イザヤ書47−48章 「正義の神、救い主」 パート2

アウトライン

1A 油注がれた者 45
   1B 諸国の平定 1−7
   2B 創造者の主権 8−17
      1C 造られた者の文句 8−10
      2C 偶像礼拝者の恥 11−17
   3B 諸国の救い 18−25
2A ひざまずくベル 46
   1B 担ってくださる方 1−4
   2B 背く者たち 5−13
3A 塵に座る女王 47
   1B 神の復讐 1−7
   2B 安逸の後の破滅 8−11
   3B 呪術への裁き 12−15
4A ヤコブへの呼びかけ 48
   1B 強情な民 1−11
      1C 口先だけの礼拝 1−5
      2C 悩みの炉 6−11
   2B 贖う方 12−22
      1C 主が愛される者 12−16
      2C 平和への教え 17−19
      3C バビロンからの解放 20−22

本文

 それでは、47章を開いてください。今日は47章と48章を学びたいと思います。前回の続きです、前回は「正義の神、救い主」の題名で話しましたが、今日も同じです。

 前回は、メシヤなるクロスによる解放を学びました。「ええっ?ナザレ人イエスがメシヤではないの?ペルシヤ帝国の王クロスではないでしょう?」とびっくりされると思います。もちろん、クロスが永遠の救いを与える神のキリストではありません。けれども、主は45章1節でクロスを「油注がれた者」という肩書きを与えておられます。クロスが世界を征服し、その時に特別、離散の奴隷状態にあるユダヤ人を解放したように、キリストは世界をご自分のものとし、その時にイスラエルに永遠の救いをお与えになります。つまり、クロスは、来たるべき方を指し示す人だったのです。

 そして今回47章からは、このクロスが倒すバビロンに対する預言となります。

3A 塵に座る女王 47
1B 神の復讐 1−7
47:1 「おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上にすわれ。カルデヤ人の娘よ。王座のない地にすわれ。もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。

 この前、ペルシヤ帝国のクロスの歴史的背景を説明したように、バビロン帝国の説明をしたいと思います。「おとめバビロンの娘」とありますが、この娘は「処女」のことです。どの外国の勢力にも侵略されたことがない国ということです。たいていの国は、次第に衰えて、外国の侵略を受け、そして破壊されますが、バビロンは拡張しつづけその大きくなった時に、突如としてクロスによって襲われました。

 この乙女バビロンの優雅さ、「優しい上品な女」とありますが、その優雅さはただならぬものでした。バビロンの町全体は約2100エーカー、つまり8.5平方キロメートルです。城壁に囲まれた部分はその半分ぐらいです。周囲は96キロ、一辺が24キロ、高さ100メートル、厚さ27メートル、地下11メートルに及びました。住民は約20万人が住んでいたそうです。真ん中にユーフラテス川が流れており、町の中心にはアテメンアンキと呼ばれる塔というバベルの塔に似た形のジグラットと、その隣にバベルの神マルドュク神殿がありました。上空図


 そしてあの、世界の七不思議のひとつである空中庭園もあったわけです。そしてあの有名なイシュタルの門もあったし、軍事的にも難攻不落の町であり、また、その美の極みは言語を超えていました。

 ネブカデネザルが見た夢は、人の像でした。頭が金でしたが、それがバビロンを表しています。その下は銀、青銅、鉄、そして粘土でした。だからバビロンはなくなるときがあるということを、その夢は暗示していました。ところがネブカデネザルは全身金の像を作り、それを拝ませたのです。つまりバビロンの栄光は永遠であることを表していました。けれども、神の言葉はその通りになったのです。

47:2 ひき臼を取って粉をひけ。顔おおいを取り去り、すそをまくって、すねを出し、川を渡れ。

 ひき臼をひくのは身分の最も低いはしための役目の一つです。「川を渡れ」というのは自由を失い、一つの場所からもう一つの場所へ移っていく姿です。一度も困難を経験したことのなかった町が、今、非常に低められた状態で苦しんでいます。

47:3 あなたの裸は現われ、あなたの恥もあらわになる。わたしは復讐をする。だれひとり容赦しない。」

 何でバビロンは滅んだのでしょうか?「わたしが復讐をする」です。「復讐と報いとは、わたしのもの、(申命32:35」と主は言われました。主が行なってくださいます。ローマ人への手紙12章には、悪に対して悪で報いず、善で報いなさいとパウロは言いました。主に怒りをお任せしなさい、ということです。

47:4 私たちを贖う方、その名は万軍の主、イスラエルの聖なる方。

 私たち生き物には、自己生存本能があります。自分を生かそうとする欲求があります。ですから、自分に害を与える者がいるのなら自分が仕返しをしなければいけない、と思うわけです。けれども、私たち信仰者は、その本能を主の御霊の中で吸収していただきます。主がともにいる、主がこの状況から救ってくださる、主がこの問題を処理してくださる、こう信じて自分で自分を救おうとしないようにします。「私たちを贖う方」と、主に救いと贖いを求めるのです。

47:5 「カルデヤ人の娘よ。黙ってすわり、やみにはいれ。あなたはもう、王国の女王と呼ばれることはないからだ。

 闇とは深い悲しみの中ことです。

47:6 わたしは、わたしの民を怒って、わたしのゆずりの民を汚し、彼らをあなたの手に渡したが、あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。

 ここが大事ですね、バビロンの王ネブカデネザルは、神から「わたしのしもべ(エレミヤ27:6」と呼ばれました。理由は、ユダを裁くときの器であったからです。アッシリヤのときもそうでしたが、バビロンの悪は、それを自分たちが行なったのだと誇ったことです。だから、高慢になってさらに奴隷のユダヤ人を苦しめたのです。

 私たちがあるときに、主に用いられることがあります。その時に、「このように用いられたのだから、これがつまり私が行なうことだ。」という高慢な思いが出てきます。けれども、一時期の、制限された中であることを行なうように導かれただけなのに、いつまでもそれを行なっていこうとすることがあります。これがバビロンの行なったことです。

 そしてまたバビロンは、自分が取り扱っている民族が、主の民であることを忘れていました。イスラエルの民族であろうと、霊的にアブラハムの子孫となったクリスチャンであろうと、神の所有の民に触れる者は、神のひとみに触れます。

47:7 あなたは『いつまでも、私は女王でいよう。』と考えて、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった。

 先ほど説明しましたように、バビロンの問題は「いつまでも」でした。いつまでも今の楽な生活が続くのだ、優雅な生活があるのだ、と思っていたのです。

 そして終わりがどうなるかを考えないで、罪を行ないます。こんなことを行なったらどうなるのか、と少しでも考えれば、思いとどまることができたはずです。私たちも罪を犯すときに、その終わりを考えるべきです。その罪によって、どれだけ悲惨な結果が待っているかを考えるべきです。

2B 安逸の後の破滅 8−11
47:8 だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住んでいる女。心の中で、『私だけは特別だ。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう。』と言う者よ。

 ここだけでなく、バビロンが出てくるところすべて「安逸」が問題となっています。今の生活に満足していて、主に対して全く飢え渇きがない状態です。

 「私だけは特別だ」という言葉は、直訳ですと、「私だけで、ほかにはいない」です。分かりますか、主がずっと、「わたしが神である。ほかにはいない。(46:9」と言われていますが、まさに同じ言葉を発しています。ひどく高慢になっています。ルシファー、サタンがバビロンの王の背後に働いていたのも、ここからうなずけます。

47:9 子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。

 彼らの呪術と快楽にふけった生活は密接に結びついていました。バビロンの宗教の中心に、イシュタル信仰がありました。町にはあの有名な「イシュタルの門」もあります。これは愛と戦争の神です。この女神の儀式に女祭司が売春を行ないます。宗教と淫らな行ないが密接に結びついていました。

 この「安逸」とそして「呪文」は、私たちの文化の中にも見ることができます。グルメやファッション、旅行、ブランド、車などのぜいたく品に見られる「安逸」。今の生活があればいい、後のことは知らないという態度です。そして同じように占いが流行っています。これも安逸と共にテレビ番組に頻出しますね。

47:10 あなたは自分の悪に拠り頼み、『私を見る者はない。』と言う。あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた。だから、あなたは心の中で言う。『私だけは特別だ。』

 今、話したように、宗教の中で悪が行なわれていました。そして悪を行なう者すべての者が持っている心は、「私を見る者はない」という神への恐れがないことです。

 そして神への恐れがないのに、知識だけは増えています。箴言には、主を恐れることが知恵や知識の初めであると教えているのに、知識や知恵がかえって迷い出させます。

 バビロンは、壮美な建築、安逸な生活、淫らな宗教だけでなく、文化教育にも力を入れていました。知識は数多くあったのです。けれども主を恐れる知識でなければ、それは人を高慢にさせるだけです、ここに「私だけは特別だ」と思わせる要素が、知識にはあります。

47:11 しかしわざわいがあなたを見舞う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたを襲うが、あなたはそれを避けることはできない。破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。

 バビロンだけでなく、以前学んだモアブに対する宣告、ツロに対する宣告でも、安逸の後には「突然の破壊」が待っています。自分は大丈夫だと思っているときに、突如としてすべてのものが失われる災いに遭遇します。主の日は夜中の盗人のように来るのです。

 そしてここでも「まじない」が利かないことを話しています。

3B 呪術への裁き 12−15
47:12 さあ、若い時からの使い古しの呪文や、多くの呪術を使って、立ち上がれ。あるいは役立つかもしれない。おびえさせることができるかもしれない。

 これまでイザヤ書後半部分で、偶像礼拝がいかにむなしいかを主は話して来られましたが、バビロンが偶像崇拝の中枢であり、これが今裁かれています。彼らがどんなにたくさんの呪文、呪術を持っていても、それが何の役にも立っていません。

 そして「若い時からの使い古し」とありますが、人が危機に迫ると古くからある呪いに頼る傾向がありますね。日本では、宮崎駿の映画が流行っているのは、それが原因です。昔の日本の風習に回帰したいという願望です。

47:13a あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。

 これもまた、日本で見られる傾向です。主に頼ればそのまま救いが来るのに、あらゆるものに助言を求めます。そしていろいろ助言を聞きすぎるので、何からはじめたらよいか分からなくなる。あるいはマニュアル通りに行なわないと気が済まなくなります。世界情勢をニュースで聞かないと気がすみません。いろいろな解説があります。だから疲れてきます。

47:13bさあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。

 天文学と星占いの発祥地は、まさにここバビロンです。先ほど話した塔、ジグラトはそのてっぺんで星や月をあがめるところです。

47:14 見よ。彼らは刈り株のようになり、火が彼らを焼き尽くす。彼らは自分のいのちを炎の手から救い出すこともできない。これは身を暖める炭火でもなく、その前にすわれる火でもない。47:15 あなたが若い時から仕え、行き来してきた者たちは、このようになる。彼らはおのおの自分かってに迷い出て、あなたを救う者はひとりもいない。」

 呪いをしている本人たちが裁きを受けます。エジプトの魔術師たちも同じでしたね。このように、呪いは自分を救えないし、また呪い師たちが自分自身を救えないのです。

4A ヤコブへの呼びかけ 48
 そして最後に、主はイスラエルに呼びかけられます。70年続いたバビロン生活が終わることを鑑みて、イスラエルが今しなければいけないことを教えられます。

1B 強情な民 1−11
1C 口先だけの礼拝 1−5
48:1 これを聞け。ヤコブの家よ。あなたはイスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、主の御名によって誓い、イスラエルの神を呼び求めるが、誠実をもってせず、また正義をもってしない。48:2 確かに彼らは聖なる都の名を名のり、イスラエルの神・・その名は万軍の主・・に寄りかかっている。

 名前だけはしっかりしているけれども、実がともなっていないユダの民に対する叱責です。今、私たちが見てきたバビロンの偶像礼拝は、彼らにとって無縁のことではありませんでした。いや、離散のバビロンの地で、彼らは偶像礼拝を導入していました。

 けれども完全な異教徒にはなっていないのです。表向きは、自分たちは正統派であることを自負しているのです。イスラエルの名で呼ばれ、ユダの源から出て、御名を呼び求め、またエルサレムの名を名乗り、いわゆる主に認められるようなものは持っていました。

 けれども肝心なところが抜けている。誠実さ、正義がありませんでした。これは私たちクリスチャンに対する警告でもあります。完全に信仰をしていて、他の人と同じように偶像を拝む生活はしていません。けれども、形だけはクリスチャンで心がそこから離れている危険があります。いつのまにか、偶像に、自分の肉の欲望に引かれていく危険があります。

48:3 「先に起こった事は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出、わたしはそれらを聞かせた。にわかに、わたしは行ない、それは成就した。

 クロスについての預言は速やかに行なわれました。それはイザヤが150年以上前に既に告げていたことです。

48:4 あなたがかたくなであり、首筋は鉄の腱 、額は青銅だと知っているので、48:5 わたしは、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに、聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした。』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた。』とかあなたが言わないためだ。

 これまでいかに偶像が前もって出来事を予告することができないかを、主は強調されてきました。同じようにユダにも強調されています。

 そして主が戒めておられるのは、主がユダヤ人を解放してくださるときに、「だから私たちは偶像を拝む生活をしていても良かったのだ。」と開き直ってほしくない、ということです。私たちは、主が何か良くしてくださると、「なんだ、だったら今行なっている悪いことは、何ら問題ではないじゃないか。続けてやっても大丈夫だな。」と思い上がってしまうのです。

2C 悩みの炉 6−11
48:6 あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ。あなたがたは告げ知らせないのか。わたしは今から、新しい事、あなたの知らない秘め事をあなたに聞かせよう。48:7 それは今、創造された。ずっと前からではない。きょうまで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた。』とあなたが言わないためだ。

 前回も話しましたが、異教徒のクロスを主が用いてユダヤ人を救われるということは、彼らには想像さえできないことでした。けれども、こうした方法を用いることによって、ユダヤ人は救いがまったく主から来るのだ、ということを知ることができます。

 今ここで、「『ああ、私は知っていた』とあなたがたが言わないためだ」と主が言われていますが、私たちが知っている方法で救われるのであれば、やはり主のみの救いにはならないのです。十字架の言葉は、知者の知恵を愚かにするとパウロは第一コリントで言いましたが、十字架というのは完全に、私たちを無知にさせます。「こういうふうに救うのね。」と冷静に考えることはできなくします。主の前にただへりくだって、悔い改めることしかできなくなります。

48:8 あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった。わたしは、あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを、知っていたからだ。

 主はイスラエルを、母の胎にいるときからあなたを担い、生まれたときから形造ったと言われましたが、ここではその時からあなたはそむく者であった、と言われています。

 これはすごい言葉だと思うかもしれませんが、イスラエルだけではありません、アダムが罪を犯したとき、全人類が罪を犯しました。罪の性質を生まれてくる時から私たちは持っています。だから母の胎内にいるときからそむく者だったのです。

48:9 わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押えて、あなたを断ち滅ぼさなかった。

 8節と9節がよくつながらないと感じる人がいるかもしれません。生まれながら背く者であれば、すぐにでも滅ぼしてしまわれたほうがいいのではないか、と思われるかもしれません。けれども、神様の論理はその逆です。少しでも、イスラエルがその行ないによって救いを得る可能性があるならば、ご自分の一方的な救いの御業は行なわれないのです。むしろ、何もできないことを知っておられるから、神が一方的に救われるのです。

 ノアの時代の洪水もそうでした。悪がはびこったので主は水で地を裁かれましたが、もはや水で裁くことはしないと、主は約束されました。その理由が、「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。(8:22」とあります。

48:10 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。

 イスラエルを清めるために、主は悩みの炉を使われました。彼らが悩むことによって、偶像礼拝や安逸に頼ることをしなくなるように仕向けられました。エルサレムに帰還したユダヤ人が、どのように偶像を忌み嫌い、そして外国人との結婚を忌み嫌ったかは、エズラ記、ネヘミヤ記で読むことができます。悩みの炉を通ったから、罪に対して自ら嫌悪感を抱くようになったのです。

48:11 わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。

 ユダヤ人を救われる動機を主がここではっきりと述べておられます。ご自分の栄誉のためだ、というのです。ユダヤ人が優れているから、彼らが回復するのではありません。むしろ彼らは背いているのです。けれども、ユダヤ人を選ばれた神の御名が、ユダヤ人を滅ぼすことによって汚されてしまうからです。ご自分の栄誉のために救われます。

 罪と咎の中で死んでいた私たちを神が救ってくださった理由も同じです。エペソ書1章には、「神がほめたたえられるためです」という言葉が出てきます。主ご自分の恵みの栄光がほめたたえられるために、何の働きもしていない者を祝福の的とされるのです。

2B 贖う方 12−22
1C 主が愛される者 12−16
48:12 aわたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。

 主は再びイスラエルを呼び出しておられます。

48:12bわたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。

 すべてを支配されている主、ということです。

48:13 まことに、わたしの手が地の基を定め、わたしの右の手が天を引き延ばした。わたしがそれらに呼びかけると、それらはこぞって立ち上がる。48:14a あなたがた、みな集まって聞け。

 異邦人に対して語りかけたように、主はイスラエル人にもご自分の創造の御業を語られています。

 興味深いのは、自然界にご自分が呼びかけるとこぞって立ち上がるのだから、あなたがたも今、こぞってわたしの声に聞きなさい、と言われているわけです。

48:14bだれがこれらの事を告げたのか。主に愛される者が、主の喜ばれる事をバビロンにしむける。主の御腕はカルデヤ人に向かう。48:15 わたしが、このわたしが語り、そして彼を呼んだのだ。わたしは彼を来させ、彼の行なうことを成功させる。

 これはペルシヤの王クロスのことですが、けれども、少しトーンが違います。単にクロスだけを語っておられるようではありません。「主に愛される者」とあります。ここで思い出すのは、父なる神が御子キリストに語りかけられた言葉です。「わたしの愛する子」です。

48:16 わたしに近づいて、これを聞け。わたしは初めから、隠れた所で語らなかった。それが起こった時から、わたしはそこにいた。」今、神である主は私を、その御霊とともに遣わされた。

 これはまさに、キリストの預言です。主がバプテスマを受けられ、「わたしの愛する子」と父なる神が言われて、その後に、神はキリストを御霊によって荒野に導かれました。その後も御霊によって導かれました。

2C 平和への教え 17−19
48:17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。

 偶像、また自分たちの知識や知恵に頼る傾向のあった、バビロンにいるユダヤ人に主が結局望まれていたのは、ご自分の教えを聞き、ご自分の道に導くことでした。

 そしてその教えと道は、彼らにとって「益になる」と言われます。これがいつも、神の戒めの目的です。神の戒めは、私たちの益になるために与えられています。私たちが霊的に幸せな生活をすることができるように与えてくださっています。

48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。

 そうなんです、「何々さえすれば」なのです!主の戒めに従ってさえいれば、幸せの川、海のような正義が出てくるのです。けれども不思議なことに、私たちはその戒めから離れる傾向を持っています。自分を一番幸せにするものから、自らを引き離す傾向を持っています。

48:19 あなたの子孫は砂のように、あなたの身から出る者は、真砂のようになるであろうに。その名はわたしの前から断たれることも、滅ぼされることもないであろうに。」

 「・・・であろうに」とありますが、つまり彼らは主の命令に聞き従っていなかったのです。けれども、彼らは聞き従わなかったので、バビロンによってその人口は激減しました。

 そして本当は、彼らは完全に滅ぼされてもおかしくありませんでした。そむき続けたのですから、主が見捨ててもおかしくありませんでした。けれども、先に見たように、主はご自分の名誉をかけて、そのわずかな民を残しておくようにされたのです。

 これはユダヤ人のその後の歴史でも見ることができます。先ほど、主に愛する者と呼ばれ、御霊に導かれるキリストの預言がありましたが、その教えさえ聞けば、彼らに川のような平和があったのです。また子孫も増えました。

 ところがその後、彼らは大きな迫害を受けました。ローマ9章にも、他の箇所ですがイザヤ書の中の「たとい、あなたの民イスラエルが海辺の砂のようであっても、その中の残りの者だけが立ち返る。(10:22」を引用しています。

3C バビロンからの解放 20−22
48:20 バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。地の果てにまで響き渡らせよ。「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」と言え。

 バビロンでの生活に満足しないで、そこから出なさいという呼びかけです。クロス王がエルサレム帰還の布告を出しても、多くのユダヤ人はそのままとどまりましたが、本来は戻りなさい、という主の命令があったのです。

 そして出て行く者に約束されているのは、喜びです。贖いの喜びです。今の自分の生活に満足しないで、主ご自身のほうに出てきた人々はみな、この贖いの喜びを持っています。そしてその喜びを人々に伝えたいと願います。「地の果てにまで響き渡らせよ」です。

48:21 主がかわいた地を通らせたときも、彼らは渇かなかった。主は彼らのために岩から水を流れ出させ、岩を裂いて水をほとばしり出させた。

 主は、ユダヤ人の70年間のバビロンでの生活を、40年間の荒野での生活になぞらえておられます。彼らは悩みの炉に入れられましたが、荒野での生活と同じように守られました。最後まで生き残ることができました。だから、今、出て行きなさいと呼びかけておられます。

48:22 「悪者どもには平安がない。」と主は仰せられる。

 バビロンは破壊されます。当然、平安はありません。けれども主の命令を守れば、平安の川が流れます。

 この40章から48章までの箇所において、主は、ご自分がなされる大いなる救いを語られました。そしてその救いに応答して、悪から出てくれ、と呼びかけておられます。主こそ正義の神、救い主です。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME