創世記3−4章 「罪の始まり」

アウトライン

1A 蛇の惑わし
   1B 嘘 1−6
   2B 呪い 7−19
   3B 追放 20−24
2A 殺人
   1B アベルの血 1−16
   2B カインの子孫 17−24
   3B 主の名による祈り 25−26

本文

 創世記3章を開いてください、今日は3章と4章を学びたいと思います。とてもわくわくする箇所です。世界に罪が入り込みます、けれども神が罪を持ってしまった人間に対して、いかに救いの御手を差し伸べるのか、その神の働きを罪を犯したそのすぐ後から始められる姿を見ることができます。

1A 蛇の惑わし
1B 嘘 1−6
3:1a さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。

 ここに、エバを惑わす蛇が出てきます。この「蛇」のヘブル語には、「輝いている」という意味があります。この蛇は単に動物の蛇がエバに語っているのではなく、黙示録129節を読むと、悪魔がこの獣に入ってきたことが分かります。開いてみてください。
 

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

 「あの古い蛇」とありますね。黙示録は聖書の最後の書物ですが、この創世記に出てくる蛇のことを「あの古い蛇」と呼んでいます。そして興味深いことに、彼は「」とも呼ばれています。創世記3章に戻りますと、蛇が神から呪いを得た後に地を這うようになっています(14節)。つまり、エバに語りかけた時には地を這っていなかったことが考えられます。したがって、蛇でありますが、同時に竜のように動いていたことが考えられます。

 聖書には、竜の存在が出てきます。例えばヨブ記41章に出てくるレビヤタンは、海の中にいる火を噴く怪獣のような姿です。興味深いことに、世界中の神話に竜が登場します。そして「恐竜」は「恐い竜」と書きますね、実際の竜と関係があったのかもしれません。 

 いずれにしろ、蛇は元々「輝くもの」という意味があります。私たちはサタンや悪魔のことを、真っ黒で熊手の槍をもった存在のように想像しますね。あれはミルトンの「失楽園」に出てくる悪魔で、聖書の描く悪魔ではありません。彼は輝いており、非常に魅力的であったと考えられます。

 コリント人への手紙第二1115節に、「サタンでさえ光の御使いに変装するのです。」とあります。つまり、私たちが気をつけなければいけないのは、魅力的なものなのです。見た目に良いもの、好ましいもの、自分が正しいと思っているもの、実際はそうではないのに、美しく見せるのが悪魔の仕業なのです。

3:1b蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 エバはアダムから、神の言葉を聞いていました。21617節の言葉です。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」この言葉をアダムはエバに告げていました。直接聞いているのと、また聞きしているのでは、その確信度が違いますよね。エバはただアダムを信頼して、神がそう言われたのだと信じていましたが、その弱い部分に悪魔が付け込みました。

 悪魔が行なったのは、初めに「神の言葉に対する疑い」です。「神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。私たちが神に対する信頼を失うとき、その前に悪魔が必ず行っていることは御言葉への疑いです。

3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」

 エバはここで、すでに悪魔の誘惑に負けてしまっています。それは「返答してしまった」ということです。あるいは「対話してしまった」と言って良いでしょうか。彼女は素直で良さそうなのですが、悪魔に対してははっきりと、「あなたは、出て行きなさい。神は、「それを食べてはならない。」と言われている。」と彼の囁きを拒むべきだったのです。ヤコブ書47節に、「神に従いなさい。そして悪魔に立ち向かいなさい。」とあります。

 けれども彼女は、彼と対話してしまいました。それで彼女の心の防御機能が少し落ちてしまっています。「それに触れてもいけない。」と神が言われたと言っていますが、それは神が言われたことではありません。彼女の、神の御言葉に対する記憶力がここで弱まってしまっています。

3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

 ここに、嘘の始まりがあります。創世記が「初め」を教える書物であることを習いましたね?世界の始まり、人の始まり、結婚の始まりですが、ここに嘘の始まりがあります。イエス様が悪魔について「偽りの父」と言っている所があります。「彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。(ヨハネ8:44

 そして悪魔は、「あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」という誘惑を与えています。これが先週学んだ、「善悪の知識の木を神が置かれた」理由です。それは神だけが持っておられる善悪の知識であり、人は神に完全に委ねなければいけないのです。それを「いやだ、私が善悪の知識を得たい。」とするところに人間の欲望があり、それを悪魔がいま誘っているのです。

 悪魔はまさに、この罪を犯して堕落しました。イザヤ書14章に悪魔が堕落した場面が出てきますが、「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』(イザヤ14:13-14」同じ罪の中に悪魔が私たちを引きずり出そうとしているのです。

 そしてもう一つの悪魔が言ったことは、「神は知っているのです」という言葉です。神は意地悪だから、あなたがたにあえてそれを食べさせようとしないのだ、と疑わせています。いいや、彼らの最善を願われて、それを食べてはいけないと言われたのに、意地悪をしていると思わせているのです。ちょうど、熱くなっているストーブを触ってはいけないと親が言っている言葉を、「僕に意地悪しているんだ。」と思う小さな子供に似ています。

 これが、悪魔が、私たち人間に対して行なう攻撃の大きな部分を占めています。神は善なる方であり、私たちに最善を願っておられます。けれども、そのイメージを悪魔が歪めて、神への信頼を失わせるのです。聖書を読むときでさえ、私たちは、同じ神の言葉を間違った意図で読むことがあります。決して忘れないでください、神は私たちに良いことしか考えておられません!

3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 これはすでに学びましたね、ヨハネ第一2章にある世にある欲の三つです。「肉の欲」「目の欲」そして「暮らし向きの自慢(あるいはプライド)」です。食べるのに良く、というのが「肉の欲」、目に慕わしくというのが「目の欲」、そして賢くするというのがプライドです。

 この三つの誘惑に負けてアダムとエバは罪を犯したわけですが、希望は、私たちの主イエス・キリストです。イエス様も、公に活動を始められる前に悪魔から誘惑を受けられました。マタイによる福音書を開いてください。41節からです。
 

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(1-11節)

 「石がパンになるように、命じる」のは「肉の欲」です。そして、「御使いが、手で支えてくれる」というのが目の欲です。それから、「国々の栄華をあなたに与える」というのが暮らし向きの自慢です。自分がいかに優れているか、栄光と称賛を人々から受けることが誘惑でした。けれども、イエス様はその一つ一つに神の御言葉によって対抗し、そして最後に「引き下がれ、サタン。」と言ってサタンを退けられたのです。したがって、私たちがイエス・キリストを仰ぎ見て、この方についていく時に、エバが受けたのと同じ惑わしに対しても打ち勝つ力が与えられます。

2B 呪い 7−19
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 これは、彼らの霊が神から引き離された瞬間です。これまで神に拠り頼んでいたので見えなかった裸が見えるようになりました。そして、羞恥心が出てきました。これまですべてが透明であり、すべて交わることができ、神との間でも二人の間でも、すべてが親密な交わりの中で一つになっていたのに切り離されてしまった瞬間です。

 彼らは神が言われたようにその場で死ぬことはありませんでした。けれども、実はこの時点で死んでいます。神は「必ず死ぬ」と言われた時に二つの死を意味しておられました。霊的な死と肉体の死です。肉体の死は、後にアダムとエバが死ぬことによって実現します。けれども、霊的な死はここで神の御霊から離れてしまっているところから始まっています。ちょうど血液が存在していても、それが流れていないと即座に脳が死んでしまうように、たとえ霊があっても神との生きた交わりがなければすぐに死んでしまうのです。

 そしてこの死がいずれ肉体の死をもたらし、そして彼から出るすべての子孫が神の御霊から離れた状態で出てきます。ローマ512節にこう書いてあります。「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。(ローマ5:12」このために、私たちは肉体で生まれた時にすでに霊的に死んでおり、そして肉体もいずれ滅んでいくという定めの中に置かれているのです。

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 ここの「歩き回られる」というのは、ヘブル語で「いつも習慣的に歩き回っておられた」という意味合いがあります。いつもならば、ちょうど昼下がりの少し涼しくなってきた時にアダムとエバのところに来られて、いろいろ語り合いをされていたのだろうと考えられます。

 けれども、「主の声」を聞いたとたんアダムとエバは恐れました。これが、罪がなせる業です。罪は、神と私たちの間に仕切りとなります。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:2」神が私たちを怒って、離れ去られたのではなく、罪があるために私たちが神に近づけないようになってしまったのです。

3:9 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」

 ここの神の声を、みなさんはどう受け止めるでしょうか?恐い親父のように、「お前、どこにいる?」と怒っている声に聞こえますか、それとも、息子を失った、泣いている父親のように聞こえますか?真実は後者です。イエス様は、放蕩息子の喩えによって遠い国に行ってしまった息子を家の外でいつも待っている父の姿として神を描いておられます。

 ですから、私たちは悪魔が私たちに植え付けた神のイメージを払拭すべきです。神は愛する父であられ、私たちが離れている時には、泣いて嘆いておられる方なのです。

3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 罪を犯したアダムは、その罪の性質をここでよく表しています。「責任転換」です。しかも、責任を神になすりつけています。「あなたが私のそばに置かれたこの女が」と言っています。私たち男たちは、この言葉を言ってしまうことはないでしょうか?

3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 女も責任転嫁をしています。蛇が惑わしたと言っています。

 私たちが神の前に立ち返るために、まずしなければならないことは、罪を認めることです。環境や周囲の人のせいにするのではなく、責任を自分で取ることです。「私が罪を犯しました。」この単純な告白をする時に、神は私たちを回復させてくださる第一歩が始まります。

3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。

 神は蛇に対する呪いを宣言されています。「塵を食べる」という言い回しを見て、聖書批評家は、蛇は土を食べることはないのだからこの箇所は非科学的であり、間違っていると言います。そうではなく、聖書では卑しめられ、低められ、頭を上げることができないようにされている状態をしばしば、「塵を食べる」とか「塵を舐める」という表現をします(例:ミカ7:17)。この卑しめられた、屈服した状態を示す比喩的な表現です。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

 ここに、初めのメシヤ預言があります。神は罪を犯したアダムとエバに対して、女の子孫によって悪魔が行なった、神と人を引き離す仕業を打ち砕く約束を与えてくださいました。

 「女の子孫」というのは、きわめて不自然な言い回しです。英語では"Seed"であり、日本語でいうならば「子種」です。精子とも訳すことのできる言葉です。したがって、聖書では「子孫」と言う時は父から出てきた子のことしか書いていません。ところがあえて神は、ここに「女の子孫」と言われているのは、これが人間の父と母の間に生まれた、罪の性質を受け継ぐ子ではなく、神から生まれる子を、女を通して与えるというメシヤ預言なのです!

 イザヤは、神から次の預言を受けました。714節です。「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」男を通してではない、処女によって男の子を生み、彼がイザヤ書96節によると、神の子であり、父なる神と一つである方なのです。したがって、ここは処女マリヤから、イエス様がお生まれになる預言です。

 そして、この方が「おまえの頭を踏み砕く」とあります。蛇は尻尾を踏まれても何ともありませんが、頭を踏みつけられたらお仕舞いです。けれども蛇は、「彼のかかとにかみつく」とあります。これはキリストの十字架を指しています。悪魔は、キリストを十字架につけるよう仕向けることによって、彼の踵に噛み付きました。それは強い痛みが走ったことでしょう。けれども、しょせん踵なのです。蛇をふり払って、その同じ足で蛇の脳天を打ち砕くことができます。

 それがキリストの十字架と復活の御業です。キリストが死なれた時、それは暗闇の支配、暗闇の勝利であるように見えました。けれども神はそれを全人類の罪を赦す、罪のいけにえとしてお定めになっていたのです。したがって、悪魔は人を神から引き離し滅ぼすどころか、むしろその十字架の御業によって人が神に近づくことができる機会を与えてしまったことになります。これで、悪魔は完全に敗北したのです!「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15

3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」

 次は女に対する呪いです。神は女が子を産む時、激しい苦痛がともなうようにされました。罪を犯す前は、出産は痛みを伴うようになっていなかったのです。

 そしてもう一つの呪いは、夫からの支配です。女は男の助け手として造られました。女のかしらは男というのは神の秩序ですが、女が男の脇から造られたというのは、彼女が夫と共に歩む人であった、ということです。

 ところが、そこに乱れが起こりました。女は男との関係に満たしを求めようとします。男を自分のものにしたい、所有物にしたいと願います。「恋い慕う」というのは、ただ恋しいのではなく、自分の所有物にしたいという欲望です。ところが、その欲望はいつまでも満たされません。男はただ女を支配するだけです。

3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」

 女は関係において呪いを受けましたが、男は仕事において呪いを受けます。神は男を、神が与えられたものを支配するという仕事を与えて祝福されました。そしてその助け手として妻を与えられました。けれども、その仕事において汗して働かなければいけないという呪いを受けます。

 私が、大学生の子たちに、「天国に行ったら、テレビの前でポテトチップスを食べているように何もしていないのではない。私たちは天においても神に仕え、働くのだ。」と言ったら、ちょっと拒否反応を示していました。「仕事」という言葉を聞いたとたん、この汗を流し、苦労するというイメージが出てきたからです。私は説明しました。「仕事は本来、疲れないものだったのだ。ただ私たちを充足させるものだったのだが、アダムが罪を犯したことによって今のようになった。」

 そして「土地は、いばらとあざみを生えさせる」と神は言われましたが、この時から世界は人ではなく悪魔の支配下に入りました。神は人に、地を従えよという祝福の命令を与えられましたが、人が悪魔の言うことを聞いてしまったために、その支配権が人から悪魔に移ったのです。

 その支配権を奪還するために来られたのが、私たちの主イエス・キリストです。主は、この地にある呪いを、象徴的に、いばらの冠をかむることによって受けられました。「それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」(マタイ27:29」そして、イエス様はご自分の命という対価を払って、この世界を父なる神のもとに引き渡されたのです。

 いま悪魔は、この地上に対して支配権を持っていません。いわば不法占拠です。しかし、ちょうど所有権を持っていないのにいつまでも居住している人たちがいますね。そのマンションやアパートをブルドーザーで破壊するなど強制退去を行政が行なうのですが、それがキリストの再臨です。イエス様が再び戻ってこられる時に、悪魔はこの世からいなくなり、最後はゲヘナ、地獄に投げ込まれます。

 そして呪いは、「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」という所にも表れています。私たちはこれを葬式で見るのです。日本ではほとんど全ての死体は火葬ですが、燃やされた死体は灰だけになってしまいます。土葬でも、死体は腐乱し、土の要素の中に分解していきます。

 しかし、これもキリストが来られたことにより、この罪と死の法則は逆転しました。三日目に墓からよみがえられました。もはや死ぬことのない復活の体をもって生き返られました。同じように、キリストにあって死んだ人々も、終わりの日に復活します。

3B 追放 20−24
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。

 この「生きている」という言葉が「ハイ」であり、それが「ハバ」つまり「エバ」という名前です。

3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

 ここにも神の福音があります。第一礼拝でお話ししたように、人がいちじくの葉で自分の恥を覆おうとしてもできませんでした。それは人が自分の罪を自分の行いで取り除こうとする試みです。けれども、人にできなくなっていることを、神ご自身がしてくださいました。神が、彼らに着物を用意してくださったのです。

 それは葉ではなく、皮の衣でした。動物の命が取られ、血が流されました。神の、罪に対する罰がこの動物の上に置かれました。ですからアダムとエバがこれを見るときに、「私たちの罪は、ここで赦されたのだ。もうすでに血が流され、罪が洗い清められたのだ。」と実感することができたのです。

 これがキリストの血潮の力です。私たちを悩ます良心の呵責は、この血の力によってすべて洗い清められるのです。私たちが今、心に傷を持っていないでしょうか?過去に犯した罪について、咎めを受けていないでしょうか?どうかキリストの血を信じてください。あなたの、その咎のために、キリストの肉体から血が吹き出たのです!

3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 「われわれのひとりのようになり」というのは、もはや神と人が一つになっていないことを示しています。彼らが神から離れて、独立してしまったことを意味しています。神が自分で存在しているのと同じように、まるで自分だけで存在しているようになってしまった、ということです。

 ここに人間の空しさと孤独感が来ます。交わるべき対象がいないのです。魂に、神のみしか埋めることのできない空洞ができてしまいました。多くの人は、これを埋めるためにお金に走ったり、男女関係に走ったり、他の生きがいを求めて走り巡っているのですが、それで満たされないのです。神のみが満たすことができるものだからです。

 そして、「永遠に生きないように」と神は言われていますが、この罪のある状態で永遠に生きないように、という意味です。私たちが永遠に生きられると言われても、この体のまま、不完全な状態のまま永遠に生きたいとは思いませんね。

3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 エデンの園は、ノアの時代の洪水の時までそこに存在していたようです。アダムとエバは、この近くに、東側に住んでいたのでしょう。けれども、エデンの園の入り口にはケルビムがいました。ケルビムは神の御座のそばで神を礼拝している、天使長のひとりです。エゼキエル書1章を読みますと、ケルビムは青銅と火の輝きがあります。聖書では、青銅や火は神の聖さから来る裁きを表していますが、そこに人間がそのまま近づけはたちまち滅ぼされてしまいます。

 後の時代、モーセに対して神は幕屋を造ることを命じられましたが、その入り口も東にありました。東の門を通って、祭壇でいけにえを捧げ、聖所、そして至聖所に入り、ケルビムが彫られている贖いの蓋、そして契約の箱のところで大祭司が血を振り掛けます。したがって、同じように当時はエデンの園が神を礼拝するところであり、神の栄光の臨在が輝いていた所でした。

2A 殺人
 そして次に、再び悲しい話があります。それは「殺人」の始まりの歴史です。

1B アベルの血 1−16
4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。

 ここの「知った」は、性的に知ったということ、つまり夫婦の関係を持ったということです。そしてエバは、カインのことを「主によって、ひとりの男子を得た。」と言っていますが、ここをもっと正確に訳しますと、「ひとりの男子、主を得た」になります。つまり、この男子が主である方、つまりメシヤのことを表しています。

 エバは先ほど私たちが読んだ、神の約束がカインによって実現したと思ったのです。悪魔のかしらを打ち砕く「女の子孫」が、この子であると思っていたのです。もちろん、その期待はすぐに裏切られます。創世記、いや旧約聖書はこれから、自分の子孫にメシヤを期待するようになります。ユダヤ人の女からメシヤが現れることを期待します。

4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 ここで、多くの人が疑問を抱きます。なぜカインの捧げ物を受け入れず、アベルのだけを受け入れられたのか、ということを。このように分からなくなったときは、その前後にある文章を読み直すと良いです。

 まず大事なのは、アベルの捧げ物に注目することです。「羊の初子」とあります。初めに生まれてくる雄の羊です。これは最も大切であり、価値のあるものです。これを神に捧げました。礼拝とは、自分の最も大切なものを、魂でさえも、すべてが神のものであり、主のものであることを告白する所です。なぜなら、神が真剣に、ご自分の子キリストを私たちに与えられることによって、私たちがどれだけ高価で尊いかを示してくださったからです。

 そして、「自分自身で、持ってきた」とあります。自分自身が神への礼拝に関わった、ということです。他の人に任せるのではなく、自分自身が神に近づきました。

 つまり言い換えると、カインはこの二つのどちらも行なわなかったということです。地の作物の中でも、余剰のもの、取るに足りないものを捧げたのでしょう。そして、自分自身ではなく、誰か他のものに言いつけて捧げたのでしょう。ここに心が込められていません。

 そして、さらに根本的な問題があります。いま読んだ3章には、「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。(17節)」とありました。ですから、土地から出てくる作物を神に捧げたこと自体が、神がすでに語られたことをないがしろにし、聞いていなかったことになります。

 彼は、自分の職業が農夫だったから、その自分の労力で作ったものを神の前で認められようとしていたのです。これが、自分の行ないによって神に自分を認めてもらおうとしている姿です。けれども、すでに罪をもって生まれてきた者は、どんなに正しいと思われることを行なっていようとも、神の基準を満たすことはないのです。イザヤ書646節に、「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」とあります。私たちが正しいと思っているものであっても、神の目には汚らしい着物のようにしか見えないのです。

 ではアベルは、どうでしょうか?神はアダムとエバに。「皮の衣」を作って着せてくださいましたね。犠牲の動物によって神に近づくことができるという方法を神はすでに与えてくださっていました。アベルはこれをそのまま受け入れて、それで自分の羊から全焼のいけにえを取り、主に捧げたのです。それで主は彼の捧げ物を受け入れてくださいました。

 ですからアベルとカインの違いは、「信仰」にあります。ヘブル書114節に、「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。」とあります。信仰というのは「狭い門」です。私たちのあらゆる努力は、神の前で無に等しいのです。ただ、キリストによってのみ、神の前に近づくことができることを認める必要があります。

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 カインは落ち込んでいました。もっと正確に言うと鬱になっていました。「顔を伏せている」とありますね。自分で間違っていることを分かっていたのです。けれども、それを認めることをしたくなかったので、自分の心のうちにある憤りを内に閉まっておいたのです。

 そして神は、悔い改めの機会を与えておられます。「罪が戸口で待ち伏せしている。あなたを恋い慕っている。」これは、先ほどの女が男を恋い慕う、と同じ言葉です。つまり罪がカインの心を自分のものにしたいと思っている、という意味です。けれども神は、かえってそれを治めなさい、と励ましておられます。

 つまり、私たちが自分の思いにある罪を、神の方法できちんと処理しないと、それが大きくなって、いつしか自分を支配するようになる、ということです。ヤコブ書に、その増幅する罪の表現が書かれています。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(1:15」です。ですから、そうならないうちに捨てる必要があります。箴言には、「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(28:13」とあります。

4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

 カインは悔い改めませんでした。心に苦みを宿していたので、今読んだようにそれが膨張して、殺意にまで至りました。そしてそれを実行したのです。

4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。

 カインは知らぬふりをしていましたが、神はご存知です。神は、「どこにいるのか。」と聞かれた時に、彼にやはり罪意識を持って、自ら告白する機会を与えておられたのでした。

4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 アダムに対しては、汗水流して苦しみはあるけれども、そこから収穫物があることは話しておられました。けれどもカインは、その収穫物さえなくなると宣言されています。

4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

 神は、反抗したカインにさえ憐れみを示されました。将来、彼を人々からの害から守ってくださいました。そしてカインは、「主の前から去って」とありますが、ここからもアダムとエバの家族はエデンの園の近くに住んでいたと考えられます。彼らはエデンの園の東にいたのですが、さらに東のほうにあるノデの地に住み着きました。

 このカインとアベルの話は、新約聖書に何回となく引用されていますが、イエス様は、神の預言者を殺して血を流したイスラエル人、そしてイエス・キリストご自身を死に定めたユダヤ人指導者に当てはめておられます。「それは、義人アベルの血からこのかた、神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。(マタイ23:35

 数多くの国で、イエス・キリストを信じる者を迫害し、ある時は殺すことが行われています。けれども、実は私たちは心の中で二つの選択があります。それはアベルのように、キリストによって神が与えてくださった備えを受け入れるか、それともカインのように自分のこれまでのやり方、生き方を押し通して、「キリストなんか、要らない」とこの方を押しのけてしまうこともできるのです。

2B カインの子孫 17−24
4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 ここで神の言葉を信じていない多くの人は、「カインの妻はどこから出てきたのか?」と言います。この批評への回答は簡単です。創世記54節を見てください、「アダムは・・・息子、娘たちを生んだ」とありますね。カインとアベルを生んだ後に、セツを生み、そしてその他にも娘たち、また他の息子たちを生んでいるのです。創世記に出てくる子供は、それだけで全てではないのです。

 そしてこの時期は、まだ遺伝子上の汚染がない状態でしたから、家族の中で近親の中で結婚しても大丈夫でした。後で、近親相姦はモーセの律法の中で禁じられるようになります。

 そしてカインが「」を建てています。これは、神が言われたことに反することです。神は彼をさすらい人にするように定められたのに、彼はそれを嫌い定住して町を建てたのです。

4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 カインの子孫から文明が生まれました。牧畜業、そして音楽、それから鉄鋼業が生まれています。最後の鉄鋼業は驚くべきことです。「」は、人間の歴史の中で紀元前千年頃にならないと普及していないものです。イスラエルの初代王のサウルがペリシテ人と戦った時に、イスラエル人には鍛冶屋がいなかったという記述があります(1サムエル13:19)。したがって、ノアの時代の洪水の前の時代は、原始的どころか、非常に文明が発達していたと考えられます。

 ところがカインの暴力の血は、子孫に受け継がれています。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 文明が発達したと同時に、暴力が増し加わりました。レメクは自分を傷つけた若者を殺したことを誇って妻に自慢しています。暴力を称賛するような社会です。そして、このカインの子孫によって始まった文明と暴力が世界に満ちてしまった状態を、ノアの時代で見るようになります。創世記6章に書いてあります。

 私たちはしばしば、間違った考えを持っていますね。文明が発達すれば、人々がより文明開化すれば、人は進歩するのだという考えです。いや、文明的に、科学的に進歩したかに見える人類が、今、もっとも野蛮になっていると言えないでしょうか?暴力が称賛されている社会に生きています。思いの中で楽しんでいるだけだから良いではないか、という言い訳をしますが、それの思いを実行に移している人々があまりにも多い社会になりました。神の存在を否定すると、人はいかに文明が発達しようとも、このように暴虐に満ちるのです。

3B 主の名による祈り 25−26
 けれども神は、これであきらめたりなさいません。新たな子孫を与えられることによって、希望を絶やすことはなさいませんでした。

4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」4:26 セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。

 アベルが死んでしまい、カインが去っていったので、神は新たに子を与えられました。「セツ」という子です。そしてセツの息子エノシュから、「主の御名によって祈ることを始めた」とあります。みなで公に礼拝するようになった、ということです。神の名を忘れることなく生きる子孫を神が残してくださったのです。このセツの子孫を創世記5章の系図の中で見ることができます。その子孫がノアであり、ノアの家族が洪水から救われ、そして新しい世界で再び増え広がります。

 このように、罪が始まり、罪が増え広がりましたが、その中でキリストの希望を与えて、新しい始まりを起こしてくださいました。最後のローマ5章の最後の節を引用します。「それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。(ローマ5:21」恵みと命が支配します、お祈りしましょう。