創世記3章7、21節 「無花果の葉と皮の衣」

アウトライン

1A 罪がもたらす恥
   1B 良いものに見える罪
   2B 一時的な楽しみ
   3B 死に至る悲しみ
2A 恥を覆う試み
   1B 人の行ないによる救い
   2B 離別
   3B 死の恐怖
3A 神が着せてくださる衣
   1B 神の行ない
   2B 犠牲の血(贖罪)
   3B 完全な贖い、キリスト

本文

 創世記3章を開いてください。私たちロゴス・クリスチャン・フェローシップでは、神のご計画全体を知るという目標をもって、創世記から黙示録までの通読を試みています。前回は1章と2章を学びました。今日は、3章と4章を学ぼうと思っています。明日(日曜)の午後二時から始まる第二礼拝にぜひご参加ください。

 今晩は、37節の言葉に注目したいと思います。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。

 覚えておられるでしょうか、私たちは前回、神が男を造られ、そして男から女を造られたところを見ました。アダムがエバを見て、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。(2:23」と叫びました。この世における初めての結婚です。

 そして、その時の彼らの状態を創世記の著者はこう書き記しています。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(2:24」二人は、裸であっても恥ずかしいと思いませんでした。それは、隠すべきものが何一つなかったからです。神の前でも、また互いの間にも隠すべきものがありませんでした。神が来られても、「神さまー!」と言ってそのまま近づいていたし、またお互いに近づいても何の羞恥心もありませんでした。つまり、悪いことを行なっておらず、すべてが明るみに出ていたのです。

 それは、彼らが完全に神に拠り頼んでいたからだ、ということをこの前学びましたね?善悪の知識の木がエデンの園の真ん中にあったけれども、それは神の知識であり、神が善と悪の判断を行なわれるのだ、ということを表していました。これを食べないことは、つまりすべての判断を神に任せて、小さな子が親にすがるように、すべてを神に頼る関係を持っていたからです。

1A 罪がもたらす恥
 ところが、今読んだ箇所には、「ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。」とあります。神が食べてはならないと言われた善悪の知識の木から実を取って食べたからですね。蛇の中に入ってきた悪魔がエバを惑わして、その木の実を取って食べるようにさせました。そして、エバがアダムにその実を勧めたので、アダムも取って食べました。つまりアダムは、「取って食べてはならない。」と神に言われたのに、その言うことを聞き従わないで背いたのです。聖書はこれを「罪」と呼びます。神の意志に反することを行なうことはみな罪です。

1B 良いものに見える罪
 罪というのは、不思議なことにみな「良いもの」に見えます。それを行なっている人には、それは良く、正しいものに思えるので行なうのです。初めから嫌なものを行なおうとはしません。それは、罪を罪ではなく良いものに見せている悪魔がいるからです。エバがそうでした。

 創世記35,6節を見てください、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」悪魔によって、肉の欲が刺激されました。「まことに食べるのに良く」です。そして目の欲が刺激されました、「目に慕わしく」です。

 そして何よりも、「神のように賢くなる」という欲望が彼女を罪に駆り立てました。神に拠り頼むのではなく、神なしで生きられるようになりたい、または、神のようになりたいという欲望です。「自分の判断だけで、自分の力だけで、自分の知恵に頼って生きていきます」というのは、世間ではむしろ正しいと思われています。自分の心臓の鼓動さえも自分自身で制御できないのに、自分を造られた方を拒んで生きるという反抗心を、良いことのように悪魔は見せています。

2B 一時的な楽しみ
 そして興味深いことに、エバはそれを食べた後に夫、アダムにも与えました。意外においしかったのでしょうか、夫のアダムにも付き合ってもらいました。「罪はその仲間を求める」というような諺があったでしょうか?自分が行なっていることを行なっていない仲間がいると、実に煙たいですよね?だから、いっしょにやってほしいのです。

 そしてアダムも食べたのですが、おそらく彼らはその味を楽しんでいたことでしょう。罪は、一時的な快楽をもたらします。行なったその瞬間は気持ちいのです。

 多くの人は、「教会に行くと、罪のことばかり話される。人生って、他にもっといろいろあるんじゃない?」と感じます。私も、実際にそう感じる時があります。けれども、教会は、神の真理を任されているところです。この世は、罪のその外見の部分の情報しか提供しません。その一瞬の部分しか話しません。例えば、小説やドラマ、映画などで、どれだけ恋愛を描いたものが多いでしょうか?そして結婚をしていないのに、すぐに肉体関係の中に入ります。また、すぐに離婚します。離婚した後も、なんか上手に二人が付き合っている場面も出てきます。

 けれども、その後に起こっていることをこの世は語りません。罪は食べる時はおいしいですが、その後はおなかの中で砂利になるように非常に苦々しいものです。(箴言に「だまし取ったパンはうまい。しかし、後にはその口はじゃりでいっぱいになる。(20:17」とあります。)

 先日、クリスチャンのお見合いを斡旋するクリスチャンによる結婚相談所のサイトを見ました。それを主催されている方が、女性の立場から、婚前に性的関係を持ってしまった後の結果について話しました。一つは異性に対する恐怖心です。二つ目は、性的行為そのものを汚らわしいと思ってしまうことです。結婚生活においてそれは美しく祝福されたものなのに、その楽しみが失われてしまいます。そして三つ目が「不信感」です。神の前に出て祈っても、どうしても自分と神との間に距離があると感じてしまう、強い孤独感を味わうというものでした。

 ですから、罪がどういう結果をもたらすか、その現実を聖書また教会は教えているのです。

3B 死に至る悲しみ
 そして、アダムとエバは悲しみの中に入れられました。主がいつものように園の中を歩かれていたのに、裸であることがもう分かっているので、身を隠さなければいけませんでした。そして、神は女には産みの苦しみと男性による支配を、そして男には仕事における苦しみを与えられました。それからエデンの園から追放されました。彼らは悲しみの中に生きなければいけなくなったのです。

 聖書に、「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10」とあります。この世には、嘘による信頼関係の破壊、離婚によって残された傷、貪欲になったために倒産した会社など、いろいろありますが、その行き着くところは「死」です。

 聖書でいう「死」とは、神から離れていること、また神が形造られた理想の状態から離れていることを意味します。そしてある時は、実際の死のことを話します。私たちは常に、理想の自分と現実の自分の狭間で悩んでいます。その幅が大きければ大きいほど葛藤し、悲しみにつぶれます。そして究極の姿は、実際の肉体の死による別離です。死ほど私たちに大きな悲しみをもたらすものはありません。

 この罪によってもたらされる死を、完全に解決するべく働きかける神がおられます。創世記は罪の始まりを描いていますが、聖書の最後の書物である黙示録は罪の終わりを描いています。そして死、悲しみ、叫び、他のあらゆる悲惨の終わりを描いています。213,4節を読みます。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」いかがですか、この神の救いを受け入れたいと思われませんか?

2A 恥を覆う試み
1B 人の行ないによる救い
 そこで、再び37節を見ましょう。彼らが罪を犯した後に、まず初めに抱いたのは、先ほどから話していますように羞恥心です。そして彼らが取った行動が、「いちじくの葉をつづり合わせた」ことでした。いちじくの葉は、中東で葉が最も大きいものだと言われています。それを使って、覆いを作ったのですが、その後の話を読めばすぐ分かるように、神が来られたら、恥ずかしくてすぐに隠れました。

 ここで大事なのは、この文章の主語です。「そこで、彼らは・・・」とあります。罪によってもたらされた恥を、彼らは自分自身で覆おうとしています。自分自身で罪意識を取り除こう、罪を償おうとしているのです。言い換えれば、人の行ないによって救いを得ようとしている姿です。

 実は、これを人間は全員が行なってしまっています。いろいろな形で、自分で自分を救おうとしています。あるべき理想の自分の姿に達すべき、現実の自分に鞭を打っています。あるいは、現実の自分が理想の自分に到達しないので、理想の自分を引きおろそうという努力をします。ある人は、自暴自棄な生活をしたり、ある人は自傷行為に走ったりします。神経症になっている人たちもいます。

 まだ自分に希望を抱いている人たちは、理想の自分に自分を引き上げようと努力します。ある人はお金儲けで、ある人はキャリアを積むことで社会的地位を得ようし、ある人は学問で、ある人は恋愛関係で達成しようとしています。

 そして、自分でいちじくの葉をつづり合わせようとする最たるものは宗教です。街角で募金集めしている人たちに会ったことのある人たちはいますでしょうか?彼らは、それによって自分が楽園の中に入ることができると信じて行なっています。一個の壷が百万円ぐらいするのを平気で買ってしまいます。罪の中にいる自分を、自分の努力と行ないによって神にたどり着こうとしているのです。

2B 離別
 けれども、これらの人間の行ないによって、罪は取り除かれるものではありません。ゆえに、アダムとエバは、神が来られた時に隠れました。アダムの言葉を聞いてください、10節です。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」ああ、なんとかわいそうな状態でしょうか!彼とエバはそれまでは神と一体になっており、すべてのことを分かち合い、神ごご自身を楽しんでいました。それが今、神を怖い、恐ろしいと感じているのです。

 人と人の関係が切れてしまうとき、またその人の顔を見るときこのような羞恥心と恐れが出てくるのと同じように、神を恐ろしい、怖いと思って、退いてしまうのです。それは神ご自身が恐ろしいのではなく、自分の罪がそうさせているのです。ですから、先ほど話したように、神と自分が切り離されていること、これ自体が聖書では「死」と呼んでいます。霊的な死です。

3B 死の恐怖
 それだけでなく、私たちは肉体の死の前にも恐怖を味わいます。ヘブル書927節には、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定めっているように」とあります。人間は、自分がただいなくなるのではなく、死んだら、今まで自分が犯した罪を清算しなければいけないことを、良心の奥深い部分で知っています。この世で裁判所に行ったことがなくても、かならず最後の審判があるのだ、ということを知っています。

 ですから、末期癌のケアにおける一つの方法は、「告白」というものがあります。それは治療ではありません。死の準備です。人が死ぬ前に、自分が行なった罪や悪の意識で苛まれるので、それを告白することによって死を迎えるというものです。

 この死の恐怖も、私たちが何かを行なったから、いろいろな良い活動を行なったら消え去るものではありません。それはちょうど、癌にかかっているのに、頭が痛いから痛み止めの薬を飲むようなものです。根本的な死に対する治療は、キリストの死です。ヘブル書214,15節を読みます。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15」死を迎えても、完全な平安をもって、むしろ喜ぶようにして死んでいくことのできる、ものすごい解放をキリストの死がもたらします。 

3A 神が着せてくださる衣
 そこで、次に創世記321節をご覧ください。「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」いちじくの木の葉では恥を取り除くことのできなかったアダムとエバに対して、神が代わりに皮の衣を着させてくださいました。

1B 神の行ない
 ここで大事なのが、主語です。「神である主は」であります。先ほどはアダムとエバが主語でしたね?自分の罪意識を自分の行ないで取り除くことができなかったのですが、それを神が代わりに行なってくださるのです。

 これが福音です!私たちが罪によってできなくなっていることを、神が一方的に行なってくださいます。このことを知っているか、知っていないかで、私たちの生活はすべて変わります。私たちが自分の理想の状態に達するべく行なうのではなく、神が私たちの現実の姿にまで降りてきてくださって、そこから神の似姿になるべく私たちを引き上げてくださるのです。

 よく考えてみてください。宗教では、有限の人間が無限の神に近づかせようとします。けれども、有限な存在が無限の存在に近づけるでしょうか?いいえ。けれども、聖書に書かれている福音は、無限の神が有限の神に近づいてくださることを教えているのです。たとえば蟻は人間の頭にまでたどり着くことは無理であっても、私たち人間はしゃがんで蟻を拾い上げて、頭の高さまで持ち上げることは可能です。これが、神がキリストにあって行なってくださったことです。イエス・キリストは神であられるのに、人となってくださり、私たちの間に住んでくださいました。

2B 犠牲の血(贖罪)
 次に、彼らの裸を覆ってくださったのは「皮の衣」でした。神が、六日目に、人を造られる前に造られたのが家畜などの陸上の動物でした。それを取って、羊なり牛なり、その動物を屠って、血を流して、それから皮を剥いで、身に着ける毛皮を作ってくださったのです。

 彼らは、尊い命が失われたのを見ました。血が流れ出たのを見ました。神が彼らの罪を覆うために、代わりにこの動物の命を取られたのです。このことによって、神はアダムとエバの罪を赦すための土台を作られたのです。

 つまり、犠牲による罪の赦しです。自分が罪を犯したのだから、自分がその罪の罰を受けなければいけません。けれども、神は私たちをご自分のもとにまた引き戻したいと願われています。以前と同じように、ご自分と人が一つになっている、親しい交わりを回復させたいと願われています。けれども神は聖い方です。罪をそのままにして彼らを受け入れることはできません。だから、代わりに犠牲を備えられたのです。動物の血を流させることによって、彼らが本来、そのようにならなければいけなかったのを、代わりに罰を受けさせることによって彼らを受け入れるようにされたのです。

 したがって、聖書には「血を流す」歴史が続きます。数多くの動物のいけにえが捧げられ、神の前に近づく人々の姿を読みます。それは、神が人々を私たちのところに引き戻したいと願われているからです。

3B 完全な贖い、キリスト
 けれども、動物の血によっては罪を完全に取り除くことはできません。人の命と、動物の命にはその価値に違いがあります。そこで神は、最終的に完全に私たち人間の罪を取り除く備えを与えられました。それは、なんとご自分の子を罪のいけにえ、とすることです。

 ヘブル書1010節にこう書いてあります。「このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(ヘブル10:10」イエス・キリストご自身の体が、動物のいけにえのように、血を流したというのが、あの十字架の出来事なのです。

 したがって、私たちがキリストの十字架を見るとき、それは、自分が今、苦しんでいる罪のためだということを知る必要があります。私がもし精神的疾患を抱えていたら、あるいは、自分に悔やみ、自分のしたことで良心の呵責を覚え苦しんでいるなら、どうかキリストの手に釘が打たれ、その肉体はむちによってめちゃくちゃになっていて、その姿を見てください。もう自分を痛めつける必要はありません!神がキリストにあって、まるでご自分に鞭を打つように、すべての痛みを負ってくださったのです!

 もし、自分が人生の目標があまり分からなくて、今、していることをなんとなくしているけれども、何か空しいと思われていたら、どうかキリストの十字架を見てください。その空しさは、ご自分が、すべての命の源であられる神から離れているからです。けれども、神はキリストにあってその距離を埋めてくださったのです。あるいは、今、駆り立てられるように何かを一生懸命しておられるかもしれません、どうか、立ち止まって、自分を大切にしてください。キリストがその罪意識をご自分が流された血によって取り除いてくださるのです。

 これまでは、どんな努力をしてもだめだったかもしれません。ちょうど自分の体重を自分で持ち上げることができないように、フラストレーションの生活だったかもしれません。けれども、上から神が来てくださいました。キリストによって来てくださいました。私たちに必要なことは、ただ受け入れることです。神がしてくださったことを、心から迎え入れることです。もうアダムとエバのような、葛藤と罪意識、死の恐れを感じる必要はありません。キリストが私たちの平和と罪の赦しになってくださいます。

ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内の学び
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