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イザヤ書40章を開いてください、今日からイザヤ書の新しい部分に入ります、40章を開いてください。今日は40章と41章を学びます。ここでのメッセージ題は、「慰めよ、慰めよ」です。
1A 神の威光 40
1節をご覧ください。「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を。』とあなたがたの神は仰せられる。」私たちはこれから、神の慰めの言葉を読んでいきます。
イザヤ書を一気に読んだ人は誰でも分かりますが、イザヤ書は40章からその内容、文体、雰囲気ががらっと変わります。前半部分の1章から39章には、罪を犯しているユダに対して主が裁きを行ない、それから回復する預言を読むことができましたが、40章以降はその回復が中心に書かれています。今、苦しんでいるイスラエルに希望と慰めのメッセージを与えます。
歴史的な舞台は、一気に100年以上先になります。これまでは、イザヤが生きている時、ヒゼキヤが王であった前後の出来事が背景にありました。アッシリヤがエルサレムを包囲して、主がそこからエルサレムを救われることがその背景にありました。そして、終わりの時に主が究極的に行なわれる救いの御業を預言していました。
そして40章以降は、アッシリヤではなく、バビロンからの救いがその背景にあります。エルサレムの町が紀元前586年にバビロンのネブカデネザルによって滅ぼされ、ユダは捕囚の民となりますが、536年にペルシヤのクロスがエルサレムに帰還して、神殿を再建せよという布告を出します。これによって、ユダヤ人は離散と捕囚の状態から解放されるのですが、この出来事を背景として主は彼らに対する慰めの言葉をかけられます。
考えてもみてください、イザヤがこの預言書を書き記している時は、ペルシヤの国などなかったのです。バビロンも大国ではありませんでした。100年以上後に起こることを詳細に予告されています。それで、今日読む箇所にも、「わたしは、先のことをすでに話す神である。」と、ご自分の存在を、偶像を拝む異邦人たちに挑んでおられるのです。
このようにずっと先の話を書き記しているので、これは預言者イザヤではなく、たまたま同じイザヤという名前の後世の人が書いたのだ、という人々が現れました。けれどもその考えについては、福音書を見ればすぐに間違いだと分かります。例えばヨハネの福音書12章には、同じイザヤの名前で、イザヤ書の後半部分と前半部分のどちらもが引用されているからです。
イザヤ書は、しばしば、この書物だけで聖書全体を代表していると言われますが、その理由は旧約聖書における神のメッセージが前半部分に書かれており、新約聖書におけるメッセージが後半部分に書かれてある、と言われるからです。章に分けたのは後世の人が行なったので霊感を受けているわけではありませんが、前半部分は39章、後半は27章あります。これは、旧約聖書の書物の数が39巻、新約聖書が27巻でまったく同じです。
また、後半部分の初めに、主の道を用意せよ、という福音書の最初の、バプテスマのヨハネについての預言があり、そしてイザヤ書最後には、新しい天と新しい地について書いており、黙示録の最後に匹敵します。今日のメッセージの題、「慰めよ」も、新約聖書で幼子イエスを見たシメオンが、「イスラエルの慰められることを待っていた(ルカ2:25)」とあります。新約聖書の啓示は慰めに満ちており、実際に旧約の預言で、イザヤ書がもっとも引用されています。
預言について、使徒パウロは、「徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。(1コリント14:3)」と言いました。慰めを受けることが、その目的の一つになっています。そしてご聖霊を主が私たちに遣わされることについて話されたとき、主はご聖霊を、「もうひとりの慰め主(英欽定訳のComforterから。ヨハネ14:16)」と呼ばれました。ご聖霊が私たちに強く臨まれて、そして預言の言葉を聞くときに、私たちは主にある慰めをたくさん受けることができます。
1B 呼ばわる声 1−11
1C 主の道の準備 1−5
40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」とあなたがたの神は仰せられる。
イザヤが神から、イスラエル人にこのように言えとの命令を受けています。「慰めよ、慰めよ」です。一度だけでなく、二度、「慰めよ」と言うように命じられています。一度、声をかけられただけでは聞き逃してしまうかもしれません、また痛んだ心にはその言葉が聞こえないかもしれません、それで主がもう一度、「慰めよ」と繰り返されているのです。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」
ここの「優しく語りかけよ」は、「心に語りかけよ」と訳すこともできます。エルサレムの心に語りかけよ、ということです。ですからこの訳のように「優しく語りかけよ」ということです。頭ごなしに話す人がいますね。そういう人から心に染みる言葉を聞くことはできませんが、優しく語りかけられる言葉は私たちの心を慰めます。
そしてその内容ですが、罪と咎が贖われた、ということです。「労苦」とありますが、これは「戦い」と訳すこともできる言葉です。ユダヤ人は、エルサレムをバビロンによって破壊されましたが、その戦いは、ペルシヤの王クロスの布告によって終わりました。また、霊的にもそうですね。戦いは、神が私たちの罪を贖われることによって、罪を赦してくださることによって終了します。罪の赦しを受けることで、私たちはどれだけの慰めを受けることができることでしょうか!
そして、罪に引き替えて、二倍のものを受けるというのは、罪の赦しを豊かに受けると言い換えることができるでしょう。罪によって多くの苦しみをもたらします。また罪は死をもたらします。これらの負債をすべて帳消しにしてくださった。それだけでなく、私たちを回復し、祝福まで注いでくださる、ということです。帳消しにしてマイナスからゼロの地点まで引き戻してくださっただけでなく、さらに祝福というプラス面も与えてくださった、ということです。
40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。40:5 このようにして、主の栄光が現わされると、すべての者が共にこれを見る。主の口が語られたからだ。」
主が私たちの罪を赦してくださるのですが、その主が来られる道を整えよ、という呼びかけです。この箇所を読めば、バプテスマのヨハネについての預言であることは明らかですね。これからイザヤ書には、神のしもべとしてのメシヤの預言がたくさんあります。このしもべが現れる前の声として、この箇所はその道を整える呼びかけを行なっています。
ヨハネは、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説きました。当時王が来るときに、その道を前もって整えていました。石を取り除けて、穴を埋めて、平らにします。今でいうと、長い絨毯を敷くようなものです。そのことによって王をお迎えすることができるのですが、悔い改めによって初めて主をお迎えできます。
悔い改めることによって、私たちは主ご自身のところに、隔てなくそのまま行くことができます。主への道は平らになります。なぜなら一度悔い改めたら、これまでの一切の罪を赦していただくことができるからです。苦行を積んでようやく、主のもとに行くことができるのではありません。その道はまっすぐ、平らなのです。何ら私たちを妨げることはありません。
そしてこの箇所では、「すべての者が主を見る」ことを強調していますね。これは主が再臨されることを暗示しています。黙示録1章、「彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。(7節)」とありますが、信者だけでなく不信者も、否応なく主の栄光を見ることになります。
2C 永遠の神の言葉 6−8
40:6 「呼ばわれ。」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう。」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。40:7 主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
5節にすべての人が主の栄光を見るとありましたが、ここでその人々の栄光を花や草に例えています。主の時が来れば、ここでは「主のいぶきがその上に吹く」とありますが、主がご自分の意思一つで、これら人間の栄光をしぼませることがおできになる、ということです。
これからのイザヤの預言は、先ほども話したように遥か先の話です。その先の話をするに当たって、イスラエルの人々は、主は「わたしのことばは、永遠に立つのだよ」ということを呼びかけておきたかった、と言えます。私たちの目は、いつも目に見える栄光を求めます。どのような人々が人気があるか、どのような政治家が活躍しているか、学問では、スポーツでは?社会ではどんなニュースがあるか、世界はどうなっているか?などなど、いろいろな注目すべき出来事がありますが、主はこれらを「花」であり「草」であるとおっしゃっておられるのです。
だから主の御言葉に心を留めましょう。これこそが必ず成就するものであり、私たちにとっての光であります(2ペテロ1:19参照)。
3C 主の来臨 9−11
40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
これはおそらく、バビロンの支配から解放されて、ユダヤ人がここに帰還するという良い知らせやエルサレムにやってくることを比喩的に述べています。
ここでよい知らせを伝えるの「伝える」は、女性形になっているそうです。イエス様がご自分の再臨について例えて話されたとき、十人の乙女ことを話されましたね。花婿が花嫁を引き取りに来るときに前に出て行って、花婿をお迎えする娘たちのことですが、同じ働きをしています。主が来られたことを、人々に伝えているのです。
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
歴史的な背景はバビロンからの解放ですが、究極的な主の再臨の姿をここは描いています。力をもって来られる。そして統べ治められる、とあります。
そして報いが主とともにある、とありますが、これは黙示録でも同じです。黙示録の最後に、「「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。(22:12)」とあります。主は、私たちがこの地上で行なったことを報いてくださいます。キリストのうちにいる者は、罪に対する報いではなく、主にあって行なったことに対する褒美としての報いを受け取ります。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
力強く統べ治める御腕は、同時に子羊を引き寄せる優しい腕でもあります。主が戻ってこられるときは、ご自分の民を優しく受け入れてくださいます。
2B 比類なき神 12−31
こうして初めの呼びかけの言葉が終わりました。次から本題です。
1C 天地創造 12−17
40:12 だれが、手のひらで水を量り、手の幅で天を推し量り、地のちりを枡に盛り、山をてんびんで量り、丘をはかりで量ったのか。
これから神は、ご自分の偉大さ、威厳、威光、その超越した姿を描いていきます。そしてご自分と偶像の神々との対比を行なっていき、イスラエルの神がいかに優れているかを語ります。
初めに主は、ご自分は天と地を造られた神、そして天と地をご自分の手に収めておられる神であることを明らかにしておられます。この地球にある大量の水は、神の御手の中にすっぽりと入ります。この巨大な宇宙も、神の手の幅の中にすっぽり入ります。どれだけの土、砂があるでしょうか、この地球には。また山や丘はどれほどあるのでしょうか?これらはすべて主が把握しておられます。
40:13 だれが主の霊を推し量り、主の顧問として教えたのか。
私たちは主の御霊、ご聖霊をあたかも、自分が操る魔法の油のごとく話すことがありますね。「聖霊がいま、出て行った。」とか、まるでアニミズムの違う漢字の「精霊」のように話す人がいます。けれども、ご聖霊は今12節で読んだ、天と地をすべて造り、それを掌握されているご本人であります。だから、「だれが主の霊を推し量るのか」と言っているのです。
40:14 主はだれと相談して悟りを得られたのか。だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、英知の道を知らせたのか。
私たちは、この間違いも犯しますね。主があたかも知識が足りないかのように、私たちが主を導き、教えるような祈りをすることがあります。私たちが考えつくしたことを主の前に発表して、「主よ、このようにしてください。」とお願いするのです。
けれども、そんなことは一切必要のない方です。いや、私たちが主の前にひれ伏して、測り知ることのできない主の知恵と知識の富に圧倒されなければいけません。パウロがこの箇所を引用して、ローマ11章にて、イスラエルに対する神の召命と選びについて話しました(33−35節)。
40:15 見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。
ここの「国々」は、イスラエルの国ではない異邦人の国々、イスラエルの神を神としていない偶像を拝んでいる国々のことです。自分たちがどんなに力強いと思っても、それは主にとっては、はかりの上のごみのようにみなされています。天秤に少し埃がついているのを、ふっと吹いて取り除くのと同じぐらいのものなんだよ、ということです。
私はクリスチャンになってから間もなくしてこの箇所を読んで、私の信じている神がいかに大きい方なのか、そして八百万の神と圧倒的に違うのかがよく理解できました。島々、つまり日本列島は細かいちりのように取り上げられる、ということだからです。
40:16 レバノンも、たきぎにするには、足りない、その獣も、全焼のいけにえにするには、足りない。
これは、天と地全体をご自分の住まいとしておられる神がいかに大きい方かを例えている部分です。レバノンは多くの木で有名なところです。その木をもってしても、主にささげるいけにえを焼くための燃料として十分ではない。獣も十分ではない、ということです。
40:17 すべての国々も主の前では無いに等しく、主にとってはむなしく形もないものとみなされる。
これを主は、イスラエルに知ってほしいと願っておられました。彼らは小さな集団です。自分の周りを大国が取り囲んでいます。周辺の諸国も忙しく動いています。けれども、先ほど見たように、すべての人が主の栄光を見るときがあり、彼らの栄光は花や草のようなのです。理由は、イスラエルの神が天と地を造られた方であり、この神と比べたら無に等しいからです。
私たちも、イザヤ書を読むことによって、イスラエルの民と同じように大きな慰めを得て、また自分たちの思いを変えなければいけません。私たちのうちにおられる方は、同時に、この全宇宙をご自分の手の中に入れておられるほど大きな方です。
2C 比べることの空しさ 18−26
40:18 あなたがたは、神をだれになぞらえ、神をどんな似姿に似せようとするのか。40:19 鋳物師は偶像を鋳て造り、金細工人はそれに金をかぶせ、銀の鎖を作る。40:20 貧しい者は、奉納物として、朽ちない木を選び、巧みな細工人を捜して、動かない偶像を据える。
偶像を作ることの愚かしさをここで描いています。私たち人間は、神のかたちに造られました。けれどもそのかたちというのは、霊的な意味でのかたちであり、物理的なものではありません。神が言葉を持っておられるように私たちも言葉を持ち、神が自由意思を持っておられるように私たちも持っており、愛をお持ちにように愛を持っている、ということです。
けれども人間はおろかにも、それを鋳物や木によって神を作ろうとします。これは昔の話ではないことは、日本人であれば誰でも分かっていますね。聖書が古い時代の神話だと思っている日本人は、この箇所を読んでください。今現代も、自分たちがまさに行なっていることを主はおっしゃっておられます。
40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
後でまた、「知らないのか。聞かないのか。」という言葉が出てきます。これらのことはあまりにも明らかで、自明の理ではないか、ということです。これら鋳物や木で作った神が、今私たちが頼っている地面を支えているとでもいうのか?ということです。
40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
この「地をおおう天蓋」は「地の丸み」と訳すこともできます。「聖書は地球は平らだと教えている」と言う人は、どの箇所のことを言っているのか答えることはできませんが、「地球は丸い」という記述は存在するのです。
ここでは、主が天と地を超越したところにおり、また天地をご自分の住まいとされている、つまり偏在されている、ということです。
40:23 君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。40:24 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。暴風がそれを、わらのように散らす。
世の中が騒がしくなっている今の時代、このことを心に留めておくことは非常に大切です。君主たち、つまり政治の指導者たちです。彼らは無です。アメリカの大統領も、中国の主席も、ロシアの首相も、日本の総理大臣もみな、神の前には無なのです。そして、さばきつかさ、つまり裁判官も無です。人を生かすも殺すもできる裁判官の前に、人々はただその判決を甘んじて受けるしかできませんが、神の前では無なのです。
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
主がどれだけエネルギーを持っておられるか、力をお持ちか、星の空を眺めさせることによって悟らせようとされています。今日の天文学では、ここで主が言われていることがいかにすごいことかを証明しています。昔は星の数が数千だと言われていましたが、今はいくつなんでしょうか?文字通り天文学的な数字でしょう。それら一つ一つを作り、数え、名をもって呼ばれています。
3C 疲れた者への力 27−31
そこで次に主は、ご自分の民、イスラエルに語りかけます。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
アッシリヤの次はバビロン、そしてバビロンに捕われの身になっている彼らにとって、自分たちの道が主に隠れ、正しい訴えも見過ごされていると感じてもおかしくありません。
私たちも幾度となく、同じように感じたことがあるかと思います。私は何度も何度も、こう感じます。自分ではどうすることもできない問題が回りにあります。また完全に克服できない肉の問題もあるでしょう。けれども、もし今見てきた、天と地を造られた神が自分の神であれば、主が初めに、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を。」と呼ばれたように、自分が主の契約の民であれば、主が個人的に関係を持ってくださっている存在であれば、主が隠れて、見過ごしにすることは、まったくできないのです。
もしそう考えるのであれば、私たちは神を他の偶像と同じように引き下げてしまうことになります。見ることのできない神、聞くことのできない神、見過ごすことは当たり前の神、天地創造の神とは程遠いです。そこで主はこう言われます。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
先ほどは、異教徒たちに「知らないのか。聞いていないのか。」と問いかけていましたが、ここでは契約の民に問いかけておられます。クリスチャンであっても、不信者と同じように神の大きさを忘れてしまうことがありますね。
「永遠の神」つまり、主があなたのことを知らないことはない、ということです。あなたが母の胎にいるときから、神に知られており、知られない時期は、一瞬たりともない、ということです。
「地の果て」つまりどこにも主はおられる、ということです。私たちは、「こんな領域には主はおられないだろう。」と勝手に、自分にしか分からない、自分にしか分からないと思い込んでいる領域を作っています。けれども、そこにも主はおられるのです。
そして天地を創造された方は、エネルギーにみなぎっておられ、また知恵に満ちておられます。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
私たちの疲れ、私たちの弱さに、主はこのみなぎったエネルギーを注入してくださいます。私たちは勝手に、「宇宙を造られた神はおられるが、こんな私のちっぽけな問題には関わらないだろう。」と思いますが、真実はその逆です。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
これは体力を誇示することができる代表的な年代である若者を取り上げておられます。「私はまだ若い。」という驕りが、若者にはありますね。私にもあります。歩くのがしんどそうなおじいさんを見て、「私は早く歩くことができる。」と思ってしまいます。けれども、ひどい疲れを覚えたり、また倒れたりすることもあるのです。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
すばらしい約束ですね。主を待ち望む、つまり主をあがめて、主が自分に関わってくださることを期待するとき、私たちは新しく力を得ます。
そしてその力は鷲が翼をかって上るのと似ている、ということです。鷲と雀を比べてください。鷲は雀のように、翼をばたばた上下に動かしながら飛びますか?いいえ違いますね、気流に自分の翼をゆだねることによって、ほとんど羽ばたかずに上昇することができます。
私たちが主から力を得るときも同じです。私たちが慌てて、一生懸命手足を動かして、また心を忙しくさせて自分を向上させるのではなりません。ただただ、主が自分を引き上げてくださるその流れに自分をゆだねるだけです。
主をあがめ、主の前に静まること。これが再び立ち上がる秘訣です。
2A 神の守り 41
1B ひとりの者 1−7
41:1 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。
今度は「島々」に対する主の呼びかけです。イスラエルに対してではありません。先ほどと同じように、「静まれ」「新しい力を得よ」と呼びかけていますが、これは良い意味で使っていません。皮肉を込めています。なぜなら、「こぞって、さばきの座に近づこう」とおっしゃっているからです。元気を出して、裁判の席に着きなさい、と呼びかけておられるのです。
41:2 だれが、ひとりの者を東から起こし、彼の行く先々で勝利を収めさせるのか。彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせ、その剣で彼らをちりのようにし、その弓でわらのように吹き払う。41:3 彼は彼らを追い、まだ歩いて行ったことのない道を安全に通って行く。
この「ひとりの者」とは誰なのか?東から来るひとりの者とは誰なのか?その正体は、イザヤ書を読み進めると分かります。名前が出てきます、44章28節と45章1節に、「クロス」とあります。そう、バビロンを崩壊させるあのペルシヤの王です。ペルシヤが、周辺の国々をことごとく制覇していく姿を、主は今、予め示しておられます。
41:4 だれが、これを成し遂げたのか。初めから代々の人々に呼びかけた者ではないか。わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。
「成し遂げたのか」と過去形で書かれていますが、未来のことです。これは間違いではなく、主は意図的にそうされています。「初めから世々の人々に呼びかけた」つまり、ずっと先にあることを、まるで今あるかのように呼びかけています。初めに、終わりに起こることを語る神であることを紹介されています。
イスラエルの神と、そのほかの神々との違いを、その圧倒的な差を、主はまずご自分の創造を取り上げて話されましたが、ここからご自分の永遠性を取り上げてお話になっています。初めから、終わりのことを話すことは、偶像や異教徒は決してできないこととして話しておられます。
41:5 島々は見て恐れた。地の果ては震えながら近づいて来た。41:6 彼らは互いに助け合い、その兄弟に「強くあれ。」と言う。41:7 鋳物師は金細工人を力づけ、金槌で打つ者は、鉄床をたたく者に、はんだづけについて「それで良い。」と言い、釘で打ちつけて動かないようにする。
これは、ペルシヤのクロスが自分たちの国々に近づいてきた時の、彼らの反応を描いている部分です。「島々」とありますが、クロスは今のトルコ、小アジヤの地中海の島々のところまで来ました。またこれは、世界中至る所、という意味も含むでしょう。
彼らは互いに励まし合い、力づけていますが、どうでしょうか?偶像を協同で作ることによって励ましあっています。なんともこっけいな姿でありますが、実際に私たち人間が行なっていることはこの通りなのです。クリスチャンでさえも、やってしまうのではないでしょうか?主にあって励ますのではなく、とにかく何でもいいから話す、協力する、助け合う。けれども、主にあって励ますのでないかぎり、それは世の人とまったく同じ、役に立たないものになってしまうのです。
2B 右の御手 8−20
1C 敵からの救い 8−16
41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
この「しかし」がとても大切です。島々は偶像によって励ましあっているが、あなたがたは違うのだよ、ということです。
先ほどから見ていますが、神は単なる神ではなく、私たちの神なのです。主はそれを明確にここでおっしゃっておられます。まず、「わたしのしもべ」です。主は、イスラエルを国々の中から選び出して、ご自分の所有の民とされました。そして、ご自分に仕える民となさいました。
「しもべ」というと私たちは否定的なイメージを抱きます。自由がなく、こき使われるイメージがあります。けれども主人と奴隷の関係は、主人が奴隷を守る、という意味もあるのです。日本の会社ならよく分かるんじゃないでしょうか、このごろは経営がアメリカ化しているので一概に言えないのですが、若い社員を自分の家族のように会社は育てようとします。若い社員が犯した過ちを、上司が尻拭いをしてくれます。会社に勤めているのですが、会社がその代わりに個人を守ってくれます。
同じように主は私たちを守ってくださいます。そして、「わたしが選んだヤコブ」とあります。覚えていますね、主はエサウを憎まれ、ヤコブを愛されました。兄を退けられ、弟を選ばれました。それは、選びの確かさが明らかになるためだとパウロは、ローマ9章で話しています。私たちも、キリストにあって父なる神によって選ばれています。
そして「わたしの友、アブラハムのすえ」です。神はアブラハムをご自分の友としておられました。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。(創世18:17)」と主の使いは言いました。何も隠し事のない関係を、主はアブラハムと持っておられたのです。
そして主は弟子たちにも、「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:14)」と言われました。主が命じることを行なうなら、主はご自分が持っておられるものをすべて、私たちに明かしてくださる友となってくださいます。
41:9 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
バビロンが滅んで、今、ペルシヤの全土に離散したユダヤ人がいます。彼らを今呼び出され、エルサレムに帰ってくるように呼びかけておられます。
その理由が、「あなたがたを捨てなかった」ということです。すばらしい約束です。私たちは自分が罪を犯してしまうと、神によって捨てられたと思います。けれども、キリストにあって選び、ご自分の友としてくださった主が、どうして私たちを捨てることがおできになるでしょうか?私たちが悔い改めれば、いつでもどこでも、主は私たちを引き戻してくださいます。
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
ユダヤ人ほど、恐れを抱いている民族はいないと言われています。理由は、その外敵の多さからです。だから主は、「恐れるな」と励ましておられます。そしてユダヤ人だけでなく、人間だれでも恐れます。恐れることが多いからこそ、主は何度も何度も、「恐れるな」とおっしゃってくださいます。
そしてその根拠がいくつかありますが、一つ目は、「わたしはあなたとともにいる。」です。弟子たちに宣教命令を出されたときも「ともにいる」と約束してくださいました。そして二つ目は、「わたしがあなたの神だ」です。単なる神ではなく、あなたの神だ、ということです。これだけ個人的な神になっているでしょうか、私たちは?
そして、三つ目は、「あなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」です。私たちが主の手を握っているのではなく、主が私たちの手を握っておられる姿です。私たちは、自分が主にしがみついているから大丈夫だと思っていますが、実は私たちをつかんでいる主の御手の方が、はるかに大きいのです。
「義の右の手」というのは、まず右の手ですが、これは権威や力を表します。力と権威をもって、わたしはあなたの義となるよ、という意味です。私たちの義ではありません、神ご自身の義をわたしたちが身にまとうことができる、という、転嫁された義です。
41:11 見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、恥を見、はずかしめを受け、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。41:12 あなたと言い争いをする者を捜しても、あなたは見つけることはできず、あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。41:13 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。
自分が目にしている敵は、一瞬のうちに滅んでしまうという約束です。
41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。・・主の御告げ。・・あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
ここを理解することがとても大切ですね。「虫けらのヤコブ」ですが、これじゃセルフイメージもひどく悪くなりますね!けれども悪くないといけないのです。自分が虫けらのようであるからこそ、主が私たちのために敵に戦ってくださるとき、これはただ主が行なってくださったのだと認めることができるのです。
41:15 見よ。わたしはあなたを鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。丘をもみがらのようにする。41:16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。
敵がことごとく自分の手で倒れるとき、主によって喜び、イスラエルの聖なる方によって誇ります。自分の手柄にすることはできません。自分は虫けらだって、分かっているからです。
そして先ほどの14節、「あなたを贖う者」はヘブル語で「ゴエル」です。ルツ記に出てくる「近親者」、ナオミの親戚であるボアズが、ルツを自分の妻とするために、ナオミの夫の土地を買い戻しました。イエス・キリストが私たちの近親者、つまり人間となってくださり、そして私たちをご自分の妻とするために、世界を贖ってくださったことを予表しています。
2C 荒野での泉 17−20
41:17 悩んでいる者や貧しい者が水を求めても水はなく、その舌は渇きで干からびるが、わたし、主は、彼らに答え、イスラエルの神は、彼らを見捨てない。
外敵からの救いだけでなく、飢え渇きによる死からも救ってくださいます。
41:18 わたしは、裸の丘に川を開き、平地に泉をわかせる。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。41:19 わたしは荒野の中に杉や、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒地にもみの木、すずかけ、桧も共に植える。
ここに出てくる植物は、みな荒野では育たないものです。つまり水がそれだけ出てくることを約束しているものです。驚くべきことは、今、イスラエルでこれらの植物が育てられていることです。砂漠のど真ん中で緑地栽培をあちらこちらで見ることができます。預言が一部ですが成就しています。
41:20 主の手がこのことをし、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、共に悟るためである。
主の守りを見て、彼らが主をもっともっとよく知っていく、ということです。
3B 予言の能力 21−29
語りかけは、再び、異邦人たちに戻ります。
1C 神々の空しさ 21−24
41:21 あなたがたの訴えを出せ、と主は仰せられる。あなたがたの証拠を持って来い、とヤコブの王は仰せられる。
この「あなたがた」というのは偶像の神々のことです、もう少し読むと分かります。そして、先ほどと同じように、彼らを法廷に出頭させています。
41:22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。先にあった事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれに心を留め、また後の事どもを知ることができよう。または、来たるべき事をわたしたちに聞かせよ。41:23 後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう。
分かりますか、これは将来のことを予告した預言を持ってきなさい、と言っているのです。彼らにはできません、だからこう言われます。
41:24 見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。
これから何回も、何回も主はこのことを語られます。どの神がまことの神なのか、どの神が信じるに値する神なのか、これを証明するのに、主は、「わたしは、先に、終わりのことを告げる。」と言われているのです。
ここに、聖書の中に預言がかなり大きな部分を占めている理由が分かります。日本ではなぜか、信仰が心理学的なもの、心の内面のこととして仕舞い込まれてしまいます。そして牧師たちが、「預言は個人的解釈を施してはならないから、深く取り組んではいけない。」と警告します。日本だけではなく、これが世界の兆候になっています。キリスト・イエスの福音が、もっと社会を良くしようとする社会的な福音に変質してしまっています。
けれども、これは間違いなのです!主は、何度も何度も、信仰を持っていない人々に対して、「わたしが神であることを、試してみなさい。」と挑んでおられるのです。預言こそ、神が生きておられることの一番強力な証拠の一つなのです。
2C 北からの人 25−29
41:25 わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の出る所から、わたしの名を呼ぶ。彼は長官たちをしっくいのように踏む。陶器師が粘土を踏みつけるように。
イスラエルのところに外国から来るとき、南のエジプトの方向以外は、みな北からになります。東は砂漠ですから、ユーフラテス川の地域、つまりバビロンやペルシヤのような国は、まず西に進み、それから南に下ってイスラエルに行ったのです。そこで「北からの人」となっています。そして、この人はペルシヤの王、クロスです。
41:26 だれか、初めから告げて、われわれにこのことを知るようにさせただろうか。だれか、あらかじめ、われわれに「それは正しい。」と言うようにさせただろうか。告げた者はひとりもなく、聞かせた者はひとりもなく、あなたがたの言うことを聞いた者もだれひとり、いなかった。
ペルシヤが世界帝国になることを、100年以上も前から予告しているのは、この神、聖書の神しかいません。だから、実際に起こったときのことを考えて、神は、「わたしは前もって、こう告げていたのだ。」と何度も強調されているのです。人間というのは都合がいいものですから、たとえ預言が当たっても、気にも留めません。
41:27 わたしが、最初にシオンに、「見よ。これを見よ。」と言い、わたしが、エルサレムに、良い知らせを伝える者を与えよう。
主が戻って来られたこと、主が顧みてくださったことを、主ご自身が伝達者を用意されて、伝えようとおっしゃっておられます。
41:28 わたしが見回しても、だれもいない。彼らの中には、わたしが尋ねても返事のできる助言者もいない。41:29 見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなす事はむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。
私たちの周りに数多くの占いがありますね。普通の女性雑誌にあり、携帯にもあり、これらは自分たちの将来に対する漠然とした不安を解消させてくれるものとしてはやっています。それだけでなく、日本人が危機に遭ったときに何を信頼するかという質問を受けたら、新聞やテレビなどのマスメディアであると答えます。本当にむなしいですね、ここに書いてあるとおりです。
人は恐れを抱きます。これからどうなるか分からないからです。けれども、主が私たちを守ってくださいます。そして、前もってこれから起こることを教えていてくださいます。個人的にも救いの完成を約束してくださっていますし、世界的にも神の国の到来を約束してくださっています。
そして40章では、私たちには力の源があることが分かりました。疲れているとき、悩んでいるとき、主を待ち望めば新しい力が与えられます。主の偉大な創造の力が与えられるからです。守りも力も与えてくださる方です。
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