イザヤ書18−20章 「諸国にも及ぶ神の救い」

アウトライン

1A エチオピヤの力 18
   1B 力強い、踏みにじる国 1−2
   2B シオンの山への贈り物 3−7
2A エジプトの栄光 19
   1B 主の雲 1−15
      1C 戦慄く神々 1−4
      2C 干上がるナイル 5−10
      3C 愚かな知者 11−15
   2B 「わたしの民」 16−25
      1C 主への捧げ物 16−22
      2C アッシリヤとの大路 23−25
3A エチオピヤとエジプトの捕囚 20
   1B イザヤの象徴的行為 1−4
   2B 頼みとしていた民 5−6

本文

 イザヤ書18章を開いてください、今日は18章から20章までを学んでみたいと思います。ここでのテーマは、「諸国に及ぶ主の救い」です。

 私たちは今、イスラエルとユダの周辺諸国に対する神の宣告について学んでいます。特に、アッシリヤが世界にその勢力を拡大させていく中でそれらの国々が通らなければいけない事柄について、イザヤが預言しています。

 前回の学びから読むことができる内容は、主がユダの国だけでなく、周囲の国民にもその救いを差し伸べておられることです。アッシリヤの南進に対して、モアブがユダに助けを求めればよいというメッセージ、そして北イスラエルと軍事同盟を組んだシリヤが、いつかはイスラエルの残りの者と共に、まことの神に立ち返るという内容がありました。

 シリヤについてですが、旧約聖書の中にもまことの神を信じた人物が出てきます。そうです、ナアマンですね。主がエリシャを通して、彼のらい病を癒してくださいました。そして彼はイスラエルの神こそ、真の神であることを知りました。

 そして新約聖書においては、ダマスコの町が福音を伝える町として登場します。キリスト者を捕縛するためにダマスコに向かっていたサウルが、復活のイエス様に出会い、彼は目が見えなくなりました。そのまま仲間にダマスコまで連れて行かれ、そこで主から啓示を受けた弟子アナニヤが彼にバプテスマを授けました。パウロはダマスコにおいて、イエスが神の御子であることを力強く証言し始めました。

 このように主は、限りなく寛大な方であることを知ることができます。寛大というのは、悪を許容するという意味の寛大ではなく、望みのない国民にも恵みによる希望を与えてくださるという意味での寛大です。私たちが自分たちの仲間だけで集まり、自分の信仰を守るという視野の狭い考えでは、主の広い心をつかむことはできません。

 私たちは続けて、周囲の国々への預言を読みますが、今日はユダの南にある国々に入ります。エチオピヤとエジプトです。

1A エチオピヤの力 18
1B 力強い、踏みにじる国 1−2
18:1 ああ。クシュの川々のかなたにある羽こおろぎの国。

 クシュ、これが古代のエチオピヤの名前です。そしてクシュは、現在のエチオピアよりも広範囲な地域で、現在のスーダンも含みます。そして

 「羽こおろぎ」とありますね、これはエチオピヤが非常に蒸し暑く、羽の付いた虫が多いことで有名だからです。

18:2 この国は、パピルスの船を水に浮かべて、海路、使いを送る。すばやい使者よ、行け。背の高い、はだのなめらかな国民のところに。あちこちで恐れられている民のところに。多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国に。

 古代のクシュで、非常に力強く、踏みにじる国になった時がありました。ピアンキという王が、紀元前730年ごろからエジプトを支配し始めました。そして、エジプトの国を715年から治め、第25エジプト王朝が始まりました。

 ここのクシュの川々、海路とはナイル川上流のことです。その川にパピルスの船を浮かべて使いを送る、とありますが、これがアッシリヤの脅威に対するエチオピヤの外交活動です。アッシリヤはシリヤを破り、そして北イスラエルを滅ぼしました。そして東はモアブ、西はペリシテの町々に力を加えていました。どんどん南下していったのです。その脅威に対抗するために、エチオピヤは使者をペリシテ、ユダなどの国に送り、軍事連合を呼びかけたのです。

 ここの「すばやい使者よ、行け、・・・」の部分は会話の部分なので鍵括弧にしたほうが良いでしょう。エチオピヤの使者がユダの国に着き、そして今度は「行け、背の高い、肌の滑らかな国民のところにあなたがたの使者を送りなさい。」と呼びかけているのです。背の高い、肌の滑らかな国民とは、もちろんエチオピヤ人のことです。

 分かりますか、ユダの国は、アッシリヤそのものの脅威だけではなく、周辺の国々からの申し出という煩いも持っていたのです。主ご自身は、「わたしはシオンを礎とする。ここに避ける者は幸いである。」と言われるのですが、周りの国々が共に軍事同盟を結ぼうと誘いかけてくるのです。特に、力のあるエチオピヤの国から軍事同盟の申し出があったのですから、これは大きな誘惑になったに違いありません。

2B シオンの山への贈り物 3−7
 これに対して、主のお答えは何だったのでしょうか?エチオピヤ人の使者に対する主の言葉は何だったのでしょうか?

18:3 世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。山々に旗の揚がるときは見よ。角笛が吹き鳴らされるときは聞け。18:4 主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」

 アッシリヤの脅威に対して、国々が使者を送って、また送り返してと騒ぎ始めていたとき、主は、「わたしは静まって、わたしの所から眺めよう」と言われるのです。まったく動揺も、何もない状態です。面白いのは、エチオピヤ人にその静けさを分かりやすく説明するために、エチオピヤの気候に独特な暑いころの露の濃い雲に例えておられます。

 国々が騒ぎ立つとき、主はゆっくりしておられる、というのは非常に興味深いです。そして私たちがその事実を知らないといけませんね。ハルマゲドンの戦いの預言のある、詩篇第二篇でも同じことが書かれています。

 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう。」天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」(1-6節)

 私たちは、周りが騒ぎ立つ時に主が御座にどしんと座っておられることを知らなければいけません。私は2001年の米同時多発テロにおいて、世界貿易ビルが崩壊したのを見、その後の世界的な対テロ戦争が展開したときに、正直、心が騒ぎました。いったいこれからどうなるのか?と思い、胸騒ぎがしました。

 けれどもこのイザヤ書で学ぶことができるのは、全てのことは主から来ている、という事実です。一見、関係のなさそうなユダの周囲の諸国の動きは、完全に主の支配の中にあり、主の御手によって動かされていることを見ます。主はモーセに、「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。(出エジプト4:11」と言われました。すべてのことは主から来ているのです。主がそうさせておられるのです。

 ここイザヤ書3節には、「世界のすべての住民よ。地に住むすべての者よ。」と、アッシリヤがユダを包囲して、それから主がその軍隊を一度に倒されることについて、世界のすべての住民に呼びかけている言葉があります。主は、この出来事を、ご自分のことを証しする世界的な出来事にしたいと願われているのです。

 同じようなことを主は、エジプトを通しても行なわれましたね。紅海が分かれて、エジプトを倒すその出来事は、イスラエルが行くカナン人の地の住民すべてに知られました。そして、そのような恐ろしい神がイスラエルにはついていることを知り、彼らは恐れおののきました。このことで、イスラエル人のスパイをかくまったラハブは、自分自身が神を信じて、エリコへの主の破壊を免れることができたのです。

18:5 刈り入れ前につぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになるとき、人はその枝をかまで切り、そのつるを取り去り、切り除くからだ。

 ここのぶどうの刈り入れは、アッシリヤに対する神の裁きのことです。アッシリヤが勢いづいて、今にもユダを攻め取ろうとする姿を、つぼみが開き、花ぶさが育って、酸いぶどうになった、と形容しておられます。

 これは終わりの時のハルマゲドンの戦いにおいても、使われている形容です。

 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(黙示14:18-20

 主が悪に対して何も裁きを行なわれていないと思われる時に、主が、時が熟するのを待っておられることを忘れてはいけません。また主が私たちを救ってくださらないと感じるとき、私たちが主の御名を呼び求め、本当に救いを渇望するのを逆に待っておられることを忘れてはいけません。主には時があります。そして時が熟するのを待っておられます。

18:6 それらはいっしょにして、山々の猛禽や野獣のために投げ捨てられ、猛禽はその上で夏を過ごし、野獣はみな、その上で冬を過ごす。

 18万5千人のアッシリヤの軍隊が、エルサレムの周囲で死体となって倒れていました。この死体処理のために猛禽がやって、それを食べる、ということです。このような死体処理も、ハルマゲドンの戦いの中で見ることができますね。イエス様が反キリストと諸国の軍隊に戦われて、彼らを滅ぼされた後、猛禽がその死体を食べる、「神の大宴会」があることを黙示録1917節は教えています。

18:7 そのとき、万軍の主のために、背の高い、はだのなめらかな民、あちこちで恐れられている民、多くの川の流れる国、力の強い、踏みにじる国から、万軍の主の名のある所、シオンの山に、贈り物が運ばれて来る。

 エチオピヤは、自分たちのことをこのように誇っていました。背が高く、肌が滑らかな民。あちこちで恐れられている民、多くの川が流れている国、力強く踏みにじる国だと言って、誇っていました。しかしその誇らしい国は、自分たちよりもはるかに強い主の御手を見て、驚くのです。

 つまり、ここは、「あなたがたは、自分の強い腕を使わなくてもよいのだ、はるかに強い腕を持つ主ご自身がアッシリヤを倒されるのだ、だから静かにしていなさい。」という、主のエチオピヤに対するメッセージなのです。

 実際は、エチオピヤはこのイザヤの預言に聞き入れません。そのため、アッシリヤの支配を受けてしまいます。そのことは20章に出てきます。やはり、モアブの時と同じく、ユダの神をなぜ我々が信じなければならないのか、なぜ力を持つ我々が彼らの神に期待する必要があるのか、と思ったからです。

 しかし、ここのエチオピヤが、シオンの山に贈り物を運んでくるという預言は必ずや実現します。主が戻って来られる時に実現します。終わりの時に反キリストが、国々に手を伸ばし、エジプトの国も逃れることはない、とダニエル書1142節にあります。そして、彼はルブ人、クシュ人のところまで来ることが書かれています。しかし、彼は東と来たからの知らせを聞いて引き返します。そして主が戻られて、反キリストは滅ぼされるのです。

 私たちにとって、主に対する最上の贈り物とは何でしょうか?主が最も喜ばれる捧げ物は何でしょうか?それは私たち自身の魂ですね。私たちが私たち自身を主に捧げるとき、それを主が最も喜ばれます。

 エチオピヤは、そこにユダヤ教が入ってきました。エチオピヤ系ユダヤ人はソロモンとバテ・シェバの間に子が与えられ、その子孫であると主張しますが、新約時代の当時、エチオピヤ人の宦官がエルサレムに上ってきて主を礼拝していました。そこに主の弟子であるピリポが、やってきました。宦官が帰る途中、彼はイザヤ書を読んでいて、その意味が分かりませんでした。ピリポが解説し、それはイエスであることを教え、宦官はその場でイエス様を信じました。

 エチオピヤには、そのためクリスチャンが増え、コプト教会という古代の教会もあるほどです。やはり、主はエチオピヤを忘れておらず、これからも忘れることはありません。

2A エジプトの栄光 19
 そして次にエジプトに対する主の宣告です。

1B 主の雲 1−15
1C 戦慄く神々 1−4
19:1 エジプトに対する宣告。見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。

 時代は再び、アッシリヤがイスラエルやモアブ、ペリシテの地域を越えて、南進している時のことです。かつて栄光を誇っていたエジプトは、当時、エチオピヤ人が王になるほど、その国力は弱まっていました。主が、エジプトを、アッシリヤを通して打たれることを、「速い雲に乗ってエジプトに来る」と言われています。

 そして「偽りの神々がその前にわななき」とあります。エジプトはものすごい偶像礼拝国でありました。何でも神にしていました。ナイル川、かえる、家畜、太陽、パロ自身などなど・・・覚えていますね、主がエジプトに下された十の災いは全てエジプト人が神として拝んでいたものでした。かつて主がエジプトを打たれた時のように、今はアッシリヤを通してこれらの偶像を打たれるのです。

19:2 わたしは、エジプト人を駆り立ててエジプト人にはむかわせる。兄弟は兄弟と、友人は友人と、町は町と、王国は王国と、相逆らって争う。

 当時、国力を失っていたエジプトは、分裂と内紛の歴史を辿っていました。本来、アッシリヤに対抗するために一致団結しなければいけなかったのに、恐れと不安が彼らの心を握っていたので、仲間で相逆らっていたのです。

 興味深いですね、イスラエルが敵と戦う時に、主が仲間を混乱させて、互いに殺し合いをさせるようにさせた場面が数多く出てきます。世の終わりの初めは、国と国が、民族と民族が敵対すると主は言われましたが、それは終わりが近いことを感じて、その不安と恐怖から互いに争っていると言っても良いでしょう。

 キリスト者には、そのような恐れはありません。「このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。(1ヨハネ4:17」さばきの日が近いことを知っても、それが恐れにはならず、かえって神の愛によって大胆になれています。

19:3 エジプトの霊はその中で衰える。わたしがその計画をかき乱す。彼らは偽りの神々や死霊、霊媒や口寄せに伺いを立てる。

 エジプトには、占いやまじない、霊媒などがかなり発達していました。覚えていますね、モーセが対峙したパロの側近は呪法師たちでした。そして、このイザヤの時のエジプトの歴史は、国が弱体し、王に代わって大神官が実質的な政治や世俗の権力を掌握した時期でした。それは、人々の心が、人々の霊が弱くなっていた、衰えていたからです。

 サウル王のことを思い出してください。彼がペリシテ人と戦って最後に行なったのは、魔女に伺いを立てたことです。ペリシテ人との戦いにおいて、主に伺いを立てても何の答えもなかったために、こっそりと死者の中からサムエルを呼び出してほしいと魔女に頼みました。これもまた、彼が主を退け、拒み続けたので、彼の霊が不安になり、不安を越えて、衰えていったからです。

 一方、私たちに主が与えてくださっている御霊は、魔術師の与える霊とは対照的です。「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(2テモテ1:7

19:4 わたしは、エジプト人をきびしい主人の手に引き渡す。力ある王が彼らを治める。・・万軍の主、主の御告げ。・・

 最後は、エジプトはアッシリヤの手に陥りました。アッシリヤの王エサルハドンが紀元前671年にエジプトを攻め、664年に首都テーベを取っています。王はエジプトを20の州に分け、それぞれにアッシリヤ人の総督を就けて「略奪し、滅ぼせ」と命じたのです。

 これが主を拒み、偶像に頼り、魔術に頼った結果です。そういう人たちは圧制を経験します。コロサイ書1章13節には「暗やみの圧制」とあります。がんじがらめになって、虐げられて、痛めつけられて、抜け出せない状態のことです。

 また、「厳しい主人の手」「力ある王」という表現には、かつてイスラエルを奴隷にしていたパロのことが意識されているのでしょう。イスラエルをかつて奴隷として酷使した同じことを、彼らが受けている、ということです。聖書には、自分が蒔いた種を自分が刈り取るという原則があります。自分が虐げたのであれば、今度は自分が虐げられます。

2C 干上がるナイル 5−10
19:5 海から水が干され、川は干上がり、かれる。19:6 多くの運河は臭くなり、エジプトの川々は、水かさが減って、干上がり、葦や蘆も枯れ果てる。19:7 ナイル川やその河口のほとりの水草も、その川の種床もみな枯れ、吹き飛ばされて何もない。

 よく知られているとおり、世界で最古の最長の文明がエジプトで発達したのは、ナイル川のおかげです。毎年のナイル川の氾濫によって、土壌は新しく生まれ変わり豊かな農地を有していました。エジプトの経済はすべてナイルに依存していたのです。

 そのナイルが干上がる、と主は言われるのです。このことは、アッシリヤの軍事侵攻のときには起こりませんでした。唯一、このような現象が起こったのは、近年のことです。アスワン・ダムをナイル上流に建設した後にすべての環境が変わってしまいました。川の氾濫による豊かな土壌は流れてこなくなり、かえって地中海からの塩水が入ってきて、農業を台無しにしました。

 主の、エジプトに対する働きかけは、まだ終わっていないようです。

19:8 漁夫たちは悲しみ、ナイル川で釣りをする者もみな嘆き、水の上に網を打つ者も打ちしおれる。19:9 亜麻をすく労務者や、白布を織る者は恥を見、19:10 この国の機織人たちは砕かれ、雇われて働く者はみな、心を痛める。

 ナイル川によってもたらされる豊かさは、農業だけではなく、漁業、そして葦から得られる繊維で衣類を作っていた産業も大きな打撃を受けます。経済全体に損失が波及するのです。

 似たようなことを、私たちは終わりの時、バビロンにおいて見ますね。バビロンが滅んだ時に、国々の政治的な支配者が嘆き悲しんだだけでなく、バビロンによって商売をしていた貿易商人も、またそれにともなう運輸業も大きな打撃を受け、バビロンによって豊かにされていた人々の生活、音楽や歌、結婚式もみな消えうせることが黙示録18章に預言されています。

 私たちの生活の中心に何があるか、自問自答しなければいけません。これがあるから、私の今の生活が豊かになっている、というものが何になっているか自問しなければいけません。もしそれがエジプトのナイルのように、バビロンのように突如としてなくなったら、どうなるでしょうか?世の有様は過ぎ去ります、と主も使徒たちも言いました。私たちが今あるものを無いもののようにして生きているでしょうか?(1コリント7:2931参照)

3C 愚かな知者 11−15
19:11 ツォアンの首長たちは全く愚か者だ。パロの知恵ある議官たちも愚かなはかりごとをする。どうして、あなたがたはパロに向かって、「私は、知恵ある者の子、昔の王たちの子です。」と言えようか。

 エジプトは、偶像や魔術で有名なだけでなく、その知恵においても有名でした。さまざまな学問がエジプトで発達しました。40歳までエジプトの宮殿で生きてきたモーセも、「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。(使徒7:22」とステパノは言いました。また、ソロモンがいかに知恵があるかを説明するために、「彼は、・・・エジプト人のすべての知恵とにまさっていた。(1列王4:30」とあります。

 その知者たちの助言が、迫っているアッシリヤの脅威に対して何ら助けになっておらず、むしろ混乱を招いているのです。

19:12 あなたの知恵ある者たちはいったいどこにいて、あなたに告げ知らせようというのか。万軍の主がエジプトに何を計られたかを。

 ここが大事です、主が計られていることがあり、それを知者たちが知りうることはできない、ということです。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。(1コリント1:20

 私たちは、この世で起こっていること、また自分の身の回りで起こっていることを計り知りたいという強い欲求があります。けれども、まず私たちがしなければいけないのは、今、起こっていることは主から来ているという神の主権を認めることです。たとえ何が起こっているのか分からなくても、主がご計画を持っておられることを認めることです。そうでなければ、エジプトのようにこの世の幼稚な学問に振り回されてしまうだけです。

19:13 ツォアンの首長たちは愚か者、ノフの首長たちはごまかす者。その諸族のかしらたちは、エジプトを迷わせた。

 ツォアン、またノフ(メンフィス)は、古代エジプトで首都であった期間がありました。長いエジプトの歴史の中で、知恵においても政治においても誇り高い町ですが、そこの首長たちが愚かな助言をします。

19:14 主が、彼らの中に、よろめく霊を吹き入れられたので、彼らは、あらゆることでエジプトを迷わせ、酔いどれがへどを吐き吐きよろめくようにした。

 泥酔した時のように、識別力や分別力を失う、ということです。

19:15 それで、頭も尾も、なつめやしの葉も葦も、エジプト人のために、なすべきわざがない。

 「」は今読んだ、知者や政治指導者のことです。そして「」は一般民衆の気持ちを支える、占いや魔術のことです。国全体が今、何をすればよいか分からないという状態です。

 何か、日本の国のことについて話されているような気がします。もちろん日本の国だけでなく、世の終わりを目の前にしている多くの国々の姿であるような気がします。何をすべきかわからない状態です。

2B 「わたしの民」 16−25
 私たちは分かっているでしょうか?キリスト者は、このような時代に何をすべきか分かっているでしょうか?次から、主がエジプトに対して、裁きではなく救いの働きかけを始められる部分です。そこから、私たちに対して主が持っておられる御心を見極めることができます。

1C 主への捧げ物 16−22
19:16 その日、エジプト人は、女のようになり、万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手を見て、恐れおののく。

 再び「その日」という言葉が出てきました。ダマスコに対する預言の時に、「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見」るとありました(17:7)。これは、差し迫ったアッシリヤの脅威の話ではなく、その後のエジプトの歴史、そして終わりの時の究極の姿を表しているのです。

 「女のようになり」とありますね。歴史の長いプライドだけは高いエジプトが、弱くなります。アッシリヤに攻められてから、エジプトの歴史は末期と呼ばれます。後にバビロン、ペルシヤに攻められ、ギリシヤ時代にはプトレマイオス朝の一部になりました。ローマの時代には完全に国としての単位は失われます。

 そのようなプライドがなくなった時、彼らは恐れおののきます。「万軍の主が自分たちに向かって振り上げる御手」を見ておののきます。これは主イエスが再臨される時の姿です。先ほどエチオピヤについて、反キリストがエチオピヤのところまで来る話をしましたが、そこに反キリストがエジプトを略奪することが書かれています。

 まさに彼らが女のようになってしまう時です。その時に主が戻って来られるのです。その目は、エジプトにも向けられています。再臨のイエス様の目が、個人的にエジプトにも向けられます。

19:17 ユダの地はエジプトにとっては恐れとなる。これを思い出す者はみな、万軍の主がエジプトに対して計るはかりごとのためにおののく。

 再臨の主は、ユダの地のほうに向かわれます。それでユダの地がエジプトにとっては恐れとなります。

 長いことエジプトはイスラエルを恐れさせることはしましたが、自分たちがイスラエルを恐れることはありませんでした。それだけの力をエジプトの国は持っていたからです。けれども、今はそれが逆転しています。以前もバビロンのところで学びましたが、私たちが抱いている福音は逆転の福音です。貧しい者が富んだ者とされ、へりくだった者は地を受け継ぐようになります。

19:18 その日、エジプトの国には、カナン語を話し、万軍の主に誓いを立てる五つの町が起こり、その一つは、イル・ハヘレスと言われる。19:19 その日、エジプトの国の真中に、主のために、一つの祭壇が建てられ、その国境のそばには、主のために一つの石の柱が立てられ、19:20a それがエジプトの国で、万軍の主のしるしとなり、あかしとなる。

 非常に興味深い預言です。ここの18節から20節に書かれていることは、まるでイスラエルの国内の出来事のようです。「カナン語」とは、つまりカナン人の地でイスラエル人が話していた言葉、つまりヘブル語のことです。そして「五つの町が起こり」とありますが、ヨシュア率いるイスラエルは、連合してイスラエルを攻める五人の王を打ち破り、その町を征服しました。

 そして「一つの祭壇」また「国境のそばには、主のために一つの石の柱」とありますが、ヨルダン川を越えたイスラエル人は、ギルガルに十二の石を積み上げて、主がこの地を私たちに与えられたことを記念しました。そしてもちろん祭壇を作って、主をあがめました。

 このようにエジプト全土が、イスラエルの国のようになることを主は約束してくださっているのです。何とすばらしいことでしょうか!

19:20b彼らがしいたげられて主に叫ぶとき、主は、彼らのために戦って彼らを救い出す救い主を送られる。

 反キリストによって虐げられる彼らは、主に叫びます。そして主がイスラエルのために戦うのと同じようにエジプトのために戦ってくださいます。

19:21 そのようにして主はエジプト人にご自身を示し、その日、エジプト人は主を知り、いけにえとささげ物をもって仕え、主に誓願を立ててこれを果たす。

 エチオピヤと同じように、エジプトも主に捧げ物をもって仕えます。ゼカリヤ書の最後に、エジプトの氏族が仮庵の祭りのためにエルサレムに上ってくることが言及されています(14:1819)。

19:22 主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。

 これが主の方法です。打って、そして癒されます。この章の始めは、速い雲に乗ってこられる主の姿から始まりました。これは裁きの来臨です。主が、エジプトを打たれるために来られることです。けれども、ここでの来臨は救いをもたらすためです。エジプト人を癒すためです。

 私たちに対しても主は同じようにされます。私たちが、エジプトのように世に属しているのであれば、主は私たちを打たれます。打って、ご自分に立ち返るように啓発されます。けれども、エジプト人のように砕かれ、その名を叫び求めるならば、主は救いを与え、癒しを与えてくださいます。

2C アッシリヤとの大路 23−25
 そして主の支配はエジプトだけに終わりません。

19:23 その日、エジプトからアッシリヤへの大路ができ、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤに行き、エジプト人はアッシリヤ人とともに主に仕える。19:24 その日、イスラエルはエジプトとアッシリヤと並んで、第三のものとなり、大地の真中で祝福を受ける。

 なんとすばらしいことに、エジプトだけでなく、アッシリヤもみなが主に仕えるようになります。エジプトとアッシリヤには、イスラエルの地域を通る王の道と呼ばれる幹線道路が昔からありました。貿易、政治、経済、また戦争のときにも使われた道です。それが今、主を礼拝するために使われるのです。

 考えてもみてください、周辺諸国の中でもアッシリヤが一番の悪です。他の諸国も悪いことをしていますが、それらの国々を飲み込み、ほしいままに略奪して、滅ぼしていったのがアッシリヤです。けれどもこのアッシリヤが主に立ち返ります。ヨナが預言したときから、彼らは悔い改めて、主の憐れみを受けるに値する民であることが示されていましたが、彼らは立ち返ります。

 そして長年のこと大国であったエジプトがもう一つの超大国のアッシリヤと結びつきます。そしてそれは、軍事的なものでも、政治的なものでも、経済的なものでもなく、主を礼拝するところで結びつくのです。

19:25 万軍の主は祝福して言われる。「わたしの民エジプト、わたしの手でつくったアッシリヤ、わたしのものである民イスラエルに祝福があるように。」

 ここまですばらしい言葉はあるでしょうか?「わたしの民」と言ったら普通イスラエルのことです。けれども、その言葉をエジプトにもアッシリヤにも使っておられます。異邦人の救いです。新約時代に入り、使徒たちにはっきりと示された、異邦人にも及ぶ救いです。

 先ほど、それぞれの国が何をすれば分からない状態になっているときに、私たちキリスト者は何をしなければならないかについての問いをしました。何でしょうか?そうです、世界に及ぶ神の救いを私たちが神からの幻として抱くことです。

 自分たちのことばかりを見てはいけません。ニュースで見る、世界で起こっているごたごたを御手はいけません。私たちの目はただ一つ、それらの国々にいかに主の御言葉が広がるか、ということだけです。イスラエルを中心とする世界に広がる救いを、つまり弟子たちがエルサレムから始めて世界に広げた福音を、どのようにしたら、具体的にくまなく広げることができるのか、この混沌とした、閉塞的な社会の中で、という問いかけをしなければいけません。

 例えば、日本はクリスチャンが1パーセント未満で、教会員は平均20人だと言われて、そのことばかりが強調されます。クリスチャンのビジネスマンは、日々の信仰生活だけで精一杯です。果たしてそうでしょうか?日本の会社は世界にあります。こんなに世界中で、経済的に信頼されている国は日本以外にありません。私たちの信じている主は、アッシリヤからエジプトにまたがる主への道を備えられるところの神なのです。このような考え方で、私たちは主の幻を受け取ることができるのです。

3A エチオピヤとエジプトの捕囚 20
 そして再び、イザヤは実際、自分の目の前にあるアッシリヤ、エジプト、エチオピヤについての預言を行ないます。

1B イザヤの象徴的行為 1−4
20:1 アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、・・

 サルゴン二世が紀元前711年に、ペリシテ人の町アシュドデを取りました。

20:2 そのとき、主はアモツの子イザヤによって、語られた。こうである。「行って、あなたの腰の荒布を解き、あなたの足のはきものを脱げ。」それで、彼はそのようにし、裸になり、はだしで歩いた。

 非常に興味深い預言活動です。普通、預言は言葉を語ることによって行なわれますね。けれども、聖書の中には、このような人々の注目を引き寄せるための象徴的行為を行なうことによって、預言しなさいと主が命じられるところがあります。

 預言者エゼキエルは、大変な人でした。左脇を下にして横たわり、390日そうしていなければいけませんでした。そして次に右脇を下にして横たわり40日そうしなければいけませんでした。食べ物は、人の糞を燃料にして麦類を焼きます。普通なら見向きもしない人々が、このへんてこなパフォーマンスを見て、さすが質問するのです。「これはどういう意味だ?」と。

 ここでも同じです。イザヤは、これから下る神の裁きのために、腰に荒布を巻いていました。悲しみと悔いを荒布は表しています。けれども今、裸になれ、はだしになれ、と主は命じられます。これは、すべて、すっぽんぽんになることではありません。いわゆる今の下着は身につけていました。

20:3 そのとき、主は仰せられた。「わたしのしもべイザヤが、三年間、エジプトとクシュに対するしるしとして、また前兆として、裸になり、はだしで歩いたように、

 何とイザヤは三年間、このことをしなければいけませんでした。

20:4 アッシリヤの王は、エジプトのとりことクシュの捕囚の民を、若い者も年寄りも裸にし、はだしにし、尻をまくり、エジプトの隠しどころをむき出しにして連れて行く。

 エジプトに対しても、エチオピヤに対しても、主は救いの希望の言葉をお語りになりましたが、当時の二国はイザヤの言葉に耳を傾けませんでした。そのため、彼らはアッシリヤに攻められて、アッシリヤがいつも行なっていた、非常に残虐なかたちで捕囚の民を取り扱う、その方法でエジプトとエチオピヤを捕え移すことを預言したのです。

2B 頼みとしていた民 5−6
20:5 人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。20:6 その日、この海辺の住民は言う。『見よ。アッシリヤの王の手から救ってもらおうと、助けを求めて逃げて来た私たちの拠り所は、この始末だ。私たちはどうしてのがれることができようか。』」

 ここの「人々」とは、ユダの民のことです。イザヤ書で、後でさらに詳しく出てきますが、ユダはアッシリヤが追い迫ってくるので、エジプトに助けを求めにいきました。特に、隣町のペリシテ人のアシュドデがアッシリヤのものとなったとき、政治的な助けをエジプトに求めたのです。それで主がイザヤに、裸になって、はだしになって歩きなさい、と命じられたのです。

 「海辺の民」とは、地中海の海岸近くの地域に住む人々が、エジプトとエチオピヤの捕囚の第一目撃者になるからです。北に捕え移すときに、この海岸地域を通ったからです。

 これは神の民にとって、恥ずべきことです。自分が神により頼み、シオンをその避け所としなければいけないのに、力ある国、栄えある国だとしてエチオピヤとエジプトに頼ろうとしたからです。

 私たちにもこのような経験はないでしょうか?本当は主により頼まなければいけなかったのに、人間的に力がありそうなものにより頼もうとした。ところがその拠り頼むべきものが、無くなってしまった。非常に弱い存在であることが露呈された。

 クシュもエジプトも、いつかは主に仕える国なのです。いつかはユダのほうに目を向ける国なのです。終わりの時は、私たちが主にあって主人公であり、キリストの福音が主人公なのです。これが世の助けを得ようとしてあくせくする、信仰者らに対する戒めであります。


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