創世記31−33章 「ペヌエル(神の御顔)」

アウトライン

1A ラバンとの確執 31
   1B 帰郷の決意 1−21
   2B ヤコブの口答え 22−42
   3B ミツパ(見張り) 43−55
2A 恐れとの闘い 32
   1B ヤコブの企て 1−21
   2B 神との格闘 22−32
3A エサウとの出会い 33
   1B 互いの抱擁 1−11
   2B 別れ 12−20

本文

 創世記31章を開いてください、今日は31章から33章まで学びます。私たちは前回、ヤコブが父イサクの家から離れて、母リベカの兄ラバンの家に身を寄せていた話を読みました。そこにいる二人の娘ラケルとレアと彼は結婚しました。初めはラケルのために七年間働きましたが、ラバンはレアを嫁に与えました。そのため、その七年間はレアのために働いたことになり、さらにラケルのために七年間働きました。

 そして六年の間、ヤコブはこれから生まれてくる家畜の中で、やぎの中ではぶち毛とまだら毛、羊の中では黒毛のものだけを報酬するという取り決めをラバンとしました。そうしたらそればかりが生まれてきて、ヤコブは非常に豊かになりました。3043節をお読みください、「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」そこで、ラバンとの確執が始まります。

1A ラバンとの確執 31
1B 帰郷の決意 1−21
31:1 さてヤコブはラバンの息子たちが、「ヤコブはわれわれの父の物をみな取った。父の物でこのすべての富をものにしたのだ。」と言っているのを聞いた。31:2 ヤコブもまた、彼に対するラバンの態度が、以前のようではないのに気づいた。31:3 主はヤコブに仰せられた。「あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。」

 ラバンの息子たちの発言は、当然、妬みから来ているものです。ヤコブはラバンのものと取り上げたのではありません。生まれてきたものが、取り決めの通りぶち毛とまだら毛のやぎ、そして黒毛の羊だったのです。このように、神の働きは何かを生み出し豊かにさせますが、この世の働きは貪り取ろうとします。神が生み出したものを自分の物だと主張し、ただ搾り取っていくだけです。イエス様が言われました。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。(ヨハネ10:10

 そして、ヤコブ自身も彼らのその苛立ちに気づくようになりました。その時に主がヤコブに語られたのです。「自分の故郷に帰りなさい、わたしがその道中を守る。」と言われました。私たちは神の導きを求める時に、その招請がいつかかるのかを待っています。確かに神はヤコブに、故郷に帰ることについて、ヤコブの旅の初めに約束してくださいましたが、いつ戻るかについては明らかにしておられませんでした。私たちも、神の意図をもう既に知っているけれども、その時については知らされていないことがあります。

 そのような時、しばしば神は徴を与えられます。ここではラバンとの確執です。神は、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18」と言われます。けれどもその平和が脅かされつつあります。その時に私たちは悪い意味でまじめになって、「それは、私に欠けたものがあり、それでこのような不和が起こっているのだ。」と自分を不必要に責めるのです。けれども、自分が主に喜んで仕えている時にこのようなことが起こる時、それは神が次に与えておられる道に進みなさいという徴である場合が多いのです。

 これから読んでいきますが、ヤコブは、自分が何かをしたから和睦できるという状態ではありませんでした。ラバンの貪欲は底なしです。妥協できる余地がないのです。聖書は世との調和は不可能であることを教えています。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15

31:4 そこでヤコブは使いをやって、ラケルとレアを自分の群れのいる野に呼び寄せ、31:5 彼女たちに言った。「私はあなたがたの父の態度が以前のようではないのに気がついている。しかし私の父の神は私とともにおられるのだ。31:6 あなたがたが知っているように、私はあなたがたの父に、力を尽くして仕えた。31:7 それなのに、あなたがたの父は、私を欺き、私の報酬を幾度も変えた。しかし神は、彼が私に害を加えるようにされなかった。

 ここの「幾度も」の直訳は「十度も」です。「十」の数字は聖書の中で「試す」という意味合いがあります。ラバンはヤコブを幾度も試したのです。

31:8 彼が、『ぶち毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れがぶち毛のものを産んだ。また、『しま毛のものはあなたの報酬になる。』と言えば、すべての群れが、しま毛のものを産んだ。31:9 こうして神が、あなたがたの父の家畜を取り上げて、私に下さったのだ。

 ラバンという強欲な男の下で働いていましたが、主がヤコブと共にいてくださり、その劣悪な環境の中で彼を祝福してくださいました。これが、信仰者に与えられている祝福です。この世において、問題がないことを神は約束しておられません。けれども、問題の中でも主が共にいてくださることを約束してくださっています。そして必ず、その悪い環境の中から神の祝福を生み出してくださるのです。

31:10 群れにさかりがついたとき、私が夢の中で目を上げて見ると、群れにかかっている雄やぎは、しま毛のもの、ぶち毛のもの、また、まだら毛のものであった。31:11 そして神の使いが夢の中で私に言われた。『ヤコブよ。』私は『はい。』と答えた。31:12 すると御使いは言われた。『目を上げて見よ。群れにかかっている雄やぎはみな、しま毛のもの、ぶち毛のもの、まだら毛のものである。ラバンがあなたにしてきたことはみな、わたしが見た。31:13 わたしはベテルの神。あなたはそこで、石の柱に油をそそぎ、わたしに誓願を立てたのだ。さあ、立って、この土地を出て、あなたの生まれた国に帰りなさい。』」

 覚えていますか、ヤコブが旅を始めた時に、天のはしごの夢の中で現れてくださった主です。ヤコブに、アブラハム、イサクが受けた約束を彼が受け継ぐことを示してくださいました。そして、故郷に戻ってくるまで彼を守ってくださることを約束してくださいました。それでヤコブは、「この所に神がおられるとは知らなかった。」と言って、そこを「神の家」と名づけました。「ベテル」は神の家という意味です。

 主は、このように私たちに戻るべき所を与えてくださいます。それは神ご自身の臨在です。私たちがこの世にいていろいろな働きをします。神から与えられたものを行なっていきます。けれども、これらのことを行なっていても、主ご自身の臨在があるところに戻っていき、そこで神を礼拝することが必要です。私たちは奉仕の前に、奉仕を命じている所で時間を過ごす必要があります。

 そしてラバンの息子たちは、「ヤコブが父のものを奪い取った」と言いましたが、その発言は嘘ですが、その言葉を使わせてもらうと9節にあるように、「神がラバンのものを取り上げた」のです。私たちがたとえ不条理な待遇をこの世で受けても、12節にあるように神は見てくださっています。そして神が必ず私たちに報いを与えてくださいます。

31:14 ラケルとレアは答えて言った。「私たちの父の家に、相続財産で私たちの受けるべき分がまだあるのでしょうか。31:15 私たちは父に、よそ者と見なされているのではないでしょうか。彼は私たちを売り、私たちの代金を食いつぶしたのですから。31:16 また神が私たちの父から取り上げた富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのものですから。さあ、神があなたにお告げになったすべてのことをしてください。」

 ヤコブだけでなく妻二人も、ヤコブの決断に完全に同意していました。これも神の導きの徴の一つです。妻たち、子供たちが神に導かれた父の判断に従わなければいけませんが、それだけでなく神ご自身がその思いをそれぞれに与えてくださいます。

 ラバンは、結納金としてのヤコブの働きの報酬を、本来なら娘たちに還元しなければいけませんでした。けれども、それを何一つしてきませんでした。ですから、父は自分たちを売ったという被害意識を彼女たちは持っていたのです。そして、ラバンのそのような扱いによって、彼女たちは父に対する未練はありませんでした。「富は、すべて私たちのもの、また子どもたちのもの」だと言っています。自分たちは独立してヤコブ家のものになったのだという意識も強く持っています。

31:17 そこでヤコブは立って、彼の子たち、妻たちをらくだに乗せ、31:18 また、すべての家畜と、彼が得たすべての財産、彼がパダン・アラムで自分自身のものとした家畜を追って、カナンの地にいる父イサクのところへ出かけた。31:19 そのとき、ラバンは自分の羊の毛を刈るために出ていたので、ラケルは父の所有のテラフィムを盗み出した。

 「ティラフィム」というのは家に安置する偶像です。けれども、それは家の財産権を主張するための印でした。ですからラケルはラバンの財産を後に主張するために、この印を持ち出したのです。

31:20 またヤコブは、アラム人ラバンにないしょにして、自分の逃げるのを彼に知らせなかった。31:21 彼は自分の持ち物全部を持って逃げた。彼は旅立って、ユーフラテス川を渡り、ギルアデの山地へ向かった。

 「ギルアデ」は、今のヨルダンの北部に位置します。ヨルダン川沿いに南北に広がっている山地です。後にガド族とマナセ半部族の相続地になります。

2B ヤコブの口答え 22−42
31:22 三日目に、ヤコブが逃げたことがラバンに知らされたので、31:23 彼は身内の者たちを率いて、七日の道のりを、彼のあとを追って行き、ギルアデの山地でヤコブに追いついた。31:24 しかし神は夜、夢にアラム人ラバンに現われて言われた。「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。」

 ラバンはヤコブに危害を加えようとしていました。けれども神がその殺意に介入され、それを行なってはいけないと夢の中で語られました。

31:25 ラバンがヤコブに追いついたときには、ヤコブは山地に天幕を張っていた。そこでラバンもギルアデの山地に身内の者たちと天幕を張った。31:26 ラバンはヤコブに言った。「何ということをしたのか。私にないしょで私の娘たちを剣で捕えたとりこのように引いて行くとは。31:27 なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや立琴で喜び歌って、あなたを送り出したろうに。31:28 しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。あなたは全く愚かなことをしたものだ。31:29 私はあなたがたに害を加える力を持っているが、昨夜、あなたがたの父の神が私に告げて、『あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ。』と言われた。

 ラバンは美辞麗句を並べていますが、彼らを快く送り出す意図などさらさらないことが、その後に「私はあなたがたに害を加える力を持っているが」と脅迫しているところによく表れています。

 そして神は時に、異教徒にさえ語られることを知ります。ラバンはテラフィムを持っているような偶像礼拝者でしたが、神が語られヤコブに危害を与えさせないようにされました。

31:30 それはそうと、あなたは、あなたの父の家がほんとうに恋しくなって、どうしても帰って行きたくなったのであろうが、なぜ、私の神々を盗んだのか。」

 先ほどのテラフィムのことです。興味深いことに、彼の神々は盗み出すことができるものでした!人が盗むことができる神って、いったい何でしょうか?けれども多くの人は、そのような神々を持っています。「これがなければ生けていけない。」と強く思っているものは、みな神です。ある人によっては、車かもしれません。財産を神にしているのです。

 同じく「ベル」という偶像を神にしていたバビロンが、ペルシヤに倒れて、逃げている姿を描いている預言の言葉があります。イザヤ書46章です、「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。(1-2節)」皆さんの方には多くの重荷があるでしょうか?それは、このバビロンの人々と同じ状態になっているのです。

 けれども続けてこう書いてあります。「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(3-4節)」生ける、まことの神はこのように、逆に私たちを背負ってくださいます。

31:31 ヤコブはラバンに答えて言った。「あなたの娘たちをあなたが私から奪い取りはしないかと思って、恐れたからです。

 ラバンが、「こっそり抜け出し」とヤコブに言ったことに対する答えです。

31:32 あなたが、あなたの神々をだれかのところで見つけたなら、その者を生かしてはおきません。私たちの一族の前で、私のところに、あなたのものがあったら、調べて、それを持って行ってください。」ヤコブはラケルがそれらを盗んだのを知らなかったのである。31:33 そこでラバンはヤコブの天幕と、レアの天幕と、さらにふたりのはしための天幕にもはいって見たが、見つからなかったので、レアの天幕を出てラケルの天幕にはいった。31:34 ところが、ラケルはすでにテラフィムを取って、らくだの鞍の下に入れ、その上にすわっていたので、ラバンが天幕を隅々まで捜し回っても見つからなかった。31:35 ラケルは父に言った。「父上。私はあなたの前に立ち上がることができませんので、どうかおこらないでください。私には女の常のことがあるのです。」彼は捜したが、テラフィムは見つからなかった。

 ヤコブが死の誓いまでしてしまったので、ラケルは死ぬかもしれませんでしたが、自分の座っている所の下に置いてしまいました。生理の期間で立ち上がることはできないと言って、ラバンに捜させませんでした。

31:36 そこでヤコブは怒って、ラバンをとがめた。ヤコブはラバンに口答えして言った。「私にどんなそむきの罪があって、私にどんな罪があって、あなたは私を追いつめるのですか。31:37 あなたは私の物を一つ残らず、さわってみて、何か一つでも、あなたの家の物を見つけましたか。もしあったら、それを私の一族と、あなたの一族の前に置いて、彼らに私たちふたりの間をさばかせましょう。

 ヤコブは、ラケルの件はこの時点では知らなかったのですが、その他については何の咎めもありませんでした。誠実に彼は働いたのです。

31:38 私はこの二十年間、あなたといっしょにいましたが、あなたの雌羊も雌やぎも流産したことはなく、あなたの群れの雄羊も私は食べたことはありませんでした。

 言わば、会社の部下がきちんと仕事をしないとこうなります。羊飼いはきちんと世話をしないと、羊もやぎも流産します。また、こそっと主人の家畜を食べることもしました。会社のものをこっそり私用に使うのと同じですね。

31:39 野獣に裂かれたものは、あなたのもとへ持って行かないで、私が罪を負いました。あなたは私に責任を負わせました。昼盗まれたものにも、夜盗まれたものにも。

 羊飼いは、野獣に裂かれた家畜や、盗まれた家畜については責任を負いませんでした。羊が裂かれた場合、その羊を主人に見せれば良いだけのことでしたが、それさえもヤコブは自分で責任を負いました。ラバンは、「そんなことしなくてよい。」と当時の慣習なら言うべきだったのを、そのままヤコブに責任を負わせたのです。

31:40 私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。31:41 私はこの二十年間、あなたの家で過ごしました。十四年間はあなたのふたりの娘たちのために、六年間はあなたの群れのために、あなたに仕えてきました。それなのに、あなたは幾度も私の報酬を変えたのです。31:42 もし、私の父の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が、私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の悩みとこの手の苦労とを顧みられて、昨夜さばきをなさったのです。」

 ヤコブはそのまま、神に与えられた自分の思いをラバンに訴えました。ここで、「アブラハムの神、イサクの恐れる方」とヤコブは呼んでいますね。アブラハムはラバンにとって、祖父ナホルの兄弟です。ですから同じ神を信じていると思っていましたが、「イサクの恐れる方」とヤコブが言うことによって明らかに自分がラバンとは異なる神をあがめていることを示唆しています。

3B ミツパ(見張り) 43−55
31:43 ラバンは答えてヤコブに言った。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちのために、または娘たちが産んだ子どもたちのために、きょう、私は何ができよう。31:44 さあ、今、私とあなたと契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」

 ラバンは、最後まで自分のものだと主張しました。まるでヤコブが彼のものを奪い取り、自分が最大限譲歩して、彼に与えていると言わんばかりに。ここに、私たちがいくら説得しても、人の心を変えることはできないことを思います。変えることのできるのは神ご自身です。

31:45 そこで、ヤコブは石を取り、これを立てて石の柱とした。31:46 ヤコブは自分の一族に言った。「石を集めなさい。」そこで彼らは石を取り、石塚を作った。こうして彼らは石塚のそばで食事をした。31:47 ラバンはそれをエガル・サハドタと名づけたが、ヤコブはこれをガルエデと名づけた。31:48 そしてラバンは言った。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」それゆえ、その名はガルエデと呼ばれた。

 ここでラバンが危害を加えないという証しとして、塚を作らせています。エガル・サハドタはアラム語で、ガルエデはヘブル語ですが、どちらも「証拠の塚」という意味です。そして当時、契約を結ぶ時に食事をしていましたが、同じように彼らも食事をしています。

31:49 またそれはミツパとも呼ばれた。彼がこう言ったからである。「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。31:50 もしあなたが私の娘たちをひどいめに会わせたり、もし娘たちのほかに妻をめとったりするなら、われわれのところにだれもいなくても、神が私とあなたとの間の証人であることをわきまえていなさい。」

 脅迫めいた契約内容です。「ミツパ」とは「見張り」という意味です。

31:51 ラバンはまたヤコブに言った。「ご覧、この石塚を。そしてご覧、私があなたと私との間に立てたこの石の柱を。31:52 この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。敵意をもって、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたもまた、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。

 これで互いに、それぞれの地に行き来することはなくなるということです。

31:53 どうかアブラハムの神、ナホルの神・・彼らの父祖の神・・が、われわれの間をさばかれますように。」ヤコブも父イサクの恐れる方にかけて誓った。

 先ほども話しましたように、アブラハムを同じ親戚として持っていますが、ヤコブは明らかに「イサクの恐れる方」と言って、ラバンの神と区別しています。

 多くの人はキリスト教とイスラム教の神は同じだと言っています。確かにイスラム教は一神教であり、旧約聖書と新約聖書を使い、イエスを偉大な預言者だとみなしています。ユダヤ教とキリスト教から派生した宗教だから、同じ神だと言うのです。けれども、聖書にはこうも書いています。「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。(1ヨハネ4:3」イスラム教では、イエスが神の御子であることを真っ向から否定しています。エルサレムの神殿の丘にある岩のドームには、「神には御子はいない」と書いてあります。むしろ、反キリストだと言うのです。イエス・キリストの神を私たちは信じています。

31:54 そうしてヤコブは山でいけにえをささげ、一族を招いて食事を共にした。食事をしてから彼らは山で一夜を明かした。31:55 翌朝早く、ラバンは子どもたちと娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の家へ帰った。

 これでヤコブは、二十年にも渡るラバンとの確執の生活に終わりを告げることができました。

2A 恐れとの闘い 32
 けれども彼にとっては、ラバンよりももっと辛い試練を通らなければいけません。それは、「故郷に戻るということは、エサウと会わなければいけない。」ということです。ラバンの場合は、純粋にラバンに非がありました。これはキリスト者の「この世との確執」を表しています。この世において、その価値観の中でどう対処しなければいけないかを教えていました。

 けれどもエサウの場合は、自分自身にも非があります。エサウに変装して父から祝福を受けたという負い目を持っています。問題は外側というよりも、内側にあります。これを言い換えれば、「自分の肉にある葛藤」です。エサウとの仲にある負い目と彼は戦わなければいけません。そしてその解決は、「神によって砕かれる」ことです。

1B ヤコブの企て 1−21
32:1 さてヤコブが旅を続けていると、神の使いたちが彼に現われた。32:2 ヤコブは彼らを見たとき、「ここは神の陣営だ。」と言って、その所の名をマハナイムと呼んだ。

 ヤコブは旅の初めに、天使が上り下りする天の梯子の夢を見ました。同じように、約束の地に戻ろうとしている時に神の使いたちが彼を取り囲んでいました。そしてそれは「神の陣営」であり、神が彼を守ってくださるために遣わされた天使たちだったのです。ですから、ヤコブは恐れる必要はありませんでした。

32:3 ヤコブはセイルの地、エドムの野にいる兄のエサウに、前もって使者を送った。

 セイルは、死海の南、今のヨルダンの南部にあります。エサウとその子孫であるエドム人は、そこのごつごつした岩の山地に住み着きました。

32:4 そして彼らに命じてこう言った。「あなたがたは私の主人エサウにこう伝えなさい。『あなたのしもべヤコブはこう申しました。私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。32:5 私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。』」

 ヤコブは低姿勢で臨みました。兄が弟に仕えるというのが神の約束でしたが、彼はそれに反してあえてエサウを自分の主人と呼んでいます。

32:6 使者はヤコブのもとに帰って言った。「私たちはあなたの兄上エサウのもとに行って来ました。あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」

 四百人も連れてくるとは、何か意図があります。それが実際にヤコブに危害を加えようとしていたのか、あるいはヤコブが強くなって、神の言葉の通りに自分を征服するかもしれないという予防的措置だったのかもしれません。

32:7 そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、32:8 「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう。」と言った。

 ヤコブは、神の陣営を見たにも関わらず恐れてしまいました。そして彼は何とかして、被害を最小限に食い止めようと思い、宿営を二つに分けました。良く考えた自衛策です。

32:9 そうしてヤコブは言った。「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする。』と仰せられた主よ。32:10 私はあなたがしもべに賜わったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。32:11 どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。32:12 あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする。』と仰せられました。」

 ヤコブは出来る限り、精一杯の祈りを捧げました。そして正直な祈りを捧げました。自分は確かに恐れていると神に申し上げています。私たちも神の前ではこのように正直になる必要があります。

 そしてヤコブは、神の約束と恵みに訴えました。アブラハムの神、イサクの神と呼び、生まれ故郷で幸せにすると言った約束を思い起こし、そして実際に、杖一本しかなかったところ多くの家畜を恵んだことを申し上げています。私たちは同じように、祈りの中で単に私たちの思いと気持ちを話すのではなく、神のご性質やその働きを思い出しながら祈る必要があります。

32:13 その夜をそこで過ごしてから、彼は手もとの物から兄エサウへの贈り物を選んだ。32:14 すなわち雌やぎ二百頭、雄やぎ二十頭、雌羊二百頭、雄羊二十頭、32:15 乳らくだ三十頭とその子、雌牛四十頭、雄牛十頭、雌ろば二十頭、雄ろば十頭。32:16 彼は、一群れずつをそれぞれしもべたちの手に渡し、しもべたちに言った。「私の先に進め。群れと群れとの間には距離をおけ。」32:17 また先頭の者には次のように命じた。「もし私の兄エサウがあなたに会い、『あなたはだれのものか。どこへ行くのか。あなたの前のこれらのものはだれのものか。』と言って尋ねたら、32:18 『あなたのしもべヤコブのものです。私のご主人エサウに贈る贈り物です。彼もまた、私たちのうしろにおります。』と答えなければならない。」32:19 彼は第二の者にも、第三の者にも、また群れ群れについて行くすべての者にも命じて言った。「あなたがたがエサウに出会ったときには、これと同じことを告げ、32:20 そしてまた、『あなたのしもべヤコブは、私たちのうしろにおります。』と言え。」ヤコブは、私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない、と思ったからである。32:21 それで贈り物は彼より先を通って行き、彼は宿営地でその夜を過ごした。

 ものすごい綿密な計算ですね。エサウの怒りを静めるために、まず多大の家畜を贈り物として提供します。けれども、一度に上げたのでは効果がない。怒りを静めることが目的だから、何回かに分けて、時間を置きながら渡そうと考えたのです。

 このようにヤコブは、「自分の手で何とか解決する」努力をしました。これが実は彼の弱点でした。自分の手ではなく、神ご自身の御手によってエサウと会わなければいけないのに、自分の手を動かしたのです。

 私たちは能力のある人を羨みます。自分は能力がないから神に用いられることもないのでは、と心配になります。けれども、それは人間の世界ではそうかもしれませんが、御霊においては異なります。御霊が与えられる能力は「賜物」と呼ばれています。英語ではgiftであり「贈り物」なのです。パウロは賜物についてこう言いました。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。(ローマ12:3」神の恵みによって、信仰によって与えられるものです。

 ですから、私たちは自分の弱さの中にある神の働きを待ち望まないといけません。けれども、どうしても私たちは自分のできることに頼ってしまいます。その限界の中で動こうとするのです。けれどもその殻から出てくるようにと、神は私たちを愛の御手で取り扱われるのです。

2B 神との格闘 22−32
32:22 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。32:23 彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。

 「ヤボクの渡し」は、今のヨルダンの首都「アンマン」辺りから、ヨルダン川中流に流れ込む、東から西へ流れている川です。ヨルダンは高地なので、いや、ヨルダン川一帯が低地になっており、そのためヨルダン川を渡る時は、ヤボク川など、その高地をゆっくり下降できる、なだらかな所としてその川沿いを歩きます。おそらくアブラハムがユーフラテス上流地域から約束の地に入る時も、このルートを通ったことでしょう。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」32:27 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください。」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか。」と言って、その場で彼を祝福した。32:30 そこでヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた。」という意味である。

 非常に不思議な体験です。ヤコブが格闘していたのは、人であってかつ神であられる方です。まさに、受肉される前のイエス・キリストご自身です。

 ヤコブが格闘していたのは、神の御心に対してです。それは、「彼の手によるのではなく、神の御手によってエサウと会うのだ。」という神の意思です。けれどもヤコブは、それが我慢なりませんでした。これまでの人生は自分の手を動かして機会を掴み取っていったので、そんなことはできなかったのです。

 「ヤコブに勝てないのを見て」とありますが、この方に力がないのではなく、むしろ彼は自発的に神の御心に従順になることを願ってのことでした。ところが彼が意地を張っています。それで、ももつがい、つまり太腿の間接を外しました。

 相当痛かったでしょう。彼は泣きながら「私はあなたを去らせません」と懇願しました。泣きながら、というのはホセア書に注釈として載っています。そして彼は、「私を祝福してくださらなければ」と言っています。ヤコブはとことん神の祝福を熱愛していました。彼は神を愛していました。

 神に愛され、選ばれた人は幸いです。その愛によって私たちは神を愛するようになります。そして神を愛する人は必ず、このような痛い思いをします。それは神を愛し、その祝福を願うがゆえに、自分の内にある肉の力をそぎ落とされる経験をするからです。それでも、自分は神の側につきたい、そう思う人が本当に豊かに祝福されます。

 「イスラエル」という名前を神から与えられました。神に選ばれた民族、国家、そしてその土地の名前がこれからイスラエルになりますが、それは「神と戦う」という意味です。それは神から特別な取り扱いを受けて、それで自分の力が取りされれることによって初めて勝利を得る、という意味です。「神の支配を受ける」という意味もあります。私たちは自分が自分を支配するところから砕かれて、神が自分を支配されるのを許すとき、イスラエルと同じ真の祝福が与えられます。

 そしてヤコブは、この方の名前を尋ねますが、この方はあえて明かすことはなさいませんでした。けれどももうすでにヤコブは知っています。「ヤハウェ」なる神です。モーセの時代になって、神ははっきりとご自分の名前を明かされます。

 そしてヤコブはここを「ペヌエル」と名づけます。「神の御顔」という意味です。ヤコブが顔と顔をあわせて神を見た、ということです。私たちはペヌエルの経験をしたでしょうか?自分ではない、まったく自分が制御できない領域において神が関わってくださる恵みを体験する時、私たちも同じように神の御顔を見えることができます。

32:31 彼がペヌエルを通り過ぎたころ、太陽は彼の上に上ったが、彼はそのもものためにびっこをひいていた。32:32 それゆえ、イスラエル人は、今日まで、もものつがいの上の腰の筋肉を食べない。あの人がヤコブのもものつがい、腰の筋肉を打ったからである。

 これで、彼はエサウから逃げようにも逃げられなくなりました。彼はびっこを引いて生きることになります。これは身体における障害でありますが、けれども神にある勝利であり、イスラエルの名としてふさわしい姿です。「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(2コリント12:10

3A エサウとの出会い 33
1B 互いの抱擁 1−11
33:1 ヤコブが目を上げて見ると、見よ、エサウが四百人の者を引き連れてやって来ていた。ヤコブは子どもたちをそれぞれレアとラケルとふたりの女奴隷とに分け、33:2 女奴隷たちとその子どもたちを先頭に、レアとその子どもたちをそのあとに、ラケルとヨセフを最後に置いた。33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。

 ヤコブがそのような順番で並ばせたのかは分かりません。推測としては、最も自分にとって大切な人たちを最後に取っておきたい、というものだと思います。花火大会のときに、一番美しい仕掛けは最後に残していますよね、それと似ていると思います。

 そしてヤコブは七回も地に伏しておじぎをしています。彼は、自分がエサウのしもべであるのだという姿勢を崩していません。けれどもエサウはまったく別の行動に出ます。

33:4 エサウは彼を迎えに走って来て、彼をいだき、首に抱きついて口づけし、ふたりは泣いた。

 エサウは当時の慣例に従うのではなく、ただ愛する兄弟として彼を抱きました。自分のほうからヤコブに走り寄ってきました。そして抱きついて口づけし、泣いています。ヤコブはエサウと会うという状況から何とかして避けていました。「主よ、できれば会わせないでください。」と祈ったかもしれません。けれども、神はその祈りを聞かれませんでした。むしろエサウの心を変えることで、その祈りをかなえてくださったのです。

 ヤコブは、要は自分がエサウの手から救われることを願ったのです。ならば、エサウに会わないという方法ではなく、その根っこにあるエサウの憎しみが溶かされれば完全に解決します。私たちはいつも、自分の理解の範囲内で、神に指示を与えるような祈りをします。「神様、こうしてください。ああしてください。そうすれば、こうなりますから。」という具合にです。けれども、神は直接的な祈りを求めます。「要は、こうなってほしいのです。よろしくお願いします。」という祈りです。

 神はヤコブに対して行なわれたと同じように、私たちの内側を取り扱い、そしてキリストの似姿に変えられるように導かれます。ローマ人への手紙8章28節には、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」という有名な言葉があります。けれどもその次の聖書の箇所は見逃されやすいです。「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(29節)」御子と同じ姿になるために、私たちは定められました。それゆえに、すべてのことを働かせて益としてくださるのです。ヤコブに対して行なわれた神の御業もそれと同じです。

33:5 エサウは目を上げ、女たちや子どもたちを見て、「この人たちは、あなたの何なのか。」と尋ねた。ヤコブは、「神があなたのしもべに恵んでくださった子どもたちです。」と答えた。33:6 それから女奴隷とその子どもたちは進み出て、おじぎをした。33:7 次にレアもその子どもたちと進み出て、おじぎをした。最後に、ヨセフとラケルが進み出て、ていねいにおじぎをした。

 自分を再び「あなたのしもべ」と言っています。再びエサウを自分の主人として立てています。

33:8 それからエサウは、「私が出会ったこの一団はみな、いったい、どういうものなのか。」と尋ねた。するとヤコブは、「あなたのご好意を得るためです。」と答えた。33:9 エサウは、「弟よ。私はたくさんに持っている。あなたのものは、あなたのものにしておきなさい。」と言った。33:10 ヤコブは答えた。「いいえ。もしお気に召したら、どうか私の手から私の贈り物を受け取ってください。私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています。あなたが私を快く受け入れてくださいましたから。33:11 どうか、私が持って来たこの祝いの品を受け取ってください。神が私を恵んでくださったので、私はたくさん持っていますから。」ヤコブがしきりに勧めたので、エサウは受け取った。

 ヤコブは「神の御顔を見るようにエサウの顔を見ている」と言っていますが、これはへつらいではなく本当にそう思ったのでしょう。つい先ほどまで、神ご自身と格闘して、ペヌエルを経験したばかりです。その後に出てきたエサウに会っています。私たちが信仰と祈りの中で生まれでた状況は、まさに神ご自身によるものという意識があります。

 そしてエサウがヤコブの贈り物を断っている時に、「私はたくさん持っている」と言っていますね(9節)。けれどもヤコブは、「私はたくさん持っています。(11節)」と答えました。異なるヘブル語が使われており、ヤコブが使ったのは正確に訳すと「私はすべてを持っています」です。ヤコブは単に物質的な豊かさの話をしているのではありません。むしろ、霊的な豊かさを話しています。必要なものはすべて与えられているという、十全の思いを述べているのです。

 パウロもピリピにある教会の人たちに手紙を送った時に、こう言いました。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:11-13」信仰によれば、今与えられているもので満足することができます。

2B 別れ 12−20
33:12 エサウが、「さあ、旅を続けて行こう。私はあなたのすぐ前に立って行こう。」と言うと、33:13 ヤコブは彼に言った。「あなたもご存じのように、子どもたちは弱く、乳を飲ませている羊や牛は私が世話をしています。一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます。33:14 あなたは、しもべよりずっと先に進んで行ってください。私は、私の前に行く家畜や子どもたちの歩みに合わせて、ゆっくり旅を続け、あなたのところ、セイルへまいります。」33:15 それでエサウは言った。「では、私が連れている者の幾人かを、あなたに使ってもらうことにしよう。」ヤコブは言った。「どうしてそんなことまで。私はあなたのご好意に十分あずかっております。」33:16 エサウは、その日、セイルへ帰って行った。33:17 ヤコブはスコテへ移って行き、そこで自分のために家を建て、家畜のためには小屋を作った。それゆえ、その所の名はスコテと呼ばれた。

 ヤコブはここでエサウを偽ったのかどうか分かりません。もしかしたら後日、セイルに行ったかもしれません。あるいは、オバデヤ書という預言書には、メシヤが終わりの日にエドムに来ることが書かれています(21節)。

 そしてヤコブは、ヨルダン川をすぐに渡ったのではなく、なんとその手前で家を建てて滞在してしまいました。「スコテ」とは小屋のことですが、家を建て、家畜のためには小屋を建てたのです。

33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。33:19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

 しばらくしてスコテからヤコブはヨルダン川を渡り、そのまま西方に歩き、シェケムに滞在しました。かつてアブラハムが祭壇を立てたところです。そこで土地まで購入しています。住み着いてしまいました。祭壇には、「神、イスラエルの神」という名前を付けています。

 スコテで滞在し、そして約束の地に入ってからも、ベテルに行かずにシェケムに留まってしまったところから私たちは何を見るでしょうか?「油断」です。ヤコブにとっての人生の分岐点を、エサウとの出会いで通り過ぎました。その後で彼は、霊的に油断したのです。まず約束の地に入ることを躊躇し、それからベテルに行かずにその少し北にあるシェケムに留まったのです。

 ある人がこう言いました。「私たちは戦いの前に目を覚まして用心しているが、戦いに勝利した後には戦いの前のように用心しなければならない。」霊的にもそうです。峠を越えると、自分は霊的に完成したと勘違いしてしまいます。そして油断をして、後ずさりしてしまうのです。もう到達したと思っていますから、霊的成長が止まり、それ以上前進しようとは思いません。

 そこでパウロは、ピリピの教会に対してこう書きました。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14

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