士師記3章7節−5章 「不自然さにある神の救済」

アウトライン

1A イスラエルの救助者 3
   1B 主の御霊 7−11
   2B 弱さにある強み 12−30
   3B 普通の武器 31
2A 女の光栄 4−5
   1B 強靭な敵への対峙 4
      1C 女預言者の指導 1−16
      2C 神の介入 17−24
   2B 戦闘の勝利の歌 5
      1C 以前の状態 1−11
      2C 追従する諸部族 12−23
      3C 女ヤイルの光栄 24−31

本文

 士師記3章を開いてください。今日は37節から学んでみたいと思います。私たちは前回、イスラエルの民は、ヨシュアの死後、またその時代の長老たちの死後、ここに書いてあるように、主を忘れて、偶像を拝み始めましたところを読みました。そして士師を神が起こしてくださることも読みました。異邦人の民に圧迫されているところを、神が救い出すのです。今日から、具体的な士師たちの勇猛な戦記を読んでいきます。

1A イスラエルの救助者 3
1B 主の御霊 7−11
3:7 こうして、イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れて、バアルやアシェラに仕えた。

 先に出てきた偶像の名前、213節ですが、「バアルとアシュタロテに仕えた」とあります。バアルは、農耕の神、もともとは嵐の神で、他の神々の中でも主神とされました。そしてその妻に当たるアシュタロテは、豊穣の女神です。簡単に言えば情欲の神です。

 けれども、ここは「アシェラ」とあります。アシュタロテとは異なります。母なる神であり、海の神でした。この偶像については、他の多くの箇所で拝むなと強く戒められています。それは木の柱のようなのですが、申命記1621節にこうあります。「あなたが築く、あなたの神、主の祭壇のそばに、どんな木のアシェラ像をも立ててはならない。」そこに祭壇があり、そして生い茂ったこんもりした木々の中にたいていあります。そこで偶像礼拝というだけではなく、肉体的に忌まわしいことを行ないます。

3:8 それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラム・ナハライムの王クシャン・リシュアタイムの手に売り渡された。こうして、イスラエル人は、八年の間、クシャン・リシュアタイムに仕えた。

 アラム・ナハライムは、シリヤで、ユーフラテス川上流流域に近いところにある王です。

3:9 イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。

 第一の士師は、オテニエルです。彼はすでに二・三回出てきました。カレブの弟であり、カレブの下でデビルの町を攻め取りました。けれども、カレブはもう死んだのでしょうか、分かりませんが、主がこのオテニエルを救助者として起こしてくださいました。

3:10 主の霊が彼の上にあった。彼はイスラエルをさばき、戦いに出て行った。主はアラムの王クシャン・リシュアタイムを彼の手に渡された。それで彼の勢力はクシャン・リシュアタイムを押えた。

 「主の霊が彼の上にあった。」とあります。士師記における戦いは、まさにヨシュア記にあった戦いと同じです。ヨシュアや他のイスラエルの間に働いておられた主の霊が再び働いておられます。霊的復興です。

 そして「彼はイスラエルをさばき」とあります。この「さばく」という言葉は、もちろん罪に定めるとか、罰を与えるというものではありません。士師記の最後の言葉は、「イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。(21:25」です。私たち人間はみな、これが正しいことだからと思っているからこそ、何かを行ないます。これは常識的なことだ、こういうふうにやればうまくいくなど、自分が正しいと思っているようにやっていきます。ところが、結果は滅茶苦茶です。混乱しか残りません。

 そこで、「さばき」が必要になります。私たちのうちにある判断基準ではなく、神ご自身の判断です。それはもちろん御言葉です。自分にとっては正しいと思っていることであっても、神の御言葉がそれは違う、と言うのであれば、自分の義を振り捨てなければいけません。そして主を選び取るのです。さばきがあると私たちの魂は安らぎます。

3:11 こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。その後、ケナズの子オテニエルは死んだ。

 四十年という、長い期間、安息がイスラエルの地に与えられました。オテニエルが死ぬときまで与えられました。

 この歴史に、一つの周期があることにお気づきでしょうか?第一に、イスラエルが偶像礼拝の罪を犯します。第二に、神が敵によって、イスラエルが苦しむことを許されます。第三は、イスラエルが主に叫び求めます。そして第四に、かわいそうに思われた主が、士師を送られます。第五に、イスラエルは救われます。そして第六に、安息を得ます。

 ところが、その士師が死ぬと、再びその一周が始まるのです。偶像礼拝、敵の圧迫、叫び求め、士師の現れ、救い、そして安息です。こんなことを士師の時代、繰り返します。そしてその罪の度合いがどんどん悪くなります。なぜそうなってしまうのでしょうか?ヨシュア記で学んだように、「私と私の家とは主に従う」がないからです。まず、苦しいからすみません、と感情的に主に泣き叫びます。けれども、悔い改めがありません。御言葉がないので、悔い改めることもできません。すべてが表面的、感情的なのです。そして士師と言う霊的指導者がいるから、自分も主に仕えているのであって、そこに自主性がないのです。そういう環境だから信じている、という面があります。

2B 弱さにある強み 12−30
3:12 そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。彼らが主の目の前に悪を行なったので、主はモアブの王エグロンを強くして、イスラエルに逆らわせた。3:13 エグロンはアモン人とアマレク人を集め、イスラエルを攻めて打ち破り、彼らはなつめやしの町を占領した。3:14 それで、イスラエル人は十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた。

 続けて主が強くされた敵は、「モアブの王エグロン」です。モアブはちょうど死海の東岸にある国であったことを思い出してください。ところが、ヨルダン川を越えてイスラエルを圧迫していました。「なつめやしの町」とはエリコのことです。そしてエグロンに仕えたのは18年という長い期間です。

3:15 イスラエル人が主に叫び求めたとき、主は彼らのために、ひとりの救助者、ベニヤミン人ゲラの子で、左ききのエフデを起こされた。イスラエル人は、彼を通してモアブの王エグロンにみつぎものを送った。3:16 エフデは長さ一キュビトの、一振りのもろ刃の剣を作り、それを着物の下の右ももの上の帯にはさんだ。

 主が起こされた救助者は、エフデです。彼の特徴は「左利き」であったことです。彼はベニヤミン人ですが、興味深いことにベニヤミン人には左利きの精鋭が七百人いました(20:16)。左利きというのは、簡単に言えば「普通」ではありません。弱みとさえ見られるでしょう。習字をするときに、左利きの人が困るのと同じです。ところが、主はその「普通」ではないことを、また「弱み」をむしろ強みに変えてくださいます。

3:17 こうして、彼はモアブの王エグロンにみつぎものをささげた。エグロンは非常に太っていた。3:18 みつぎものをささげ終わったとき、エフデはみつぎものを運んで来た者たちを帰らせ、3:19 彼自身はギルガルのそばの石切り場から戻って来て言った。「王さま。私はあなたに秘密のお知らせがあります。」すると王は、「今、言うな。」と言った。そこで、王のそばに立っていた者たちはみな、彼のところから出て行った。

 エフデの暗殺計画です。貢物を捧げた後に、ヨルダン川を越えてギルガルまで来たときに、彼だけは引き返しました。そして、「秘密のお知らせがあります。」と言っていますから、モアブ王は信頼して二人だけにさせたのです。

3:20 エフデは王のところへ行った。そのとき、王はひとりで涼しい屋上の部屋に座していた。エフデが、「私にあなたへの神のお告げがあります。」と言うと、王はその座から立ち上がった。3:21 このとき、エフデは左手を伸ばして、右ももから剣を取り出し、王の腹を刺した。3:22 柄も刃も、共にはいってしまった。彼が剣を王の腹から抜かなかったので、脂肪が刃をふさいでしまった。エフデは窓から出て、3:23 廊下へ出て行き、王のいる屋上の部屋の戸を閉じ、かんぬきで締めた。

 王が立ち上がった時は、もう遅しです。右手を伸ばして、左ももから剣を出すのが普通なのですが、右ももから出てきました。それで不意をつかれました。そしてグロテスクですが、王の腹の中に刃が入りました。「刺した」という言葉には、刺し通した、肛門から出てきた、という意味合いがあるそうです。

3:24 彼が出て行くと、王のしもべたちがやって来た。そして見ると、屋上の部屋にかんぬきがかけられていたので、彼らは、「王はきっと涼み部屋で用をたしておられるのだろう。」と思った。3:25 それで、しもべたちはいつまでも待っていたが、王が屋上の部屋の戸をいっこうにあけないので、かぎを取ってあけると、なんと、彼らの主人は床の上に倒れて死んでいた。

 極めて、考えつくした手口ですね。士師時代のモサドです。

3:26 エフデはしもべたちが手間取っている間にのがれて、石切り場の所を通り過ぎ、セイラにのがれた。3:27 エフデは行って、エフライムの山地で角笛を吹き鳴らした。すると、イスラエル人は彼といっしょに山地から下って行き、彼はその先頭に立った。

 エフデは、先に引き返したギルアデの「石切り場」のところを通り過ぎ、エフライム山地に行きました。ここの「石切り場」というのは、石の像を意味するような言葉だそうです。したがって、これはすでにギルアデに偶像を立てていた可能性があります。あの、割礼を受けて新しく主にのみ仕える志を立てたところに、偶像が据えられていたのです。

3:28 エフデは彼らに言った。「私を追って来なさい。主はあなたがたの敵モアブ人をあなたがたの手に渡された。」それで、彼らはエフデのあとについて下って行き、モアブへのヨルダン川の渡し場を攻め取って、ひとりも渡らせなかった。3:29 このとき彼らは約一万人のモアブ人を打った。彼らはみなたくましい、力ある者たちであったが、ひとりも助からなかった。

 エフデが突破口を築きました。彼だけの活躍では、決して勝つことはできません。その御霊の動きに対して、どれだけイスラエルの民が応答できるかです。モアブに圧迫を受けていたけれども、今、主が救いを差し伸べているのだと察知して、そして自分たちも動いているのです。私たちも、こうした御霊の動きがあります。ある人を通して御霊が働かれます。そこに自分も関わらなければいけない時があります。

 そして「モアブへのヨルダン川の渡し場」とありますが、渡し場と言うのは浅瀬になっていて渡れるようになっているところです。ヨルダン川西岸にいるモアブ人が帰っていけないように、また反対にモアブから援軍が来ないようにしました。残されたモアブ人は、勇士たちだったのですが、一万人の中、一人も生き残るものはいませんでした。

3:30 このようにして、モアブはその日イスラエルによって征服され、この国は八十年の間、穏やかであった。

 士師の時代の中で、最も長い期間です。

3B 普通の武器 31
3:31 エフデのあとにアナテの子シャムガルが起こり、牛の突き棒でペリシテ人六百人を打った。彼もまたイスラエルを救った。

 これはエフデが死んだ後ということではなく、エフデに続いてシャムガルが出た、ということであります。同時代に二人の士師がいた、ということになります。「シャムガル」というのは、ホリ人というカナン人系の人の名前です。そして彼の父「アナテ」は、アナトと呼ばれるカナン人の女神にささげる名前になっています。つまり、イスラエル人であるにも関わらず、既にこのようなカナン人の影響を受けてしまっている、ということです。しかし主は、そのようなシャムガルをご自分の士師として立て上げられました。私たちも意外な人が、決して資格に合わないような人を、主が起こしてくださることを知らないといけません。

 そして彼の使った武器が興味深いです。「牛の突き棒」です。剣でもなく、普通の農耕具です。それでなんとペリシテ人六百人を打っています。私たちに主の御霊が与えられると、主は私たちの持っている普通のものによって、大きな業を行なってくださいます。モーセも、羊飼いの杖によって、紅海を分ける、また多くの奇蹟を行なってきました。

2A 女の光栄 4−5
 そして4章と5章も、普通ではない方法による救いを神が与えられます。それは、「女による救い」です。

1B 強靭な敵への対峙 4
1C 女預言者の指導 1−16
4:1 その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行なった。エフデは死んでいた。4:2 それで、主はハツォルで治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売り渡した。ヤビンの将軍はシセラで、彼はハロシェテ・ハゴイムに住んでいた。4:3 彼は鉄の戦車九百両を持ち、そのうえ二十年の間、イスラエル人をひどく圧迫したので、イスラエル人は主に叫び求めた。

 以前、ヨシュアたちが戦ったハツォルの王もヤビンでした。これはおそらく、ハツォルの王の称号であると思われます。ハツォルの町をイスラエルの民は破壊したのですが、そこを占有しなかったために、カナン人が入ってきて再建してしまいました。そして話の中心はその将軍のシセラです。彼がなんと戦車九百両を持っていて、その武力によってイスラエルを圧迫していました。そして、イスラエルが主に叫び求めます。

4:4 そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。4:5 彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。

 女預言者デボラの登場です。彼女は、「なつめやしの木の下にいた」とありますが、おそらく木の下は、平和を象徴していたと考えられます。神のお告げを伝える中において、人々は何が正しいことであるかを知り、平安を得ることができました。

 そして「女預言者」についてですが、聖書の中には多くの女預言者が表れます。モーセの姉ミリヤムが女預言者でした。ヨシヤ王は、若いときに女預言者フルダから預言を受けました(2列王記22:14)。新約時代にも、乳児のイエス様を見て、メシヤについてたくさん語ったのは女預言者アンナでした(ルカ2:36)。そして使徒行伝では、伝道者ピリポの娘四人が預言をしていました(使徒21:9)。したがって、女が預言をすることは物珍しいということではありません。

 けれども、聖書の中には秩序があります。女のかしらが男であり、男のかしらがキリストであるという秩序です。女が預言をする、つまり、みことばを語る中でも教会の秩序の中では男性の指導の中にいるという全体としての秩序があります。テモテ第一212節にそれが明確に書いてあります。「私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。」ですから、牧者は必ず男でなければいけないと私は信じています。そこで次を見てください。

4:6 あるとき、デボラは使いを送って、ナフタリのケデシュからアビノアムの子バラクを呼び寄せ、彼に言った。「イスラエルの神、主はこう命じられたではありませんか。『タボル山に進軍せよ。ナフタリ族とゼブルン族のうちから一万人を取れ。4:7 わたしはヤビンの将軍シセラとその戦車と大軍とをキション川のあなたのところに引き寄せ、彼をあなたの手に渡す。』」

 デボラは神の御告げを受ける者でありましたが、イスラエルを救う士師は男バラクに命じられていることを告げました。デボラはエフライム山地にいましたが、カナン人シセラのいるところから遠くないナフタリのケデシュにいるバラクが神によって選ばれたことを告げました。ゼブルン族は、ナフタリの南に隣接する部族です。そして戦場は、イズレエル平原になります。平原の東にはタボルさんがあり、西には地中海に流れ込むキション川がカルメル山の北にあります。

4:8 バラクは彼女に言った。「もしあなたが私といっしょに行ってくださるなら、行きましょう。しかし、もしあなたが私といっしょに行ってくださらないなら、行きません。」4:9 そこでデボラは言った。「私は必ずあなたといっしょに行きます。けれども、あなたが行こうとしている道では、あなたは光栄を得ることはできません。主はシセラをひとりの女の手に売り渡されるからです。」こうして、デボラは立ってバラクといっしょにケデシュへ行った。

 ここに、バラクが男として自分が頭になることを拒んだ記事があります。それでデボラは言いました。その光栄は他の女に行く、と。バラクはそれを聞いたときにデボラがシセラを倒すのではないかと思ったでしょう。違います、思いもよらぬ人の手に落ちるのです。

 士師記は、人が神の命令に聞き従っていない姿を見せています。と同時に、そのような不完全な状態の中で、いつもとは異なる、神の御霊の働きを教えています。男がかしらになることは、男がしばしば拒んでしまいます。自分自身が神の前に立ち、そして人々を導かなければいけないのに、それを怠るのです。その問題があったとしても、主の御心が行われていくことを教えています。それは必ずしも完全ではないし、模範的ではありません。女ではなくやはり男が指揮を取らねばならぬのです。けれども、主は女に指揮を取らせてでも、人を救いたいと願っておられるのです。

4:10 バラクはゼブルンとナフタリをケデシュに呼び集め、一万人を引き連れて上った。デボラも彼といっしょに上った。4:11 ケニ人へベルは、モーセの義兄弟ホバブの子孫のカインから離れて、ケデシュの近くのツァアナニムの樫の木のそばで天幕を張っていた。

 バラクの住むケデシュにおいて、バラクはゼブルンとナフタリを結集させました。そしてここに、挿入的な出来事が書かれています。これは後でとても大切になる背景知識なのですが、ヘベルと呼ばれるケニ人です。覚えていますか、116節にケニ人がユダの荒野に、民と共に住んでいたことが書いてあります。異邦人なのですがユダと運命を共有していた遊牧民です。ところが、ヘベルはそこから離れて、ケデシュの近くまで来ていました。後で出てきますが、ヘベルとハツォルの王ヤベルは仲が良かったのです。イスラエルを支持するケニ人から離れて、カナン人を支持していたのがヘベルだったのです。

4:12 一方シセラは、アビノアムの子バラクがタボル山に登った、と知らされたので、4:13 シセラは鉄の戦車九百両全部と、自分といっしょにいた民をみな、ハロシェテ・ハゴイムからキション川に呼び集めた。4:14 そこで、デボラはバラクに言った。「さあ、やりなさい。きょう、主があなたの手にシセラを渡される。主はあなたの前に出て行かれるではありませんか。」それで、バラクはタボル山から下り、一万人が彼について行った。

 戦車がたくさんあるので、タボル山へ上って、敵を上から見るようにして駆け下りて行くというのは良い戦法です。そしてデボラは叫びました。彼女は、激しく燃え上がるような戦闘的預言を行なって民を鼓舞しています。

4:15 主がシセラとそのすべての戦車と、すべての陣営の者をバラクの前に剣の刃でかき乱したので、シセラは戦車から飛び降り、徒歩で逃げた。4:16 バラクは戦車と陣営をハロシェテ・ハゴイムに追いつめた。こうして、シセラの陣営の者はみな剣の刃に倒れ、残された者はひとりもいなかった。

 5章でデボラが勝利の歌をうたっています。そこで主が何を具体的にしてくださったかが分かります。天候を荒れさせて、キション川を氾濫させてくださったのです。これで土はどろどろになり、九百両の戦車が無力になりました。

2C 神の介入 17−24
4:17 しかし、シセラは徒歩でケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に逃げて来た。ハツォルの王ヤビンとケニ人ヘベルの家とは親しかったからである。

 ここで先ほどのケニ人ヘベルの話が出てきます。ヘベルは不在で妻ヤエルがいました。

4:18 ヤエルはシセラを迎えに出て来て、彼に言った。「お立ち寄りください、ご主人さま。私のところにお立ち寄りください。ご心配には及びません。」シセラが彼女の天幕にはいったので、ヤエルは彼に毛布を掛けた。4:19 シセラはヤエルに言った。「どうか、水を少し飲ませてください。のどが渇いているから。」ヤエルは乳の皮袋をあけて、彼に飲ませ、また彼をおおった。4:20 シセラはまた彼女に言った。「天幕の入口に立っていてください。もしだれかが来て、『ここにだれかいないか。』とあなたに尋ねたら、『いない。』と言ってください。」

 遊牧民には、旅人をどんな犠牲を払ってでも守るというしきたりがありました。見知らぬ旅人でもそうですから、ましてやシセラに対しては必ずもてなさなければいけません。

4:21 だが、ヘベルの妻ヤエルは天幕の鉄のくいを取ると、手に槌を持ってそっと彼のところへ近づき、彼のこめかみに鉄のくいを打ち込んで地に刺し通した。彼は疲れていたので、熟睡していた。こうして彼は死んだ。

 ヘベルはイスラエルからカナン人に忠誠を変えていましたが、ヤエルは違いました。彼女の心はイスラエルの神に帰依したのです。遊牧民の妻は天幕を張る時に、鉄のくいをいつも使いますから、お手の物でした。

4:22 ちょうどその時、バラクがシセラを追って来たので、ヤエルは彼を迎えに出て、言った。「さあ、あなたの捜している人をお見せしましょう。」彼がヤエルのところに来ると、そこに、シセラは倒れて死んでおり、そのこめかみには鉄のくいが刺さっていた。

 ここで先ほどのデボラの預言が成就するのです。シセラをひとりの女の手に売り渡すという、その女とはヤイルのことだったのです。

4:23 こうして神はその日、イスラエル人の前でカナンの王ヤビンを服従させた。4:24 それから、イスラエル人の勢力がますますカナンの王ヤビンを圧するようになり、ついにカナンの王ヤビンを断ち滅ぼした。

 勢力が一気に変わりました。ヤビンからイスラエルへと移り、ついにヤビンを絶ち滅ぼすことができました。

2B 戦闘の勝利の歌 5
1C 以前の状態 1−11
5:1 その日、デボラとアビノアムの子バラクはこう歌った。

 戦いの勝利の後に歌いました。モーセもかつて、紅海でエジプト軍が沈んだ後に歌をうたいましたね。この歌はデボラが作ったのは間違いないですが、彼女の歌に引き続きバラクも歌ったものと思われます。この歌によって、4章の話には出てこなかった戦いについての詳しい背景を読むことができます。

5:2 「イスラエルで髪の毛を乱すとき、民が進んで身をささげるとき、主をほめたたえよ。5:3 聞け、王たちよ。耳を傾けよ、君主たちよ。私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。

 主へのほめ歌の呼びかけになっています。「民が進んで身をささげるとき」と言っていますが、イスラエルの民に対して、主の戦いにさいして主をほめたたえよ、と言っています。それから、「王たち、君主たち」に対して呼びかけています。これは、異邦人たちのことです。彼らに対して、「私はイスラエルの神、主をほめ歌を歌う。」と宣言しているのです。この戦いが、神を知らない民族に対しても証しになることを宣言しています。

5:4 主よ。あなたがセイルを出て、エドムの野を進み行かれたとき、大地は揺れ、天もまた、したたり、雲は水をしたたらせた。5:5 山々は主の前に揺れ動いた。シナイもまた、イスラエルの神、主の前に。

 シナイ山で現れた神の栄光の力をもって、その栄光がエドムのほうからやって来たことを描いています。モーセ率いるイスラエルの民が、シナイ山のふもとで、恐ろしい神の光景を見ました。そしてデボラ率いる戦いの時に、エドム地方から形成された天の雲によって、キション川のところに激しい雨をもたらしたのです。ですからこれは、ちょうどヨシュアが戦った時に、天から雹を神が降らせてくださったように、天による栄光の力で主が戦ってくださったのです。

5:6 アナテの子シャムガルのとき、またヤエルのときに、隊商は絶え、旅人はわき道を通った。5:7 農民は絶えた。イスラエルに絶えた。私、デボラが立ち、イスラエルに母として立つまでは。5:8 新しい神々が選ばれたとき、城門で戦いがあった。イスラエルの四万人のうちに、盾と槍が見られたであろうか。

 デボラが出てくる前のイスラエルの状況を描いています。シャムガルはデボラの前の士師でした。その時は、敵の支配によって隊商が途絶えていました。旅人は略奪にあうのでわき道を通りました。なぜか?彼らが神々を拝んでいたからです。カナン人が城門のところまで来ていました。そして、イスラエルには武器を取る人がいませんでした。

5:9 私の心はイスラエルの指導者たちに、民のうちの進んで身をささげる者たちに向かう。主をほめたたえよ。5:10 黄かっ色のろばに乗る者、さばきの座に座する者、道を歩く者よ。よく聞け。5:11 水汲み場での、水を汲む者たちの声に。そこで彼らは主の正しいみわざと、イスラエルの主の農民の正しいわざを唱えている。そのとき、主の民は城門におりて来た。

 戦いが始まる直前の状態です。イスラエルの指導者たちに、主をほめたたえることを呼びかけています。富んだ人たちや裁判官の人たちが、きちんと水汲み場での声に耳をよく傾けよ、と呼びかけています。なぜなら、そのような日常生活をしていた人々がこの戦いに加わることを話し合い始めています。先ほどは、城門までカナン人が戦いにやって来ていましたが、今度は反対です。主の民が城門まで降りて行き、果敢に戦いに出て行った、ということです。すばらしいですね。これまでは霊的に眠っていて、何かが起こると怖気ついたり、その問題を避けていましたが、今、主が動いておられることを知り果敢にその戦いに参じるのです。

2C 追従する諸部族 12−23
 そして次から、デボラの呼びかけによって召集する部族たちの姿が描かれています。

5:12 目ざめよ、目ざめよ。デボラ。目ざめよ、目ざめよ。歌声をあげよ。起きよ。バラク。とりこを捕えて行け。アビノアムの子よ。5:13 そのとき、生き残った者は貴人のようにおりて来た。主の民は私のために勇士のようにおりて来た。

 デボラとバラクが自分たちに対して鼓舞しています。そして、ダボル山から降りる姿を、貴人のようだ、そして勇士のようだと言っています。

5:14 その根がアマレクにある者もエフライムからおりて来た。ベニヤミンはあなたのあとに続いて、あなたの民のうちにいる。指導者たちはマキルからおりて来た。指揮をとる者たちもゼブルンから。5:15a イッサカルのつかさたちはデボラとともにいた。イッサカルはバラクと同じく歩兵とともに谷の中を突進した。

 エフライムから、ベニヤミンから軍がやってきました。またマナセ族からもやって来ています。「マキル」とはマナセ族のことです。指導的な役割を話したようです。同じようにゼブルンも指揮をとっていました。そしてイッサカル族はデボラの護衛を、またバラクの周りにいて彼を守る働きをしていました。

15:15bルベンの支族の間では、心の定めは大きかった。5:16 なぜ、あなたは二つの鞍袋の間にすわって、羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの支族の間では、心の秘密は大きかった。

 戦争に協力的ではなかった部族の話が始まります。ルベン族は、羊の群れに笛が吹かれているのに、つまり主が救いをもたらしているという言葉がイスラエルの羊たちに響いているのに、それに応答しなかったのです。ルベンは、ヨルダン川を隔てていたので、遠くで起こった出来事だと思っていたのでしょうか。これを私たちに当てはめるなら、大いなる主の救いの働きが行われているのに、自分は自分のことをするのに精いっぱいという霊的に眠った状態から覚めることなく、それに関わろうとしない態度です。

5:17 ギルアデはヨルダン川のかなたに住んでいた。なぜダンは船にとどまったのか。アシェルは海辺にすわり、その波止場のそばに住んでいた。

 ギルアデはガドやマナセの半部族がいるところです。彼らも反応なしです。そしてダンも船に乗っているところから陸に戻って戦いに関わりませんでした。アシェルも同じく海辺にいる人々でしたが、援軍の動きをしませんでした。興味深いことに、同じ主の御霊の働きが行われても、それへの反応や関心はまちまちだ、ということです。イエス様も、四つの種類の土のたとえを話されました。同じみことばを語っても、心の受け取り方によって、まったく無視する人と、感情的にしか受け取っていないので試みを受けるとあきらめる人と、思い煩いによって実を結ばせられていない人と、よく聞いてそれを行い、実を結ばれる人の四つに分かれるとイエス様は話されました。

5:18 ゼブルンは、いのちをも賭して死ぬ民。野の高い所にいるナフタリも、そうである。

 戦地となったゼブルンは、もっとも勇敢に戦いました。ナフタリはカナン人のハツォルのあるところであり、その支配を強く受けていた所で、バラクの出身地ですが、彼らも主にあって奮い立っていました。

5:19 王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って、銀の分捕り品を得なかった。5:20 天からは、星が下って戦った。その軌道を離れて、シセラと戦った。5:21 キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キションの川。私のたましいよ。力強く進め。5:22 そのとき、馬のひづめは地を踏み鳴らし、その荒馬はけりまくる。

 メギドの近くのタナクまでカナン人の王たちがやってきました。メギドと言えば、後にヨシヤ王とエジプトのパロであるネコが戦い、ヨシヤが殺されるところであり、また終わりの日に世界中の軍隊がここに集結するハルマゲドンの場であります。そして実は、第一次世界大戦の時に英国のアレンビーがオスマン・トルコと戦って勝利を得たのもここであり、歴史を通じてここは戦いの現場となっていきました。

 そしてここで主がなされたことは、「星を下らせる」ことであります。これはおそらく、天使たちのことでしょう。ヨブ記にも天使が星と呼ばれています。そしてキション川に水が激しく流れました。それで、午前礼拝で話しましたように彼らの戦車は無用のものとなったのです。

5:23 主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』

 メロズはおそらく、すぐ近くにあるイスラエル人の住むところだったのでしょう。目の前で主の戦いが行われているのにカナン人の逃亡の追撃をあえてしなかったのです。それで呪われよ、とデボラは叫んでいます。

 ルベンやギルアデ、アシェルやダンのように遠くの部族だから関わらなかった、というのと目の前で主の戦いを目撃しているのに戦わなかったというのとは、責任が大きく異なります。イエス様のことを一度も聞いたことがないのに、神はその人たちを地獄に送るのですか?と尋ねる人々の中には、本人が何度もイエス様のことを聞いているのに、信じていないことがあるのです。イエス様は、カペナウムやその周囲のある町々を呪われましたが、それは多くの人がイエス様に触れるために遠くから来たのに、目の前で多くの奇蹟を見ていたのに彼らは信じなかったからです。

3C 女ヤイルの光栄 24−31
 メロズとは対照的に、夫がカナン人の味方になっていたのに、ケニ人の伝統を守ってイスラエルの側についたヤイルを次にほめたたえます。実は、彼女がこの戦いの中でもっとも大きな働きをしたのであると、デボラは述べているのです。

5:24 女の中で最も祝福されたのはヤエル、ケニ人ヘベルの妻。天幕に住む女の中で最も祝福されている。5:25 シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与え、高価な鉢で凝乳を勧めた。5:26 ヤエルは鉄のくいを手にし、右手に職人の槌をかざし、シセラを打って、その頭に打ち込み、こめかみを砕いて刺し通した。5:27 ヤエルの足もとに彼はひざをつき、倒れて、横たわった。その足もとにひざをつき、倒れた。ひざをついた所で、打ち殺された。

 シセラがヤイルのいる天幕で、倒れるようにして寝た姿を、あたまもその時にすでに彼女の前で打たれて倒れたかのように描いています。主がその天幕に導かれたことを示唆し、そこでぐっすり寝かせるところまで行われたことを示唆しています。

 ヤイルのすばらしいのは、確かに夫は自分の頭だけれども、主の命令がそれに優ることを教えていることです。主の御心に反することを夫が行えと言っているなら、その指令系統は夫ではなく、主ご自身になります。私たちは、周りの人や自分の上の人に接するときに、決して忘れてはならないのは「主にあって」という言葉です。それがなければ、主の命令に反することを行なっている時に、主のみに従えません。

5:28 シセラの母は窓越しに、格子窓越しに外を見おろして嘆いた。『なぜ、あれの車の来るのがおそいのか。なぜ、あれの車の歩みが遅れているのか。』5:29 知恵のある姫君たちは彼女に答え、彼女も同じことばをくり返した。5:30 『彼らは分捕り物を見つけ出し、それを分けているのではありませんか。めいめいひとりの勇士にひとりかふたりの娘を。シセラには染めた織物の分捕り物を。染めた織物の分捕り物、色とりどりに刺繍した織物。分捕り物として、首には二枚の刺繍した織物を。』

 女性デボラらしいですが、女の役割を詳しく描いています。自分はイスラエルにとっての母であることを先ほど言いましたが、ここではシセラの母の姿とその哀れな姿を得がています。「なぜあれの車の来るのが遅いのだろう。」と言って、もう死んでいるのに分からないでいます。そして、おそらくはヤビンの宮殿にいる女たちの声でありますが、将軍シセラに分捕り物を渡さなければいけない、と言っています。高価な織物の他に、「ふたりの娘」と言っていますが、それは征服した民の娘たちを性的欲望の目的だけに勇士に与える、という慣習があったようです。けれども、そのようなことをさせないという神の裁きがここにあります。

5:31 主よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。」こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。

 主の敵が滅びました。すばらしいことです。これで四十年間、イスラエルには平穏が取り戻されました。

 私たちの敵は、悪魔であります。この者の仕業が打ち破られた時に、私たちの間には平和と安息があります。

「ロゴス・クリスチャン・フェローシップ内のメッセージ」に戻る
HOME