ホセア書12−14章 「それでもあなたの神」

アウトライン

1A 預言者たちの喩え 12
   1B ヤコブの力 1−6
   2B エジプトの頃からの神 7−14
2A 神の他にない救い 13
   1B 罪の中に死ぬエフライム 1−8
   2B 奪い取られる王 9−16
3A 主に立ち返る民 14
   1B 唇の果実 1−3
   2B 背信の癒し 4−9

本文

 ホセア書12章を開いてください。今日でホセア書を読み終えますが、メッセージ題は「それでも、あなたの神」です。ホセア書は、神の愛の心を教える書物です。ホセア自身が、姦淫の女をめとり、他の男のところにいって挙句の果て、奴隷市場で売られている彼女を取り戻しました。どんなに罪の中に生きている背信者であっても、主はその者を追い求めておられる姿を読むことができます。

1A 預言者たちの喩え 12
1B ヤコブの力 1−6
12:1 エフライムは風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている。彼らはアッシリヤと契約を結び、エジプトへは油を送っている。

 主は、イスラエルがアッシリヤに頼ること、またエジプトに頼ることを責めておられます。「風を食べている」つまり中身が何もないものを求めている、ということです。そして「東風」は聖書の中で、砂漠から吹く強風のことを指しています。ヨナ書で、東風がヨナを吹き付けて、彼がその暑さで自分の死を願った、という箇所がありますが(4:8)が、ものすごい強風で、熱風です。

12:2 主は、ヤコブを罰するためにユダと言い争う。ヤコブの行ないと、そのなすことに応じて、主は彼に報いる。

 北イスラエルだけでなく南ユダに対しても、主は責め立てておられます。ユダもイスラエルと同じく、エジプトに頼りました。

12:3 彼は母の胎にいたとき、兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った。12:4 彼は御使いと格闘して勝ったが、泣いて、これに願った。彼はベテルで神に出会い、その所で神は彼に語りかけた。12:5 主は万軍の神。その呼び名は主。

 主は突然、彼らの父祖であるヤコブの話をされています。主は、初めに戻られて、そこでご自分がどのようにこの民に接してくださったことを、ご自身に語りかけるように思い出されています。

 ここに書いてあるのは、もちろんヤコブの名前の意味である「かかとをつかむ」力です。神の祝福を願ったヤコブですが、あまりにも自分の手ですべてのことを成し遂げようとした人でした。その特性が生まれる前から母の胎内にいる時から現れて、それで生涯に渡り続き、ついに神ご自身にまでその力を表します。「兄弟を押しのけた。彼はその力で神と争った」です。

 この箇所で興味深いのは、この方が神であられ、かつ御使いであることを表していることです。創世記32章でも、「ある人」としてヤコブに現れたのですが、「あなたは神と戦い、人と戦った」とヤコブに対して言っています。ヤコブも、「私は顔と顔を合わせて神を見た(30節)」と言っています。

 私たちは創世記32章の箇所を読むとき、ヤコブがあまりにも意志が強くて神が降参したかのように解釈してしまうのですが、ここホセア書の注解を読めば「泣いて、これに願った」とあります。彼は自分の太ももの間接が外されて、それでついに自分の力で獲得することができなくなり、悲しみの中で祝福を願ったのです。

 これは痛い経験でしたが、彼がまことの祝福を得るには必要な体験でした。彼は、リベカの親戚のいるアラム地方への旅を始めるにあたって、主ご自身が現れてくださっていました。天からのはしごです。彼はそこをベテル、すなわち「神の家」と呼びました。この方に出会うには、「ヤコブ」という名前にある力が折られなければいけなかったのです。

 そして主はヤコブに改めて、「主は万軍の神。その呼び名は主。」として現れてくださいました。そうです、確かにベテルにおいて彼は神に出会っていました。それはすばらしい体験でした。けれども、その体験を持続的に得るためには、自分の意志ではなく、神のご意志に自分を任せる必要があったのです。

 私たちは、どんなことをしなくても、まったく神の恵みによって、神に出会うことができます。けれども、その祝福に満たされ続けるために、私たちの意志が邪魔をします。ヤコブのように、いろいろな大変な苦労を自分の意志のために招きます。この意地を神の前に持っていかなければならないのです。

12:6 あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。

 なぜ、主が突然ヤコブのことを話されたのか?それは、ヤコブと同じように主に立ち返ってほしいと願われるからです。主は、ご自分が初めに彼らの父祖に行なってくださったように、ご自分を万軍の神、ヤハウェとして現したいと願われています。ヤコブが神と格闘して、彼が泣いて願ったように、彼らも神と格闘して、泣いて願ってほしいと望まれているからです。

 この聖句にある三つの命令は、私たちと神との関係における基本です。第一歩は、「神に立ち返る」です。私たちが神から目を背けてしまったとき、初めに行なうのは立ち返ることです。次の一歩は、「誠実と公義を守る」ことです。誠実は憐れみと言い換えても良いでしょう。キリスト者にとって、憐れみと正しさがその生活の特徴です。イエス様は、「あわれみ深い者は幸いである。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5:7」「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(同6節)」と言われました。

 そして最後に、「絶えず神を待ち望み」ます。キリスト者として神を恐れ敬いつつ生きながら、そして主が戻ってこられることを熱心に待ち望むのです。「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。・・・また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(1ペテロ1:13,17

2B エジプトの頃からの神 7−14
12:7 商人は手に欺きのはかりを持ち、しいたげることを好む。12:8 エフライムは言った。「しかし、私は富む者となった。私は自分のために財産を得た。私のすべての勤労の実は、罪となるような不義を私にもたらさない。」

 私たちは前回の学び、11章で、主ご自身がイスラエルに対してこの上ない愛を言い表されて、終わりの日に彼らが約束の地に戻ってくるという幻を見せられたところを読みました。けれどもそのことをお語りになった直後で、「わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている。(12節)」と、今のイスラエルの姿をご覧になりました。

 ここも同じです。主はまったく変わりなく罪を犯しているイスラエルに対して、ご自分が彼らに思っている想いを語られながら、なおかつ何も変わっていない彼らを凝視しておられます。神と彼らとの間にある初めにあった関係、理想の関係と、今の状態にはあまりにも大きな隔たりがあります。その大きな隔たりの狭間で、気も狂いそうなぐらい苦しんでおられる神の心をここで読み取らなければなりません。

 ここでは具体的には「商人」の話をされています。ここは元々「カナン」と訳すことができる所です。不正を働く、汚い商人を言い表す時に使う言葉です。今、エフライムは不正によって富を得て、何事も起こっていないから、「何も私は罰を受けるようなことは行なっていないのだ。」と居直っているのです。

12:9 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。わたしは例祭の日のように、再びあなたを天幕に住ませよう。

 主は、彼らの居直りに対して「違う」と言いつけておられます。エジプトにいた時のように、家の中ではなく「天幕」の中に住まわせよう、と言われます。つまり、約束の地から引き抜かれ、捕囚の民となるということです。「例祭」というのは、仮庵の祭りのことを指しています。荒野の旅において、主が彼らを守り、無事に約束の地に導きいれてくださったことを記念して、例年10月初めに行なう祭りです。定住する「家」ではなく、仮の庵なのだということを強調しておられるのです。

 けれども、これは裁きの言葉であると同時に希望の言葉なのです。彼らが天幕の中に住んでしまう、また振り出しに戻ってしまうのだが、けれどもエジプトから約束の地に導かれたように、再び彼らを帰らせるのだ、という慰めを言い表しておられるのです。神はやり直しを与えられる神です。私たちが罪を犯せば、また私たちは初めからやり直さなければいけないかもしれません。でも、やり直しを与えてくださるのです。

12:10 わたしは預言者たちに語り、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示そう。

 分かりますか、今、ヤコブのこと、そしてここでは出エジプトの時のことをホセアは語りました。それは、今のイスラエルに対してそれらの出来事が教訓となり、比喩となり、予型となり預言となっているからです。

 主が預言者を通して与えられたものには、その当時の人々に対する戒めだけでなく、私たちにとっての益になるものばかりであり、実に私たちの時代に語られている預言にさえなっているのです。使徒パウロは、「昔書かれた者は、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(ローマ14:4」と言いました。主は、ご自分が聖書時代に行なわれたことを通して、私たちに、この時代に直接語りたいと思われているのです。ちょうどヤコブのこと、また荒野の旅によって北イスラエルの人たちに語りたいと願われているように、です。

12:11 まことに、ギルアデは不法そのもの、ただ、むなしい者にすぎなかった。彼らはギルガルで牛にいけにえをささげた。彼らの祭壇も、畑のうねの石くれの山のようになる。

 ギルアデは、ヤコブが神の使いと格闘したヤボク川と、ゴラン高原の南に流れているヤムルク川の間にある、ヨルダン川沿いの高原です。マナセ半部族の土地になっていました。そして、ギルガルはヨルダン川からエリコに行く途中にある町、あるいはベニヤミンの地にある町ですが、どちらでも偶像礼拝に深くのめりこんでいました。

12:12 ヤコブはアラムの野に逃げて行き、イスラエルは妻をめとるために働いた。彼は妻をめとるために羊の番をした。

 主は再び、ヤコブのことを引き合いに出しておられます。ギルアデはちょうど、ヤコブがお嫁さん探しにアラムの地に行く途中にあります。ギルアデのことを語られたので、今、ヤコブがその方面で、一生懸命お嫁さんのために働いていた時のことを語られています。甥のラバンにだまされて大変な思いをしていましたが、主は彼に共におられたのです(創世31:42)。同じように、イスラエルがどんなに大変な思いをしたとしても、わたしはあなたがたを見捨てないということを、ご自分に言い聞かせるように語られているのです。

12:13 主はひとりの預言者によって、イスラエルをエジプトから連れ上り、ひとりの預言者によって、これを守られた。

 この「ひとりの預言者」とは、もちろんモーセのことです。ヤコブだけでなくモーセも引き合いに出しています。彼らが捕らえ移されても、またそこから引き出し、そして守ってくださるという約束です。

 ここで「ひとり」の預言者と強調されているのは、もしかしたら、モーセが預言した「もうひとりの預言者」のことも言い含めておられるからかもしれません。「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。(申命18:15」つまりキリストご自身が、彼らを連れてきてくださるという終わりの日を考えておられるかもしれません。

12:14 エフライムは主の激しい怒りを引き起こした。主は、その血の報いを彼に下し、彼のそしりに仕返しをする。

 再び、現状に目を留めておられますね。彼らが犯した流血の罪によって、彼らがその報いを受けます。

2A 神の他にない救い 13
1B 罪の中に死ぬエフライム 1−8
13:1 エフライムが震えながら語ったとき、主はイスラエルの中であがめられた。しかし、エフライムは、バアルにより罪を犯して死んだ。

 この新改訳は、他の訳と異なります。例えば口語訳は、「エフライムが物言えば、人々はおののいた。彼はイスラエルの中に自分を高くした。」となっています。震えているのはエフライムではなく一般の人々であり、そしてあがめられているのは主ご自身ではなく、エフライムです。エフライムが力を持ち、人々や周りの国々を恐れさせている様子を描いています。ヤロブアム二世の時代が、とてつもなく栄えたことを私たちは既に学びました。

 けれども「バアル」というたった一つの偶像によって、死んでしまいます。私たちはどんなに強靭でも、たった一つのつまずきで死んでしまうことがあるのです。サムソンがそうでした。もちろん、神の恵みによって彼の髪の毛は伸びてきましたが、あれだけの怪力の持ち主がたった一人の女によって弱くなってしまいました。私たちも、そのつまずきを持っているでしょうか?

13:2 彼らは今も罪を重ね、銀で鋳物の像を造り、自分の考えで偶像を造った。これはみな、職人の造った物。彼らはこれについて言う。「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ。」と。

 ベテルとダンに置いた金の子牛のことです。

13:3 それゆえ、彼らは朝もやのように、朝早く消え去る露のように、打ち場から吹き散らされるもみがらのように、また、窓から出て行く煙のようになる。

 悪者が滅ぼされる時に、しばしば神はこのような比喩をしばしば使われます。霧、籾殻など、あまりにも安定がない、たちまち過ぎ去ってしまうものです。それに対して、正しい者は守られ、ながらえるという約束が与えられています(詩篇15:8など)。私たちは安定した生活を求めています。それを得る方法は、悪を捨て、善を行なうことです。

13:4 しかし、わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。わたしのほかに救う者はいない。

 彼らがこんなにも滅ぶにたやすい民であるにも関わらず、主はなおもエジプトの日のことを思い出しておられます。「しかし、わたしは」と主は言われます。この「しかし」が大事です。そして、「あなたの神、主である。」と念を押しておられます。一度、関係を持たれたら、もう切り離すことはできない、永遠の愛を持っておらえる方なのです。パウロは、イスラエルのことを論じている時に、「神の賜物と召命とは変わることがありません。(ローマ11:29」と言いました。これはキリスト者に対しても同じです。

 だからこそ、私たちは他の世の人と同じようには生きられないのです。世の人は成功するかもしれませんが、私たちは失敗するように神はされます。「わたしのほかに救う者はいない」ことを私たちが悟るためです。神にキリストにあって選ばれた者は、キリストから離れて他の救いを求めても、ただ惨めになるだけです。

13:5 このわたしは荒野で、かわいた地で、あなたを知っていた。13:6 しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。

 神は、荒野において、つまりシナイという砂漠においてかえってイスラエルを知っておられました。その時に主がイスラエルに深く関わることがおできになり、彼らを守り、養うことができました。この真剣な関係を神は結ぶことがおできになりました。ところが、彼らを農耕において祝福されたら、彼らが神を忘れてしまいました。荒野での生活というのはとても過酷ですが、主はこれを懐かしく思うぐらい、今、エフライムが神から遠くに離れてしまっているのです。

 私たちはこれと反対のことを感じます。困難や試練の中にいるとき、神は自分を忘れてしまったと思います。この困難から脱却し、快適に暮らすことができるならば私は神を信じることができる、と思います。いいえ、現実はその反対です。困難な中にいるとき、私たちは、自分をじっと見てくださっている神の目を感じることができます。豊かになるとき、私たちは高慢になって神を忘れてしまう強い誘惑を受けるのです。

13:7 わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。13:8 わたしは、子を奪われた雌熊のように彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。野の獣は彼らを引き裂く。

 獅子が森の中から出てきて食い殺すことを話していますが、豊かさの中に突然の破壊が来るという比喩です。「人々が、『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。(1テサロニケ5:3

2B 奪い取られる王 9−16
13:9 イスラエルよ。わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。

 神の裁きは完全なので、他の誰も救うことはできないということです。最後の審判の時に、自分がどれだけ影響力のあった人間なのかは関係のないことです。自分の魅力を話しても無駄なことです。もちろんわいろを神に対して使うことはできません。だれも助けられないのです。

13:10 あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。あなたのさばきつかさたちは。あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。13:11 わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。

 イスラエルの民は、他の国々と同じように預言者サムエルに対して王を求めました。神ご自身が王であり、救い主であられるのに、彼らは王が救い主となってほしいと要求したのです。それで神はサウルを立てられましたが、それは神が許容されたことであっても、願っておられることではありませんでした。

 そしてその「王」はどこにいるのか?と神は尋ねておられます。王が家臣に殺されて、その家臣が王になるや、またその家臣に殺されて、という北イスラエルの末期において、王が救い主などと到底言えません。

13:12 エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。

 これはちょうど、事務所の書類入れの棚に記録書を差し入れるように、神が整理してエフライムの不義と罪を覚えておられる、ということです。

 神には罪の赦しと贖いはあります。けれども、「水に流す」ことは絶対にありません。神は私たちが地上で行なったすべてのことについて、申し開きすることを求められます。最後の審判において、神が人々の行ないに応じて裁かれる書物があります(黙示20:12)。必ず、罪の悔い改めと、キリストへの信仰を通した神の贖いが無いかぎり、罪はそのまま残るのです。

13:13 子を産む女のひどい痛みが彼を襲うが、彼は知恵のない子で、時が来ても、彼は母胎から出て来ない。

 これは、ものすごい例えです。子供が産道にまで来ているのに、生まれてこない状態です。これは「非常な激痛なので一瞬たりとも味わいたくないものだが、それでも痛みは過ぎ去る」という出産の望みを打ち壊すものです。ヒゼキヤも、アッシリヤに取り囲まれている時にこの表現を用いました。「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。(イザヤ37:3

 けれどもここでは、母親が子を産み出す力がないのではなく、子が産道から出てこない知恵のない状態だと言っています。エフライムがとてつもなく苦しんでいるのに、そこにすむ人々はなおも、自分の罪の中にとどまっているというあまりにも悲惨な状態です。これは神ご自身が感じておられる痛みであったでしょう。

13:14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。

 神がご自分の裁きを宣言されている真ん中で、再び希望の言葉をかけておられます。彼らは必ず罪の中で死にます。先をすべて知っておられる神は、彼らが罪から悔い改めないことを知っておられます。けれどもさらに、その先を見ておられます。彼らが死んで、陰府に下っても、そこから主が彼らを贖い、よみがえらせるという希望です。

 私たちは死んで、それで終わりだと思ってしまいます。特に旧約時代の人々は、死んだら何をすることができるのか、神をほめたたえることができるでしょうか、という問いかけを祈りの中で多く行なっています。ですから、死んだらそれで終わりだと思ってしまいますが、「いや、違うのだ。墓の先に命があるのだ。」とこの箇所は教えています。

 ここの「死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。」という箇所は、コリント第一15章で使徒パウロが引用しています。すばらしい復活の希望の箇所です。「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15:54-57」ここにあるように、主はご自分の死によって、死のとげである罪を根こそぎ取り除いてくださり、そしてその死自体を滅ぼしてくださるのです。これが復活の力です。

13:15 彼は兄弟たちの中で栄えよう。だが、東風が吹いて来、主の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。それはすべての尊い器の宝物倉を略奪する。13:16 サマリヤは自分の神に逆らったので、刑罰を受ける。彼らは剣に倒れ、幼子たちは八裂にされ、妊婦たちは切り裂かれる。

 再び、力を持っている北イスラエルが、根こそぎその力と富が奪われることについての預言です。

3A 主に立ち返る民 14
 そして14章です。主は、最後の最後に、ご自分が持っておられる強い意思を前面に出して語られます。今のエフライムには裁きと滅びしかないのですが、それでも初めの愛を思い起こし、そしてその愛にしたがってエフライムを立ち返らせる強い意思を語られます。

1B 唇の果実 1−3
14:1 イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。14:2 あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。「すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。14:3 アッシリヤは私たちを救えません。私たちはもう、馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません。みなしごが愛されるのはあなたによってだけです。」

 「くちびるの果実」すなわち、罪の告白と信仰告白です。口によってささげる捧げ物です。ヘブル人への手紙にこう書いてあります。「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。(ヘブル13:15」賛美においてもそうですし、また罪の告白についてもそうです。口に出して、はっきりと神を認めるのです。

 ここに書かれている内容は、これまで主がお語りになってこられたことをただ認めている発言です。「アッシリヤは私たちを救いません」そうですね、アッシリヤが救うのではなく神ご自身が救うことを語られました。「馬にも乗らず」とありますが、エジプトから買った馬のことです。エジプトにも頼りません。そして「自分たちの手で造った物」も、これまで主が何度も何度もお語りになられたことです。そして「あなたによってだけ愛される」というのも、「わたしが神であり、主だ」と主が言われたことばによります。

 したがって罪の告白とは、神が御言葉の中で言われていることを、そのまま認めることです。自分を御言葉の中において、自分で自分を御言葉によって裁き、ありのままに見ることです。罪について、また信仰について、私たちはあいまいにしてはいけません。はっきり言うことによって、それが神に対して果実となるのです。

2B 背信の癒し 4−9
14:4 わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。わたしの怒りは彼らを離れ去ったからだ。

 主は怒るに遅く、憐れむのに早い方です。彼らが悪を行なっても、預言者たちを何人も遣わされて、ご自分の怒りを現すのを何とか回避されようとしました。けれども、彼らが悔い改めさえすれば、主はこれまでの犯した罪をすべて帳消しにする用意を持っておられる方です。

 ここに「喜んでこれを愛する」とあります。ここに神の心があります。今にでもすぐに喜んで行なわれる方なのです。

14:5 わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。14:6 その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。

 これまで主が言われたことの逆現象です。「主の息が荒野から立ち上り、その水源はかれ、その泉は干上がる。(13:15)」と言われましたが、今はその泉が湧き上がり、そして荒野を緑豊かにしてくださるのです。主は、私たちが罪によって失ったものを、全て回復させる力を持っておられます。

14:7 彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。

 「帰って来て」とあります。エジプトあるいはアッシリヤから、また世界中から、緑豊かな約束の地に帰って来て、約束の地で豊かになるということです。

14:8 エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。

 偶像から離れ、つまり姦淫している男から離れ、今度はまことの夫、神ご自身からの世話を受け、実を得ます。神の喜びと、そして「わたしから二度と離れてはいけない。」という強い思いを感じ取ることができます。ホセアがゴメルに対して、「これから長く、私のところにとどまって、もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはならない。(3:3」と言ったのと同じです。

14:9 知恵ある者はだれか。その人はこれらのことを悟るがよい。悟りある者はだれか。その人はそれらを知るがよい。主の道は平らだ。正しい者はこれを歩み、そむく者はこれにつまずく。

 これは読者に対する最後の呼びかけです。このイスラエルと神の物語から、あなたがたは知恵を得ることはできるか、悟りを得ることはできるか?という問いかけです。平らな道を歩むこともできるし、またつまずくこともできます。それは私たちが、私たちの内に住んでおられる主の御霊に、どう応答するかによって決まります。

 どうか神の愛の心を知ってください。私たちがどんなに神から遠く離れたとしても、神はあなたをお見捨てにはなりません。今すぐにでも、それらの罪を赦したいと願われています。けれども、それをあなたがへりくだって、神の御前に罪の告白をして、立ち返るかどうかなのです。この愛に応答するかどうかなのです。

 罪は私たちを苦しめます。私たちを滅ぼします。神はこれを最も嫌われます。だから死んでも生き返らせるという強い意思を表されたのです。この強い意思が、ご自分の御子を死に渡し、そしてよみがえらせるという御業に現れているのです。十字架と復活は、まさにホセア書に現れている、神の罪人に対する熱情の表れです。私たちがいつまでもぼおっとしてはいけません。この呼びかけに応答して、立ち上がらなければいけません。