アウトライン
1A 反逆の民への報復 65
1B 他の名で呼ばれる者 1−16
1C 差し伸ばされる御手 1−7
2C 葡萄の中の甘い汁 8−16
2B 新天新地 17−25
2A エルサレムへの慰め 66
1B 主の言葉におののく者 1−14
1C 偽善的な神殿礼拝 1−5
2C 母親の乳 6−14
2B すべての肉なる者 15−24
本文
イザヤ書65章を開いてください、とうとうイザヤ書の学びの最終回です。65章と66章を学びますが、ここでの題は「すべての主、すべての神」です。
イザヤ書の最後の部分は58章から始まりました。「せいいっぱい大声で叫べ。角笛のように、声をあげよ。わたしの民に彼らのそむきの罪を告げ、ヤコブの家にその罪を告げよ。(58:1)」神殿礼拝を行なっているけれども、その礼拝にともなう行ないが伴っていないことを、主がイザヤを通して語られました。
そしてその罪は、手、指、口、思い全てに行き渡っており、ユダヤ人の表面的な行ないの改めによって解決するものではないことをお示しになられました。そこで主は、ご自分の腕で、ご自分の義で彼らを救うことを決められました。これが、ローマ人への手紙に詳しく書かれている信仰による神の義です。律法の行ないではなく、キリストを信じる者に神が自分の義をお与えになるという義です。これが59章に書かれていました。
それで、ユダヤ人の残りの民は救われます。主は、ご自分の栄光がエルサレムにとどまることを約束し、またメシヤが来られて、悲しむ者に大いなる慰めを与えることを約束なさいました。これは60-61章です。
そしてその時が来るまで、この希望のために黙っていない、語り続けるというメシヤの強い意思を62章で読むことができます。さらに63章には、彼らの敵を葡萄の酒ぶねのごとく、激しい怒りをもって踏みつける約束をなさいました。
そして残りの民の祈りが始まります。これらの慰めの言葉を聞いて、古のモーセの日を思い出します。主がイスラエルのために行なってくださった大いなる、力ある御業を思い出します。主がこのことを今も行なってくださることを信じているが、今は、敵どもにエルサレムが踏みつけられている。主よ、私たちがあなたの民であることに目を留めてください、と祈りを捧げます。
1A 反逆の民への報復 65
そして、この祈りに対する主のお答えが65章と66章です。
1B 他の名で呼ばれる者 1−16
1C 差し伸ばされる御手 1−7
65:1 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。
驚くべき言葉です。イスラエルの残りの民は、この言葉を聞いたときに非常に驚くことでしょう。イスラエルはご自分の民なのだからどうか覚えてくださいと祈ったのに、異邦人に、神はご自分を現わすとおっしゃられたのです。
イザヤ書は「聖書の中の聖書」としばしば呼ばれますが、今回ここを学んで本当にそう思いました。主の救いの御手がユダヤ人だけではなく、いやユダヤ人が拒むので異邦人の方に伸ばされたという新約聖書にある話は、実は主がイザヤを通して旧約の時代に既に明らかにしておられたのです。パウロは、ここの言葉と次の節を、ローマ10章の最後で引用しています。
新約聖書は、ご自分の民が神を拒んだという厳しい現実について、そしてご自分の民として呼ばれなかった民が、神の国に入ることについて詳細に述べています。ヨハネ伝1章には、「この方(つまりキリスト)はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(11節)」とあります。そしてイエス様はユダヤ人指導者たちに、ぶどう園の例えを話され、神の預言者を殺し、神の独り子さえ殺すために、「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。(マタイ21:43)」と言われました。
そしてパウロは、ロマ書9章の終わりのところで、求めていた者が得ることができず、求めていなかった者が得るというジレンマについて、その理由を次のように述べています。「では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です。しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした。なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行ないによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。(30-32節)」
これは既にイザヤが話したことです。罪というのはいったい何なのか、その認識がユダヤ人、というかユダヤ教の中には非常に薄いことを、口も手も足も、思いもすべて毒と流血で染まっていることを述べることによって指し示しました。キリスト教の神学用語で言うと「全的堕落」です。私たちの内には良いものが何一つないのです。すべてが罪で染まり、これを取り除く方法は私たちのうちに存在しないのです。
それを神殿礼拝どころか、神殿がなくなった今、自分たちの反省や悔恨の方法で救われようとする試みを、今のユダヤ教は行なっています。行ないによって義を追い求めているのです。
65:2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
主はご自分の民、イスラエルを決して見捨てておられません。一日中、ご自分の手を差し伸べておられました。そして次に、彼らの反逆がどのようなものであるかを神は示しておられます。
65:3 この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、65:4 墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、65:5 「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」と言う。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。
これは異教の儀式、さらに死霊との交信、オカルトを表しています。これらはこれらのことを、イザヤが生きていた時代行なっていたのです。
このような異教的な神秘主義は、必ず人を高慢にさせます。「私はあなたより聖なるものになっている。」と言っています。コロサイ書に、天使礼拝をしている人たちが、「幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇」るとあります(2:18)。へりくだって、神の御前に出るまことの礼拝ではこういうことは起こりませんが、人々の熱心な教会活動、宗教的な行ないの中に、巧妙に肉が働いて人々を高慢にさせます。労わり、慰め、励ましあっていくために交わりをするのに、その集会に来ることができなかった人を霊的に劣っている人であるかごとく、裁いて、見下げるようになります。こうした態度は、非常に異教的なものです。
65:6 見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。・・65:7 山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。」と主は仰せられる。
主は報復する神であることを知る必要があります。テサロニケ第二1章にこう書いてあります。「つまり、あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(2テサロニケ1:6-9)」
2C 葡萄の中の甘い汁 8−16
65:8 主はこう仰せられる。「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから。』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。
イスラエルの残りの民に対する約束です。これも新約聖書、特にローマ人への手紙11章で明らかにされている約束です。ユダヤ人が福音に敵対しているからといって、神は彼らを退かれたのではない。パウロ自身もユダヤ人であり、このように残りの民として神が選んでおられる者たちがいるということです。
65:9 わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。
すばらしいですね、ユダの地域は山脈になっています。今のエルサレム、ベツレヘム、ヘブロンなどがそうです。そこに彼らが所有地を持ちます。
65:10 わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。
シャロンは、ヨッパからカルメルにかけての地中海沿岸地域の平原です。とても肥沃な土地です。そしてアコルはエリコの西にあり、家畜を育てるのに適当な場所です。つまり西から東へ豊かな土地を持つようになるということです。
65:11 しかし、あなたがた、主を捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。
「聖なる山」は、主が戻ってこられて御座を設けられるシオンの山のことです。
ガドとは、新共同訳聖書や口語訳の聖書には意味が訳されていて、「禍福の神」と訳されています。いわゆる福の神のような、異教の神です。そして、ガドは運命の神です。
65:12 わたしはあなた方を剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」
ここで大事なのは、「呼んでも答えず、語りかけても聞かず」という言葉です。故意に、意図的に逆らっているのです。ヘブル人への手紙10章には、「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。(ヘブル10:26)」とあります。
私たちは自分を反逆者というように捉えることは少ないです。「失敗してしまった」とは考えますが、神から与えられている知識があるのにそれでもあえて行なうことは、仕方がなく行なったことではなく、反逆なのです。
これに克服する方法は、唯一、御霊の力だけです。肉はもともと神に敵対するものであることを、パウロはローマ8章で教えています。「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。(7-9節)」
65:13 それゆえ、神である主はこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。65:14 見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。
終わりの時は、地上にいる全てのユダヤ人が救われるということではないことが、ここで明確に分かります。エゼキエル書にも、「あなたがたのうちから、わたしにそむく反逆者を、えり分ける。(20:38)」とあります。大患難の時、神に背いているこれらユダヤ人は滅ぼされます。
65:15 あなたがたは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。
この「ほかの名」とは、キリスト者のことです。イスラエル人とか、ユダヤ人ではなく、キリストにあって選ばれた者です。
65:16 この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。
次から、この苦難を忘れさせてくれる新しい天と新しい地についての約束があります。
2B 新天新地 17−25
65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
この「創造」のヘブル語は、無から有の創造を意味する言葉です。創世記1章で、神が天と地を創造された時に使われた言葉です。神が、天と地を初めにお造りになられたように、まったく新しい秩序を再創造されます。
ペテロはこの秩序の変化を次のように説明しています。「そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(2ペテロ3:12-13)」すべての物質、原子に至るまですべて溶け去り、まったく新しい天と地を造られます。
だから当然、先の事は思い出されることなく、心に上ることがないのです。特に、罪によってもたらされる悲しみはすべてなくなります。黙示録21章4節、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
65:18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
天からのエルサレム、新しいエルサレムです。黙示録21章に詳しく啓示されています。
65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
ここからイザヤの預言は、千年王国の幻になります。黙示録にはこのことがはっきりと区別されていて、20章に、悪魔が底知れぬ所で鎖に縛られ、キリストにある者が主と千年間、この地を統べ治めることが約束されています。そして千年の終わりに、悪魔が解き放たれ、悪魔につくものがエルサレムを取り囲むけれども、主が火によって彼らを焼き尽くします。その後、悪魔が火と硫黄の燃える池に投げ込まれます。
そして白い大きな裁きの御座が現われ、陰府にいた者たちが復活し、神の裁きを受けた後にゲヘナに投げ込まれます。それから新しい天と新しい地があるのです。
ですから使徒ヨハネは、預言者イザヤが区別せずに見ていたこの二つの姿を、主によってはっきりと、順番を追って示されたわけです。これまでの預言でもそうでしたね、メシヤの預言で初臨と再臨が区別されずそのまま書かれていました。
千年王国では、死は存在します。確かに寿命は延びますが、それでも死ぬことがここには示唆されています。新天新地とは違いますね。ちょうどエデンの園から追放され、ノアの日の洪水までの子孫と似ています。1000歳近く生きた人が多かったですね(創世記5章参照)。
では彼らはいったい誰でしょうか?私たちも神の国で死ぬのでしょうか?いいえ、主にあって復活した人は新しい体、朽ちない体を身にまとっています。教会も、大患難の時に殉教した人々も、死ぬことはありません。そうではなく、大患難時代を生き残った国々の民、そして羊と山羊の選り分けで羊になった人々は、この肉体のままで千年王国の中に入るのです。彼らは同じように子を産みます。その子も肉体を持っているので、死ぬことがあるのです。環境ははるかに良くなっているので長寿ですが、永遠に生きることはありません。
65:21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。65:22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
確実に自分の労した果実は、損なうことなく楽しむことができる約束です。
65:23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
子にも恵まれます。
65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
これは、非常に主と親しい交わりをしていることを意味しています。少し、「イエス様」と言おうとしたら、目の前におられるので、呼び終わらないうちに「何だい」と答えてくださるのです。コリント第一13章で、主と顔と顔を合わせて見ることが預言されていますが、それだけ近しくなります。
65:25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。
動物の弱肉強食の世界がなくなります。蛇がちりを食べるというのは、土を食料とすることではありません。イスラエルに行くと、何も生えていないようなところで、羊や山羊が頭を土につっこんで、草や根を食べています。つまり蛇も草食になるということです。
2A エルサレムへの慰め 66
1B 主の言葉におののく者 1−14
1C 偽善的な神殿礼拝 1−5
66:1 主はこう仰せられる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。わたしのために、あなたがたの建てる家は、いったいどこにあるのか。わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
主による、ユダヤ人への最後のチャレンジ、問いかけです。彼らは断食を行なったときは、主は、正しい行ないをすることこそがわたしが喜ぶ断食ではないか、と言われました。ここでは神殿です。いけにえをささげたりしていましたが、その神殿がいったい何を表していたかを彼らは忘れていました。
神殿を初めて建てたとき、その建てた本人であるソロモンは、このことを分かっていました。神殿を奉献する時の祈りで、彼はこう言いました。「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。(1列王8:27)」
けれどもユダヤ教において、神殿そのものを大事とする信仰に変わりました。そこに近づき、その中に入ることそのものが大事になりました。ステパノが、サンヘドリンにおいて弁明した時にここのイザヤ書を引用しています。そのため彼は、聖なる所を壊し、モーセの律法を変えようとしていると責められて、ついに石打ちで死んでしまいます(使徒7章参照)。
けれども神殿は、天にあるものを型取ったものです。実体は神殿の建物にはなく、天にある神の御座なのです。もっと、もっと大事なものを彼らは忘れていました。次を見てください。
66:2 これらすべては、わたしの手が造ったもの、これらすべてはわたしのものだ。・・主の御告げ。・・わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。
大事なのは、主の御言葉なのです。そして知的に御言葉を知る以上に、心と魂が砕かれる形で御言葉を聞くことです。これが本質であり、私たちは他のあらゆる宗教儀式によってこの本質を忘れてはいけません。
66:3 牛をほふる者は、人を打ち殺す者。羊をいけにえにする者は、犬をくびり殺す者。穀物のささげ物をささげる者は、豚の血をささげる者。乳香をささげる者は、偶像をほめたたえる者。実に彼らは自分かってな道を選び、その心は忌むべき物を喜ぶ。
宗教的行為を行なっていながらこれらの悪いことを行なっているなら、本末転倒です。
教会活動に熱心に参加することが大事なこととなり、それを行なっていさえすれば神に喜ばれると思っている、あるいは自分を高められると思っている。このような態度はまさにユダヤ人が終わりの時に、主によって明らかにされる、この神殿信仰と同じ過ちを犯しているのです。
66:4 わたしも、彼らを虐待することを選び、彼らに恐怖をもたらす。わたしが呼んでもだれも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を彼らが選んだからだ。」
65章にもありました、主の報復です。そして、その根っこには彼らの神への反逆があります。
66:5 主のことばにおののく者たちよ。主のことばを聞け。「あなたがたを憎み、わたしの名のためにあなたがたを押しのける、あなたがたの同胞は言った。『主に栄光を現わさせよ。そうすれば、あなたがたの楽しみを見てやろう。』しかし、彼らは恥を見る。」
同じユダヤ人が、主の御言葉に真剣に聞き入るユダヤ人を馬鹿にします、あざ笑います。しかも、宗教的なユダヤ人がそのようなことをするのです。「わたしの名のために」とありますね。これが、パウロを迫害した熱心なユダヤ教徒の中で起こりました。パウロは、「しかし、御怒りは彼らの上に臨んで窮みに達しました。(1テサロニケ2:16)」と言いました。
あのマルクスは「宗教は阿片だ」と言いましたが、それはその通りなのです。(共産主義も実は宗教の一形態であり、熱心になればなるほど人を迫害していきますが。)御言葉によって心が砕かれて、へりくだって神の前に歩む神との関係ではなく、宗教的に熱心になると、まことの信者をも馬鹿にし、あざ笑い、迫害するようになるのです。
2C 母親の乳 6−14
66:6 聞け。町からの騒ぎ、宮からの声、敵に報復しておられる主の御声を。66:7 彼女は産みの苦しみをする前に産み、陣痛の起こる前に男の子を産み落とした。66:8 だれが、このような事を聞き、だれが、これらの事を見たか。地は一日の陣痛で産み出されようか。国は一瞬にして生まれようか。ところがシオンは、陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ。
これは終わりの時、主が敵どもと戦われて再臨される時の姿を表しています。徐々に、シオンが回復するのではありません。主がオリーブ山に立たれて、エルサレム、そして世界に地殻変動が起こり、エルサレムが中東で、そして世界でもっとも高い山となり、そこに主が神殿を建てられ、御座を設けられます。これらのことは、長い期間かけて起こることではなく、瞬く間に実現することなのです。
キリストの再臨の時期について、キリスト教会にはいくつかの説があります。千年王国というのは無い、それはキリスト教会が地上を支配することによって霊的に実現するものだとする無千年期説。さらに、キリスト者の力と努力によって神の国をこの地上に建て上げて、その理想の世界をもって、再臨の主をお迎えするのだという千年期後再臨説。けれども、このような終末は聖書には書いていないのです。主が、陣痛の起こる前に男の子を産み落されるかのように、一挙に、世界を変えられ、神の国を打ち立てられるのです。
66:9 「わたしが産み出させるようにしながら、産ませないだろうか。」と主は仰せられる。「わたしは産ませる者なのに、胎を閉ざすだろうか。」とあなたの神は仰せられる。
主の、エルサレムに対する約束を必ず実行するという意図です。
66:10 エルサレムとともに喜べ。すべてこれを愛する者よ。これとともに楽しめ。すべてこれのために悲しむ者よ。これとともに喜び喜べ。66:11 あなたは、彼女の慰めの乳房から乳を飲んで飽き足り、その豊かな乳房から吸って喜んだからだ。
すばらしいですね、これが主に完全に頼り切った者たちの姿です。アブラハムに主が、エル・シャダイの神として現われましたが、これは母が赤ん坊に乳を飲ませることが語源となっています。私たちが完全に主に頼っている状態を表します。
私たちが今、自分で自分のことをしようとしていないでしょうか?それともあらゆることを、祈りによって主の前に持っていっていますか?
66:12 主はこう仰せられる。「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。
ここの「繁栄」は「平和」とも訳すことができます。「平和、川のように心に」という歌がありますね、ここから来ています。
66:13 母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。66:14 あなたがたはこれを見て、心喜び、あなたがたの骨は若草のように生き返る。主の御手は、そのしもべたちに知られ、その憤りは敵たちに向けられる。」
再び対比です。主の僕たちには豊かな慰めが、敵には憤りが向けられます。私たちがどちら側についているかが問題です。神が私たちの味方であるなら、憤りは私たちとは無縁です。私たちが神の敵であるなら、平和や豊かさとは無縁です。
2B すべての肉なる者 15−24
66:15 見よ。まことに、主は火の中を進んで来られる。その戦車はつむじ風のようだ。その怒りを激しく燃やし、火の炎をもって責めたてる。66:16 実に、主は火をもってさばき、その剣ですべての肉なる者をさばく。主に刺し殺される者は多い。66:17 おのが身を聖別し、身をきよめて、園に行き、その中にある一つのものに従って、豚の肉や、忌むべき物や、ねずみを食らう者たちはみな、絶ち滅ぼされる。・・主の御告げ。・・
主が地上に再臨される時の姿です。「すべての肉なる者をさばく」と、誰も例外なく裁きの対象であることを強調しています。そしてそれは、ユダヤ教の儀式を行なっている者であっても悪を行なっているのであれば裁かれるのです。主はえこひいきされるような方ではありません。
66:18 「わたしは、彼らのわざと、思い計りとを知っている。わたしは、すべての国々と種族とを集めに来る。彼らは来て、わたしの栄光を見る。66:19 わたしは彼らの中にしるしを置き、彼らのうちののがれた者たちを諸国に遣わす。すなわち、タルシシュ、プル、ルデ、メシェク、ロシュ、トバル、ヤワン、遠い島々に。これらはわたしのうわさを聞いたこともなく、わたしの栄光を見たこともない。彼らはわたしの栄光を諸国の民に告げ知らせよう。
ここに、主がお考えになっている大きな宣教の計画が書かれています。まず、18節の始めに「
彼らのわざと、思い計りとを知っている」とありますが、これはユダヤ人全般のことです。悪を行なっているユダヤ人もいますが、そうではない残りの民もいるのです。その残りの民、逃れた者たちに対して、主は印を置いてくださいます。
そしてその彼らが、聖書の神について何も聞いたことのない人々に宣べ伝えるのです。ここに、創世記10章に出てくる、ノアの家族から分かれ出た民族や地域が書かれています。タルシシュは今のスペインのところです。プルとルデは北アフリカです。メシェクは今のトルコ、トバルはギリシヤです。
このように、イスラエルの神のしもべが異邦人たちに伝えるという預言は、黙示録7章にあります。大患難が地上に襲いかかる前に、14万4千人のイスラエル12部族に神の印が押されます。そしてその後、世界の諸国の大勢の人が、天国においてイエス様に賛美をささげています。
またこれは、教会の始まりでもあります。たった120人のユダヤ人の中から教会が生まれました。そしてエルサレムとユダヤ、サマリヤ、そして地の果てまで、ユダヤ人の宣教者らによって異邦人に福音が伝わりました。
そして次をご覧ください。これらの宣教の結果、最終的な目的は何なのでしょうか?見てください。
66:20 彼らは、すべての国々から、あなたがたの同胞をみな、主への贈り物として、馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わたしの聖なる山、エルサレムに連れて来る。」と主は仰せられる。「それはちょうど、イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて来るのと同じである。
主が再臨される時に、世界の国々がエルサレムにいる主を礼拝するようになることが、最終目的です。その際、離散しているユダヤ人の帰還を後押しします。また自分たちの富をもって主を礼拝します。
まず、イスラエル人の残りの民から始まり、そして異邦人へ広がり、その異邦人がユダヤ人を助けるのです。これが神様の順番で、ロマ11章にあるとおり、異邦人の救いによってユダヤ人にねたみを起こさせ、彼らも救われることをパウロは願っていました。
66:21 わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし、レビ人とする。」と主は仰せられる。
主のところで奉仕をする者たちが、残りのイスラエルの民から選ばれます。
66:22 「わたしの造る新しい天と新しい地が、わたしの前にいつまでも続くように、・・主の御告げ。・・あなたがたの子孫と、あなたがたの名もいつまでも続く。
再び新しい天と新しい地の預言です。
66:23 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、すべての人が、わたしの前に礼拝に来る。」と主は仰せられる。
ここで大事なのは、「すべての人が」です。イスラエルだけではありません、あらゆる国々の人々がエルサレムに参って、主を礼拝するのです。これがイザヤの受けた神の幻です。イザヤ書1章を思い出してください、イザヤはユダにある問題から預言を行ないました。けれども主はご自分の計画は、全世界、全人類にまで及び、ご自分への礼拝は全地球的に行なうのだというものだったのです。すべての人のための主です。
この幻をしっかりと受け止めた人は、使徒パウロでありまた他の使徒たちです。ユダヤ教徒だけでなく、異邦人がそのままで神の好意にあずかることができるのだということを、ペテロはヨッパで幻を見ることによって悟りました。神はひとりなのですから、ユダヤ人の神であられる方は、異邦人にとっても神なのです。私たちの神は、私たちの周りにいる、まだイエス様を知らない人の神でもあるのです。だから、私たちは残りのイスラエルの民のように、その知らない人々に良い知らせを告げ知らせます。
そしてイザヤ書は、厳粛な警告で終わります。
66:24 「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に、忌みきらわれる。」
神は、ご自分の最終的な天の住まいをお見せするに当たって、そこに入ることができる人と、そうではない人をはっきりと分けられました。これは黙示録でも同じです。新しい天と新しい地の姿の後に、聖なる者はますます聖められ、汚れた者はますます汚れよ、という言葉があります(黙示22:11参照)。都に入れるものは幸いだが、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、偽る者は外に出される、とも書いてあります(黙示22:15参照)。主は、すべての人が救われるのだという啓示を与えられません。どちらかの道を選びなさい、という啓示を与えられているのです。
イエス様が、ここのイザヤ書の言葉を引用して、ゲヘナについて話されました。「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。(マルコ9:47-48)」どちらかを決めましょう。
「聖書の学び 旧約」に戻る
HOME