 アブラハムはこの旅人達に最高のもてなしをしました。上等の小麦粉、そしておいしそうな子牛、凝乳と牛乳などで最高のもてなしをしています。けれども彼はこの3人が、主ご自身と御使いであることを知らなかったのですけれど、もてなしました。途中で気付いたと思うのですが、最初は知りませんでした。ヘブル人への手紙を書いた人は、この出来事から「旅人達をもてなす」ことを忘れてはいけません。こうしてある人々は御使いたちをそれとは知らずにもてなしました。(13:2)

 ここから私たちが学ぶことがあります。私たちが日常の生活の中で、何気なく、主があらわれてくださっている、ということです。私たちはとかく、夢や幻とか、超自然的な方法で神が語られるのを期待します。けれども、このようにごく自然に主があらわれてくださることが多いわけです。特に旅人とか、困っている人々に対して、主はご自身をあらわしてくださいます。それでイエスさまはこう言われました。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」 すると、その正しい人たちは、答えて言います。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」 すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」 (マタイ25:35−40)このようにいたるところに主があらわれてくださいます。次を見てください。

 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。 するとひとりが言った。これが主ですね。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」

 主はサラから子が生まれる約束を再びアブラハムに告げています。また「来年の今頃」と、約束が実現する、定められた時も告げ知らされました。しかし、このことは、人間的には不可能なことだったのです。

 サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。 アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。

 つまりアブラハムは、無能になっていて、サラは、ずっと前に閉経していたということです。彼女は当時89歳、アブラハムは99歳です。

 それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」

 この笑いは疑いの笑いです。アブラハムもイサクがサラから生まれることを告げられたときに、笑ったんですけれども、そのときの笑いというのは喜びの笑いでした。しかし、ここでは、疑いの笑いであり、あざわらったと言えると思います。

 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。

 主は、サラの心の中をお見通しでした。主は木の下におられてサラは天幕にさえぎられて見えないはずでした。また彼女は心の中で笑ったのですから、笑い声もきこえなかったはずです。しかし、主は人の心の中を見ることができます。そして私たちの心の中を見ることができます。そして、次に非常に重要な言葉が出てきます。

 主に不可能なことがあろうか。

 主に不可能なことはない。ということです。主は全能の神であり、主に出来ない事は何もない、ということです。この創世記の一番初めのことばが、「はじめに神が天と地を創造された」というものですが、このことばを受け入れるのであれば、私たちは聖書に出てくるあらゆる奇跡を受け入れる事ができます。ですから、主にとって、風邪を治す事も、ガンを治す事も同じように容易いことであり、不妊の女、そして、サラから子を生ますことも容易い事だったのです。イエス様が、金持ちの青年と話をした後に、弟子達にこう言われました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもです。」このように主には不可能なことはないのです。問題は、私たちが自分自身の問題に関して、これを信じる事ができるか、どうか、ということです。

 わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」

 主はご自分の約束を実現されるために定められた時を持っていますが、この「定めた時」というのがしばしば、私たちの期待する時と、異なります。私たちは約束がすぐ、実現されたらよいのにと思ってしまいますので、なかなかそれがこないことをみて、疑ってしまいます。しかし神は、永遠に生きておられる方で、すから、永遠の昔から、未来までを全部ご覧になった上で、一番よいときを定めるのです。ですから、神の時が最善の時であり、私たちは、そのときを待つ必要があります。

 サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

 このようにサラは神の約束を疑ったのですが、今言ったように、その後には堅く信じました。なぜ、そのように言えるかというと、ヘブル人への手紙11章の11節にこう書いてあります。「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」信じたのです。そしてアブラハムも同じように神の約束を信じていました。有名なローマ人への手紙4章の19節です。「アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。 」彼は、子供がまだ生まれるのを見ていないときに、約束をみて、ほめたたえていました。まだ、見ていないときに、実にそれが存在しているかのように、もう成就したかのように、喜び、ほめたたえています。そして、私たちにもこのことが、要求されています。まだ、見ないうちに喜ぶことです。こうして、主はサラからこどもが生まれることを確認されましたが、それだけではなく、ソドムに対するさばきも告げられています。このさばきというのも、なかなか信じる事ができませんが、このことを通して、学んでいきたいと思います。

 その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

 主は、ご自分のなされようとしていることを、隠さずに話されようとしています。主と、アブラハムの間には、隔ての壁がありませんでした。私たちは、アブラハムの生涯を創世記で学んでいる時に、どこにもアブラハムと主との間に、敵対心や、微妙なズレというものを見いだすことができません。なぜかというと、このように隔ての壁がなく、新約聖書において、ヤコブはアブラハムを、神の友と呼んでいます。真の友達は自分の考えている事、感じていることを、隠さずに話すことができます。私たちはどこか、隠しているところがあるのですが、本当の友だちには隠すことがありません。

 神は、アブラハムにご自分の考えておられること、願っておられることを、あますところなく、語ることが、出来ました。そのように隔てのない、深くて親しみのある関係が、神とアブラハムの間にありました。これが、神様が、私たちに願われている事でもあります。イエスが言われました。「私はあなたがたを友と呼びます。なぜなら、父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」イエス・キリストは、ご自分の友として、私たちに様々な思いを持っておられます。そして、それを伝えたいと願っておられます。次に神がなぜ、アブラハムをご自分の友にすることが出来たかが、書かれてあります。

 アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。

 ここには、祝福の約束と、それに引き続くき、正義と公正を彼が子孫に教えることが、書かれています。神がアブラハムにご自分の祝福の約束を伝えた時に、彼はそれをすべて聞き入れました。そして、そのすべてを理解しました。彼は自分に都合のよい所だけを聞いたり、また、半分しか聞き入れないことはしませんでした。ですから神様は、その全てを話すことが出来たのです。全てを話しても、聞き入れることができなかったら、それは、友と呼ぶことは出来ません。ですから、なぜ、友と呼ぶことが出来たかというと、彼は全部を聞き入れ、そして、理解をしました。この態度が、祝福に関する事だけでなく、正義や公義、又、公正に関することにもいえました。彼はそれについても、聞く態度がありました。キリストがどのように私たちの友になるのかというと、先ほど読んだ「私はあなたがたを友と呼びます・・・」の前の「あなたがたが私の言うことを聞くのであれば、命じたことを行うのであれば、あなたがたは私の友です。」とあるように、キリストが命じられることを、ことごとく聞き入れることができれば、キリストは、何も臆せず話すことが出来ます。これが、友です。この正義とか公正、さばきについて私たちはなるべくなら聞きたくないものなのですけれども、アブラハムはそれを聞く準備が出来ていたので、「隠しておくべきだろうか」と神は言われました。そこでその正義と公正について、神様が次に語られます。

 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行なっているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」

 ソドムとゴモラには不法や罪がはびこっていました。その叫びが非常に大きくなっていることを、主は聞いておられます。私たちも、この社会の中で、不正や悪い事が行われているのを、絶えず見ています。そして、私たちは、それを見て悲しみますが、実はそのひとつひとつを、神は見過ごす事はされていません。神は沈黙し、そっぽを向いておられるわけではありません。そして彼らの罪が、極みに達しているかどうか、見に行こうと神様は言われています。私たちの神様は、憐れみ深く情けがあり、怒るに遅く恵みとまことにとんでおられるので、不正や不義がはびこっていても、一人でも悔い改める人がおこされるように、忍耐して待っておられるのが、今の現状です。けれども、その不法によって、彼ら自身が自滅する時がきます。また、自滅するだけでなく、正しい者でさえもその不法によって、滅んでいくことがおこってしまいます。たとえば、町をただ歩いているだけなのに、殺人によって殺されてしまうことがあります。そのような神様の限度のラインをこえてしまうとき神様は正しい者を、救い出すために、救い出した後、悪をさばかれます。これがいつも神様の裁きの方法です。次にアブラハムが自分の思っていることを、主に隠さずに話しています。今までは神様がアブラハムに隠す事無く話されていたのですが、今度はアブラハムが、思っている事を主に隠さずに話しています。ですから、アブラハムにとって神様は自分の友であリました。

 その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行なうべきではありませんか。」

 アブラハムはソドムのために祈っています。このように、自分の必要ではなくて、他人の必要のために祈ってゆくことが、聖書では、とりなし、と呼ばれています。アブラハムはとりなしをしました。「正しい者が、なぜ悪い者と一緒に滅んでよいものか」というのが彼の気持ちでした。ただ彼は、50人の正しい者、というふうに限定してしまいました。実は彼は、ここの部分においては、本心を話していません。それがあとの部分に出てきます。

 そして、「全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか」と言っています。彼の祈りは、神のご性質とか、みことばに根ざしたものでした。私たちも、祈るときに、ただ単純に自分の思いをぶつけるということでは、それは独り言になってしまいます。祈りですから、祈る相手が重要です。祈る相手が神であることを意識しましょう。神がどのような方か、どのような事をなさる方なのかを、意識して祈っていくことが必要です。アブラハムは「全世界をさばくお方」という神をみながら祈っていきました。

 主は答えられた。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」

 主はアブラハムの祈りを聞かれています。

 アブラハムは答えて言った。「私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが四十五人を見つけたら。」アブラハムは少しずつ本心をあらわしています。そこで、再び尋ねて申し上げた。「もしやそこに四十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その四十人のために。」また彼は言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。だんだん聞くのが申し訳なさそうになってきています。もしやそこに三十人見つかるかもしれません。」主は仰せられた。「滅ぼすまい。もしそこにわたしが三十人を見つけたら。」 彼は言った。「私があえて、主に申し上げるのをお許しください。少し開き直っていますね。もしやそこに二十人見つかるかもしれません。」すると仰せられた。「滅ぼすまい。その二十人のために。」彼はまた言った。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

 ここで、アブラハムは祈りを終えています。彼が本当に思っていたことは、10人だったのですね。おそらくロトとその家族のことを思っていたのだろうと思います。ここまで言うのに、長い時間がかかりました。多くの祈りを必要としました。彼と同じように、私たちは、自分の思いをなかなか神に打ち明けることができません。どうしても、きれい事を神さまに申し立ててしまいます。アブラハムの場合は、「50人」という言葉がそれでした。

 けれども、私たちは、神が私たちの心をすべて知っておられることを、知っています。ですから、祈りとはある意味、神が私たちの思いを知るというよりも、私たちが自分の思いをしってゆく過程である、といってもよいかもしれません。私たちが神に思いを余すところなく伝えて初めて、神は私たちに適切なアドバイスをすることが出来ます。ですから祈りが大切であり、私たちが神さまとコミュニケーションしていくという意味で、非常に重要になっていきます。そして神様のみこころは、たとえ10人でも正しい者がいれば、その町全体を赦す、というものでした。

 この世界も同じです。神さまは、今の世界も同じように見ておられます。行いによらずに、信仰によって正しい者と認められた者は誰ですか。キリストを信じる者ですね。クリスチャンです。そして、クリスチャンは、必ずしもこの全人口に比べると多いということはできません。非常に少ないです。またこの日本においては特に少ないです。けれども、この少数の正しい者のために、この世をまださばかれていません。けれども、私たちがこの地からとりのぞかれて天にまで引き上げられる時がきます。この、とりのぞかれた時に、この地上に神のさばきがきます。ですから、少数のクリスチャンの存在によって、現在、神はさばきを行っていません。それゆえ私たちクリスチャンの存在は非常に大きく、神の恵みによって私たちはここに置かれているのです。


19章

 しかし、残念ながらソドムには、正しい者が10人も満ちていませんでした。それでこの町が滅ぼされてしまいますが、正しい人がいました。アブラハムのおいであるロトです。これからロトが救い出されていく話を読んでいきます。

 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。

 主とアブラハムが話している間に、彼らはソドムに着きました。先程、18章22節に「その人たちはそこからソドムのほうへと進んで行った。アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」とありますが、その2人の御使い達はこうしてソドムに着きました。

 ロトはソドムの門のところに座っていた

 ロトは新約聖書において、正しい人、義人であると紹介されています。ペテロはこう言っています。「神はソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者への見せしめとされました。また、無節操な者たちの好色な振る舞いに悩まされていた、義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして日々その正しい心を痛めていたからです。(Uペテロ2:6-8)」まさにいま読んだ箇所をペテロは引用していますが、ロトは正しい人でありました。けれどもその反面、彼は目に見えるものに引き寄せられるような人でありました。彼がアブラハムと、自分の持っているもの、土地について言い争った時に、彼はソドムを見ました。その時は、エデンの園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていたのを見ました。それで彼は、ソドムの近くまで天幕を張りました。ソドムの方に天幕を張りました。近くに天幕を張ったというのが重要で、彼はソドムが罪にまみれていたのを知っていたのでそうしたのですが、徐々にロトはソドムに引き寄せられてしまいます。

 それで、彼はソドムの中に住んだことが次の章に書かれていて、ここではソドムの門のところに座っていたと書かれています。彼は、ソドムの町の役人であったことを示しています。彼はソドムの町の役人でした。役人はこのようにして、門のところに座っていました。そこまで彼はソドムに深い関わりを持っていました。彼は、ソドムの町の人々が行っていることを悲しみながら且つ、その町に引き寄せられていきました。これはキリストを信じていながら且つ、この世にある楽しみに引き寄せられている人を示しています。ロトの生涯が、これからどうなるかを見ていくことによって、私たちがこの世とこの世の楽しみに引き寄せられる事の危険性を見ていきたいと思います。ロトというのは、神を信じて、キリストを信じていながら、世の中の事に妥協して、世の中の事にも手を入れている人の例です。

 ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った ロトもアブラハムと同じように、彼らをもてなしています。すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中にはいった。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。

 彼がしきりに勧めた、とありますが、ロトは外に泊めたくはありませんでした。なぜなら、これから出てくるところを見ればわかりますが、非常に危険だったからです。それで、家の中にお泊りくださいと言いました。またロトはアブラハムと同じようにもてなし、パン種をいれないパンを焼いていますが、私たちが聖餐式をする時のものと同じ、イースト菌を入れないパンですね。4節を見てください。

 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜お前のところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

 この「知りたい」というのは、性的に知りたいということです。つまり、ホモセクシュアルです。ソドムではこれがおおっぴらに行われていて、なんと町中の者たちが若者から年寄りまでそれを行うために集まって来ました。主は、彼らの罪は極めて重いと言われましたが、ここで納得がいきます。しかし、今はこの時とまったく変わっていません。アメリカが特にそうです。ホモたちが街の通りを行進して、プラカードを掲げて自分たちの訴えを言い広めています。そして、政府に対して、権利を認めるように圧力をかけています。町の役人であるロトに押し寄せてきたように、政府に押し寄せていますが、主のさばきが近いことを私たちも思わされます。昔と今と、このように何も変わっていません。

 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。

 ロトは彼らの悪に対して、戦うことをしませんでした。そうではなく、なだめようとしています。これが問題だったのです。

 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

 
今の私たちにはとても考えられないような事をロトはここで話しています。旅人を守るために、自分の娘をレイプするように頼んでいます。そのときのソドムにおいては、それでも良識のある行為だったのかもしれません。ロトはこうやって彼らに譲歩して理解を得ようとしています。そして、彼らをなんとかなだめようとしています。けれども、次を見てください。

 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

 
ロトは彼らの理解を得ようとしても、何の良い影響も与えていません。むしろ強い反感をかっています。これが妥協するクリスチャンの姿であります。この世の人にキリストを伝えようとして、この世の価値観に合わせようとします。けれども、その悪に対しては何の力ももちません。悪に対しては、私たちは戦うしかありません。抵抗するしかありません。それによってのみ、私たちは真のキリストの証人になることが出来ます。

 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。このようにして御使いたちがロトを家の中に入れました。ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

 ふたりは、ロトだけではなく、その2人の家族の者も救出されようとしています。ところが問題がありました。

 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。

 この婿、つまりソドムの人々はロトの言う事を聞き入れませんでした。ロトの敬虔さ、ロトの正しさというのは、彼らにまったく影響を与えていませんでした。

 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」

 
この「あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう」とあるのが、おもしろいなと私は思います。ロトとその家族は、自分達がソドムの町の罪にのめり込んでしまって、滅んでしまうか、さもなければ、ソドム自体が滅ぼされて彼らが救い出されるかの2つの選択しかありませんでした。このままいったら、もしソドムが滅ぼされなかったら、ロトとその家族の方が、その罪によって滅んでしまいます。けれどもそのことをしないために、神さまは、あわれみによってソドムを滅ぼそうとされているのです。

 しかし彼はためらっていた。

 見てください。ためらっていました。ロトにはまだ、ソドムに対する魅力を断ち切ることができていません。彼はまだ、この世のことと神のことを二股にかけています。

 
すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。ここがいいですね。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。

 手をつかんだ。そして助け出そうとしています。主がロトをあわれんだからですね。

 彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」 ロトは彼らに言った。「主よ。どうか、そんなことになりませんように。ご覧ください。このしもべはあなたの心にかない、あなたは私のいのちを救って大きな恵みを与えてくださいました。しかし、私は、山に逃げることができません。わざわいが追いついて、たぶん私は死ぬでしょう。 ご覧ください。あそこの町は、のがれるのに近いのです。しかもあんなに小さいのです。どうか、あそこに逃げさせてください。あんなに小さいではありませんか。私のいのちを生かしてください。」

 
またロトはためらっています。まだソドムに対する魅力を断ち切れていません。なぜなら、山に住むのは彼らにとっては耐えられない事でした。低地がよかったのです。あの肥沃な、豊かな土地がよかったのです。できれば、この低地に住んで良い暮らしをしたいと思っていました。

 その人は彼に言った。「よろしい。わたしはこのことでも、あなたの願いを入れ、あなたの言うその町を滅ぼすまい。急いでそこへのがれなさい。あなたがあそこにはいるまでは、わたしは何もできないから。」それゆえ、その町の名はツォアル(小さい)と呼ばれた。

 
主は低地を隅々まで滅ぼす事がみこころでした。罪が何一つ残らない事が、みこころでした。丁度伝染病を、徹底的に駆除するようなものですが、ロトの申し出の小さい町を残してくださいというものでしたから、主はそれを残すことに決められました。

 太陽が地上に上ったころ、ロトはツォアルに着いた。そのとき、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされた。

 ロトたちがツォアルに着いた直後に、このようにしてソドムとゴモラが滅ぼされました。神は確かに正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるような事はなさいませんでした。ペテロはこう言っています。「主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。(Uペテロ2:9)」そしてわたしたちはキリストが来られる時に神が同じことをされるのを知っています。イエスが言われました。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。(ルカ17:28-30)」

 
全くそのとおりです。そして、ロトたちが、ツォアルについたその日に硫黄の火が降りました。私たちにも同じようなことがおこります。私たちがこの世の誘惑から救い出された後に主がこの世をさばかれ始めます。そしておもしろいのは、主はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の主のところから降らせ、(24節)最初の主、というのがあとから来られたイエス・キリストご自身、そして天の 主というのが父なる神、ということができるのではないでしょうか。

 
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。

 有名な話ですね。まず、ロトの妻は彼の後ろにいたことに気付いてください。そして「振り返った」とありますが、これは実はじっくり見ていました。彼女は、ロトよりももっとソドムの影響を受けていました。彼女はソドムが大好きでした。それで、ロトが出て行こうといっても、彼女はいやいやながら出て行きました。そして、最後の最後まで、このように後ろ髪引かれる思いで見ながら歩いて、どんどん、たぶん距離が開いていったのでしょう。それで硫黄の火が降って塩の柱になってしまいました。これは私たちにたいする警告です。なぜならイエスがこう言われたからです。ロトの妻を思い出しなさい。 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。(ルカ17:32−33)ですから、世の思いわずらい、世に対して自分達が救い出されようと思うときに、実はそれを失ってしまうという警告がロトの妻の中にあらわれています。主があわれんでくださったのに、そのあわれみの中に自らロトの妻は入ろうとしませんでした。ですから、イエス様はロトの妻を思い出しなさい、と言われています。私たちは世から離れて、キリストのために生きる堅い決断をいていかなければなりません。

 翌朝早く、アブラハムは、かつて主の前に立ったあの場所に行った。また再びアブラハムの話に戻っています。彼がソドムとゴモラのほう、それに低地の全地方を見おろすと、見よ、まるでかまどの煙のようにその地の煙が立ち上っていた。 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた

 
これがある意味結論なのですが、ロトが救い出されたのは、アブラハムのとりなしの祈りによるものでした。ロトは祈られていました。このようにして多くの人は、罠とか危険からとりなしの祈りによって守られています。ですから私たちもお互いのために祈ってゆく必要性があります。しかし、アブラハムの祈りは、ロトが行ったこと、自分が蒔いた種までは防ぐことが出来ませんでした。なぜならば神さまの原則は蒔いたものは刈り取るということだからです。

 その後、ロトはツォアルを出て、ふたりの娘といっしょに山に住んだ。彼はツォアルに住むのを恐れたからである。

 せっかくツォアルに住みたいと言ったのに山に彼らは住んでいますね。おそらくツォアルに生き残ったソドムの人々がいたのではないかと思われます。彼らの復讐を恐れていたのかもしれません。

 彼はふたりの娘といっしょにほら穴の中に住んだ。当時のその地域は多くのほら穴がありました。そうこうするうちに、姉は妹に言った。「お父さんは年をとっています。この地には、この世のならわしのように、私たちのところに来る男の人などいません。 そうですね、男達は滅ぼされてしまいました。さあ、お父さんに酒を飲ませ、いっしょに寝て、お父さんによって子孫を残しましょう。」

 なんと、2人の娘はお父さんと寝ることを考えています。近親相姦です。子孫を残すという動機は正しいのですが、方法が間違っています。彼女たちは、年寄りから子どもを生ませる事が出来る、全能の神を、サラから子どもを生ませる事が出来る、全能の神を知らなかったのです。これが神を知らないことの結末なのです。神を知らないことによって何とかして自分達で解決をしようとする時に、このように恐ろしいこと、酷いことをしてしまいます。そして、これはロトが自分の娘に対して、神の道を教える事に失敗したことをあらわします。ロトは、妥協していました。彼自身は大丈夫でした。けれども家族達がこのようにして本当に悪い影響を受けていました。

 私たちがこの世に妥協して生活していると、自分自身はたとえ大丈夫だったとしても、まわりにいる人々がその罪に染まってしまいます。たとえば、父親がアダルトビデオを自分の家に置いていたとします。彼自身はそれを見たからといって特に大きな支障は出てきません。神に対する罪ではありますが。しかし、それを子どもが手にしたらどうでしょうか。それによって自分の人生を破壊してしまうようなことに、十分至り得ます。だから日本は、大きな罪を犯しています。子どもたちがすぐに手に入れる事ができるようなところに、そのようなビデオとか、雑誌を置いています。これは大きな罪です。ロトはソドムに心が引かれてしまったばかりに、娘たちがソドムの影響をしっかり受けてしまっています。

 
その夜、彼女たちは父親に酒を飲ませ、姉がはいって行き、父と寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。その翌日、姉は妹に言った。「ご覧。私は昨夜、お父さんと寝ました。今夜もまた、お父さんに酒を飲ませましょう。そして、あなたが行って、いっしょに寝なさい。そうして、私たちはお父さんによって、子孫を残しましょう。」 その夜もまた、彼女たちは父に酒を飲ませ、妹が行って、いっしょに寝た。ロトは彼女が寝たのも、起きたのも知らなかった。 こうして、ロトのふたりの娘は、父によってみごもった。姉は男の子を産んで、その子をモアブと名づけた。彼は今日のモアブ人の先祖である。妹もまた、男の子を産んで、その子をベン・アミと名づけた。彼は今日のアモン人の先祖である。

 このモアブ人とアモン人が、ここから出ています。このモアブ人とアモン人の民族は、後でイスラエル人と敵対するはめになります。いつもじゃまをしたり、いつも敵対心をもって、イスラエルを見ていました。これがロトの妥協ある生活の結末でした。そして、私たちクリスチャンが、世に妥協した時の結末でもあります。私たちが真にこの世にいる人々を愛する時、本当にその人々が救われる事をのぞむのであれば、私たちはこの世の活動から離れていかなくてはなりません。アブラハムがソドムから離れていたように、この世から離れていなければなりません。そして、霊的な武器によって戦っていかなければなりません。抵抗しなければなりません。それのみによって、私たちは世に打ち勝つ事が出来、イエスの言われた、世の光、地の塩になる事が出来ます。妥協ということがこれほど人々を霊的に弱らせてしまうことを見ることが出来ました。


20章

 こうして私たちは、主ご自身がアブラハムに、あらわれてそしてサラから子が生まれるということを伝えた部分を見て気ました。次にサラから子が生まれるために、主ご自身がアブラハムを守られる場面を読んでいきます。


 アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

 
なんと、アブラハムは嘘をついて、異教徒の王に自分の妻を与えてしまっています。召しいれるというのは、まさにハーレムに加えることです。しかもこれは、彼がエジプトで犯したあやまちと、まったく同じです。これから読んでいく内容も本当に同じです。エジプトにパロに対して嘘をつきましたが、ここではアビメレクに対して嘘をついています。

 エジプトの時は、まだ信仰の歩みが浅かったと言い訳をすることができるかもしれませんが、ここでは彼は充分に信仰的に成長しているはずです。いろいろな経験を通して、また契約を通して、アブラハムは神をもっと深く知っています。なのにまったく同じ罪を犯しています。そしてここでアブメレクは、サラを召し入れています。90歳のサラなんですが、何でかな、と私は思いました。まずサラがまだ美しさを保っていた。また神さまの奇跡によって彼女に子を生む力が与えられて若返っていたのかもしれません。また或はこの可能性が高いと思うのですが、政治的な理由だったのかもしれません。政略結婚があったように、アブラハムはそのころすでに多くの財産を持っていて、力強い族長になっていました。そのためにこのように召し入れることが十分考えられます。

 ところが、神は、夜、夢の中で、アビメレクのところに来られ、そして仰せられた。「あなたが召し入れた女のために、あなたは死ななければならない。 英語の聖書では「あなたは死んだ男だ」と書かれています。あの女は夫のある身である。彼はおそらく病にかかっていたのだと思います。その理由を神は夢の中で話されました。アビメレクはまだ、彼女に近づいていなかったので、こう言った。「主よ。あなたは正しい国民をも殺されるのですか。 彼は私に、『これは私の妹だ。』と言ったではありませんか。そして、彼女自身も『これは私の兄だ。』と言ったのです。私は正しい心と汚れない手で、このことをしたのです。」

 彼は神に対して正しいことをしたというよりも、当時の習慣において常識はずれなことをしなかったということを訴えています。なぜなら彼は異教の王であって、エホバの神のことを知っているわけではありません。

 神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。

 
アビメレクは、自分が病気だったのでサラのところに入る事が出来ませんでした。それは実は神が引き起こしていました。

 今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」

 こうしてアブラハムの失敗によってもたらされた危険を主ご自身が守ってくださいました。その危険というのは何でしょうか。サラから子が生まれるという約束が、滅茶苦茶になってしまいます。もしここで、アビメレクがサラのところに入っていたなら、この計画は壊れてしまいます。そのときには、すでに彼女は妊娠していたかもしれません。そのような中で、一大事が起ころうとしていましたが、神ご自身が守られました。アブラハムはこんな自分勝手なことをしてしまいましたが、神さまはご自分の計画を台無しにするようなことはなさいません。これはとても重要です。神さまはご自分の計画を守られます。もし、かりにアブラハムが不従順になって神から離れたとしても、神さまはご自分の計画を必ず成し遂げられます。ですから私たちが失敗しても神さまはご自分の計画を成し遂げられます。

 翌朝早く、アビメレクは彼のしもべを全部呼び寄せ、これらのことをみな語り聞かせたので、人々は非常に恐れた。それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」

 
叱っています。神の預言者アブラハムが、この世の王から叱られています。これを今で言うならば、クリスチャンが、会社の上司や学校の先生から叱られているようなものです。クリスチャンこそが、世の中の基準よりも高いところを歩んで、キリストの証しをしなければならないのに、世の基準よりも低いところを歩むにのは、本当に恥ずかしい事です。

 私たちは常識というものを忘れてはいけません。けれども、よくこの常識というのが、クリスチャンであるがゆえに、甘えが出て来てしまって非常識になってしますことがあります。それだと証しをすることができません。常識をわきまえて初めてキリストの証しを立てることが出来るということを私たちは学ばなければなりません。次にアブラハムは自分が嘘をついた言い訳をしています。

 また、アビメレクはアブラハムに言った。「あなたはどういうつもりで、こんなことをしたのか。」 アブラハムは答えた。「この地方には、神を恐れることが全くないので、人々が私の妻のゆえに、私を殺すと思ったからです。

 
彼に嘘をつかせたのは恐れでした。その地域がまったく神を恐れなかったというのは事実だったと思います。しかし、恐れというのは信仰と相容れないものです。反対のものですね。信仰があれば恐れはなくなり、恐れがあれば不信仰になります。ですからアブラハムは恐れによって自分の中に不信仰が入るのをゆるしてしまいました。

 また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。

 確かに彼は半分の真実を話しましたが、半分の真実は嘘に等しいということが、ここでわかります。神が私を父の家からさすらいの旅に出されたとき、私は彼女に、『こうして、あなたの愛を私のために尽くしておくれ。私たちが行くどこででも、私のことを、この人は私の兄です、と言っておくれ。』と頼んだのです。」ここで彼が何で同じまちがいを繰り返しているのかが分ります。信仰の旅に出る前から嘘をつくように決めています。彼らは嘘をつく計画に自分自身を捧げていた、と言い換えることが出来ます。だから状況が整えば間違いを繰り返しました。私たちが間違いを繰り返してしまうのも、似たような事があります。過去に私たちは何がしかの決断をしているがゆえに、その決断をしたことを忘れていますが、ある条件が整うとそれをしてしまいます。その決断をしたことを忘れていて、「また私はやってしまった。また私はやり直さなくてはならない・・・」と思うのです。それがこのアブラハムの話のところで如実に出ています。

 私たちには希望があります。私たちはその反対に、キリストにある勝利を前もって決め込むことが出来ます。この状況になったら、「私はイエス・キリストによって、何でもする事が出来る。打ち勝つ事が出来るのだ。」というように決める、捧げることが出来ます。これも私たちが信仰を持って絶対にそうなんだと言い張ることが出来ます。パウロは言いました。「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8:37)」彼もこのように言い切リました。ですから、これからくるものに対して、自分が考えられる状況に対して、私たちは前もって決め込むことができます。

 そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。 そして、アビメレクは言った。「見よ。私の領地があなたの前に広がっている。あなたの良いと思う所に住みなさい。」

 
これは政治的な儀礼でした。自分たちがアブラハムによって、大変な目にあったから、自分たちが守られるために、贈り物と土地を提供しています。

 彼はまたサラに言った。「ここに、銀千枚をあなたの兄に与える。きっと、これはあなたといっしょにいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。これですべて、正しいとされよう。」

 この部分は別の翻訳をみるとこのようになります。「彼はあなたと一緒にいるすべての人の前で、あなたを守るものとなろう。それで彼女は叱られた。」かなり違うのですがどういうことかといいますと、銀千枚を与えられた、財産のあるアブラハム、そのような力強いアブラハムがいるのだからアブラハムがあなたと一緒にいるだけで、あなたを守る事になるのだ、とアビメレクはここで言っています。

 そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。

 
アブラハムの祈りによって彼らは癒されています。同じように神は祈りによって、いやしの賜物を人々に与えられます。ですからパウロは、「賜物を熱心に求めなさい(Tコリント12:31)」と言っています。

 主が、アブラハムの妻、サラのゆえに、アビメレクの家のすべての胎を堅く閉じておられたからである。

 このようにして神様は、サラが子を生む約束が実現されるためにアブラハムとサラを守られていました。


21章 

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。

 ここに、約束された通り、仰せられたとおりに、主が言われたことを実現されることが強調されています。主が語られた言葉は必ず成就します。イザヤはこう言いました。「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。(イザヤ 55:11)」

 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。

 
この「その時期」というのが先程の定められた時期なのです。「来年の今頃」というのがそうでした。

 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

 イサクというのは「笑う」とう意味です。

 そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。

 神は生まれてくる子どもに割礼をさずけることを命じられていましたが、アブラハムはそれを従順にまもり行っています。

 アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

 ここでもアブラハムが年をとっていて、人間には不可能なことが神によって実現されたことが強調されています。

 サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」

 
サラはこの喜びを笑いによって表現しています。こうして確かにサラに子を与えることによって、神はご自分の計画を成し遂げられています。けれども次に悲しい話が書かれています。アブラハムが、神ではなく自分の計画で成し遂げようとした、イシュマエルがその家から追い出されなければならない話が書かれています。

  その子(イサク)は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。この乳離れとは、2歳の時に行われます。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。

 イシュマエルはおそらく、イサクにやきもちを焼いていたのでしょう。今までは一人っ子だったので、愛されていましたが、イサクが生まれてからは、人々の注目がイサクに寄せられていきました。そして彼はこの頃おそらく15歳くらいです。

 それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」

 
サラは、ハガルとイシュマエルをよく思っていませんでした。本当は2人も愛すべきでした。けれども、このことにおいて彼女は、肉の弱さがありました。

 このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。

 アブラハムはイシュマエルを愛していたので非常につらかったのでした。しかし、このようにつらい経験を通して、彼は神さまの導きを仰がなければならなかったのです。私たちも時にそのようなつらい経験があります。特にこのように、感情的、心情的につながっているときに、それでもそこから離れなければいけない。このようなことは私たちによくある事です。けれども、御霊の導きに私たちが従う時には、つらい経験を行わなければならないことがあります。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。

 
サラは、憎くてハガルとイシュマエルを追い出そうとしているのですが、神様の御心にそっていました。というのは、確かにイサクとイシュマエルが一緒にいたら、そこから出てくる家族の間には平和がなかったでしょう。確かに預言によってイシュマエルは兄弟たちに敵対するとありました。ですから、このことは御心でした。

 しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」

 このように神さまは、アブラハムの失敗を用いて益としてくださいました。そしてその益となるいきさつが次に書かれてあります。

 翌朝早く、アブラハムは、パンと水の皮袋を取ってハガルに与え、それを彼女の肩に載せ、その子とともに彼女を送り出した。それで彼女はベエル・シェバの荒野をさまよい歩いた。

 
アブラハムは、次の町にいくまでのパンと水しか彼らに渡しませんでした。それは彼らはもはや、アブラハムにより頼むことをせず、むしろ神によりたのむようにするためでした。ベエル・シェバには多くの町があったのですが、ここで、さまよった、とあるのは、迷子になってしまったということです。

 皮袋の水が尽きたとき、彼女はその子を一本の灌木の下に投げ出し、 自分は、矢の届くほど離れた向こうに行ってすわった。それは彼女が「私は子どもの死ぬのを見たくない。」と思ったからである。それで、離れてすわったのである。そうして彼女は声をあげて泣いた。

 彼らは生きられない状況でした。これは神さまがそのようにさせたといってよいと思います。神様はこのようにして、私たちが、本当に自分ではやっていけない状況に、よくおかれます。なぜならば、はっきりとした目的があるからです。

 神は少年の声を聞かれ、神の使いは天からハガルを呼んで、言った。「ハガルよ。どうしたのか。恐れてはいけない。神があそこにいる少年の声を聞かれたからだ。行ってあの少年を起こし、彼を力づけなさい。わたしはあの子を大いなる国民とするからだ。」

 
神は、彼らが自分たちの力に頼らないで、神により頼むために、このようなつらい状況をゆるされました。

 
神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。それで行って皮袋に水を満たし、少年に飲ませた。

 彼女は悲しみのあまり、目の前にある井戸が目につきませんでした。私たちにもよく起こります。 自分たちで何とかしようと思う時に、このようにして、本当は気付くべきものに、気付かないのです。しかし神によりたのむときには、このように私たちは目が開かれていきます。

 神が少年とともにおられたので、彼は成長し、荒野に住んで、弓を射る者となった。こうして彼はパランの荒野に住みついた。彼の母はエジプトの国から彼のために妻を迎えた。

 このようにして、アブラハムから出たのですが、且つエジプト人(ハムの子孫)と一緒になって、イシュマエルの子孫が増えて生きます。これはアラブ民族の一部となっていきます。このように神は、アブラハムが自分の力で成し遂げようとした事から、切り離されました。しかし彼の失敗をも神はかえりみられてそれを益として働かされてくださいました。私たちも同じです。パウロは言いました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)」

 
そのころ、アビメレクとその将軍ピコルとがアブラハムに告げて言った。「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。 それで今、ここで神によって私に誓ってください。私も、私の親類縁者たちをも裏切らないと。そして私があなたに尽くした真実にふさわしく、あなたは私にも、またあなたが滞在しているこの土地にも真実を尽くしてください。」

 このアビメレクは、先程出てきたアビメレクです。そして彼はここで、平和条約を締結しようとしています。将軍ピコルを連れて来て、何事もないようにして下さいと頼んでいます。なぜならば、アブラハムが繁栄しているのを彼は見て、そこに本当に神がおられることを彼は認めたからです。つまりアブラハムの生活が神の証しをしていました。

 するとアブラハムは、「私は誓います。」と言った。 また、アブラハムは、アビメレクのしもべどもが奪い取った井戸のことでアビメレクに抗議した。

 
アブラハムはこのときを利用して、以前起こった問題を解決しようとしています。

 アビメレクは答えた。「だれがそのようなことをしたのか知りませんでした。それにあなたもまた、私に告げなかったし、私もまたきょうまで聞いたことがなかったのです。」 そこでアブラハムは羊と牛を取って、アビメレクに与え、ふたりは契約を結んだ。

 
これは以前アビメレクからもらった羊と牛の一部でありましょう。それをこのように返しました。

 アブラハムは羊の群れから、七頭の雌の子羊をより分けた。 するとアビメレクは、「今あなたがより分けたこの七頭の雌の子羊は、いったいどういうわけですか。」とアブラハムに尋ねた。 アブラハムは、「私がこの井戸を掘ったという証拠となるために、七頭の雌の子羊を私の手から受け取ってください。」と答えた。

 証拠物品を提示しています。7という数字は完全を示しますから、完全にそうなのだと示しています。

 それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。

 こうして契約は結ばれました。今行われたことは、現代でいうと、貨幣とか文書で行うことが家畜によって行われていたのです。そして、次にこの場面での結論が書かれています。

 彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。

 彼は人間アビメレクと契約を結んだけれども、本当にむすんでいるのは、神ご自身であることを、彼はここで振り返りました。「永遠の神」となっていることに注目してください。人間との契約事はすぐに移り変わります。人間との決め事、人間との習慣、人間との関わり、そうゆうものはすぐに移り変わってゆきます。しかし神の契約はいつまでも変わりません。ですから、神との契約に私たちはいつも目を留めていかなくてはなりません。そして、この主(エホバ、ヤーウェ)は契約の神であることをあらわしています。人間との関わりを持った神であることをあらわしています。アブラハムは人間との関わりよりも、神との関わりを大切にしていました。私たちにも様々な関わり合いがあり、契約があります。この世に住んでいる限りそうですね。家族との間、友人との間、そして会社との間、社会との間、日本との間にあります。けれどもそこにある決まり事よりも、神の御国にある、決まり事に従って生きる、勇気と必要があります。

 アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在した。

 ベエル・シェバから、ペリシテ人の地に彼らは移って滞在を始めました。ここで、かなり長い期間彼らは過ごす事になります。そして、イサクはここで幼年期を過ごしました。こうして、神さまの約束が実現されました。サラから生まれる子イサクによって、確かにアブラハムへの祝福の約束は実現されました。神さまの言葉がそれだけ確かなものであって、私たちが信頼するに充分であることを、ここで学び、私たちの生活の中にこれを当てはめてください。



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