創世記22章1-2節 「苦しみの交わり」

アウトライン

1A 七度現れる神
   1B ウルにて
   2B カナンに到着後
   3B ロトと別れて
   4B 夜のたいまつ
   5B 全能の神
   6B ソドムの破滅
   7B イサクのいけにえ
2A アブラハムの応答
   1B ためらいのない行動 3
   2B イサクと戻ってくる約束 4-5
   3B 三日間という言葉 1コリント15:2-4 ヘブル11:17-19
3A キリストの現れ ピリピ1:20
   1B 父なる神と子なるキリスト 6
   2B 備えの預言 8,14

本文

 私たちはついに、アブラハムの生涯の頂点にまで至ろうとしています。第二礼拝では、21章から23章までを学びたいと思っていますが、今晩は22章に注目したいと思います。1-2節をお読みします。

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

 主がアブラハムに、子孫を与えると言う約束を与え、そしてイシュマエルを自分たちの努力で生みましたが、その子は神に拒まれ、約束どおりにサラによってイサクを生みました。イシュマエルは約束の子ではないので家から出ています。そして、おそらくイサクは20歳近くになっているでしょう。その時に、このあまりにも過酷、いや残酷と言える程の試練を神は与えられました。「あなたの愛しているひとり子イサクを、全焼のいけにえとしてささげなさい。」というものです。

 しばしば教会では、この出来事のみを説教の中で取り上げて、アブラハムがいかに神に捧げている人であるか、そして私たちも同じように自分の最上の物を捧げなければいけないという勧めを聞きます。けれども、それはこれまでのアブラハムの人生の旅路を完全に無視した話です。アブラハムは、この試練を受け、そして見事にその試練を通過したのですが、それは彼の信仰の、これまでの歩みを踏まえなければ、全く見当外れなことになってしまいます。

 それは、良い行ないというのは、あくまでも信仰による御霊の実だからです。アブラハムは初めから完全だったのではなく、完全とはほど遠い存在でした。けれども、神が彼にとても良くしてください、その恵みと祝福を知ったので、神がどれだけ慈しみ深い方なのか、すばらしい方なのかを味わったのです。それで、次に神に命じられた時に、「これだけ良くしてくださる方なのだから、信頼に値する。」ということで、その命令に聞き従うことができるようになるのです。それは自然な実であり、御霊が、私たちの信仰の歩みの中で結ばせてくださるものなのです。

 信仰の歩みとは、すなわち、神との出会いであり、神との交わりです。ヨハネ第一13節に、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」とあります。この過程をアブラハムがどのように踏んでいったのかを、もう一度おさらいしたいと思います。

1A 七度現れる神
1B ウルにて
 まず、アブラハムの信仰は、カルデヤ人の地ウルから始まりました。使徒の働き72節から読みます。「私たちの父祖アブラハムが、カランに住む以前まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現われて、『あなたの土地とあなたの親族を離れ、わたしがあなたに示す地に行け。』と言われました。そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住みました。そして、父の死後、神は彼をそこから今あなたがたの住んでいるこの地にお移しになりました・・・(2-4節)

 月を神として拝むカルデヤ人の中に生きていたテラの家族でした。その中で、神は、ご自分信じる民族をお造りになりたいと願われました。偶像には決して満足せず、生きた神との、生きた交わりをアブラハムは、神の呼びかけを聞いて始めました。彼は、現状の生活での、偶像を拝む生活にから抜け出したいと思ったのです。それで神についていくことにしました。

 このように神は私たちにも、今の生活に空しさを与えられることによってご自分との関わりを始めさせるところから、私たちに働きかけられます。今の、神を知らない生活では満足できない、神のみが自分を満たしてくださるという飢え渇きを与えられました。

2B カナンに到着後
 そして次に神が現れたのは、アブラハムがカナン人の地に到着した時です。「そのころ、主がアブラムに現われ、そして『あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。』と仰せられた。アブラムは自分に現われてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。(12:7」これは、神の約束との交わりです。自分が信仰の第一歩を踏んだことに対して、神が深く、ご自分の約束をもって臨まれました。これがすばらしいですね。

 皆さんも、今の生活から抜け出して、イエス様を自分の救い主と信じて、新しい歩みを始まる時、神は永遠の約束をもって臨んでくださいます。私も、信じた後に、「死んだら絶対それで終わりだ」と思っていた自分が、何と「死んでも生きる」というイエス様の言葉通りの確信が湧いてきたのを覚えています。神は約束をもって私たちと交わってくださいます。

3B ロトと別れて
 次に神が現れてくださったのは、ロトと別れた時です。1314-15節を読みます。「ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

 これは、神の忍耐との交わりです。ロトは、今、目で見えるものを求めて去ってしまいました。けれどもアブラハムは信仰によって、神の約束してくださった地に踏みとどまったのです。けれども、その踏みとどまったアブラハムに神が現れてくださり、そして再び約束をもって慰めてくださいました。私たちは約束が与えられた後、それに踏みとどまるという忍耐が必要とされます。神はその忍耐の力を、ご自分を私たちに現してくださることによって与えてくださいます。

4B 夜のたいまつ
 そして次に神が現れてくださったのは、神がアブラハムに星をお見せになった時です。アブラハムの子孫が星のようになる、と約束してくださいました。そして土地については、神はアブラハムに、動物を真っ二つに裂きなさいと命じられました。そしてこうあります。1512節です。「日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。

 なぜ暗黒をもって神が臨まれたかといいますと、アブラハムに神が約束された土地は、一度イスラエル人がエジプトに行って、奴隷生活を四百年の間強いられた後に、彼らに与えられるものだったからです。エジプトの過酷な奴隷生活を暗闇をもってアブラハムに示されたのでした。けれども、その後に神は、半分に裂かれた動物の間を、たいまつの火を持って通られ、アブラハムに彼の子孫は必ずここを所有することを確証なさったのです。

 このように、私たちは神の望みに触れて、神と交わるようになります。神が約束してくださった祝福とは全く反対の方向に進んでいるように感じる時があります。人生のトンネルの中に入るような時があります。けれども、その時に神は希望をもって私たちに出会ってくださいます。ダビデも詩篇でこう歌いました。「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(42:5

5B 全能の神
 そして次に神が現れたのは、アブラハムが99歳の時です。171節です。「「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」イシュマエルが育って13歳の時に、神が「わたしは全能の神である」と言って現れました。彼はもうイシュマエルによって相続が決まっていると思っていました。けれども神はそれを否定されて、サラによって生まれると言われました。どちらも更年期をとうに過ぎています。子を生めるはずがありません。けれども、神がサラに言われたように「主に不可能なことがあるか」ということを教えられたのです。

 私たちは、自分たちに物が尽きた時、力が尽きた時、知恵が尽きた時、私たちの方に何にもない時に初めて、神の全能と、神の十全を味わうことができます。私たちが自分たちで何かをしている時には体験できない神の臨在を、不足している時に味わうことができるのです。

6B ソドムの破滅
 さらに18章を見てきましょう。主は、三人の御使いの中の一人として現れてくださいました。そしてアブラハムにこう言われました。19節です。「わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」ソドムの不義に対して神が裁きをくだされることによって、神は彼に現れてくださいました。神の正義と公正を彼は深く知ることができました。

7B イサクのいけにえ
 どうですか、ここまで六つの神との出会いをお話ししましたが、このようにだんだん神との生きた出会いがあり、その都度、違った側面で、発展した形でアブラハムは神との交わりを持ちました。そして最後に経験したのが、「キリストの苦しみ」との交わりです。

 ここで、22章を理解するのに鍵となる聖書の箇所を開きたいと思います。ピリピ310-11節です。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:10-11」キリストの苦しみにあずかる、キリストの苦しみにおいて神と交わるという経験をアブラハムはします。

2A アブラハムの応答
1B ためらいのない行動 3
 アブラハムは、この命令を受けた後、次の行動に出ています。223節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」彼は淡々と、ためらうことなく準備を進めています。ここでヘブル語では、「そして」という言葉が連続して畳みかけるようにして使われています。つまり、臆することなく事を進めている、ということです。

 今、大地震の後で破壊された道路の復旧で、イギリスの新聞記事(ネット)で、めちゃくちゃになった道路をたった六日間できれいに現状復帰させたのをその前後の写真を掲載して、称賛していました。ある人は、「彼らは自己憐憫に陥る無駄な時間を過ごすこともなく、すぐ後片付けをする。電撃隊のような魂を持っているな。」と言っていました。パッパと行動に移すのです。

2B イサクと戻ってくる約束 4-5
 なぜアブラハムがそのようにできたのでしょうか?それを知る鍵は、ヘブル人への手紙1117節から19節にあります。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

 彼は、イサクによって神が子孫を増やしてくださることを知っていました。それと同時に、神がイサクをほふりなさいと命じておられます。普通の頭なら、どちらも受け入れるのは正反対のことであり不可能です。でもアブラハムは信じたのです。信じきったのです。これまでの神様の実績がありますから、どちらも信じて構わないと思ったのです。

 すると彼の思いに、自分自身も考えていなかったことが生じました。それが、「神が、イサクをよみがえらせる。」というものです。私たちがすべての事を神に委ねると、神は、ご自分の新しい思いを私たちの心に置いてくださいます。これは、キリストの死と復活の型であるとヘブル書の著者は説き明かしています。

 その証拠として、4節と5節をご覧ください。「三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。」ここでは、主語に注意してください。「私と子どもは」で始まり、そして「あなたがたのところに戻って来る」という主語も、「私と子どもは」なのです。つまり、アブラハムは山から戻ってきた時にはイサクは生き返って、取り戻せると信じてやまなかったのです。

3B 三日間という言葉 1コリント15:2-4
 ところで、ここで三日目に、アブラハムがモリヤ山のところに着いたとあります。信仰の中でアブラハムは、イサクは殺され、そしてよみがえっていました。同じように、キリストが死なれて、三日目によみがえられたのだ、ということを使徒パウロが話しています。コリント第一152節から読みます。「また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、・・・(2-4節)

 実はアブラハムが行なっていたのは、実に、神がキリストにあって行なわれることを、自分の身を張って預言することでした。「預言」ではなく、正確に言えば「予演」したということでしょうか。予め実演した、ということです。

3A キリストの現れ ピリピ1:20
1B 父なる神と子なるキリスト 6
 ですからここから見えてくるのは、神のお心です。神は、むやみに過酷な試練をアブラハムに与えられたのではありません。むしろ、神がキリストにあって後に行なわれることを、実にご自身が御子をほふられるという、とてつもなく過酷な出来事を、アブラハムとイサクによって前もって現しておられたのです。6節には、イサクが自分自身の縛り付けられる木を負って歩いている姿があります。「アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。」これこそ、キリストが十字架を背負われ歩かれたその姿を現しています。

2B 備えの預言 8,14
 そして8節でアブラハムが自分の子に言った言葉に注目してください。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」ここは、「神がご自身をいけにえの羊として備えてくださるのだ。」と訳すこともできます。神ご自身が、いけにえの羊となることです。これは、まさに全人類の罪を取り除く神の小羊キリストの預言です。

 さらに、アブラハムがモリヤ山の上で、イサクをほふる直前に主の使いがそれを止めた後で、アブラハムがこの場所をこう名づけました。14節です。「その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、『主の山の上には備えがある。』と言い伝えられている。」アドナイはヤハウェのこと。そして、「イルエ」は備えとも、見られるとも訳される言葉です。つまり、「ヤハウェが見られる」と訳すこともできます。

 このモリヤの山こそ今の神殿の丘であり、そして神殿の丘の先には、ゴルゴダの十字架がつけられた処刑所があるのです!アブラハムはイサクを、まさに父なる神ご自身がご自分の独り子を罪の供え物としてお捧げになる場所で、イサクをほふろうとしたのです。

 このようにアブラハムの信仰の頂点は、「キリストご自身を現す」ことにおいて訪れました。お分かりになるでしょうか、アブラハムが初めから自分がキリストに似た者として意識して、生きたわけではない、ということです。ただ神に拠り頼み、この方に自分のすべてをゆだねて、この方に聞き従った時に、自ずと、結果としてキリストを自分の身をもって現していたのです。

 ピリピ人への手紙120節をご覧ください。「それは、私がどういうばあいにも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願いと望みにかなっているのです。(ピリピ1:20」キリストのすばらしさが現れること、これが使徒パウロの一途な願いでした。

 私たちはキリスト者としての生活を考えてみないといけません。それは、神がすでに、このキリストを現すという目的をもって、あなたを導いておられるということです。自分自身は全くそう思っておられないでしょう。けれども、実にそうなっているのです。自分にとって不都合なこと、不便なこと、苦しいこと、悩ましいこと、これらを通して、実は他の人が見ると、あなたの中にキリストを見るのです。何か特別なことをする必要はないのです。もうすでに神がキリストの苦しみの交わりの中に、あなたを導きいれてくださっているのです。

 私の友人の夫婦で、3歳で、心筋症で天に召された子がいます。彼は最後に、生命を維持するための管が体中にいっぱいついていて、親でさえ彼に触れることができないほどでした。父が聞きました。「イエス様のところに行きたいかい?」彼はうなずきました。それでその管を外すように医師にお願いしたのです。死んだ体を二人は持ち上げて、「ようやく、これで自由になったね。」と言って、感謝の祈りを神にささげました。

 お母さんはこう明かししました。「この子はまるで、管につながれていた時、キリストの十字架のようであった。身動きができなかったのだ。」と。お分かりですか、3歳の子が、キリストを信じた3歳の子が、キリストの苦しみをその身をもって現していたのです!これが、信仰の最終目的なのです。自分の身によって、キリストのすばらしさが現されることなのです。

 どうか、このすばらしい交わりの中にみなさんも入ってきてください。神をただ信じ、この方のすばらしさと恵みを知っていく中で、キリストの愛の深みに入っていくことができます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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