イザヤ書36−37章 「敵に攻撃された時」

アウトライン

1A 敵の嘲り 36
   1B 失敗への付け込み 1−10
      1C 主の試し 1−3
      2C 言葉の剣 4−10
   2B 主への不信 11−20
      1C 無駄な嘆願 11−12
      2C 神の人への不信 13−20
   3B 民の沈黙 21−22
2A 衣を裂く祈り 37
   1B 預言者を通して 1−13
      1C 主からの言葉 1−7
      2C さらなる攻撃 8−13
   2B 主の前で 14−35
      1C 広げた手紙 14−20
      2C 聞かれた祈り 21−35
         1D 主の手にあるアッシリヤ 21−29
         2D エルサレムの守り 30−35
   3B 主の使いによる応答 36−38

本文

 イザヤ書36章を開いてください、今日は36章と37章を学びます。今日のメッセージ題は、「敵に攻撃されたとき」です。

 イザヤ書の前半部分と後半部分をつなぐような歴史的出来事が、36章から39章までに記録されています。そして今日はその前半部分36章と37章を学びます。アッシリヤに包囲されたエルサレムと、そして主の前に出てヒゼキヤ王が祈る場面を読んでいきます。

1A 敵の嘲り 36
1B 失敗への付け込み 1−10
1C 主の試し 1−3
36:1 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。

 時は紀元前701年のことです。今、ユダがどのような状況の中にいるかその背景を知る必要があります。列王記第二18章を開いてください。9節から読みます。
 

ヒゼキヤ王の第四年、すなわち、イスラエルの王エラの子ホセアの第七年に、アッシリヤの王シャルマヌエセルがサマリヤに攻め上って、包囲し、三年の後、これを攻め取った。つまり、ヒゼキヤの第六年、イスラエルの王ホセアの第九年に、サマリヤは攻め取られた。アッシリヤの王はイスラエル人をアッシリヤに捕え移し、彼らをハラフと、ハボル、すなわちゴザンの川のほとり、メディヤの町々に連れて行った。これは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行なわなかったからである。(9-12節)

 ヒゼキヤは、主の目にかなうことを行なった王でした。偶像を取り壊し、神殿礼拝を回復させ、歴代誌には、北イスラエルの残された人々にも過越の祭りに参加するように招きました。宗教改革を敢行した人でありますが、彼の時代に大きな試練がやって来たのです。それはアッシリヤが強くなり、ついに北イスラエルがアッシリヤの手に落ちたことです。

 ヒゼキヤは、どこにいっても戦いで勝利を収めました。そしてアッシリヤにも服従しませんでした。これがアッシリヤの怒りを買い、次の箇所になります。列王記第二1813節から読みます。
 

ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。「私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。」そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。(13-16節)

 ヒゼキヤは、大きな脅威の前で初めてうろたえました。これまで主に祈り、主に頼り、それで勝利していきましたが、アッシリヤの巧妙で、そして強靭な攻撃を目の前にして、彼はうろたえてしまったのです。

 アッシリヤは、相手に恐怖を植え付ける方法に長けていました。北イスラエルを倒すとき、直接、首都のサマリヤを倒すことはしません。周囲の北イスラエルの町々を倒していき、そして捕囚の民として連れて行き、その悲惨な姿を残されたサマリヤの住民に見せつけるのです。それからサマリヤを包囲して、彼らが降参するのを待ちます。

 この方法をアッシリヤはユダに対しても行ないました。直接エルサレムに行きませんでした。南下して、エルサレムの北にあるユダの町々を倒し、それからさらに南下して地中海に面した町々を倒して、それからエルサレムのほうに南から近づいていきました。イザヤ書36章の2節に出てくる「ラキシュ」という町から、アッシリヤの王はエルサレムに大軍を送りましたが、ラキシュはエルサレムの南東50キロほどのところにあります。遺跡の発掘で約15万体の住民の遺骨が出てきたということですが、そこに住む住民をそれだけ虐殺したのです。

 このようにしてエルサレムを包囲してきたので、日ごろは主に頼り、主に祈っていたヒゼキヤもうろたえてしまったのです。そして銀や金をアッシリヤの王に与えて、彼を宥めようとしました。けれども、この試みは失敗します。相手を打ち、滅ぼし、征服することを考えていたアッシリヤには、何を行なってもその思いを変えることはできなかったのです。

 この出来事からたくさんのことを学ぶことができますが、特に私たちが敵からの攻撃を受けているとき、敵の脅しを受け、痛めつけられているとき、どうすればよいのかその対応の仕方について学ぶことが出来ます。一つに、敵を宥めることはできないことを知ることです。私たちにとっての敵は悪魔です。イエス様は、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(ヨハネ10:10」と言われました。

 敵はいろいろな方法で私たちを攻めます。多くの場合、そしりを通して攻めます。これからアッシリヤからの使者がエルサレムを、そして生ける神をあざけりますが、黙示録12章には、悪魔が「兄弟たちの告発者(10節)」と呼ばれています。言葉をもって攻撃し、誘惑します。

 そして悪魔は巧妙で、自分の身近な人、これまで信頼してきた人など、私たちがなかなか拒むことできないような人を通して攻撃します。「この人はいい人だから」「この人はクリスチャンだから」など、相手は自分のことを分かってくれるはずだ、と思って宥めようとするのです。けれども、その時にこれは霊の戦いなのだということを思い出してください。敵の目的は、あなたから盗んだり、殺したり、滅ぼしたりすることだけなのです。

 こうしたヒゼキヤは、アッシリヤの前で苦しみ、痛み、どうすればよいか分からない状態になっています。では、イザヤ書36章に戻ってください。

36:2 アッシリヤの王は、ラブ・シャケに大軍をつけて、ラキシュからエルサレムに、ヒゼキヤ王のところへ送った。ラブ・シャケは布さらしの野への大路にある上の池の水道のそばに立った。

 ラブ・シャケ」というのは、名前ではなく役職の名称です。王が直接エルサレムに行くのではなく、ラブ・シェケに行かせました。

 そして彼がやって来た場所が、とても意義深いところです。「布さらしの野への大路にある上の池の水道のそば」とありますが、エルサレムのこの特定の場所は、かつて自分の父アハズが、預言者イザヤと会った場所です。北イスラエルとシリヤがユダを攻めようと企んでいたときに、イザヤがアハズに、「恐れてはいけない。彼らの企ては失敗する。主をためしてみよ。」と伝えました。しかし、アハズは主に頼ることをせずアッシリヤに頼りました。アッシリヤはやって来て、北イスラエルとシリヤを滅ぼしました。その時からイザヤは、ここでアッシリヤに頼んだら、そのアッシリヤがお前たちを攻めると警告しましたが、はたしてその通りになったのです。

 つまり、この場所は、自分の父が神の言葉を聞かないで、目に見える力に頼ったところであったのです。そして自分の父が犯した失敗の結果を、まったく同じ場所でヒゼキヤが目の当たりにしているのです。そして父が失敗したのと同じ失敗を、ヒゼキヤは犯してしまいました。つまり、お金でアッシリヤを宥めようとしたこと。そして、エジプトと同盟を結んでいたことです。

 主は、ヒゼキヤを試しておられます。あなたは、どちらを頼りにするのか?「わたしか、それとも・・・」という問いかけを、今、主はヒゼキヤに行われております。

36:3 そこで、ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、および、アサフの子である参議ヨアフが、彼のもとに出て行った。

 ヒゼキヤも直接出向くのではなく、自分の高官らをラブ・シャケに会わせるようにしました。

2C 言葉の剣 4−10
 それでは次からラブ・シェケの巧妙な、言葉の脅しを読むことができます。

36:4 ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリヤの王がこう言っておられる。いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。36:5 口先だけのことばが、戦略であり戦力だと思い込んでいるのか。今、おまえはだれに拠り頼んで私に反逆するのか。36:6 おまえは、あのいたんだ葦の杖、エジプトに拠り頼んでいるが、これは、それに寄りかかる者の手を刺し通すだけだ。エジプトの王、パロは、すべて彼に拠り頼む者たちにそうするのだ。

 ラブ・シャケが行なったのは、彼らがエジプトに頼っていることを責めたことです。このとき、おそらくエルサレムの住民は知らなかったでしょうが、すでにエジプトはアッシリヤとの戦いで敗れています。彼らがラキシュにいたということは、アッシリヤが残している文書によると、その直前にエジプトと戦って勝利していることになっています。だから、もうエジプトは頼りにならなかったのです。

 そしてラブ・シャケの非難は、実は主がユダに対して行われた叱責と内容が同じだったのです。覚えていますね、前々回の学びで、ユダがエジプトとの同盟を主が、わたしに反逆していると責められました。そしてエジプトは頼りにならない、むなしい助けであると責められました。どうでしょうか、まったく同じことをラブ・シャケは言っているのです。

 ここに敵の攻撃の巧妙さあります。それは、敵は私たちの失敗をことさらに取り上げることです。私たちが主により頼まなかった部分、失敗したこと、罪を犯してしまったこと、肉の弱さなど、これらをことさらに取り上げて、攻撃してくることです。それらの指摘は、すべて当たっているのです。間違っていません。ですから多くの人が、その言葉に聞き入ってしまうのです。特に、敏感な人は、これを気かなければいけない、と思ってしまうのです。自分の欠点なのですから。

36:7 おまえは私に『われわれは、われわれの神、主に拠り頼む。』と言う。その主とは、ヒゼキヤが高き所と祭壇を取り除いておいて、ユダとエルサレムに向かい『この祭壇の前で拝め。』と言ったそういう主ではないか、と。

 つまり、「偏狭な神だ」ということです。アッシリヤは多神教信仰です。多くの神がたくさんいるのに、一つだけを選び、そして他の神々を排斥する。なんとひどい神であるか、となじっています。

 これは私たちが日本にいれば、よく耳にする非難ですね。多神教はいかに平和と調和を保ち、一神教がいかに攻撃的で、戦争が好きかなどと話していますが、自分たちが天照大神と天皇の名の下で、どれだけの残虐行為を行なったことでしょうか!アッシリヤと同じ欺きです。

 そして、多神教ということだけでなく、主により頼むということは、他の選択を確かに排除します。主のみに拠り頼むのですから、他の目に見えるものにはより頼まないという選択をしなければいけません。主が、「狭い門から入りなさい」と言われた通りです。

 このことを敵は攻撃します。敵は、他の人間的な方法の選択をたくさん披露して、「あなたは、神のみに頼っているといって頑強になっています。排他的になっている。」と非難するのです。私もインターネット上で、「あなたは、ヨセフのように無邪気に神を信じているから、人を怒らせるのだ。」と非難されたことがあります。神を信じるのに、人間的な配慮が必要なのでしょうか?もっと広くなりなさい、もっと肉的な、人間的な方法も取り入れればいいではないか、と誘うのです。

36:8 さあ、今、私の主君、アッシリヤの王と、かけをしないか。もしおまえのほうで乗り手をそろえることができれば、私はおまえに二千頭の馬を与えよう。36:9 おまえは戦車と騎兵のことでエジプトに拠り頼んでいるが、私の主君の最も小さい家来のひとりの総督をさえ撃退することはできないのだ。

 おそらくエルサレムでは二千頭の馬さえなかったと思います。圧倒的な軍事力の差を見せつけているのです。

36:10 今、私がこの国を滅ぼすために上って来たのは、主をさしおいてのことであろうか。主が私に『この国に攻め上って、これを滅ぼせ。』と言われたのだ。」

 どうでしょうか?敵はこのような偽の情報を伝えます。敵の告発を、主からのものであると嘘を言っています。私たちが苦しむのはこのためです。罪に定めることと、罪を示すことには大きな違いがあります。罪を示すのはご聖霊の働きです。罪を示すことによって、罪の滅びから免れ、キリストの十字架の憐れみに連れてこようと促されます。けれども罪に定めるのは、「あなたは、このような罪を犯した。もう救われることはできない。神はもともと、あなたを滅びに定めたのだ。」と責め立てることです。私たちが罪を犯して、うなだれているとき、どれだけこの声を聞くことでしょうか?これは聖霊からではなく、悪魔からの声なのです。

2B 主への不信 11−20
1C 無駄な嘆願 11−12
36:11 エルヤキムとシェブナとヨアフとは、ラブ・シャケに言った。「どうかしもべたちには、アラム語で話してください。われわれはアラム語がわかりますから。城壁の上にいる民の聞いている所では、われわれにユダのことばで話さないでください。」36:12 すると、ラブ・シャケは言った。「私の主君がこれらのことを告げに私を遣わされたのは、おまえの主君や、おまえのためだろうか。むしろ、城壁の上にすわっている者たちのためではないか。彼らはおまえたちといっしょに、自分の糞を食らい、自分の尿を飲むようになるのだ。」

 アラム語は、当時の貿易における共通言語です。そしてヘブル語はユダヤ人の言葉です。アラム語とヘブル語はとても似ています。ですから政府の高官であるラブ・シャケにとって、ヘブル語を操るのはそれほど難しくなかったことでしょう。

 ここでも、ヒゼキヤの側近らは、相手が言うことを聞いてくれるという希望的憶測にしたがってアラム語で話してくださいとお願いしますが、無理でした。ラブ・シェケはますます、一般民衆にヘブル語で話そうと勢いづきました。

2C 神の人への不信 13−20
36:13 こうして、ラブ・シャケはつっ立って、ユダのことばで大声に呼ばわって、言った。「大王、アッシリヤの王のことばを聞け。36:14 王はこう言われる。ヒゼキヤにごまかされるな。あれはおまえたちを救い出すことはできない。36:15 ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出してくださる、この町は決してアッシリヤの王の手に渡されることはない、と言って、おまえたちに主を信頼させようとするが、そうはさせない。

 ヒゼキヤへの信頼を引き落とすために、主を信頼するなと言っています。なぜなら、ヒゼキヤは自分を信じろと言ったのではなく、絶えず主に信頼しなさいと教えていたからです。

 これも敵の常套手段です。目を主に向けさせるのではなく、主に用いられている器、つまり人間に向けさせようとします。主に聞き従って、主に望みを置き、主にとどまろうではないか、と勧めている教師や指導者、または伝道者が語るのですが、彼らはもちろん、自分自身ではなく人々がキリストに目を向けてほしいと願っているわけです。ところが多くの人は、「あなたの語り方が悪い。あなたがこのような人柄の持ち主だから、人々は神を信じないのだ。」と、逆にお説教する人がいます。日本人に多いですね、このタイプは。

 けれども信者の中でもこのことが起こります。キリスト中心ではなく教職者中心なのです。教会が悪い、牧師が悪いと言って、自分の永遠の救いを平気で捨ててしまうのです。教会でも、聖書のこの箇所について牧師が話していることは間違っている、という理由で分裂するのではなく、「牧師がきちんと家庭訪問していない。冷たい。」とか、牧師の人柄でその人を追放しています。

 私がアメリカから帰ってすぐに、聖書の学び会に招かれました。そこで私は、何かの要点を話すためにある有名な伝道者の名前を挙げたのですが、みことばの学びがその時点で終了してしまいました。その伝道者の是々非々の議論が始まったのです。私は驚いてしまいました。日本に帰ってきてすぐに、「日本では、人間に注目させるものすごい力が働いている。」と感じたのです。これは悪魔の仕業です。

36:16 ヒゼキヤの言うことを聞くな。アッシリヤの王はこう言っておられるからだ。私と和を結び、私に降参せよ。そうすれば、おまえたちはみな、自分のぶどうと自分のいちじくを食べ、また、自分の井戸の水を飲めるのだ。36:17 その後、私が来て、おまえたちの国と同じような国におまえたちを連れて行こう。そこは穀物とぶどう酒の地、パンとぶどう畑の地である。

 この世の誘惑を提供しています。主に信頼することをやめたなら、こんな苦しまなくて済むよ。ぶどうといちじくを食べ、井戸の水を飲むことができるよ。この世に戻ってきなさい、というメッセージです。ここでラブ・シャケは、「おまえたちの国と同じような国に連れて行こう」と言っていますね。約束の地から離れなさい、と勧めているのです。

36:18 おまえたちは、ヒゼキヤが、主がわれわれを救い出してくださると言っているのに、そそのかされないようにせよ。国々の神々が、だれか、自分の国をアッシリヤの王の手から救い出しただろうか。36:19 ハマテやアルパデの神々は今、どこにいるのか。セファルワイムの神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。36:20 これらの国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」

 これは主にとって、決定的な言葉でした。この言葉を冒涜であるとみなし、主は、アッシリヤを打つことをお決めになりました。歴代誌第二3219節にこう書いてあります。「このように、彼らは、エルサレムの神について、人の手で造ったこの地の民の神々についてと同じように、語ったのである。

 多神教信仰の人は、アッシリヤのように考えます。イスラエルの神、ヤハウェも、数多くある神々の一つにしか過ぎないと考えます。それで、ヤハウェを信じる民を倒そうとするのです。

 当時の戦争は、神々の戦争でした。それぞれの国に代表的な神がおり、戦争で勝った国の神が、負けた国の神を倒したと考えました。同じように、アッシリヤの神がエルサレムの神、ヤハウェを倒すことができる、と考えたのです。

 これが、悪魔が行なう最も悪質な嘘です。神の栄光を他の偶像と同じところまで引き下げることです。けれども、いろいろな形でこの悪質な嘘を悪魔は私たちについてきます。例えば、「この病気はどの医者も治すことはできていない。あの医者も、この医者も治せない。だから、祈ったところで無駄だよ。」ということです。神を人間の医者と同じレベルに引き下げているのです。

 私たちが問題に直面したとき、周りを見たらそこで敗北です。自分と同じ問題に直面している人たちが、ことごとくその問題に負けています。だから、これは救いようのない状況なのだ。神に頼るなんてことをしてもだめだ、と決め付けてしまうのです。このような悪魔の声を私たちは試練や誘惑に遭うときに聞かされるのです。

3B 民の沈黙 21−22
 それに対して、ヒゼキヤは正しい対処を民に前もって教えていました。次をご覧ください。

36:21 しかし人々は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな。」というのが、王の命令だったからである。

 何も答えないこと、これが対処法です。私たちが口を開き、対話を始めたら終わりです。エバが蛇に惑わされた時、どうでしたでしょうか?蛇と会話してしまいました。これが過ちの始まりだったのです。私たちが、霊的な攻撃を受けたとき一番の誘惑が、話してしまうことそのものなのです。一切、口を閉ざす必要があるのです。けれども、誰に対しても黙っていろということではありません。次の章に出てきます。

36:22 ヒルキヤの子である宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、アサフの子である参議ヨアフは、自分たちの衣を裂いてヒゼキヤのもとに行き、ラブ・シャケのことばを告げた。

 衣を裂く、これは悲しみ、やるせなさ、ひどい辛さなどを表現するときに、ユダヤ人やその地域の人々が行なうことです。これを、彼らから聞いたヒゼキヤ自身も行ないます。

2A 衣を裂く祈り 37
 37章は、こうした言葉による敵の攻撃に対して、私たちが何をしなければいけないのか?そして、もっと一般的に、私たちが神の働きを味わうために、何をしなければいけないのか?

 一言で言えば、「主に信頼する」ことなのですが、私たちはあまりにも軽くその言葉を使っています。何もしないで、棚ぼた的に待っていればよい、というような意味合いでさえも使うことがありますね。また問題の渦中にいる人に対して、「神さまに任せればいいんだよ。」と杓子定規に、教科書的に言う雰囲気もあります。事はそう簡単なものでありません。もっと真剣なものです。ここの章に題名を付けるなら、「衣を裂く祈り」です。言い換えれば、「心を裂く祈り」と言ってもいいでしょう。

1B 預言者を通して 1−13
1C 主からの言葉 1−7
37:1 ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。

 衣を裂いて、そして荒布を身にまとっています。これも、自分の心の痛みを体でも感じることができるように着るものであります。

 そしてヒゼキヤはどこに行っていますか?そうです「主の宮」です。敵に対しては、決して受け答えしませんでした。どんなに辛くても、です。けれどもすべてを主のご臨在のところに持っていきました。ここが、自分の心をすべて打ち明けてもよい場所なのです。主はすべてのことをご存知なのです。だから打ち明けても、主を驚かせることはないし、主を当惑させることもありません。

37:2 彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。

 もう一人、苦しみの時に行ってよい人がいます。それは、預言者のところです。預言者のところに行くというのは、主の御言葉を聞くということに他なりません。今、自分が悩み苦しんでいることについて、他の人間の慰めの言葉や、一般的な意見ではなく、主ご自身の言葉をいただきたいという渇望です。

37:3 彼らはイザヤに言った。「ヒゼキヤはこう言っておられます。『きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを産み出す力がないのです。

 すごい表現ですね。ヘブル語やユダヤ人の表現には、このように体で感じる感情表現が多いです。子どもが生まれる時の痛みは、産んだお母さんしか分からないかと思いますが、赤ちゃんが出てくるときの直前が、痛みが最高潮に達するときです。

 けれどもその痛みが過ぎ去ればこそ耐えることができるのですが、そこで詰まってしまっている。痛みが持続している状態です。赤ちゃんが再びお腹のほうへ戻ることができるなら、そうしてもらいたいのですが、出ようとします。でも出てきません。

 私たちはこのように、主の前に心を広げているでしょうか?人の前で、ある程度、社会性をもった人間であるようにふるまいたいので、感情を抑制するのに私たちは慣れています。そして神の前に出るときでさえ、ありきたりの、形式的な祈りで終わってしまうことが多いです。心を神に広げていないのです。神の前で、鼻水を垂らして、大泣きをするような祈りをしていないのです。本当は心に思っているのに、です。

 そしてその「力がない」と言っています。自分たちにはもう、自分たちを救う力はなくなっているという脱力感です。私たちは、このような状態ではたして主の前に出ているでしょうか?「あなたに、まかせます。」と確かに祈りの中でいいます。けれども、まだ自分自身に力が残っている場合が多くないでしょうか?

 私たちが抱えている数多くの問題は、そのほとんどが、「主を呼び求めていない」ところにあります。これから主が、アッシリヤを打ち砕かれますが、そのような力ある神の働きを経験できないのは、主を心から呼び求めていないことが原因です。福音書でも、おぼれそうになっているペテロが、「主よ。助けてください。」と叫びましたね。自分が溺れ死ぬと分かっているから祈れる祈りです。まだ泳げると思ったら、そのように叫びません。

 どこかでまだ、他の手段で解決しようと思っています。カウンセラーのところに行こう、薬を飲もう・・・。なぜ他の方法にすがろうかとすると、へりくだっていないからです。主の前で、自分の心を砕いていないからです。自分がそんなにちっぽけな存在であることをまだ認めていないからです。けれども私たちが、主の前でへりくだるときに、主はご自分の業を行なってくださいます。

37:4 おそらく、あなたの神、主は、ラブ・シャケのことばを聞かれたことでしょう。彼の主君、アッシリヤの王が、生ける神をそしるために彼を遣わしたのです。あなたの神、主は、その聞かれたことばを責められますが、あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください。』」

 彼らは、ラブ・シャケの言葉に対して、正しい態度を持っていました。彼らは、自分たち個人をそしったのではなく、神ご自身をそしったということを認識していました。これはとても大事ですね。私たちは、自分の信仰のゆえに、御言葉を信じるその堅い決意のゆえに、さまざまな攻撃を受けます。これを自分自身に対する攻撃であると思って、深く傷つきます。

 けれども、傷ついているのは、私たちではなく、私たちが信頼を寄せている主ご自身なのです。主の御名が傷つけられました。主の名誉が傷つけられました。ですから、主がその人を取り扱ってくださる、という信仰が必要です。

37:5 ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、37:6 イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。

 主からお応えがありました。「恐れるな」という命令です。私たちが主の前で泣いて祈ることから来る恵みは、恐れが過ぎ去ることです。主がともにおられるという確信が与えられることです。

37:7 今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」

 主が動き始められました。主は、アッシリヤのセナケリブを混乱させ始められます。

2C さらなる攻撃 8−13
37:8 ラブ・シャケは退いて、リブナを攻めていたアッシリヤの王と落ち合った。王がラキシュから移動したことを聞いたからである。

 リブナはラキシュからさらに北にある町です。エルサレムに近づいています。

37:9 王は、クシュの王ティルハカについて、「彼はあなたと戦うために出て来ている。」と聞いた。彼はそれを聞くと、使者たちをヒゼキヤに送って言った。

 主が仰られたとおりですね。うわさを聞きました。クシュ、つまりエチオピヤの王が戦いに出てきている、とのことです。

 ところで、これまで私たちが見ている話は、聖書以外の文献が豊富にあります。アッシリヤの王、特にセナケリブは自分の業績について、こと細かく誇らしげに書いています。ヒゼキヤについての多く言及しています。そしてユダの町46を倒したと豪語している箇所もあります。歴史的出来事なのです。

 そしてこのティルハカも、歴史的人物です。以前、エチオピヤに対する主の宣告のところで学びましたが、エチオピヤが強くなって、エジプトをエチオピヤ人が王となって支配したときもあったほどです。

37:10 「ユダの王ヒゼキヤにこう伝えよ。『おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。37:11 おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。37:12 私の先祖たちはゴザン、カラン、レツェフ、および、テラサルにいたエデンの人々を滅ぼしたが、その国々の神々が彼らを救い出したのか。37:13 ハマテの王、アルパデの王、セファルワイムの町の王、また、ヘナやイワの王は、どこにいるか。』」

 列王記第二のほうに書いてありますが、北イスラエルの人々は、ここに出ている町々に捕らえ移されて暮らしています。その前にその町々をアッシリヤが滅ぼして、その住民を他のところに移し、イスラエル人をそこに住まわせました。

 イスラエル人がアッシリヤの前に倒れたことも、ヒゼキヤにとって大きな圧力になったことでしょう。契約の民でありながら、敵の前に倒れたのです。私たちも、クリスチャンと呼ばれていた人々が、全然違う道を歩んでいるのを見たら、力を失います。同じ仲間もそのように倒れているのか、と。

 けれども、ここでセナケリブは少し動揺していますね。焦燥感も感じられます。主が動き始められると、悪魔があせり始めます。自分の終わりが近いことを感じ取り、さらに暴れ始めます。

2B 主の前で 14−35
 しかしヒゼキヤは、この手紙の内容に対しても、深く心が傷つきました。次をご覧ください。

1C 広げた手紙 14−20
37:14 ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

 ああ、なんとすばらしいことでしょうか?その手紙をそのまま、主の前に広げています。私たちが、自分がひどく傷つく文面を読んだ時に、どうするでしょうか?その一つ一つの言葉を、主に読んでいただけば良いのです。

 私たちは言葉の力について軽視しがちです。このぐらいのことで、どうして傷つくのだろう?こんな些細なことなのだから・・・と頭では分かっているのですが、受けた衝撃は体では分かっています。一晩眠れなくなることもあるでしょう。いつまでもその言葉が頭をよぎって、自分を苦しめることもあるでしょう。ヤコブが、「舌は小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。(3:5」と言いましたが、非常に強い力を持っているのです。

 ですから、私たちは言葉に対して脆弱です。けれども主はその一つ一つの弱さを知っておられます。ヘブル書4章15節にこう書いてあります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」そして次の16節、「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16」ここの「大胆」のギリシヤ語は、「嘔吐する」という意味もあるそうです。お分かりになりますか、主がすべての弱さをご存知ですから、すべてを打ち明けなさいと勧められているのです。

37:15 ヒゼキヤは主に祈って言った。37:16 「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、万軍の主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。

 ヒゼキヤが祈り始めます。その祈りは、主を認めるところから始まりました。主を主として認める、つまり礼拝から始まりました。今、持っている問題に関して、主がどのような方であるかをまず言い表しているのです。

 「ケルビムの上に座しておられる」とありますが、ケルビムのことがご存知ですね。エデンの園で、いのちの木を守るために火の剣を持っていた天使であり、そして契約の箱の上の贖いの蓋に出てくる、主を礼拝している天使のことです。そして実際に天において、ケルビムが主の御座のところにいて、絶え間なく主を礼拝しています。エゼキエル書1章、また黙示録4章をご覧ください。

 今、アッシリヤの王は、イスラエルの神を他の偶像の神々と同じところにまで引き下げました。けれども、ヒゼキヤはそれを祈りの中で否定しました。前回も学びましたが、主は、天地が過ぎ去ってもなおも残っている、天の御座に着座しておられる方です。

 そして、イスラエルの神を「万軍の主」と呼んでいます。これもこの前、エジプトの肉の力に頼っていたユダについて学んだときに習いましたが、霊のほうが肉よりも強く、霊が肉を支配していることを学びました。大国は天使的存在によって動いていることがダニエル10章を見ると分かります。ですから、今、アッシリヤという強大な肉の力に対して、神が万軍の主であること、無数の力ある天使たちの将軍であることを思い出しているのです。

 そして、「地のすべての王国の神」であると言っています。アッシリヤの王は、他の王国の神とヤハウェを同列に並べましたが、真実は、イスラエルの神は地のすべての王国の神なのです。日本の神は誰ですか?天照大神ではありません。八百万(やおよろず)の神でもありません。イスラエルの神、ヤハウェなのです!そして主も唯一であり、イエス・キリストこそが日本の主であります。

 そして「あなたが天と地を造られました。」と言っています。私たちはこれを当たり前のように知っています。けれども、自分の実際の問題の中で本当に、神が天地を創造された方であることを信じているでしょうか?私たちも、ヒゼキヤのように、へりくだって心を広げて祈るところで、神の創造の力を体験することができるのです。

37:17 主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばをみな聞いてください。

 自分でみな、聞いてしまわないようにしましょう。自分でみな、見てしまわないようにしましょう。主に聞いていただく、主に見ていただくのです。そしてヒゼキヤは神を「生ける神」と呼んでいます。

37:18 主よ。アッシリヤの王たちが、すべての国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。37:19 彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。

 これをヒゼキヤは、どれほどアッシリヤの王に対して言いたかったことでしょうか。けれども、彼は黙しました。そうなのです、アッシリヤの王が言っていることは、一部は当たっているのです。だからこそ、ヒゼキヤはアッシリヤ王の言葉に傷ついているのです。

 私たちも同じように、目で見ている事柄を見て、祈る必要があります。確かにこんな問題がある。これらは事実だ。けれども、だから神はおられない、とか、神がお見捨てになった、とかいうことでは決してないのだ、という見極めです。

37:20 私たちの神、主よ。今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、あなただけが主であることを知りましょう。」

 ヒゼキヤの祈りの目的がここに書かれています。神の名があがめられることです。彼が受けていた圧迫は、自分たちの神が他の神々と同列に扱われていることでした。神の栄光がそのような形で隠されていることでした。だから彼は、すべての国々があなたこそが主であることを知ることができるように、と祈ったのです。

 私たちの重荷は何でしょうか?主ご自身の栄光が隠されていることになっているでしょうか?多くの人がイエス様を信じていないことは、神の栄光が隠されていることです。また、自分自身がイエス様にすべてを明け渡せず、自分をまだ握り締めていれば、それでキリストの栄光が現れなくなっています。このために、私たちは重荷をもって祈ります。主の栄光があらゆるところに、主があらゆるものの主であられるように、すべてのところで主があがめられるように祈るのです。

2C 聞かれた祈り 21−35
1D 主の手にあるアッシリヤ 21−29
37:21 アモツの子イザヤはヒゼキヤのところに人をやって言わせた。「イスラエルの神、主は、こう仰せられます。あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。

 主が彼自身の言葉を聞いてくださいました。これだけでも慰めの言葉です。

37:22 主が彼について語られたことばは次のとおりである。処女であるシオンの娘はあなたをさげすみ、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで、頭を振る。

 セナケリブに対する主の言葉です。まず「処女であるシオンの娘」とあります。これは他の国々はアッシリヤの侵略と辱めを受けたということで、強姦された、ということです。けれども他の国々のように、シオンはアッシリヤの侵略と辱めを受けることはない、という保証です。

 そして、このシオンがアッシリヤをさげすみ、あざけり、頭を振る、とあります。これは、アッシリヤがエルサレムや他の国々に対して取った態度です。「さばくものは、さばかれる」という原則です。他の者に対して行なっていることは、自分も受ける、ということです。

37:23 あなたはだれをそしり、ののしったのか。だれに向かって声をあげ、高慢な目を上げたのか。イスラエルの聖なる方に対してだ。

 本人はそのように思っていないでしょう。ヒゼキヤに対して声をあげ、ヒゼキヤに対して高ぶったことは認めても、主ご自身に対して高ぶったとは思っていないでしょう。けれども、事実はそうなのです。異教徒であっても、神の知識に対して責任があるのです。「私は知らなかった。」では済まされないです。ヒゼキヤを通して、すでにセナケリブは神のことを聞いているのです。

 ローマ人への手紙にもありますね、1章で彼らには弁解の余地はない、なぜなら「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる(20節)」からです。たとえ聖書のことを聞いたことがない人でも、神を神としてあがめないのであれば、それは神に反逆している罪であり、神の怒りを受けると宣言しています。

37:24 あなたはしもべたちを使って、主をそしって言った。『多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と、美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての高地、木の茂った園にまではいって行った。

 自分の業績を誇らしげに語っています。自分がいかに力があるのかを、レバノンの木を切り倒したことによって示しています。バビロンもそうでしたが、バビロンが滅んだとき、「もみの木も、レバノンの杉も、あなたのことを喜んで、言う。『あなたが倒れ伏したので、もう、私たちを切る者は上って来ない。』(イザヤ14:8」とあります。高慢にふるまう大国がいなくなることによって、地上に安らぎが来ることを歌っている歌です。

37:25 私は井戸を掘って水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた。』と。

 これは誇張した表現です。エジプトのすべての川とは、ナイル川のことです。支流をすべてふくめて、「すべての川」と言っていますが、セナケリブのときにエジプトは征服していません。実際にセナケリブが書いた文献には、自分の業績を誇らしげに書いている部分はありますが、自分の失敗については何も書いていません。彼のそのようなスタイルを主はすべてご存知でした。

37:26 あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。

 非常に重要な部分です。アッシリヤがそれらのことを成し遂げられたのは、主がすべて行われたからだ、というのです。しかもそれを大昔から計画していたことだ、というのです。

 神の主権を知ることは大事です。出エジプト記で、モーセが悩み苦しんだ啓示は、パロに神の啓示を伝えることでした。彼が私の言うことなど聞き入るわけがないと思っていたのです。けれども主は、「わたしは、パロの心をかたくなにする。」と何度も言われました。このことを初めて理解できたモーセとアロンは、それからただ主が言われるままに、黙々とパロに神の御言葉を告げ、また主が言われるとおりに杖を上げると、災いがエジプトに下りました。

 すべてのことは主が計画され、主がしておられることだ、ということを受け入れれば、私たちは神のその力強い御手の中にいて安心できます。たとえ悪いこと、不都合なこと、理不尽なことをも、です。もちろん神は悪を作り出すような方ではありません。神からは良いものしか出てきません。けれども、たとえ悪であっても、それが神の支配から離れて暴れまわっているのではなく、完全に神によって掌握されている、という意味なのです。

 自分が、「これがなくなってくれればいいのに。」ということを思い出してください。それも、主がそうしておられるから、存在するのです。この真理を受け入れることができれば、私たちは強くなれます。主にすべてのことを任せることができるからです。

37:27 その住民は力うせ、おののいて、恥を見、野の草や青菜、育つ前に干からびる屋根の草のようになった。37:28 あなたがすわるのも、出て行くのも、はいるのも、わたしは知っている。あなたがわたしに向かっていきりたつのも。

 すべては主によって知られています。バビロンの最後の王ベルシャツァルに対しても、ダニエルは同じことを話しました。「それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。 (ダニエル5:23」主がお造りになった息をもって、その造り主を否定するような行為を行なっていたのです。

37:29 あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。

 ここでも同じですね、「自分たちが行なったことを、受ける。」という原則です。鼻に鉤輪、口にくつわというのは、アッシリヤが征服した民を捕え移すときに行ったことです。同じように、ものすごい屈辱を受けて撤退することを主はお語りになりました。

 「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(16:18」と箴言にあります。自分が高ぶって、人に対して行なった行為は、後で自分に帰ってきます。

2D エルサレムの守り 30−35
 そして主は、セナケリブからヒゼキヤに向かってお語りになります。

37:30 あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。

 アッシリヤが撤退した後に、ユダの人々は確かに生き延びることができる、という約束です。アッシリヤが荒らしたために、始めから農作業をしなければいけません。その実を食べるまでには丸二年かかります。そして三年目に自分が植えたものからの実を食べることができます。

 私たちも、主の回復の業が行なわれたときに、初めからその実を見ることはできません。初めは辛いこともあるでしょう。目に見えないで困ることもあるでしょう。けれども、きちんと主にあって勤勉であれば、必ず実を見ることができます。

37:31 ユダの家ののがれて残った者は下に根を張り、上に実を結ぶ。37:32 エルサレムから、残りの者が出て来、シオンの山から、のがれた者が出て来るからである。万軍の主の熱心がこれをする。

 これは、ユダの町々がアッシリヤによって滅ぼされたが、残りの民によってまた定住、そして増え広がるという約束です。時間が来れば、必ず主がそうしてくださるという約束です。忍耐と忠実さ、勤勉さが大切であります。

37:33 それゆえ、アッシリヤの王について、主はこう仰せられる。彼はこの町に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。37:34 彼はもと来た道から引き返し、この町には、はいらない。・・主の御告げ。・・

 何度も何度もお語りになっていますね、主は私たちが確信して、安心できるまで、何度でも語ってくださいます。

37:35 わたしはこの町を守って、これを救おう。わたしのために、わたしのしもべダビデのために。」

 すばらしいです、何のために主はエルサレムを救われえるのか?ご自分のため、そしてダビデのためです。エペソ書に、私たちをなぜ神はキリストにあってご自分の子にしてくださったのかの理由が書かれていますが、「私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるため(1:6」とあります。主ご自身の栄光が現れるために、主は私たちを救ってくださいました。

 そしてダビデのため、とありますね。ダビデの罪についてことさらに責める人は覚えておくと良いと思います。ローマ人への手紙で、信仰による義についてパウロが論じているとき、ダビデが義人として認められた理由について語っていました。彼の罪が、咎が赦されたことを歌っている詩篇を引用していました。

 ダビデには、とてつもない恵みの栄光が与えられました。それは彼の世継ぎの子が御国を相続する、というキリスト到来の預言でした。ダビデに約束してくださったこの祝福の言葉のゆえに、主はいつまでもエルサレムを守られるわけです。

3B 主の使いによる応答 36−38
 そして短く、祈りの応えについて書いてあります。

37:36 主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。37:37 アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、帰ってニネベに住んだ。37:38 彼がその神ニスロクの宮で拝んでいたとき、その子のアデラメレクとサルエツェルは、剣で彼を打ち殺し、アララテの地へのがれた。それで彼の子エサル・ハドンが代わって王となった。

 これは、アッシリヤが撤退してから約20年後に起こった出来事ですが、主はご自分が語られたことを確実に行なわれました。彼は、神々を滅ぼし、ヤハウェも打ち破ると豪語しましたが、なんと自分の神の前で、自分の息子に殺されたのです。私たちは正しい見方を持つべきですね。主が、ご自分に逆らう者たちに報復される、ということを。お祈りしましょう。


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