士師記166節 「強い力の源」

アウトライン

1A ナジル人の力
   1B 献身
   2B 汚れからの分離
   3B サムソンの怪力
2A 境界線の越境
   1B 霊的な境界線
   2B 罪による盲目
5A 越境しなかった人たち

本文

 士師記166節を開いてください。私たちは午後礼拝に13章から16章までを読み、士師記における代表的な士師、サムソンの生涯について学びます。私たちはこれまで一連の士師を見てきて、一つの逆説を見ました。主の御霊に満たされて、主に大いに用いられているにも関わらず、士師自身が周囲の異邦の民の慣わしから影響を受けてしまったことです。ソロモンはその代表的な人物です。彼はイスラエルをペリシテ人から救うのに用いられた士師でした。けれども、最も彼自身の内に問題を持っていて自壊してしまった人であります。166節をお読みください。

そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」

 これはサムソンがペリシテ人を打ち倒していく、その強い力はどこから来るのかを、サムソンの愛人になっていたデリラが問い質している言葉です。

1A ナジル人の力
1B 献身
 私たちは、士師ギデオンの生涯を通して、主から与えられる力が必ずしも数によるのではないことを学びました。135千人いるミデヤン人に対して32千人しかいなかったギデオン軍に対して主は、「数が多すぎる」と言われました。そして主が減らした数はなんと3百人です。けれども、そこで私たちが知ったのは、覚えていますか「贅肉を落とす」という例えです。私たちのうちに恐れがあれば、その恐れのために用意しているものは、かえって主のためのことを行なうには邪魔になります。例えば、私たちが将来のために損害保険に加入するのは悪いことではなく、神から与えられた財をきちんと管理する一つの手段として有益です。けれども、保険の加入を漠然とした不安から行なっていたら、むしろしないほうが良いです。自分が頼りにしているもの、自分で自分を守ろうとしているものを、主はご自分の憐れみの中で取り去られることがあります。

 けれども、取り去られた後の自分というのは、主に明け渡した自分になっています。周りの環境に左右されず、ただ主のみを仰ぎ見ている自分になっています。こうした心の備えができている人が一人でもいたら、主は何百人にまさる働きをその人を通して行なうことができます。

 サムソンの生涯の始めは、そのような献身者の典型でした。132章から5章までを読みます。「さて、ダン人の氏族で、その名をマノアというツォルアの出のひとりの人がいた。彼の妻は不妊の女で、子どもを産んだことがなかった。主の使いがその女に現われて、彼女に言った。「見よ。あなたは不妊の女で、子どもを産まなかったが、あなたはみごもり、男の子を産む。今、気をつけなさい。ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。汚れた物をいっさい食べてはならない。見よ。あなたはみごもっていて、男の子を産もうとしている。その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は胎内にいるときから神へのナジル人であるからだ。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」サムソンはナジル人でした。かつ生まれながらのナジル人でした。

 みなさんは、ナジル人のおきてについて思い出せるでしょうか?イスラエルがシナイ山のふもとにいて、これから約束の地に向かって旅路に出るときに、主が与えられた掟の一つに、ナジル人についての教えがありました。民数記6章です。ナジル人というのは、ある一定の期間、主に捧げられた者として、主に聖別された者として生きます。まず髪の毛を切りません。それから、死体に触れてはいけません。たとえ両親がなくなったとしても、身を汚すことになるので、行なうことはできません。さらに、ぶどうの実から取れたものは摂取してはいけません。ぶどう酒はもちろんのこと、レーズンなどの干したものも駄目です。

 これらのこと自体に何か神の力が隠されているのではなく、むしろ、日常で行なっていることに自制を与えることが目的であります。日常で行なっていることで、罪ではないもの、悪ではないものはたくさんありますが、もしそれらを控えることで、より効果的に主に仕えることができるのであれば、それらをあえて行なわないという自由があります。その自由を享受している状態が、主に聖別された者の特徴です。

 パウロは、コリント第一612節でこう言いました。「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。」キリスト者の生活は、「何かをしてはいけない。これはしてよい。」という規則の中に生きている存在ではありません。「これこれのことをしないから、私はクリスチャンらしく生きている。」というものはないのです。そうではなく、その価値観、あるいは倫理観が変わりました。主との愛の関係の中で益になっているのかどうか。他の人との関係の中で益になっているかどうか、という愛の関係に変わっています。そして、あることを行なったら、そのことで自分が不自由になっていくのであれば、それを避けるべきです。キリスト者の大きな特徴の一つは「自由」です。自分に与えられている自由をあることを行なうことによって制限されていくのであれば、避けていくべきです。

 ちょうどこれは、スポーツ選手のようなものでしょう。実際に新約聖書には、競走選手の例えがたくさん出て来ます。競走をするときに、長距離でも短距離でも、長靴を履いて出てくる人はいません。それを履いたからといって、規則違反にはならないでしょう。けれども、賞を得るには妨げになります。今はオリンピックの時期ですから、選手がいつもは行なっていることを控えている話がたくさん出てきていると思います。焼肉が好きだけれども、その間に腹を壊したくないから期間中は我慢している、という話もありました。

 私たちキリスト者は、聖書の中で、特に新約聖書において教会に与えられた手紙の中で、これこれを行い続けたら神の国を受け継ぐことはできないと明言されている行ないがあります。それらは無条件に避けなければいけません。不品行、偶像礼拝、姦淫、男色、盗み、貪り、酩酊、中傷などです。けれども、そうしたものに当てはまらないものについては、私たちは神を愛していくがゆえに、またキリストにあって他の人を愛していくがゆえに、あえて行なわないことがあります。それは再び戻ってこられるイエス様から大いなる報いを受ける、愛のゆえの行ない、信仰によって行なったこと純化させていくためです。

2B 汚れからの分離
 具体的に、ナジル人が避けていること、ぶどうから出るものを避けることと、死体に触れないということは、象徴的なことです。ぶどうから出るものを避けるのは、自分に対する刺激物を避けることに通じます。強い酒、つまりアルコール度数の強い酒を飲むことによって、いつもはしないことを平気でするようになる姿を箴言は描いています。箴言2329節から、強い酒に対する戒めがあります。「わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。ゆえなく傷を受ける者はだれか。血走った目をしている者はだれか。ぶどう酒を飲みふける者、混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。ぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。あとでは、これが蛇のようにかみつき、まむしのように刺す。あなたの目は、異様な物を見、あなたの心は、ねじれごとをしゃべり、海の真中で寝ている人のように、帆柱のてっぺんで寝ている人のようになる。「私はなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。」(29-35節)」私の妻は、ある時に泥酔した男から殴られたことがありますが、おそらく本人は何も気づいていないことでしょう。酒の文化の中では許されるという甘えは、神の前では通用しません。

 ですから新約聖書では、「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。(エペソ5:18-19」お酒を飲むときに求めている、一種の開放感や高揚感は、実は神の御霊によって与えられます。しかも、そのような争いや嘆きや傷が増えるのではなく、むしろ喜びや愛、平安や親切が増えます。それから、賛美を共に捧げることによっても、同じ効果が与えられます。

 そして死体に触れないことは、罪や汚れに触れないことを表しています。罪から来る報酬は死であると聖書には書いてあります。そして死体には腐乱が起こり、触れないほうがよくなるように、汚れも同じです。このことと、ナジル人として生きるのには密接な関係があります。主にあって働きをするときに、自分自身が汚れから離れた生活をしているかどうかは非常に大切なことです。パウロは、器の例えを使ってこう説明しています。「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。(2テモテ2:20-21」そうですね、ごみ箱に使われる器もあれば、応接室の飾りとして使われる器もあります。そこで卑しいことに使われる器として、次の節に「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(23節)」とあります。情欲を燃やすことが、卑しいことに用いられる器となるのだ、ということです。

 私たちは、どのような人を自分が尊敬する指導者として持ちたいでしょうか?説教はすばらしく恵みに富んでいて、それで多くの人をひきつけるカリスマもあります。一人ひとりに気遣いができて、能力を持っている牧師が一方でいます。もう一方では、説教は正しいことを言っているけれども、聞きほれることはありません。魅力がありません。どうしてもその人の欠点が見えてしまいます。けれども、確かにこの人はキリストと共に歩んでいる、と認めることができます。けれども、前者の能力のある牧師には大きな問題がありました。金銭問題と女性問題があります。後者は、そのような非難されるところはありません。一人の妻を愛して、子どもをきちんと育てています。もちろん後者を神は尊く用いられるのです。けれどもとかく私たちは、外見によって主に用いられているかどうかを判断しています。主の力はどこから出ているのか、いや、主の力とはいったい何なのかを、慎重に吟味する必要があるでしょう。

3B サムソンの怪力
 そして、母が主の使いから受けた、サムソンが生まれながらのナジル人だという言葉によって、彼の生涯は主の御霊に満たされたものでした。彼はペリシテ人に対して戦うときに、とんでもない怪力を持っていました。ことごとく彼らを殺し、たった一人で千人を倒したこともあります。つまり、彼の力の源泉は、自分自身になったのではなく、主の御霊が臨まれたことがあり、そしてその主の御霊は、彼が主だけの聖別されたナジル人にあったということです。

 箴言ではそれを「いのちの泉」と呼んでいます。どこから、私たちを生かす力が出てきているのか、それは私たちの心にあり、また内側にあることを教えています。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。(箴言4:23」心がいのちの泉だと言っています。ですから、心がもっぱら主に向いていることによって、私たちの力では決してできない大いなる神の御業が、心に働かれる聖霊の働きによって、信仰を通して現れるのです。

2A 境界線の越境
1B 霊的な境界線
 ところがサムソンは、その泉を外に撒き散らすようなことを行ないました。サムソンはダン族の人ですが、ダン族の割り当て地にはたくさんのペリシテ人が住んでいました。彼は、ひっきりなしにペリシテ人の中に入って、そしてかわいい女の子を探していたのです。そして、彼はいつも女性との付き合いの中で生きていました。

 それにも関わらず、主は彼を用いられました。むしろ、サムソンがペリシテの女に魅かれていたことによって、数多くのペリシテ人がサムソンによって打ち負かされました。しかし、私たちは一時期、主によって用いられていることによって、その罪を是認することは決してできません。神は、女に惹かれるサムソンをよしとは思っておられませんでしたが、それにも関わらず用いられたのは、イスラエルをペリシテ人の手から救いたいと願われていることです。今日も、数多くの伝道者や説教者、また賛美音楽をする人が、その人を通して数多くの人が救われます。本人は、その後、罪の生活の中に生き、そのまま死んでいったり、または信仰を離れています。ならば、その人を通しての働きが偽物だったのかというと、そうではありません。

 けれども、主の御霊に満たされて、主に用いられることはいつまでも続きませんでした。デリラという女の手によって、彼はついに自分の力の源泉を話し、彼が眠っている間にデリラはサムソンの髪の毛を切ってしまったのです。サムソンは、いつものようにペリシテ人をやっつけてやろうと思いましたが、彼は普通の人のようになっているのに気づきませんでした。もっとも悲しい聖書箇所の一つが次です。1620節にあります、「彼は主が自分から離れたことを知らなかった。」自分が知らないうちに、主が自分から離れているのです。

 私たちには、霊的に境界線があります。イスラエルの各部族がカナン人などと隣り合わせに暮らしており、主が彼らを追い出しなさいと命じられたのは、彼らと隣り合わせて生きていれば、必ずカナン人の娘を娶るようになり、またカナン人の男がイスラエルの女と結婚するようになるからだ、ということでした。人はそんなに強くないのです。その弱さを知っておられる主が、カナン人との共存はできないことを知っておられました。

 けれども、サムソンは平気でその境界線を越えました。戦うためではなく、共に生活するためです。ペリシテ人の女を愛したのです。私たちがもし同じように、不信者のものを愛していくのであれば、境界線を越えることになります。敵陣の中に戦う以外の理由で入っていくことになります。パウロはこのことを警告しました。「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。(2コリント6:14-15

 箴言には見知らぬ女についての警告がたくさんあります。7章には、思慮にかけた若者が、見知らぬ女の家の中に入っていく様子を観察しているソロモンの記述があります。女は彼をくどき、へつらいの唇を使っています。ソロモンは、彼のことを「ほふり場へ引かれる牛のように、愚か者を懲らしめるための足かせのように、ただちに女につき従」った、と言っています(22節)。そして、彼女については、「彼女の家はよみへの道、死の部屋に下って行く。(27節)」としめくくっています。

 神を恐れる女には、自分の性は神から与えられたものであるという知識があります。そして、それを将来、自分の夫になる人のために与えられた神からの賜物であることを知っています。ゆえにそれを結婚するときまで貞潔を守ることを知っています。夫との結びつきによって、初めて神の立てられた結婚の奥義を知ることができることを知っています。もちろん男も同じです。箴言は心を「いのちの泉」と言いましたが、自分の性についても泉として表現しています。「あなたの泉を外に散らし、通りを水路にしてよいものか。それを自分だけのものにせよ。あなたのところにいる他国人のものにするな。あなたの泉を祝福されたものとし、あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。(箴言5:16-18)」

 私たちの世界は、唯物論に侵されています。唯物論というのは、すべてのものが物質によって成り立っている、精神と言われているものも体内の化学物質の動きや神経の働きの物質的なものによる、という考えです。したがって、性病のような伝染病を気をつけさえすれば、自分の体の性について何を行っても構わない、と思っています。けれども、違うのです。心がいのちの泉であるように、私たちの性も泉です。自分の体に対して行なうことは、心、精神、そして霊にまで密接に結びついています。これを守ることが、霊的な命と力の源泉なのです。これが私たちに与えられている境界線であり、これを守っているところにいのちの源泉があります。

 けれども、こういう反論をする人がいるかもしれません。「けれども境界線を越えなければ、私たちは福音を届けるべき人に届かないではないか。」その通りです、私たちキリスト者はあらゆる人に福音を宣べ伝える必要があります。けれども、そこで大事なのはイエス様がどのように福音を伝えられたか、であります。イエス様の周りには罪人がたくさんいました。罪人と食事をしたということで、パリサイ人から非難されてもいます。そしてイエス様は、「医者に必要なのは病人だ。」と言われました。そして、ご自分は正しい人を招くためではなく、罪人が悔い改めるように招くことだ、と言われました(マタイ9:13参照)。イエス様が罪人を悔い改めるように影響力を与えられたのであって、その逆ではなかったのです。

 イエス様には命の泉がありました。父なる神との永遠の昔からの交わりという泉がありました。ゆえに、ご自身が神であるにも関わらず人となって、この罪ある世界に入ってきてくださいました。決して父なる神との交わりを絶やすことはなかったのです。その中で人々に接しておられました。

 イエス様を信じたばかりの人は、自分の周りに不信者の人たちがたくさんいることに気づきます。そして、イエス様を信じたので、福音を伝えなければいけないと思います。自分が救われたのだから、それには意味があって他の人も救わなければいけないとまで思います。けれども、多くの人が経験します。自分がクリスチャンになったことを伝えれば、これまで仲が良かったはずの友達、恋人、家族が突然態度を変えることを経験します。ある伝道師は、麻薬をやっている友人に自分がクリスチャンになったことを伝えました。すると、一気に友人を失いました。彼は、イエス様に見出されたことの喜びがあるのだから、これはちょっとした犠牲だと思いました。「いのちの泉」を彼は守ったのです。

 けれども、自分が罪を犯していた張本人であるにも関わらず、その罪から離れることを第一とせず、周りの人々にイエス様を伝えようとする過ちを人は犯します。そうすると、サムソンと同じになるのです。いのちの泉が守られていないのに世の人を変えようとすると、その泉を撒き散らすことになり、自分の心は涸れていってしまうのです。

2B 罪による盲目
 サムソンは何千人ものペリシテ人をたった一人で戦うことができたにも関わらず、たった一人の女のくどきによって倒れていきます。繰り返しです、「あなたの秘密は何ですか?」とくどかれて、そのままを話してしまう姿をサムソンに見ます。デリラの時は、「どうすれば、あなたを苦しめることができるのか?」とはっきりと話しているのに、気づいていないのです。

 サムソンはデリラから離れようとしません。そして、くどかれてその話を聞くという縛りの中に彼はとどまっています。こうやって自分は女と楽しい時間を過ごしてきたのだから、今回も大丈夫だ、と思っていたのでしょうか?私たちは、自分の心、自分の性、自分に与えられている神からの賜物を無駄にすると、次に訪れるのは盲目なのです。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12」自分自身はまっすぐであると思っているのです。けれども、崖っぷちにいることを神のみならず周囲の人々が見ても明らかなのに、本人だけは気づかないことがあります。

 そして最後は、奴隷状態でした。サムソンは、目が抉り取られ、ひき臼を一日中いつまでもいつまでもひいていったのです。境界線を越えて目が見えなくなるだけでなく、最後は罪と欲望の奴隷となっていきていくしかありません。

 もちろん、ここから福音が始まります。イエス様が言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。(ヨハネ8:31-32」またこうも言われました。「もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由なのです。(36節)」真摯な悔い改めと、へりくだり、そしてイエス様の御言葉による訓練を受けていくことを心に決めるのであれば、福音が必ず自分を試練から救い出してくださいます。

5A 越境しなかった人たち
 けれども、願わくはそうならないで、自分が境界線に留まることを知らなければいけません。聖書の中には、異邦人の地にいながらにして、神を恐れて境界線から出て行かなかった人たちが聖書には出て来ます。ヨセフとダニエルです。二人はとても似たところを通っています。まったく異教的な国にいました。けれども、そこで神を恐れていました。そして異教的な国の王に認められ、高い地位にいました。

 ヨセフは、十七歳という若さであり、その体格は美しいと聖書には書いてあります。そこに自分の主人の妻が言い寄ってきました。自分と寝ておくれと言ったのです。彼は、主人にもそして、神にも罪を犯すことはできないといって、その場を離れ、逃げました。妻は、夫が戻ってくると自分が言い寄ったのではなく、むしろヨセフが自分を辱めようとしたと言いました。それで監獄に入ったのです。けれどもその数年間が非常に重要な期間であり、彼はエジプトのパロと対面し、その結果、パロの右腕、エジプトの総理大臣となったのです。パロは、「神の霊がこの人には宿っている。」と言ったのです。いのちの泉を守った人です。

 ダニエルも同じく若い時に試練を受けました。バビロンに捕え移されて、バビロンの文学など、あらゆる教育を受け、名前まで改変させられました。異教的な価値観や文化の中にどっぷりいたのです。それにも関わらず、王のごちそうの中に、ユダヤ人にとっては汚れているとみなされるものについてそれを食べることはできないと、世話役に申し出たのです。これはものすごい勇気が要ります。もしかしたら殺されるかもしれません。世話役は自分自身が殺されるかもしれないと思っていましたが、ダニエルは「十日間ためしてください。」と言いました。野菜だけ食べてそれで顔色を見てください、と言ったのです。野菜だけ食べて、他の少年たちよりも顔色がよく、肥えていました。

 私たちも、キリスト者としてのナジル人の誓いを守りましょう。信者と不信者との交わりをしてはいけないとパウロが命じた後で、彼はこうも勧めを与えています。「愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(2コリント7:1

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME