イザヤ書15−17章 「イスラエルの隣にいて」

アウトライン

1A モアブの泣き叫び 15−16
   1B 領土全体 15
      1C 全住民 1−4
      2C 主ご自身 5−6
      3C 逃れる者 7−9
   2B 収穫の喪失 16
      1C シオンへの逃れの道 1−5
      2C 高慢による破滅 6−14
2A ダマスコの破壊 17
   1B 衰えるイスラエル人の栄光 1−11
      1C 廃墟の町 1−3
      2C わずかに残される者 4−6
      3C まことの神の忘却 7−11
   2B 略奪者の分け前 12−14

本文

 イザヤ書15章を開いてください、今日は15章から17章までを学んでみたいと思います。今日のメッセージ題は「イスラエルの隣にいて」です。

 前回のおさらいをしましょう。13章から、イスラエルとユダの周辺諸国に対する主の宣告が始まっています。まず、初めにはバビロンに対する主の宣告があります。バビロンに対する主の御思いは、完全な破壊と永遠の滅びです。なぜなら、神の民であるイスラエルを奴隷にして、自分を神の座に置こうとしたからです。その背後にはサタンが働いていました。

 そして14章の最後に、アッシリヤの国への神の裁きが書かれています。主は、ユダの国を「わたしの国」と呼び、エルサレムを傍観できるスコパス山を「わたしの山」と呼ばれました。そこで、アッシリヤのくびきと重荷をあなたがたから取り除くと主は約束されました。

 そしてペリシテに対する主の宣告です。ここで、私たちは当時の切迫した状況についてもう一度、把握しなければいけません。その時代、アッシリヤという強大な国がイスラエルとその周辺地域をことごとく飲み干していこうとしていた時期でした。

 アッシリヤはニネベという、今のイラクの北部にある町を首都として南のバビロンを中心に、その支配を拡張していきました。大きくはなってきたのですが、しばらくの間、イスラエルとその周辺地域にはさほど脅威にはなっていませんでした。したがって、イスラエルとペリシテ、イスラエルとモアブ、イスラエルとシリヤなど、それぞれが小競り合いの戦いを行なっていたのです。ペリシテも、モアブも、シリヤもサウル、ダビデの時代から、いや、ペリシテは士師の時代から、モアブはモーセの時代から戦ってきた間柄です。

 けれども、今、まったく新しい時代に入っています。自分たちが猫や犬だったら、熊やライオンみたいな、どでかい存在が自分たちを襲おうとしていたのです。そこでその地域の間に、連合の動きが起こってきました。互いに連合してアッシリヤに対抗しようとする外交活動、軍事行動が起こってきたのです。

 その中でペリシテ人がいます。彼らはいつも小さな存在でした。隣国のイスラエルに頼りながら、なおかつイスラエルが持っている物を機会があれば奪い取ろうとするしつこい存在でした。したがって、北イスラエルの国がアッシリヤに飲み込まれた時、彼らは喜びました。そしてアッシリヤがさらに南下しているときに、彼らはユダに使者を送り、連合して戦うことを持ちかけました。しかし、ユダはきっぱりと断り、14章の最後を読むと、「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」と言ったのです。

 この周辺地域の学びをする時に興味深いのは、現代の中東情勢にも見ることができる流れにそっくりであり、聖書時代に持っていた諸民族の特性は今も変わっていないことです。また将来、主が再臨される直前の、終わりの時の姿をも描いていることです。現代の情勢で言うならば、イスラエルがガザ地区を撤退しました。そうしたら、パレスチナ人の選挙により代表者はハマスになり、ガザ地区はハマスの支配下に入りました。それからハマスはガザ地区から周辺のイスラエルの町々にロケットを発射し始めたのです。自分たちはイスラエルに頼りながら、なおかつイスラエルを憎み、そしてイスラエルが弱みを見せたときに攻撃してくるというしつこさは、今も聖書の時代も変わらないのです。

 霊的にはどうでしょうか?私たちの霊的な生活に当てはめると、私たちにしつこく付きまとう、肉の思いです。私たちが主との交わりが揺らいでくると、過去の罪の生活がにょきにょきと思いの中によみがえってきます。そして自分の生活を支配しようとします。もう断ち切ったと思っても、機会を捕えて私たちを攻撃してくるのが、肉の思いです。

 当時の状況の話に戻りますと、アッシリヤはどんどん南下しました。けれどもユダの中心部は、滅ぼすことはできませんでした。けれどもその周辺地域、ユダの西にあるペリシテ人の地域、そして東にあるモアブの地域、そして南のアラビヤ、さらにエジプトとエチオピヤまでその支配を及ぼしました。アッシリヤの地図を見ると、非常に興味深いことを発見します。アッシリヤが膨らまし粉を入れたパンのようにどんどん膨張する姿を見ることができるのですが、ユダの地域だけが、ぽつんとその支配を受けておらず、大海の孤島のように残っているのです。なぜか?先ほど読んだ14章最後の言葉、「主はシオンの礎を据えられた。主の民の悩む者たちは、これに身を避ける。」ことを行なったからです。

1A モアブの泣き叫び 15−16
 そこで、モアブに対する宣告があります。アッシリヤが北イスラエルを滅ぼしました。そしてさらに南下したした時、アッシリヤはモアブを通過しました。けれどもただ歩いて過ぎ去ったのではありません。略奪を行ない、あらゆる町々をひどく荒らして過ぎ去ったのです。その様子をイザヤは預言しています。

1B 領土全体 15
1C 全住民 1−4
15:1 モアブに対する宣告。ああ、一夜のうちにアルは荒らされ、モアブは滅びうせた。ああ、一夜のうちにキル・モアブは荒らされ、滅びうせた。

 ここで強調されているのは、「一夜のうちに」です。一夜のうちに、荒らされ、滅ぼされたことを、「ああ」と言って嘆いています。突然なくなることについては、イエス様の例え話の中に金持ちが、神様から、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。(ルカ12:20」と言われる所がありましたね。そして、主の日は盗人のように来て、突如として滅びが襲いかかると、パウロはテサロニケ人に言いました(1テサロニケ5:23)。同じように、バビロンの都も、一日のうちに滅ぼされて、バビロンによって利益を得てきた王や商人などが、「ああ」と言って嘆いている姿が、黙示録18章に描かれています。モアブも、同じ喪失感を味わっているのです。

15:2 モアブは宮に、ディボンは高き所に、泣くために上る。ネボとメデバのことで、モアブは泣きわめく。頭をみなそり落とし、ひげもみな切り取って。

 ディボンは、モアブ人の神ケモシュが祭られている町ですが、彼らが自分たちの宗教に自分の安寧と繁栄を頼っていた様子が伺われます。彼らが拝んでいた神も、彼らを救うことができなかった姿をここで見ることができます。

 そして頭を剃り落とし、髭を切り取るという行為を行なっていますが、嘆きや悲しみを表現するときにこれを行ないました。彼らにとって頭の毛、そして男性にとって髭はその人の威厳や栄誉の象徴でしたから、それを切り取ることによって自分たちの面子が丸つぶれになったその悲しみを表現したのです。

15:3 そのちまたでは、荒布を腰にまとい、その屋上や広場では、みな涙を流して泣きわめく。

 ちまた、また屋上や広場でも泣き叫びが聞こえるのですが、アッシリヤの侵略が非常に徹底的であった様子が伺われます。戦争をするときに、戦場が一部に限られていて一般市民はさほど被害を受けていない場合が多いですが、そうでない場合もありますね。

 アッシリヤはその残虐な手法で有名です。一つの地域に自分の支配を拡大させる時、そこを制圧するのではなく、文字通り破壊してしまいます。そして反抗する民に恐怖を呼び起こすために、残虐な方法で殺し、いや殺さないで、人体の一部を切り取ってその恐怖を味わわせる方法を使いました。

15:4 ヘシュボンとエルアレは叫び、その叫び声がヤハツまで聞こえる。それで、モアブの武装した者たちはわめく。そのたましいはわななく。

 ヘシュボンとエルアレは、モアブの北にある町々です。ヤハツはさらに北にあります。アッシリヤが北から攻めてきて、その境界線が打ち破られたことを武装した者たちがわめき、泣いているのです。

2C 主ご自身 5−6
 そして次に実に興味深い事実が書かれています。それはモアブ人の泣き叫びに、主ご自身が一つになられていることです。

15:5わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。

 モアブはもちろん神の契約の民ではありません。そしてモアブは、ペリシテ人と同じように機会があればイスラエルを攻撃した民です。事実、4節で読んだヘシュボンとエルアレ、ヤハツは、もともとルベン族、ガド族の町々でアッシリヤが彼らを捕え移した後にそこを自分のものとしました。にもかかわらず、主は今、モアブの泣き叫びに同情しておられます。同情するだけではなく、一緒になって泣いておられます。

 どうしてでしょうか?第一義的に、神はご自分の造られた民を、契約の民でなくとも愛しておられるからです。これだけ残虐なことをしたアッシリヤの民でさえも、ヨナ書を読むと、主は彼らを愛されて、彼らが滅びることを望んでおられなかったことが分かります。モアブ人も主が造られた民です。主は異邦人をも愛しておられます。

 そしてモアブ人はご自分が造られたということだけでなく、ユダヤ人の遠い、そして近い親戚です。その始祖モアブは、アブラハムの甥ロトから生まれた子です。さらに、ダビデは八分の一、モアブ人の血が入っています。そうです、曾おばあさんがモアブ人のルツです。事実、ダビデがサウルから逃げている時に、モアブ人の王に自分の父母を託しました。

 このようにユダヤ人と関係がある、ユダヤ人の近くにいるということだけで、主は憐れみの心を持っておられることが分かります。私たちクリスチャンの場合に当てはめてみましょう。私たちの周りに不信者がいます。特に肉の家族は一番近い存在ですね。そして自分の友人、知人、学校や職場の人がいます。彼らが多かれ少なかれ、クリスチャンに出会い、何となくキリスト教や教会のことについても聞いています。

 主がそのような人々に対する思いは、モアブに対する思いと同じなのです。神の所有の民となっているクリスチャンのそばにいて、何らかの関係を持っているということだけで、主は彼らに憐れみの思いを持っておられます。

 私たちは、そのような人からある時には無視され、また嫌なことをされることもあるでしょう。けれども彼らが罪の中で滅びるのを神は一番願っておられません。滅びるなら、モアブ人にために泣き悲しまれたように、その人々のためにも泣き悲しまれているのです。

15:6 ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。15:5 わたしの心はモアブのために叫ぶ。その逃げ延びる者はツォアルまで、エグラテ・シェリシヤまでのがれる。ああ、彼らはルヒテの坂を泣きながら上り、ホロナイムの道で、破滅の叫びをあげる。15:6 ああ、ニムリムの水は荒廃した地となり、草は枯れ、若草も尽き果て、緑もなくなった。

 5節に出てきた町々、そしてここに出てくる地名はみな死海の南の端の部分です。つまり北から侵入してきたアッシリヤから避難する民が今、南に来ているということです。

 アッシリヤが他の土地を侵略するときに使った方法の一つに、水源を塞いでしまうことがあります。ニムリムの水を塞いだので、彼らの水がなくなり、またその地域の草木を枯らしていきました。

3C 逃れる者 7−9
15:7 それゆえ彼らは、残していた物や、たくわえていた物を、アラビム川を越えて運んで行く。

 避難民は政治的難民になろうとしています。モアブ国内から国外へ逃げようとしています。

15:8 ああ、叫ぶ声がモアブの領土に響き渡り、その泣き声がエグライムまで、その泣き声がベエル・エリムまで届いた。

 エグライムからベエル・エリムというのは、ちょうどイスラエルの「ダンからベエル・シェバ(士師20:1等)」と同じ意味で使われているのでしょう。北から南まで全土が、という意味です。

15:9 ああ、ディモンの水は血で満ちた。わたしはさらにディモンにわざわいを増し加え、モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。

 ディモンは、先ほど出てきたケモシュが祭られている場所です。彼らが自分たちの神の前で虐殺されたことを意味しています。

 そして「水は血で満ちた」という表現は、かつてイスラエルがモアブと戦うときのことを想起させる表現となっています。イスラエルがモアブと戦うときに、主が溝に水を与えてくださいました。そしてモアブ人にはそれが、朝日の光で血のように見えました。彼らは同士討ちをしていて、その血が流れていると思って攻めにいって、イスラエルが彼らを打ったことがあります(2列王3:427)。

 そしてここで注目していただきたいのは、その避難民と国内の残りの民に獅子を向けるのは、他でもない神ご自身だ、ということです。アッシリヤが徹底的にモアブを荒らすのを許されたのは、神ご自身だということです。

 ここに主の聖い怒りが表れています。主の憐れみと主の聖さは相矛盾するものではありません。主は、ご自分の聖なる性質のゆえに、滅ぼさなければいけないものを滅ぼされますが、その憐れみのご性質のゆえにその滅びを酷く悲しまれます。神様のこの心を私たちも知らなければいけません。裁かなければいけないものは裁かなければいけません。けれどもその裁きを喜ぶのではなく、むしろ悲しむのが神のお心です。

2B 収穫の喪失 16
 そして16章に、主がモアブに逃れの道を設けようとされている預言を読むことができます。

1C シオンへの逃れの道 1−5
16:1 子羊を、この国の支配者に送れ。セラから荒野を経てシオンの娘の山に。

 今、モアブから国外に人々が逃げようとしています。そこで主はモアブに、ユダに、そしてエルサレムに助けを求めよ、と呼びかけておられます。

 ダビデがモアブを制圧して以来、モアブは貢ぎ物をイスラエルに納めていました。そして羊を貢ぎ物として収めていた時がありました。けれどもイスラエルの王アハブが死ぬと、モアブの王は背きました。けれども今、再び羊を送れ、と主がモアブにおっしゃっているのです。

 そして、「この国の支配者に送れ」と言っています。当時のユダの支配者はおそらくヒゼキヤ王でした。彼は、まことの神、主にアッシリヤの脅威から救ってくださるように祈っていました。先ほどペリシテからの使者に対して、「シオンに主が礎を据えられた」とありましたね。だから、この国の支配者というのは、ヒゼキヤというよりも、シオンの山におられる主ご自身、メシヤのことを指しています。

 「セラ」というのは、死海の南東に広がる荒野のところです。今、モアブ人がそこにいるのでそこからシオンの山、エルサレムに助けを求めなさい、と言っています。

16:2 モアブの娘たちはアルノンの渡し場で、逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになる。

 アルノンは、モアブから死海に流れる川です。ユダのほうに逃げようとしても死海によって阻まれています。だから、絶体絶命です。逃げ惑う鳥、投げ出された巣のようになっています。そこで主は、モアブの中に隠れ場を設けてくださいます。

16:3 助言を与え、事を決めよ。昼のさなかにも、あなたの影を夜のようにせよ。散らされた者をかくまい、のがれて来る者を渡すな。

 ここの「昼の最中にも、陰を夜のようにせよ」というのは、気づかれないようにしなさい、という意味です。散らされた者、逃れた者が見つからないように、静かにしていなさいということです。

16:4a あなたの中に、モアブの散らされた者を宿らせ、荒らす者からのがれて来る者の隠れ家となれ。

 ここの訳は、「わたしの散らされた者を、モアブよ、あなたの中に宿らせよ」としたほうが良いです。モアブの中に散らされた者、逃れている者を宿らせよ、ということです。

16:4bしいたげる者が死に、破壊も終わり、踏みつける者が地から消えうせるとき、16:5 一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。

 虐げる者、荒らす者はアッシリヤの王ですね。彼が消えうせます。主が消え失せてくださいます。その時、ダビデからのメシヤが立て上げられ、王となり君臨される、という預言です。

 ここの箇所は、実は当時の状況を越えて、終末における非常に重要な出来事を描いている箇所になります。今、モアブがアッシリヤに踏み荒らされている預言として説明しましたが、聖書の他の箇所と照らし合わせると、それ以上の意味があります。

 キリストが王として地上に戻ってこられる時、主はエルサレムのオリーブの山に立たれます(ゼカリヤ14:4)。けれども主は、天から一直線にエルサレムに向かわれるのではなく、死海の南東地域、モアブまたエドムの地域に行かれることが預言されています。

 イザヤ書34章には、こう書かれています。「天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。主の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。主がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。」ここですね、ボツラに行かれます。現代のヨルダンにペトラという町がありますが、そこへ行く道にボツラがあります。「野牛は彼らとともに、雄牛は荒馬とともに倒れる。彼らの地には血がしみ込み、その土は脂肪で肥える。それは主の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年である。5-8節)」シオンの訴え、つまりユダヤ人を襲う敵に対して戦われる時、主は天からボツラへ向かわれるのです。

 そしてイザヤ書63章1節を読みます。「『エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。』『正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。』」天からまずボツラへと向かい、ユダヤ人の敵、また神の敵と戦われ、そのために着物が真っ赤に染まっているのです。そしてゼカリヤ書1210節を読むと、エルサレムの住民に主が現れて、彼らを救ってくださることが書かれていますが、ボヅラのほうからエルサレムへと向かい、その間ずっと敵と戦われることが分かります。

 これがハルマゲドンの戦いです。世界の軍隊がイスラエルのメギドに集まってくるのですが、その戦いの場は、最終的にモアブとエドムの辺りからエルサレムにまたがる広域であることが分かります。黙示録14章の最後を読みますと、主が怒りの酒ぶねを踏まれる時に、その血が1600スタディオンに広がる、とあります。1600スタディオンは約300キロメートルですが、これがまさにボツラの地域からエルサレムまでの距離と一致しているのです。

 ではなぜ主はまず、ボツラのほうに行かれるのでしょうか?先ほど、シオンの仇する者に復讐されるとありましたが、そこにユダヤ人がいるからです。主が十字架につけられる直前、オリーブ山で弟子たちに世の終わりについて語られた時に、主は「逃げなさい」と命じられましたね。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。(マタイ24:15-16」ユダヤから山に逃げる、というのは、西でもなく南北でもなく、死海のほうに広がる荒野の山々のことです。

 そして黙示録12章を読みますと、イスラエルを意味している女を悪魔である竜が追いかけている場面があります。「自分が地上に投げ落とされたのを知った竜は、男の子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は大わしの翼を二つ与えられた。自分の場所である荒野に飛んで行って、そこで一時と二時と半時の間、蛇の前をのがれて養われるためであった。」ここです、荒野に飛んでいった、とありますが、先ほどのイエス様の命令と同じです。

 そして、「ところが、蛇はその口から水を川のように女のうしろへ吐き出し、彼女を大水で押し流そうとした。しかし、地は女を助け、その口を開いて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。(以上13-16節)」荒野に逃れたユダヤ人たちは、そこで悪魔また反キリストによる攻撃から、かろうじて守られるという約束です。

 その地域がモアブであり、ここイザヤ16章にあるモアブへの預言は、アッシリヤから逃れるために主が隠れ場を設けてくださるという約束だけではなく、荒らす憎むべき者、反キリストから避ける場所として、主がユダヤ人のために設けてくださるところの預言でもあるのです。

 ダニエル書11章の最後に、反キリストが世界戦争を起こし暴れる預言がありますが、「彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。(41節)」とあります。

2C 高慢による破滅 6−14
16:6 われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりとおごり、その自慢話は正しくない。

 モアブは、今読んだ、主が設けてくださる逃れの道を拒みます。再び、羊を送れ、という命令に聞き従おうとしません。長年のことイスラエルにこびへつらってきて、ようやくくびきが取れたと思ったのに、なぜユダに自分の身を低くしなければいけないのか、という思いがあります。

 主は、モアブが高ぶっていることを、この節で何度も繰り返しておられます。「高ぶり」を聞いた。実に「高慢だ」。その「誇りと高ぶりとおごり」そして「自慢話」と言っていますが、具体的には何を自慢していたのでしょうか。

16:7 それゆえ、モアブは、モアブ自身のために泣きわめく。みなが泣きわめく。あなたがたは打ちのめされて、キル・ハレセテの干しぶどうの菓子のために嘆く。16:8 ヘシュボンの畑も、シブマのぶどうの木も、しおれてしまった。国々の支配者たちがそのふさを打ったからだ。それらはヤゼルまで届き、荒野をさまよい、そのつるは伸びて海を越えた。

 モアブは、ぶどうを始めとする農作物で豊かなところでした。それを自慢していたのです。そしてその豊かさが彼らを高慢にして、シオンを礎とされている主に拠り頼む必要はないと考えました。

 エレミヤ書に、再びモアブに対する主の預言があります。その時は、アッシリヤではなくバビロンによって荒らされる預言です。荒らされる、というよりも、ユダヤ人と同じように捕囚の民になる預言ですが、次のように書いてあります。「モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。(48:11

 ぶどう酒がある程度、その新鮮度を保つために、器から器へと移さなければいけません。けれども、移さなければかすが溜まります。モアブの同じようであった、というのです。モアブの持っていた高ぶりは、いつまでも変わらず安定していたところにありました。

 彼らの姿は、まさに日本のようであります。日本も安定した社会です。島国のおかげで、外敵からの攻撃は非常に少なかったです。唯一、太平洋戦争で空襲と原爆に遭い、大変な思いをしましたが、経済が成長し、再び安定した社会を取り戻しました。

 この日本でも不安定な時期がありました。室町時代が終わり、明日どうなるか分からない戦国時代に入りました。しかしその時、カトリックですが、日本のキリスト教史において唯一の全国的な霊的覚醒がありました。一般庶民の中でも信者が急増したのです。

 日本人にキリストを信じる人が少ないのは、このモアブが持っていた高ぶりがあるからです。わざわざ主に拠り頼む必要はない、今の生活はとりあえず安定しているから、という思いが意識下に横たわっているからです。

 私たちの生活に不便が出てくることは、実は幸せなことなのです。変化を強いられ、もみくちゃにされるというのは、実は良いことなのです。何も特別なことが起こらず、いつまでも変わらないところに、死があります。不便、変化、自分ではどうすることもできないこと、これらのことがあってこそ、私たちは主に従順になることができ、また新鮮な命が入ってきます。

16:9 それゆえ、わたしはヤゼルのために、シブマのぶどうの木のために、涙を流して泣く。ヘシュボンとエルアレ。わたしはわたしの涙であなたを潤す。あなたの夏のくだものと刈り入れとを喜ぶ声がやんでしまったからだ。

 再び、主がモアブの涙に同情されます。収穫物がもたらすその喜びが失われてしまったことを、主がいっしょに泣いておられます。

16:10 喜びと楽しみは果樹園から取り去られ、ぶどう畑の中では、喜び歌うこともなく、大声で叫ぶこともない。酒ぶねで酒を踏む者も、もう踏まない。わたしが喜びの声をやめさせたのだ。16:11 それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。

 お分かりになりますか、主はご自分のはらわたで、ご自分の内臓でモアブのことを嘆き悲しんでおられます。けれどもその喜びの声を止めさせたのは、主ご自身なのです。これが主のお心です。主は災いを与えられますが、その災いを受けた人々のことを思って、一緒になって泣いておられるのです。

 私たちがこれまで嫌な思いをさせてきた人がいるでしょうか。この人のせいで、私は大変な思いをしてきた、と悔しい思いをしたことがあるでしょうか。もしその人が不幸な目に遭い、大変な思いをしているときに、私たちはどのような反応をするでしょうか?「ざまあみろ」と喜びますか?いいえ、私たちがキリストの思いを心に抱いているのなら、私たちはその不幸を非常に悲しむのです。ちょうどダビデが、サウルの死を泣き悲しんだように、です。

16:12 モアブが高き所にもうでて身を疲れさせても、祈るためにその聖所にはいって行っても、もうむだだ。

 ケモシュの宮で必死に祈っても全く無駄である、と主は言われます。神社で何段もある階段を上がって、何度も祈る人を私たちは時々見かけますが、そのような努力もすべて空しい、ということです。

16:13 これが、以前から主がモアブに対して語っておられたみことばである。

 アッシリヤが攻めてくる前に、イザヤが前もってモアブに告げていました。前もって告げられることを聞くか聞かないか、その選択をしなさいと迫られています。主も、弟子たちに終わりの時のことを話されたとき、「さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。(マタイ24:25」と言われました。私たちには、警告を前もって聞くチャンスが与えられています。実際に起こってからでは遅いので、前もって聞くことができます。

16:14 今や、主は次のように告げられる。「雇い人の年期のように、三年のうちに、モアブの栄光は、そのおびただしい群衆とともに軽んじられ、残りの者もしばらくすれば、力がなくなる。」

 雇い人の年期のように、期間が非常にはっきりしている、確かである、ということです。主が来られる時は、父なる神が定めておられ、私たちはいつだか知りませんが、その日と時はすでに定まっています。そしてすぐに来る、と主は言われます。私たちはその用意ができているでしょうか?

2A ダマスコの破壊 17
 これでモアブへの宣告が終わりました。次はダマスコ、つまりシリヤの首都に対する主の宣告です。モアブと同じように、イスラエルに隣接する国です。

 そして、イスラエルと長いこと関わりを持っていた国です。シリヤの古代名は、新改訳聖書にあるとおり「アラム」です。アラムは創世記の時代が出てきます。アブラハムの家族がカナンに行く前に、一時期カランに滞在していましたが、そこがアラムの地域です。そして列王記の時代には、絶えずイスラエルと戦っていました。

 けれども最後、ダマスコの町がその独立を失った時、それは皮肉にもイスラエルと仲良くした時です。以前学びましたね、ユダにアハズが王として立てられた時、イスラエルの王とともにユダを攻めることにしました。そこでアハズは、アッシリヤに貢ぎ物を持っていき、助けを求めました。アッシリヤはその要望に応えて、シリヤと北イスラエルを攻めました。ダマスコは紀元前732年に陥落し、サマリヤはその十年後、紀元前722年に陥落しました。

 この時の破壊をイザヤが預言します。

1B 衰えるイスラエル人の栄光 1−11
1C 廃墟の町 1−3
17:1 ダマスコに対する宣告。見よ。ダマスコは取り去られて町でなくなり、廃墟となる。17:2 アロエルの町々は捨てられて、家畜の群れのものとなり、群れはそこに伏すが、それを脅かす者もいなくなる。

 家畜の群れのものとなる、というのは、動物がそこでたむろしているような廃墟となる、という意味です。豊かな放牧のことではありません。

17:3 エフライムは要塞を失い、ダマスコは王国を失う。アラムの残りの者は、イスラエル人の栄光のように扱われる。・・万軍の主の御告げ。・・

 非常に興味深い預言です。ダマスコに対する宣告であるにも関わらず、主はエフライム、つまり北イスラエルに対して宣告を行なっています。4節以降も、イスラエルに対する預言が続きます。ダマスコに対する預言なのですが、その宣告の対象としてイスラエルも含まれてしまった、ということです。

 それは今、説明したように、この時、ダマスコとエフライムが手を組んでいたからです。運命共同体として、ダマスコが落ちたら、エフライムも同時に落ちてしまったのです。

 周辺諸国に対する預言を行なっているのに、その預言の中にイスラエルが入ってきてしまったのは非常に皮肉なことです。これまでのイスラエルの歴史は、主が災いを下すときに、主はイスラエルを他の民と区別して、イスラエルはその災いを被らなくてもよいようにしてくださいました。出エジプトの時がそうでしたね。そして今、エルサレムの町も、巨大な怪物のようなアッシリヤでもどうすることもできなかった、堅固な逃れの町としてくださったのです。

 ところが私たちが、世の中に生きるのではなく、世のものとして、世に属するように生きるのであれば、主はその区別をすることができなくなります。世を裁かれる時に、同時に自分の民も裁かなければいけないようになってしまいます。それが北イスラエルに起きたことです。

 聖書は、この世に調子を合わせることによって、自分がこの世の中に埋没していくことについて、警鐘を鳴らしています。例えばヘブル書において、ユダヤ人の信者たちがユダヤ教の中に自分を組み込ませようとしました。その結果、彼らは信仰からさまよい出て、キリストの十字架を否定するところまで行きました。そのためへブル書の著者(私はパウロだと思いますが)、ヘブル書の著者は、ユダヤ教よりもキリストご自身がいかにすぐれているかを説明して、初めの確信を最後まで保つように強く勧めたのです。

 ロトの妻もそうでした。主がアブラハムのゆえにロトを救うこと、そして義人ロトのゆえにロトの家族も救うことをお考えになりましたが、ロトの妻は振り向いたがゆえに、ソドムといっしょに滅んでしまったのです。

 そしてここで、「アラムの残りの者は、イスラエルの栄光のように扱われる」とあります。これは皮肉を込めた表現です。イスラエルの栄光というのは、次のことです。

2C わずかに残される者 4−6
17:4 その日、ヤコブの栄光は衰え、その肉の脂肪はやせ細る。17:5 刈り入れ人が立穂を集め、その腕が穂を刈り入れるときのように、レファイムの谷で落穂を拾うときのようになる。17:6 オリーブを打ち落とすときのように、取り残された実がその中に残される。二つ三つのうれた実がこずえに、四つ五つが実りのある枝に残される。・・イスラエルの神、主の御告げ。・・

 イスラエル人が弱り、そして極端に少なくなります。シリヤの人々も同じように、極端に少なくなります。主は例えとして、立穂の時とオリーブを打ち落とす時の二つを挙げておられます。どちらも刈り取りがありますが、その収穫にわずかに残る実があります。そのように、イスラエルはわずかになります。

 イスラエルは、アッシリヤに攻められた後にアッシリヤに捕え移されました。その後には、他の民族がそこに強制移住されてきました。残りわずかなイスラエル人と、その異邦人とが結婚し始めました。それでその雑婚の結果生まれ出たのが、サマリヤ人です。

 ごく少数ですが、ヒゼキヤの時代、すでにアッシリヤの領域となった北イスラエルにも、主の過越を守るように呼びかけました。ほとんどの人はあざ笑いましたが、一部の人はへりくだって、エルサレムに上ってきた、とあります(2歴代30:11)。ですから、バビロン捕囚後も北イスラエルの人々はわずかながら残っており、新約時代も、幼子イエス様を見て預言を行なった女性アンナは、アシェル族出身でした(ルカ2:36)。

3C まことの神の忘却 7−11
 そして次に希望のメッセージがあります。

17:7 その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、17:8 自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。

 「その日」というのは、再び、終わりの時の意味が含まれています。ダマスコが破壊され、サマリヤが陥落した後に、イスラエルでこのような霊的復興は起こりませんでした。これはイスラエルが主に目を向けるその時が来る、というメッセージです。

 ここに「自分を造られた方」と、「自分の手で造った」という対比がありますね。自分を創造してくださった方をあがめず、かえって自分の手で造ったものに変えてしまった、というのが人間の不義の始めですが(ロマ1:23)、彼らは最後には立ち返ります。

 また「イスラエルの聖なる方」とあります。イスラエルの神とその他の神々の違いは、創造主と被造物との違いだけではなく、聖なる方か汚れたものかの違いでもあります。アシェラ像とありますが、この女の神の前で人々は身を焦がしていました。

 非常に興味深いことに、この預言はまだ、3節の「アラムの残りの者」も含まれているという事実です。イスラエルはシリヤと同じようになったので滅んでしまいましたが、今読んだように、主は全てを滅ぼしてしまわれたのではありません。イスラエルに対する憐れみは尽きなかったのです。

 けれども同じように、イスラエルと手を組んだシリヤも、イスラエルが回復するときに同じようにわずかに残された者がイスラエルの神に立ち返る、という預言になっているのです。シリヤ人でまことの神に触れた人がいましたね、そうですナアマンです。そのような人がこれから、世の終わりの時にも現れる、という希望のメッセージなのです。

 主は、すべてのことを働かせて益としてくださることを約束されています。確かにイスラエルがシリヤと手を組んだことは間違いでしたが、その悪いことをも用いて、主はシリヤに回心の機会を与えてくださいます。これはちょうど、信仰が後退してしまったクリスチャンが、その時に彼女をつくって、その後、信仰復興が起こり、主に立ち返った。それで、その彼女も主を見上げるようになった、という話に似ています。罪の増し加わるところには、恵みも満ち溢れます(ロマ5:20)。

17:9 その日、その堅固な町々は、森の中の見捨てられた所のようになり、かつてイスラエル人によって捨てられた山の頂のようになり、そこは荒れ果てた地となる。

 アッシリヤが攻めてきて、イスラエルは自分の土地、その山々を捨てました。同じように、要塞を固めた堅固ま町々も見捨てられたようになる、ということです。

17:10a あなたが救いの神を忘れてあなたの力の岩を覚えていなかったからだ。

 非常に重要な箇所です。警告の御言葉です。私たちにとって大きな危機は、救いの神を忘れることです。ただ忘れるという簡単なことだけで、私たちの霊的運命が決まってしまいます。逆に言うと、私たちの務めは主を覚えることです。もちろん教会で礼拝を守れば、それで主を覚えます。その他、何かにつけ主を覚えます。これだけの行為で、私たちは主の守りを受けることができます。

17:10bそれで、あなたは好ましい植木を植え、他国のぶどうのつるをさす。17:11 あなたが植えたものを育てるときに、朝、あなたの種を花咲かせても、病といやしがたい痛みの日に、その刈り入れは逃げうせる。

 10節の「他国のぶどうのつる」とは、もちろんシリヤのことです。主に拠り頼まず、他国のつるをさしたために、病と癒しがたい痛みを味わいました。

2B 略奪者の分け前 12−14
 そして次から、再びアッシリヤに対する宣告になります。そしてその後に18章にエチオピヤに対する宣告、19章にエジプトに対する宣告と続きます。アッシリヤの侵攻に対して、それぞれの国がどのように対応すればよいのか、その勧めと警告のメッセージになっていますが、ますアッシリヤに対する宣告です。

 けれども14章にあった預言とは違って、アッシリヤを名指ししていません。「多くの国々の民」と呼んでいます。アッシリヤは数多くの国を制圧して、その国民を兵役につかせましたからその通りなのですが、アッシリヤだけでなく、一般的な、また終末的な預言にもなっています。

17:12 ああ。多くの国々の民がざわめき、・・海のとどろきのように、ざわめいている。ああ、国民の騒ぎ、・・大水の騒ぐように、騒いでいる。

 アッシリヤがシリヤと北イスラエルを倒し、またガザのほうにも行き、一気に南になだれ込んできています。他の聖書の箇所でもそうであるように、このような数多くの民が大きな動きをしているとき、特に軍事行動をしているとき、「大水」と例えています。荒れ狂う海のことです。

17:13 国民は、大水が騒ぐように、騒いでいる。しかし、それをしかると、遠くへ逃げる。山の上で風に吹かれるもみがらのよう、つむじ風の前でうず巻くちりのように、彼らは吹き飛ばされる。

 大水の騒ぎも、主が叱られると、籾殻のようになります。籾殻、わかりますね、ものすごい軽いので、一気に風によって吹き飛ばされてしまいます。

 主は、これはどの時代にも、終わりの時にもそうであることを教えてくださっています。私たちが世が騒いでいるもので惑わされてはいけません。おじ惑ってはいけません。主がもみがらのようにしてくださるのです。最後の日、ハルマゲドンにおいても、詩篇第二篇で「国々が騒ぎ立ち(1節)」と書いてあります。けれどもそれを主はあざ笑っておられ、一気に彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にすると、約束しておられます(9節)。

17:14 夕暮れには、見よ、突然の恐怖。夜明けの前に、彼らはいなくなる。これこそ、私たちから奪い取る者たちの分け前、私たちをかすめ奪う者たちの受ける割り当て。

 アッシリヤに包囲されたエルサレムが、見た光景です。翌朝早く起きてみると、アッシリヤの陣営18万5千人がみな死体となっていました。

 次回はエチオピヤとエジプトに対する預言を学びます。


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