士師記17−21章 「カナン化した主の民」

アウトライン

1A ミカの私用礼拝 17−18
   1B 偶像礼拝と祭司 17
   2B ダンの北方移住 18
      1C 偵察 1−10
      2C 侵略 11−31
2A 対ベニヤミン内戦 19−21
   1B ギブア陵辱事件 19
      1C 側めの取戻し 1−14
      2C 十二部分の送付 15−30
   2B 仲間への聖戦 20
      1C ミツパの集合 1−16
      2C 三度目の勝利 17−48
   3B 嫁狩り 21

本文

 士師記17章を開いてください。私たちは17章から21章までに、士師記における「後書き」を学びます。士師の活躍について私たちはこれまで見てきました、その間に起こっていた典型的な出来事を著者は取り上げて、その時の霊的状態を描写しています。特徴的なのは二つのことです。それは、「主に属する民」が「カナン化」したということです。イスラエルは、イスラエルの神、ヤハウェの名を使い続けます。そして、律法の一部を覚えており、また父や祖父が戦った戦いも知っています。ですから、主に属する民のように表面的には振る舞っています。けれども、実際は周囲にいるカナン人のように生きています。

 これはまさに、「世的なクリスチャン」と言えるかもしれません。「クリスチャン」という定義には、世から分離しているという意味があるのですが、キリストの名を使いながら、クリスチャンらしく振る舞いながら、実は世の人と変わりない生活をしている時に使えるかもしれない言葉です。

1A ミカの私用礼拝 17−18
1B 偶像礼拝と祭司 17
17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳にはいりました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「主が私の息子を祝福されますように。」17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して主にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。

 ここの箇所を読んだだけで、何がなんだか訳が分からなくなったと思います。ミカが盗みを働きました。母が呪いました。けれども、その呪いを受けたくなかったので自分が盗んだことを自白しました。そうすると母が祝福します。そして何と、ヤハウェの御名によってその銀で偶像を造ります。さらにミカは、自分のための神の宮を持っています。そして勝手に、自分の息子を祭司に立てて、エポデを作っています。それだけでなくテラフィムも持っています。これもまた偶像です。

 そして祭司は、アロンの家系でなければならず、そして神を礼拝するところは、定められたところでなければいけないということでした。けれどもミカは、自分のための宮、自分のための祭司を持っていました。自分の母が銀千百枚を持っていたことから、裕福であったに違いありません。そして極めつけは、そこが「エフライムの山地」であったということです。神の幕屋のあったのはシロでエフライムにありましたから、ミカはそこで礼拝しにいこうと思えばできたのに、むしろ自分のために宮を設けたのです。

 ミカが行なっているのは、今の教会時代の私たちに分かり易く表現するならば、「私的な教会」です。教会は私的であってはいけません、必ず公的でなければいけません。キリストを信じる者たちが集まり、キリストについての信仰告白を公にします。そして、教会の指導者が建てられ、信者は互いへの奉仕によってキリストの体を形成します。けれども、私的な教会は自分の信仰について、公にすることを拒みます。公にすると責任が伴っているからです。だからその神はもはや生けるキリストではなく、自分の願望を満たしてくれる偶像になっています。そして祭司も自分に都合で選んでいるのは、同じく自分の願望を主の名によって認めてもらうための存在になっています。

17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。17:13 そこで、ミカは言った。「私は主が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

 ミカが、レビ人の祭司を得たことを主の名によって喜んでいますが、それは単なる宗教的な装いをしたステータス(特権)に過ぎず、極めて世的であります。今の言葉で直すなら、有名な神学校を出てそこで按手を受けた牧師を招聘できた、と喜んでいるのと同じです。

 このレビ人について詳しく見てみますと、「ユダのベツレヘムの出」とありますが、ユダ族の人ではありません。もちろんレビ族です。レビ族の人たちは、イスラエルに割り当て地は与えられておらず、住む町と周囲の放牧地のみでした。ですから、ベツレヘムがその町になっていたかと言いますと、レビ人の町にはなっていません。実は彼の素性は18章の終わりに明らかにされます。「モーセの子ゲルショムの子ヨナタン(30節)」とあります。モーセはイテロの娘チッポラとの間にゲルショムを生みましたがその子孫がヨナタンで、このレビ人の名です。モーセ自身は、レビの子ケハテの子孫であり、ケハテ族に属しています。そしてケハテ族は、エフライム、ダン、マナセ半部族にある町々をあてがわれています。したがって、ユダのベツレヘムに滞在しているというのは、おかしいのです。もしかしたら、彼はベツレヘムから追い出されるようにして出て行った可能性もあります。

 彼は、祭司の務めをミカの申し出に快諾したところから見ると、律法を度外視して独りで勝手に動いている自称奉仕者と言うことができます。自分の願望を果たすことのできる祭司を求めていてミカも問題ですが、かなり豊かに安定した給与を受け取れるということで祭司の務めを引き受けたこの男も大きな問題です。今の教会の世界に当てはめるなら、「職業牧師」と言ったらよいでしょうか。神からの召し、神に仕える心からの牧会ではなく、生活の保証を求めて牧師になる人々です。

2B ダンの北方移住 18
1C 偵察 1−10
18:1 そのころ、イスラエルには王がなかった。そのころ、ダン人の部族は、自分たちの住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。

 再び、「イスラエルには王がなかった」という注釈があります。ここでは、ダン族が自分の割り当て地において先住民であるエモリ人を追い出すことができなかったけれども(士師1:34-36)、彼らを追い出す戦う力がなかったことを意味しています。神を王としていなかったこと、そして神をあがめる王がイスラエルに与えられていなかったので戦うことができなかった、ということです。

18:2 そこで、ダン族は、彼らの諸氏族全体のうちから五人の者、ツォルアとエシュタオルからの勇士たちを派遣して、土地を偵察し、調べることにした。それで、彼らに言った。「行って、あの地を調べなさい。」彼らはエフライムの山地のミカの家に行って、そこで一夜を明かした。18:3 彼らはミカの家のそばに来、あのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、そこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」18:4 その若者は彼らに言った。「ミカが、かくかくのことを私にしてくれて、私を雇い、私は彼の祭司になったのです。」18:5 彼らはその若者に言った。「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」18:6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」

 かつてイスラエルの民が、カデシュ・バルネアから十二人を偵察に派遣したのと同じように、ダン族は土地の偵察のために五人を遣わしています。ミカの家に五人は泊まりました。昔は旅人をもてなす、目に見えない掟、慣習がありました。そこに、レビ人の若者がここにいることに気づきました。「あのレビ人の若者の声」とありますから、このレビ人はダン族の割り当て地にも巡回したことがあるようです。ここからも、このレビ人は自称祭司として巡回していたことが分かります。

 そして、ダンの五人に対して、主がこの旅を認めておられると保証しています。いいえ、主は認めておられません。なぜなら、主の願われているのはそのエブス人を追い払うことであり、他に土地を求めることではないからです。彼はケハテ族でアロン直系ではないですから、資格がないというのが元々の問題ですが、祭司であったとしても、その務めは律法を教えることです。人々のしていることを神の名によって認可することではないのです。このように、人々の願望を宗教的な装いをして認めていくということは極めて容易であり、そして誘惑です。

18:7 五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見ると、彼らは安らかに住んでおり、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきっていた。この地には足りないものは何もなく、押えつける者もなかった。彼らはシドン人から遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかった。18:8 五人の者がツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来たとき、身内の者たちは彼らに、どうだったかと尋ねた。18:9 そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。18:10 あなたがたが行くときは、安心しきっている民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。その場所には、地にあるもので足りないものは何もない。」

 「ライシュ」は、ガリラヤ湖に入っていくヨルダン川の上流地域にあります。ヘルモン山のふもとにあり、そこの雪水による豊かな水源があります。そのすぐ西には、ペテロがイエス様を生ける神の御子キリストであると告白した、ピリポ・カイザリヤがあります。そこに住んでいたカナン人は、海岸の町シドンから離れており、軍事同盟を結んで戦う用意もできていません。土地も豊かで人間的には極めて適しています。彼らは、それを「神が手渡してくださった」と言っていますが、状況が良いということが必ずしも神の御心であるということではありません。

2C 侵略 11−31
18:11 そこで、ダン人の氏族の者六百人は武具を身に着けて、そこ、ツォルアとエシュタオルから旅立ち、18:12 上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それで、その所はマハネ・ダンと呼ばれた。今日もそうである。それはキルヤテ・エアリムの西にある。18:13 彼らはさらにそこからエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。

 ライシュを占領するために六百人の者が北上します。再びミカの家に行きました。

18:14 そのとき、あのライシュの地を偵察に行った五人の者は、その身内の者たちに告げて言った。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今あなたがたは何をなすべきかを知りなさい。」18:15 そこで、彼らは、そちらのほうに行き、あのレビ人の若者の家ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。18:16 武具を身に着けた六百人のダンの人々は、門の入口のところに立っていた。18:17 あの地を偵察に行った五人の者は上って行き、そこにはいり、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は武具を身に着けた六百人の者と、門の入口のところに立っていた。18:18 五人の者がミカの家にはいり、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。そのとき祭司は彼らに言った。「あなたがたは何をしているのか。」18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていてください。あなたの手を口に当てて、私たちといっしょに来て、私たちのために父となり、また祭司となってください。あなたはひとりの家の祭司になるのと、イスラエルで部族または氏族の祭司になるのと、どちらがよいですか。」18:20 祭司の心ははずんだ。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中にはいって行った。18:21 そこで、彼らは子どもや家畜や貴重品を先にして引き返して行った。

 分かりますか、ダン族は「神」という言葉を使っていたけれども、ミカの家にあった偶像に心をひかれていたのです。これが自分たちのお守りになると思っていたのです。そして、何とそれを略奪してしまいました。さらに、祭司をもミカから奪い取りました。けれども祭司自身の心も、主のそれとは遠く離れています。ミカの家にいるときはお金に引き寄せられましたが、今度は栄誉に引き寄せられました。部族や氏族の祭司になることができる、という言葉に魅かれたのです。

 そして「子どもや家畜や貴重品を先にして」とありますが、すでに移住を前提にこの戦いに臨んでいるようです。

18:22 彼らがミカの家からかなり離れると、ミカは家の近くの家にいた人々を集め、ダン族に追いついた。18:23 彼らがダン族に呼びかけたとき、彼らは振り向いて、ミカに言った。「あなたは、どうしたのだ。人を集めたりして。」18:24 すると、ミカは言った。「あなたがたは私の造った神々と、それに祭司とを取って行った。私のところには何が残っていますか。私に向かって『どうしたのだ。』と言うのは、いったい何事です。」18:25 そこで、ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにせよ。でなければ、気の荒い連中があなたがたに撃ちかかろう。あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失おう。」18:26 こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて、自分の家に帰った。

 ミカは、取られていく神々を持っていました。私たちも、目に見える何かを求めて、より頼んでいくとそれらが取られていく経験をします。そしてなんと空しいことに、神々と祭司のことで力による争奪が起こっています。宗教と言われているものの中でしばしば起こっていることです。

18:27 彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。18:28 その町はシドンから遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかったので、救い出す者がいなかった。その町はベテ・レホブの近くの谷にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。18:29 そして、彼らはイスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。その町のもとの名はライシュであった。

 聖書地図で十二部族の割り当て地の地図を見ますと、ダン族はナフタリとマナセ半部族の間、北の境に割り当て地があることに気づかれると思います。この時以来、全イスラエルを指すときに「ダンからベエル・シェバまで」という表現が使われるようになりました。ベエル・シェバはネゲブ砂漠の入口の町です。

18:30 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、国の捕囚の日まで、ダン部族の祭司であった。18:31 こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。

 いかがですか、これがダンの移住が神の御心に拠らないものであるかの、決定的証拠です。偵察に行き、とても良い土地でした。祭司が、主がそれを認めてくれると言いました。そして、祭司まで新しく与えられました。それぞれが、あたかもイスラエルの民らしい動きをしています。けれども結果が偶像なのです。信仰的、霊的な装いをしていることは確かですが、中身は肉的なのです。

 彼らは悪い意味で守られていました。最北端にいますから、他のイスラエル部族の干渉も少なかったです。後に、ソロモンの死後ユダの王レハブアムから離れて十部族が、ヤロブアムの下で新しくイスラエルの国を始める時に、ヤロブアムはベテルとダンに金の子牛を造りました。そして、アロン直系とは異なる祭司を立てました。そして紀元前722年かそれより前のアッシリヤ捕囚によって捕え移されるまで続きました。

 そして、ミカの作った彫像は「神の宮がシロにあった間中」そこにあったとあります。これは、サムエル記第一に出てくる出来事、ペリシテ人に神の箱を奪い取られる時までのことです。ダンは、ある意味で確信犯だと言って良いでしょう。エフライムのシロにある神の宮とは、私たちは異なる礼拝をしているのだという、分離主義的な考えがあったのかもしれません。教会には肉の行ないとして、不品行や偶像礼拝、酩酊だけではなく、争いやそねみ、党派心などがあることを思い出してください(ガラテヤ5:20)。

2A 対ベニヤミン内戦 19−21
1B ギブア陵辱事件 19
1C 側めの取戻し 1−14
19:1 イスラエルに王がなかった時代のこと、ひとりのレビ人が、エフライムの山地の奥に滞在していた。この人は、そばめとして、ユダのベツレヘムからひとりの女をめとった。

 再び、「イスラエルに王がなかった時代」とあります。レビ人がおり、エフライムの山地の奥に滞在していた、とあります。むろん、シロにある神の天幕に関わる務めを行なっていたのでしょう。また、側めはユダのベツレヘムから娶っています。しかし、17-18章の出来事と場所や登場人物が似ていますが、異なる話です。実は、時代的には17-18章よりも早く、後にアロンの孫ピネハスが登場します。ですから、ヨシュアの死後間もなくして起こった出来事であります。

19:2 ところが、そのそばめは彼をきらって、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの自分の父の家に行き、そこに四か月の間いた。19:3 そこで、彼女の夫は、ねんごろに話をして彼女を引き戻すために、若い者と一くびきのろばを連れ、彼女のあとを追って出かけた。彼女が夫を自分の父の家に連れてはいったとき、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。19:4 娘の父であるしゅうとが引き止めたので、彼は、しゅうとといっしょに三日間とどまった。こうして、彼らは食べたり飲んだりして、夜を過ごした。19:5 四日目になって朝早く、彼は出かけようとして立ち上がった。すると、娘の父は婿に言った。「少し食事をして元気をつけ、そのあとで出かけなさい。」19:6 それで、彼らふたりは、すわって共に食べたり飲んだりした。娘の父はその人に言った。「どうぞ、もう一晩泊まることにして、楽しみなさい。」19:7 その人が出かけようとして立ち上がると、しゅうとが彼にしきりに勧めたので、彼はまたそこに泊まって一夜を明かした。

 中東の慣習、いや東洋にもある慣習は、客をもてなすというものがありますね。情に篤いですから、いつまでもいつまでもいっしょにいてくれることを望みます。

19:8 五日目の朝早く、彼が出かけようとすると、娘の父は言った。「どうぞ、元気をつけて、日が傾くまで、ゆっくりしていなさい。」そこで、彼らふたりは食事をした。19:9 それから、その人が自分のそばめと、若い者を連れて、出かけようとすると、娘の父であるしゅうとは彼に言った。「ご覧なさい。もう日が暮れかかっています。どうぞ、もう一晩お泊まりなさい。もう日も傾いています。ここに泊まって、楽しみなさい。あすの朝早く旅立って、家に帰ればいいでしょう。」19:10 その人は泊まりたくなかったので、立ち上がって出て行き、エブスすなわちエルサレムの向かい側にやって来た。鞍をつけた一くびきのろばと彼のそばめとが、いっしょだった。

 悲劇の始まりは、五日目から始まりました。いつまでも父親が引き止めようとするので、ついに夕方になってしまいました。けれども、このレビ人は無理やり帰ることに決めたのです。それで、ベツレヘムからさほど遠くないエルサレムまで来たのですが、そこは当時エブス人が住んでいました。覚えていますね、ベニヤミンが彼らを追い出せなかったという記述が士師記の初めにあります。

19:11 彼らがエブスの近くに来たとき、日は非常に低くなっていた。それで、若い者は主人に言った。「さあ、このエブス人の町に寄り道して、そこで一夜を明かしましょう。」19:12 すると、彼の主人は言った。「私たちは、イスラエル人ではない外国人の町には立ち寄らない。さあ、ギブアまで進もう。」19:13 それから、彼は若い者に言った。「さあ、ギブアかラマのどちらかの地に着いて、そこで一夜を明かそう。」19:14 こうして、彼らは進んで行った。彼らがベニヤミンに属するギブアの近くに来たとき、日は沈んだ。

 レビ人らしい発言です。外国人とは交わってはならない、というのは正しいことです。このことによって、イスラエル人はカナン人の神々を自分たちが取り組むようになり、堕落する原因になるからです。ところが、さらに北上するとベニヤミン領のギブアがありますが、そこはエブス人と同じぐらい、いやそれ以上、危険なところとなっていました。

2C 十二部分の送付 15−30
19:15 彼らはギブアに行って泊まろうとして、そこに立ち寄り、町にはいって行って、広場にすわった。だれも彼らを迎えて家に泊めてくれる者がいなかったからである。19:16 そこへ、夕暮れになって野ら仕事から帰ったひとりの老人がやって来た。この人はエフライムの山地の人で、ギブアに滞在していた。この土地の者たちはベニヤミン族であった。19:17 目を上げて、町の広場にいる旅人を見たとき、この老人は、「どちらへおいでですか。どちらからおいでになったのですか。」と尋ねた。19:18 そこで、その人は彼に言った。「私たちは、ユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥まで旅を続けているのです。私はその奥地の者です。ユダのベツレヘムまで行って来ました。今、主の宮へ帰る途中ですが、だれも私を家に迎えてくれる者がありません。19:19 私たちのろばのためには、わらも飼葉もあり、また、私と、妻と、私たちといっしょにいる若い者とのためにはパンも酒もあります。足りないものは何もありません。」19:20 すると、この老人は言った。「安心なさい。ただ、足りないものはみな、私に任せて。ただ広場では夜を過ごさないでください。」19:21 こうして彼は、この人を自分の家に連れて行き、ろばに、まぐさをやった。彼らは足を洗って、食べたり飲んだりした。

 15節の、広場にいても誰も泊めてくれるものがいなかった、というのは極めて異様な光景です。当時の社会は、旅人がいればその人をもてなすことは絶対です。ところが誰もいません。私たちの周りに困っている人、旅人のような人がいる時にだれも助けの手を差し伸ばさない状況が出来ていたとしたら、私たちの霊的状態を再度吟味する必要があります。けれども、状況はもっと深刻でした。エフライムから来て、たまたまギブアに滞在している老人は、とにかくこの広場にはいないでほしいと彼に言っています。それは、危険だからです。次に見る出来事は、まさに二人の御使いがソドムの町に来た時に、ロトの家で起こったこととそっくりです。

19:22 彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸をたたき続けた。そして彼らは、その家の主人である老人に言った。「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」19:23 そこで、家の主人であるその人は彼らのところに出て行って言った。「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。この人が私の家にはいって後に、そんな恥ずべきことはしないでくれ。19:24 ここに処女の私の娘と、あの人のそばめがいる。今、ふたりを連れ出すから、彼らをはずかしめて、あなたがたの好きなようにしなさい。あの人には、そのような恥ずべきことはしないでくれ。」

 なんと、ベニヤミンの中に、ソドムの罪がそのままありました。同性愛のみならず、集団レイプをしようとしていたのです。そして、ソドムに住んでいたロトと同じく、旅人をもてなすという強い考えは、極端になっていました。その旅人を守るため、未婚の娘と側めを彼らに引き出そうとしているのです。集団強姦魔も悪いですが、その悪党どもに自分の娘や側めを与えるというところに、いかに異教的な慣わしが忌まわしいものであったかを見ることができます。多くの人が、ヨシュアの時代にイスラエルがカナン人を滅ぼしていったことを責めます。神がなぜそのような酷いことをするのか?と非難するのですが、むしろ神は忍耐深くしておられたことを知るのです。

 そして、主の民であるはずの人々が、この世の悪い者たちと全く同じようなことをしているというスキャンダルが現実に存在することを知らなければいけません。ペテロが第一の手紙で、「あなたがたのうちのだれも、人殺し、盗人、悪を行なう者、みだりに他人に干渉する者として苦しみを受けるようなことがあってはなりません。(1ペテロ4:15」という勧めをしています。ということは、キリスト者であっても殺人や盗み、その他の悪を行なう可能性があることを暗示しています。

19:25 しかし、人々は彼に聞こうとしなかった。そこで、その人は自分のそばめをつかんで、外の彼らのところへ出した。すると、彼らは彼女を犯して、夜通し、朝まで暴行を加え、夜が明けかかるころ彼女を放した。19:26 夜明け前に、その女は自分の主人のいるその人の家の戸口に来て倒れ、明るくなるまでそこにいた。19:27 その女の主人は、朝になって起き、家の戸を開いて、旅に出ようとして外に出た。見ると、そこに自分のそばめであるその女が、手を敷居にかけて、家の入口に倒れていた。19:28 それで、彼はその女に、「立ちなさい。行こう。」と言ったが、何の返事もなかった。それで、その人は彼女をろばに乗せ、立って自分の所へ向かって行った。19:29 彼は自分の家に着くと、刀を取り、自分のそばめをつかんで、その死体を十二の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送った。19:30 それを見た者はみな言った。「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。」

 いかがですか、私はこのレビ人の考えていることが、さっぱり分かりません。暴徒の中に彼女を投げ入れたのは、このレビ人本人です。そして、当時の慣習ということを勘案し、百歩譲って身の危険から守るために行なったとするならば、どうして騒ぎの音が収まったことを見計らって彼女を捜しにいかないのでしょうか?さらに、側めは明るくなるまでそこにいたとありますが、もしもっと早く外に出ていたら彼女は死ななかったでしょう。そして、倒れている彼女に「立ちなさい。行こう。」と何事もなかったかのように語りかけています。ところが、彼女が死んだことに対して激憤して、その体を十二の部分に分けて各イスラエルに送っているのです。(レビ人ですから、もしかしたらいけにえを部分に切り分けることを過去に行なっていたかもしれません。)

 なんと言ったら良いでしょうか、彼は究極のショービニストです。つまり、女への労りがこれっぽっちょもない、だからといって妻がいなくてはやっていけない男の典型です。ペテロは夫に対してこう言いました。「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。(1ペテロ3:7」共に生活する、つまりその弱さをわきまえて共に歩んでいくことです。

 けれども、そのような彼であっても、ベニヤミンのやったことについて、あまりにも破廉恥であることは分かっていました。「エジプトの力上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。」と言っています。一方ではイスラエルの歴史を知るレビ人として正常な感覚を持っていますが、他方ではこのように異教の価値観の中にいたのです。

2B 仲間への聖戦 20
1C ミツパの集合 1−16
20:1 そこで、ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に至るイスラエル人はみな、出て来て、その会衆は、こぞってミツパの主のところに集まった。20:2 イスラエルの全部族、民全体のかしらたち、四十万の剣を使う歩兵が神の民の集まりに出た。

 先ほど話したように、ダンからベエル・シェバ、そしてヨルダン川の東ギルアデにいるイスラエル人が一つになって集まってきました。ここの「集まる」という単語は、主の前の会合の時に使われるものです。彼らは、この戦いを聖戦であると位置づけていました。「ミツパ」は、ベニヤミン領のエフライムとの北境にある町です。

20:3 ・・ベニヤミン族は、イスラエル人がミツパに上って来たことを聞いた。・・イスラエル人は、「こんな悪い事がどうして起こったのか、話してください。」と言った。

 ベニヤミンも、戦いの備えを始めます。

20:4 殺された女の夫であるレビ人は答えて言った。「私は、そばめといっしょに、ベニヤミンに属するギブアに行き、一夜を明かそうとしました。20:5 すると、ギブアの者たちは私を襲い、夜中に私のいる家を取り囲み、私を殺そうと計りましたが、彼らは私のそばめに暴行を加えました。それで彼女は死にました。20:6 そこで私は、そばめをつかみ、彼女を切り分け、それをイスラエルの相続地の全地に送りました。これは、彼らがイスラエルの中で、みだらな恥ずべきことを行なったからです。20:7 さあ、あなたがたイスラエル人のすべてよ。今ここで、意見を述べて、相談してください。」20:8 そこで、民はみな、こぞって立ち上がって言った。「私たちは、だれも自分の天幕に帰らない。だれも自分の家に戻らない。20:9 今、私たちがギブアに対してしようとしていることはこうだ。くじを引いて、攻め上ろう。20:10 私たちは、イスラエルの全部族について、百人につき十人、千人につき百人、一万人につき千人をとって、民のための糧食を持って行かせ、民がベニヤミンのギブアに行って、ベニヤミンがイスラエルでしたこのすべての恥ずべき行ないに対して、報復させよう。」20:11 こうして、イスラエル人はみな団結し、こぞってその町に集まって来た。

 全イスラエルが一致団結しています。これがいまに破廉恥な行為であるか激憤しています。

20:12 それから、イスラエルの諸部族は、ベニヤミンの諸族のすべてに人をやって言わせた。「あなたがたのうちに起こったあの悪い事は、何ということか。20:13 今、ギブアにいるあのよこしまな者たちを渡せ。彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去ろう。」ベニヤミン族は、自分たちの同族イスラエル人の言うことに聞き従おうとしなかった。20:14 それどころか、ベニヤミン族は町々からギブアに集まり、イスラエル人との戦いに出て行こうとした。20:15 その日、ベニヤミン族は、町々から二万六千人の剣を使う者を召集した。そのほかにギブアの住民のうちから七百人の精鋭を召集した。20:16 この民全体のうちに、左ききの精鋭が七百人いた。彼らはみな、一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがなかった。

 イスラエルは、悪い行ないをした者だけを取り除こうと申し出ています。戦いを避けるための最後の通達を出しました。けれどもベニヤミンはもう戦うつもりです。二万六千人と人数は少ないですが、ギブアという町は高台になっているので、自然の要塞となっていました。そして七百人は精鋭です。興味深いのは左利きだということですが、エフデは精鋭の生き残りの子であった可能性があります。

2C 三度目の勝利 17−48
20:17 イスラエル人は、ベニヤミンを除いて、剣を使う者四十万人を召集した。彼らはみな、戦士であった。20:18 イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。「私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。」すると、主は仰せられた。「ユダが最初だ。」20:19 朝になると、イスラエル人は立ち上がり、ギブアに対して陣を敷いた。20:20 イスラエル人はベニヤミンとの戦いに出て行った。そのとき、イスラエル人はギブアで彼らと戦うための陣ぞなえをした。20:21 ベニヤミン族はギブアから出て来て、その日、イスラエル人二万二千人をその場で殺した。

 彼らは主に伺い、そしてユダが先に行けと主が命じておられます。以前、ヨシュアの死後に主に伺ったところ、ユダが行けと命じられたのと同じです。ところが戦いに敗れてしまいます。二万二千人も殺されてしまいました。

20:22 しかし、この民、イスラエル人は奮い立って、初めの日に陣を敷いた場所で、再び戦いの備えをした。20:23 そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。「私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。」すると、主は仰せられた。「攻め上れ。」20:24 そこで、イスラエル人は次の日、ベニヤミン族に攻め寄せたが、20:25 ベニヤミンも次の日、ギブアから出て来て、彼らを迎え撃ち、再びイスラエル人のうち一万八千人をその場で殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。

 彼らは一度目の敗れについて主の前で泣き、そして再び立ち上がったのに関わらず、また敗れてしまいました。

20:26 それで、すべてのイスラエル人は、全民こぞってベテルに上って行って、泣き、その所で主の前にすわり、その日は、夕方まで断食をし、全焼のいけにえと和解のいけにえを主の前にささげた。20:27 そして、イスラエル人は主に伺い、・・当時、神の契約の箱はそこにあった。20:28 当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。・・そして言った。「私はまた、出て行って、私の兄弟ベニヤミン族と戦うべきでしょうか。それとも、やめるべきでしょうか。」主は仰せられた。「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す。」

 ミツパではなく、場所はベテルに移っています。そこに神の箱がありました。シロから移してきたのでしょうか。そしてそこで全民こぞって泣き、またいけにえを捧げました。さらにピネハスが神の箱の前で仕えています。そこで再び伺うと、今度は「彼らをあなたがたの手に渡す」と主は言われています。

 どうして一度目と二度目は打ち勝てないように、主がされたのでしょうか?彼らの義憤は良かったのでしょう。けれども、主の前で正しくあったのかというと、まだその備えができていなかったのではないかと思われます。感情だけで突き動かされるのではなく、そのような中でも主への献身がもっとも必要であることを教えています。

20:29 そこで、イスラエルはギブアの回りに伏兵を置いた。20:30 三日目にイスラエル人は、ベニヤミン族のところに攻め上り、先のようにギブアに対して陣ぞなえをした。20:31 すると、ベニヤミン族は、この民を迎え撃つために出て来た。彼らは町からおびき出された。彼らは、一つはベテルに、他の一つはギブアに上る大路で、この前のようにこの民を打ち始め、イスラエル人約三十人を戦場で刺し殺した。20:32 ベニヤミン族は、「彼らは最初のときのようにわれわれに打ち負かされる。」と思った。イスラエル人は言った。「さあ、逃げよう。そして彼らを町から大路におびき出そう。」20:33 イスラエル人はみな、その持ち場を立ち、バアル・タマルで陣ぞなえをした。一方、イスラエルの伏兵たちは、自分たちの持ち場、マアレ・ゲバからおどり出た。20:34 こうして、全イスラエルの精鋭一万人がギブアに向かってやって来た。戦いは激しかった。ベニヤミン族は、わざわいが自分たちに迫っているのに気がつかなかった。20:35 こうして、主がイスラエルによってベニヤミンを打ったので、イスラエル人は、その日、ベニヤミンのうち二万五千百人を殺した。これらの者はみな、剣を使う者であった。

 これは、かつてのアイの攻略と同じ戦法です。伏兵です。町のそばに伏兵を置き、そしておびきよせ作戦を取りました。36節以降は、この勝利の詳しい経緯が次にあります。

20:36 ベニヤミン族は、自分たちが打ち負かされたのを見た。イスラエル人がベニヤミンの前から退却したのは、ギブアに対して伏せていた伏兵を信頼したからであった。20:37 伏兵は急ぎギブアに突入した。伏兵はその勢いに乗って、町中を剣の刃で打ちまくった。20:38 イスラエル人と伏兵との間には、合図が決めてあって、町からのろしが上げられたら、20:39 イスラエル人は引き返して戦うようになっていた。ベニヤミンは、約三十人のイスラエル人を打ち殺し始めた。「彼らは、きっと最初の戦いのときのように、われわれに打ち負かされるに違いない。」と思ったのである。20:40 そのころ、のろしが煙の柱となって町から上り始めた。ベニヤミンは、うしろを振り向いた。見よ。町全体から煙が天に上っていた。20:41 そこへ、イスラエル人が引き返して来たので、ベニヤミン人は、わざわいが自分たちに迫っているのを見て、うろたえた。

 まったくアイの町の時と同じです。ギブアの町に伏兵が入って、そこにいる者を打ちまくり、そしてのろしを上げました。

20:42 それで、彼らはイスラエル人の前から荒野のほうへ向かったが、戦いは彼らに追い迫り、町々から出て来た者も合流して、彼らを殺した。20:43 イスラエル人はベニヤミンを包囲して追いつめ、ヌアから東のほうギブアの向こう側まで踏みにじった。20:44 こうして、一万八千人のベニヤミンが倒れた。これらの者はみな、力ある者たちであった。20:45 また残りの者は荒野の方に向かってリモンの岩に逃げたが、イスラエル人は、大路でそのうちの五千人を打ち取り、なお残りをギデオムまで追跡して、そのうちの二千人を打ち殺した。20:46 こうして、その日ベニヤミンの中で倒れた者はみなで二万五千人、剣を使う力ある者たちであった。

 掃討戦です。残党は荒野へと逃げました。つまり、ヨルダン渓谷の方面に行きました。

20:47 それでも、六百人の者は荒野のほうに向かってリモンの岩に逃げ、四か月間、リモンの岩にいた。20:48 イスラエル人は、ベニヤミン族のところへ引き返し、無傷のままだった町をはじめ、家畜、見つかったものすべてを剣の刃で打ち、また見つかったすべての町々に火を放った。

 わずか六百人しか残っていません。そしてイスラエル人は、ベニヤミンの町々をすべて滅ぼしました。なぜか?カナン人に対して主が聖絶を命じられたように、ベニヤミンに対しても行ったからです。

 はたしてこれが、御心だったのでしょうか?もちろん罪は裁かれなければいけません。けれども、カナン人に対して命じられた主の命令をベニヤミンに対して行うのは正しかったのでしょうか?21章を見ますと、彼らはベニヤミンが消滅してしまうのではないかと言って嘆いています。彼らに欠けているのは知恵です。

 神の民が罪を犯すのと、世が神によって裁かれるのには大きな違いがあります。パウロは、信者が裁かれることについてこう言っています。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。(1コリント11:32」懲らしめはあるけれども、それは罪に定めるためではなく、むしろ反対に、世と共に罪に定められることのないようにするためです。つまり、懲らしめによって罪から離れて救われるためです。

 パウロは、コリントにある教会で、父の妻を自分の妻にしているという男がいることを問題視しています。こう言いました。「あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。(1コリント5:4-5」彼は一般の人々よりひどい不品行を犯していました。だからサタンに引き渡したのですが、それは彼の霊が主の日に救われるためです。その証拠に、コリント人への第二の手紙で、悲しみで押しつぶされそうになっているこの兄弟を、教会が赦し、受け入れるように勧めています。これが、兄弟が罪を犯した時に対する教会のあるべき姿です。世に対するものとは異なります。

3B 嫁狩り 21
 この違いが分かっていなかったので、イスラエル人は自ら引き起こした多くの矛盾に対処しなければならなくなりました。

21:1 イスラエル人はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない。」と言って誓っていた。21:2 そこで、民はベテルに来て、そこで夕方まで神の前にすわり、声をあげて激しく泣いた。21:3 そして、彼らは言った。「イスラエルの神、主よ。なぜイスラエルにこのようなことが起こって、きょう、イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」21:4 翌日になって、民は朝早く、そこに一つの祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた。

 当たり前です、ベニヤミンが生きることを神は望まれておりました。けれども、彼らはカナン人に対するように聖絶を行なってしまいました。かつ、義憤によって勢いあまって、娘をベニヤミンに嫁がせないと誓ってしまっていたのです。私たちはすでに士師エフタがその過ちを犯したことを学びましたね。

21:5 そこで、イスラエルの人々は、「イスラエルの全部族のうちで、主のところの集まりに上って来なかった者はだれか。」と言った。彼らがミツパの主のところに上って来なかった者について、「その者は必ず殺されなければならない。」と言って、重い誓いを立てていたからである。21:6 イスラエル人は、その兄弟ベニヤミンのことで悔やんだ。それで言った。「きょう、イスラエルから、一つの部族が切り捨てられた。21:7 あの残った者たちに妻をめとらせるにはどうすればよいだろうか。私たちは主にかけて、彼らに娘をとつがせないと誓ったのだ。」21:8 ついで、彼らは言った。「イスラエルの部族のうちで、どこの者がミツパの主のところに上って来なかったのか。」見ると、ヤベシュ・ギルアデからは、ひとりも陣営に、その集まりに、出ていなかった。21:9 民は点呼したが、ヤベシュ・ギルアデの住民はひとりもそこにいなかった。

 先ほどギルアデの者たちもミツパに集まっているのを見ましたが、その中にあるヤベシュ・ギルアデの町の者だけは参戦していませんでした。

21:10 会衆は、一万二千人の勇士をそこに送り、彼らに命じて言った。「行って、ヤベシュ・ギルアデの住民を、剣の刃で打て。女や子どもも。21:11 あなたがたは、こうしなければならない。男はみな、そして男と寝たことのある女はみな、聖絶しなければならない。」21:12 こうして、彼らはヤベシュ・ギルアデの住民のうちから、男と寝たことがなく、男を知らない若い処女四百人を見つけ出した。彼らは、この女たちをカナンの地にあるシロの陣営に連れて来た。21:13 それから、全会衆は、リモンの岩にいるベニヤミン族に使いをやり、彼らに和解を呼びかけたが、21:14 そのとき、ベニヤミンは引き返して来たので、ヤベシュ・ギルアデの女のうちから生かしておいた女たちを彼らに与えた。しかし、彼らには足りなかった。

 参戦しなかった者たちを、やはりカナン人に対するのと同じように聖絶していきました。そして苦肉の策で、処女のみを集めベニヤミンに与えたのです。

21:15 民はベニヤミンのことで悔やんでいた。主がイスラエルの部族の間を裂かれたからである。21:16 そこで、会衆の長老たちは言った。「あの残った者たちに妻をめとらせるにはどうしたらよかろう。ベニヤミンのうちから女が根絶やしにされたのだ。」21:17 ついで彼らは言った。「ベニヤミンののがれた者たちの跡継ぎがなければならない。イスラエルから一つの部族が消し去られてはならない。21:18 しかし、私たちの娘を彼らにとつがせることはできない。イスラエル人は、『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる。』と言って誓っているからだ。」

 このような引き裂かれる思いは、罪を犯す者が表れると必ず起こってくることです。そして時に教会が分裂します。分裂は良くないことですが、罪を取り除こうとする中で起こる場合があります。午前礼拝で学びましたが、もし私たちが自分の目に正しいことを行なっていくのであれば、必ずこのような引き裂かれる悲しみを味わうことになります。

21:19 それで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」・・この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の上る方、レボナの南にある。・・21:20 それから、彼らはベニヤミン族に命じて言った。「行って、ぶどう畑で待ち伏せして、21:21 見ていなさい。もしシロの娘たちが踊りに出て来たら、あなたがたはぶどう畑から出て、めいめい自分の妻をシロの娘たちのうちから捕え、ベニヤミンの地に行きなさい。21:22 もし、女たちの父や兄弟が私たちに苦情を言いに来たら、私たちは彼らに、『私たちのため、彼らに情けをかけてやってください。私たちは戦争のときに彼らのひとりひとりに妻をとらせなかったし、あなたがたも娘を彼らに与えませんでした。もしそうしていたら、あなたがたは、罪に定められたでしょう。』と言います。」21:23 ベニヤミン族はそのようにした。彼らは女たちを自分たちの数にしたがって、連れて来た。踊っているところを、彼らが略奪した女たちである。それから彼らは戻って、自分たちの相続地に帰り、町々を再建して、そこに住んだ。

 これは、あまりにも苦肉に満ちた策です。踊りに出てきた女たちが拉致されたのであれば、その家は娘をベニヤミンに与えたわけではありません。拉致されるのと、与えるのは違うからだ、という論理です。このような形で誓いを守って一体どうするのでしょうか?「シロで主の祭りがある」というのですから、主への踊りをする少女たちです。

21:24 こうして、イスラエル人は、そのとき、そこを去って、めいめい自分の部族と氏族のところに帰って行き、彼らはそこからめいめい自分の相続地へ出て行った。21:25 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。

 誓いを果せた、そしてベニヤミンを存続させることができたということで、彼らはそれぞれの自分の家に帰っていきますが、それらが、「イスラエルに王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なった」というのは当たり前です。ここからなぜ、モーセが、そしてヨシュアが口をすっぱくして、律法から決して離れてはならないと繰り返していたかがわかります。そしてヨシュアは死ぬ前にすでに、神々を有している者たちがいる、そしてあなたがたは主に背く、と言ったのかが分かります。彼らは猛烈に否定しましたが、事実は偶像礼拝に陥っていた者たちがいたのです。主は時に私たちが、確かにへりくだって、主に身を捧げているのか試される時があります。

 次週はルツ記です。実は、初めはルツ記は士師記の一部になっていました。17章から始まる後書きの、三つ目の逸話になっていたそうです。ここに出てきた、女性軽視の男とたちとは対照的なボアズという男性の話を読みます。たとえ周囲の人々が悪くなっていても、主に真実を尽くすことのできる証しとなっています。

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