イザヤ書13−14章 「バビロンへの宣告」

アウトライン

1A 軍隊の召集 13
   1B 主の日 1−16
      1C 諸国の軍隊 1−5
      2C 全能者からの破壊 6−16
         1D 陣痛の苦しみ 6−8
         2D 世への罰 9−12
         3D 天変地異 13−16
   2B メディヤ人 17−22
      1C バビロンの崩壊 17−19
      2C 永久の廃墟 20−22
2A 永久の滅び 14
   1B ヤコブの憩い 1−2
   2B 嘲りの歌 3−23
      1C 虐げる者 3−8
      2C 下界の陰府 9−11
      3C ルシファー 12−15
      4C 投げ出される屍 16−23
   3B 打たれるアッシリヤ 24−32
      1C 主のご計画 24−27
      2C 殺されるペリシテ 28−32

本文

 イザヤ書13章を開いてください、今日は13章と14章の二章だけを学びます。ここでのメッセージ題は、「バビロンへの宣告」です。

 前回話したように、13章から諸国の民に対する神の宣告が始まります。23章まで続きます。これまではエルサレムとユダに対してでしたが、13章からその周囲の諸国に対してのものです。

 その筆頭に出てくる国がバビロンです。バビロンが始めに出てくるのは、大きな意味があります。もしイザヤが、今、差し迫っている状況だけを預言しているのであれば、バビロンを先に預言することは決してありません。アッシリヤが一番大きな問題です。イザヤはここでバビロンの崩壊を預言しているけれども、当時のバビロンは崩壊どころか、世界の大国として台頭してもいない状態です。

 けれどもなぜバビロンが先に出てくるのか?それは、イザヤがこれから語る預言は、聖書全体から見るバビロン、人間の歴史全体から見るバビロンを描いているからです。

 聖書の中で最も数多く出てくる町は、もちろんエルサレムです。約八百回出てきて、神の都と呼ばれています。けれども次に出てくる町がバビロンは約三百回出てきて、エルサレムの町よりも先に登場します。バベルの塔の事件、さらにニムロデが建てた町がバビロンだからです。創世記の始めに、ノア以降の新世界が始まって始めに人間が反抗した町がバビロンです。ちなみにエルサレムは、アブラハムに現れたメルキデゼク王がサレムの王というころで出てきます。

 そして聖書の最後に出てくる町も、エルサレムでありバビロンです。黙示録17章と18章にバビロンが登場しますが、崩壊したのを天の群集が喜んで、それから主が地上に戻ってこられます。そして千年後に天から降りてきたのが、新しいエルサレムです。

 このように聖書の中で、最も重要な意味を持つ都の一つになっているのがバビロンであり、イザヤが生きていた当時のバビロンだけでなく、聖書全体に啓示されているバビロンをも含みながら彼は預言を行なっています。

1A 軍隊の召集 13
1B 主の日 1−16
1C 諸国の軍隊 1−5
13:1 アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。13:2 はげ山の上に旗を掲げ、彼らに向かって声をあげ、手を振って、彼らを貴族の門に、はいらせよ。13:3 わたしは怒りを晴らすために、わたしに聖別された者たちに命じ、またわたしの勇士、わたしの勝利を誇る者たちを呼び集めた。

 バビロンが滅んだのは、紀元前586年、ベルシャツァル王が大宴会を催している時のことです。その時、クロスが率いるメディヤ・ペルシヤの連合軍がバビロンの町に侵入しました。ここで「貴族の門にはいらせよ」と書いているのは、その為です。彼らが宴会で酒に酔い、へでれけになっているとき、宮殿の中にメディヤ人が入ってきました。

 そして主は、その軍隊を「わたしに聖別された者たち」と呼ばれています。前回の学びにおいても、アッシリヤが北イスラエルを滅ぼす時に、主がアッシリヤをイスラエルに対する怒りの器として用いられたことをおっしゃっておられました。

 けれども、イザヤが預言しているのはこのバビロンだけではありません。なぜなら次の記述が、紀元前586年に起こった出来事と合致しないからです。

13:4 聞け。おびただしい民にも似た山々のとどろきを。聞け。寄り合った王国、国々のどよめきを。万軍の主が、軍隊を召集しておられるのだ。13:5 彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ。

 メディヤもメルシヤも、バビロンに隣接する国であり、遠い国ではありません。そして二カ国による軍隊なのに、「寄り合った王国、国々」と呼んでいます。今の国連軍のような、数多い国々の連合軍でなければいけないのです。そして何よりも「全世界を滅ぼすための」とありますね、以前も出てきましたが、バビロンの地域に限定された出来事ではなく、全世界的に起こる出来事をイザヤは預言しているのです。

 それは何でしょうか?黙示録17章を開いてください。バビロンが崩壊する預言がそこにはあります。これは、ヨハネが紀元後90年頃に書いていますから、紀元前のバビロンではないことは一目瞭然です。世の終わりに出てくるバビロンであり、この世の制度を具現しています。

 1716節からです。「あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。(黙示17:16-17」あの獣とは反キリストのことです。反キリストを筆頭とする世界の軍隊が、これまで結託していた宗教バビロンを憎み、これを滅ぼします。それ以降、反キリストは自分が至聖所に入り、自分が神であると公言し皆に礼拝を強要します(黙示13章)。

2C 全能者からの破壊 6−16
1D 陣痛の苦しみ 6−8
13:6 泣きわめけ。主の日は近い。全能者から破壊が来る。

 でてきました、「主の日」という重要な言葉が出てきました。今日のキリスト教会で、日曜日のことを「主日」と呼び、使徒ヨハネが御霊に感じた日、黙示録1章10節を引き合いに出します。けれども、聖書の中に「主の日」と書かれている箇所は、新・旧約ともに世の終わりの時、大患難の時を指しています。

13:7 それゆえ、すべての者は気力を失い、すべての者の心がしなえる。13:8 彼らはおじ惑い、子を産む女が身もだえするように、苦しみと、ひどい痛みが彼らを襲う。彼らは驚き、燃える顔で互いを見る。

 イエス様が、オリーブ山で弟子たちにお語りになった時、このイザヤ書の箇所を意識しておられたかもしれません、次のように言われました。ルカ2125節からです。「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。(2526節)」そして次に、「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(27節)」とあります。つまり、イエス様が地上に再臨される直前に起こる出来事を、イザヤはここで預言しているのです。

 そして使徒パウロも、この箇所を使って主の日について説明しています。テサロニケ人への手紙第一5章、2節からです。「主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。(2-3節)」イザヤが陣痛の女のように苦しむと言いましたが、パウロも同じように言っています。

 そしてこれが突如として襲いかかる、とパウロは預言しています。紀元前586年、バビロンが滅んだ時、ベルシャツァル王はバビロンの町は絶対に安全だと思って、メディヤとペルシヤの進軍を全く気にかけていませんでした。けれども、彼らが楽しんで、歌っている時に突如として襲撃に遭い、彼は殺されたのです。

 同じように、主の日は突如として襲いかかります。戦争が起こったり、地震が起こったりしているとき、人々の目は少し覚醒しますが、それでも少し安定すると自分たちだけの生活に安住し、その物質的な生活に戻ります。ちょうど、9・11の後でアメリカ人が普通の生活に戻ったように、です。むしろ危険なのは、「平和だ、安全だ」と言っている時です。その時、人々は自分たちの生活に慢心し、神に拠り頼もうという心を起こしません。

2D 世への罰 9−12
13:9 見よ。主の日が来る。残酷な日だ。憤りと燃える怒りをもって、地を荒れすたらせ、罪人たちをそこから根絶やしにする。13:10 天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。

 先ほど、ルカによる福音書21章でイエス様がおっしゃられた言葉にも出てきましたが、主の日はこのように天変地異による災いが襲いかかる日です。聖書のいろいろな箇所で、このことが預言されています。例えば、ペテロがペンテコステの日に説教をしたとき引用したヨエルの預言には、「その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。(2:1011」とあります。またアモスは、「わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、あなたがたの祭りを喪に変え」ると預言しています(8:910)。これは再臨直前の預言であるとともに、イエス様が十字架に付けられた時、正午から暗くなった時の預言でもあります。過越の祭りの時に暗くなったからです。

 どうして主がこのような災いを地に下されるのでしょうか?9節に「罪人たちを根絶やしにする」とありますね。11節も読みましょう。

13:11 わたしは、その悪のために世を罰し、その罪のために悪者を罰する。不遜な者の誇りをやめさせ、横暴な者の高ぶりを低くする。

 悪のために世を罰するために、主はこの日を定められました。私たちは、今、何も起こっていないから何も起こらない、と考えてはいけません。ペテロが彼の第二の手紙で言った通りです。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(2ペテロ3:9-10

 今、何も起こっていないのは、人々が悔い改めるために忍耐して待っておられるからです。けれども、主が「これで終わりだ」と定めておられる時があります。その時には、必ずこのように地が罰せられるのです。

 ここで考えなければいけないのは、キリスト者の救いについてです。キリストにある者が救われるのは、もちろん罪と死、そして死後に来る永遠の火からの救いです。けれども、今の世からの救いでもあることに注目してください。ガラテヤ書1章4節に、「キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。」とあります。

 そしてテサロニケ第一5章9節には、「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」とあります。この主の日、地上に神の怒りが降り注がれることからも救われることが、キリスト者の救いには含まれているのです。

 したがって、教会が大患難を通るという教えは、この救いの教理を混乱させることになります。ペテロは、この世からの救いを教える時、ロトを引き合いに出しました。彼が救われたのは、ソドムとゴモラの町にいて、その中で守りの壁でも主が彼の回りに設けられたのでしょうか。違いますね、ソドムの町を確かに出たことを見届けてから、火と硫黄を降らせたのです。同じように、キリスト者がこの世から救われるというのは、物理的にこの世にいなくなる、つまり第一テサロニケ4章に出てくる、携挙の出来事によって救ってくださるのです。

13:12 わたしは、人間を純金よりもまれにし、人をオフィルの金よりも少なくする。

 黙示録を読んでください、6章から地上での患難が始まりますが、地上の四分の一が殺されること(6:8)、水が苦くなったので多くの人が死ぬこと(8:11)、恐ろしい軍隊がその軍馬の口から火が出るので、それによって人類の三分の一が死ぬこと(9:18)、激しい太陽光線によって人々が焼かれること(16:8)などが書かれています。それによって全世界の人口が激減するのです。

3D 天変地異 13−16
13:13 それゆえ、わたしは天を震わせる。万軍の主の憤りによって、その燃える怒りの日に、大地はその基から揺れ動く。

 天変地異は、天も地もその基から揺れ動くほどの大規模なものです。ヘブル人への手紙12章で著者は、シナイ山に主が降りて来られた時、地が揺れましたが、ハガイ書の預言を引用してこう言っています。「あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。『わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。』この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。(ヘブル12:26-27

 そしてヘブル書の著者は、「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。(12:28」と言っています。この地の基が揺れ動いても、なお残っている御国を私たちは受け継いでいます。使徒ヨハネも同じように、「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者はいつまでもながらえます。(1ヨハネ2:17」と言いました。

13:14 追い立てられたかもしかのように、集める者のいない羊の群れのようになって、彼らはおのおの自分の民に向かい、おのおの自分の国に逃げ去る。

 バビロンが滅びるとき、そこには数多くの国民がいました。世界の帝国ですから、いろいろな国の人がその便益を享受していました。終わりの時のバビロンも、諸国の王と淫行を行なっている淫婦として描かれています。

13:15 見つけられた者はみな、刺され、連れて行かれた者はみな、剣に倒れる。13:16 彼らの幼子たちは目の前で八裂にされ、彼らの家は略奪され、彼らの妻は犯される。

 本当に悲惨な形で殺されることが預言されています。私たちは先進国の、社会の安定したところに生きていますから、戦争で起こる悲惨な出来事を対岸の火事として受け止めているでしょう。けれども聖書は、バビロンの庇護の中で安定して生きていた人たちがむしろ、このような悲惨な目に遭うことを教えています。これは昔の話でもなく、世界のほかの地域の話でもなく、平穏な暮らしをしている私たちに起こる話なのです。

2B メディヤ人 17−22
1C バビロンの崩壊 17−19
13:17a 見よ。わたしは彼らに対して、メディヤ人を奮い立たせる。

 イザヤがこの預言を行なったのは、もう少し先を読むとおそらくアハズ王が死んだ年であることが分かります。1428節です。アハズが死んだのは紀元前715年ですが、メディヤ人がバビロンを倒したのは539年です。したがって、イザヤは約130年前にこの預言を行なったことになります。

 預言というのは、こういうものなのです。イザヤ書には、預言の重要性を主ご自身が唱えておられます。イザヤ書の後半において、主が、数ある偶像に対して挑みかかっておられます。例えば4123節です。「後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。」あえて具体的な事象を、前もって預言者に告げさせることによって、主はご自分がまことの神であることを証しされておられるのです。

 ですから預言は、永遠の神が存在することの非常に強力な弁証であります。私たちは、神を信じないこの世に、確信をもって、大胆に、これから世界で起こることを告げることができるのです。そのようにして、私たちの神が生きておられることを、将来に不安を感じて占いをしている人や、経済指標や、世界の読み解きに拠り頼んでいる人々に訴えることができるのです。

13:17b彼らは銀をものともせず、金をも喜ばず、13:18 その弓は若者たちをなぎ倒す。彼らは胎児もあわれまず、子どもたちを見ても惜しまない。

 メディヤ人がバビロンを倒した時に行なった行ないです。バビロンが誇っていた金銀によって彼らをなだめることはできませんでした。金銀に頼る人々は、それによって全てを動かすことができると考えますが、主はメディヤ人を通してそのようにはさせなかったのです。

13:19 こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。

 ソドムとゴモラは完全に、一挙に滅ぼされました。同じようにバビロンも滅びるということです。

2C 永久の廃墟 20−22
13:20 そこには永久に住む者もなく、代々にわたり、住みつく者もなく、アラビヤ人も、そこには天幕を張らず、牧者たちも、そこには群れを伏させない。

 バビロンが永久の廃墟となることの預言です。ペルシヤ人クロスがバビロンの町を陥落させたとき、彼は町を滅ぼしませんでした。ギリシヤのアレキサンダー大王もペルシヤに打ち勝った後、この町を使いました。けれども少しずつ廃れてゆき、紀元後三世紀には完全な廃墟となりました。

 興味深いことに、バビロンの町を再建しようとした人が最近います。イラクの元大統領、サダム・フセインです。けれども彼もこれを完成させることなく、世を去ったのです。バビロンを再建していた時、アラブ人のベトウィンはそこに入ろうとしませんでした。理由は、悪霊がそこをすみかとしているから、ということです。次の21節「野やぎ」は悪霊と訳すことができる言葉です。さらに黙示録182節にも、バビロンが悪霊の住まい、とあります。

13:21 そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。13:22 山犬は、そこのとりでで、ジャッカルは、豪華な宮殿で、ほえかわす。その時の来るのは近く、その日はもう延ばされない。

 これは歴史上のバビロンにおいても実現したし、これから起こる世の終わりのバビロンにおいても実現します。千年王国において、バビロンの町だけは回復せず完全な荒廃地として残っていることでしょう。

 このように突如として、そして完全な形で、永遠に滅びるのが世の制度です。とすれば、私たちはどのように生きなければいけないでしょうか?ペテロはこう言いました。「また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。(1ペテロ1:17」恐れかしこむ生活です。主がこの世を裁かれることを知りつつ、恐れかしこんで生きることです。私たちはいつも、この、良い意味での緊張感を持ちながら生活しなければいけません。

2A 永久の滅び 14
 そして次は、この地上だけではなく、地下、つまり陰府にまで至る神の裁きを読みます。

1B ヤコブの憩い 1−2
14:1 まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、ヤコブの家に加わる。

 覚えていますか、前回の学び11章において世界に散らされていたイスラエルの民が、約束の地に再び集められることが預言されていました。これはこの世の制度であるバビロンが滅び、主が来られて神の国を建てられる時に起こります。

14:2 国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。

 主が戻ってこられて御国を建てる時は、世界中の国民もまた主をあがめ、礼拝するようになることを私たちは読んできました。これまでイスラエルを虐げてきた国々も、今やイスラエルの神を認めるようになったので、回復したイスラエルの支配下で生きることを、自ら求めるようになります。

 イエス様は山上の垂訓にて、「へりくだった者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5」と言われました。これまで虐げられてきた人たちが、神の国において支配する立場に置かれます。このときの支配は、いわゆる仕返しをするような虐げではありません。恵みと憐れみに満ち、柔和さに裏付けられたところの支配です。私たちも、柔和な人が指導者であればその人の支配の中に入りたいと自ら願うでしょう。そのような支配です。

2B 嘲りの歌 3−23
1C 虐げる者 3−8
14:3 主が、あなたの痛み、あなたへの激しい怒りを除き、あなたに負わせた過酷な労役を解いてあなたをいこわせる日に、14:4 あなたは、バビロンの王について、このようなあざけりの歌を歌って言う。「しいたげる者はどのようにして果てたのか。横暴はどのようにして終わったのか。14:5 主が悪者の杖と、支配者の笏とを折られたのだ。14:6 彼は憤って、国々の民を打ち、絶え間なく打ち、怒って、国々を容赦なくしいたげて支配したのだが。

 バビロンの王に対しての歌なのですが、バビロンの王はすでに死んでいます。けれども、彼に歌をうたうというのはどういうことでしょうか?そうです、死んだ後にも意識がある、ということです。「死んだらそれで消滅するだけだ」と信じている人たちが実に多いです。けれども、イエス様がラザロと金持ちことを話されたように、死後の世界が厳然としてあるのです。しかも、自分が地上で行なったことにしたがって、その報いを死後に受けるのです。

14:7 全地は安らかにいこい、喜びの歌声をあげている。14:8 もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』

 非常に興味深いですね、自然が、木や杉が言葉を話しています。ナルニア物語にて、自然や動物が言葉を話す場面がたくさん出てきますが、実は比喩的な表現としてそれは聖書的に正しいのです。主は自然界に対しても、ご自分の命と意思を吹き込まれています。

 そしてここでは、バビロンが侵略するために、木々をなぎ倒しながら前進したことを話しています。必要な木材を得るために切り倒すのではなく、暴力的になぎ倒していきました。今日、国々が命ある自然を暴力的に破壊していくことに対して、神が怒りを発しておられることは間違いありません。

2C 下界の陰府 9−11
 そして次に非常に興味深い、バビロン王の描写があります。

14:9 下界のよみは、あなたの来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こし、国々のすべての王を、その王座から立ち上がらせる。14:10 彼らはみな、あなたに告げて言う。『あなたもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になってしまった。』14:11 あなたの誇り、あなたの琴の音はよみに落とされ、あなたの下には、うじが敷かれ、虫けらが、あなたのおおいとなる。

 下界の陰府です。そこには地上のすべての指導者の霊がいます。バビロンの王がやって来たら彼らがみな蠢いて、集まってくる様子が描かれています。バビロンが支配し、従わせてきた国々です。支配され、圧迫を受けながらも、かつバビロンの富に寄り添っていた国々です。

 終わりの時のバビロンは大淫婦が数多くの王たちと淫行を行なっています。そしてバビロンが獣である反キリスト率いる世界の連合軍によって滅びます。そして反キリストと世界の軍隊は、再臨のキリストによって滅ぼされます。その反キリストの行き先は、黙示録1920節によると硫黄の燃える火の池です。

 バビロンの王が下界の陰府に下って、世界の王たちに迎え入れられたように、終わりの時に世界を牛耳る反キリストもその死後、燃える苦しみの中で世界の指導者らに迎え入れられることでしょう。

3C ルシファー 12−15
 さらに次に、バビロンの王の背後に働いていた霊、ルシファーが登場します。

14:12 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。

 ここの「明けの明星」がルシファーです。私たちは世界で起こっていることについて正しい世界観を持たなければいけませんが、世界の国々など、大きな権威と位、力を持っているものの背後には、目に見えない力ある勢力がいる、ということです。ダニエル書10章には、ペルシヤの君、ギリシヤの君などが出てきます。あの巨大な大国を動かしていたのは、堕落した天使が国の背後に働いていたからです。

 ですからここで明らかなのは、バビロンの王の背後に働いていたのは、悪魔であったこということです。終わりの時に反キリストが現れますが、彼は悪魔の位、権威、力をみな受けて活動します(黙示13章)。バビロンがあれだけ残虐なことができたのは、その背後に反キリストと同じ悪魔がついていたからです。

14:13 あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。

 「神の星々」というのは天使のことです。「北の果てにある会合の山」というのは、天の御座のことです。エゼキエル書1章に、神の御座の回りで仕えているケルビムが、北からやって来ています(1:4)。

14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』

 これがサタンの高ぶりであり、神のようになりたいという欲望が彼を滅ぼしました。サタンがエバに、「これを食べれば、神のように賢くなる」という惑わしを与えたのも、そのためです。

 私たちはその罪の性質に、高ぶりがあります。神のようになりたい、つまり独立して、自分の判断で、自分の知恵で動きたいという高ぶりがあります。イエス様を信じていない人は、自分を信じて、自分で生きていくことは当然のことであると信じていますが、それはそのまま悪魔から来ている考えです。

 信仰者はそうは考えませんが、それでも試されます。自分に理解できないことが起こるとき、自分だったらこうやるのに・・・とじれったくなり、神が行なわれていることに反抗したくなる誘惑があります。主に拠り頼め、己の悟りに頼るな、というのが私たちへのソロモンの勧めです。このようなへりくだりにこそ、私たちが神のかたちに造られた元の姿があります。

14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。

 反キリストは、生きたまま硫黄の燃える火の池に投げ込まれますが、悪魔は千年の間、底知れぬ所に鎖でつながれます。千年の後に、鎖が解き放たれますが、すぐに滅ぼされ、反キリストと同じゲヘナに投げ込まれます。

4C 投げ出される屍 16−23
14:16 あなたを見る者は、あなたを見つめ、あなたを見きわめる。『この者が、地を震わせ、王国を震え上がらせ、14:17 世界を荒野のようにし、町々を絶滅し、捕虜たちを家に帰さなかった者なのか。』

 これは死者の霊としてのバビロン王ではなく、屍に対する言葉です。次を読むと分かります。

14:18 すべての国の王たちはみな、おのおの自分の墓で、尊ばれて眠っている。14:19 しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。14:20a あなたは墓の中で彼らとともになることはない。

 王は大きな尊厳を受けて葬られますが、バビロンの王はそうではないことをイザヤは預言しています。興味深いのは、まことの王の王であられるキリストは、根株から生えてくる若枝として、命ある、実を結ぶところの若枝として描かれていますが、バビロンの王は捨てられる若枝として描かれています。

14:20bあなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。悪を行なう者どもの子孫については永久に語られない。14:21 先祖の咎のゆえに、彼の子らのために、ほふり場を備えよ。彼らが立って地を占領し、世界の面を彼らの町々で満たさないためだ。」

 バビロンの王自らが死ぬだけでなく、その子孫も断ち滅ぼされます。

14:22 「わたしは彼らに向かって立ち上がる。・・万軍の主の御告げ。・・わたしはバビロンからその名と、残りの者、および、後に生まれる子孫とを断ち滅ぼす。・・主の御告げ。・・14:23 わたしはこれを針ねずみの領地、水のある沢とし、滅びのほうきで一掃する。・・万軍の主の御告げ。・・」

 イスラエルの子孫と比べてみてください。彼らは神に裁かれますが、必ず残りの民の約束があります。また彼らは、約束の地から引き抜かれますが、またそこに戻ってきます。しかしバビロンは神に裁かれたら、一人の子孫も残りません。そしてその地は回復の余地はまったく残されていません。

 これが世の悲しみと、神による私たちの悲しみの違いです。世の悲しみは死をもたらします。ちょうどイスカリオテのユダが自殺したように、悔い改めのない心には死しかありません。けれども、私たちが神に裁かれるとき、それは悔い改めを生じさせます。確かに痛く、悲しいです。損失をもたらします。しかし、残されたところから新たな命が生じます。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント人7:10

3B 打たれるアッシリヤ 24−32
 そして預言は、差し迫った状況、アッシリヤがユダを滅ぼそうとしているところに戻ります。アッシリヤは、バビロンによって滅ぼされるのですが、今はそれよりも前、まだまだアッシリヤが勢いづいている時です。

1C 主のご計画 24−27
14:24 万軍の主は誓って仰せられた。「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。14:25 わたしはアッシリヤをわたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける。アッシリヤのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる。14:26 これが、全地に対して立てられたはかりごと、これが、万国に対して伸ばされた御手。14:27 万軍の主が立てられたことを、だれが破りえよう。御手が伸ばされた。だれがそれを引き戻しえよう。」

 これは、ヒゼキヤがユダの王であったとき、アッシリヤ軍がエルサレムのスコパス山までやってきて、エルサレムを包囲したときの話です。「わたしの国で打ち破り、わたしの山で踏みつける」というのは、そのスコパス山の上で軍隊を滅ぼす、ということです。

 そして主は、このことについて「必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの計ったとおりに成就する。」と言われました。そして、アッシリヤだけでなく、バビロンも、世界中の国々も、ご自分が立てたはかりごとは誰も破ることはできない、と言われています。

 だから、私たちは主のご計画に拠り頼むことができるのです!主が考えたとおりに、主が計ったとおりに必ず成就します。聖書の言葉、約束の言葉を一つ一つ、必ず起こるものとして受け入れましょう。

2C 殺されるペリシテ 28−32
14:28 アハズ王が死んだ年、この宣告があった。14:29 「喜ぶな、ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折られたからと言って。蛇の子孫からまむしが出、その子は飛びかける燃える蛇となるからだ。

 アッシリヤに対してだけでなく、小さな国民ペリシテに対しても、主はおっしゃりたいことがあります。ペリシテ人はいつもイスラエルの敵でした。士師記のところで、サムソンが戦ったのはペリシテ人でしたね。サムエル記第一、第二にも登場しますし、イスラエルの歴史を通じてペリシテ人はイスラエルを叩くことしか考えていませんでした。

 そして今、アハズが死にます。この頃に北イスラエルは滅びます。またユダも多くの町が占領されます。それで彼らは喜びます。基本的に彼らは弱小な民族でした。イスラエルを憎んでいましたが、力関係ではイスラエルに負けていました。それで、ちょうど学校で、喧嘩に弱い奴が、喧嘩に強い人が転校なり、退学なりで学校を去ったときに、「いなくなった、ざまあ見ろ!」と憎しみの込めた喜びの叫びを挙げるのと同じです。ペリシテも、イスラエルが折られて、ユダが折られることを喜んでいたのです。

14:30 寄るべのない者たちの初子は養われ、貧しい者は安らかに伏す。しかし、わたしは、おまえの子孫を飢えで、死なせる。おまえの残りの者は殺される。14:31 門よ、泣きわめけ。町よ、叫べ。ペリシテの全土は、震えおののけ。北から煙が上がり、その編隊から抜ける者がないからだ。

 ペリシテは、701年アッシリヤによって倒れました。バビロンと同じく、残りの民もおらず、完全に滅ぼされます。

 興味深いことに、民族的には違いますが、同じ名前を使っている人々が現在います。パレスチナ人です。「パレスチナ」という言葉は、「フィリスチナ」つまり「ペリシテ」から由来しています。彼らはペリシテ人がかつて住んでいた同じガザ地区にいます。そして絶えず、イスラエルの弱みをつかもうと躍起になっています。今も、イスラエルが撤退したそのガザ地区からイスラエルの領土にミサイルを撃ち込んでいます。けれども、神からの厳粛な警告を聞かなければいけません。

14:32 異邦の使者たちに何と答えようか。『主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。』」

 アッシリヤに対抗するために、おそらくペリシテは使者をヒゼキヤに送ったのでしょう。そこでヒゼキヤの回答は、人でも国でもなく、主が私たちの礎であり、避け所であるという答えを与えます。

 お分かりになられたでしょうか、諸国の民に対する神の裁きとイスラエルとユダに対する神の裁きには大きな違いがあることを。彼らには完全な破壊があります。けれども神の民には懲らしめはありますが、回復があります。私たちはどちらに属しているでしょうか?世でしょうか?それともキリストでしょうか?


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