創世記1章26節 「神のかたちに似せて」


聖書箇所
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

 こんばんは。ロゴス・クリスチャン・フェローシップの初めての礼拝にようこそ。私たちは、神のご計画全体を知ることによって、神への礼拝を行いたいと願っています。神が与えてくださったこの聖書という言葉を、初めの巻である創世記から終わりの黙示録まで、順番に読んでいきたいと思っています。これによって、初めて神が私たちに語ってくださっている事柄を、神が私たちに対して抱いておられる想いを知ることができます。

 一節ずつお読みするのは、第二礼拝にて行います。明日の昼に第二礼拝がありますが、そこで創世記1章から2章までを学びたいと思います。一節ずつ、説明を加えながら読み進めます。今日は、今読んだ1章26節の言葉に注目したいと思います。

神に似たものとしての人間

 1章に始まる創世記の記述は、神の創造です。神が六日間で天と地を造ってくださったことを書いています。初めに光を造られ、次に大空と海を、それから陸地と植物を、そして太陽、月、星を造られました。それから動物をお造りになりました。初めは海と空にいる生き物、つまり鳥や魚を造られました。海にはもちろん、魚だけでなくイルカなどの哺乳類もいますが、それらも造られました。そして陸に生息する動物を造られました。

 これらのものを全てお造りになった後に、神なる主が語られたのがここの言葉です。「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」です。(第三版では、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて・・・」神が、これら秩序ある世界を造られ、それを支配されていますが、それと似た存在、神の代表者となるべき存在を造ろうと考えられた、人間が造られました。

「われわれ」と言われる神

 興味深いのは、神がご自身のことを「我々」と言われていることです。聖書全体に、神は唯一であることが示されています。いろいろな神々がいるのではなく、永遠に生きている、天地を造られた神のみが真実であることを教えています。けれども、ここに「われわれ」と複数形でご自身を呼んでおられるのです。

 12節をご覧ください。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります(第二版からの引用なので、第三版と多少翻訳が異なります)。神の他に、御霊なる存在がおられるということです。

 そして創世記ではなく、ヨハネの福音書1章には、もう一人の存在が記されています。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。(1節)」そして続けて読むと、この方は神の独り息子であり、イエス・キリストであることが書かれています(14-18節)。神は、五字分の言葉をもって全てのものを造られましたが、そのことばの働きの中でキリストが深く関わっておられたことは確かです。

 つまり、父なる神と、子なるキリスト、そして聖なる神の霊がおられるということです。けれども、聖書でははっきりと、「神はひとりである」と言明しています。そこで、キリスト教では「三位一体」という言葉を使います。神は、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊という三つの人格、あるいは位格においてひとつである、という意味です。非常に難しいのですが、こう考えていただければいいと思います。1+1+1=3ですね。けれども、1×1×1はいくつでしょうか?1です。けれども、人間の頭では到底理解できない領域です。いずれにしても、それゆえここではご自分のことを「われわれ」と言っておられます。

「われわれのかたちに」

 それでは、「神に似たものとして造られた人間」という話に戻りましょう。次に、「われわれのかたちに」と神が言っておられます。「形」というと、私たちは物理的に神が形を持っていると受け止めてしまいがちです。ですから、天国に行ったら神様はどんな形をしているのかな?おじいさんの格好をしているのかな?など、想像してしまうのです。

 けれども、そういう意味ではありません。イエス様はサマリヤの女に対して、「神は霊です(ヨハネ4:24」と言われました。神は霊であられ、目で見ることのできない方です。ですから物理的な形のことを意味しているのでありません。

 そうではなく、神が行なわれた事柄や、また神ご自身の性質のことを言っています。ちょっと動物と人間の違いを考えてみましょう。多くの人が、「人間は動物から進化した、高等生物である。」と言いますが、果たしてそうなのでしょうか?動物と人間にははっきりとした違いがあります。

 一つに、「言語」があります。私たちは言語によって、知識や知恵を抱くことができ、言語によって物事を取りまとめることができ、単に本能によって生きるのではない存在になっていることができています。創世記1章をご覧いただければ、これは神に似た属性であることがよく分かります。神が天地を造られた時に、3節に「神が、『光よ。あれ。』」と仰せられた。すると光ができた。」とあります。続けて、秩序ある自然界を造られますが、それらを言葉によって行なわれたのです。神が言葉を抱いておられるように、言葉をもった存在として人を造られたのです。

 私たちは「愛」などのような感情でさえも、男女が互いに好いてくるときに、外見の格好だけでその関係を持つでしょうか?いいえ違いますね、対話し、会話するからこそ、互いの人格を知るようになり、それで愛を抱くのです。

 そしてもう一つは「計画性」です。形あるもの、秩序あるものを造るのは、人間にしかできません。それは、前もって計画を立て、考案する知恵と知識が与えられているからです。それで再び1章をご覧ください、4節を読みますが、「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。」とあります。同じように、その後の創造も区別して、秩序あるものに仕立てていく神の姿を見ることができます。

 そしてこれに関連しますが、「創造性」も人には与えられています。主なる神が人を造られた時に、彼にそれぞれの動物に名前を付けるようにされました(2:19)。名前を付けるのは、創造力が必要ですね。同じように、私たちはいろいろなものを考案し、これまでになかったものを有るようにすべく創り出す力が与えられています。

 ですから、神は、ご自分のかたちに似せて、言葉を抱く存在として、計画性や創造性を持つ、知恵や知識のある存在として、人間を造られたのです。

 いかがでしょうか?皆さんがあまりにも当たり前に思っているその能力は、神がそのように造られたから有るのです。これが、人間が人間として尊厳を持つことのできる根拠なのです。創世記は、「初め」という意味があります。この世界の初め、人の初め、結婚の初め、罪の初めなど、「初め」を書き記しているものです。したがって、人間であればだれもが抱く疑問に対して、明確に答えることができます。「なぜ、私は生きているのか?人生にどんな意味があるのか?」また「私はどこから来たのだろうか?」という問い。「私が死んだら、どこに行くのだろうか?」という漠然とした恐れもあるでしょう。これらに対して、聖書は、はっきりと「あなたは神によって造られた。そして、神に似せて、造られた。」という提供しているのです。

 「神がいない」と言っている人たちには、なぜ人間が動物とは違う尊厳があるのか説明することができません。私たちが以前いた宣教地にて、初めて来た若い女の子に次の質問をしました。「なぜ、動物は殺していいのに、人間を殺すと罰せられるの?なぜ人の命が、動物の命よりも大切なの?」もし人間が、動物からただ進化しただけの存在なら、どちらも物質の塊であり、どちらもその命を取っていいはずなのです。けれども聖書ははっきりと、「神に似せて、神のかたちに造られた存在だからだ」と、はっきりと答えを明示しています。

「支配させよう」

 そして次に、神がご自分のかたちに人を造られた、その目的に注目してみましょう。「そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」とあります。神は、ご自分の代表として、ご自分が造られたものを支配し、お任せになる存在として、人間を造られました。神はご自身が造られたものを喜んでおられます。神が一日ごとに、何か新しいものを造られると、「それを良しと見られた」とあります。「神はその光をよしと見られた。(4節)」という風に、です。そして、空と海の生き物を造られた時には、「それらを祝福して仰せられた。(22節)」とあります。ご自分が造られたものは、祝福したい存在なのです。

 そして、同じようにこの楽しみを、ご自分に似せて造られたものにも分かち合いたいというのが、人を造られたことの目的の中で大きな一つでありました。ですから、人間は神の最高傑作品であり、人は、神の被造物を支配し、管理するところにその存在目的があります。

 私たちが生きがいを感じる時は、必ずこの目的を果たしている時です。趣味にしても、他人との関係においても、仕事においても、何か自分がいろいろ考えて造り出し、それを完成させることができるので生きがいを感じます。その反対は、ただ食べるために生きることです。「なんで、働いているのですか?」と聞かれて、「食べるためです。」と答えます。「なぜ、食べるのですか。」「生きるためです。」「じゃあ、なぜ生きるのですか?」と聞くと、口をつぐんでしまいます。食べてそれで生きること以上のことを考えていないからです。けれども、そうではなく、創造的な事を行っている時に、自分が管理し、支配しているものがある時に人は生きがいを感じます。それは、もともと神がそのように人を造られたからです。

 「支配」という言葉に対して、私たちは拒否反応を起こします。なぜなら、世の中で「支配」している人々は、たいてい、被支配者を抑圧しているからです。王や指導者、会社の社長、また「金融界を支配している人々」など、富を持っている人々に対しても「支配」が使われています。イエス様も弟子たちにこう言われました。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上で権力をふるいます。(マタイ20:25

 けれども、彼らは、実際は、本当に支配しているのではなく、自分自身が支配されています。権力というものに魅了されて、自分自身が権力への渇望によって動いています。金を支配していると言いながら、実は金によって支配されています。本当に支配しているとは、どのようなものからも自由になっている状態のことを言うのです。

 ですから、神はこのような支配力というか、管理力というか、創造して自分で治めていく能力を人間に与えて、それを楽しんでいくように私たち人間を造られました。

あなたは神ではない

 けれども、それには条件があります。条件というか、人間に与えられている限界があります。それは、「人は神に似たものであるけれども、神ではない」ということです。これは当たり前でなんですけれども、実は当たり前ではないのです。この部分において、実はほとんどの人が過ちを犯しています。

 それは自分の中心は神ではなく、自分自身だと思っていることです。これは極めて大きな誘惑です。神に似ているから、まるで神であると思っています。日本の人たちだけでなく、他の国の人々にもこれまで伝道していましたが、「私は、私自身を信じているから。神は要らない。」と答えます。または、「私の内にある神に私は聞き従っていく。」とも言います。そして日本のドラマの多くは、「あなたは、自分自身を信じて。」と言います。これは言い換えると、自分が神であり、中心なのです。確かに、私たちは神に与えられた、神に似せた属性を持っています。けれども、決して神ではないのです。

 次に、2章をご覧ください。2章1617節を読みます。

2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 神は人を造られて、彼をエデンの園というところに置かれました。そこには、いつも実を結ばせている木々があって、いつでも心の願うままに食べてよいと神は言われました。けれども、園の中央には命の木の他に、「善悪の知識の木」がありました。これが神と人とを分け隔てする境界線だったのです。人はすべての物を支配する力を与えられましたが、その善悪の判断はあくまでもすべて神に拠り頼むことによって行なうものでした。支配しているのですが、自分自身が、自分を造られて神に支配されて、神に導かれて、神と一体になって生きているからこそ、支配することができます。けれども、この善悪の知識の木から実を取って食べるというのは、「いや、私は神にすべての判断をゆだねて生きるのではなく、神から独立して、神から離れて生きていきますので。」という拒否表明に過ぎなかったのです。

 神が霊であられるように、人間も霊的な生き物です。2章7節をご覧ください。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。神の息が人の鼻に吹き込まれて、それで生きものとなりました。つまり、神が霊であられると同じように、人にも霊を与えられた、ということです。

 人間は、三つの部分で構成されています。肉体、魂、そして霊です。体は植物も、動物も持っています。動物と植物の違いは、動物が意識を持っていて、植物にはないことです。それで、動物にも人間にも、「魂」があります。現代用語で言うなら「精神」でしょう。「知・情・意」がありますね。けれども人間にあって動物にないものがあります。それが「霊」です。「霊」の部分において、私たちは神のことを考えます。だれも、祈っている猿を見たことがありませんね!また、自分がなぜ生きているのか、自分はどこから来たのか、また死んだら自分はどうなるのか、という永遠について考えるのも、人間だけです。これらは「霊」を人間が持っているからです。

 人間は、神の御霊と自分の霊がつながっていることによって、つまりすべてのことについて神に拠り頼み、ちょうど無垢な子供が親に頼りきっているように神に任せていれば、すべてのものを支配せよ、という神の祝福を自分のものにすることができるのです。もし、この部分が抜けてしまったのなら、人間は魂と肉体はあっても霊が機能していない「三分の二」状態になっており、それこそ動物と変わらなくなってしまいます。

神に似た者に与えられている自由意志

 ところで、「なぜ神は、ここに善悪の木の置かれたのか。」と質問する人がいます。あえてそこに誘惑になるものを置いて、なぜ人が罪を犯させるようなことをさせたのか、と尋ねます。その答えは、非常に明快です。「神に似た者として造られたから」です。神は、ご自分で選んでいく力を持っておられます。同じように人間も、自由意志が与えられています。自分の意志をもって選択する力のことです。神に拠り頼むことが、完全に自発的な自分の選択になるように、神に聞き従わない他の選択肢も与えなければなりませんでした。

 どのようにして私たちは、「愛」というものを知ることができるでしょうか?イスラム教の国では、その国民の全てがイスラム教徒になります。アッラーに服従する者になります。なぜなら、もしイスラムを捨てたら、死刑になるからです。また、姦淫などの罪を犯したら死刑になるから、犯さないのです。このような状況の時、その人が本当にアッラーをあがめているかどうかは分かりませんね。

 では、なぜ今日、このようにして礼拝に皆さんは来られたのでしょうか?強制が働いてここに来られましたか?違いますね。他の選択肢は無尽蔵にあります。家でテレビを見ることもできるし、ここは東京の中心部ですから、友達とおしゃれなお見せでディナーを楽しむこともできます。でも、ここに来ました。ここに、完全な自由意志があるのです。そして神に聞き従っていきたいと願っているのであれば、それが初めて「神を信じている」ということが証明されるのです。

 ですから、最初の人アダムにも他の選択肢が必要でした。食べるという選択があっても、「いや、私は神に拠り頼みます。神が食べてはならないと言われたのですから、私は食べません。」と決めることができるのです。それによって初めて、神と一つになって生きることが可能となるのです。

自分を造られた方を認めていますか?

 いかがでしょうか?皆さんは、すべてのことを神に任せて生きておられるでしょうか?自分の判断を神に任せて、神が命じられることのみを行なっておられるでしょうか?これこそが、私たちが最も自由になることのできる方法です。何からも支配されることなく、むしろ自分が支配し、管理し、治めることのできる方法です。

 それとも、「私は生きがいを求めていろいろやりたいけれども、神の言われることには不満がある。神からも自由になりたい。」と思われるでしょうか?それはちょうど、自分の髪の毛を上に引っ張って、自分を持ち上げようとしているのと同じです。実際は自分の命が神に完全に依拠しているのに、それに対抗しているのはとてつもない葛藤の中に自分を置くだけです。

 かつて、今のイラクの所にバビロンという帝国がありましたが、その最後の王であるベルシャツァルは、エルサレムの神の宮から持ってきた器で酒を飲み、木々や金属で造られた偶像を賛美しました。彼に対して、ダニエルはこう言いました。「あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。(5:23」実に皮肉です。「神などいない。」と罵っているその口の息は、まさに自分自身の否定している神ご自身が与えられたものなのです。その息を止めることも瞬時にできるのに、神があえて息をすることのできるようにしてださっているのです。その恵みを知らないで、神は要らない、と言います。

 この世の中で、誰からも支配されずに、全く自由に生きた方がおられました。それは、神の御子イエス・キリストです。この方が地上におられた時、何度も何度も言われた言葉があります。「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは、子も同様に行なうのです。(ヨハネ5:19」父なる神が言われること、行なわれることのみを行なわれたのです。ですから、他の誰をも、他の何をもイエス様を妨げるものはありませんでした。そして、続けて主はこう話されています。「それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子に示されます。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。(20節)」イエス様が行なわれた大きな業は、父なる神の愛を知って、父なる神のところにいたからです。

 もちろん、イエス様は神の御子であり、神ご自身ですから、私たち人間と違います。それでも、神のかたちに造られた私たちは、同じように神の言われることにそのまま従順になり、神を信頼して生きる時に、初めて大きなものを神が任せてくださるという祝福にあずかることができます。

 次回は、そのようになりたくても、それを邪魔する「罪」というものがあることについてお話します。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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