イザヤ書24−26章 「主へのほめ歌」

アウトライン

1A 患難において 24
   1B 荒れ廃れる地 1−6
   2B 嘆き悲しみ 7−13
   3B 地の震え 14−20
   4B 刑罰 21−23
2A 救いにおいて 25
   1B 横暴な国の崩壊 1−5
   2B 主の山での宴会 6−12
3A 義において 26
   1B 強固な町 1−6
   2B 裁きの道 7−11
   3B 平和と苦難 12−19
   4B 隠れ部屋 20−21

本文

 イザヤ書24章を開いてください、今日は24章から26章までを学びたいと思います。ここでのメッセージ題は「主へのほめ歌」です。

 私たちが順番にイザヤ書を1章から学んでいるにあたって、発見することが一つあります。それは、イザヤが主から与えられる幻がどんどん広くなっていることです。彼は、自分がいるエルサレムとユダで不義と汚れを見て、それに憤慨して預言していました。けれども彼は、主の御座の幻を見ました。自分自身も汚れていることを悟り、自分が災いだと叫びましたが、主が彼の口をきよめてくださり、再び改めて彼を預言活動へと召し出してくださいました。

 そうしたら次に、ユダの中だけでなく、ユダを取り巻く環境について主から幻が与えられました。ユダを攻めようとするシリヤと北イスラエル、そしてそのシリヤと北イスラエルを倒し、ユダにまで押し寄せるアッシリヤについての幻を彼は見ました。

 そして幻はさらに拡大します。13章から周辺諸国に対する主の宣告が始まるのです。ユダを奴隷とし、自分の国に捕え移すバビロンが崩壊する預言から始まり、ペリシテ、モアブ、シリヤと続き、そしてエチオピヤ、エジプトへと預言が広がりました。そのつど、主は諸国の民にもご自分の救いを広げようとされていることが分かります。最後のエジプトに対する宣告においては、彼らを自分の民と呼び、アッシリヤをもご自分に引き寄せ、エジプトとアッシリヤの全域が主に仕えるための場所になることをお示しになりました。

 そして再びバビロンの崩壊から始まる宣告がありました。前回学んだ箇所です。ここでの強調点は、この世の楽しみです。パーティーに耽っていたバビロンを主は崩壊させ、また同じように物質主義に陥っていたエルサレムも主は崩壊させ、そして富の発祥地であるツロを倒すことをお語りになりました。ツロは回復しますが、その時の富は主の前に立つ人たちのために使われると宣言されました。

 このようにイザヤの預言は、ユダの中で起こっている小さなことから、周辺諸国に対する主のご計画まで拡大しています。そして今日学ぶ箇所で、さらに広がります。周辺諸国ではなく、全世界に対する主の御心です。これまで主がユダと周辺諸国に行なわれたことが、全世界の規模で同じように行なわれることを示しておられます。

 具体的には、現代の私たちを越えて、将来、終わりの時に主が行なわれることが、24章から27章までに記録されています。しばしばここの箇所は、「イザヤの黙示録」と呼ばれます。ダニエル書、ヨハネの黙示録のように、終わりの時のことを詳細に述べているからです。

1A 患難において 24
1B 荒れ廃れる地 1−6
24:1 見よ。主は地を荒れすたらせ、その面をくつがえして、その住民を散らされる。

 ここの箇所から、大患難時代に関する預言が始まります。イエス様は、オリーブ山のところで弟子たちに、「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:21」と言われました。その苦難の一つが、地を荒れ廃らせることと、その面を覆すことです。

 黙示録6章12節に、小羊イエス様が第六の封印を解かれる場面が出てきます。「私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。そして天の星が地上に落ちた。それは、いちじくが、大風に揺られて、青い実を振り落とすようであった。天は、巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移された。(12-14節)

 これまで私たちが経験した地震は、ものすごいものがありました。最近の地震はその規模と、頻度において酷くなっています。けれども終わりの時に起こる地震はこれまでのものとは比べ物になりません。すべての山や島がその場所から移されるような規模です。ここイザヤ書には「面をくつがえす」とありますが、単なる振動、揺れではなく地殻変動を伴うほどの大きさであり、かつ地域的ではなく全世界的な規模で起こります。

24:2 民は祭司と等しくなり、奴隷はその主人と、女奴隷はその女主人と、買い手は売り手と、貸す者は借りる者と、債権者は債務者と等しくなる。

 地震のような災害において行なわれることは、「平等化」です。平穏な時には存在している上下関係、力関係、身分、財産の大小が、災害によって平等化されます。地震の災害で喘いでいる時に、私たちは金銭を求めません。自分の命が救われることだけを求めます。その他のことは二の次です。

 そして大患難の時には、この平等化が徹底的に行なわれます。神様の裁き、そしてその後の救いというのはこういうものです。私たちは自分たちの能力で自分を高め、また低くします。「民と祭司」そうですね、宗教的な差別があります。「奴隷と主人」社会的な差別があります。「買い手と売り手」つまり経済的格差です。けれども神の審判の前には、これら自分が持っている物、自分の能力や財産などは全く意味がありません。

 そして同じように、救いも平等です。主の前にへりくだり救いを求めること、これは能力の差、地位の差、財産の差に関係なく誰にでも出来ることです。主は、私たちの世の制度の中で隔てとなっている壁をすべて打ち壊し、全ての者が神の前に出ることができるように患難を下されます。

24:3 地は荒れに荒れ、全くかすめ奪われる。主がこのことばを語られたからである。

 地震が起こると、経済的損失がいくらいくらとニュースにしばしば出てきますね。ちょうど略奪された時のように、巨額の富が地震によって失われます。

24:4 地は嘆き悲しみ、衰える。世界はしおれ、衰える。天も地とともにしおれる。

 先に読んだ黙示録6章の箇所には、地だけではなく天にも異変が生じることを教えていました。太陽が黒くなり、月が赤くなり、星が、木の実が落ちるように落ちてくる、とありました。

24:5 地はその住民によって汚された。彼らが律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破ったからである。

 私たちはしばしば、災難な目に遭うと、「なぜ神はこんな酷いことを許されるのか。」と神を非難します。しばしば起こっている悪いことを見て、なぜ神はこんな悪を許容されるのか、と責めます。けれどもそれは見当違いです。ここにはっきり書かれているように、このような悪い世界になっているのは、地の住民が律法を犯し、定めを変え、とこしえの契約を破っているからです。

 主は、この地を祝福し、良いものとしてお造りになりました。これを変えたのは人間であり、人間の罪です。

24:6 それゆえ、のろいは地を食い尽くし、その地の住民は罪ある者とされる。それゆえ、地の住民は減り、わずかな者が残される。

 黙示録を読むと、地上の住民の数が激減することを見ることができます。封印が解かれると、剣や飢饉や疫病によって四分の一が死にます。ラッパの裁きでは、自然界の三分の一が滅びます。水も汚くなるので多くの人が死ぬ、とあります。そして底知れぬ所から悪霊どもが出てきます。騎兵のような悪霊が人類の三分の一を殺す、とあります。

 さらに、殉教者も数多くでてきます。獣の刻印を拒む者は殺されることが書かれています。そして最後の鉢の裁きでは、これら獣の国の住民に太陽の光線で焼くことが許されますが、それにおいても大勢死にます。最後はハルマゲドンの戦いです。ここでも大勢死にます。どんどん殺されていますから、残るのは本当にわずかです。

2B 嘆き悲しみ 7−13
24:7 新しいぶどう酒は嘆き悲しみ、ぶどうの木はしおれ、心楽しむ者はみな、ため息をつく。24:8 陽気なタンバリンの音は終わり、はしゃぐ者の騒ぎもやみ、陽気な立琴の音も終わる。24:9 歌いながらぶどう酒を飲むこともなく、強い酒を飲んでも、それは苦い。24:10 乱れた都はこわされ、すべての家は閉ざされて、はいれない。24:11 ちまたには、ぶどう酒はなく、悲しみの叫び。すべての喜びは薄れ、地の楽しみは取り去られる。

 大患難の影響は、人々を平等にするだけでなく世の楽しみを無くします。楽しみそのものは、悪いことでは決してありません。私たちは主から与えられたものを楽しんでいいのです。毎日の食べ物、また休息の時のレジャーなど、主に感謝してそれを楽しむことができます。

 けれども、主がおられないところにある楽しみは空しいです。ソロモンが伝道者の書でそのことを雄弁に語りました。その楽しみは、主ではなく自分自身を喜ばせているだけだからです。このような楽しみを終わりの時に主は終わらせます。

24:12 町はただ荒れ果てたままに残され、城門は打ち砕かれて荒れ果てる。24:13 それは、世界の真中で、国々の民の間で、オリーブの木を打つときのように、ぶどうの取り入れが終わって、取り残しの実を集めるときのようになるからだ。

 以前も話しましたが、オリーブの収穫において、オリーブの木の上にある数個の実は採りきることはできません。そのわずかな実のように、主が裁かれる時もわずかな者だけが生き残る、というのことです。

3B 地の震え 14−20
 そして次に興味深い記述があります。

24:14 彼らは、声を張り上げて喜び歌い、海の向こうから主の威光をたたえて叫ぶ。24:15 それゆえ、東の国々で主をあがめ、西の島々で、イスラエルの神、主の御名をあがめよ。24:16a 私たちは、「正しい者に誉れあれ。」という地の果てからのほめ歌を聞く。

 大患難において、これまで楽しんで来た人たちがため息をつき、悲しむのと対照的に、大患難において、これまで苦しんで来た人たちが喜びます。黙示録7章において、大患難から抜け出て来た人たちが、大喜びで主を賛美している姿を見ることができます。あらゆる国、民族、国語から来た人々で、主を信じたがゆえに苦しみ、殺され、天に召された人々です。

 主が山上の垂訓で語り始められた、八つの幸いは福音の中枢であり、かつ終わりの時の姿です。私たちが今、自分の罪のゆえに悲しんでいるでしょうか?心が砕かれているでしょうか?義に飢え渇いているでしょうか。迫害を受けているでしょうか?もしそうなら、それは幸いなことです。その人には真の喜びが、霊的喜びがあります。

24:16bしかし、私は言った。「私はだめだ、私はだめだ。なんと私は不幸なことか。裏切る者は裏切り、裏切り者は、裏切り、裏切った。」

 イザヤは今、地上に下る患難の姿をまだ見ています。世界中から贖い出された人は天で賛美していますが、地上ではさらに苦しみが続くからです。

24:17 地上の住民よ。恐れと、落とし穴と、わなとがあなたにかけられ、24:18a その恐れの叫びから逃げる者は、その落とし穴に落ち、落とし穴からはい上がる者は、そのわなに捕えられる。

 つまり逃れられない、ということです。自分で自分を救い出そうとする人は、必ずその命を失います。いつ、そのもがきをやめて、主に自分の魂を明け渡すのかが問われているのですが、最後までもがく人々の姿がここに描かれています。

24:18b天の窓が開かれ、地の基が震えるからだ。24:19 地は裂けに裂け、地はゆるぎにゆるぎ、地はよろめきによろめく。24:20 地は酔いどれのように、ふらふら、ふらつき、仮小屋のように揺り動かされる。そのそむきの罪が地の上に重くのしかかり、地は倒れて、再び起き上がれない。

 ものすごい規模の地震です。地の基そのものが揺らぎます。黙示録16章の最後に、第七の鉢が地にぶちまけられた後、「この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。(18節)」とあります。

4B 刑罰 21−23
24:21 その日、主は天では天の大軍を、地では地上の王たちを罰せられる。24:22 彼らは囚人が地下牢に集められるように集められ、牢獄に閉じ込められ、それから何年かたって後、罰せられる。

 主は、大患難の終わりの時に諸国の軍隊がご自分に歯向かわせるようにさせます。第六の鉢が、ハルマゲドン、つまり今のイスラエルのメギド平野に、世界の王たちを集めるようにさせます。そして彼らが最終的に、天から戻ってこられる主に対して戦いを挑みます。しかし主は彼らを、ご自分の口から出てくる剣によって倒され、イスラエルとモアブ、エドムの地域一帯は、その死体と血でいっぱいになることが預言されています。

 そしてこれら死んだ王たちは、陰府に下ります。ここにある「囚人の地下牢」がそれです。悪魔も底知れぬ所に鎖でつながれます。けれども千年後に解き放たれます。そして多くの者たちが惑わされ、ともにエルサレムを取り囲みます。けれども天からの火が来て、彼らを焼き尽くします。その後は、永遠の火、ゲヘナに投げ込まれます。

24:23 月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。

 これは比喩的な表現です。主の栄光があまりにも明るく輝いているので、月や太陽の光が負けてしまうほど、という意味です。それだけ栄光が輝いている、ということを強調しています。再臨の主はエルサレムに戻ってこられて、そこから世界を統治されます。

2A 救いにおいて 25
 そして25章から歌が始まります。先ほども歌がありましたが、25章と26章には、大患難が終わり、神の国が建てられた時に、つまり主の救いが完成した時にうたう歌です。

1B 横暴な国の崩壊 1−5
25:1 主よ。あなたは私の神。私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、まことに、忠実に成し遂げられました。

 すばらしいですね、神のことを個人的に「私の神」と呼んでいます。そして、主が神の国を建てたのは、いま考え出したことではなく、「遠い昔からの不思議なご計画」です。主は必ず、私たちに神の国を与えてくださいます。

 そしてそれを「忠実に成し遂げられた」とあります。主が忠実であられること、主が真実な方であられること、これが私たちを賛美へと導くのです。私たちがどれだけ、神の真実を体験しているでしょうか?

25:2 あなたは町を石くれの山とし、城壁のある都を廃墟にされたので、他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。

 覚えていますか、バビロンの町は永遠の廃墟となることを主は定められましたが、終わりの時、都バビロンだけは廃墟として、千年王国の時にも残っています。

25:3 それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、横暴な国々の都も、あなたを恐れます。

 これも覚えていますか、エチオピヤは自分たちが力強い国民だと誇っていましたが、彼らがユダにおられる主に贈り物をささげます。

25:4 あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴な者たちの息は、壁に吹きつけるあらしのようだからです。

大患難の時に、主はユダヤ人の残りの民を守られます。終わりの時に、ユダヤ人はこれまでにかつてないほどの迫害を受けます。マタイ24章にも書かれているし、また黙示録12章にも、竜に追われる女として描かれています。しかし主は、残りの民をご自分が再臨されるまで守られます。

 そしてこの神の取り扱いは、大患難の時だけでなく、またユダヤ人だけでなく、福音を信じるすべての人に与えられる守りです。福音を信じるとは、自分を貧しくすることです。自分の誇りを捨てることです。自分を主の前に弱くすることです。そのような人に対して主は砦、避け所となってくださいます。

25:5 砂漠のひでりのように、あなたは他国人の騒ぎを押え、濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、横暴な者たちの歌はしずめられます。

 覚えていますか、山上の垂訓で、「柔和な人は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5:5)」と主は教えられました。主はもともと、柔和な人に地を支配するように定めておられました。神に頼るアダムに、地上のものを支配せよ、と命じられました。けれども地上は、高慢な者、騒がしい者、横暴な者が支配するようになりました。けれども、終わりの時には主が意図されたとおり、地を回復されます。騒ぎや横暴な者たちは完全に静められます。

2B 主の山での宴会 6−12
 そして千年王国は、大きな宴会で始まります!

25:6 万軍の主はこの山の上で万民のために、あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。

 先ほど、私たちは主にあって楽しむことを許されていることを話しました。けれども世の楽しみは、自分を楽しませることだけを求めるので、主はそれを患難の中で終わらせる、ということでした。けれども本当に主にあって喜ぶこと、楽しむことはすばらしいことです。主イエス・キリストがエルサレムから、シオン山から統治される時に、ここに書かれてあるような大きな宴会を設けられます(マタイ8:11、黙示19:9参照)。

25:7 この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、

 主の栄光が見えなくなっていたその覆いを取り除く、ということです。今、キリストに目を向けるなら、今でも主の栄光を見ることができます。「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。(2コリント3:16

25:8 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。

 すばらしいですね、永久に死が滅ぼされます。そして死に伴う悲しみや涙、そしりも取り除かれます。黙示録21章にて、天からのエルサレムが降りてくる時、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(4節)」と約束されています。

 そして死については、私たちが朽ちない復活の体を着るときに、「『死は勝利に飲み込まれた。』としるされている、みことばが実現します。(1コリント15:54」復活が死を究極的に終わらせます。

25:9 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう。」

 ここに待ち望むことの重要性が書かれています。待ち望んでいるからこそ、今の私たちに希望があり、この希望によって救われているのです(ロマ8:24)。

25:10 主の御手がこの山にとどまるとき、わらが肥だめの水の中で踏みつけられるように、モアブはその所で踏みつけられる。25:11 泳ぐ者が泳ごうとして手を伸ばすように、モアブはその中で手を伸ばすが、その手を伸ばしてみるごとに、主はその高ぶりを低くされる。25:12 主はあなたの城壁のそそり立つ要塞を引き倒して、低くし、地に投げつけて、ちりにされる。

 モアブは、シオンの山、エルサレムの東、死海の東にある国です。私たちはもうすでに学びましたが、主が再臨されるとき、まずモアブのボツラと呼ばれるところで隠れているユダヤ人を救うために来られ、そして全世界の軍隊と戦いながら、その戦場をエルサレムへと移していきます。そしてエルサレムのオリーブ山に立たれ、地殻変動が起き、神の国をお建てになるのですが、その戦場となったモアブは、この栄光のイエスの姿を見ても、へりくだらないで、神に救いを求めることをしません。その時に彼らが、自分の命を救おうとしてかえって、それを失う姿がここに預言されています。

 私はいつも、日本人のことを思います。まじめに、勤勉に働く民族ですから、いつまでも自分たちの力と知恵に頼ろうとして、いつまでも、まことの神、イスラエルの神に拠り頼まないのではないかと危惧します。

3A 義において 26
 そして次に、モアブとは対照的に、ユダの町が強くて堅固であることを歌います。

1B 強固な町 1−6
26:1 その日、ユダの国でこの歌が歌われる。私たちには強い町がある。神はその城壁と塁で私たちを救ってくださる。

 この城壁と塁は、物理的なものではありません。ゼカリヤ書2章を読みますと、こう書いてあります。「エルサレムは、その中の多くの人と家畜のため、城壁のない町とされよう。しかし、わたしが、それを取り巻く火の城壁となる。・・主の御告げ。・・わたしがその中の栄光となる。(4-5節)」物理的な城壁はありません。火の城壁があります。これは主ご自身の臨在による城壁、また主の天使たちの城壁です。

 私たちにも、このような主の守りがあることを知っているでしょうか。物理的な守りではなく、主の守りです。

26:2 城門をあけて、誠実を守る正しい民をはいらせよ。

 「誠実を守る」という言葉は、「真実を守る」と言い換えることができます。黙示録3章に、フィラデルフィヤにある教会に対して主がこう言われました。「見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。(8節)」忠実さです。少ししかない力でも、その力によってイエス様の御言葉、そしてイエス様の御名を守っていれば御国の戸が開かれている、という約束です。

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。26:4 いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。

 これはすばらしい御言葉です。単なる平安の約束ではなく、全き平安、完全な平安の約束です。

 ここに「志の堅固」と訳されている言葉があります。これは、「自分を主にお任せする、委ねる」と言い換えることができるでしょう。聖書には二つの種類の平安があります。いや日本語では、「平和」と「平安」という言葉がありますが、この二種類があります。

 神との平和は、私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じた時から与えられます。「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。(ロマ5:1」私たちは以前、罪を犯していることによって、神に敵対していました。けれども、「主よ、私は罪を犯しました。この罪をお赦しください。私の人生をあなたに明け渡します。」と祈れば、私たちの良心に平安が与えられます。それは私たちが、神の和解を受け入れて、神と平和を持つことができたからです。

 けれども、神の平安はこれとは違います。神の平安は、すべてのことを主にお任せすることによって、思いと理解を超えたところから来る平安です。たとえ状況は変わっていなくても、心は平安に満ちています。主を信頼するところから来る平安です。

26:5 主は高い所、そびえ立つ都に住む者を引き倒し、これを下して地に倒し、これを投げつけて、ちりにされる。26:6 貧しい者の足、弱い者の歩みが、これを踏みつける。

 再び、高ぶる者が低められ、低くされている者が高くされる約束です。というか、低くされている人はすでに神に信頼し、神を自分の王としてあがめています。すべての人が神をあがめるようになるために、自分を高く引き上げている人を神は引き倒されます。

 そして、神は平和をもたらされます。ここに「踏みつける」とありますが、ロマ書1620節にこう書いてあります。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」柔和な人、謙遜な人が地上を支配するので、世界に平和があるのです。

2B 裁きの道 7−11
26:7 義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。

 先ほどは平和と平安について歌っていますが、ここから義について、正義について歌います。

26:8 主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。26:9 私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行なわれるとき、世界の住民は義を学んだからです。

 主がこの地上に戻って来られて裁きを行われる時に、地上の住民は義を学びます。この日が来るまで私たちはあなたを待ち望みます、という告白です。特に「夜」、つまり世がさらに罪と不義の中で暗くなっているとき、ますます主の正義が現れることを願っている、ということです。

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5:6」と主は言われました。福音において、私たちは始めに自分の罪を示されます。それでへりくだり、その罪を悲しみます。それで罪の赦しを経験して、また信仰によって義と認められたことを経験した人は、今度は実際に義となる日を待ち望みます。主が戻って来られて、罪そのものを取り除いてくださり、キリストと似た者にしてくださる日を待ち望むのです。

 私たちは自分の罪を御霊に示されることを、始めは嫌がります。けれども成長するにしたがって、神様をもっと知りたいと願うにつれて、自ら自分の内に罪がないかを調べて、告白したいと願います。これが義に飢え渇くことであり、自ら自分を裁くことです。パウロは、「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。(1コリント11:31」と言いました。

26:10 悪者はあわれみを示されても、義を学びません。正直の地で不正をし、主のご威光を見ようともしません。26:11 主よ。あなたの御手が上げられても、彼らは認めません。どうか彼らが、この民へのあなたの熱心を認めて恥じますように。まことに火が、あなたに逆らう者をなめ尽くしますように。

 これは千年王国における、肉体を持っている人たちの問題です。千年王国には二種類の人々がいます。一つは、復活の体を持っている人々です。キリストの教会の人々は天に引き上げられた時に、すでに復活しています。そして大患難の間に殉教した人々は、主の再臨の後に復活します。けれども大患難の中でも生き残った人々がいます。その人々は復活ではなく、地上の肉体を持っています。

 彼らが子を生みます。千年王国では、ちょうど洪水前のエデンの園のような環境にありますから、かなり長いこと生きることができます。そしてサタンは底知れぬ所に縛られています。誘惑がありません。さらにバビロンの都は廃墟となりました。世の制度もありません。したがって、外側の環境が完全なので、表立って罪を犯すことができないのです。

 けれども、彼らの中にそれでも義を学ばない人がいます。それは彼らの内に罪の性質があるからです。このことが千年王国の終わりに露にされます。サタンが鎖から解かれます。そして軍隊を召集します。そして聖なる都エルサレムを取り囲みます。その時、ここイザヤ書にもあるように、天からの火が彼らを焼き尽くすのです。

 ここから私たちは、どんなに周りが良い環境でも、罪の性質はそれをすべて台無しにすることを知ることができます。同時に私たちは、神の御霊と憐れみによってのみ悔い改めることができるのであって、外側の環境によってではないことを教えられます。

3B 平和と苦難 12−19
26:12 主よ。あなたは、私たちのために平和を備えておられます。私たちのなすすべてのわざも、あなたが私たちのためにしてくださったのですから。

 すばらしい告白です。自分がしている良い行ないは、すべて神から来ているものであり、神が備えられたものであるということです。エペソ書2章に有名な、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。(8節)」という御言葉がありますが、その後でパウロはこう言っています。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。(10節)」良い行ないをも神が予め備えてくださった、すべてが神の贈り物、神の恵みです。

26:13 私たちの神、主よ。あなた以外の多くの君主が、私たちを治めましたが、私たちは、ただあなたによってのみ、御名を唱えます。

 ユダヤ人は、バビロン捕囚によって離散の民となって以来、つい最近まで主権を持つ国を持っていませんでした。70年後に帰還した後もペルシヤの君主が治めたし、その後はギリシヤ、その後はローマです。ローマの時にユダヤ人は世界に散り散りになりました。今、イスラエルの国があり今年は60周年を祝っています。

 このように、多くの君主が彼らを治めていました、けれども自分たちは、ただあなたによってのみ生きる、あなたが私たちを治めるのだ、という告白です。

 私たちキリスト者はどうでしょうか?私たちも、地上の国々の統治の中に生きています。国の統治だけではなく、この世の支配、社会的な支配、慣習の支配など、いろいろな支配の中に生きています。けれども、その中にいても神の御名のみを唱える、神のみが自分の支配者であると告白して生きていく必要があります(ロマ6:1618参照)。

26:14 死人は生き返りません。死者の霊はよみがえりません。それゆえ、あなたは彼らを罰して滅ぼし、彼らについてのすべての記憶を消し去られました。

 千年王国にいる間、これら自分たちを支配していた君主はよみがえることはありません。千年王国が終わって、新天新地が始まるまでの間、白い大きな裁きの御座において彼らが復活します。永遠の刑罰を受けるために裁かれます。

 ですから地上の君主による圧制の記憶を神は忘れさせてくださいます。私たちも同じではないでしょうか?私たちをこれまで痛めつけていた罪、その習慣、これは言わば圧制です(コロサイ1:13)。これらの記憶さえなくなるほど、主は私たちを完全に解放してくださいます。

26:15 主よ。あなたはこの国民を増し加え、増し加えて、この国民に栄光を現わし、この国のすべての境を広げられました。

 神がアブラハムに約束してくださった所有の土地は、「エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。(創世15:18」です。イスラエルの国が大きくなったソロモンの時代でも、そこまでの広域を所有することはありませんでした。けれども主は約束の通りにその国境を広げてくださいます。

26:16 主よ。苦難の時に、彼らはあなたを求め、あなたが彼らを懲らしめられたので、彼らは祈ってつぶやきました。

 大患難の時のことを今、思い出しています。大患難の目的は、これまで見てきたとおり、人々の罪と不義を裁くためであると同時に、イスラエルを懲らしめるためでもあります。「ヤコブにとっての苦難」とエレミヤは言いました(30:7)。

 懲らしめる」という言葉を使う時、聖書では必ず救いが目的になっています。罪に定めて、永遠に滅びることがないように懲らしめるのです。罪から救われるように懲らしめます。多くの人が、単なる罰を受けるという意味で使うことが多いのですが、聖書ではそうでありません。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32

26:17 子を産む時が近づいて、そのひどい痛みに、苦しみ叫ぶ妊婦のように。主よ。私たちは御前にそのようでした。26:18 私たちもみごもり、産みの苦しみをしましたが、それはあたかも、風を産んだようなものでした。私たちは救いを地にもたらさず、世界の住民はもう生まれません。

 ユダヤ人はかつてないほどの迫害を受けます。ホロコーストよりも酷い迫害を受けます。その中で、残された民ではない者、主に立ち返ることを考えていない者は振るいにかけられて、死んでしまいます。ゼカリヤ書13章には、三分の一のみが生き残り、主を自分の神とすることが書かれています。

 このように多くの者が死んでしまいますが、希望があります。

26:19 あなたの死人は生き返り、私のなきがらはよみがえります。さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。あなたの露は光の露。地は死者の霊を生き返らせます。

 ダニエル書12章2節に、残りの民だけでなく、地のちりに眠っている者のうち、「ある者は永遠のいのちに」至ると預言されています。旧約時代に主を信じて死んでいった人たちがよみがえるのです。

4B 隠れ部屋 20−21
26:20 さあ、わが民よ。あなたの部屋にはいり、うしろの戸を閉じよ。憤りの過ぎるまで、ほんのしばらく、身を隠せ。

 残りの民に対する呼びかけです。「あなたの部屋の中にはいり、うしろの戸を閉じよ。」という呼びかけです。前にも、モアブに対する宣告のところで話しましたが、ユダにいる人々は、荒らす憎むべき者が聖なる所に立ったら、モアブにあるボツラ、今のペトラの方に逃げます。そこで獣が率いる軍隊が彼らを押し流そうとするのですが、その水をモアブの地が飲み干すことを黙示録12章が預言しています。

 この時の患難の預言です。主は弟子たちにこう教えられました。「そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。・・・だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。(マタイ24:23-27」惑わしがあっても、隠れている家の外に出て行かないように教えておられます。

26:21 見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地に住む者の罪を罰せられるからだ。地はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、もう、おおうことをしない。

 「ご自分の住まい」とは、もちろん天のことです。主はボツラのほうに来ている軍隊と戦われます。そして彼らはことごとく死にます。その死体が積み上げられ、猛禽がやってきてそれを食う宴会があることを、黙示録19章が教えています。

 次回は27章から学びますが、27章は、主ご自身の歌です。25章と26章は、救われたユダヤ人の神に対するほめ歌でしたが、27章は主が、贖われたご自分の民について歌っておられる歌になっています。


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