ハガイ書1章 「現状を考えよ」


アウトライン


1A 自分の家 1−11
   1B 宮の廃墟 1−6
   2B 神の喜び 7−11
2A 仕事再開 12−15

本文

 ハガイ書は、ユダヤ人がバビロン捕囚からエルサレムに帰還した後の話が書かれています。私たちはキャンプで以前、ダニエル書を学びましたね。それはバビロン捕囚のときに、ダニエルがバビロンで起こったことを書いた書物です。

 私たちが今回、心に留めたいテーマは、神様からのビジョン、幻です。ダニエルは、エレミヤの預言を読んでいて、ユダヤ人の捕囚の帰還は70年であることを知りました。当時、間もなく70年になることを知ったダニエルは、同胞の民のために、そして何よりもエルサレムの町、聖所のために祈りました。そして天使ガブリエルがやってきて、エルサレムが再建されて神の国が立てられるまでの期間は70週であるとの幻を見たのです。

 エレミヤの預言の通りに、またダニエルが見た幻の通りに、ペルシヤの初代王クロスが、ユダヤ人がエルサレムに帰還して、神殿を建てるようにという布告を出しました。この出来事はエズラ書に書かれています。そして、ユダヤ人の総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアが率いるユダヤ人約五万人が、エルサレムに帰還しました。彼らは、主からの預言、幻を信じて、異国の地と言えども
70年経った住み慣れたところを離れて、エルサレムに帰りました。

 彼らが戻ったエルサレムは荒れに荒れていました。そして神殿を建てるための材料は、クロスによってペルシヤの国庫を開いて、資金や物資の援助は受けていたものの、お粗末なものでした。当時のソロモンが建てた栄華に比べたら、取るに足りないものでした。けれども彼らは神殿の基礎工事を始め、それらを完成させることができました。

 ところが、彼らはその地域の住民の、神殿建設阻止の反対運動に遭いました。そこには、後に「サマリヤ人」と呼ばれる人たちが住んでいたのです。覚えていますか、イスラエルが南北に分裂し、北イスラエルは、南ユダよりも先にアッシリヤによって滅ぼされて、捕え移されました。残された住民もいましたが、アッシリヤは他の地域からの人々をイスラエルに移植させたため、イスラエル人は異邦人と結婚するようになりました。そのため生まれたのが混血児であるサマリヤ人です。彼らはユダヤ教の一部を受け入れていましたが、異教の儀式も取り入れて混合宗教を信じていました。サマリヤの女がイエス様に、「私たちの先祖は、ゲルジム山で礼拝していますが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言いますね。」ということを話したのは、そのためです。

 このサマリヤ人たちが、神殿建設の工事を始めたユダヤ人に対して、「私たちも神殿建設に関わらせてください」と申し出てきました。ユダヤ人たちは断りました。するとサマリヤ人は態度を豹変させて、ペルシヤの役人も取り組んだ、猛烈な建設阻止工作を展開させたのです。

 その地域の役人たちがペルシヤ王に対して、ユダヤ人たちが税を納めることをやめるだろう、そして過去そうであったように王に反逆するであろうという内容の手紙を送りました。その手紙は受け入れられて、実力行使で建設を止めさせたのです。

 そして今、もう16年ぐらい年経っています。けれども、エルサレムに住むユダヤ人たちに二人の預言者が立ち上がりました。ハガイとゼカリヤです。二人の預言活動によって、ユダヤ人たちは神殿建設を再開させました。そこのエズラ記の箇所を読んでみましょう。エズラ記5章12節です。「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアは立ち上がり、エルサレムにある神の宮を建て始めた。神の預言者たちも彼らといっしょにいて、彼らを助けた。

 そしてユダヤ人は再び、周囲の住民からの強い反対にあったのですが、今度彼らは、その圧力に屈することなく黙々と工事を続けたのです。それで反対しているものが、当時のペルシヤの王ダリヨスに手紙を送り、返ってきた王の返事は、工事を止めさせるな、むしろ彼らの建設に必要な材料を調達せよ、と命じたのです。

 このように彼らを変えた預言とは何だったのか、その言葉の力は何だったのかを私たちは、ハガイ書で読むことができます。

1A 自分の家 1−11
1B 宮の廃墟 1−6
1:1 ダリヨス王の第二年の第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアとに、次のような主のことばがあった。

 ハガイが預言をした時が、書かれています。「ダリヨス王の第二の第六の一日」とあります。「ダリヨス」というと、ダニエル書に出てくる、ダニエルが獅子の穴の中に投げ込まれる時のダリヨスを思い出すかもしれませんが、違う人です。ダニエル書のダリヨスは、バビロン帝国が崩壊して直後に王様になったメディヤ人ですが、すぐにペルシヤのクロス王が国を治めました。ダリヨスは、ペルシヤ人の王です。

 そして時は、紀元前520年です。日付もはっきりしています、829日です。ちょうど、ぶどう、いちじく、ざくろなど夏の果実の収穫が終わって間もないころでした。また、毎月一日は新月の祭りがあるので、祭りを祝うためにユダヤ人が集まってきているようなときに、ハガイが語りました。

 ちなみに「ハガイ」という名前の意味はヘブル語で「祭り」です。祭りのときに、「祭り」という名前の預言者が語りました。

 そしてハガイの預言の言葉を聞いた人が二人います。いや、実際には民も聞いているのですが、指導者である二人に対して主に語っています。バビロン捕囚以後のユダヤ人指導者として、非常に重要な二人です。

 一人は、「ゼルバベル」です。彼はダビデ王族の直系の子孫です。バビロンに捕え移されたエコヌヤの息子が「シェアルティエル」で、その子がゼルバベルです。マタイによる福音書1章にあるイエス・キリストの系図にも、彼の名前が載っていますので後で確かめてみてください。

 ですから彼は王なのですが、今はもはや自分を王と言うことができない状況にいます。王ではなく「総督」なのです。イスラエルが紀元前586年にエルサレムの町と神殿をバビロンに破壊されて、捕え移されて以降、自分たちの主権を持ち、独立国になったことはつい最近までありませんでした。1948年にイスラエルが建国され、1967年にエルサレムをヨルダンから奪還するときまで、イエス様がオリーブの山で弟子たちにお語りになった、「異邦人の時」は続いていたのです。

 だからゼルバベルは、あくまでもペルシヤ帝国の一地域であるユダヤの、ユダヤ民族を代表する責任者でしかありませんでした。ネヘミヤ記を読みますと、エルサレムの町の城壁が完成して、その後、彼らは何日も何日も、長時間、神の律法を聞いていました。覚えていますか、律法を聞いて悲しくなったイスラエル人たちをエズラやネヘミヤが、「今は喜びなさい。主を喜ぶことがあなたがたの力なのです。」と励ました、あの箇所です。そして、そこに長い祈りが掲載されていますが、最後の部分で、こう締めくくられています。「私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちのからだと、私たちの家畜を思いどおりに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。(ネヘミヤ9:37

 ペルシヤの異民族に対する寛大な政策にも関わらず、イスラエル人たちは自分たちの思いのままに自分の家畜を取り扱うことができない、王たちに納税しなければならない、など、自分たちに主権が与えられていないことを嘆いていたのです。ですから、エルサレムに帰還したけれども、完全に理想の状態に回復したわけでなく、いろいろな困難があって、すぐに気落ちしてしまう雰囲気に取り囲まれている人々に対して、ハガイは語りました。

 そしてもう一人は「ヨシュア」です。彼も、正統な「ツァドク」というアロン直系の大祭司の子孫です。彼の父エホツァダクが586年にバビロンに捕え移されました(1歴代6:15)。彼とゼルバベルのコンビで神殿再建の事業を進めました。いっしょに預言をしていたゼカリヤの預言「ゼカリヤ書」に、頻繁に二人の名前が出ます。そして両者とも、後に来られるメシヤ、キリストを表しています。ゼルバベルは王としてのキリスト、ヨシュアは大祭司としてのキリストを表していました。

1:2 「万軍の主はこう仰せられる。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言っている。」

 主は、ハガイを通して、ユダヤの民に叱責を与えておられます。まず、「この民」と彼らを呼んでおられますね。神の所有の民であり、神は普通「わたしの民」と彼らを呼びますが、今彼らは、神の所有の民のように生きていない、ふるまっていないので、そのじれったさ、怒りを「この民」と呼んで、表現しておられるのです。

 そして彼らは、「主の宮を建てる時はまだ来ない」と言っていました。彼らは言い訳を言っていました。主から与えられた幻、それはユダヤ人がエルサレムに戻って神殿を建てることでした。それはイスラエルの回復を意味していました。アブラハム、イサク、ヤコブに神が約束された、カナン人の地に自分たちが住み、かつダビデに約束されたエルサレムの神殿を中心とするイスラエルの国を建てることでした。けれども、イスラエル人が長いこと偶像を拝み、神に背き続けたので、神殿は破壊され、土地から引き抜かれてしまったのです。

 ちょうどこれは、ある人が救われて、喜びの中に生きて、また力強い証し人として世の中に生きていたのに、罪を犯してしまい、評判も、家族も何もかもを失ってしまって、それでようやく自分がしていることに気づき、再スタートする人に似ています。何もかもなくなってしまったのですが、自分がイエス様によって救われているという土台は残っています。そして神様の恵みがあります。だから、もう一度、救いの喜びをもって生きていく人に似ています。

 けれども、一歩私たちが信仰的に前進すると、あるいは霊的に復興すると、必ず障壁にぶつかります。反対に遭います。ここまでか、と言わんばかりに自分が前進するのを妨げます。ある時は、自分が信頼している仲間に誤解されたり、また誰も気づかないところで孤独を味わったりします。使徒パウロを思い出してください、彼がイエス様を信じたらエルサレムにいる兄弟たちから信用されませんでした。そして彼が小アジアから離れてヨーロッパへの宣教に御霊によって導かれたら、ピリピでも、テサロニケでも激しい反対と迫害に遭い、逃げるようにしてアテネ、そしてコリントへと行きました。

 だから反対に遭うのですが、こんなに大変なら、もう良い、のらりくらりと生きていこう、霊的生活は送るけれどもほどほどにして、状況が良くなったらまた前進しようか、と考えるようになってしまうのです。

 けれども、私たちが前進するのを止めるとき、それは立ち止まっているのではなく、後退しているのです。神とこの世の中間に立つことはできないのです。神を求めるのではなく自分自身を求めていくようになります。

1:3 ついで預言者ハガイを通して、次のような主のことばがあった。1:4 「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。

 神の家を建てる時はまだ来ていないと言いながら、あなたがたは自分の家を立派にして、暮らしているではないか、と神の家と自分の家を比べておられます。これを言い換えれば、神への礼拝を第一としていなくて、自分のことで生活がいっぱいになっているではないか、と言うことです。

 神への礼拝が第一というのは、何も、日曜の教会の礼拝の出席のことを意味しません。いやむしろ、毎週教会の礼拝に出席しながら、いつの間にか礼拝が機械的なものになっている、形だけのものになっている状態になっているのに似ています。救われた時の喜び、初めの愛、主との親しい交わりはどこかに行っています。そして、自分のやっていることのほうが楽しくなっています。

 救われているという土台はあるのに、その上に建物を建てていない状態です。あるいは、異なるもので建物を建てている状態です。パウロは、コリントにいる教会の人たちにこう書きました。「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。(1コリント3:11-16

1:5 今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

 新共同訳では、「自分の歩む道に心を留めよ」と訳されています。自分が一度立ち止まって、はたして自分はいったい何をやっているのか考えてみるとき、吟味してみる時が必要です。日常生活の中で、自分はきちんとやっていると思っていても、よく考えてみたら、「あれっ?どんでもないことをやっているな?これは、神様の目から見たら罪ではないか?このことも、神さまに喜ばれないな?」と気づくようなことが見つかります。

 ここのユダヤの人たちも、神ではなく自分自身を求めていたのは、いつの間にか無意識のうちにやっていたことでしょう。突然、方向転換するときは、よっぽどのことがない限りしません。だれか他のクリスチャンがやっていることににつまずいてしまって、もう信仰は捨てる、とか、恨みや憎しみ、深い傷があるならば意識的なものでしょうが、そうでないかぎり、いつの間にか漂流してしまっていることのほうが多いです。

 パウロは、コリントにある教会への手紙でこう言いました。「しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」自分を、神の御言葉に照らして吟味します。そして、こうも言いました。「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。(2コリント13:5

1:6 あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

 「現状をよく考えれば、次のことに気がつくはずだ。多く種を蒔いているのに、収穫量は少なかったではないか?」ということです。ハガイが預言しているのは、10月ですから、彼らは収穫量の少なさにすぐに気がついたことでしょう。

 そして、食べることにおいても、飲むことにおいても、着ることにおいても、満足できていません。皮肉ですが、これらのことを第一にして生きてきたのに、一向に満たされないのです。イエス様が同じことを言われましたね。「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:31-33」優先順位が変わると、欲しいものも手に入らないのです。

2B 神の喜び 7−11
1:7 万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

 「宮を建てよ」というのは、「わたしを第一にせよ、わたしを礼拝せよ。」ということです。そうすれば「わたしは喜ぶ」と言われています。

 私たちは、神を喜ばす生活以外に、自分を満たすことはできません。黙示録4章にて、天で神を賛美し、礼拝している場面が出てきます。そこで24人の長老がこのように言いました。「「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(11節)」ここの「あなたのみこころのゆえに」は、「あなたの悦びのゆえに」とも訳すことができます。神がご自分の悦びのゆえに、万物を創造し、存在させておられるのです。

 ですから、私たちは自分を造られた神を喜ばすことによって、初めて造られた目的を果たすことができます。飛行機に車輪があるからといって、それを地上で走らせるだけに使ったらどうでしょうか?速度は出ないし、小回りは全然聞かないし、両横に飛び出している翼は邪魔になります。それは、空を飛ぶために飛行機は作られているのであって、車輪も離陸を助けるために作られているからです。ですから、自分を喜ばせているときは、生活は空回りします。しかし神を喜ばせているとき、造られたとおりに生きているので自分自身も喜ぶことができます。

1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

 先ほど主が仰られた満たされない生活は、実は主ご自身が引き起こしていたものでした。「わたしはそれを吹き飛ばした」と言われました。主は、ユダヤ人に対して注意喚起をされていたのです。自分たちで、「このままではいけない」と悟ることができるために、あえて彼らの活動が成果を上げないようにされていました。

 私たちが主からさ迷い出るとき、主は私たちを愛する愛ゆえに、懲らしめられます。ヘブル人への手紙12章を開いてください5節から読みます。ところで、ヘブル人への手紙もまた、主からさまよい出たユダヤ人の信者をご自分のところに引き止める、呼びかけの言葉になっています。クリスチャンになったことでユダヤ人共同体から激しい迫害を受けて、ユダヤ教の中でこっそりイエス様を信じているようにしていればいい、ユダヤ教の中にとどまろうと考えた人たちに対して書いたものです。

 「そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

 さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(5-11節)

 私たちが、自分の中で空回りしている生活を送っているか、それが実は主の呼びかけの徴であるのか、いつ気づくのかが大事になります。自分は平気だと思っている、自分は大丈夫だと思っている、自分はちょっと調子が悪いかな程度で見逃している、いろいろなサイン、徴があるでしょう。私たちが立ち止まって、よく吟味して考えることが大事です。

1:10 それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。

 イスラエルは地中海性気候の地域に位置します。したがって冬は雨季、春夏は乾季の気候です。作物は乾季に育てることになりますが、そのときの水分補給で重要なのは「」です。主はそれを降らすことをお止めになりました。

1:11 わたしはまた、地にも、山々にも、穀物にも、新しいぶどう酒にも、油にも、地が生やす物にも、人にも、家畜にも、手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。

 10節と11節での描写は、捕囚前にモーセを通して主が警告しておられた災いそのものでした。レビ記26章にこう書いてあります。「わたしはさらに、あなたがたの力を頼む高慢を打ち砕き、あなたがたの天を鉄のように、あなたがたの地を青銅のようにする。あなたがたの力はむだに費やされる。あなたがたの地はその産物を出さず、地の木々もその実を結ばないであろう。(19-20節)

 このことは、まさに捕囚前にイスラエルに起こった出来事でした。エリヤが生きていた時代を思い出してください、アハブ王の悪事に対して、主がエリヤを通して、これから雨が降らないと宣言されました。そして、その通りになりました。

 今、残っているユダヤ人たちは、敵にエルサレムを包囲されて、その中で食料がないために自分の子供を食い、バビロンに捕え移された、恐ろしい経験をして生き残った人々です。これらのことが、自分たちが神に聞き従わず、神に背いたために、これらのことが起こったことを、身をもって知っていた人々です。だから悔い改めつつ、安定した生活を捨てて、エルサレムに帰還し神殿を再建しようとしていた人々です。まさか、自分たちが過去に自分たち、父と母たちが犯した過ちを繰り返しているとは思っていなかったでしょう。そして、主が同じように凝らしめを与えはじめておられることは、思いもよらなかったでしょう。


2A 仕事再開 12−15
1:12 そこで、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った。民は主の前で恐れた。

 すばらしいですね、「聞き従った」と書いてあります。預言書の中で、預言者たちの言葉に聞き従ったと書かれている箇所は本当に少ないです。ほとんどが、聞き従わなかったことが記されています。

 彼らが聞き従った理由の一つとして、新鮮な、フレッシュな神の御声を聞くことができたことが挙げられます。「彼らの神、主の御声」と書いてありますね。先ほどから、「主のことばがあった」とか、「主の御告げ」とか「万軍の主はこう仰せられる」という表現が頻繁に出てきていましたね。預言書には多い表現ですが、ことハガイ書はこんなに短い預言書なのに非常にたくさん出てきます。

 主の御声がこんなにも、はっきり聞こえるのは本当に幸いなことです。アモス書8章11節に、「その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」と書いてありますが、主の言葉、主の御声が聞こえなくなっているのは、パンや水に飢え渇くのと同様に飢饉であります。

 イエス様は、宣教をされている時に途中からたとえを用いて話されました。弟子たちがなぜ、たとえで話されるのかを尋ねると主は答えられました。「彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。・・・しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。(マタイ13:13,16

 私たちが見えなくなっていたものが、はっきり見えるようになるときに、これまで悶えていた心は完全に静まります。聞こえなったものが、はっきり聞こえるとき、止めることができなかった悪い行ないを止めることができます。生ける神が語られるとき、その声には力があるのです。

 そしてもう一つ、ユダヤ人が聞き従うことができた理由は、ハガイが主から遣わされた預言者であることを認め、彼の言葉は主からのものであると受け入れていたからです。「彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイのことばとに聞き従った」とあります。

 
パウロがテサロニケの教会の人々に手紙で、彼らが愛と信仰と希望に突出していることをほめていますが、その理由を次のように述べています。「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(1テサロニケ2:13

 御言葉を単純に語って、そして御言葉を単純に受け止めるときに、そこには力があります。私は、以前、プロゴルファーのクリスチャンの奥さんと、主にある交わりをさせていただきましたが、彼女はアメリカ人のクリスチャンのプロゴルファーが、なんであんなに単純に信じられるのか、と驚いていました。また、最近、あるクリスチャンの人からも、クリスチャンが迫害されている国から来た人の話を聞いて、その単純な信仰に驚いていました。


 アメリカにしても、発展途上国にしても、そのようなクリスチャンがいるところでは、教会で牧師が、単純にみことばを語って、会衆はそれを単純に受け入れています。礼拝をコンサートやショーみたいにして、人々をエンターテイメントで引きつける必要はないのです。なぜなら、御言葉そのものに、人を引きつけ、変える力があるからです。

 そして彼らが聞き従った三つ目の理由として、「主の前で恐れた」が挙げられます。神への健全な恐れは非常に大切です。恐怖ではなく畏怖の念です。ハガイは、「万軍の主」という神の呼称を使って、歯向かう者に対してはことごとく打ち砕く力を持つ方として神を紹介しています。

 聖書に、人への恐れと神への恐れを比較している箇所があります。イエス様が弟子に言われた言葉です。ルカ12章です。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(45)」ゲヘナに投げ込まれる権威を持つ方です。

 ユダヤ人たちは、反対するサマリヤ人を恐れていました。けれども、その恐れのせいで、神の宮をないがしろにしていました。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25)」とあります。人ではなく神を恐れます。

1:13 そのとき、主の使いハガイは、主から使命を受けて、民にこう言った。「わたしは、あなたがたとともにいる。・・主の御告げ。・・」

 ああ、なんとすばらしい言葉でしょうか。「わたしは、あなたがたとともにいる。」です。ユダヤ人たちは、この言葉を、これから神様の言われたとおり神殿建設工事を再開しようと決めたときに聞きました。信仰によって再び前に進もうと思ったときに聞きました。多くの課題や障害あります。反対を受けることは目に見えています。しかし、力なる神が彼らとともにいてくださるので大丈夫です。

 新約聖書にも、同じ言葉を読むことができますね。主が復活された後、弟子たちにこう言われました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ
28:18-20

 考えてもみてください、ここにいる11人の弟子、つい数週間前に十字架につけられるイエス様を見捨てた人たちです。そして、11人がターゲットにしなければいけないのは「あらゆる国々の人々」です。当時は、異邦人に福音を語ることなど考えも及びませんでした。自分とはまったく異なる価値観を持った人々に、異なる文化、異なる言葉を持った人々みなを弟子にしていかなければならないのです。自分の力、勇気、知恵では到底できない、とてつもなく大きい、あまりにも遠く感じるビジョンです。

 
けれども、それを可能にするイエス様の一言が、「わたしは、いつも、あなたがたとともにいます。」なのです。天と地に一切の権威が与えられている主がともにおられて、彼らを通して主が行なわれるのであれば、この使命を果たすことはできます。事実、福音は世界中に伝えられました。

 同じように、私たちが信仰に一歩を踏み出すときに、主は、「わたしは、ともにいる」とおっしゃってくださいます。主がともにいてくださり、自分ではなくキリストが生きておられるという確信によって、私たちは前進することができます。

1:14 主は、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルの心と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの心と、民のすべての残りの者の心とを奮い立たせたので、彼らは彼らの神、万軍の主の宮に行って、仕事に取りかかった。

 主が、彼らの心を奮い立たせられました。本当に、こんな短いメッセージであったのに、ハガイ書は預言書の中でも二番目に短い書物です。彼が預言したのは、第六の月から第九の月まで、実に三ヶ月です。私たちがひとりの人が変わるのを見るのに、何年間、何十年間も経つことがありますね。けれども、ハガイの言葉は人々の心を動かす力がありました。こうした言葉を聖書では「勧め」と言います。人々を行動に移させるような言葉です。ローマ12章8節に、「勧めをする人であれば勧め」なさいとあります。勧めの賜物がある人は、しっかりとそれを行いなさい、ということです。

1:15 それは第六の月の二十四日のことであった。

 ハガイの預言は一日に行なわれましたから、23日後に神殿建設を再開しています。おそらく木など、神殿建設の材料を調達する期間だったのでしょう。

 最後に、詩篇を一篇紹介したいと思います。おそらくハガイが書いたのではないかと言われている詩歌です。
126篇です。「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなされた。」主は私たちのために大いなることをなされ、私たちは喜んだ。主よ。ネゲブの流れのように、私たちの捕われ人を帰らせてください。涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。

 クロス王による、エルサレム帰還の布告が出されたとき、イスラエルの民の悲しみと涙は、笑いと歓声に変えられました。主がなされたことを大いに喜びました。しかし、自分の家のことしか考えていない心になってしまいました。そこで主は非常に悲しまれ、ハガイを彼らのところに遣わしました。

 私たちの生活はどうでしょうか?喜びにあふれて、主にあって前進しているところでしょうか?それとも、大変だから、まあほどほどにと思っているところでしょうか?主は私たちとともにおられます。どんなことがあっても、主がおられるところにいることが最も幸せなことです。


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