創世記24章 「神が導かれた旅」

アウトライン

1A 誓いの中の嫁探し 1−9
2A 神の備えた出会い 10−32
3A 言い寄り 33−51
4A 旅立ち 52−67

本文

 創世記24章を開いてください。これからの話には、神がご自分の名を置かれた族長が出てきます。アブラハムとイサクと、そしてヤコブです。神はモーセに、「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。(出エジプト3:6」と言われました。そしてヘブル書1116節には、「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。」とあります。それだけ、神のご性質や働きが、この三人の族長の人生に表れています。

1A 誓いの中の嫁探し 1−9
24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。

 神がアブラハムに約束されたことが、老年になるまで実現しています。「あなたを祝福する(12:2参照)」と、アブラハムがウルの町を出るときに約束しておられました。私たちが信仰の年数が増えても、主はあふれるばかりの祝福をもって私たちを祝福してくださいます。

24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。24:3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

 この全財産を管理している僕とは、創世記152節に出てくる「ダマスコのエリエゼル」です。子ができないとき、アブラハムは彼が跡取りになるのかと神に尋ねました。

 そして厳粛な誓いをエリエゼルに行なわせます。その内容は、第一に「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。」ということです。かつて、アブラハムが自分の妻を妹だと偽って、サラがエジプトのパロの妻になりそうになったり、アビメレクの妻になりそうになりましたが、そのことによってアブラハムの子孫が途絶えてしまうことになります。それと同じように、神を信じていないカナン人との結婚をアブラハムは絶対にさせないように命じています。

 私は、クリスチャンがクリスチャンではない人と結婚することについて、それ自体が罪だとは思いません。聖書に離婚は罪であることは書いてありますが、信者と不信者との結婚そのものを罪だと断じている箇所は見つけていません。

 けれども、結婚というのは、一つになることであり、交わることです。深い人格の結びつきであり、価値観が一つになっていなければいけません。それで、不信者と結婚することによって、自分の信仰生活に重いくびきを負わせることになります。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15

 そしてもう一つの誓いは、アブラハムの生まれ故郷に行って妻をめとることです。アブラハムの親戚であれば、ヤハウェの神についての知識を持っています。

24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」

 アブラハムの要求は、非常に条件が狭められたものでした。自分の親戚から出なければならなず、またイサクはそこに行くことはできない、というものです。限りなく可能性がないようにさえみえます。

 けれどもアブラハムは、イサクにはどんなことがあっても元いたところに彼を連れ出すことはできないことを知っていました。それはまさに、そこから出て行きなさいと神が命じられた原点に逆戻りしてしまうからです。それは言い換えれば、信仰を捨てて、また世の生活に戻ることであります。これだけは、どんなことがあってもやってはいけません。

 このようにイサクは、「約束の中にとどまる」という使命が与えられています。私たちは、アブラハムのように、初めに勇気を出して信仰の一歩を踏み出すことは大事ですが、その信仰をいつまでも約束の中に留めることも、初めの一歩以上に大事なことです。私たちは、絶えず、世にある雑音が耳の中に聞こえ、ある時は右に、またある時は左に揺れ動きます。それを、ただ約束の中にとどまっているということは、ある意味、一大事業なのです。

 そしてアブラハムは、お嫁さんが見つけられない時はその誓いから解かれる、とまで言っています。つまり、イサクに妻がいなくても良い、と言っているのと等しいです。「それでは、約束を実現させることができないではないか?」と私たちは考えてしまいます。けれども、それが実用主義の表れであり、決してそうではないのです。目的のために手段を選ばないというのは、間違っています。聖書の原則、神の原則を曲げてまで、目的を達成する必要はないし、そうしてはいけないのです。事実、アブラハムはハガルによって子を生むという過ちを犯しています。

 アブラハムは、「御使いをあなたの前に遣わされる。」と言っています。すなわち、主が命じられることであるから、どんなに不可能なように見えても、主が成功させてくださる、ということです。主は、ご自分の命令に対して責任を持っておられます。私たちが負わなくてもよいのです。主は言われました。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33

24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。

 これからエリエゼルは、主人の使命を帯びて旅に出かけます。

2A 神の備えた出会い 10−32
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

 これらの貴重な品々は、花嫁に対する結納金です。そして、「アラム・ナハライム」は今のシリアの北部でありユーフラテス河畔地域です。

24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。

 覚えていますか、サマリヤの女は正午頃、井戸に座っているイエス様と出会いましたが、それは極めて不自然な光景でした。このように通常は夕暮れ時に水を汲みに来ます。

24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」

 私たちは第一礼拝で、エリエゼルは神の聖霊を表していることを話しました。けれども、また同時に、神から使命を帯びて動いているということから、宣教の働きを彼から学び取ることができるでしょう。みなさんがこの教会から出て行く時から、宣教が始まります。福音を携えて出て行きます。そして、人々がその福音の言葉に承服すべく、キリストの権威を帯びて出かけます。人がキリストに導かれるというのは、私たちができるような代物では決してありません。けれども、主が導かれたら、必ず戸が開かれます。

 そしてエリエゼルの旅には、祈りが大きな部分を占めていました。自分の経験や知識は、頼りになりません。ただ、御霊によって導かれて、主が会わせてくださる人に会うことしかできません。だから、このようにして祈っているのです。祈りによって、御霊の行かれるところに導かれることができるのです。

24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。

 すばらしい祈りの答えです!まだ、祈りが言い終わらないうちにその答えが与えられました。私たちの祈りには、すぐにその答えがあることと、また長いこと待ってから答えられることのどちらもあります。けれども大事なのは、どちらも神のみこころにかなっているものであれば、神はそれを既に聞いておられるという事実です。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。(1ヨハネ5:14-15

 けれども、主の使命を背負って、御霊の導きによって出て行く時に、しばしばこのような祈りの答えを神は与えてくださいます。私たちが自分たちの思惑や計画で事を進めるのではなく、あくまでも神ご自身が主役でありつづけるために、私たちの思いでは追いつかないほどスピードを速めて事を進められることがあります。使徒の働きを読むと、使徒たちが想像する以上に、聖霊の働きがあって、彼らがかえってその働きに遅れないように付いていっている姿を見ることができます。

24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

 かつてもサラも同じでしたね、見目麗しい人でした。そして、「泉」から水を汲む時に、降りていくとありますが、当時の井戸は上に突き出ているのではなく、下に降りていくものでした。

24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。

 アブラハムの僕の祈り通りになっています。ここで特徴的なのは、リベカの機敏さです。「すばやく」とか「急いで」という言葉が使われています。そして、またその働きぶりも優れています。この重い水がめを担いで、なんと十頭のらくだに飲ませています。相当の水の量です。

 ここに、彼女が見た目だけでなく、内実の美しさも兼ね備えていることを見ることができます。箴言31章に、しっかりとした妻、尊い妻の姿が描かれていますが、彼女も非常に精力的に、効率良く働く人でした。

24:21 この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」

 「一ベカ」は5.7グラムなので、鼻の飾り輪が5.7グラム、腕輪は57グラムです。これを彼女がアブラハムの親戚の娘であると言った時に、これからの花嫁の印として与えました。

 第一礼拝で話しましたが、これがご聖霊の働きです。ご聖霊は、後に来る栄光の一部を私たちに与えてくださり、神が必ず私たちを贖ってくださるという保証であり、印です。

24:26 そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 エリエゼルは、すぐに主を礼拝し、祈りました。私たちは何か成功すると、それを誇る傾向があります。あたかも自分が行なったかのように、手柄を自分のおかげにします。けれども、私たちが神に用いられるとき、私たちはとても単純になっていなければいけません。主が行なってくださったのだから、主に栄光をお返しし、主をほめたたえればよいのです。主が行なわれたのですから、自分たちで何かを付け加えることをしなくていいし、してはいけません。御霊の中にとどまりましょう。

24:28 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。

 「アブラハム」の名が出た時に、リベカは事の重要性をはっきりと認識しました。走って、これらのことを告げています。

24:29 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。24:30 彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました。」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。

 ラバンは、この人を迎え入れたのは、リベカについていた金の鼻輪と腕輪だということです。これがラバンの生涯にわたる性格を表しています。いつも、貪欲になっています。

24:31 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。主に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」24:32 それでその人は家の中にはいった。らくだの荷は解かれ、らくだにはわらと飼料が与えられ、その人の足と、その従者たちの足を洗う水も与えられた。

 中東の当時の習慣には、客に対して水で足を洗うことがあります。イエス様も弟子たちの足を洗いました。

3A 言い寄り 33−51
24:33 それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、24:34 その人は言った。「私はアブラハムのしもべです。

 中東では話しの本題に入る前に、いろいろなことを行ないます。本題の前の雑談が非常に長いそうです。ここでは会食を取ろうとしています。けれども、その慣わしに反して、彼は本題から入りました。

 ここに、彼の大胆さがあります。威厳と権威を持って、神から与えられている言葉をまっすぐ語ることです。私たちは、神の御霊によって促される時、臆して語ってはいけません。御言葉を控えてはなりません。そのまま、キリストの福音へと話しを持っていくのです。その他の、福音の本質から外れた話しで議論したりしないようにしましょう。

24:35 主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。24:36 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。

 まず、主人のアブラハムの富を紹介しています。次に息子イサクがその全財産を受け継ぐことを話しています。同じように、父なる神は御子キリストに全てのことを与えられ、ご自分の相続者とされました。

24:37 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。『私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。24:38 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。』24:39 そこで私は主人に申しました。『もしかすると、その女の人は私について来ないかもしれません。』24:40 すると主人は答えました。『私は主の前を歩んできた。その主が御使いをあなたといっしょに遣わし、あなたの旅を成功させてくださる。あなたは、私の親族、私の父の家族から、私の息子のために妻を迎えなければならない。24:41 次のようなときは、あなたは私の誓いから解かれる。あなたが私の親族のところに行き、もしも彼らがあなたに娘を与えない場合、そのとき、あなたは私の誓いから解かれる。』

 初めに出てきた、アブラハムとの会話を有り体に話しています。私たちも、理屈ではなく、聖書の言葉を有り体に人々に伝えていく必要があります。

24:42 きょう、私は泉のところに来て申しました。『私の主人アブラハムの神、主よ。私がここまで来た旅を、もしあなたが成功させてくださるのなら、24:43 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。おとめが水を汲みに出て来たなら、私は、あなたの水がめから少し水を飲ませてください、と言います。24:44 その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』24:45 私が心の中で話し終わらないうちに、どうです、リベカさんが水がめを肩に載せて出て来て、泉のところに降りて行き、水を汲みました。それで私が『どうか水を飲ませてください。』と言うと、24:46 急いで水がめを降ろし、『お飲みください。あなたのらくだにも水を飲ませましょう。』と言われたので、私は飲みました。らくだにも水を飲ませてくださいました。24:47 私が尋ねて、『あなたはどなたの娘さんですか。』と言いますと、『ミルカがナホルに産んだ子ベトエルの娘です。』と答えられました。そこで私は彼女の鼻に飾り輪をつけ、彼女の腕に腕輪をはめました。24:48 そうして私はひざまずき、主を礼拝し、私の主人アブラハムの神、主を賛美しました。主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。

 ここでエリエゼルは、「このことは神から来た」ことを強調しています。もちろん、聞いている家族に押し付けているのではありません。けれども、確実に神の導きだと思わざるを得ないことを正直に話したのです。

24:49 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」

 「選択はあなたにあります。」と呼びかけています。ここが大事です。信じるというのは、あくまでも選択です。信じるという行為の他に、信じないという選択もあることによって、初めて信じることに意味を持ちます。

24:50 するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。24:51 ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」

 そうですね、主から出たものであればそのよしあしを言うことはできません。使徒の働きでも、異邦人が聖霊のバプテスマを受けたのを見たペテロが、「どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。(11:17」と言っています。

4B 旅立ち 52−67
24:52 アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。

 再び、エリエゼルは主を礼拝しています。一つ一つに、主の働きを覚えて、感謝し、賛美しているのです。

24:53 そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。24:54 それから、このしもべと、その従者たちとは飲み食いして、そこに泊まった。朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください。」と言った。24:55 すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。24:56 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。

 「十日間ほどとどめる」とありますが、聖書では興味深いことに、「十」の数字が試みを受ける時に使われます。例えば、ダニエルが自分たちに対して野菜だけ食べて試してください、と申し出た時に、十日間の期間でした。

 ラバンやミルカの提案は、世が与えるものと同じです。私たちはしばしば、御霊が与えられる急な変化に対して、人間的にその速度を遅くしようとします。「もっと議論してから」とか、「もっとよく考えてから」とか言いますね。けれども、それで問題が解決するかというとそうではなく、むしろ他の思い煩いが入り込んでくる隙間を作るだけです。すぐに応答する必要があります。

24:57 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」24:58 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。

 すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。

24:59 そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。24:60 彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」

 覚えていますか、アブラハムに対して主が、「あなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。(22:17」と約束されました。同じ約束を祈願して、このように祝福しているのです。メシヤがリベカから生まれるように、という信仰的な、預言的な言葉なのです。

24:61 リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。

 第一礼拝でお話ししましたように、この長い旅路をエリエゼルはおそらく、そばで励まし、イサクについて多くのことを話したに違いありません。聖霊は今も、同じように働いておられます。私たちが疲れてきたときに力を与え、苦しんでいる時慰めを与え、とまどっているとき勧めを与えてくださいます。

24:62 そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。24:63 イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、24:65 そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

 イサクに花嫁リベカが会いました。ここに、キリストと花嫁である教会の麗しい出会いが象徴的に現れています。私たちは、再臨のキリストを待ち望みながら、この愛に燃やされます。

24:66 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

 サラの天幕で、夫婦の関係を結びました。サラが亡くなってから約三年後のことです。

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