イザヤ書42−44章 「あなたを贖った方」

アウトライン

1A 神が支える僕 42
   1B 国々への公義 1−9
      1C 真実による支配 1−4
      2C 国々への光 5−9
   2B 新しい歌 10−17
      1C 地の果てから 10−13
      2C 敵への威力 14−17
   3B 盲目な者 18−25
2A 再び集める方 43
   1B 呼ばれる名 1−13
      1C 水と火の中から 1−4
      2C 東西南北から 5−7
   2B わたしの証人 8−13
   3B 新しい事 14−21
   4B 呼び求めないヤコブ 22−28
3A 唯一の方 44
   1B 神の選び 1−8
      1C 注がれる御霊 1−5
      2C いにしえの民 6−8
   2B 偶像の空しさ 9−20
      1C 人間に過ぎない細工人 9−18
      2C 心の欺き 19−20
   3B 忘れられない僕 21−28
      1C 拭い去られる罪 21−23
      2C エルサレムの復興 24−28

本文

 イザヤ書42章を開いてください、今日は42章から44章までを学んでみたいと思います。ここでのメッセージ題は、「あなたを贖った方」です。

 私たちは前回から、イザヤ書の後半部分、「慰めよ、慰めよ」という主の呼びかけから始まる預言を学んでいます。主の凝らしめを受けたイスラエルが慰められる、自分の罪によって裁かれた者が、その罪が赦され、恵みを受ける慰めです。

 主はまず、ご自分が偶像とは圧倒的に異なる、偉大な創造主であることをお語りになりました。なぜなら今イスラエル人は、アッシリヤによる捕囚そしてバビロンによる捕囚によって、異邦人たちの土地に散らばっているからです。また彼らは、これらの偶像に仕えていたために神の裁きを受けていたからです。

 天と地を造られた神であること告げた後で、主は、今度はペルシヤの王による解放を予告されます。そしてペルシヤの王が世界を征服していく中で、他の国々はことごとくつぶされていくのですが、ユダヤ人には神の守りを約束してくださいます。

 そして主は、これら偶像に対して、「あなたがたは、先のことを今から告げてみよ。そうすれば、お前が神であることをわたしたちは認めよう。」と挑まれます。もちろん、そんなことはできません。そこで主は、ご自分のしもべについてお語りになられます。

1A 神が支える僕 42
1B 国々への公義 1−9
1C 真実による支配 1−4
42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。

 イザヤ書40章以降、後半部分には、「しもべ」という言葉がたくさん出てきます。前回は、それがイスラエルであったことを学びました。けれどもここの「しもべ」をイスラエルと読むと、少しおかしくなってきます。イスラエルという民族として読むと、主語が「彼」と単数になっているのでおかしくなります。それ以上に文脈がイスラエルに合いません。

 神の僕ですから、神に仕えて、神のみこころを行ない、僕を通して神の栄光が現れるわけですが、ここでの僕は、理想の僕メシヤのことです。

 神は、前の章でお語りになられた偶像に対する挑戦と、対比されています。4124節、「見よ。あなたがたは無に等しい。あなたがたのわざはむなしい。あなたがたを選んだことは忌まわしい。」そして29節、「見よ。彼らはみな、偽りを言い、彼らのなす事はむなしい。彼らの鋳た像は風のように形もない。」これら偶像と対象的に、「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ。わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。」となっているわけです。偶像を選び取ることは忌まわしいが、わたしのしもべは、わたしを心から喜ばせるのだよ、と自慢げに仰られているのです。

 「わたしのささえる」とあります。神が他のものよりも高いところに掲げる、ということです。旗を高く上げて人々に見えるようにするように、主がその僕を引き上げて、人々に見えるようにします。

 そして「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」とありますね。イエス様がバプテスマをヨハネからお受けになるとき、天からの神が言われました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。(マルコ1:11」父なる神のみこころを行なう忠実な僕として、神は主イエス・キリストを喜ばれているのです。

 そして、「わたしは彼の上にわたしの霊を授け」とありますが、同じくバプテスマを主が受けられたときに、鳩のような形をして聖霊がこの方の上に下って来られました。そのご聖霊の力によって主は公の働きを始められます。

 そして「彼は国々に公義をもたらす。」とあります。旧約聖書で「国々」という言葉が出てきたとき、それはイスラエルの民ではない国民たち、という意味があります。そこにはまことの神を知らない異教徒、異なる神々を拝む人々という意味も含んでいます。

 ですからイザヤは、メシヤはイスラエルのためだけでなく、世界のあらゆる国々に対して与えられている神の僕であると言っているのです。40章以降を読んで特に目立つのは、「島々」とか「国々」とか、「地の果て」とか、とにかく世界的な規模で神がご自分の事を行なわれるということです。万物をお造りになられた方は、イスラエルだけでなくご自分が造られたすべての者に対して救いを用意しておられる、ということです。

42:2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。

 メシヤは、武力によって公義をもたらすのではなく、まこと、真実をもって公義をもたらします。メシヤの先駆者であるバプテスマのヨハネは、荒野で叫ぶ声でした。彼の説教は、まさに燃える言葉であり、悔い改めなかったら火で焼き尽くされる、というものでした。けれども、主が燃えるような言葉で人々をお裁きになったのか、というと全然違いました。

 ヨハネは投獄されていました。彼は自分の弟子を送って聞きました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。(ルカ7:20」と。主はそのときちょうど、病気を直し、悪霊を追い出しておられました。そして、このことをヨハネに伝えなさい、だれでもわたしにつまずかない者は幸いです、と言われたのです。

 理由はこの預言でした。後にメシヤが力をもって、イスラエルの敵どもをことごとく滅ぼす預言もあります。けれどもここにあるように、力ではなくまことをもって正義をもたらす預言もあるのです。これがキリストの初臨であり、へりくだった僕としての働きです。

42:4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。

 人々をお癒しになっていく、おとなしい働きであるにも関わらず、それは途絶えることがありません。そしてついに、公義は全地に打ち立てられます。そして「島々」つまり地の果て、遠くかなたにあるところまで、キリストの教えが広まっていくということです。

 私たちはこのような神と、神が選ばれた僕を信じている者です。神を信じるということは、世界の国々にご自分を広めたいと願っている神を信じていることです。つまり世界宣教の神なのです。私たちが神をあがめ、神に仕えているのであれば、自ずと世界にも目が向きます。

 そしてその宣教方法は、力によるものではなく真実によるものです。今、世界の各地からアメリカ式や韓国式の宣教方法に反省が促されています。静かに働きを行なうよりも、人々に宣伝する形で自分たちの働きを促進させようとします。また、短期間に成果を上げないと支援金が得られないシステムを作っています。

 けれども現地の人々が願っているのは、キリストの宣教です。叫ばない、声を上げない宣教です。また、いたんだ葦を折ることもない、柔和な、温和な宣教です。相手は獲得する商品ではなく、生身の人間であることを知る必要が生じています。

2C 国々への光 5−9
42:5 天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。42:6 「わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。

 神は、この僕をご自分が選ばれた者であることを強調するために、ご自分が「天を造り出し、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた」と言われています。宇宙も自然も、また植物の命も、また人間の生命も与えられました。そして肉体の命だけでなく、霊の命も与えられる神です。

 この神が、メシヤを召し、その手を握り、見守られます。そして「民の契約」つまり、イスラエルの民の契約の仲介者になられます。そして、それを通して異邦人の国々に光となられます。

42:7 こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

 これは物理的に獄屋から連れ出すというより、罪によって縛られている者、暗闇の中に縛られている者という意味の方が強いでしょう。また、陰府の中にいる者、旧約の聖徒たちも含むでしょう。

42:8 わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない。

 この「主」は新改訳では太字になっています。YWVH「ヤハウェ」です。これがわたしの名であると、主は言われます。

 そして主は、ご自分の栄光を、他に神と呼ばれる刻んだ像には渡さない、という情熱を語っておられます。偶像を拝むことによって、何が起こるのでしょうか?神の栄光が見えなくなることです。ロマ書1章に、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。(23節)」とあります。そしてその背後にある悪魔の働きによって、「この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。(2コリント4:4」と第二コリントにあります。

 私たちが山登りをしたら、すぐに分かるでしょう。神が造られたすばらしい自然を満喫しているときに、突如として頂上に神社が現れます。そこに人々は拝みに行きます。一気に、霊的な雰囲気は暗くなり、神の栄光に陰りができますね。主はこのことを忌み嫌われます。

42:9 先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう。」

 今日の学びから出てくる言葉は、「新しい事」です。これまでイスラエルが見たこともない、聞いたこともないこと、新しい事を経験します。それは、このように神が立てられる僕、キリストが現れることです。

2B 新しい歌 10−17
 こうしてキリストが世界に現れた後に、世界で起こる現象をイザヤは次に述べます。

1C 地の果てから 10−13
42:10 主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。

 新しい歌です。これまでにない新しい事が行なわれたのですから、その感動を表現する歌も新しい歌なのです。つまり、新しく生まれること、キリストがもたらす救いについての賛美です。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5:17」新しい創造を経験しました。

 そしてこの歌は、地の果てまで、海を渡ってその向こうにある島々に至るまで歌われます。

42:11 荒野とその町々、ケダル人の住む村々よ。声をあげよ。セラに住む者は喜び歌え。山々の頂から声高らかに叫べ。42:12 主に栄光を帰し、島々にその栄誉を告げ知らせよ。

 ケダル部族は、アラビア人です。ケダルはイシュマエルの息子の一人で、イスラム教の創始者ムハンマドの先祖であると言われています。このケダルについて、詩篇の著者はこう言っています。「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮らすとは。私は、久しく、平和を憎む者どもとともに住んでいた。私は平和を―、私が話すと、彼らは戦いを望むのだ。(120:57」イスラム教徒がイスラエルに敵対することは、このように前から預言されているのです。

 けれどもキリストの福音はなんとすばらしいことでしょうか、このように敵対する人々をも新しい歌をうたうように召しておられるのです。アラビア人でキリストを知る人はたくさんいます。そしてムスリムでキリストを知り、神を賛美している人々が急増しています。これは、終わりの時の徴です。

42:13 主は勇士のようにいで立ち、戦士のように激しく奮い立ち、ときの声をあげて叫び、敵に向かって威力を現わす。

 主は柔和な姿で、真実によって人々をご自分のところに引き寄せた後、再び来られる時は戦士として敵に対峙されます。

2C 敵への威力 14−17
42:14 わたしは久しく黙っていた。静かに自分を押えていた。今は、子を産む女のようにうめき、激しい息づかいであえぐ。42:15 わたしは山や丘を荒らし、そのすべての青草を枯らし、川をかわいた地とし、沢をからす。

 主はずっと忍耐しておられました。罪と罪悪に対して忍耐しておられましたが、子を産む女のように時が熟しました。そして世を裁かれます。しかし、・・・

42:16 わたしは盲人に、彼らの知らない道を歩ませ、彼らの知らない通り道を行かせる。彼らの前でやみを光に、でこぼこの地を平らにする。これらのことをわたしがして、彼らを見捨てない。

 主は救いの御業を最後に行なわれます。暗闇の中にいて真理を知らなかった人々が知るようになります。そして主への道も、その真理によってまっすぐにされます。罪が赦され、そのまま主にお会いできるようになった、ということです。

42:17 彫像に拠り頼み、鋳像に、「あなたがたこそ、私たちの神々。」と言う者は、退けられて、恥を見る。

 つまり神の国の栄光にあずかることはできない、ということです。目の前で、主への大路があるのに、そこに入ることができない、ということです。不信仰による対価は、見ていながら、それにあずかることはできない、楽しむことはできない、ということです。

3B 盲目な者 18−25
42:18 耳しいた者よ。聞け。盲人よ。目をこらして見よ。42:19 わたしのしもべほどの盲目の者が、だれかほかにいようか。わたしの送る使者のような耳しいた者が、ほかにいようか。わたしに買い取られた者のような盲目の者、主のしもべのような盲目の者が、だれかほかにいようか。

 これは誰だかお分かりですね、イスラエルの民のことです。先ほど、盲目の者たちは異邦人であり、彼らが見えないのは当たり前です。神の真理が伝えられていなかったのですから。けれども、ここで主ご自身が驚かれているように、神に買い取られ、主のしもべになっているのに、それでも見えず、心に留めていないのです。

42:20 あなたは多くのことを見ながら、心に留めず、耳を開きながら、聞こうとしない。

 イスラエルが犯した罪というのは、これです。その行なったことそのものよりも、すでに多くのことを見て、聞いているのに、それに応答しなかったことです。「すべて多く与えられた者は多く求められ、多く任されたものは多く要求されます。(ルカ12:48」と主は言われました。私たちはどれだけ聞いたでしょうか、どれだけ主の御業を見たでしょうか。責任が伴います。

42:21 主は、ご自分の義のために、みおしえを広め、これを輝かすことを望まれた。42:22 これは、かすめ奪われ、略奪された民のことであって、若い男たちはみな、わなにかかり、獄屋に閉じ込められた。彼らはかすめ奪われたが、助け出す者もなく、奪い取られても、それを返せと言う者もいない。

 主が、ご自分の義のゆえに、罪を犯しているご自分の民を裁かなければいけませんでした。彼らが捕われの身となることによって、ご自分が正しいことを示されました。

42:23 あなたがたのうち、だれが、これに耳を傾け、だれが、後々のために注意して聞くだろうか。42:24 だれが、ヤコブを、奪い取る者に渡し、イスラエルを、かすめ奪う者に渡したのか。それは主ではないか。この方に、私たちは罪を犯し、主の道に歩むことを望まず、そのおしえに聞き従わなかった。

 彼らを奪い取ったのは、アッシリヤです。そしてバビロンです。けれども、究極的には主ご自身がそれらを動かしておられたのです。イスラエルが悔い改めて、主に立ち上がることを少しでもしさえすれば、主はすぐにバビロンの手を止めることがおできになりました。

42:25 そこで主は、燃える怒りをこれに注ぎ、激しい戦いをこれに向けた。それがあたりを焼き尽くしても、彼は悟らず、自分に燃えついても、心に留めなかった。

 主が、これらの言葉を前もって預言者を通してお語りになったのに、彼らは言うことを聞かずエルサレムは燃やされました。そのときでさえ、彼らは自分たちが主に対して罪を犯していたことについて理解がありませんでした。

2A 再び集める方 43
 このように主は、イスラエルを咎めておられますが、しかしここは「慰め」の預言です。次をご覧ください。

1B 呼ばれる名 1−13
1C 水と火の中から 1−4
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

 「だが、今」とあります。大きな対比です。この言葉は、パウロの書簡にもあります。すべての人が神の前で裁きに服さなければいけないことを述べた後で、「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。(ローマ3:21」信仰による義についてはっきりさせるために、神に裁かれることを前に述べたのです。

 私たちは神の裁きを聞くのは恐い、と言います。そしてそれを軽減しようとします。けれども、軽減してしまったら、それだけ神の憐れみと恵み、神の愛の深さも軽減されるということです。

 そしてここで、主はイスラエルを特別な関係で呼ばれます。「あなたを造り出した方」また「あなたを形造った方」です。初めの「造り出した」は創世記にも出てくる、「創造した」と同じヘブル語「バラ」です。無からの創造です。主は、アブラハムという異邦人を召し出されて、それで彼からイスラエルの民族と国をお造りになられました。

 かつて、教会の中で、イスラエルが選ばれた理由について話し合っている兄弟がいたので、当時、信じたばかりの私でしたが、「理由はないんじゃないですか。」と言いました。なんとなく、あったら神の憐れみと選びではなくなってしまう、と思ったからです。事実その通りで、無から有を創造するその力で、主はイスラエルを造られたのです。

 そしてその後で「形造る」ことを行なわれました。モーセを通して律法が与えられ、イスラエルとそうではない民の区別をはっきりとさせました。

 そしてその民を、「贖ったのだ」と言われています。それゆえ「わたしのもの」という言葉が続きます。主はイスラエルをこよなく愛しておられます。その理由の一つは、ご自分が造られたこと。自分が造ったものには愛着心があるように、です。けれども、それを失ってしまいました。見つけて、自分のものとしたときには、なおさらのこと愛着心を抱きます。「これはわたしのものだ。二度と、手放さない。」と思うはずです。主が今、「わたしが贖ったのだ。」と言われているとき、その二度と話さない、という強い思いがあるのです。

 主は同じように、キリストにある者たちを愛されています。一つは、私たちをお造りになられました。だから愛しておられますが、罪によって失われてしまった私たちを、キリストの血の対価によって再びご自分のものとされました。だから貴重なのです。次に出てきますが、高価で尊いのです。

43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。

 主が怒られたその試練の中にあっても、彼らは滅びることがありませんでした。そして文字通り、バビロンの地にて、ヘブル人の男子三人が、ネブカデネザルを怒らせて、燃える火の炉に投げ入れられましたが、まったく無傷でした。ネブカデネザルが見ると、炉の中には四人いました。三人の他に、神々の子のような方がいると彼は言いました。そうですイエス・キリストです。

43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 非常に有名な箇所ですが、このような文脈の中で出てきます。背景は、ペルシヤ帝国です。ペルシヤ帝国は、エジプトもエチオピヤも征服しました。けれども、離散しているユダヤ人については、彼らをエルサレムに帰還させ、神殿を建てるように命じたのです。これを主は、「エジプトをあなたの身代金とする」と言われているのです。

 主はご自分の選びのゆえに、ご自分の召しと贖いのゆえに、イスラエルをこよなく愛されています。この愛は、キリストにあって私たちにも注がれています。私たちは神の愛の中で、特別な存在です。

2C 東西南北から 5−7
43:5 恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。43:6 わたしは、北に向かって『引き渡せ。』と言い、南に向かって『引き止めるな。』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。

 主は先ほども「恐れるな」と言われましたが、再び「恐れるな」と言われています。それだけイスラエルの民が恐れていたのです。それはもちろんバビロンの圧制、そしてペルシヤの進出の中での恐れでありますが、霊的には罪とそれにともなう死に対する恐れです。自分たちが神に背いたことによる神の怒りに対する恐れです。主はそれで、「恐れるな」と言われます。

 そして主は、離散しているイスラエル人を世界各地から集める約束をしてくださいました。バビロンの中にいたユダヤ人だけでなく、アッシリヤの捕囚で捕え移され他の地域にいたイスラエル人もペルシヤの支配の中に入ったので、戻ることができたのです。

 そしてこれはもちろん、終わりの時の姿であります。主が、ご自分が戻っておられることを話されたときに、「すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:31」と言われました。

43:7 わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

 ここにユダヤ人たちを集める神の動機が書かれています。「わたしの栄光のために」です。イスラエル人がいかに優れた民族であるか、ではなく、自分の名で呼んだ者なのだから、というご自分の名誉に関わることだからです。

2B わたしの証人 8−13
43:8 目があっても盲目の民、耳があっても耳しいた者たちを連れ出せ。

 イスラエル人たちのことです。イスラエル人はなおも盲目、なおも耳しいた者たちです。けれども連れ出されます。主が一方的に、ユダヤ人をイスラエルの地に引き戻されることがわかります。

43:9 すべての国々をつどわせ、諸国の民を集めよ。彼らのうちのだれが、このことを告げ、先の事をわれわれに聞かせることができようか。彼らの証人を出して証言させ、それを聞く者に『ほんとうだ。』と言わせよ。

 今、場所は法廷を想定しています。諸国の民が傍聴席にいます。そして、ユダヤ人が証人台に立たされているのです。そして、ユダヤ人が約束の地に帰還することは、わたしが前もって話したことであり、他の神々がそのようなことを言っていたか、と証人に聞いているのです。

43:10 あなたがたはわたしの証人、・・主の御告げ。・・わたしが選んだわたしのしもべである。これは、あなたがたが知って、わたしを信じ、わたしがその者であることを悟るためだ。わたしより先に造られた神はなく、わたしより後にもない。

 「あなたがたはわたしの証人」・・・この言葉を私は強烈に記憶しています。アメリカの東海岸を旅行したとき、ワシントンDCでホロコースト博物館を訪れたとき、その出口に掲げられていた御言葉です。つまり、ホロコーストの惨劇を証言するのは、この博物館の展示物を見たあなたがたですよ、というメッセージです。

 けれども、これは間違った適用です。これは、異邦人である私たちに語られた言葉ではなく、イスラエル人本人に語られた言葉だからです。イスラエル人、あなたがたはわたしの証人だ、と神がおっしゃっているのです。神が一方的にユダヤ人に働きかけてくださり、ユダヤ人がそれを体験して、それで彼らが神を個人的に、人格的に知ることができるようになるためです。

43:11 わたし、このわたしが、主であって、わたしのほかに救い主はいない。43:12 このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。・・主の御告げ。・・わたしは神だ。

 ユダヤ人が今もなお存在していること。特に彼らがイスラエルの地に帰還していることは、主ご自身が、ご自分がまことの神であることを知らしめる証拠としておられます。

 前回は、先に後のことを語ることによって、まことの神が誰であるかを知ることができる話をしました。聖書預言が、神の存在の証拠としていかに大切であるかを話しました。ここでは、ユダヤ人の存在です。特にイスラエルの地に帰還することです。

 ですから、なぜ世界が、ユダヤ人のイスラエル帰還に難色を示しているのかが、わかります。政治的な正当性のことで嫌がっているのではありません。パレスチナ人の土地を奪っているから、ではないのです、本当のところは。神の証拠を見せ付けられているから、それを否定したいからなのです。イスラエルの土地所有の問題は、政治的なもの以上に霊的な問題なのです。主ご自身が、これによってわたしが神であることを示す、と言われている出来事なのです。

43:13 これから後もわたしは神だ。わたしの手から救い出せる者はなく、わたしが事を行なえば、だれがそれをとどめることができよう。」

 主のイスラエル回復は必ず行なわれます。誰もそれを止めることはできません。

 そしてこの箇所、「わたしは神だ」というのは間違った訳です。新改訳の下の欄に直訳は「彼だ」になっていることが説明されていますが、「これから後も彼だ」になります。これを英語にするなら、He is.です。つまり、主がモーセに現れたときに、「わたしはある(I AM)」と言われたのと同じ表現なのです。主もヨハネによる福音書の中で、「わたしはある」という言葉をたくさん使われました。ご自分が神であり、ヤハウェである、ということです。

3B 新しい事 14−21
43:14 あなたがたを贖われたイスラエルの聖なる方、主はこう仰せられる。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らの横木をみな突き落とし、カルデヤ人を喜び歌っている船から突き落とす。43:15 わたしは主、あなたがたの聖なる者、イスラエルの創造者、あなたがたの王である。」

 バビロンがペルシヤ軍によって倒れるときのことを主は語っておられます。興味深いのは、先ほどから、「わたしは・・・である」という表現がずっと続いていることです。ここでは、「聖なる方」という自己啓示をされています。聖なる、つまり隔絶しているということです。被造物と別たれている、混じることはない、ということです。

43:16 海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、43:17 戦車と馬、強力な軍勢を連れ出した主はこう仰せられる。「彼らはみな倒れて起き上がれず、燈心のように消える。

 第二の出エジプトを起こす、と主は言われます。紅海を分け、その中にエジプト軍をおびき寄せ、その中でおぼれ死なせた、その力強い業を、バビロンに対しても行なうと宣言されています。

43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

 昔の事どもを考えるな、と主は戒めておられます。つまり、彼らは昔の事どもを考えてしまう、ということです。これまでのように、イスラエルが虐げられ続けると思ってしまいます。昔がこうだったのだから、これからもそうであろうとがっかりしています。

 いやそうではない、新しい事をするのだ、と主は仰せになっています。どうでしょうか私たちも、「だれでもキリストの内にある者は新しく造られたものである」と言われて、「でも古いものはまだたくさんあるからね。新しくなっていないよ。」という否定する気持ちが出てこないでしょうか。だから、主は強く言われるのです、「昔の事どもを考えるな。」と。古いものは過ぎ去ったのです。

43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 これはもちろん、バビロン捕囚の後に実現していません。将来を待たなければいけません。いや、今、成就しつつある事柄です。イスラエルの国が建てられた後、荒地が灌漑事業によって水が流れています。完全な成就はキリストが再臨された後です。

 特に、「わたしの栄誉を宣べ伝えよう」という言葉が成就していません。物理的に回復しているのに、霊的にまだ回復していないのです。霊の救いを受けたクリスチャンがイスラエル旅行に行って、現地のユダヤ人に、「だから神はいるでしょう。」と証ししなければいけないほどなのです。

4B 呼び求めないヤコブ 22−28
 そこで次をご覧ください。

43:22 しかしヤコブよ。あなたはわたしを呼び求めなかった。イスラエルよ。あなたはわたしのために労苦しなかった。

 主が回復を与えてくださるのに、それに応答していない悲しい姿があります。新しい事を行なう、とおっしゃってくださっているのに、それで呼び求めていないという問題があります。今の状況に満足していて、それ以上、神を求める必要がないと感じているからです。

 これはイスラエル人だけでなく、すべての人間が抱えている問題です。主がすばらしいことを用意してくださっています。私たちにまったく新しい歩みを用意してくださっています。けれども、神を呼び求めなければ、その救いは自分のものとならないのです。

 信仰を持っているクリスチャンでも、主がすばらしい祝福を用意されているのに、今の生活に満足している、あるいは不足をそれほど感じていないので、心から叫び求めることをしない、という問題があるのです。次をご覧ください。

43:23 あなたはわたしに、全焼のいけにえの羊を携えて来ず、いけにえをささげて、わたしをあがめようともしなかった。わたしは穀物のささげ物のことで、あなたに苦労をさせず、乳香のことであなたを煩わせもしなかった。43:24 あなたはわたしのために、金を払って菖蒲を買わず、いけにえの脂肪で、わたしを満足させなかった。かえって、あなたの罪で、わたしに苦労をさせ、あなたの不義で、わたしを煩わせただけだ。

 これらは、主に対する応答です。全焼のいけにえ、穀物のささげ物、菖蒲、脂肪など、自分自身を主にささげて、献身することを意味しています。主は私たちが祈りをささげたら、それを聞かなければいけません。私たちが礼拝をささげたら、その礼拝を受けなければいけません。主はそれをもちろん喜んでおられます。うれしい煩いです。

 ところがそれを行なわない。かえって、罪を犯してしまいました、という報告ばかりを受ける。主が感じておられるじれったさが伝わってきます。けれども次をご覧ください。

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

 なんとそれでも、主は罪と拭い去ってくださいます。先ほどもありましたね、主ご自身のためにこのことを行なうのだ、と。ユダヤ人がどれだけ良いことを行なったか、ではなく、彼らの行ないに関わらず、主が一方的に罪の完全な赦しを与えられるのです。その理由が次に書いてあります。

43:26 わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。43:27 あなたの最初の先祖は罪を犯し、あなたの代言者たちは、わたしにそむいた。43:28 それで、わたしは聖所のつかさたちを汚し、ヤコブが聖絶されるようにし、イスラエルが、ののしられるようにした。」

 もし一方的な憐れみによる罪の赦しでなければ、どうやってあなたがたを贖うのか、と問いかけを主はしておられます。論じ合ってみようではないか、あなたがたが何かわたしに義と認められるような、良い行いをしたことがあるのか、と。罪を犯して、背いてばかりではないか、ということなのです。

 これが、私たちが信仰によってのみ義と認められるその理由なのです。私たちが何か良いことをこれまでしたことがありますか?まったくないでしょう。いや、罰せられることはたくさんしてきたでしょう、何も善いものはないでしょう?という問いかけなのです。

3A 唯一の方 44
 そして主は再び、イスラエルに回復のメッセージを与えられます。思い出してください、ここは「慰めよ」というメッセージだからです。

1B 神の選び 1−8
1C 注がれる御霊 1−5
44:1 今、聞け、わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだイスラエルよ。44:2 あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。

 エシュルンはイスラエルの別名です。

 ここで主はさらに突っ込んで、ご自分の働きを説明されています。「あなたを母の胎内にいる時から形造って」とあります。生まれる時から、いや生まれる前から母の胎内にいるときから、主がイスラエルを支えておられます。だから、あなたは助けられるのだよ、という保証を与えておられます。

 生命の不思議は、受精の時から始まりますね。胎児が生きているのを見るとき、これを神の御業であると認めないことのほうが難しいです。その時から私たちは完全に神に依存しています。

44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。44:4 彼らは、流れのほとりの柳の木のように、青草の間に芽生える。44:5 ある者は『私は主のもの。』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」

 ここでは単に荒野に水が湧くことだけでなく、御霊が注がれる約束です。水と御霊はしばしばともに語られます。水が人間の肉体に命を与えるように、御霊は私たちの霊的な命を与えられます。その結果は、ここにあるように、「私は主のもの」と確信を持って言うことができるのです。第一コリント12章に、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません。(3節)」とあります。

 またここは、主が約束された御霊のことについての預言であると考えられます。仮庵の祭りの最終日に主は、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネ7:38」と言われました。この「聖書が言っている」というのはここの箇所ではないかと考えられます。荒野での水とともに、御霊が注がれるからです。

2C いにしえの民 6−8
 今度は、主は、異邦人に対して語られます。

44:6 イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。

 つまり、終わりのことを初めの時から告げられる永遠の神である、ということです。主イエスが、黙示録の中で、「わたしは初めであり、終わりである」と言われました。つまり神ご自身です。

44:7 わたしが永遠の民を起こしたときから、だれが、わたしのように宣言して、これを告げることができたか。これをわたしの前で並べたててみよ。彼らに未来の事、来たるべき事を告げさせてみよ。

 ここの「永遠の民」は「古からの民」と訳すこともできます。紀元前約2000年に、主がアブラハムを呼ばれて、約束されたそのことは、終わりの時に成就する事柄でした。その初めのときから、終わりのことを主は告げておられたのです。そんなこと、お前たちにできるのか、と偶像に問いかけているのです。

 もちろん偶像は生きていません。けれどもあえて、生きていない偶像に話しかけることによってイスラエル自身が偶像の空しさを実感することができるのです。

44:8 恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。

 昔から約束していただろう?それをわたしは必ず果たす。あなたはそれを見る証人となる、ということです。

2B 偶像の空しさ 9−20
 これまで主は、ご自分と偶像と対比させてこられましたが、その究極の対比を行なわれます。ここまではっきりと、偶像礼拝の空しさを描いた箇所は聖書の中にもなかろうと思います。我々日本人のクリスチャンであれば、すぐに実感できる事柄です。

1C 人間に過ぎない細工人 9−18
44:9 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

 詩篇にも、こう書いてあります。「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。(115:5-7」私たち人間は目に見えるものを求めますが、実際に目に見えるものを手にすれば、そこには命がありません。私たちの神は目に見えない方ですが、私たちを見ることはできるし、聞くことはできるし、私たちに触れることもおできになります。

44:10 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。44:11 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。

 私たちを造られたのは主です。けれども偶像を造ったのは単なる人間です。

44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。

 主との対比です。主はたゆむことも、疲れることもありません。

44:13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。

 これは神が皮肉を込めておられます。木を育て、雨を降らせているのは神ご自身だからです。神が造られたものを使って、それを神と呼んでいる、という矛盾です。

44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。

 この滑稽さ、空しさ、情けなさは、偶像礼拝の国に生きていた日本人なら、誰でもわかると思います。説明不要でしょう。どうして、火の燃料になる木を神として拝めるのでしょうか??けれども彼らはただ、目がふさがって、心もふさがっている状態です。

2C 心の欺き 19−20
44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。44:20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。

 火を燃やしたら灰です。灰になりはてるものを神と拝んでいます。そして、それは偽りではないかとさえ言わない、ということです。自分自身に対する欺きです。

3B 忘れられない僕 21−28
1C 拭い去られる罪 21−23
44:21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。

 すばらしいですね、ヤコブは自分で造った神を拝んでいるのではなく、自分を造られた神を拝んでいます。造り主に忘れられることはありません。

44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

 再び、罪が完全に取り去られる約束です。取り去ったのだから、「わたしに帰れ」。贖ったのだから、「わたしに帰れ」と言われています。これは、単純な悔い改めへの招きです。私たちも、主に帰る必要はないでしょうか?

44:23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ。

 イスラエルが悔い改め、贖われたとき、自然界が喜び叫んでいます。「地のどん底よ。喜び叫べ。」というのがいいですね。本当に、どん底から喜びの声が鳴り響きます。パウロが心をかたくなにしているユダヤ人についてこう言いました。「もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。(ローマ11:12

2C エルサレムの復興 24−28
44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。44:25 わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。

 どうか占いを信じないでください。どうか世の評論家の言葉を信じないでください。これからのことを予測するいかなるものをも信じないでください。なぜなら、私たちの神の御言葉があるからです。

 パウロが世の知恵に頼っているコリントの教会の人々にこう言いました。「知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。(1コリント1:20-21」宣教のことばに神の知恵と力があります。

44:26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。44:27 淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。44:28 わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」

 はい、ここに出てきました。クロスという名前です。彼が生まれる100年以上も前から、神がイザヤを通して彼が何を行なうかを詳細に預言しました。27節の、「おまえの川々をからす」というのは、バビロンの町を流れるユーフラテス川を迂回させて、水かさを下げたことの預言です。バビロンを倒し、それからユダヤ人がエルサレムに戻ることを命じ、さらに王の蔵から神殿再建に必要な費用を捻出するところまで、前もってイザヤは告げました。そしてそれは実際にその通りになりました。これぞ、「わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる」なのです。

 次回は、このクロスの動きと、さらにバビロンの崩壊の預言を読んでいきます。


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