士師記1−2章 「主による試み」

アウトライン

1A わなとなる敵 1
   1B ヨシュア死後の戦い 1−21
      1C 自分がしたことの報い 1−7
      2C 祝いの品 8−15
      3C 追い払わなかった住民 16−21
   2B 敵との同居 22−36
      1C ヨセフ族の攻略 22−26
      2C ともに住むカナン人 27−36
2A 主の手によるわざわい 2
   1B 悔い改めなしの悲しみ 1−5
   2B 指導者が生きている間 6−22
      1C ヨシュア 6−15
      2C さばきつかさ 16−22

本文

 これから士師記を学びます。今日は1章と2章を学びます。ここでのテーマは、「主の試み」です。

 士師記は時代的には、1章1節に出てくる言葉「ヨシュアの死後」から始まります。ヨシュアが死んでから、そして、士師記の最後21章25節「そのころ、イスラエルには王がなく」とありますが、イスラエルに王が立てられる時、つまりサウル王が立てられる時までであります。(サムエルが最後の士師になります。)だいたい、紀元前1390年から紀元前1050年までの、約340年の時期になります。

 「士師」というのは聞きなれない日本語ですが、「さばきつかさ」とも訳されており、一言でいえばイスラエルの指導者です。イスラエルが敵によって苦しめられているとき、軍事的指導者として戦い、また行政的にも司法的にも指導的役割を果たした人々です。

 今日学ぶ1章と2章は、士師記全体のまとめのようになっています。この時代に何が起こったのかを全体的に説明しているところです。そして3章から実際の士師たちの業績が記録されており、時間を追って順番にイスラエルに起こったことを記しています。そして17章から、この時代に起こったある出来事を描いて、イスラエルの霊的状態を記しています。それは、めいめいが自分が正しいと思うことを行っており、まさに混沌、むちゃくちゃな状態です。ですから、1章と2章が全体の説明、3章から16章までが士師たちの記録、そして17章から最後の21章までが、イスラエルの霊的状態です。

1A わなとなる敵 1
 それでは本文に入りましょう。

1B ヨシュア死後の戦い 1−21
1C 自分がしたことの報い 1−7
 さて、ヨシュアの死後、イスラエル人は主に伺って言った。「だれが私たちのために最初に上って行って、カナン人と戦わなければならないでしょうか。」

 ヨシュア記に書かれていた、イスラエルの戦記を思い出してください。イスラエルは戦いに勝ち、ヨシュアによって割り当て地が与えられたのですが、それでも完全に占領していたわけではありませんでした。王たちを打ったのですが、まだ各地に点在している住民たちを倒したわけではありません。ヨシュア記13章1節には、主がヨシュアにこう仰せになっています。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」ヨシュアはまもなくこの地上からいなくなるので、占領すべき地は残っているのですが、イスラエルの各部族に割り当ての地を与えました。ですから、ヨシュアが死んだ後も彼らは戦い続けなければいけなかったのです。

 すると、主は仰せられた。「ユダが上って行かなければならない。見よ。わたしは、その地を彼の手に渡した。」

 イスラエル人は、ヨシュアが言われたとおりに主にあって戦いました。まず主に伺いを立てて、そして主が指令を出され、そしてその指揮に従います。私たちがこれから何をしなければいけないかを考えるとき、自分の理解に頼らずにまず主にお願いします。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5」とヤコブの手紙にあります。

 そこで、ユダは自分の兄弟シメオンに言った。「私に割り当てられた地に私といっしょに上ってください。カナン人と戦うのです。私も、あなたに割り当てられた地にあなたといっしょに行きます。」そこでシメオンは彼といっしょに行った。

 主はユダを選ばれてカナン人と戦わなければいけないと言いましたが、そのときシメオンに、ともに戦ってくれるよう頼んでいます。シメオン族が、ユダ族の割り当て地の中にあったことを思い出してください。ユダはシメオンを兄弟であると考えて、ともに働くことを望みました。

 ユダが上って行ったとき、主はカナン人とペリジ人を彼らの手に渡されたので、彼らはベゼクで一万人を打った。

 ベゼクはマナセ族の領地にあり、その割り当て地のちょうど真ん中ぐらいにある町です。そこで戦うためにユダが選ばれたので、ユダは北上しました。

 そしてカナン人とペリジ人ですが、カナン人はこれまで約束の地に住む先住民として数多く出てきました。ヨルダン川の西に住む人々はみな、総称としてカナン人と呼ばれていました。けれども、ペリジ人は他のカナン人と区別できる、大きな民族的特徴があったのでしょう。

 彼らはベゼクでアドニ・ベゼクに出会ったとき、彼と戦ってカナン人とペリジ人を打った。

 アドニ・ベゼグとは、「ベゼクの君主」という意味です。名前のとおりベゼクの町の王です。彼と戦って勝ちました。

 ところが、アドニ・ベゼクが逃げたので、彼らはあとを追って彼を捕え、その手足の親指を切り取った。

 ちょっと残酷でありますが、手足の親指を切ることは、相手を戦うことができないよう無能にすることでありました。手の親指がなければ剣を持って戦うことができません。足の親指がなければ、体全体のバランスをとることができず、立つことも歩くこともできません。(このときに、キリストのからだで、足の指が目ばえがよくなくとも、なくてはならない存在であるというパウロの説明を思い出します。)

 ると、アドニ・ベゼクは言った。「私の食卓の下で、手足の親指を切り取られた七十人の王たちが、パンくずを集めていたものだ。神は私がしたとおりのことを、私に報いられた。」それから、彼らはアドニ・ベゼクをエルサレムに連れて行ったが、彼はそこで死んだ。

 アドニ・ベゼクは、自分が行なったことの報いを受けていることを認めています。ここに、神さまがつくられた法則があります。パウロがこう言いました。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6:7」自分が種蒔いたものは、その刈り取りをしなければいけません。パウロは続けて、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」と言っています。私たち人間は、悪を行なっているとき、自分でその結果を刈り取ることなく何とかなるさ、と思います。悪いことをしていても、一見何も起こっていなければ、主はこのことを許可されているのだとまで思ってしまうことがあります。けれどもアドニ・ベゼクが言ったように、「神は、私がしたとおりのことを、私に報いられた」のです。免れることはできません。

 けれども同じように、霊に種を蒔くことをすれば、私たちは永遠のいのちを刈り取ることになります。主とともに時間を過ごすこと、祈りとみことばの中で、主のあわれみと恵み、永遠のご計画、その知恵と力、主の誉れと威光など、これらのものを知って、思い巡らしているならば、私たちではなく、主が良い実を私たちから結ばせてくださいます。自分が行なうことではなく、私たちが主にとどまっていることによって、主が行なってくださるものです。

2C 祝いの品 8−15
 また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。

 アドニ・ベデクをエルサレムに連れて来て、彼がエルサレムで死んだので、ユダ族はエルサレムを攻略しました。けれども後で見るように、この後にエブス人が入ってきたのでしょうか、それとももともとエブス人がいて、彼らが抵抗したのでしょうか、分かりませんが、占領することはできませんでした。

 その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。

 ユダ族はエルサレムからさらに南下し、今度は自分の割り当て地にいるカナン人たちと戦い始めました。「山地」とは、イスラエルの中心を南北に連なっている山々のことです。「ネゲブ」は、イスラエルの南にある砂漠地帯です。そして「低地」とは、シェフェラと呼ばれている地域であり、中央の山地と西の海岸地域の中間にある平地のことです。ユダ族は、山地、ネゲブ、そしてシェフェラ一体で戦いを繰り広げました。

 ユダはヘブロンに住んでいるカナン人を攻めた。ヘブロンの名は以前はキルヤテ・アルバであった。彼らはシェシャイとアヒマンとタルマイを打ち破った。

 覚えているでしょうか、ヘブロンはカレブがヨシュアに願って、あそこを私の割り当ての町にしてください、と言ったところです(ヨシュア13章)。そこに住んでいたシェシャイとアヒマンとタルマイは、アナクという人物の三人息子であり、彼らは巨人でした。彼らの姿を見て、カデシュ・バルネアに戻ってきた十人のスパイは悪い知らせをもたらしました。今、カレブによってユダ族が、ヘブロンにいるカナン人を攻めました。

 ユダはそこから進んでデビルの住民を攻めた。デビルの名は以前はキルヤテ・セフェルであった。

 デビルは、ヘブロンから南東に約15キロ離れたところにあります。そこの住民も攻めました。

 そのときカレブは言った。「キルヤテ・セフェルを打って、これを取る者には、私の娘アクサを妻として与えよう。」

 カレブは、ヘブロンだけでなくデビルも攻略しますが、自分自身では戦いません。自分の娘を妻として与える男に、その町を取ってもらいます。

 当時、女の人は離婚をする権利がありませんでした。男にはありましたが、女の人にはありません。ですから、男がこの女は要らなくなったと思って離婚状を出すと、彼女は生活する支えを失います。そこで娘の父親が彼女を養いますが、そのためのお金が必要です。そこで、当時は結納金のようなものを、新郎が新婦の父親に与えました。そうすることによって、女性の権利を保護することになったのです。そこで今カレブは、お金を受け取るのではなく、これから取る土地をそのお金と同じにすると話しました。結納金をこれから攻め取る土地によって払うというものです。

 ケナズの子で、カレブの弟オテニエルがそれを取ったので、カレブは娘アクサを彼に妻として与えた。

 オテニエルは、最初の士師として士師記3章から登場します。

 彼女がとつぐとき、オテニエルは彼女をそそのかして、畑を父に求めることにした。彼女がろばから降りたので、カレブは彼女に、「何がほしいのか。」と尋ねた。アクサは彼に言った。「どうか私に祝いの品を下さい。あなたはネゲブの地に私を送るのですから、水の泉を私に下さい。」そこでカレブは、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。

 ここの「そそのかした」とあるのは、新改訳聖書の注釈にあるように元々、原文にはありません。ここでの内容は、次のとおりです。オテニエルとアクサがネゲブ砂漠に行くとき、二人は水が必要であることを知っていました。けれども、アクサは、オテニエルが義理の父に泉がほしいと言うことはできないことはよく分かっていました。けれども娘の願いなら聞いてくれる。そこでアクサは、オテニエルに代わって父に泉を祝いの品として与えてくれることを願ったのです。

3C 追い払わなかった住民 16−21
 モーセの義兄弟であるケニ人の子孫は、ユダ族といっしょに、なつめやしの町からアラデの南にあるユダの荒野に上って行って、民とともに住んだ。

 モーセは、ミデヤンの祭司イテロのところに住み、そこでチッポラを妻としました。ですからモーセには、イテロの息子たちである義兄弟がいます。その一人ホバブは、モーセたちがシナイ山から約束の地に向かうときに、砂漠の案内人となっていました。ケニ人はこのように、ベトウィンのように砂漠で移動生活をしていた人々でした。

 ケニ人は初め、「なつめやしの町」に住んでいたとありますが、これはエリコのことです。エリコからユダ族とともに南に移動し、荒野で生活を始めました。彼らは荒野での生活のほうが住みよいのです。

 ユダは兄弟シメオンといっしょに行って、ツェファテに住んでいたカナン人を打ち、それを聖絶し、その町にホルマという名をつけた。

 ツェファテという町はどこにあるか分かりませんが、ユダはシメオンとともにそこを聖絶しました。「聖絶」という言葉は、完全に滅ぶべきものを滅ぼすという意味があります。イスラエルはエリコの町も聖絶しましたが、同じように聖絶しました。「ホルマ」というのは、“滅ぼす”という意味です。

 ついで、ユダはガザとその地域、アシュケロンとその地域、エクロンとその地域を攻め取った。

 これは海岸地域です。ガザ、アシュケロン、エクロンはみな、後にペリシテ人が住む土地になりますが、それより内陸に入ると、先ほど話したシェファテと呼ばれる低地があり、そして山地があります。

 主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。

 士師記で描かれているイスラエル人たちの問題は、彼らが土地を占領しなかったことではありませんでした。ここに書かれているとおり、主がユダとともにおられて、ユダは多くの土地を占領しました。けれども、士師記で描かれている問題は、その占領が不完全であったことです。ユダは、谷の住民に対しては、「鉄の戦車を持っている」という理由で彼らを追い払わなかったのです。

 けれども、主の命令はもちろん、すべての住民を聖絶して滅ぼしなさいというものでした。主は命令されるだけではなく、ご自身がその敵と戦われるのですから、イスラエルがすることはただ聞き従うだけです。そうすれば、主が勝利を与えてくださいます。事実、ヨシュア記11章には、北にいる数多くの王が非常に多い馬や戦車を率いてイスラエルを攻めてきたけれども、イスラエルは急襲し、襲いかかることにより、ひとりも生き残るものがないほどまでにしました。ですから、ここでユダは、途中まで主に聞き従っているのに完全に聞き従わなかった、という問題があります。

 このように、主に従っているけれども中途半端、不完全な従い方をしてしまうのは、私たちクリスチャンの大きな課題です。聖書には、肉に対する完全な勝利を主が信仰者に与えておられることを宣言しています。コロサイ2章12節にはこう書かれています。「あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。」肉はキリストとともに十字架につけられてしまったのであり、私たちはもはや罪が自分を支配することがなくなっています。そして、キリストとともによみがえりましたので、どんなに肉が力強いものであっても、キリストを死者の中からよみがえらせた神が、同じよみがえりの力によって肉の行ないを殺すことができるようにしてくださいます。

 けれども私たちは、自分にとって克服できる問題には信仰をもって対処しますが、克服できないと自分で判断することに対しては逃避してしまいます。そのことのためにも、自分はキリストとともに十字架につけられ、葬られたのだという事実を受け入れないのです。ちょうど「鉄の戦車があるから」と言い訳をしてしまいます。けれども、不完全な従順は完全な不従順へと至ります。「ここまでは主に従うけれども、この部分はまだ昔の古い自分のままでいいや」という妥協を持っていると、その古い自分が後に自分をとりこにしてしまいます。

 彼らはモーセが約束したとおり、ヘブロンをカレブに与えたので、カレブはその所からアナクの三人の息子を追い払った。

 カレブらは、谷にいる住民よりも、はるかに強かったであろうアナク人たちを追い払うことができました。これは彼らの力ではなく、ただ主が与えてくださったことを信じる信仰によるのです。

 ベニヤミン族はエルサレムに住んでいたエブス人を追い払わなかったので、エブス人は今日までベニヤミン族といっしょにエルサレムに住んでいる。

 エルサレムは、正確には、ユダ族ではなくベニヤミン族の割り当て地となっていました。けれどもベニヤミン族は、その町に残っているエブス人を追い払うことをしなかったのです。エルサレムも、谷にいた住民のように、地形的に敵が入り込めないようになっており、自然の要塞となっていました。けれども、それでエブス人を倒すことができないという言い訳はできません。

 後にダビデがエブス人と戦うようになります。その時まで何百年も本当は攻略することができた町を攻略せず、戦いを先延ばしにしていただけなのです。私たちは逃げることはできません。ただ前進して戦うのみです。いつか必ず直面し、対峙しなければいけないのです。それをいつ始めるか、ということです。

2B 敵との同居 22−36
1C ヨセフ族の攻略 22−26
 ヨセフの一族もまた、ベテルに上って行った。主は彼らとともにおられた。

 「ヨセフ」とは、マナセ族とエフライム族のことです。彼らはベテルに上っていきました。そこはかつて、ヤコブが天からのはしごの夢を見たところであり、ベツレヘムとエフライムの境にあった町です。ここでも、「主は彼らとともにおられた」という言い回しがあります。

 ヨセフの一族はベテルを探った。この町の名は以前はルズであった。見張りの者は、ひとりの人がその町から出て来るのを見て、その者に言った。「この町の出入口を教えてくれないか。私たちは、あなたにまことを尽くすから。」

 当時の町は、もちろん城壁に囲まれていました。門を閉じてしまえば敵は入ってくることはできません。けれども、たいてい秘密の道があります。たとえば、ヒゼキヤがアッシリヤと包囲されたとき、彼は包囲されることを知って、城壁の外にあったギホンの泉からトンネルを掘って、シロアムの池まで水がくるようにさせました。こうした秘密の出入り口から人が出てきて、その人に、「出入り口を教えてくれないか」と頼んだのです。

 彼が町の出入口を教えたので、彼らは剣の刃でこの町を打った。しかし、その者とその氏族の者全部は自由にしてやった。

 ちょうどイスラエルがラハブに行なったのと同じようなことを行なっています。彼らを自由にしてやりました。

 そこで、その者はヘテ人の地に行って、一つの町を建て、その名をルズと呼んだ。これが今日までその名である。

 ヘテ人の地は、現在のシリア北部に当たります。おそらく彼はその地の出身であったのかもしれません。そして自分が住んでいた町と同じ名前を新しい町に名づけました。

2C ともに住むカナン人 27−36
 こうしてマナセとエフライムは、主に聞き従いペテロを攻略したのですが、彼らはユダ以上に不完全でした次をご覧ください。

 マナセはベテ・シェアンとそれに属する村落、タナクとそれに属する村落、ドルの住民とそれに属する村落、イブレアムの住民とそれに属する村落、メギドの住民とそれに属する村落は占領しなかった。それで、カナン人はその土地に住みとおした。

 マナセ領の中にある数々の村落を彼らは占領せず、カナン人を追い払いませんでした。同居してしまいました。

 イスラエルは、強くなってから、カナン人を苦役に服させたが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。

 強くなったので苦役に服させたとありますが、イスラエルは強いから敵に勝つのではありません。軍事的に弱かろうと強かろうと、主がともにおられるのであれば勝つことができます。かつてヨシュアは、マナセとエフライムに「戦いなさい」と鼓舞していました。彼らはヨシュアにこういう言い訳をしています。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。(ヨシュア17:16」そこでヨシュアは、カナン人は鉄の戦車をもっており強いのだから、あなたがたは彼らを追い払わなければいけない、と諭しています。けれども、彼らは自分たちにできることで勝てるか勝てないかを計算して、信仰によって踏み出しませんでした。

 エフライムはゲゼルの住民カナン人を追い払わなかった。それで、カナン人はゲゼルで彼らの中に住んだ。

 エフライムもマナセと同じようにカナン人をすべて追い払っていません。そして彼らの中にカナン人がいるままにさせています。霊的に考えると、私たちの肉は何としてでも自分の領域を守ります。あまりにも頑固に居残っているので、私たちはそのままにしておき、それで一部は肉が働かせたままにしてしまうようなことを行なってしまいます。敵と同居してしまうのです。

 ゼブルンはキテロンの住民とナハラルの住民を追い払わなかった。それで、カナン人は彼らの中に住み、苦役に服した。

 ゼブルンもマナセと同様に、カナン人を苦役には服させましたが、追い払うことをしていません。苦役に服させるのと追い払うのには大きな違いがあります。私たちは、肉を十字架につけて殺してしまわなければいけません。それなのに、その肉をそのままにしたままで表面的に対処しようとします。けれども、それでは解決になりません。キリストの十字架のみわざを自分に当てはめることのみが、唯一の解決方法なのです。

 アシェルはアコの住民や、シドンの住民や、またマハレブ、アクジブ、ヘルバ、アフェク、レホブの住民を追い払わなかった。そして、アシェル人は、その土地に住むカナン人の中に住みついた。彼らを追い払わなかったからである。

 見てください、ここではカナン人がイスラエル人の間に住むのではなく、イスラエル人がカナン人の中に住んでいる、となっています。霊と肉が逆転しています。追い払うことをしないことによって、支配していると思っているのが、逆に支配されるようになってしまいます。

 ナフタリはベテ・シェメシュの住民やベテ・アナテの住民を追い払わなかった。そして、その土地に住むカナン人の中に住みついた。しかし、ベテ・シェメシュとベテ・アナテの住民は、彼らのために苦役に服した。

 ナフタリもアシェルと同様、カナン人の中に住んでいます。

 エモリ人はダン族を山地のほうに圧迫した。エモリ人は、なにせ、彼らの谷に降りて来ることを許さなかった。こうして、エモリ人はハル・へレスと、アヤロンと、シャアルビムに住みとおした。

 ダン族がもっとも状況がひどいです。彼らは自分たちの割り当て地に住むことさえできませんでした。追い払うのではなく、追い払われてしまいました。

 しかし、ヨセフの一族が勢力を得るようになると、彼らは苦役に服した。エモリ人の国境はアクラビムの坂から、セラを経て、上のほうに及んだ。

 ヨセフの一族とはエフライム族のことです。彼らが強くなったとき、エモリ人を苦役に服させました。

2A 主の手によるわざわい 2
 こうしてイスラエルは、主に従ったのですが、全き心をもって従いませんでした。中途半端、不完全だったのです。そこで主がイスラエルにお語りになります。

1B 悔い改めなしの悲しみ 1−5
 さて、主の使いがギルガルからボキムに上って来て言った。

 主の使いが来ておられます。この方は、受肉する前のイエス・キリストです。次に主の使いが、「わたしは」と言って、自分と神を同一化させています。けれども神は目に見えない方であり、姿や形はありません。そうするとここでは、主イエスご自身が栄光の姿で現れていると考えられます。黙示録1章でも、御使いのような輝きをもってヨハネに主はお現れになりました。

 主の使いは、「ギルガル」からボキムに来られたとありますが、ギルガルはヨシュアがヨルダン川を渡って、エリコに行く前に宿営していたところです。そこを他の土地を占領するときの戦いの拠点にしました。主の使いは、このときにもヨシュアに対して「主の軍の将」として現われていました。

 わたしはあなたがたをエジプトから上らせて、あなたがたの先祖に誓った地に連れて来て言った。「わたしはあなたがたとの契約を決して破らない。」

 エジプトから連れ出してくださったことを思い出させています。大いなる救いです。そして救っただけではなく、契約を結ばれました。主と婚姻関係に入りました。

 「あなたがたはこの地の住民と契約を結んではならない。彼らの祭壇を取りこわさなければならない。」ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。なぜこのようなことをしたのか。

 イエスさまは、神に仕えて、同時に富に仕えることはできないと言われました。主と契約を結んでいるのに、土地の住民と契約を結ぶことはできません。この世を愛するか、神を愛するかの二者択一でしかないのです。

 それゆえわたしは言う。「わたしはあなたがたの前から彼らを追い出さない。彼らはあなたがたの敵となり、彼らの神々はあなたがたにとってわなとなる。」

 わな」となるという言葉が重要です。自分は、このくらいの罪、このくらいの肉の働きは大丈夫だそのままにしておこう、と思います。ところが、それがわなとなって、自分に食らいついてきます。そして、自分を食い尽くしてしまいます。

 主の使いがこれらのことばをイスラエル人全体に語ったとき、民は声をあげて泣いた。それで、その場所の名をボキムと呼んだ。彼らはその場所で主にいけにえをささげた。

 彼らは大声で泣き、主にいけにえさえもささげていますが、けれどもこれは感情的な反応であり、本当の意味で悔い改めていません。私たちは、罪を悲しんでも、捨てることをしないことが多いです。悔い改めには喜びがともないますが、ただ悲しんでいるだけではそれだけで終わってしまいます。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(2コリント7:10

2B 指導者が生きている間 6−22
1C ヨシュア 6−15
 ヨシュアが民を送り出したので、イスラエル人はそれぞれ地を自分の相続地として占領するために出て行った。

 今、士師記の著者が、 ― おそらくサムエルだと思います ― ヨシュアが生きていたときのことから士師時代のことを総括しています。ヨシュアが土地を占領しましたが、すべてを占領できずに老人になってしまいました。そこで土地の割り当てを行ないました。

 民は、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って主がイスラエルに行なわれたすべての大きなわざを見た長老たちの生きている間、主に仕えた。

 ここで重要な言葉は、「生きている間」です。主のしもべであるヨシュアが生きている間、またヨシュアを通して主が行なってくださったわざを見た人たちが生き残っている間にかぎり、イスラエルは主に仕えました。ヨシュアが主と持っている個人的関係、また、長老たちの神との体験が、はたして他のイスラエル人たちにあったかどうかは疑問です。あったかもしれない、けれども、今見てきたとおり、不完全な従順であり、妥協するような信仰でした。そこで、神との個人的な関係をもっている指導者がいる間は、自分も律することができて主に仕えることができたのです。

 けれども、これではいけません。自分自身がイエス・キリストを知り、自分自身が神を体験するのでなければ、二世代目以降はかならず霊的に堕落してしまいます。それぞれが、直接主とお会いしなければならないのです。

 主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・ヘレスに葬った。ヨシュアが葬られた記録です。その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。

 わざも知らない、主も知らない、神との個人的関係を持っていない人々が起こりました。

 それで、イスラエル人は主の目の前に悪を行ない、バアルに仕えた。

 「主の前の前に悪を行なう」という言い回しが、これからの士師記に何度も出てきます。人の間の前ではなく、主の目の前です。士師記の終わりには、「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた(21:25)」としめくくられていますが、私たちが自分の判断で、自分の目で正しいと思うことをどんどん行なっていくという過ちがあります。けれども、そうではなく、今、自分のしていること、思っていることが、主の目の前にある、主が見ておられる、という意識が大切です。これが主を恐れることであり、自分の悟りに頼らず、主に拠り頼むことです。
 彼らは、エジプトの地から自分たちを連れ出した父祖の神、主を捨てて、ほかの神々、彼らの回りにいる国々の民の神々に従い、それらを拝み、主を怒らせた。

 
イスラエル人は初め、周囲の住民と契約を結んでしまいました。いわば、殺さないで平和共存しましょう、という妥協です。肉をそのままにしても大丈夫です、ということです。けれども、それが他の神々に従い、つまり肉の欲に従い、それから拝む、つまり身も魂もささげてしまう結末に至ります。パウロは言いました。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。(コロサイ3:5

 彼らが主を捨てて、バアルとアシュタロテに仕えたので、

 バアルとは、カナン人が当時拝んでいた主体となる神でしした。農耕を行なっていたので、その天候などすべてを左右する神であると考えられていました。そしてアシュタロテはバアルの妻であり、女神です。豊穣の神と考えられていました。アシュタロテについては、バビロンのイシュタル、ギリシヤのビーナスも同じく女の神であり起源を同じくしています。

 カナン人のバアルとアシュタロテ信仰は、それがみだらな性的行為と密接に関わっていました。そして自分の子供たちを火の中にくぐらせたり、建物の柱の中に入れたりして、いけにえとしてささげていました。これは考古学での発見でありますが、考古学者たちは、なぜ主はカナン人をもっと早く滅ぼさなかったのかと不思議に思っているほどでした。ですから、神が彼らをことごとく滅びしてしまいなさい、というのは、彼ら自身がそのような罪と汚れに影響されてしまわないためだけでなく、カナン人に対する神のさばきでもあったのです。

 主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らを略奪者の手に渡して、彼らを略奪させた。主は回りの敵の手に彼らを売り渡した。それで、彼らはもはや、敵の前に立ち向かうことができなかった。

 イスラエルが敵に打ち勝つことができたのは、主がおられるからであり、彼らが強かったからではありません。また彼らが平和に安全に暮らすことができたのは、主が敵を制しておられたからであり、彼らのおかげではありませんでした。けれども、主はいまあえて、敵や略奪者がイスラエルに触れることができるようにされています。

 
主は時に、私たちが罪を犯して、悔い改めないようなことをするとき、いつも守ってくださっているその守りの盾を取りのいて、悪魔の攻撃にさらすようなことをされます。それは私たちを憎んでいるからではなく、むしろ私たちが自分の行なっている罪がいかに苦しみをもたらすものかを知って、罪を憎むようにさせるためです。これを聖書では、「懲らしめ」といいます。懲らしめは、私たちが主に立ち返るために、主が私たちに注意を喚起させようとするメッセージなのです。

 彼らがどこへ出て行っても、主の手が彼らにわざわいをもたらした。主が告げ、主が彼らに誓われたとおりであった。それで、彼らは非常に苦しんだ。

 
士師時代におけるイスラエルの歴史が書かれています。第一に、彼らが神に不従順になりました。そして第二に、彼らは苦しみの中に入りました。そして、彼らは助けを呼び求めます。ちょうど、苦しいときの神頼みのように、呼び求めます。

2C さばきつかさ 16−22
 そのとき、主はさばきつかさを起こして、彼らを略奪する者の手から救われた。

 これが第三段階です。さばきつかさ、あるいは士師を起こされて、イスラエルを略奪する者たちから救い出されます。3章から16章にかけて、14人の士師が出てきますが、そのたびに主はイスラエルを救い出されました。

 ところが、彼らはそのさばきつかさにも聞き従わず、ほかの神々を慕って淫行を行ない、それを拝み、彼らの先祖たちが主の命令に聞き従って歩んだ道から、またたくまにそれて、先祖たちのようには行なわなかった。

 これが第四段階です。さばきつかさによって主がイスラエルを敵の手から救い出された後、再びイスラエルは不従順の中に入っていきます。ですから第四段階は実は第一段階なのです。不従順から苦境へ、苦境から救いへ、そして救いから再び不従順へという、悪循環をイスラエルは辿りました。

 主が彼らのためにさばきつかさを起こされる場合は、主はさばきつかさとともにおられ、そのさばきつかさの生きている間は、敵の手から彼らを救われた。これは、圧迫し、苦しめる者のために彼らがうめいたので、主があわれまれたからである。

 ここに、士師記のまた別の側面が描かれています。主のあわれみです。不従順になって、ご自分の目の前で悪を行なっているイスラエルに対して、それでも苦しみの中の叫びを聞けば、助けてくださるというあわれみです。私たちがたとえ不従順になっていても、主は決して私たちを見捨てたりなさいません。

 しかし、さばきつかさが死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。

 ヨシュアの時と同じです。さばきつかさが生きている間は、イスラエルは比較的平穏に暮らすことができました。けれども、死ねばまた逆戻りです。これは、私たちに良い環境が与えられても、自分と主との個人的関係が確立されていないと、まったく同じ問題が起こってしまうということです。問題をさけるために環境を変える人がいます。たとえば、教会を変えるとかです。けれどもまた同じ問題がでてきます。問題は教会とか人にあるのではなく、実は自分自身にあるからです。

 それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がった。主は仰せられた。「この民は、わたしが彼らの先祖たちに命じたわたしの契約を破り、わたしの声に聞き従わなかったから、わたしもまた、ヨシュアが死んだとき残していた国民を、彼らの前から一つも追い払わない。彼らの先祖たちが主の道を守って歩んだように、彼らもそれを守って歩むかどうか、これらの国民によってイスラエルを試みるためである。」

 今日の箇所の最後の言葉は、「試みるため」です。とても大切な言葉です。主はヨシュアに、あなたが踏んだところを、ことごとにあなたに与える、と約束してくださいました。けれども、士師記には敵がイスラエルを痛めつけている記録が残っています。これは、神がヨシュアに約束を守らなかったということでしょうか?あるいは、主は敵を倒す力を持っておられないということでしょうか?いいえ、そうではありません。主はあえて、敵がイスラエルの間にいるようにさせて、イスラエルがヨシュアが主に拠り頼んだのと同じように、彼ら自身も主に拠り頼んでほしいと願われているのです。

 私たちは、霊は新しくされて神によって贖われていますが、肉体はまだ贖われていません。罪のからだをもっており、このからだはアダムから受け継いだ罪の性質を持っています。イエスさまが教会のために戻ってこられるとき、私たちのからだは変えられ、キリストに似た新しいからだが与えられます。けれども、その時まで、私たちは肉の問題と戦わなければいけないのです。けれども、これはある意味で、とてもよいことなのです。なぜなら、私たちは、誘惑を受けるとき、必死になって主に拠り頼みます。イエスさまの名を呼び求めます。神からの知恵を仰ぎます。自分には拠り頼むことができない、イエスさまにより頼もうと考えます。こうすることによって、悪魔は私たちの肉を利用して私たちを貶めようとしますが、実は神さまのことをこの苦しみを通してもっと知っていき、愛の関係をますます強くしていくことができるのです。

 ですから、神はイスラエルにも同じようにしたいと願われたのです。彼らに、ご自分を知ってほしい、個人的な関係を持ってほしいと願われています。そこであえて、彼らを試みられて、彼らが主を求めるようにされたのです。私たちは問題がまったくなく、主との関係がない状態と、問題だけれだけれども、主を追い求める状態とどっちが幸せかといったら、後者でしょう。主からの試みは、神の愛の現われであり、祝福なのです。


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