ホセア書8−11章 「罪の祭壇」

アウトライン

1A 自分で造る神 8
   1B 神の契約を破る者 1−7
   2B 誰にも喜ばれない器 8−14
2A 退けられる民 9
   1B 土地の喪失 1−6
   2B 子の喪失 7−17
3A 二心の民 10
   1B 持ち去られる子牛 1−8
   2B ギブアの日 9−15
4A 憐れみで熱くなる心 11
   1B 愛に背くイスラエル 1−7
   2B 敵に引き渡せない主の心 8−12

本文

 ホセア書8章を開いてください、今日は8章から11章までを学びたいと思います。ここでのメッセージ題は「罪の祭壇」です。

1A 自分で造る神 8
1B 神の契約を破る者 1−7
8:1 角笛を口に当てよ。鷲のように敵は主の宮を襲う。彼らがわたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ。

 ホセアのメッセージは、イスラエルにある「主の宮」に向かいます。主の宮と言っても、エルサレムにある神殿のことではありません。北イスラエルにある、ベテルとダンにある金の子牛のことです。もう一度思い出すために、その箇所を読んでみましょう。列王記第一1225節からです。

ヤロブアムはエフライムの山地にシェケムを再建し、そこに住んだ。さらに、彼はそこから出て、ペヌエルを再建した。ヤロブアムは心に思った。「今のままなら、この王国はダビデの家に戻るだろう。この民が、エルサレムにある主の宮でいけにえをささげるために上って行くことになっていれば、この民の心は、彼らの主君、ユダの王レハブアムに再び帰り、私を殺し、ユダの王レハブアムのもとに帰るだろう。」そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。

 このように非常に政治的な思惑で、彼はイスラエルの民に金の子牛を拝ませるようにしたのです。ここに書いてあるように、金の子牛はエジプトで拝まれていた神であり、イスラエルの民がその金の子牛をシナイ山のふもとであがめました。続けて読みましょう。

それから、彼は高き所の宮を建て、レビの子孫でない一般の民の中から祭司を任命した。そのうえ、ヤロブアムはユダでの祭りにならって、祭りの日を第八の月の十五日と定め、祭壇でいけにえをささげた。こうして彼は、ベテルで自分が造った子牛にいけにえをささげた。また、彼が任命した高き所の祭司たちをベテルに常住させた。彼は自分で勝手に考え出した月である第八の月の十五日に、ベテルに造った祭壇でいけにえをささげ、イスラエル人のために祭りの日を定め、祭壇でいけにえをささげ、香をたいた。(以上25-33節)

 このように、エジプトの異教をそのまま踏襲したのではなく、ユダの祭りにならって金の子牛を拝ませました。ですから表向きは、イスラエルの神を拝んでいるということになるのですが、その実体はまったく異なるものを拝んでいた、ということになります。今日読むホセア書の箇所は、この祭壇に対する神の裁きを主に描いています。

 1節の内容に戻りますが。「角笛」というのは、民に呼びかけを行なう時に用いるものです。祭りを召集するときにも使われますが、戦いの時にも使われます。ここでは戦いへの召集です。「鷲のように主の宮を襲う」とあります。アッシリヤが北イスラエルを攻めてくることをここは表しています。

 その理由が「わたしの契約を破り、わたしのおしえにそむいたからだ」とありますが、モーセの十戒の一つ目、「わたしのほかに、他の神々があってはならない。」と、二つ目の「あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。」に違反しています。神よりも、もっと大事なものがあったらそれは偶像です。私たちは、「主をあがめている」と言いながら、なお別のものを大事にしているのであれば、ここの北イスラエルの人々と同じことをしていることになります。主を知っていると言いながら、主のおきてを破っているのです。

8:2 彼らは、わたしに向かって、「私の神よ。私たちイスラエルは、あなたを知っている。」と叫ぶが、8:3 イスラエルは善を拒んだ。敵は、彼らに追い迫っている。

 思い出しますか、「主よ、主よ。」と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです、とイエス様は言われました(マタイ8:21)。そして、主が、「主よ、主よ。」と叫んでいる者たちに対して、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。(23節)」と言われました。

 ホセア書には、「知っている」という言葉が多く出てきます。前回の学びでは、イスラエルの民が「知識がないので滅ぼされる。(4:6」とありました。神を知っていることが、私たちの救いになるのだということを学びました。けれども、ここにあるように、主の御言葉とその命令に背いているのに、それでも主を知っていると自分を欺くことができる、ということです。

8:4 彼らは王を立てた。だが、わたしによってではない。彼らは首長を立てた。だが、わたしは知らなかった。彼らは銀と金で自分たちのために偶像を造った。彼らが断たれるために。

 ここにも「知らなかった」とあります。これはもちろん、情報として知らなかったということではなく、神との人格的、個人的な関係がないことを意味しています。彼らが北イスラエルの初代の王ヤロブアムを立てた時も、また北イスラエルの最後の王たちは謀反によって王を殺して自分が王になりましたが、それらは彼らが選んだことですが、神の選びによるものではない、ということです。

 これは、神の御言葉を拒む人々によって、世の終わりの時に起こることです。パウロが自分の死ぬ前にテモテにこう話しました。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。(2テモテ4:2-4

 この箇所を読むと、偽教師が出てくるのはそれを聞きたい人々が招いているからだ、ということです。真理から耳を背けたいからだ、ということです。私たちはしばしば、そのような悪い教師のみを槍玉に挙げて責め立てますが、実はそれを初めに求めているのは大勢の信者なのです。王を立てますが、主によるものではないのです。

8:5 サマリヤよ。わたしはあなたの子牛をはねつける。わたしはこれに向かって怒りを燃やす。彼らはいつになれば、罪のない者となれるのか。8:6 彼らはイスラエルの出。それは職人が造ったもの。それは神ではない。サマリヤの子牛は粉々に砕かれる。

 アッシリヤが攻めてくることによって、彼らが神々と仰いでいた子牛が粉々に砕かれます。

8:7 彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。

 ここに、彼らの金の子牛崇拝の実態が描かれています。それは「」です。種ではなく、風を彼らは蒔いていたということです。

 私たちがどんなに熱心に主に仕えているように見えていても、自分の心にある偶像をそのままにして生きているのであれば、それは風を蒔くようなものです。自分の生活に変化を見ることはできません。もちろん活動に熱心ですからそういう意味で変えられたかもしれませんが、聖霊の実、キリストの似姿に変えられていくという実においては、なんら効力をもたらさない活動なのです。

 そしてイスラエルの民のなお悪いことは、神と言われているものに熱心に仕えれば仕えるほど、それは罪なのだ、ということです。私たちが教えに風に吹きまわされて、誤った考えにとらえられると、実は自分の肉の欲を満たすものに化してしまいます。例えば、「あなたが信仰を持ては、あなたは経済的にも豊かになる。」という教えです。主を信頼することが、この方の愛に応答し、この方を愛するからという動機ではなく、自分が富むという欲望を満たす手段になっています。

 そして風を蒔いていれば、「つむじ風を刈り取る」とあります。砂漠に吹き荒れるつむじ風のことです。激しくそこにあるものをかき集め、そして一挙に散らしてしまう風です。アッシリヤが攻めてくることを言い表しています。

2B 誰にも喜ばれない器 8−14
8:8 イスラエルはのみこまれた。今、彼らは諸国の民の間にあって、だれにも喜ばれない器のようだ。8:9 彼らは、ひとりぼっちの野ろばで、アッシリヤへ上って行った。エフライムは愛の贈り物をした。

 イスラエルが神の民であるという独自性を失って、他の国々となんらかわらない姿になり果てたことを描いています。具体的には、自分たちが弱くなっているとき神に拠り頼まずに他の国々により頼んだことを表しています。

 「だれにも喜ばれない」「ひとりぼっちの野ろば」とありますが、これは神の民が他の国々のようになろうとしても、だれからも良いと思われないという事実です。これは言い方を変えれば、「塩気をなくした塩」です。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13

 私たちキリスト者が世から嫌われ、憎まれたとしても、では世と同調して生きたら好かれるようになるかと言ったら、まったく逆なのです。まったく相手にされなくなります。私たちは地の塩と呼ばれているように、必ずしも好ましく思われなくても、世の人々はキリスト者に一目置いているのです。そしてもしかしたら、その中から悔い改めて救いにあずかる人々が起こされるのです。

8:10 彼らが諸国の民の間で物を贈っても、今、わたしは彼らを寄せ集める。しばらくすれば、彼らは王や首長たちの重荷を負わなくなるであろう。

 ここの訳は語弊があります。「重荷を負わなくなる」のではなく、むしろ「間もなくして、重荷で悲しむようになる」という意味です。新共同訳ではこうなっています。「諸侯を従える王への貢ぎ物が重荷となって/彼らはもだえ苦しむようになる。

8:11 エフライムは罪のために多くの祭壇を造ったが、これがかえって罪を犯すための祭壇となった。8:12 わたしが彼のために、多くのおしえを書いても、彼らはこれを他国人のもののようにみなす。

 先ほど説明したように、彼らは自分たちの祭壇を造りましたが、それがかえって罪を犯す機会となりました。初めが悪ければ、熱心になればなるほど、もっと悪くなるのです。残念ながら、教会の中で熱心だ、とほめられているような人々の中でも、すればするほど多くの過ちを犯すことがあります。

 それはひとえに、「教え」をないがしろにしているからです。「他国人のもののようにみなす」とあります。つまり、我々とは関係のないことだとあしらうことです。イザヤが同時期に預言を行なっていましたが、彼は北イスラエルが自分のことをこう言っている、と言っています。「彼はだれに知識を教えようとしているのか。だれに啓示を悟らせようとしているのか。乳離れした子にか。乳房を離された子にか。彼は言っている。『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し。』と。」(28:9-10」いつも同じことを繰り返している、あまりにも単純なことを繰り返している、ごくごく基本的なことだが私たちはもうそんなことは、とっくの昔に分かっている、ということです。

 いや、そのごく基本的なことができていないから神が、何度も何度も語られておられるのです。かつてトロント・ブレッシングという、人々が転げまわったり、獣の声を出したりする、「聖霊によるもの」と称するおかしな運動が起こりました。その動きの中にいたある牧師が、その流れから出て教会を建て直しました。彼はヨハネの福音書から、一節ずつ解き明かす方法に変えたそうです。そうしたら教会の人々の多くが「そんな初歩的なことをしてどうするのか。」ということで、去っていったそうです。

 私たちがもし、聖書にある教えを他人事のように考え、もっと何かが必要だと感じて何かを始めるとき、イスラエル人と同じように罪を加えるだけの祭壇を造ってしまいます。自分たちは、自分たちを復興させるため、自分たちを立て直すための祭壇だと思っていますが、その逆なのです。

8:13 彼らがわたしにいけにえをささげ、肉を食べても、主はこれを喜ばない。今、主は彼らの不義を覚え、その罪を罰せられる。彼らはエジプトに帰るであろう。

 この「エジプト」というは物理的なことではなく、霊的なことです。後で、11章で「彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。(5節)」とあります。エジプトの金の子牛を拝んだ彼らは、ついにエジプトの奴隷状態と同じく、アッシリヤの奴隷となりました。

8:14 イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。

 迫り来るアッシリヤの脅威に対して、北イスラエルの反応はこれまで見てきたように祭壇を造ることでした。祭壇また神殿をたくさん造ることで、その脅威から守られようとしました。でもユダも過ちを犯しました。主に拠り頼むのではなく、城壁の町々を増し加えたのです。私たちの識別は、もしかしたら北イスラエルのような宗教的なものを間違っていると見分けているかもしれません。けれども実際的に、試練や困難などに対して物理的なものにより頼んでいる過ちを犯します。

2A 退けられる民 9
1B 土地の喪失 1−6
9:1 イスラエルよ。国々の民のように喜び楽しむな。あなたは自分の神にそむいて姦淫をし、すべての麦打ち場で受ける姦淫の報酬を愛したからだ。9:2 麦打ち場も酒ぶねも彼らを養わない。新しいぶどう酒も欺く。

 イスラエルの民は、自分たちに与えられた収穫をバアルによるものとしていました。それで、「国々の民のように喜び楽しむな」と主が言われます。

 私たちキリスト者が主の懲らしめを受けることは幸いなことです。同じ悪いことをしても、世の人たちは上手に切り抜けているのに、自分だけは惨めな思いをします。「なんで彼らは大丈夫だったのに、私だけがだめなのか。」と嘆いてしまうのですが、いやむしろそれは神の深い憐れみによるものです。私たちは罪を喜び楽しむことができないように神はしてくださいます。

9:3 彼らは主の地にとどまらず、エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れた物を食べよう。9:4 彼らは主にぶどう酒を注がず、彼らのいけにえで主を喜ばせない。彼らのパンは喪中のパンのようで、すべてこれを食べる者は汚れた者になる。彼らのパンは彼ら自身のためだけであって、主の宮に持ち込むことはできない。9:5 あなたがたは例祭の日、主の祭りの日には何をしようとするのか。

 イスラエルの中で異教を混ぜ合わせた礼拝を行なっていたのですが、アッシリヤに捕らえ移されてからはなおさらのこと、その儀式は神の律法にはそぐわない汚れたことばかりです。彼ら自身の慰めにはなるのかもしれませんが、主にとっては受け入れられないものです。

 主がサムエルを通して、サウル王にこう語られました。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。(1サムエル15:22-23」ささげ物よりも、主に聞き従うことのほうが大事なのです。

9:6 見よ。彼らが破壊をのがれても、エジプトは彼らを集め、モフが彼らを葬る。彼らの宝としている銀は、いらくさが勝ち取り、あざみが彼らの天幕に生える。

 「モフ」とは、エジプトの古代の首都「メンフィス」のことです。ここの箇所は象徴的なものではなく、もしかしたら文字通り起こったのかもしれません。アッシリヤに捕らえ移されたイスラエル人ですが、その後バビロンがアッシリヤを倒しています。そのバビロンがイスラエル人をエジプトに移住させたという可能性はあります。

2B 子の喪失 7−17
9:7 刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。9:8 エフライムの見張り人は、私の神とともにある。しかし、預言者は、すべての道にしかけるわなだ。彼の神の家には憎しみがある。

 ここの預言者は、まことの預言者のことです。イスラエル人たちにとっては、彼らは狂った者のように聞こえます。そこで彼らは預言者を酷く憎みます。彼が語っていることが嫌いだったからです。

 聖書をまっすぐ語ることには、このような犠牲が伴います。「あなたは、そのまま信じているのか?狂信者だ。こんなことを言っているから、戦争を起こして世界をかき乱したブッシュと同じなのだ。」と原理主義者扱いします。主の御言葉を憎んでいるからです。

9:9 彼らはギブアの日のように、真底まで堕落した。主は彼らの不義を覚え、その罪を罰する。

 主はここから「ギブアの日」を意識なさいます。109節にも「ギブアの日々」と出てきます。覚えておられるでしょうか、これは士師記後半に出てくるイスラエルの中で起きた、実に由々しき事件です。

 エフライムにいるあるレビ人が、側めとしてユダのベツレヘムの女をめとりました。でも彼女は彼を嫌って実家に帰ってしまいました。レビ人は彼女を引き取りに行きました。ベツレヘムからエフライムに戻る途中、夜を明かさなければいけませんが、彼はあえて当時エブス人のいたエルサレムを避けました。さらに北に行って、ベニヤミンの町ギブアに到着しました。そこで老人の家に泊めてもらいました。

 このように異邦人を避けて、仲間のイスラエル人の町に来たにも関わらず、とんでもない恥ずべきことが起こりました。ベニヤミン人のよこしまな者たちが、その男を知りたいと言ってその家を叩いたのです。そうです、あのソドムの町で起こったことと全く同じです。ソドムでは、中にいた御使い二人が、外にいる者たちに目潰しをくらわしましたが、ここでは実際に家の中にいる彼のそばめを家につかみ出して、夜通し陵辱したのです。

 そしてそのレビ人が、家の敷居に手をかけている彼女を起こそうとしたところ彼女が死んでいるのを知りました。それで自分の家に戻って、彼女の死体を十二の部分にわけて、それをイスラエルの各部族に送りました。イスラエルの人々は、「イスラエル人がエジプトの地から上ってきた今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。」と大きな衝撃を受けました。

 ところがベニヤミン人は、そのよこしまな者たちを引き渡すのではなく、かえって戦いをしかけてきたのです。それでイスラエル人はベニヤミンと戦争を行ない、ベニヤミン人がほとんど滅ぼされかかった、という事件です(士師記19-20章)。

 このように、イスラエル人が異邦人のレベル、いやそれ以下にまで堕落してしまったその象徴的事件として主は、「ギブアの日」と呼ばれています。

9:10 わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見、あなたがたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた。ところが彼らはバアル・ペオルへ行き、恥ずべきものに身をゆだね、彼らの愛している者と同じように、彼ら自身、忌むべきものとなった。

 「荒野のぶどう」また「いちじくの木の初なりの実」は、どちらも愛すべきもので、好ましいものです。ぶどうを育ているのは大量の水が必要です。ですから荒野でぶどうが実ることは、本当に心を喜ばせます。そしていちじくの初なりの実は、とても甘くおいしいです。主がそのようにしてイスラエルを見ておられました。

 ところが、イスラエルはそれを台無しにしてしまいます。イザヤは同じく「ぶどう園」の例えを行ないましたが、甘いぶどうがなるのを待ち望んでいたのに、「酸いぶどうができてしまった。(5:2」とあります。具体的に主は、「バアル・ペオル」の事件を挙げておられます。覚えていますか、モアブの王バラクがバラムを雇って、宿営しているイスラエルを呪わせようとしました。ところが、バラムは、イスラエルを祝福する麗しい預言を行ないました。

 ところが、バラムは助言をしました。「我々はイスラエルを呪うことはできないが、彼らが自分の身に呪いを招かせることはできる。」と。モアブ人の娘たちがイスラエルの宿営に入っていって、男たちが彼女たちと寝て、彼女たちが持ち込んだ神々を拝んだのです。それで神の罰が下りましたが、死んだ者は二万四千人もいました。これがバアル・ペオル事件です。

 イスラエル人、そして私たちは、主から豊かな祝福を受けています。けれども祝福を受けると、しばしば私たちはそれを、罪を犯す機会として用いてしまいます。神の恵みを知ったのに、その恵みを放縦に変えてしまいます。そして自らに呪いを招いてしまうのです。

9:11 エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう産むことも、みごもることも、はらむこともない。9:12 たとい彼らが子を育てても、わたしはひとり残らずその子を失わせる。わたしが彼らを離れるとき、まことに、彼らにわざわいが来る。9:13 わたしが見たエフライムは、牧場に植えられたツロのようであったが、今や、エフライムはその子らを、ほふり場に連れて行かなければならない。

 主がアブラハムに与えられた祝福の一つが、子孫が星の数のようになるというものですが、エフライムは子を失うという呪いを受けます。アッシリヤに捕らえ移されます。そしてここに「牧場に植えられたツロ」とありますが、ツロは非常に富んでいましたが罪の町でした。ツロになぞらえて、エフライムがとても豊かな地に住んでいることを表しています。

9:14 主よ。彼らに与えてください。何をお与えになりますか。はらまない胎と、乳の出ない乳房とを彼らに与えてください。

 これはホセア自身の叫びです。かなり迫害を受けているのでしょう。先ほど「愚か者」「狂った人」との評価を受けていることを彼は言いました。それで、彼は主に対して彼らに速やかな裁きを行なってほしいことを願っています。

9:15 彼らのすべての悪はギルガルにある。わたしはその所で彼らを憎んだ。彼らの悪い行ないのために、彼らをわたしの宮から追い出し、重ねて彼らを愛さない。その首長たちはみな頑迷な者だ。

 4章15節にも出てきましたが、ギルガルはヨシュアたちがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に到着した町です。あるいは、ベツレヘムの地に同じ名前の町があります。どちらか分かりませんが、ひどい偶像礼拝の場に化したことは確かです。

9:16 エフライムは打たれ、その根は枯れて、実を結ばない。たとい彼らが子を産んでも、わたしはその胎の中のいとし子を殺す。9:17 私の神は彼らを退ける。それは、彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる。

 神が彼らを散らすことを、強い意思をもって語っておられます。理由が「聞き従わなかったからだ」とあります。単に聞くことではありません、聞き従うことです。言い換えれば、「聞き入る」ということです。真剣に聞いているので、それを行動に移すほどである、ということです。

3A 二心の民 10
1B 持ち去られる子牛 1−8
10:1 イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。10:2 彼らの心は二心だ。今、彼らはその刑罰を受けなければならない。主は彼らの祭壇をこわし、彼らの石の柱を砕かれる。

 彼らの問題はその「二心」でした。一方では主を知っていると言いながら、他方ではここにあるとおりバアルを拝んでいたのです。この二心によって、信仰者であるはずの私たちは主に仕えると言いながら同時に、偶像に仕えることができるようになってしまいます。

 教会で礼拝を捧げるとき、また他のクリスチャンと交わるときは、主を愛している者としてふるまうことができます。けれどもその一方で、自分が欲している楽しみについては貪っています。それを上手に使い分けることができ、特段に悪いことは起こっていないのでその生活を継続してしまうのです。

 ホセア書は、この二心に対する警告です。ダビデは祈りました。「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。(詩篇86:11」一つにすることは、このダビデのような切なる願いによる祈りが必要です。ヤコブもこう戒めました。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。(4:8-10

10:3 今、彼らは言う。「私たちには王がない。私たちが主を恐れなかったからだ。だが、王は私たちに何ができよう。」と。10:4 彼らはむだ口をきき、むなしい誓いを立てて契約を結ぶ。だから、さばきは畑のうねの毒草のように生いでる。

 北イスラエルは、王が謀反によって殺され、次々と変わっていき、最後の王ホセア(預言者ホセアのことではありません)が、アッシリヤに従属するようになったことを、ここで「私たちには王がない」と言っています。彼らは、「主を恐れなかったからだ」と一時的に反省しますが、「だが王は私たちに何ができよう」と開き直ります。王がいなくても、どうってことはないと言っているのです。けれども、毒草、つまりアッシリヤによる侵略はもう目の前に近づいています。

10:5 サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく。その民はこのために喪に服し、偶像に仕える祭司たちもこのために喪に服する。彼らは、その栄光のために悲しもう。栄光が子牛から去ったからだ。

 「ベテ・アベン」はベテルのことであることをこの前学びました。ベテルは「神の家」という意味ですが、ベテ・アベンは、偶像の家あるいは悪の家という意味です。ヤロブアムがベテルに金の子牛を作ったからです。

 ベテルが「神の家」になったのは、覚えていますか?ヤコブが石を枕にして寝ている時に、天からのはしごの夢を見たからですね。彼が神との決定的な出会いをした所です。そこが偶像崇拝の拠点になっているのです。悲しいことですが、私たちも独りで主との語り合いをする場を、独りで罪を犯す場にしてしまうのです。

10:6 その子牛はアッシリヤに持ち去られ、大王への贈り物となる。エフライムは恥を受け取り、イスラエルは自分のはかりごとで恥を見る。

 先ほど子牛が砕かれるとあり(8:6)、ここでは持ち去られるとありますが、砕いてその破片を持ち帰ったのでしょうか。いずれにしても、持ち去られた時に自分のした悪に対する神の裁きをまともに感じるようになります。

 「」とありますが、自分の悪が公にされたからです。自分たちのしていることが、アッシリヤが子牛を持ち去ることに露にされたからです。ちょうどそれは、私たちの暗闇で言ったことが明るみに出され、家の中で囁いたことが、屋上でも言い広められると言われたイエス様の御言葉と同じです(ルカ12:3)。

10:7 サマリヤは滅びうせ、その王は水の面の木切れのようだ。

 何の力もない状態を「水の面の木切れ」と言っています。

10:8 イスラエルの罪であるアベンの高き所も滅ぼされ、いばらとあざみが、彼らの祭壇の上におい茂る。彼らは山々に向かって、「私たちをおおえ。」と言い、丘に向かって、「私たちの上に落ちかかれ。」と言おう。

 彼らは自分たちの神々が滅ぼされたことによって、「私たちをおおえ」「私たちの上に落ちかかれ」と叫んでいます。死んだほうがましだ、という嘆きです。多くの人が悪いことをした後に、その悪が明るみに出た後に自殺をしますね。それはあまりにも大きな恥に耐えられなかったからです。けれども、本来ならその時に主の前にへりくだって、罪の告白の祈りを捧げるなら、主から豊かな憐れみを受けることができます。

 そしてここの箇所は、黙示録6章に引用されています。第六の封印を主が解かれて、それで大きな地震が起こり、天から隕石が落ちてきて、そこで地上にいる人々が、山や岩に向かって「私たちの上に倒れてかかって、御座にあるかたの御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。(16節)」と叫んでいます。主の御怒りは、死ぬことよりも恐ろしいことなのです。

2B ギブアの日 9−15
10:9 イスラエルよ。ギブアの日々よりこのかた、あなたは罪を犯してきた。彼らはそこで同じことを行なっている。戦いはギブアで、この不法な民を襲わないだろうか。

 ギブアでの戦いというのは、イスラエルの民がギブアでベニヤミン人と戦ったことのことです。同じように今、不法を起こっている民に対してアッシリヤが戦いに挑むということです。

10:10 わたしは彼らを懲らしめようと思う。彼らが二つの不義のために捕えられるとき、国々の民は集められて彼らを攻める。

 ここの「二つの不義」とは、おそらくダンとベテルにおける金の子牛のことだと思われます。

10:11 エフライムは飼いならされた雌の子牛であって、麦打ち場で踏むことを好んでいた。わたしはその美しい首にくびきを掛けた。わたしはエフライムに乗り、ユダは耕し、ヤコブはまぐわをひく。

 牛が麦打ち場で踏むのはとても楽な作業です。律法に、「脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。(申命記25:4」とあります。だから、脱穀をしながら下に落ちている麦を食べることができたのです。この間食で牛は肥え太ったことをここで表しています。

 ところが主がその子牛にくびきを掛けます。そしてユダが耕す、とあります。ユダもイスラエルに下った裁きを免れることはできません。

10:12 あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。

 主が戒めておられます。そして励ましておられます。正義の種を蒔くことは、労苦のともなうことです。そのためには「耕地を開拓」する必要があります。私たちがへりくだって、悔い改めて、御言葉を自分のものとして食していく時、それはちょうど干からびて、堅くなってしまった土地を耕すようなものです。とても苦労します。手間がかかります。けれども、これをすることによって、初めて「誠実の実」を借り入れることができるのです。

 そして主が来てくださいます。そして正義を注いでくださいます。私たちをキリストにあって義と認めてくださった主は、私たちを義としてくださいます。パウロもこの信仰の営みを次のように説明しています。「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。(ピリピ3:9-11

10:13 あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた。これはあなたが、自分の行ないや、多くの勇士に拠り頼んだからだ。

 主の呼びかけにも関わらず、彼らはさらに悪を耕し、不正を刈り取りました。主に頼るのではなく、軍に拠り頼んだのです。

10:14 あなたの民の中では騒動が起こり、あなたの要塞はみな打ち滅ぼされる。シャレマンがベテ・アレベルを踏みにじったように。その戦いの日には、母親が、その子どもたちの上で八裂にされた。10:15 イスラエルの家よ。あなたがたの悪があまりにもひどいので、わたしはこのようにあなたがたにも行なう。イスラエルの王は夜明けに全く滅ぼされる。

 「シャレマン」とは、北イスラエルを滅ぼした「シャヌマヌエセル(2列王17:3」と言われています。そしてベテ・アレベルとは、ガリラヤ湖の西にあるアレベル(Arbel)ではないかと言われています。アッシリヤの王がガリラヤ地方を激しく攻め、母親が子供たちの上で八裂にするという、恐ろしいことをします。

4A 憐れみで熱くなる心 11
 主がここまでご自分の怒りを言い表しておられますが、それはイスラエルを嫌いになったからではありません。これがホセア書に流れるテーマですが、それでも彼女をわたしは愛するという、あまりにも深い、というか、執拗とも呼べるほどの愛を言い表しておられます。

1B 愛に背くイスラエル 1−7
11:1 イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。

 これは出エジプト記のことですね。主が愛しておられたから、彼らをエジプトから連れ出されました。

 そしてこの箇所はマタイによって、幼子イエス様を避難させるためにエジプトに下った両親が、エジプトからイスラエルに戻ってくる際にこの箇所を引用して預言の成就であると言っています(マタイ2:15)。したがってここから、メシヤはイスラエルの代表であり、イスラエルが辿った道はメシヤご自身を指し示していた、ということができます。

11:2 それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた。11:3 それでも、わたしはエフライムに歩くことを教え、彼らを腕に抱いた。しかし、彼らはわたしがいやしたのを知らなかった。

 ここに神のやるせなさと、その深い愛を読むことができますね。イスラエルが豊かになり、またたとえ罪を犯しても主が憐れみをかけてくださった背景がここにあります。主がどのように考えておられたのかをここに見ることができます。

 私たちは、この主の心遣いに気がつくべきですね。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来る。(ヤコブ1:17」とありますね。すべての良いものは、私たちが主にあって立ち、主にあって成長するために与えられているものです。けれども、私たちはそれが主から来たものであることに気づかず、それですぐに罪に陥ってしまいます。

11:4 わたしは、人間の綱、愛のきずなで彼らを引いた。わたしは彼らにとっては、そのあごのくつこをはずす者のようになり、優しくこれに食べさせてきた。

 「人間の綱」とは、当時、よちよち歩きの子が立って歩くことができるように用意した綱だそうです。二本の綱を平行にかけて、子供が脇の下にそれを入れて、それで立って歩けるようにしたものです。私たちがこの主の優しさに気がついて、その愛と恵みに触れていきたいものです。

11:5 彼はエジプトの地には帰らない。アッシリヤが彼の王となる。彼らがわたしに立ち返ることを拒んだからだ。11:6 剣は、その町々で荒れ狂い、そのかんぬきを絶ち滅ぼし、彼らのはかりごとを食い尽くす。11:7 わたしの民はわたしに対する背信からどうしても離れない。人々が上にいます方に彼を招いても、彼は、共にあがめようとはしない。

 預言者たちが神に立ち返ることを促しましたが、神をあがめようとしませんでした。

2B 敵に引き渡せない主の心 8−12
 けれども次の言葉が驚きです。

11:8 エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。

 「どうして引き渡すことができようか。」と主は思い直しておられます。いったんアッシリヤにイスラエルを引き渡された主ですが、そのままにすることは決してできないという主の深い憐れみがここに表れています。主がモーセのところを通り過ぎられた時、「主、主は、あわれみ深く、情け深い神(出エジプト34:6」と言われた通りです。

 アデマとツィボイムは、ソドムとゴモラの近くにある死海の町です。創世記14章に、ソドムの王とともにケドルラオメル王に反抗した王として出てきます。ソドムとその一帯は火と硫黄で滅んでしまいましたが、主はそのようなことをすることができようか、とご自分の心の中で泣いておられます。

11:9 わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。

 これが神の怒りです。主はモーセに対してご自分のことを続けて、「怒るのにおそく、恵みとまことに富み(出エジプト34:6」と言われています。忍耐強く待ってくださり、怒られてもすぐに恵みとまことを施してくださる方です。

 私たちは神の怒りについての読むときに、私たちの怒りを混同します。けれども、ここにはっきりと主は、「わたしは人ではなく、聖なる者であるからだ。」と言われています。覚えていますか、モーセがイスラエルの民に怒って、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。(民数20:10」と言って岩を二度打ちました。主は何とモーセに言われましたか?「わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。(12節)」です。怒るに遅いことは、神の聖なるご性質の一つなのです。

 ヤコブがこう言いました。「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません。(1:19-20

11:10 彼らは主のあとについて来る。主は獅子のようにほえる。まことに、主がほえると、子らは西から震えながらやって来る。

 預言は一気に、終わりの日に飛んでいます。「主の後についてくる」という彼らは、天にすでに引き上げられた教会です(黙示19:14)。そして、西から震えながらやって来るのは離散した選びの民、イスラエルのことです(マタイ24:31)。

 主は獅子のようにほえる、とありますが、アモス書にもその表現があります(アモス3:8)。(ナルニア物語のアスランがなぜ吼えるのかと言えば、このキリストの預言があるからです。)栄光の主は大声をもっておられます、黙示録に「その声は大水の音のようであった(1:15」とあります。

11:11 彼らは鳥のようにエジプトから、鳩のようにアッシリヤの地から、震えながらやって来る。わたしは、彼らを自分たちの家に住ませよう。・・主の御告げ。・・

 二つの超大国にはさまれたイスラエルですが、主がその南北にある二つの国を制し、彼らを約束の地に戻してくださいます。これはイザヤも預言しました(19:23-25)。

11:12 わたしは、エフライムの偽りと、イスラエルの家の欺きで、取り囲まれている。しかし、ユダはなおさまよっているが、神とともにあり、聖徒たちとともに堅く立てられる。

 再び主は、ホセアの時代に戻って語られています。北イスラエルには偽りと欺きしかありませんが、ユダには残りの民、聖徒たちがいます。ヒゼキヤ王が主に堅く立ったので、アッシリヤから救い出されました。

 この主の、将来における幻と、そして現状を見ておられる対比がすごいです。主はご自身の心で彼らをお救いになる希望の計画を持っておられます。けれども、その計画をご自分でご覧になりながら、なおまた現状を見ておられます。これは私たちが主にあって生きていく信仰の姿でもあります。現状を見ると何も変わっていません。けれども終わりの日にある輝かしい希望を見て、喜びます。けれどもまた現状を見ます。この繰り返しです。

 そして私たちが、自分の生活にある「罪の祭壇」を取り除かなければいけません。二心を主にあって癒していただかなければなりません。この心を主にあってじっくりと開墾し、そこに正義の種を植えるのです。そうすれば誠実の実を結びます。そして、正義の主が来られるのです。