創世記392-3節 「主がヨセフと共におられる」

アウトライン

1A しるし
   1B ヤコブの家にて
   2B ポティファルの家
   3B 主人の妻による誘惑
      1C 神への罪
      2C 逃亡
   4B 監獄にて
   5B パロの前にて
2A 結果
   1B 避けられなかった事
      1C 兄弟の憎しみ
      2C 奴隷
      3C 誘惑
      4C 偽りの告発
      5C 監獄
   2B 成し遂げられたこと
      1C 罪からの回避
      2C 逆境の新しい見方
      3C 厳しい状況下での勝利
      4C 統治

本文

 創世記39章を開いてください。第二礼拝では38章から40章までを読んでみたいと思います。今は392節と3節に注目したいと思います。

39:2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。39:3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

 私たちが、後世の人、あるいは周囲の人に自分のことが評価される時、その評価を一言で言い表す時、どのような人物になるでしょうか?「忙しい人」「頑固な人」あるいは肯定的に、「優しい人」「いつも前向きな人」いろいろあるかと思います。

 聖書の中に出てくる人物ではいかがでしょうか?アブラハムの場合は、「彼は神を信じた」という一言が彼の生涯を端的に言い表していましたね。まったく可能性のない状況の中で、神がすべてのことを成し遂げてくださる力を持っておられることを信じました。イサクの場合は、「とどまった」という一言でしょう。神が与えられた約束の地から決して離れず、神の約束の中に留まっていた人です。そしてヤコブは、「自分の手で働く」人でした。ラバンの家でひどい扱いを受けながらも、自分の手で働き、主がその働きを祝福してくださいました。

 それで私たちはヨセフの生涯を読み始めています。前回は、彼が兄に憎まれて、エジプトに奴隷として売られた話まで読みましたが、今、読んだように、「主がヨセフと共におられた」というのが彼の生涯を端的に表す一言です。ヨセフがすること、語ること、その生活の周りに、確かに彼ではなくほかの存在がおられる、そしてその方は主なる神であると、周りの人たちが認めざるを得ない状態です。

1A しるし
1B ヤコブの家にて
 ヨセフは、ヤコブの家にいて特別な存在でした。父ヤコブからの寵愛を受け、そで付きの長服を着ていました。それはヤコブの跡継ぎになることを意味していました。そして何よりも彼は夢を見ました。自分が将来どうなるかの夢を見ました。彼には主が共におられることが、そのことから分かります。

2B ポティファルの家
 そして彼は兄たちによって貿易商人に売られ、エジプトで奴隷となりました。奴隷と聞いたら、もうその人は他人の所有物になったということです。ところが、今読みましたように、ポティファルはエジプトの王の廷臣であり、裕福な人でした。そして奴隷という立場でありながら、何と彼の全財産を管理する者となりました。もう一度、3節を読みましょう。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。

3B 主人の妻による誘惑
 ところが、なんと主人の妻が彼に対して、「いっしょに寝ておくれ」と言い寄ります。そこでヨセフは、どのように反応したでしょうか?

1C 神への罪
 8,9節を見てください。「しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。(創世39:8-9

 少し考えてみましょう、彼は20歳ぐらいの好青年です。性欲が最も強い時期でしょう。そして、彼は家から遠く離れたエジプトにいます。彼が何をしているか、家族は知る由もありません。けれども、彼は「私は神に罪を犯すことができましょうか?」と言ったのです。彼は、誰が見ていなくても、神が見ておられることを知っていました。そこに、「確かに主がヨセフのそばにおられる」と認めることができます。

 この世においては、このような悪事を隠れたところでなら行なっても良いと考えています。隠すことができるなら少しごまかしても良かろうと思うのです。けれども、キリスト者は既にこの世に属しているのではなく、神に属しています。「光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ5:8」と使徒パウロはエペソの信徒たちに対して言いました。そして、私たちは罪に対しては死んだ者です。「罪に対して死んだ私たちが、どうしても、なおもその中に生きていられるでしょう。(ローマ6:2

 そして私たちが知らなければいけないのは、罪というのは神に対して犯すものです。ポティファルに対して犯すのではなく、自分自身に対して犯すのではなく、すべての良いものの源である神ご自身に対する罪なのです。ダビデはバテ・シェバと姦淫の罪を犯し、後にウリヤを殺したことについて、「私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。(詩篇51:4」と言いました。

 バテ・シェバは、主がウリヤに与えられた妻であり、究極的に主のものです。そしてダビデ自身の体も、神がお造りになり、神の栄光を表す器であり、これも究極的に神のものです。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(1コリント6:19-20」私たちが、自分が神の前で罪人として立たせられていることを知らない限り、真の悔い改めと信仰は与えられません。

2C 逃亡
 それでもポティファルの妻は、あきらめることはありませんでした。何とすべての者を家から追い出して、ヨセフと二人だけになります。そして彼の上着をつかんで「私と寝ておくれ」と言うのです。その時に彼が取った行動は何でしょうか?非常に消極的ですが、実は最も効果的な対処法を彼は取りました。すなわち、「その場から逃げた」のです。「しかしヨセフはその上着を彼女の手に残し、逃げて外へ出た。(12節)

 この行為は、自分の肉がいかに弱いかをよく知っている、真の勇気を表しています。自分は大丈夫だと思うのではなく、むしろ、「私にはこの誘惑に到底打ち勝つことはできない。」と分かっているのです。パウロは若い牧者テモテに対して、「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(2テモテ2:22」と言いました。ここの「避ける」の英語は"flee"であり、「逃げなさい」と訳すことのできるものです。

 ですから彼と共に主がおられました。彼が逃げていく姿に、主がそのような暗闇にはおられないことが良く表れています。

4B 監獄にて
 その後、ヨセフは監獄に入れられます。悪いのは主人の妻なのに、なんと彼女は自分がヨセフによって陵辱されそうになった、と言い張りました。そして証拠として彼の上着を主人に見せたのです。物的証拠は、見方によっていかようにも解釈のできるものですね。

 では、そこに主はおられなかったのでしょうか?いいえ、21節をご覧ください。「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。」なんと、彼は監獄において監獄の長に気に入れられ、彼に囚人のすべての管理を任せられたのです。鍵ももちろん渡されたでしょう、けれどもヨセフは脱獄しようなんて少しも思いませんでした。だから監獄の長は彼を信頼することができたのです。

5B パロの前にて

 このように彼の人生には一貫して、「主が共におられる」ことが分かります。そして、ポティファルの家でも監獄でも管理を任せられますが、実に彼は一国の行政を管理する地位にまで一挙に引き上げられました。エジプトの支配者となったのです。

 ヨセフが、パロの見た夢を解き明かしたのですが、パウロがこう言いました。「神の霊の宿っているこのような人を、ほかに見つけることができようか。(41:38」異教徒である一国の王が、このような発言をしているのです。確かにこの人には主がおられる。このような解き明かしができるのは、神以外にして誰ができようと言ったのです。

2A 結果
 いかがでしょうか?私たちもこのように、私たちの生活を見たら「確かにこの人には主がおられる。」と認めるような人になりたいと思わないでしょうか?

1B 避けられなかった事
1C 兄弟の憎しみ
 そこで私たちは、ヨセフに主が共におられたという事実を、もう一度整理してみましょう。まず、主が共におられるのは、何でないかを見てみましょう。

 一つは、人から憎しみを受けることです。ヨセフは主が共におられたために、むしろ兄たちから憎しみを買いました。私たちは、もちろん、「自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。(ローマ12:18」であるべきです。けれども、全ての人を喜ばすことはできません。むしろ、イエス様は弟子たちにこう言われました。「もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:18-19

 私たちが人から憎まれる時、「ここに主はおられるのですか?」と叫ぶかもしれません。けれども、主にあって行なったことで反対に遭うなら、それはむしろ主が共におられることのしるしなのです。

2C 奴隷
 そして彼は、奴隷の身となりました。このような悪い環境の中に入れられた時に、私たちは「主はどこにおられるのですか?」と問うでしょう。けれども、先ほど見たとおり主は確実におられます。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:2-3

 そして、明らかに罪を神に対して犯すような仕事でないかぎり、すべての職場は神がそこに召してくださったから存在します。パウロが生きていた時代にもローマ帝国で多くの人が奴隷でした。奴隷の身分でクリスチャンに対して語ったのが、次の言葉です。「おのおの自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、むしろ自由になりなさい。奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。(1コリント7:20-22」機会があれば奴隷の身から抜け出せばよいが、それまでは奴隷の身が、主の選ばれた所だということです。

3C 誘惑
 そして主が共におられる、ということは、誘惑を受けないということではありません。私たちは誘惑を受けると、自分が何と弱い人間で罪人なのか、と思ってしまいます。けれども、誘惑を受けること自体は罪ではありません。誘惑に屈することが罪です。

 神が共におられ、そしてご自身神であられたイエス様は、その肉体を持っておられた間、ずっと誘惑を受けておられました。公生涯を歩まれるにあたって、四十日の断食後、悪魔から、「石をパンにしてみなさい。」「飛び降りて、天使に助けてもらって、人々に良いところを見せなさい。」そして「全世界の栄華をあなたにあげよう。」という誘惑を受けられました。罪なきイエス様がこのような誘惑を受けられたのですから、なおさらのこと私たちはその弱さを持っていても問題ではないのです。むしろ、その弱さの中にキリストをお迎えし、主にあって誘惑から避けることで主の臨在を楽しむことができます。

4C 偽りの告発
 そして、ヨセフは偽りの告発を受けました。自分が行なっていないことを行なったと訴えられました。いかがですか、これが一番私たちにとってダメージが大きいですね。主がなぜこんなところにおられるのか?と思ってしまうかもしれません。けれども、おられるのです。主は必ずその正しさに報いてくださいます。

 パウロはローマ8章でこう言いました。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:33-34」私たちが訴えられている時に、私たちの主イエス様は共におられ、そして私たちのために執り成してくださいます。

5C 監獄
 そして私たちが主が共におられたら、迫害を受けないということでは絶対にないことは、ヨセフが監獄に入ったことからも分かるし、イエス様がそのように語られました。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5:11-12

 ですから、人からの憎しみも、奴隷状態も、誘惑も、偽りの告発も、監獄も、すべて主がおられない証拠とはならないことを知るべきです。

2B 成し遂げられたこと
 では、主がおられることの特徴を見てみましょう。

1C 罪からの回避
 ヨセフは罪を避けました。これが主が彼と共におられたことの大きな特徴です。「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28:13」私たちは、自分の幸せの尺度をどこに置いているでしょうか?悪い状況に陥ることと、良い状況でも罪を犯していることと、どちらが自分を不幸せにしているでしょうか?たとえ、自分の右手がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれるよりはよいとイエス様は言われました(マタイ5:30)。

2C 逆境の新しい見方
 そしてもう一つは、このような逆境の時に異なった見方ができることがあります。ヨセフは兄たちにこのように言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(50:20」その時は悪であっても、主はそれを良いことのための計らいとすることがおできになるのです。このように、悪においても主が介在されていることを信じる信仰があるときに、その人に主が共におられるのです。

3C 厳しい状況下での勝利
 そして、彼は逆境の中で自暴自棄になりませんでした。主にあって忍耐しました。その忍耐の中で彼の品性は練られていきました。これこそ主にある勝利です。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5

4C 統治
 クリスチャンは、目先のことにとらわれません。またとらわれないように、主は今、見えていることよりもはるかに壮大なご計画を私たちのために用意してくださっています。それは、ヨセフがちょうどエジプトの支配者になったように、私たちはキリストと共にこの地を統治するという約束が与えられているのです。「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(黙示2:26-27

 私たちは、この壮大なご計画を心に留めているでしょうか?イエス様は、「神の国と神の義を第一に求めなさい。」と言われました。この視点から、今起こっていることを見るときに、私たちは今、どのようなことがあってもそこには神がおられることを認めることができるのです。そしてその悪から善を生み出すことができることを神にあって確信することができるのです。

 その生活を送る時に、人が私たちを見て、「確かにその人には神が共におられる」と認めるのです。ヨセフのように神に対して忠実で、真実で、そして悪を避けている生活を送るなら、同じ評価を受けることができます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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