イザヤ書21−23章 「世の楽しみ」

アウトライン

1A バビロンの崩壊 21
   1B ペルシヤの侵攻 1−10
   2B 夜のエドム 11−12
   3B アラビヤの敗北 13−17
2A エルサレムの驕り 22
   1B 物に耽る人たち 1−14
      1C 喧騒の町 1−4
      2C 武器への信頼 5−11
      3C 最後の道楽 12−14
   2B 管理者の務め 15−25
      1C 自分への栄誉 15−19
      2C 公僕の姿 20−25
3A ツロの豪奢 23
   1B 商業的損失 1−14
      1C 泣き喚き 1−9
      2C 主の決意 10−13
   2B 主の征服 15−18

本文

 イザヤ書21章を開いてください、今日は21章から23章までを学びます。ここでのテーマは、「世の楽しみ」です。13章から始まる、イスラエルとユダの周辺諸国への神の宣告の最後です。始めはバビロン、次にペリシテ、それからモアブ、シリヤと来ました。前回はエチオピヤとエジプトです。

 そして今日学ぶところは、再びバビロンとそれを破壊するメディヤ・ペルシヤから始まります。

1A バビロンの崩壊 21
1B ペルシヤの侵攻 1−10
21:1 海の荒野に対する宣告。ネゲブに吹きまくるつむじ風のように、それは、荒野から、恐ろしい地からやって来る。

 「海の荒野」とあります。具体的な国名ではないですが、続けて読めばこれが「バビロン」であることが分かります。バビロンの地域は、ユーフラテス川、ティグリス川を始め、水が多く流れています。その中に砂漠があることから、バビロンが海の荒野と呼ばれていました。

21:2 きびしい幻が、私に示された。裏切る者は裏切り、荒らす者は荒らす。エラムよ、上れ。メディヤよ、囲め。すべての嘆きを、私は終わらせる。

 エラムというのは、ペルシヤの町の名前です。そしてメディヤがいます。メディヤとペルシヤの連合軍がいま、バビロンの都市を囲んだ場面を幻としてイザヤは見ています。

21:3 それゆえ、私の腰は苦痛で満ちた。女の産みの苦しみのような苦しみが私を捕えた。私は、心乱れて聞くにたえない。恐ろしさのあまり、見るにたえない。21:4 私の心は迷い、恐怖が私を震え上がらせた。私が恋い慕っていたたそがれも、私にとっては恐れとなった。

 この幻を見たときに、イザヤは、ここで読むように非常に苦しみました。恐ろしい気分になりました。なぜならば、主によるバビロンへの重い裁きが、ペルシヤとメディヤを通してこれから行なわれるからです。

 似たようなところを通った預言者が後に現れます。ダニエルです。彼はバビロンが世界帝国となっている時に王に仕えていた役人ですが、これからの世界情勢について、ずっと後のことについて神からの啓示を受けました。

 彼は幻を見る度に、ひどく恐れたり、病気にかかったりしました。猛獣が次々と現れて、前の獣を次の獣が戦い、殺し、そして最後に鉄のきばを持った得体の知れない怪物が現れ、そこから小さな角が出て、世界を荒らしました。また他の幻では、聖所が荒らす憎むべき者に荒らされて、回復するまで二千三百日であると知らされました。そして、終わりの時の大きな戦いについての幻も示されました。彼は驚き、恐れ、食事も取れない程になりました。

 そのように体が弱まってしまう理由の一つは、理解することができないからです。何百年の後の戦いを詳細に知らされても理解することはできません。それだけでなく、自分が今受け取ることのできる容量というものがあります。情報量も、そして霊的にも非常に重いメッセージなのです。

 そして、もう一つの理由は、主の正義について、またその聖に自分自身が触れたからです。諸国の戦いの中に、主がご自分の義を表しておられます。ここまでおぞましいことがこれから起こるのか、そしてそれを主が起こされるのか、と悟れば、圧倒されて、倒れてしまっても仕方がありません。私たちが黙示録を読むときに、どのような気分になるでしょうか?人がここまで酷いことができるのか?また、これから地球がこんな酷い状況になるのか?あまりにも深刻なので、真剣に読み進めたら、気だけでなく体も重くなります。

 これまでイザヤ書で、「何々に対する宣告」と書いてある「宣告」は、「重荷」とも訳すことが出来る言葉ですが、事実、内容が非常に重すぎて、イザヤは今、ひどく恐れているのです。

21:5 彼らは食卓を整え、座席を並べて、飲み食いしている。「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」

 これは、ダニエル書5章に書かれている出来事です。バビロンのネブカデネザルの孫ベルシャツァルが大宴会を催しています。ネブカデネザルがエルサレムの神殿から持ってきた、金や銀の器と使って酒を飲み、金、銀、鉄、石、木で造られた神々をあがめました。乱痴気騒ぎをしていたのです。

 そして、覚えていますね、壁に人の手が現れました。ベルシャツァルの足は文字通りがくがく震えました。そして彼の母を通して、すでに90歳以上になっていただろうダニエルが呼ばれました。彼は、ベルシャツァルがネブカデネザルに身に起こったことも知らずに、なおも天地を造られた神を拝まず、偶像に浸っていることを咎め、その文字の意味を解き明かしました。あなたの治世はこれで終わった、あなたの悪は積み上げられた。今、この国は分割されるというメッセージでした。そしてその夜、彼はメディヤ・ペルシヤによって殺されるのです。

 ここで興味深い対照的な場面が書かれています。バビロンの人々が、食卓を整え、座席を並べて飲み食いしている、つまりどんちゃん騒ぎをしているときに、メディヤとペルシヤの軍は、「立ち上がれ、首長たち。盾に油を塗れ。」と出陣する呼びかけを行なっていたことです。

 これが、罪が私たちに対して行なうことです。私たちが罪の中に耽ると、危険が差し迫っているのにそれに完全に無感覚になって、自分たちが殺されるまで分からない、という状態です。主の日が盗人のように来、人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのような時に、突如として滅びが襲いかかるのです(1テサロニケ5:23)。

21:6 主は私にこう仰せられた。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。21:7 戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。」

 主はイザヤに、見張りを立たせることを命じられています。メディヤ・ペルシヤの軍がバビロンの町の中に入るのを見張る人を立たせています。ちなみにペルシヤ軍は、馬を戦闘に使いませんでした。ここにあるように、ロバとらくだを使いました。

21:8 すると獅子が叫んだ。「主よ。私は昼間はずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。

 「獅子」とありますが、羊飼いが危険を感じたときに、周りに知らせる呼びかけの言葉として「獅子だ」という言葉が使われていたそうです。

21:9 ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。『倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。』と。」

倒れた」と二回、叫んでいます。初めのほうは、主語のバビロンを省略してただ「倒れた」と叫んでいます。主語を飛ばしてしまうぐらい、興奮していたのです。倒れたことに対する驚き、けれども期待して待っていたことがついに実現したことの喜びも交じった驚きです。

 この言葉を、黙示録18章、大淫婦のバビロンが倒れた時にも御使いが使っています。「倒れた。大バビロンが倒れた。(2節)」と力強く叫んでいます。これまで全世界の王どもを我が物にしていたバビロン、聖徒や預言者の血を飲み干していた大バビロンが今ついに倒れた、ということです。

 私たちも期待して、ずっと待っていることがあるでしょう。ずっと耐え忍んで、うめきながら待っていることがあるでしょう。それはこの世界の贖いです。また、自分の体の贖いです。「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ8:22-23」この世は不動のように見えます。けれども主が必ず滅ぼしてくださる時があるのです。

 そしてメディヤとペルシヤの軍人たちは、「その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれた。」と言いました。当時の戦いは、各国を代表する神と神の戦いでした。一つの国が他の国に勝つと、勝った国の神が負けた国の神を打ち負かした、ということになります。

 彼らは異教徒ですから、そのような意味でこの言葉を言ったのですが、実は霊的な預言の言葉になっていたのです。黙示録18章2節で、御使いが叫んでいる言葉と同じだからです。悪霊どもの住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣窟、と叫びました。バビロンは、偶像崇拝の発祥地、この世の偽りの宗教の発祥地です。バベルの塔の時のことを思い出してください。彼らは天に届く塔を建てようとしましたが、その上で星や月、いわゆる占星術を行なおうとしていました。終わりの時には、神々と呼ばれるものはなくなり、名前はただ一つだけになります。栄光もただ一つになります。

21:10 踏みにじられた私の民、打ち場の私の子らよ。私はイスラエルの神、万軍の主から聞いた事を、あなたがたに告げたのだ。

 これらは、バビロンに踏みにじられたユダヤの民に対する神の言葉だ、ということです。後に出てきますが、エルサレムにいる彼らがこのような神の御告げについて無頓着であり無関心でした。イザヤは、愛している同胞の民の、そのような心に叫び声を上げているのです。

2B 夜のエドム 11−12
21:11 ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」

 ドマは「静か」という意味ですが、国はエドムです。「セイルから」とありますね。これはエドムです。今、エドムが先ほど登場した見張りに、「夜回りよ。今は夜の何時か。」と聞いています。一度聞いても返事がなかったのでしょう、もう一度、「夜回りよ。今は何の何時か。」と聞いています。

21:12 夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」

 非常にそっけない返事です。答えるのも億劫という感じも伺えます。

 この会話は何を意味しているのでしょうか?前から学んでいるように、イザヤが預言を行なっている時期はアッシリヤが勢力を拡大している時です。エドムはモアブの南にある国ですが、モアブが踏み荒らされたのですから、自分たちも踏み荒らされます。これをエドムは「夜」と例えているのです。

 ユダの周辺諸国は、アッシリヤの脅威に対して、活発な外交活動を展開させていました。それでエドムがユダにも使いを送って、聞いたのです。アッシリヤの脅威が去るのはいつなのか、アッシリヤから解放されて朝になるのはいつぐらいなのか、と。

 それに対するイザヤの答えは、「夜が明けても、また夜になるよ。」でした。具体的にはアッシリヤがいなくなって、その後にバビロンが来ます。民としては新約時代に、イドマヤ人として残っています。エドム人のことです。ヘロデ王がイドマヤ人です。そして民族として彼らはいなくなります。

 主の預言者は、主の心を代表しています。イザヤのそっけない返事は、主ご自身がエドム人に対して語るべき言葉が少ない、ということです。それはエドム人自身が、神に関する事柄について無関心だからです。先祖エサウが、一杯の食物と引き換えに長子の権利を売ったことを思い出してください。それだけ神のことを度外視していました。

 それで神もエサウに対しては何も語ることがおできになりませんでした。イドマヤ人であるヘロデに対して、主は何かお語りになったでしょうか?ピラトがエルサレムに訪問中にヘロデのところにイエスを送った時、ヘロデはいろいろな質問をしましたが、イエス様は完全に口を閉ざした状態でした(ルカ23:9)。ヘロデの質問は真摯なものでは全くなく、イエス様が何か奇蹟を行なう魔術師のように考えていたのです。

 以前、私が伝道していたときに、家に青年が来ました。非常に熱心になってきたのですが、その理由はすべて失恋でした。それを私たちに分かってほしいと思って熱心に私たちのところに通っていたのですが、私たちが解決できないことを話すと、彼はぽつりと来なくなりました。キリストを求めるのではなく、全く別のものを求めているとき、主はその人に対する言葉を失います。

3B アラビヤの敗北 13−17
 次はアラビヤに対する宣告です。

21:13 アラビヤに対する宣告。デダン人の隊商よ。アラビヤの林に宿れ。21:14 テマの地の住民よ。渇いている者に会って、水をやれ。のがれて来た者にパンを与えてやれ。21:15 彼らは、剣や、抜き身の剣から、張られた弓や激しい戦いからのがれて来たのだから。

 アラビヤは、今のサウジアラビアの地域に住んでいた人々です。イシュマエルの子孫であり、アラブ人です。ここの預言はアッシリヤの王サルゴンがアラビヤを攻めた時のことです。

 デダンの隊商らが今、逃げています。それでアラビヤの林に隠れています。そして、テマの地の住民が、その避難してきた人々に食糧や水を与えています。

21:16 まことに主は私に、こう仰せられる。「雇い人の年期のように、もう一年のうちに、ケダルのすべての栄光は尽き果て、21:17 ケダル人の勇士たちで、残った射手たちの数は少なくなる。」イスラエルの神、主が告げられたのだ。

 サルゴン王によって叩かれたアラビヤですが、彼らは当時のバビロンの王とともにアッシリヤに抵抗しました。その時、再びアッシリヤの王セナケリブがアラビヤを攻めました。このことによって、ケダルの勇士たちの人数が激減する、という預言です。

 アラビヤの地域の各部族たちは、互恵関係によって自分たちを守ろうとしたのだが、それは駄目になるということです。イザヤが、「イスラエルの神、主が告げられたのだ」と叫んでいます。主の目的は、すべての民がイスラエルの神、主により頼むことです。どんなにその社会の中では互いに助け合う制度がしっかりしていても、イスラエルの神、主に拠り頼まなければ滅んでしまう、という警告の御告げなのです。

2A エルサレムの驕り 22
 そして次は、不思議なことにエルサレムに対する主の宣告になっています。

1B 物に耽る人たち 1−14
1C 喧騒の町 1−4
22:1a 幻の谷に対する宣告。これはいったいどうしたことか。

 先ほどの「荒野の海に対する宣告」のように、国名、地名を名指しするのではなく、隠喩的に話しています。バビロン、エサウもアラビヤの地域もみな荒野でありますが、エルサレムは地形をかなり異にしています。「幻の谷」とあるとおり、エルサレムは谷がたくさんあります。小さな山々が連なっており、その間に谷があり、エルサレムの町を車で走ると、上がったり、下がったり、とても忙しいです。

 その中にたくさんの「幻」がありました。主がなんと数多くの預言者に、ご自分の幻をエルサレムついてお見せになったことでしょうか。

 しかし今、エルサレムは他の周辺諸国と同列に、主の重い宣告を聞かなければいけなかったのです。それは、エルサレムもこの世と同じように生きていたからです。非常に大事なことですが、主はえこひいきをなさらない方だ、ということです。ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、各人の行ないに応じて報いられる方です(ロマ2:611)。ユダヤ人であっても、悪を行なえばそれに対する神の怒りがあります。

 ペテロの手紙第一4章17節に、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」とあります。私たちが世と同じように生きるのであれば、世に対する裁きをもって主が臨むことになります。

22:1bおまえたちみな、屋根に上って。22:2a 喧噪に満ちた、騒がしい町、おごった都よ。

 エルサレムの旧市街に入ると、ここに描かれているのと同じ光景を見ます。城壁の上を徒歩で巡回するツアーもありますから、エルサレムの町がどうなっているかをじっくり眺めることができます。まず人々の家の屋根は上が平らになっています。洗濯物を干したり、さまざまなことをそこで行ないます。そして市場がありますから喧騒に満ちています。道は非常に狭くて、ごった返しています。

 ごった返して、騒がしいことがいけないことではもちろんありませんが、主を忘れて、自分のことばかりを考えて、物質的な生活をしているのであれば、大きな問題です。そしてそれがまさに、エルサレムの住民の問題でした。それゆえ、他に世の楽しみに耽っている国々と同列に、主が今、宣告をお与えになっているのです。

22:2bおまえのうちの殺された者たちは、剣で刺し殺されたのでもなく、戦死したのでもない。22:3 おまえの首領たちは、こぞって逃げた。彼らは弓を引かないうちに捕えられ、おまえのうちの見つけられた者も、遠くへ逃げ去る前に、みな捕えられた。

 ここの預言は、おそらく一回性の特定の出来事を預言したものではないでしょう。エルサレムに共通して横たわっていた問題を総合的に述べていると思われます。アッシリヤの脅威の中にいる時に見ることができたものでもあるし、またバビロンに包囲された時のことでもあります。

 バビロンに捕え移される時に、彼らは戦いませんでした。死んだのは、互いにわずかな食べ物を奪い合って、互いに殺したからでした。そして、王はすきを見て逃げましたが、途中で捕えられて、バビロンに捕え移されます。

 ここでの問題は、物だけを追い求めて、自分のことだけしか考えていないということです。本来、エルサレムは主からの幻を受け取るところです。その幻を見て、主の御前にひれ伏すところです。けれども世の楽しみに心が引き寄せられ、エルサレムの町のこと、ユダの国のこと、そして主ご自身のことを考えずに、自分のことだけを考えていました。

 私たちはどうでしょうか。主からの幻を受け取るために、へりくだって主の前に進み出ているでしょうか?それとも自分の生活やその周りのことしか考えていない、ということはありませんか。

22:4 それで、私は言う。「私から目をそらしてくれ、私は激しく泣きたいのだ。私の民、この娘の破滅のことで、無理に私を慰めてくれるな。」

 契約の民がこの世と同じように生き、この世と同じように裁かれるのを見るときのイザヤの心は、張り裂けんばかりの悲しみです。それを今、ここで言い表しています。

2C 武器への信頼 5−11
22:5 なぜなら、恐慌と蹂躙と混乱の日は、万軍の神、主から来るからだ。幻の谷では、城壁の崩壊、山への叫び。22:6 エラムは矢筒を負い、戦車と兵士と騎兵を引き連れ、キルは盾のおおいを取った。22:7 おまえの最も美しい谷は戦車で満ち、騎兵は城門で立ち並んだ。

 大丈夫だ、これからも同じようにのうのうと暮らしていける、と思っていたエルサレムの住民に危機が迫ります。初めはアッシリヤ軍の危機です。後にバビロン軍による包囲です。エルサレムの谷が戦車や兵士、騎兵で満たされ、騎兵が城門で立ち並びその城壁を崩そうとしています。

22:8 こうしてユダのおおいは除かれ、その日、おまえは森の宮殿の武器に目を向けた。

 もしここで彼らが主なる神に立ち返れば、本当にすばらしいことです。けれども彼らの心は物質にへばりついていました。「森の宮殿の武器」とありますが、これはソロモンが造った武器庫です。主ではなく武器に目を向けたのです。

22:9 おまえたちは、ダビデの町の破れの多いのを見て、下の池の水を集めた。22:10 また、エルサレムの家を数え、その家をこわして城壁を補強し、22:11a 二重の城壁の間に貯水池を造って、古い池の水を引いた。

 これはアッシリヤ軍の脅威を受けて、ヒゼキヤが果敢にエルサレムの町を守ろうとして行なった事業です。「下の池の水」というのは、あの有名なヒゼキヤの水道のことです。東の壁の外にギホンの泉があります。アッシリヤに包囲されたときに、自分たちの城壁の中から出て行って水を汲むことは危険で、到底できません。

 そこでヒゼキヤは泉の上の部分をふさぎ、地下に水道路を掘って、中に池を造りました。その終着点が下の池ですが、そこに新約聖書にも登場するシロアムの池があります。今でもそのヒゼキヤの水道の遺跡があります。その中を通ることもできます。

 そして城壁を補強しました。この時のヒゼキヤの果敢な行動には感動します。歴代誌第二32章1節から8節に書かれています。

22:11bしかし、おまえたちは、これをなさった方に目もくれず、昔からこれを計画された方を目にも留めなかった。

 歴代誌第二32章には、ヒゼキヤが主にあってユダの民を鼓舞している場面を読むことができます。けれども、すべての人が主にあって奮い立っていなかったのでしょう。ヒゼキヤ自身は、エルサレムを補強し、かつ主に拠り頼んでいたのですが、他の人々はエルサレムを補強するところまでしか見ていなかったでしょう。

 そして後年にバビロンに包囲されたとき、彼らはヒゼキヤの業績であるこれらの補強された町にいることだけを見て、主なる神を見ていなかったのです。

3C 最後の道楽 12−14
22:12 その日、万軍の神、主は、「泣け。悲しめ。頭を丸めて、荒布をまとえ。」と呼びかけられたのに、22:13 なんと、おまえたちは楽しみ喜び、牛を殺し、羊をほふり、肉を食らい、ぶどう酒を飲み、「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから。」と言っている。

 物への執着がここまで来るとすごいです。けれども、人のかたくなな心はここまで固いことを、聖書は教えてくれます。もし自分たちが拠り頼んでいた武器や城壁が役に立たなくなると、今度彼らが取った行動は、「もうこれで最後なんだから、最後の道楽を楽しませてくれ。」というものです。

 この箇所は、コリント人への第一の手紙15章で引用されています。死者の復活を否定する偽りの教えがコリントにある教会に入り込んでいました。そこでパウロが、その過ちを正しているのが15章の部分です。「もし死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。』ということになるのです。(32節)」と言っています。

 永遠の命の希望がなければ、今、自分が生きているこの物質的な世界だけが全てです。これが終わるのであれば、この物質的な世界で楽しめるものを楽しまなければいけない、と思います。復活の希望は単なる教理の話ではなく、私たちの日々の生活を決定する重要な教えなのです。

22:14 そこで万軍の主は、私の耳を開かれた。「この罪は、おまえたちが死ぬまでは決して赦されない。」と、万軍の神、主は仰せられた。

 物質への執着の処方箋は何でしょうか?その物質をなくすることです。主が少しずつ、彼らが持っているものをそいでいかれましたが、それでも彼らは最後の最後まで物質にしがみつきました。残るは滅ぼすことしかありません。具体的にはバビロン捕囚によって、彼らの罪を主は裁かれました。エルサレムの住民の多くが死ぬまで、主はそのままにされるしか方法がなかったのです。

2B 管理者の務め 15−25
 ここまでは、一般の民に対する主の宣告でしたが、次は指導者らに対する宣告になります。主は二人の対照的な議官をその代表として取り上げられます。一人はシェブナ、もう一人はエルヤキムです。二人とも、ヒゼキヤ王の下で働いていた議官であり、アッシリヤのラブ・シェケがエルサレムの住民に向かって脅しをかけていたとき、その言葉を聞いて、ヒゼキヤに報告した人々の中にいた二人です(イザヤ36:22)。

1C 自分への栄誉 15−19
22:15 万軍の神、主は、こう仰せられる。さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。22:16 あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。

 つまり、自分の栄誉のために動いていた、ということです。今のエルサレムにも、アブシャロムの墓など過去の指導者の墓があります。自分の栄誉を残しておくために尽力していました。根っこは一般のユダヤ人と同じです。主のことではなく、自分のことを求めていたことです。

22:17 ああ、ますらおよ。主はあなたを遠くに投げやる。主はあなたをわしづかみにし、22:18 あなたをまりのように、くるくる丸めて、広い広い地に投げ捨てる。あなたはそこで死ぬ。あなたの誇った車もそこで。主人の家の恥さらしよ。22:19 わたしはあなたをその職から追放し、あなたの地位から引き降ろす。

 彼の最期は、墓ではなく、広い広い地でした。捕え移された時に、その道筋で倒れたのでしょう。自分を高くしようとする者は低くされる、という主の原則のとおりです。

2C 公僕の姿 20−25
 次は対照的な政府役人が出てきます。自分を低めることで、主が高くしてくださった人です。

22:20 その日、わたしは、わたしのしもべ、ヒルキヤの子エルヤキムを召し、22:21 あなたの長服を彼に着せ、あなたの飾り帯を彼に締め、あなたの権威を彼の手にゆだねる。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。

 ここの「あなた」は、先ほどのシェブナのことです。彼の高い位を表すな長服、飾り帯を彼から取り上げて、代わりにエルヤキムに主が着せてくださいます。

 なぜそのような大きな権威、高い位を主はエルヤキムに与えられるのでしょうか?「わたしのしもべ」とありますね。主から言われたことを忠実に行なう僕の立場をエルヤキムは貫いたからです。

 主人から五タラント、二タラントそれぞれ預かった僕は、自分でそれを儲けて、それぞれ十タラント、四タラントにしました。そしてそれぞれの僕に主人は、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。(マタイ25:21,23」と言いました。興味深いのは、五タラント預かった僕にも、二タラント預かった僕にも、同じように主人がほめたことです。主人がうれしいのは、その忠実さです。量的な成果ではなく、任された物に対して忠実であったことです。

 天国に行けば、何十万人、何百万人の人をこれまでキリストに導いたビリーグラハム伝道師と、一人の息子をキリストにあって育て上げた一人の母親は、同じような報いを主からいただきます。忠実であるかどうかなのです。

22:22 わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。

 エルヤキムは、大きな権威を主から与えられます。エルサレムの町の鍵を任されるというのは、自分が最終的な決定を下す権威が任されている、ということです。

 興味深いことに、ここの箇所は黙示録3章で引用されており、キリストご自身についての預言になっています。主がフィラデルフィヤにある教会に対して、こうお語りになりました。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。(7節)」エルヤキムへの主の報いから、預言はキリストご自身に移っていたのです。

 そこの黙示録3章のフィラデルフィヤの教会に対する主の御言葉にも、「あなたがたには、少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8節)」とあります。忠実であることが主によってほめられています。

22:23 わたしは、彼を一つの釘として、確かな場所に打ち込む。彼はその父の家にとって栄光の座となる。22:24 彼の上に、父の家のすべての栄光がかけられる。子も孫も、すべての小さい器も、鉢の類からすべてのつぼの類に至るまで。

 神の国においけるキリストの栄光と、その影響です。すべてのあらゆるもの、小さな器に至るまでキリストの栄光が反映されています。

22:25 その日、・・万軍の主の御告げ。・・確かな場所に打ち込まれた一つの釘は抜き取られ、折られて落ち、その上にかかっていた荷も取りこわされる。主が語られたのだ。

 これはバビロンによって、神殿そのものが破壊され、釘も抜き取られてしまう預言でありますが、と同時に、ユダヤ人の王であるキリストがその王位から抜き取られ、折られて落ちる、というキリストの受難をも予告している預言です。

3A ツロの豪奢 23
 次はツロに対する主の宣告です。

 バビロンの崩壊、そしてエルサレムの奢りに続いてツロの町が出てくるのは非常に興味深いです。バビロンの崩壊を招いたのは、富と権力への安住でした。大宴会の最中にメディヤ・ペルシヤによって滅ぼされました。エルサレムも同じく、物質主義から離れることはできませんでした。けれどもツロは、その物質主義を支える土台である富と商業の発祥地でありました。

 ツロは都市国家です。アッシリヤやバビロンのように広大な土地を持っていません。彼らの舞台は地中海です。世界貿易の中心の都市として膨大な富を蓄積し、その経済力によって世界を動かしていました。今で言ったら、サウジアラビアみたいなところでしょうか。国としては力がないですが、石油によって世界経済を左右する力を持ち、そこには大金持ちがいます。ツロがそのようなところだったのです。

 世界に台頭した帝国であるアッシリヤは、ツロの町を破壊しました。けれどもアッシリヤが力を失ってツロは70年後に再び力を持ちます。この章の後で七十年後に力を持つ話が出てきます。そしてバビロンがその町を包囲して、破壊しました。しかしツロは、海に力を持っている民です。陸地から数百メートル離れた島に財産や物資を移動しており、ネブカデネザルが攻め入った時には、そこには何もなかったのです。

 ツロは海軍に優れていました。地中海の軍事はツロに握られていました。そのためアッシリヤもバビロンも太刀打ちできなかったのです。ところがギリシヤのアレキサンダー大王が、とんでもないことを行ないました。陸地から数百メートル離れた島に、ツロの中にある瓦礫で埋め立て、土手道を人工的に作っていったのです。それで紀元前332年に、ツロの町がギリシヤによって陥落しました。

 このことの模様は、エゼキエル書26章に詳しく描かれています。あまりにも詳細に描かれているので、アレキサンダーはエゼキエルの預言を読んでから海の埋め立て案を考え出したのではないか、とまで言われるぐらいです。そしてエゼキエル書26章から28章までにツロに対する預言があり、そこにイザヤ書14章に出てくるルシファーと同じく、その背後で働いている悪魔の姿が描かれています。

 ここのツロに対する宣告は、主にアッシリヤがツロを攻めた時のものでしょう。けれどもアッシリヤだけではなくその後のバビロン、そしてギリシヤによる破壊も視野に入っていると思われます。

1B 商業的損失 1−14
1C 泣き喚き 1−9
23:1 ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、とキティムの地から、彼らに示されたのだ。

 タルシシュは、今のスペインにある町で鉱石で有名だったところではないかと言われています。当時の世界でもっとも遠くに航行することができる船として、「タルシシュの船よ」と呼ばれているわけです。

 ツロが破壊されました。そこでツロによって収益を得ていた者たちが海の向こうから自分たちの損失を嘆き、泣き喚いているのです。「キティム」とはキプロスのことです。地中海に浮かぶ、ツロの近くにある島ですね。そこからツロがなくなったことを嘆いています。

23:2 海辺の住民よ。黙せ。海を渡るシドンの商人はあなたを富ませていた。

 次は、海辺の住民に対して語られています。地中海の沿岸にあるツロが築き上げた植民都市のことです。「黙せ」と命じられています。これまで騒がしく、商業に明け暮れていた者たちが、今、黙れ、と言われているわけです。

 シドンは、ツロの北にある町ですね。ツロとともにフィニキヤ人、あるいはカナン人の都市国家として栄えていたところです。

23:3 大海によって、シホルの穀物、ナイルの刈り入れがあなたの収穫となり、あなたは諸国と商いをしていた。

 シホルはエジプトからのもの、そしてナイルの刈り入れももちろんエジプトからのものです。世界をまたにかける貿易を彼らは繰り広げていたのです。

23:4 シドンよ、恥を見よ、と海が言う。海のとりでがこう言っている。「私は産みの苦しみをせず、子を産まず、若い男を育てず、若い女を養ったこともない。」

 これは非常に興味深い言葉です。海の上で行き交っていた商品は、何の努力もせずに蓄積されていく富の手段でありました。現代であれば株価、不動産のようなものです。何もしなくても、どんどんお金がたまっていくからくりがあります。

 黙示録に登場する大淫婦バビロンも、「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。(18:8」と言っています。彼女によって多くの聖徒たちが血を流したのに、彼女は痛みも苦しみも悲しみも経験していない、とのことです。

 これが、主がお語りになる福音に真っ向から対立します。「富んでいるあなたがたは、哀れな者です。・・・いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。・・・いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。(ルカ6:24,25」と主は言われました。今、私は大丈夫だから、神にもキリストにも頼る必要はないよ、という慢心です。じゃあ、何があなたを大丈夫にさせているのですか?それが健康であったり、財産であったり、家であったり、恋愛であったり、この世そのものです。

23:5 エジプトがこのツロのうわさを聞いたなら、ひどく苦しもう。

 エジプトがツロから得ていた収益が、一気にパアです。

23:6 海辺の住民よ。タルシシュへ渡り、泣きわめけ。

 貿易商人たちは次々にタルシシュへ向かっています。

23:7 これが、あなたがたのおごった町なのか。その起こりは古く、その足を遠くに運んで移住したものを。

 興味深い預言です。先ほど話したように、ツロの町は実は二つあります。陸地のツロと海に突き出したツロです。バビロンがツロを包囲しているときに、住民は島のほうに移住しました。

23:8 だれが、王冠をいただくツロに対してこれを計ったのか。その商人は君主たち、そのあきゅうどは世界で最も尊ばれていたのに。

 富を持っていますから、経済力がありますから、単なる世界の君主たちにも影響力を持っていました。何にも支配されない王のような立場を得ていたのです。

23:9 万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。

 ここです、誰にも支配されていないと奢っていたツロは、すべての主権を持っておられる神に裁かれました。世界の歴史はこの連続です。アッシリヤも自分以上に力を持っている者はないと誇り、裁かれました。バビロンもネブカデネザルが自分の権力によって、自分の力によってこの栄光があるのではないかと誇ったら、獣のようにされました。自分が頂点に立っていると思っている時に、すべての者の上におられる神が裁かれます。

2C 主の決意 10−13
23:10 タルシシュの娘よ。ナイル川のように、自分の国にあふれよ。だが、もうこれを制する者がいない。23:11 主は御手を海の上に伸ばし、王国をおののかせた。主は命令を下してカナンのとりでを滅ぼした。

 これまで不滅のとりでだと考えられていたツロは、主の命令によって滅びました。

23:12 そして仰せられた。「もう二度とこおどりして喜ぶな。しいたげられたおとめ、シドンの娘よ。立ってキティムに渡れ。そこでもあなたは休めない。」

 エルサレムが滅んだときにツロは大喜びした、あざけった、とエゼキエル26章にあります。そのようなことはもう二度とするな、ということです。

23:13 見よカルデヤ人の国を。・・この民はもういない。アッシリヤ人がこれを荒野の獣の住む所にした。・・彼らは、やぐらを立てて、その宮殿をかすめ、そこを廃墟にした。23:14 タルシシュの船よ。泣きわめけ。あなたがたのとりでが荒らされたからだ。

 ツロの町を始めはアッシリヤが、次にバビロンが攻めました。「この民はもういない」というのは、まだバビロンが小国でアッシリヤに抵抗したときに、アッシリヤがバビロンを攻めた時のことを話しています。

2B 主の征服 15−18
23:15 その日になると、ツロは、ひとりの王の年代の七十年の間忘れられる。七十年が終わって、ツロは遊女の歌のようになる。23:16 「立琴を取り、町を巡れ、忘れられた遊女よ。うまくひけ、もっと歌え、思い出してもらうために。」

 遊女も七十年経てば、老女になりますね。自分で呼び寄せて、自分の客を探している歌が、この歌です。

 おそらくこの七十年は、アッシリヤがツロを攻めたが、アッシリヤがバビロンにとって代わった時に独立を回復した期間のことと思われます。

23:17 七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と淫行を行なう。

 再び貿易を開始する、ということです。そして次に興味深い預言があります。

23:18 その儲け、遊女の報酬は、主にささげられ、それはたくわえられず、積み立てられない。その儲けは、主の前に住む者たちが、飽きるほど食べ、上等の着物を着るためのものとなるからだ。

 再び売春によって収益を出していくのですが、これまでと違い、富の蓄積はできなくなる、ということです。その理由は、主に住む者たちが儲けを使っていくからだ、とあります。

 具体的にはバビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人がエルサレムの神殿建設を指していると思われます。エズラ記3章7節に、神殿建設の労働者に、ツロとシドンから来た人々がいることが言及されています。

 つまりツロは再び富を得る町に復興したが、その富の力が主のご目的のために飲み込まれた、ということです。主が征服されたと言っても良いでしょう。

 これまで周辺諸国に対する預言を読みました。ユダを奴隷にしたバビロンが奈落の底に落ちました。モアブはシオンに助けを求めなかったので滅びます。シリヤはイスラエルとともに滅びますが、わずかに残っている人がイスラエルと共に主に立ち返ります。エチオピヤはユダに贈り物を持ってきます。エジプトは神によって「わたしの民」と呼ばれ、アッシリヤとともに主に仕えます。

 そして今回読んだ箇所です。すべて、「この世にあるものを主が征服する」というシナリオになっています。それぞれの国は、自分たちが他国を打ち滅ぼして征服すると考えていましたが、実は主がそれらの国々をご自分の主権の下に置かれるのです。自分の欲望、自分の権力のために得た財産、権力、土地が、最後にはすべて主の栄光のために用いられるのです。神の国の中に飲み込まれます。

 ローマ人への手紙8章28節によりますと、「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とあります。そして、その後に「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(8:37」とあります。英訳の聖書ですと、more than conquerorsつまり「征服者以上なのです」と訳されています。

 このことを信じましょう。すべてのものが神の御国の中に飲み込まれるのを信じ、その幻を抱きましょう。そして神の御国は、主が再臨されるときだけでなく、霊的には福音に服従するすべての人々の間にあります。今、自分の周りにあるすべてのものが実は主の御手の中にあり、主がご自分の思うままに扱われることを信じましょう。


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