イザヤ書6章−9:7 「苦しみの所に」

アウトライン

1A 主の御座 6
   1B 罪の清め 1−7
   2B イザヤへの召命 8−13
2A 男の子 7−9:7
   1B インマヌエル 7
      1C 二つの木切れの煙る燃えさし 1−9
      2C アッシリヤの王 10−25
   2B マヘル・シャラル・ハシュ・バズ 8
      1C ユーフラテス川 1−10
      2C 教えと証しの固守 11−22
   3B ダビデの子 9:1−7
      1C 異邦人のガリラヤの光 1−5
      2C 一人のみどり子 6−7

本文

 イザヤ書6章を開いてください。できれば9章の途中まで学んでみたいと思います。今日は内容がたくさん詰まっています。ここでのテーマは、「苦しみの所に」です。

 前回の学びの最後のところでお話しましたが、イザヤの本格的な預言活動は、実は6章から始まります。なぜなら6章において彼は初めて、主から召命を受けるからです。1章から5章までは、6章から始まる預言の前座と言っても良いでしょう。

1A 主の御座 6
 時をご覧ください、6章1節です「ウジヤ王が死んだ年に」とあります。1章から5章までは、ウジヤが生きている時に預言したものです。イザヤは、王族に属している人だと考えられていますが、ウジヤ王に非常に近い人でした。歴代誌第二2622節に、「ウジヤのその他の業績は、最初から最後まで、アモツの子預言者イザヤが書きしるした。」とあります。彼はウジヤの傍にいて、王が行なっているのをずっと観察していた人でした。

1B 罪の清め 1−7
 そしてこのウジヤが死んだ後に、「私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。(6:1b」とあります。ウジヤは、長年のことユダを統治していた、カリスマ性の持つ優れた王でした。歴代誌第二26章を読むと、彼は16歳で即位し52年間、王であったとあります。彼は主を求め、主の目にかなうことを行なった善い王でした。

 それだけでなく、彼は周囲の敵を制圧して貢物を納めさせました。軍事的に優れた能力を持っていたのです。けれども彼は軍事力に過信することなく、国力にとって最も大事な農業を好んだ人でもありました。彼は非常に人気のある王となり、「彼の名は遠くにまで鳴り響いた。(26:15」とあります。

 彼は最後に失敗を犯します。神殿の中に入って、祭司にしかできない、香壇の香をたこうとしたのです。それを祭司に咎められた彼は怒りましたが、怒った時に彼はらいを患いました。そのため彼は、神の律法にしたがって隔離されなければならず、彼が死ぬまで彼の子ヨタムが代理統治を行なっていました。けれども、彼の名声は途絶えることなく人々の尊敬と親愛の的となっていたことでしょう。

 そのような中でイザヤは、預言活動を行なったのです。彼は確かに、主から与えられた言葉を語りました。しかし彼には問題がありました。一つは、自分が目の当たりにしているユダとエルサレムの内情だけを見ていたことです。もう一つは王が善い王であった分、それだけ一般の民や高官たちが行なっている悪事を許せなかったのであろうと思われます。

 イザヤの潜在意識のどこかに、まことの王であられる神ご自身ではなく、ウジヤ王に信頼を寄せていたところがありました。ユダをお救いになるメシヤを、神ご自身ではなく、ウジヤという人物に期待を寄せていた部分がありました。そこでウジヤが死んで王座から離れた時に、まことの王であられる神ご自身の玉座を見ることができたのです。

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。

 凄まじい光景ですね。これは黙示録4章で、使徒ヨハネが見たのと同じ天の御座の幻です。ここでは、主が「高くあげられた王座に座しておられる」のを見ます。私たちはとかく、人間や他のものを高いところに引き上げますか、主はあらゆるものの上におられる方です。そして「すそが神殿に満ち」ています。主の王権が至る所に満ちている様を表しています。

 そしてそこにセラフィムが富んでいます。ヘブル語で「イム」は複数形なので単数ではセラフです。これは「燃えている」という意味を持っています。黙示録4章に出てくる四つの生き物と非常に似ています。彼らも翼を六つもち、そして「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。」と叫びました。そしてエゼキエル書に出てくるケルビムと呼ばれています。エゼキエル書のケルビムも、火のように輝き、燃えるたいまつのように見えたとあります(1:13)。

 彼らが翼で顔や足を覆っているのは、もちろん王なる主の前で身をかがめ、ひれ伏しているからです。

 そして、「聖なる、聖なる、聖なる」と三度、主の聖さを叫んでいます。これはヘブル語でその程度の強烈さを表している言葉です。「聖なる」と言うだけでは、足りません。「聖なる、聖なる」だけでも足りません。「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。」で本当に聖であることを表しているのです。

 聖であるとは、どういう意味でしょう?もともとの意味は、「別たれている」という意味です。超絶した存在と言ってもよいでしょう。主は、被造物を超越し、完全に絶たれ、分けられています。創造物と同列に、同質に語ることはできません。また主は、人類からも完全に別たれています。ミュージカルに、「ジーザス・クライスト・スーパースター」というものがありますが、スーパースターではなく、完全に異なる存在です。

 そして、「その栄光は全地に満つ」と言っていますが、イザヤはこれが見えていませんでした。全地ではなく、エルサレムとユダにだけ目を留めていました。これから彼が見る幻は、周辺諸国へ、そして全世界へと広がっていきます。

 そして彼らが叫ぶと、「敷居の基」が揺るぎました。その声に神の栄光の重みがあるからです。そして、「煙で満たされ」ています。主がシナイ山に降りて来られた時に煙が立ちました。聖なる神の御座の臨在を表しています。

6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」

 口語訳では「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。」、新共同訳では「災いだ。わたしは滅ぼされる。」という言葉で始まっています。覚えていますか、5章の後半部分で彼は、ユダとエルサレムに対して6回「災いだ」と叫びました。しかし、主の聖なる御座を見た今は、自分自身も災いであり、自分自身も汚れていると気づいたのです。

 特に、汚れているのが自分の「くちびる」であると言っています。預言を行なうのは、もちろん自分の口によってです。これが汚れていては、どうしようもありません。彼は自分が、これから預言を行なうことは絶対にできない、それを行なうのに全くふさわしくないことに気づいたのです。

 そして自分が災いで滅ぼされると気づいたのは、「万軍の主である王を、この目で見た」からであると言っています。後の聖徒たち、預言者たちも同じことを言っています。ダニエルも、栄光の主の御姿を見て、死にそうになりました。使徒ヨハネも死にそうになりました。

 生きている主にお会いすると、人は自分の本当の姿を見ることができます。そして、本当に謙虚になることができます。先ほど話した「心の貧しさ」をもたらすのです。

6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

 幕屋における祭壇のことを思い出してください。そこでは、全焼のいけにえを始め、イスラエル人が祭司のところに、自分の家畜を持ってきます。そしてその家畜の頭に手を置いて祈り、それから祭司が家畜を屠り、血を注ぎだし、それを祭壇の回りと祭壇に振りかけます。これはみな、聖なる神が罪を持っている人に対してお怒りになっているのを、身代わりに血を流して、その怒りを受けていることを表しています。

 その祭壇から取られた燃え盛る炭です。それが自分の唇に触れることによって、彼の口が聖めれました。

 私たちの聖めが、私たちの行ないによるものではないことに気づいてください。主にお仕えするセラフィムが行なった、つまり主ご自身の行ないによってもたらされるものです。これが、一方的な恵みであり、憐れみなのです。

2B イザヤへの召命 8−13
 そして初めて、イザヤは主に呼ばれます。

6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 イザヤは、主の恵みを経験しました。主ご自身を見て、自分が滅びなければいけない汚れた者、特に預言者にとっては致命的な唇が汚れた者であることに気づきました。覚えていますか、ヤコブは多くの者は教師になってはいけない、と戒め、その理由が、口が災いの元であり、同じところから祝福と呪いが出てくるからだ、と話しました。まさにイザヤが、自分がそうであったことに気づいたのです。

 けれども主が彼を聖めてくださったのです。この恵みを経験した時に、初めて人は主の任務に与ることができます。なぜなら、神の預言は恵みだからです。神の恵みを知った者が初めて、他の人に神の恵みを分かち合うことができます。反対に、神の恵みを知らない人は、他の人々にも恵みを与えることができません。自分を持ってしまっているからです。

 イザヤは、主に「だれを遣わそう」と聞かれた時に、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言いました。ここに砕かれたイザヤがいます。まだ自分に能力があると思っていたら、「私は汚れた者で、全然資格のないものです。私には能力がありません。」と言っていたことでしょう。けれども彼は、恵みによって預言者として任じられることを知りました。大事なのは自分ではなく、自分を召してくださる神なのだ、ということを知りました。それで、「私を遣わしてください」と言ったのです。

6:9 すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』6:10 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

 非常に奇妙な預言の命令です。神の御言葉を語るのですから、それに聞き従って応答するためのものでなければならないはずです。ところが、その逆のことを行なわせるために預言をしなさい、と主はイザヤに命じておられるのです。

 しかしイザヤは分かっていました。聖書の他の箇所でもそうですが、主はすべてのことを初めから知っておられながら、なおかつ救いの機会を与えられる忍耐と寛容の神だ、ということです。主がモーセを通して、パロに「わたしの民を出て行かせよ。」と語られた時に、主は既にパロが最後まで強情になることをご存知でした。けれども、何度も語り続けられました。このことをロマ書9章22節でこうパウロが言っています。「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。

 またこの箇所は、イエス様がユダヤ人にお語りになっている時に、ユダヤ人が心をかたくなにしたことを語っている言葉として、福音書の著者、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ各人が引用しているところでもあります。

6:11 私が「主よ、いつまでですか。」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、6:12 主が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。

 イザヤは、今、心が砕かれているため、主の奇妙な預言の命令に対して、適切に質問しています。私だったら近視眼になって、「だったら、預言をする意味がないじゃないですか!」と言い返すかもしれません。けれどもイザヤは、砕かれ、神の恵みを知っているので、このことがいつまでも続くのではないことを知っていました。それで、「いつまでですか」と尋ねているのです。

 そして答えが、バビロン捕囚についてのこと、またその後のローマによる世界離散が起こるまでである、というものです。バビロン捕囚の後、悔い改めたユダヤ人が神殿再建のためにエルサレムに帰還しましたね。また、終わりの時に主が再び地上に戻ってこられ、世界中からユダヤ人が帰還しますが、その時に彼らの心は悔い改めています。

6:13 そこにはなお、十分の一が残るが、それもまた、焼き払われる。テレビンの木や樫の木が切り倒されるときのように。しかし、その中に切り株がある。聖なるすえこそ、その切り株。」

 これまで何度も出てきましたが、主が裁きを行なわれるのは聖めのためであり、残りの民が神に立ち返るためであります。ここにある「切り株」「聖なるすえ」というのは残りの民のことです。

2A 男の子 7−9:7
 こうしてイザヤは、さらなる大きな神の幻のために整えられました。この準備が必要でした。なぜなら、ウジヤが死んだ6年後にはアハブという、とんでもない王がユダを治めることになるからです。ユダはもっともっと悪くなり、その激しい善と悪の戦いの中でイザヤが、まっすぐに御言葉を語る準備が必要だったのです。

1B インマヌエル 7
1C 二つの木切れの煙る燃えさし 1−9
7:1 ウジヤの子のヨタムの子、ユダの王アハズの時のこと、アラムの王レツィンと、イスラエルの王レマルヤの子ペカが、エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。

 時は紀元前734年のことです。ウジヤが死に、またすぐにヨタムも死に、そしてアハズが王に即位しました。ウジヤもヨタムも、主に従った王でしたが、アハズになって彼はそれをすべて覆すようなことをしました。彼がどのような王であったか、少し見てみましょう。歴代誌第二28章1節からです。「アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった。彼はその父祖ダビデとは違って、主の目にかなうことを行なわず、イスラエルの王たちの道に歩み、そのうえ、バアルのために鋳物の像を造った。彼は、ベン・ヒノムの谷で香をたき、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の、忌みきらうべきならわしをまねて、自分の子どもたちに火の中をくぐらせた。さらに彼は、高き所、丘の上、青々と茂ったすべての木の下で、いけにえをささげ、香をたいた。(2歴代28:1-4」これで、彼がいかに堕落していたかがお分かりいただけたかと思います。

 そして、先ほど読んだイザヤ書7章1節に、アラム(つまりシリヤ)の王とイスラエルの王がエルサレムに攻めたとありましたが、その様子が5節以降に書いてあります。「彼の神、主は、彼をアラムの王の手に渡されたので、彼らは彼を打ち、彼のところから多くのとりこを捕えて行き、ダマスコへ帰った。彼はイスラエルの王の手にも渡されたので、イスラエルの王は彼を打って大損害を与えた。レマルヤの子ペカはユダで一日のうちに十二万人を殺した。みな勇者たちであった。彼らはその父祖の神、主を捨て去っていた。ついで、エフライムの勇士ジクリは、王の子マアセヤ、その家のつかさアズリカム、王の補佐官エルカナを殺した。さらに、イスラエル人は、自分の同胞の中から女たち、男女の子どもたちを二十万人とりこにし、また、彼らの中から多くの物をかすめ奪って、その分捕り物をサマリヤに持って行った。(5-8節)

 そしてこの後に、預言者がサマリヤにやって来て、ユダを激しい憤りを持って殺した罪を指摘して、捕虜を解放しなければ主の怒りが下ることを警告しました。そこで北イスラエルは捕虜を丁重に扱って、ユダに帰したのです。

 そこでイザヤ書7章1節に戻ってください。「エルサレムに上って来てこれを攻めたが、戦いに勝てなかった。」とありますね。シリヤとイスラエルは、ものすごい損害をユダに与えたのですが、主がご介入されて、捕虜を帰還させて、勝たせないようにさせたのです。

7:2 ところが、「エフライムにアラムがとどまった。」という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。

 主がユダをお守りになったのに、アハズには神に対する信仰は全くありませんでした。そのため、心が大きく動揺させています。アハズはまことの神、主以外のものであれば、何でも頼ろうとする臆病な人間でした。シリヤにやられたら、その勝利を収めさせたのはダマスコの神々だということで、ダマスコの神々を寄せ集め、アッシリヤが力をふるうと、そこの神殿の祭壇の図面に基づいて、祭司にアッシリヤの宗教の祭壇を造らせました。

 主に願いを立てるということには、人格的な成熟が要求されます。単なる願い事ではなく、心と尽くして、思いを尽くして、力を尽くして主を愛するという、全人格的な付き合いが必要となるのです。一夜だけを共にする不倫関係と、何十年も一緒に暮らす夫婦関係と全然違うのと同じです。けれどもアハズは、生ける神との関係を避けて、コンビニでインスタント食品を買うように、よさそうな神々を手軽に入手して、それを拝んでいたのです。

 私たちも試練や苦しみがあると、他の安易な方法を取る誘惑が出てきますね、それです。

7:3 そこで主はイザヤに仰せられた。「あなたとあなたの子シェアル・ヤシュブとは出かけて行って、布さらしの野への大路のそばにある上の池の水道の端でアハズに会い、7:4a そこで彼に言え。

 この「上の池の水道」というのは、エルサレムの町の城壁の外にあるギホンの泉からエルサレム市内に流れている水道のことです。これからシリヤとイスラエルが自分たちを攻めてくると思って、もしかしたらこの水道の部分を偵察に来た時のことかもしれません。

 後にヒゼキヤ王が、アッシリヤのセナケリブ王の攻撃に備えて、町の外にある水源をみな閉じて、地下にトンネルを造り、そしてシロアムの池に流れるようにしました(2歴代32:30)。それが有名な「ヒゼキヤのトンネル」であり、今でも残っており、観光客がその中を通ることができま

 そしてここで、イザヤは自分の子を連れて行っています。「シェアル・ヤシュブ」という子です。意味は、「残りの者は帰還する」というものです。この子がこれからのイスラエルとユダに対する「しるし」となります。神は必ず、残りの者を世界中から帰らせてくださるということの預言となります。

 この7章から始まる一連の預言は12章まで続きますが、11章に主が御手を伸ばして、ご自分の民を買い取られることが書かれています。

7:4b気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。あなたは、これら二つの木切れの煙る燃えさし、レツィンすなわちアラムとレマルヤの子との燃える怒りに、心を弱らせてはなりません。

 「気をつけて、静かにしていなさい。」大事な言葉ですね、気をつけて静かにしていないと、私たちは神以外のものに拠り頼んでしまいます。そして、「心を弱らせてはならない」という励ましも大事です。詩篇に「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。(31:24」とあります。

7:5 アラムはエフライムすなわちレマルヤの子とともに、あなたに対して悪事を企ててこう言っています。7:6 『われわれはユダに上って、これを脅かし、これに攻め入り、わがものとし、タベアルの子をそこの王にしよう。』と。

 アハズとは違う、自分たちの言うなりになる王と立てようと企てています。

7:7 神である主はこう仰せられる。『そのことは起こらないし、ありえない。7:8 実に、アラムのかしらはダマスコ、ダマスコのかしらはレツィン。・・六十五年のうちに、エフライムは粉砕されて、もう民ではなくなる。・・7:9 また、エフライムのかしらはサマリヤ、サマリヤのかしらはレマルヤの子。もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない。』」

六十五年のうち」です。イザヤがいま預言をしているのは紀元前734年ですから、その65年後は669年です。この時すでに、北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされていましたが、669年にアッシリヤの王オスナパルが、さらに多くの外国人をサマリヤの地域に移住させていたことが、エズラ記410節に記録されています。つまり、ここにあるように「もう民ではなく」なったのです。イスラエル人ではなく、サマリヤ人になってしまいました。

2C アッシリヤの王 10−25
7:10 主は再び、アハズに告げてこう仰せられた。7:11 「あなたの神、主から、しるしを求めよ。よみの深み、あるいは、上の高いところから。」7:12 するとアハズは言った。「私は求めません。主を試みません。」

 「主を試みません。」と言っているのは、いかにも霊的に聞こえます。主を試みてはならないとも書いてある、と主が、聖書を引用して悪魔に抵抗されました。

 けれどもここで言っているのは、全く別のことです。アハズは、イスラエルの神とは全く無縁の生活をしていました。いや、無縁ではなく意識的に対抗しているような生活を送っていました。彼は、父ヨタム、また祖父ウジヤが仕えていた神のことは知っていました。けれども彼の反抗心によって、そのような神とは関わりを持たないことを心の中で決めていました。

 だからここで、主がイザヤを通して、「あなたの神から、主から、しるしを求めよ。」とアハズに言われているのは、主の憐れみによるものであって、全く関心のない、関わりを持ちたいと願わないアハズに対する問いかけです。かたくなに主を拒む人にも、主が憐れみをかけておられることを示すために、しるしをもってなら信じることができるなら、しるしを求めなさい、と問いかけておられるのです。

 だからアハズが、「主を求めません。」と言っているのは、「私は神とかキリストとかというものには、関わりは持ちませんから。」と、パシッと断っている言葉なのです。

7:13 そこでイザヤは言った。「さあ、聞け。ダビデの家よ。あなたがたは、人々を煩わすのは小さなこととし、私の神までも煩わすのか。7:14 それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。

 有名なインマヌエル預言です。マタイが引用して、処女マリヤからイエス様が誕生された時、この預言が成就したことを話しました(マタイ1:2223)。

 気をつけて読んでみると、イザヤが語りかけているのは「ダビデの家」に変わっています。ここまでは「あなた」とアハズ個人に対して語っていました。この13節と14節だけ、「あなたがた」とダビデの家全体に対して語っているのです。

 主が結んでくださったダビデとの大きな契約があります。ダビデの家から神の家を建て、それをとこしえに建てるとの約束を与えてくださいました。歴代誌第一1711節から読みます。「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。(1歴代17:11-14

 だから福音書の中に、「ダビデの子」という呼称が出てきますが、それは神の国における王、メシヤを指していたのです。

 そしてその子が生まれる時に、それは「処女」からだというのです。口語訳と新共同訳は「おとめ」と訳していますが同じことです、未婚の女性、夫婦関係を持っていない人から子が生まれるのです。創世記3章15節に「女の子孫」もっとはっきりと訳すと「女の種」というメシヤ預言があります。女は卵子ししか持っておらず、子種、精子はありません。つまり処女降誕を暗示しています。これがダビデ家の子から出てくる、という約束なのです。

 そしてその子の名が「インマヌエル」です。神が私たちとともにおられる、という意味です。神が人の形をして現われる、ということです。神であり人である方です。9章に出てくる預言で、この二つの性質がより明らかにされます。

7:15 この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。7:16 それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。

 イザヤは再び「あなた」と呼びかけています。アハズに対してです。13,14節は将来のメシヤ預言なのですが、15,16節はアハズの時代における預言です。「この子」とありますが、彼は誰なのでしょうか?スポルジョンはここのインマヌエル預言は、聖書の中でもっとも難解な箇所の一つであると言っていますが、私も悩みました。

 一人の聖書学者の意見を拝借しますと、「この子」とは先ほど出てきた、イザヤが連れてきている「シェアル・ヤシュブ(3節)」である、ということです。今、イザヤが抱いているこの子を「この子」と呼んでいるのではないか、という解釈です。

 「凝乳と蜂蜜」はおそらく、赤ん坊の離乳食のことでしょう。まだ物心が付く前に、つまりここに、三年のうちに、シリヤと北イスラエルの王は捨てられるという預言です。事実、イザヤがこの預言を行なった二年後、紀元前732年にアッシリヤがダマスコを攻略し、シリヤの人々を強制移住させました。そして、紀元前722年にサマリヤが陥落し、北イスラエルも滅びました。

7:17 主は、あなたとあなたの民とあなたの父の家に、エフライムがユダから離れた日以来、まだ来たこともない日を来させる。それは、アッシリヤの王だ。」

 アハズは、イザヤから二つの国や倒れるという預言を与えられていたのに、それを信じないでアッシリヤに助けを求めました。列王記第二167節から読みます。「アハズは使者たちをアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに遣わして言った。『私はあなたのしもべであり、あなたの子です。どうか上って来て、私を攻めているアラムの王とイスラエルの王の手から私を救ってください。』アハズが主の宮と王宮の宝物倉にある銀と金を取り出して、それを贈り物として、アッシリヤの王に送ったので、アッシリヤの王は彼の願いを聞き入れた。そこでアッシリヤの王はダマスコに攻め上り、これを取り、その住民をキルへ捕え移した。彼はレツィンを殺した。(7-9節)

 ですから結果として二つの国は倒されましたが、結果が良ければすべてよしではないのです。アハズはアッシリヤを頼りにしましたが、今度は彼らがユダを苦しめることになるのです。

 これが肉の力に頼ることと、御霊により頼むことの大きな違いです。主に拠り頼むことはしんどいです。目に見えず、自分が願っているような時に救いは来ません。けれども、そこには自由があるのです。私たちが目に見える肉の力に頼れば、結果がすぐに来ますが、その後すぐに自分をがんじがらめにするのです。自分を救うべきものが、かえって自分を苦しめるのです。

7:18 その日になると、主はエジプトの川々の果てにいるあのはえ、アッシリヤの地にいるあの蜂に合図される。

 アッシリヤだけでなく、エジプトも視野にいれた預言です。これまでのイスラエルとユダの戦争の歴史は、周辺の小国との小競り合いでした。シリヤ、モアブ、エドム、ペリシテ人などです。これらも力強い敵ではありましたが、今度は比べ物にならないほどの超大国です。

 南からはエジプトがいます。後にヒゼキヤの時代に、アッシリヤからの脅威を免れるために、エジプトに助けを求める過ちを犯しています。そして北はアッシリヤです。

7:19 すると、彼らはやって来て、みな、険しい谷、岩の割れ目、すべてのいばらの茂み、すべての牧場に巣くう。

 アッシリヤは、まさにここで表現されているように、ユダの町々を隅々まで倒していきました。

7:20 その日、主はユーフラテス川の向こうで雇ったかみそり、すなわち、アッシリヤの王を使って、頭と足の毛をそり、ひげまでもそり落とす。

 当時、髪の毛やひげは、人の尊厳の一部をなしていました。それをそり落とすことは非常に人格を否定すること、侮辱することでありました。

 アッシリヤは、残虐な方法で国々を征服したことで有名です。生きたまま人の皮膚をそぎ落とす、目を抉り出す、舌に鈎針(かぎばり)を通して捕え移したりしました。(参考IMG1参考IMG2)このような残虐さのゆえに、預言者ヨナはアッシリヤを憎み、首都ニネベに行って預言したくなかったのです。

7:21 その日になると、ひとりの人が雌の子牛一頭と羊二頭を飼う。7:22 これらが乳を多く出すので、凝乳を食べるようになる。国のうちに残されたすべての者が凝乳と蜂蜜を食べるようになる。

 家畜が非常に少なくなる様子を描いています。もう育てる子牛がいないので、飲ませる乳が余り、それで多く乳が出ます。他の農産物はなくなるので、人々は野生の食物である蜂蜜を食べて、また乳を固めた凝乳を食べます。

7:23 その日になると、ぶどう千株のある、銀千枚に値する地所もみな、いばらとおどろのものとなる。7:24 全土がいばらとおどろになるので、人々は弓矢を持ってそこに行く。

 農作物はないので、猟に出かける、ということです。

7:25 くわで耕されたすべての山も、あなたはいばらとおどろを恐れて、そこに行かない。そこは牛の放牧地、羊の踏みつける所となる。

 これも農地が荒れてしまっている様子を描いています。これが、主ではなく人間や肉の力により頼んだところによる結果です。

2B マヘル・シャラル・ハシュ・バズ 8
1C ユーフラテス川 1−10
8:1 主は私に仰せられた。「一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため。』と書け。8:2 そうすれば、わたしは、祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤをわたしの確かな証人として証言させる。」8:3 そののち、私は女預言者に近づいた。彼女はみごもった。そして男の子を産んだ。すると、主は私に仰せられた。「その名を、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズ』と呼べ。

 主は、もう一人の男の子をイザヤに与えられました。ちょうど、バプテスマのヨハネが生まれる時に、前もって父ザカリヤに「ヨハネと名づけなさい」と天使が命じたように、前もって名前を与えられました。

8:4 それは、この子がまだ『お父さん。お母さん。』と呼ぶことも知らないうちに、ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られるからである。」

 この子も、先の「シェアル・ヤシュブ」と同じように、しるしとなるのです。「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」の意味は、「早い、略奪、急いで、戦利」です。アッシリヤがたちまちシリヤと北イスラエルを略奪することを、この子が表していました。

8:5 主はさらに、続けて私に仰せられた。8:6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。

 シロアハの水は、ギホンのところにある水です。ソロモンがそこで祭司ツァドクと預言者ナタンに油注がれ王となりました(1列王1:45)。つまりシロアハの水は非常に少なく、小さいものですが、ダビデ王朝にとって非常に重要なものである、ということです。

 それをないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる、つまりダビデの神、主に頼らずに、アッシリヤの王に頼って二つの国が倒れたことを喜んでいる、ということです。

8:7a それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。

 わずかなものを大切にせずに、沢山ほしいと私たちが貪るとき、私たちはその沢山のものでかえって滅んでしまいます。小さく流れている川であっても、主が与えられているものに満足できなければ、洪水の中で溺れてしまいます。

 イスラエルが荒野の旅で、「肉が食いたい。」と貪ったら、主は強風を吹かせて、うずらを大量に運んでこられました。一日、二日ではなく、一ヶ月、鼻から肉が出てくるほどに、と主は言われましたが、彼らは貪って食べたため、疫病にかかったのでしょうか、ばたばたと死んでいきました。

8:7b それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8:8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」

 アッシリヤの国の地図を見れば、アッシリヤの国がメソポタミアの地域からエジプトまで洪水が流れてきたように広がっている様子を見ることができますが、孤島のように小さく丸く、残っている場所があります。そこがエルサレムです。ですから、ここで「その広げた翼が国の幅いっぱいに広がっている」のです。

 けれども、「インマヌエル」とあります。ダビデの家に、処女から生まれる子がおられるので、主がダビデに与えられた契約のゆえ、主は彼らを守られるのです。

8:9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。

 主はアッシリヤに対して語っておられます。

8:10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

 この最後の言葉も「インマヌエル」です。アッシリヤがエルサレムを包囲した時に、一夜にして十八万五千人の軍隊が倒れました。主がともにおられる、インマヌエルなる方がおられるからです。

2C 教えと証しの固守 11−22
8:11 まことに主は強い御手をもって私を捕え、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。8:12 「この民が謀反と呼ぶことをみな、謀反と呼ぶな。この民の恐れるものを恐れるな。おののくな。

 アハズは先に読んだように、ひどく恐れていました。シリヤと北イスラエルに恐れていました。だからすぐに混乱し、おののいていました。これに乗じてあなたもおののくな、ということです。

 イザヤは、アハズ王、そして祭司ウリヤに対決的な預言を行ないました。しかも、自分の息子二人を徴として彼らに対峙しました。相当な心理的圧力がかかったに違いありません。そこで主が、イザヤをご自分の強い御手で捕えられたのです。

8:13 万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなたがたの恐れ、この方を、あなたがたのおののきとせよ。

 イザヤは、初めアハズ王、そして次に祭司ウリヤに対決的な預言を行ないました。しかも、自分の息子二人を徴として彼らに対峙しました。相当な心理的圧力がかかったに違いありません。そこで主が、イザヤをご自分の強い御手で捕えられたのです。

 私たちは絶えず、人を恐れるか、それとも神を恐れるかの選択に迫られます。箴言には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(29:25」とあります。イエス様も弟子たちにおっしゃりました。「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(ルカ12:4-5

8:14 そうすれば、この方が聖所となられる。しかし、イスラエルの二つの家には妨げの石とつまずきの岩、エルサレムの住民にはわなとなり、落とし穴となる。8:15 多くの者がそれにつまずき、倒れて砕かれ、わなにかけられて捕えられる。

 「聖所となられる」つまり、安全となってくださるということです。主の中にいることが安全です。

 その反対に、同じ主がつまずきの石にもなります。ユダヤ人がイエス様を信じることができず、つまずきましたが、どれだけ多くの人がイエス様につまずいたでしょうか?問題はただ、主のことばを信頼しきれていない、ということなのです。

8:16 このあかしをたばねよ。このおしえをわたしの弟子たちの心のうちに封ぜよ。」

 すばらしいですね、これがすべての要です。主の言葉です。パウロがテサロニケ人の信者にこう言いました。「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。(1テサロニケ1:4-5

 聖書の言葉を、確信をもって、聖霊をもって受け入れ信じていくときにこそ、私たちは自分たちが神に愛され、選ばれた者であることの確信を得ることができるのです。それでこそ、今の大きく揺れている世の中、また揺さぶりをかけられている教会の中で、なお立っていることができます。

8:17 私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。

 「御顔を隠しておられる」というのは、今は、目によって神の働きを確認することができない、ということです。例え、目に見えなくても、それでも主を待ち、望みをかけるという表明です。

8:18 見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている。

 「子たち」とは先ほどの二人の子です。「不思議」というのは、聖書では私たちが口にする「不思議」とは違います。主の知識と知恵が圧倒的に私たちよりも優れて、高いところにあるため、それを人間が見ると不思議である、という意味です。神に属することでしか使われない言葉です。

8:19 人々があなたがたに、「霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。」と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。8:20 おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。

 ここに「あかし」と対照的に、「霊媒、さえずり、口寄せ」が出ています。イザヤが抱いていたのは、昔から与えられていた神の御言葉です。これを堅く握りしめなさい、と主は言われます。それと対照的に、イスラエル人たちが求めていたものは、霊媒、さえずり、ささやく口寄せだったのです。

 これらが、いかに愚かであるかを、「生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか」という言葉で表しています。私たちも今、そのような時代に生きています。ポストモダンとかいわれている時代に、言葉よりも感覚やイメージ、説教よりも対話、瞑想などの東洋的なものがもてはやされています。私たちが頑固に、神の御言葉、聖書にしがみつかなければいけません。

8:21 彼は、迫害され、飢えて、国を歩き回り、飢えて、怒りに身をゆだねる。上を仰いでは自分の王と神をのろう。8:22 地を見ると、見よ、苦難とやみ、苦悩の暗やみ、暗黒、追放された者。

 御言葉の光を見失ったので、彼らは迫害されて、流浪の民となっても、その意味が何であるかがわからなくなります。そして神を呪います。これが実にホロコーストによって起こりました。その苦しみのゆえに多くのユダヤ人が無神論なっています。ヒトラーやナチス自身にも利用されたキリスト教は言わずもがな、です。

 けれども実に残念です、これらのことは全て神の御心の中にあることは聖書の預言を読めば分かることです。神がおられないどころか、むしろおられることの証しなのです。

3B ダビデの子 9:1−7
 このようにアッシリヤによって捕え移されていくという暗闇を預言した後に、主はイザヤにその中にある光を与えられます。

1C 異邦人のガリラヤの光 1−5
9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 北イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされてしまいました。その地域は、異邦人が数多く住むところになってしまいました。そこでここで、ガリラヤ地方が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。

 しかしそこは「光栄を受ける」と約束されています。またそこに住んでいる人たちが、「大きな光を見た」と約束されています。時代は一挙に、ローマ時代に進みます。アッシリヤの次はバビロン、バビロンの次はペルシヤ、そしてギリシヤ、そしてローマと、彼らは異邦人に踏みにじられました。けれども光を見ました。私たちの主、イエス・キリストがガリラヤ宣教を始められたのです(マタイ4:1316)。

 主が語られた恵みの言葉、主が行なわれた数々のいやし、そしてその他の良い行ない、これらがそこに住んでいたユダヤ人にとって、どれほどの慰めと希望であったかを思い図ることができます。

 今でもイスラエル旅行をするとき、エルサレムからガリラヤ地方に移ると、一挙に霊的雰囲気が変わります。宗教的な雰囲気が充満しているエルサレムから、異教がふんだんにあるローマの空気が流れます。けれどもその中に、ユダヤ人の共同体があります。エルサレムの人が見たら妥協しているかもしれないと見られる要素もあります。けれども、不完全であっても、そこは人々の癒し、救い、回復、喜びの涙の跡が残っているのです。

 主の働きには、「暗闇にこそ光が増し加わる」という逆説があります。社会的にめちゃくちゃなところで人々がイエス様を知っていきます。家庭が崩壊しているところでクリスチャンになります。人が迫害するから、むしろクリスチャンが光、その迫害者でさえ飲み込み、神は救ってくださいます。

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。9:4 あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。

 たった三百人で、十二万以上のミデヤン人を倒したギデオンの時のように、主が彼らのために戦ってくださり、束縛から解放してくださることを約束してくださっています。

9:5 戦場ではいたすべてのくつ、血にまみれた着物は、焼かれて、火のえじきとなる。

 つまり全き平和が訪れる約束です。

2C 一人のみどり子 6−7
 そしてその光をもたらす子が、与えられる預言が次にあります。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 この聖句は、メシヤが神であること、人でありかつ神であることを証明する重要な箇所です。まず、「ひとりのみどりご」とあります。これは肉体を持つ赤ん坊のことです。人間として生まれます。けれども、次の「ひとりの男の子」という訳は良くありません、「ひとりの子が」あるいは「独り子が」と言えば、すぐにピンと来られるでしょう。「神は実に、その独り子をお与えになったほどに世を愛された・・・」ですから、メシヤは人の子であり、同時に神の子であられるのです。

 今日のユダヤ教では、メシヤは人間であると教えています。モーセと同じような預言者が現れるという申命記の言葉を使って、メシヤは神の子ではないと主張します。しかしこの箇所を出せば、彼らは答えに困ります。そして新約の時代、ユダヤ教徒はメシヤは神の子であることをしっかりと信じていました。サンヘドリンにてイエス様に、「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。(マルコ15:61」と大祭司が尋ねています。

この他、キリストを「あなたは、わたしの子」と父なる神が呼ばれている詩篇第二篇があります。そして箴言30章にはこう書いてあります。「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。(箴言30:4」天地創造の神に子がおられる預言です。

 「不思議な助言者」ですが、この子は人の考えに及ばない知恵を持つ不思議な方となられます。私たちの助言は、私たちの理解の範囲を超えることはありませんが、主に従っていくところには不思議がいつもつきまといます。私たちがつまずくようなことも、いっぱいあります。けれどもこの方の思いは私たちの思いより、はるかに高いのです。

 そして「力ある神、永遠の父」です。主がピリポに言われました。「わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9」あの飼い葉桶に寝ておられるイエス様は、力ある神、永遠の父と一つであられました。

 そして「平和の君」です。平和をもたらすのはこの方のみです。だから私たちは挨拶します、「マラナタ」「主よ、来てください」。

9:7a その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。

 これは、先ほど引用した歴代誌第二、ダビデへの神の約束にあったものです。イエス様がお生まれになった時に、もし仮にユダヤ人がこの方をメシヤとして受け入れていればこの預言が完全に成就したことでしょう。けれども、彼らは拒みました。そして引き伸ばされました。今の時代、教会を通してキリストの平和が支配しています。主が再び戻ってこられる時に、主は確かにダビデの王座に着かれ、正義によって世界を治め、平和を確立されます。

9:7b今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。

 主の熱心と熱意を私たちはイザヤ書1章から読むことができました。

 こうして私たちは、アハブの時代におけるユダの国家的危機において、イザヤがどのように預言したかを見てきました。そして北イスラエルに対してもイザヤは預言を始めます。次回学びます。


「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME